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     第五節 反攻開始の問題

 反攻開始の問題とは、いわゆる「緒戦」あるいは「序戦」の問題である。
 多くのブルジョア軍事家は、いずれも緒戦を慎重にすることを主張しており、これは、戦略的防御でも戦略的進攻でもおなじであるが、防御ではなおさらであるとしている。われわれもかつて、この問題をきびしく提起したことがある。江西省での敵の一回目から五回目までの「包囲討伐」に反対する作戦は、われわれに豊富な経験をあたえた。これらの経験について研究してみることは、無益ではない。
 一回目の「包囲討伐」のときには、敵は十万もの兵力をもって、北から南へ、吉安、建寧の線から八つの縦隊にわかれて赤軍の根拠地に進攻してきた。当時の赤軍は約四万で、江西省寧都《ニントウ》県の黄陂《ホワンピー》、小[イ+布]《シャオプー》地区に集結していた。
 当時の状況はつぎのようであった。(一)「討伐」軍は十万にすぎず、しかも蒋介石の直系は全然なく、全体の情勢はそれほどきびしいものではなかった。(二)吉安を防衛していた敵軍の羅霖《ルオリン》師団は、[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]江の西側にへだてられていた。(三)敵軍の公秉藩《コンピンファン》、張輝[王+贊]《チャンホイツァン》、譚道源《タンタオユァン》の三コ師団は吉安の東南、寧部の西北にある富田《フーティエン》、東固《トンクー》、竜岡《ロンカン》、源頭《ユァントウ》一帯を占領していた。張師団の主力は竜岡におり、護師団の主力は源頭にいた。富田、東固の両地では、人民がAB団にだまされて一時赤軍を信用せず、赤軍と対立していたので、ここは戦場としてえらぶには適しない。(四)敵軍の劉和鼎《リウホーティン》師団は遠く福建省白色区の建寧におり、江西省にはいってくるとはおもわれない。(五)敵軍の毛炳文《マオピンウェン》、許克祥《シュイコーシァン》の二コ師団は、広昌《コヮンチャン》と寧都のあいだの頭[”こざと”+皮]、洛口《ルオコウ》、東韶《トンシャオ》一帯にまですすんでいた。頭[”こざと”+皮]は白色区であり、洛口は遊撃区で、東韶にはAB団がいて、情報がもれやすかった。しかも、毛炳文、許克祥の部隊をうってから西にうって出ると、おそらく西の張輝[王+贊]、譚道源、公秉藩の三コ師団は集中するだろうから、決定的に勝利することは容易でなく、問題を最終的に解決することはできない。(六)張、譚両師団は、「包囲討伐」の主力軍で、「包囲討伐」軍総司令江西省主席魯滌平《ルーテイピン》の直系部隊であり、それに、張輝[王+贊]は前線総指揮であった。この二コ師団を消滅すれば、「包囲討伐」は基本的にうちやぶったことになる。この二コ師団はそれぞれ約一万四千で、しかも張師団はニヵ所にわかれていたので、われわれが一回に一コ師団ずつをたたけば、絶対的に優勢である。(七)張、譚両師団の主力がいた竜岡、源頭一帯は、われわれの集結地点に近接しており、しかも人民という条件がよかったので、隠蔽しながら近づくことができる。(八)竜岡にはすぐれた陣地がある。源頭は戦いにくい。もし敵が小[イ+布]を攻撃してわが軍の方によってきたとしても、陣地はやはりすぐれている。(九)われわれは竜岡の方向に最大の兵力を集中することができる。竜岡の西南方数十里の興国には、なお千余人の独立師団がおり、敵の背後に迂回することもできる。(十)わが軍が中間突破を実行し、敵の戦線に突破口をひらくと、敵の東と西の諸縦隊は、遠くはなれた二つの部分に分割される。以上の理由にもとづいて、われわれの第一戦は、張輝[王+贊]の主力二コ旅団と一つの師団司令部を攻撃することにきめ、しかも、それが成功して、師団長をふくめて九千人を全部捕虜にし、人ひとり、馬一匹ものがさなかった。この一戦の勝利によって敵はきもをつぶし、譚師団は東韶にむかって逃げ、許師団は頭[”こざと”+皮]にむかって逃げた。わが軍はさらに譚師団を追撃し、その半分を消滅した。五日間(一九三〇年十二月二十七日から一九三一年一月一日まで)に二回戦ったので、富田、東固、頭[”こざと”+皮]にいた敵はたたかれるのをおそれ、算をみだして撤退し、一回目の「包囲討伐」はそれで終わった。
 二回目の「包囲討伐」のときの状況はつぎのようであった。(一)「討伐」軍は二十万で、何応欽《ホーインチン》が総司令となり、南昌に駐屯していた。(二)一回目の「包囲討伐」のときとおなじように、蒋介石の直系部隊は全然なかった。蔡廷[金+皆]《ツァイティンカイ》の第十九路軍と、孫連仲《スンリェンチョン》の第二十六路軍、朱紹良《チューシャオリァン》の第八路軍がもっとも強いか、あるいは比較的強かったが、その他はみな比較的に弱かった。(三)AB団は一掃され、根拠地の人民は全部赤軍を支持していた。(四)王金ト《ワンチンユイ》の第五路軍は北方からやってきたばかりで、おびえていて、その左翼にいた郭華宗《クォホワツォン》、[赤+”おおざと”]夢齢《ハオモンリン》の両師団もだいたいおなじ状態であった。(五)わが軍が富田から攻撃をはじめ、東にむかって横にないでいけば、福建省と江西省との境界地帯の建寧、黎川、泰寧地区で根拠地をひろげ、物資を徴集することができ、つぎの「包囲討伐」をうちやぶるのに便利であった。もし東から西にむかって攻撃していけば、[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]江にさえぎられ、戦局が終結したのちの発展の余地がない。またこの戦いが終わってから東に転じると、時間がかかり軍を疲労させる。(六)わが軍の人数は、前回の戦役のときよりすこし減っていた(三万余)が、四ヵ月のあいだに鋭気を養い力をたくわえてきていた。以上の理由にもとづいて、富田地区の王金ト、公秉藩(合計十一コ連隊)をえらび、これと第一戦をまじえることにした。勝利ののち、ひきつづき郭軍をうち、孫軍をうち、朱軍をうち、劉軍をうった。十五日のあいだ(一九三一年五月十六日から三十日まで)に七百華里歩き、五回戦いをまじえて、銃二万余を分捕り、「包囲討伐」を思う存分うちやぶった。王金トの部隊をうったときは、蔡廷階と郭華宗の二つの敵部隊のあいだにいて、郭軍からは十余華里、蔡軍からは四十余華里であったので、あるものはわれわれが「袋小路につっこんだ」といったが、ついにそれをつきぬけたのである。それは主として根拠地という条件によるが、さらに敵軍の各部隊の不統一にもよる。郭師団がやぶれると、[赤+”おおざと”]師団も夜中に永豊まで逃げかえって難をのがれた。
 三回目の「包囲討伐」のときの状況はつぎのようであった。(一)蒋介石みずから出馬して総司令となり、その下に左、石、中の三路の総司令をおいた。中路は何応欽で、蒋介石とともに南昌に駐屯し、右路は陳銘枢で、吉安に駐屯し、左路は朱紹良で、南豊に駐屯した。(二)「討伐」軍は三十万であった。主力軍は陳誠《チェンチョン》、羅卓英《ルオチュオイン》、趙観濤《チャオコヮンタオ》、衛立煌《ウェイリーホヮン》、蒋鼎文《チァンティンウェン》など蒋介石直系の五コ師団で、どの師団も九コ連隊からなり、全部で約十万であった。そのつぎは蒋光[”乃”の下に鼎]、蔡廷[金+皆]、韓徳勤《ハントーチン》の三コ師団で、四万であった。そのつぎは孫連仲軍で、二万であった。そのほかもみな蒋の直系ではなく、比較的弱かった。(三)「討伐」の戦略は、二回目の「包囲討伐」での「一歩ごとに陣地をかためる」やり方とは大いにちがって、「長駆直進」であり、赤軍を[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]江に追いつめて消滅しようとねらっていた。(四)二回目の「包囲討伐」が終わってから三回目の「包囲討伐」がはじまるまでのあいだは、わずか一ヵ月しかなかった。赤軍が苦戦ののち、休息もとらず、補充もしないで(三万人前後)、千華里もまわり道して江西省南部根拠地の西部にある興国にもどって集結したときには、敵はすでに数路にわかれて、われわれの目のまえにせまっていた。以上のべた状況のもとで、われわれの決定した第一の方針は、興国から万安をへて富田の一点を突破したのち、西から東へ敵の後方連絡線を横にないでいき、敵の主力を江西省南部根拠地に深くはいらせて、役にたたなくさせることであり、これを作戦の第一段階とした。敵がむきをかえて北にむかう時になれば、ひどく疲労するにちがいないから、そのすきに乗じてうつことのできるものをうち、これを第三段階とした。この方針の核心は、敵の主力をさげながら、その弱い部分をうつことであった。ところが、わが軍が富田にむけて開進しているとき、敵に気づかれ、陳誠、羅卓英の二コ師団が富田にせまってきた。わが軍はやむなく計画を変え、興国県西部の高興[土+于]《カオシンユイ》にひきかえしたが、このとき、わが軍の集結のゆるされる地区は、この高興[土+于]およびその付近の地区数十平万華里しかのこっていなかった。集結したつぎの日に、東にむかい、興国県東部の蓮塘《リェンタン》、永豊県南部の良村《リァンツン》、寧都県北部の黄[”こざと”+皮]の方向に突進することを決定した。一日目は夜に乗じて、蒋鼎文師団と蒋光[”乃”の下に”鼎”]、蔡廷[金+皆]、韓徳勤の部隊とのあいだの四十華里の間隙《かんげき》地帯をぬって、蓮塘に移動した。二日目に、上官雲相《シャンコヮニュインシァン》の部隊(上官雲相はかれ自身の一コ師団と[赤+”おおざと”]夢齢師団を指揮していた)の前哨《ぜんしょう》と接触した。三日目に上官師団をたたいたのが第一戦で、四日目に[赤+”おおざと”]夢齢師団をたたいたのが第二戦で、その後三日間行軍して黄[”こざと”+皮]にたっし、毛炳文師団をたたいたのが第三戦である。三つの戦いとも勝利し、分捕った銃は万をこえた。このとき、西と南にむかって進んでいたすべての敵軍の主力は、みな方向を変えて東にむかい、黄[”こざと”+皮」に視線を集中して、猛烈な勢いで並進し、わが軍と戦うために密集した大包囲態勢をとってわが軍に近づいてきた。わが軍は、蒋光鼎、蔡廷[金+皆]、韓徳勤の部隊と陳誠、羅卓英の部隊とのあいだの二十華里の間隙にある大きな山をひそかにこえて、東側から西側の興国県内にもどって集結した。敵がそれを発見して、ふたたび西にむかって進んできた時には、わが軍はすでに半ヵ月ほどの休息をとっていたが、敵は飢えと疲れで士気は阻喪し、どうする力もなくなっていたので、決心して退却した。わが軍は、かれらの退却に乗じて蒋光[”乃”の下に”鼎”]、蔡廷[金+皆]、蒋鼎文、韓徳勤の部隊をうち、蒋鼎文の一コ旅団と韓徳勤の一コ師団を消滅した。蒋光鼎、蔡廷[金+皆]の二コ師団とは戦って対峙《たいじ》状態となり、かれらを逃がしてしまった。
 四回目の「包囲討伐」のときの状況はつぎのようであった。敵は三路にわかれて、広昌にむかって進み、主力は東路にあり、西路車の二コ師団はわれわれのまえに暴露され、しかも、わが軍の集結地点にせまっていた。このため、わが軍はまずその西路軍を宜黄《イーホヮン》南部の地区でうち、李明《リーミン》と陳時驥《チェンシーチー》の二コ師団を一挙に消滅することができた。敵が左路軍から二コ師団をさいて中路軍と呼応してふたたび前進してきたので、わが軍は、またその一コ師団を宜黄南部の地区で消滅することができた。この二回の戦いで一万余の銃を分捕り、このたびの「包囲討伐」を基本的にうちやぶった。
 五回目の「包囲討伐」では、敵は堡塁主義という新しい戦略をとって前進し、まず黎川を占領した。ところがわが方は、敵を根拠地の外で防ごうとして黎川の奪回をはかり、黎川以北の敵の堅固な陣地で、しかも白色区である硝石《シァオシー》をせめた。この戦いでは勝てず、さらにその東南の資渓橋《ツーシーチァオ》をうったが、ここも敵の堅固な陣地であり、白色区であったので、また勝てなかった。それからのちは、敵の主力と堡塁のあいだを戦闘をもとめて転々とし、完全に受動的な地位にたたされてしまった。五回目の反「包囲討伐」戦争は一年もの長いあいだをつうじて、主動的に活躍することが全然なかった。最後には江西省の根拠地から退去しなければならなくなった。
 上述の一回目から五回目までの反「包囲討伐」の時期におけるわが軍の作戦の経験は、防御の地位にある赤軍が強大な「討伐」軍をうちやぶるには、反攻の最初の戦闘が非常に大きな関係をもつものであることを証明している。最初の戦闘の勝敗は全局にきわめて大きな影響をあたえ、さらには最後の戦闘にまでずっと影響をおよぼすものである。したがって、つぎのような結論がえられる。
 第一には、かならず勝たなければならない。敵情、地形、人民等の条件がすべてわが方に有利で敵に不利であり、ほんとうに確実性があったとき手をくだすべきである。でなければ、むしろ退いて、自重して機会を待つべきである。機会というのはかならずあるもので、かるがるしく応戦してはならない。一回目の反「包囲討伐」のときは、まず譚道源師団をうとうとおもったが、敵が源頭のあの見とおしのきく高い陣地をはなれなかったばかりに、わが軍は二度も開進しながち、二度とも忍耐づよくひきかえし、何日かたったのち、うちやすい張輝[王+贊]師団をみつけた。二回目の反「包囲討伐」のときも、わが軍は東固まで開進したが、ただ王金トの部隊が富田の堅固な陣地をはなれるのを待つために、むしろ情報のもれる危険をおかしても、すべてのせっかちな早急攻撃の提案をしりぞけて、敵のすぐ近くにとどまり、二十五日もの長いあいだ待って、ついにその目的をたっした。三回目の反「包囲討伐」は、あのあらしのような局面で、千華里も軍をひきかえしたが、敵の側背に迂回しようとした計画をまたさとられてしまった。それでもわれわれは忍耐づよくひきかえして、中間突破にあらため、ついに蓮塘で最初のみごとな勝ちいくさをした。四回目の反「包囲討伐」のときには、南豊を攻めたが、攻めおとせなかったので、決然として退却の段どりをとり、ついに敵の右翼にまわり、東韶地区に集結して、宜黄南部での大勝利の戦いをはじめた。ただ、五回目の反「包囲討伐」のときだけは、緒戦がどんなに大きな関係をもっているかをまったく知らす、黎川という町一つを失ったことにおどろき、それをとりもどそうとして、北上して敵によりついていき、洵口《シュインコウ》で予期しない遭遇戦に勝利した(敵の一コ師団を消滅した)が、これを第一戦とみなさず、この戦いで必然的にひきおこされる変化をみないで、軽率にも必勝をのぞめない硝石を攻撃した。これは第一歩から主動権を失っており、たしかにもっともおろかな、もっともわるい戦い万である。
 第二には、緒戦の計画は、全戦役計画の有機的な序幕でなければならない。すぐれた全戦役計画がなければ、ほんとうにすぐれた第一戦というものはけっしてありえない。つまり緒戦で勝利したとしても、この戦いが全戦役にとって有利とならないばかりか、逆に有害になったときには、この戦いは勝っても負けたことになる(たとえば、五回目の「包囲討伐」のときの洵口の戦闘がそれである)。したがって、第一戦をはじめるに先だって、第二、第三、第四戦から最後の一戦にいたるまで、だいたいどういう戦い方をするか、われわれがつぎの戦いで勝ったばあいには、敵軍の全局にどういう変化がおこるか、また負けたばあいには、どういう変化がおこるかを一戦ごとに考えておかなければならない。結果がすべて予期したようになるとはかぎらないし、またなるはずもないが、しかし、双方の全局面にもとづいて、それを詳細に、実際的に考えぬいておかなければならない。全局が頭になければ、ほんとうによい手はうてるものではない。
 第三には、つぎの戦略段階での発展をも考えておかなければならない。ただ反攻のことだけを考え、その反攻が勝利したのち、あるいは万一反攻が失敗したのち、つぎはどうすればよいかを考えないならば、やはり戦略指導者としての責任をはたしていないことになる。戦略指導者は、ある一つの戦略段階にあるときに、その後の数多くの段階まで計算しておくべきであり、すくなくとも、つぎの段階は計算しておくべきである。たとえその後の変化が推測しにくく、遠い将来のことになればなるほど漠然《ばくぜん》としてはくるが、だいたいの計算は可能であり、遠い将来を見とおしておくことは必要である。一歩すすめばその一歩のことしか考えない指導のしかたは、政治にとって不利であり、戦争にとっても不利である。一歩すすめばその一歩の具体的変化に目をむけ、それによって自分の戦略、戦役計画をあらためるか、または発展させなければならない。そうしなければ、猪《ちょ》突猛進のあやまりをおかすことになる。しかし、全戦略段階ないし、いくつかの戦略段階をつらぬく、そして、だいたいにおいて考えぬかれた一つの長期の方針は、どうしてもなくてはならないものである。そうしなければ、ためらい、立ち往生するあやまりをおかし、実際には、敵の戦略的要求にのせられ、自分を受動的地位におとしいれることになる。敵の統帥部はある種の戦略的眼力をもっているものであることを知らなければならない。われわれは、自分を敵よりもいっそう高いものにきたえあげなければ、戦略的に勝利することはできない。敵の五回目の「包囲討伐」の時期に、「左」翼日和見主義路線と張国Z路線の戦略指導があやまっていたのは、主としてこの点に欠けていたためである。要するに、退却の段階では反攻の段階までを計算しておかなければならないし、反攻の段階では進攻の段階までを計算しておかなければならず、進攻の段階では、さらに退却の段階までを計算しておかなければならない。このような計算がなく、目ききの利害にしばられるならば、それは失敗への道である。
 かならず勝たなければならないこと、全戦役の計画に配慮を加えなければならないこと、つぎの戦略段階に配慮を加えなければならないこと、これが反攻開始にあたって、つまり第一戦をおこなうにあたって、忘れてはならない三つの原則である。


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