前へ  目次へ  次へ


     第三節 戦略的退却

 戦略的退却は、劣勢な軍隊が優勢な軍隊の進攻を前にして、その進攻を急速に撃破できないとみたばあいに、軍事力を保存し、敵をやぶる機会を待つためにとる計画的な戦略的段どりである。ところが、軍事冒険主義者は、「敵を国門の外でふせぐ」ということを主張し、このような段どりにあくまで反対する。
 だれでも知っているように、ふたりの拳法《けんぽう》家が立ちむかったばあい、かしこい拳法家はよく相手に一歩をゆずるが、おろかな者は、猛烈ないきおいで、初手にすべての手をだしつくしてしまい、その結果、ゆずったほうに打ちたおされることがしばしばある。
 『水滸《すいこ》伝』にでてくる供師範は柴進の家で林冲を打とうとして、「さあ来い、さあ来い」とつづけざまに叫んだが、その結果、供師範は、一歩ゆずった林冲にすきを見ぬかれて、ひとけりで、けたおされてしまった〔20〕
 春秋時代の魯国が斉国〔21〕と戦ったとき、魯の荘公ははじめ、斉軍の疲れるのを待たずに、出撃しようとしたが、曹[歳+リ]《そうけい》にとめられ、「敵が疲れればわれわれは襲う」方針をとって、斉軍に勝ち、中国の戦史で、弱軍が強軍に勝った有名な戦例をつくった。歴史家左丘明〔22〕の記述によるとつぎのようである。


 「春、斉の師《し》、我を伐《う》つ。公、まさに戦わんとす。曹[歳+リ]、見《まみ》えんことをこわんとす。その郷人曰《いわ》く、『肉食の者、これを謀《はか》る。またなんぞ間《かん》せん。』[歳+リ]曰く、『肉食の者は鄙《いや》し。いまだ遠く謀ることあたわず』と。すなわち入《い》りて見ゆ。問う、『何をもって戦わんとするや。』公曰く、『衣食の安んずるところ、敢《あえ》て専《もっぱら》にせず、かならず以《もっ》て人に分《わか》てり。』こたえて曰く、『小恵にしていまだ[彳+扁]からず、民従わざらん。』公曰く、『犠牲玉帛《ぎせいぎょくばく》、敢て加《くわ》えざるなり、かならず信を以てせり。』こたえて曰く、『小信にしていまだ孚《ふ》ならす。神福《さいわい》せざるなり。』公曰く、『小大の獄、察することあたわずといえども、かならず情を以てせり。』こたえて曰く、『忠の属《たぐい》なり、以て一戦すべし。戦わばすなわち請《こ》う従《したが》わん』と。公これとともに乗りて長勺《ちょうしゃく》に戦う。公まさにこれに鼓《つづみ》うたんとす。[歳+リ]曰く、『いまだ可ならず』と。斉人三たびうつ。[歳+リ]曰く、『可なり』と。斉の師敗績す。公まさにこれに馳《は》せんとす。[歳+リ]曰く、『いまだ可ならす』と。くだりてその轍《わだち》をみ、軾《しょく》に登りてこれを望みて曰く、『可なり』と。遂に斉の師をおう。すでにかちて、公その故を問う。こたえて曰く、『それ戦いは勇気なり。一たび鼓うちて気をおこし、ふたたびして衰え、みたびして竭《つ》く。彼竭き、我盈《み》つ。故にこれにかてり。それ大国ははかりがたし。伏あらんことをおそれたり。われ、その轍をみるに乱れ、その旗を望むになびきたり。故にこれをおえり』と。」〔23〕

 当時の状況は、弱国が強国に抵抗していたのである。この文章のなかには、戦いの前の政治上の準備――人民の信頼をうる点が指摘されており、反攻に転ずるのに有利な陣地――長勺のことがのべられており、反攻をはじめるのに有利な時機――敵軍の勇気が尽き、わが軍の勇気がみらている時のことがのべられており、追撃開始の時機――わだちがみだれ、旗がたおれている時のことがのべられている。これは大きな戦役ではないが、同時に、戦略的防御の原則が説かれている。中国の戦史には、この原則にあって勝利をかちえた実例は非常に多い。楚と漢の成皐《せいこう》の戦い〔24〕、新と漢の昆陽の戦い〔25〕、袁紹《えんしょう》と曹操《そうすお》の官渡の戦い〔26〕、呉と魏《ぎ》の赤壁の戦い〔27〕、呉と蜀《しょく》の彝陵《いりょう》の戦い〔28〕、秦と晋の[シ+肥]水《ひすい》の戦い〔29〕など有名な大戦は、いずれも双方に強弱のちがいがあるばあい、弱者が先に一歩をゆずり、あとからうってでて相手を制したために、戦いに勝ったものである。
 われわれの戦争は、一九ニ七年の秋からはじまったが、当時はぜんぜん経験がなかった。南昌蜂起〔30〕、広州《コヮンチョウ》蜂起〔31〕は失敗した。秋収蜂起〔32〕では、湖南・湖北・江西省境地区の赤軍も、数回敗戦をなめて、湖南、江西省境の井岡山地区にうつった。その翌年の四月、南昌蜂起の失敗後保存されていた部隊も、湘南省南部をへて、井岡山にうつってきた。しかし、一九二八年の五月からは、当時の状況にかなった、素朴な性質をもつ、遊撃戦争の基本原則がうまれていた。それは「敵が進んでくれはわれわれは退き、敵がとどまればわれわれはなやませ、敵が疲れればわれわれは襲い、敵が退けばわれわれは追いかける」という四句の要訣《ようけつ》である。この四句の要訣の軍事原則は、李立三路線以前の党中央が承認したものである。そののち、われわれの作戦原則には、一歩すすんだ発展がみられた。江西省の根拠地での一回目の反「包囲討伐」のときになって、「敵をふかく誘いいれる」という方針が提起され、しかも応用して成功した。敵の三回目の「包囲討伐」にうち勝ったころになると、赤軍の作戦原則全部ができあがっていた。このときは、軍事原則の新しい発展段階で、内容は大いに豊富になり、形式にもまた多くの変化があった。主としては、いままでの素朴性をのりこえたことであるが、基本的な原則はやはりさきの四句の要訣であった。四句の要訣には反「包囲討伐」の基本原則が包括され、戦略的防御と戦略的進攻の二つの段階が包括され、防御のばあいには、また戦略的退却と戦略的反攻の二つの段階が包括されている。のちのものは、それが発展したにすぎない。
 ところが、一九三二年の一月から、すなわち、「三回にわたる『包囲討伐』が粉砕されたのち、一省または数省でまず勝利をたたかいとる」という重大な原則上のあやまりをふくむ党の決議が発表されてからは、「左」翼日和見主義者は正しい原則にたいして闘争をすすめ、最後には、この一連の正しい原則を廃して、これとは反対のいわゆる「新原則」あるいは「正規の原則」という別の一体系をつくりあげた。これ以後は、いままでのは正規のものといわれなくなり、それは否定すべき「遊撃主義」というものになった。「遊撃主義」反対の空気が、まる三年間も支配した。その第一段階は軍事冒険主義であり、第二段階では軍事保守主義にうつり、最後の第三段階では逃走主義に変わってしまった。党中央が一九三五年一月、貴州《コイチョウ》省の遵義で拡大政治局会議をひらくにいたって、はじめてこのあやまった路線の破産が宣告され、まえの路線の正しさが、あらためて確認された。そうなるまでにはなんと大きな代価を払ったことか!
 「遊撃主義」にやっきになって反対する同志たちはいう。敵をふかく誘いいれるのは、多くの土地を放棄することで、まちがいである。まえには、それで勝利をえたことがあるが、いまはもう、まえとはちがっているではないか。しかも、土地を放棄しないで敵に勝てるなら、なおよいではないか。敵の地区、あるいはわが方の地区と敵の地区とが境を接しているところで、敵にうち勝つ方が、なおよいではないか。いままでのものは、なんらの正規性もなく、遊撃隊のつかう方法にすぎない。現在、われわれの国家はすでに成立しており、われわれの赤軍も正規化している。われわれと蒋介石との戦争は、国家と国家との戦争であり、大軍と大軍との戦争である。歴史はくりかえすべきではなく、「遊撃主義」的なものは全部なげすてるべきである。新しい原則は「完全なマルクス主義」的なものである。いままでのものは、遊撃隊が山のなかでつくりあげたもので、山のなかにはマルクス主義はない。新しい原則は、これとは反対で、「一をもって十にあたり、十をもって百にあたり、勇猛果敢で、勝利に乗じてまっしぐらに追撃し」、「全線にわたって出撃し」、「中心都市を奪いとり」、「二つのゲンコツで敵をうつ」ものである。敵が進攻したときに対処する方法は、「敵を国門の外でふせぎ」、「先んじて相手を制し」、「家財道具をぶちこわされないようにし」、「一寸の土地をも失わず」、「兵を六路にわける」ことであり、「革命への道と植民地への道との決戦」であり、短距離強襲、堡塁戦、消耗戦、「持久戦」であり、大後方主義、絶対的集中指揮であり、そして最後は、大規模な引っ越しである。しかも、これらのことを承認しない者には、懲罰をくわえ、日和見主義というレッテルをはる、等々である。
 疑いもなく、これらすべての理論と実際は、みなあやまったものである。これは主観主義である。これは環境の順調なときの小ブルジョア階級の革命的熱狂と革命せっかち病のあらわれであり、情勢が困難になると、状況の変化につれて、体当たり主義、保守主義、さらに逃走主義へとつぎつぎに変わっていく。これこそ、向こうみず屋としろうとの理論と実践であり、マルクス主義のにおいはいささかもないもので、反マルクス主義的なものである。
 ここでは戦略的退却についてのべるだけであるが、江西省ではこれを「敵をふかく誘いいれる」といい、四川《スーチョワン》省では「陣地のひきしめ」といっている。従来の軍事理論家や実際家も、これを弱軍が強軍と戦うばあい、戦争開始の段階でとらなければならない方針だと認めないものはない。外国の軍事家も、かつて「戦略的守勢に立つ作戦においては、たいてい、まず不利な決戦をさけ、有利な状況にしてからはじめて決戦する」といっている。これは完全に正しいし、われわれもこれになんらつけ加えるものはない。
 戦略的退却の目的は、軍事力を保存し、反攻を準備することにある。退却が必要なのは、強敵の進攻を前にして、もし一歩ゆずらなければ、かならず軍事力の保存をあやうくするからである。ところが前には、多くの人が、退却を「日和見主義的な、防御一点ばりの路線」とみなして、断固反対した。われわれの歴史は、すでに、こうした反対が完全にあやまりであることを証明している。
 反攻を準備するには、味方に有利で、敵に不利ないくつかの条件をえらび、つくりださなければならず、敵味方の力の対比に変化をおこさせてのち反攻の段階にはいるのである。
 われわれの過去の状況からいえば、だいたい退却の段階で、つぎの諸条件のうち、すくなくとも二つ以上の条件を獲得しなければ、味方に有利で敵に不利だということにはならず、反攻に転ずることができるようにはならない。その条件とは――
 (一)赤軍を積極的に援助する人民があること
 (二)作戦に有利な陣地があること
 (三)赤軍主力を全部集中すること
 (四)敵の弱い部分を発見すること
 (五)敵を疲労させ、士気を阻喪させること
 (六)敵にあやまちをおかさせること
 人民というこの条件は、赤軍にとってもっとも重要な条件である。根拠地の条件とはこれである。しかも、この条件から、第四、第五、第六の条件も容易につくられ、あるいは発見されるのである。だから、敵が大挙して赤軍を進攻してくるときには、赤軍はいつも白色区から根拠地に退却するのである。なぜなら、根拠地の人民は、赤軍が白軍とたたかうのをもっとも積極的に援助するからである。根拠地でも、周縁地区と中心地区とではちがいがある。中心地区の人民は情報もれの防止、偵察、輸送、戦争への参加などの点で、周縁地区の人民よりすぐれている。だから「退却の終点」としては、これまで、江西省での一、二、三回目の反「包囲討伐」のときには、いずれも人民という条件がもっともよいか、あるいは比較的によい地区をえらんだ。根拠地のこうした特徴が、赤軍の作戦に、通常の作戦とくらべて、非常に大きな変化をおこさせ、それがのちに敵に堡塁主義をとることをよぎなくさせた主要な原因ともなった。
 進攻してくる軍隊を、どうしてもこちらのおもうつぼにはまりこむように、退却する軍隊が、自分のおもいどおりの有利な陣地をえらべるということ、これが内線作戦のすぐれた条件の一つである。弱軍が強軍にうち勝つには、陣地というこの条件を吟味しなければならない。しかし、この条件だけではまだたらず、それに呼応する他の条件がなお要求される。まず第一は人民という条件である。そのつぎには、攻撃しやすい敵、たとえば敵が疲労しているとか、あるいはまちがいをおこしたとか、あるいは前進してくる敵のその部隊が、比較的に戦闘力に欠けているとか、が要求される。これらの条件がそなわらないときは、たとえすぐれた陣地があっても、それをすておいて、自分のおもいどおりの条件がみたされるまで、ひきつづき退却するよりほかない。白色区には、すぐれた陣地がないわけではないが、人民というすぐれた条件がない。もし、他の条件もまだつくりだされていないか、あるいはまだ発見されていないばあいには、赤軍は根拠地にむかって退却せざるをえない。根拠地の周緑地区と中心地区の区別も、だいたいこれとおなじである。
 地方部隊と牽制兵力をのぞいたすべての突撃兵力は、全部集中するのが原則である。戦略上守勢をとっている敵を進攻するときには、赤軍は往々にして分散しているものである。しかし、ひとたび敵がわれわれにむかって大挙進攻してきたときには、赤軍はいわゆる「求心的退却」をおこなう。退却の終点には、よく根拠地の中央部がえらばれる。しかし、ときには前部がえらばれ、ときには後部がえらばれるが、それは状況によって決定される。このような求心的退却は、赤軍の主力全体を完全に集中させることができる。
 弱軍の強軍にたいする作戦での、もう一つの必要な条件は、弱い部分をえらんでたたくことで
ある。しかし、敵が進攻しはじめたとき、分進してくる敵のどの部隊がもっとも強く、どの部隊がつぎに強く、どの部隊がもっとも弱く、どの部隊がつぎに弱いのか、われわれにはわからないことがよくあり、偵察の過程が必要である。その目的をたっするには長い時間を必要とすることがしばしばである。これもまた、戦略的退却が必要とされる理由の一つである。
 もし、進攻してくる敵が、その数の上でも、また強さの上でも、はるかにわが軍をしのいでおり、われわれがその強弱の対比に変化をおこさせようとするなら、三回目の「包囲討伐」において、蒋介石のある旅団の参謀長がいったように「引きずりまわされて、ふとったものはやせ、やせたものは死ぬ」とか、また「包囲討伐」軍西路総司令陳銘枢《チェンミンシュー》がいっているように、「国軍はどこにいってもまっ暗で、赤軍はどこにいっても明るい」という状態になるまで、敵が根拠地にふかくはいりこみ、根拠地で苦しみをなめつくすのを待たなければ、その目的はたっせられない。こうなったときには、敵軍は強くても、大いに弱まっており、兵力は疲労し、士気は阻喪して、多くの弱点をみな暴露してくる。赤軍は弱くても、鋭気をやしない力をたくわえ、休息をえて疲労した敵を待つことになる。このときの双方の対比は、しばしば、ある程度の均衡状態にたっしているか、あるいは敵軍の絶対的優勢が相対的優勢に、わが軍の絶対的劣勢が相対的劣勢に変わるかし、さらには、敵軍がわが軍より劣勢になり、わが軍がかえって敵軍より優勢になることさえある。江西省での三回目の反「包囲討伐」のとき、赤軍は一種の極端な退却をしたが(赤軍は根拠地の後部に集中した)、それは当時の「包囲討伐」軍が、赤軍の十倍をこえていたので、どうしてもそうしなければ、敵に勝つことができなかったのである。孫子が「その気、鋭なるときをさけ、おとろえ、つきはてたるをうつ」といっているのは、敵の優勢をそぐために敵を疲労させ、士気を阻喪させることをいうのである。
 退却で要求される最後の一つは、敵にあやまちをしでかさせ、発見することである。どんな能力のある敵軍の指揮員でも、相当長い時間のあいだに、少しもあやまちをおかさないというのは不可能であること、したがって、われわれが敵のすきに乗ずる可能性はかならず存在していることを知らなければならない。われわれ自身が、ときには、まちがうこともあれば敵に乗ぜられるすきをあたえることもあるのとおなじように、敵もあやまりをおかすのである。しかもわれわれは、孫子のいっている「形をしめす」(東に形をしめして西を撃つこと、すなわち東を撃つとみせかけて西を撃つこと)などのように、人為的に敵軍にあやまちをしでかさせることができる。こうするには、退却の終点をある地区に限定してはならない。その地区にまで退いても、まだ乗ずるすきがないばあいには、乗ずる「すき」が敵にあらわれるのを待つために、さらに何歩か退かなければならない。
 退却でもとめる有利な条件とは、だいたい以上のべたようなものである。しかし、このことはこれらの条件が完全にそなわらないと、反攻がおこなえないということではない。これらの条件を同時にそなえることは不可能であり、しかもそのような必要もない。しかし、敵の当面の情勢に応じて、若干の必要な条件をたたかいとることは、弱い兵力で強い敵にあたる内線作戦をおこなう軍隊が心をそそがなければならないところであり、このことについての反対意見は正しくない。
 退却の終点をけっきょくどこに決定するかは、全体の情勢から出発しなければならない。局部の情勢からみて反攻に転ずることが有利でも、もし同時に全体の情勢からみてわが方に有利でないばあいは、これによって、退却の終点を決定することは、正しくない。なぜなら反攻をはじめるには、それからのちの変化までを計算にいれなければならないからである。ところがわれわれの反攻は、いつも局部からはじまるのである。退却の終点は、ときには根拠地の前部にえらぶべきであり、たとえば、江西省の二回目と四回目の反「包囲討伐」、陝西、甘粛省での三回目の反「包囲討伐」のときがそれである。ときには根拠地の中部にえらぶべきであり、たとえば、江西省の一回目の反「包囲討伐」のときがそれである。ときには根拠地の後部になることもあり、たとえば、江四省の三回目の反「包囲討伐」のときがそれである。これらはいずれも局部の情勢を全体の情勢と結びつけて決定したものである。江西省の五回目の反「包囲討伐」では、局部の情勢にも、全体の情勢にも、目をむけなかったことが原因で、わが軍は全然退却について考えもしなかったが、これはまったく向こうみずのむちゃなやり方である。情勢は条件によってつくられる。局部の情勢と全体の情勢との結びつきを観察するには、局部と全体とにあらわれているそのときの敵味方の双方のもつ条件が、わが軍の反攻開始にある程度有利であるかどうかによって、判断しなければならない。
 退却の終点は、根拠地では、だいたい前部、中部、後部の三種類にわけられる。それなら、白色区での作戦を頭から拒否するのであろうか。そうではない。われわれが白色区での作戦を拒否するのは、ただ敵軍の大規模な「包囲討伐」に対処するばあいだけについていうのである。敵味方の強弱の差がはなはだしいばあいに、われわれは軍事力を保存し敵をやぶる機会を待つという原則のもとで、はじめて根拠地に退却することを主張し、敵をふかく誘いいれることを主張するのであり、反攻に有利な条件をつくるか、あるいは発見するには、どうしてもそうしなければならないからである。もし状況がそれほどきびしくないばあい、または、赤軍が根拠地においてさえまったく反攻のはじめようがないほど状況がきびしいばあい、あるいは反攻が不利で、局面の変化をもとめるためさらに退却する必要があるばあいには、退却の終点を白色区にえらぶことも認めるべきであり、たとえ、われわれがこれまでこのような経験をほとんどもたなかったにしても、すくなくとも理論的には認めるべきである。
白色区での退却の終点も、だいたい三種類にわけられる。第一は根拠地の前方であり、第二は根拠地の側面であり、第三は根拠地の後方である。第一種の終点としては、たとえば、江西省の一回目の反「包囲討伐」のさいに、もし赤軍の内部の不統一と地方の党の分裂がなかったならば、すなわち李立三路線とAB団〔33〕という二つの困難な問題が存在しなかったならば、吉安《チーアン》、南豊《ナンフォン》、樟樹《チャンシュー》の三地点のあいだに兵力を集中して、反攻をおこなうことも考えられることであった。なぜなら、当時[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]江《カンチァン》と撫水《フーショイ》の二つの川のあいだ〔34〕を前進してきた敵の兵力は、赤軍にくらべてそれほど優勢でもなかった(十万対四万)からである。人民という条件は、根拠地ほどよくなかったが、陣地という条件があり、しかも敵が各路にわかれて前進していたのに乗じて、それを各個撃破することもできたのである。第二種の終点としては、たとえば江西省での三回目の反「包囲討伐」のとき、かりに当時敵の進攻の規模があのように大きくなく、そして敵の一路の部隊が福建、江西両省の境界にある建寧《チェンニン》、黎川《リーチョワン》、泰寧《タイニン》から前進し、この一路の部隊の力がまたわれわれの攻撃に手ごろのものであったならば、赤軍は千里も遠まわりして瑞金《ロイチン》をへて興国《シンクォ》へいく必要がなく、福建省西部の白色区に集結して、まずこの敵をうちやぶることも考えられる。第三種の終点としては、たとえばいまのべた江西省での三回目の反「包囲討伐」のとき、もし敵の主力が西にむかわずに、南にむかっていたとすれば、われわれはおそらく会昌《ホイチャン》、尋[鳥+”おおざと”]《シュインウー》、安遠《アンユァン》地区(そこは白色地域である)まで退却をよぎなくされ、敵をもっと南の方へ誘うことになったであろう。そのときには北部の根拠地内部にある敵軍はあまり多くないはずだから、赤軍は南から北にむけて根拠地内部の敵をたたくことができたであろう。だが、以上の説明はいずれも仮定であって、経験したものではないから、特殊なものとしてあつかうのはよいが、一般原則としてあつかってはいけない。敵が大規模な「包囲討伐」をおこなっているとき、われわれにとっての一般原則は、敵をふかく誘いいれることであり、根拠地に退却して戦うことであって、これは、われわれが、敵の進攻をうちやぶるいちばん確実なやり方だからである。
 「敵を国門の外でふせぐ」ことを主張する人たちは、退却によって土地を失い、人民に危害をあたえ(いわゆる「家財道具をぶちこわされる」)、対外的にもわるい影響をおよぼすということを理由にして、戦略的退却に反対する。五回目の反「包囲討伐」のとき、かれらはつぎのようにいった。われわれが一歩退くと、敵の堡塁は一歩まえにおしすすめられ、根拠地は日ましにちぢまっていって、回復できなくなる。敵をふかく誘いいれるということは、まえには役にたったとしても、敵が堡塁主義をとった五回目の「包囲討伐」では役にたたない。それで五回目の「包囲討伐」に対処するには、兵をわけて抵抗することと、短距離強襲の方法をとるよりほかない、と。
 これらの意見にこたえることはたやすく、われわれの歴史がすでにこたえをだしている。土地を失うという問題では、失ってこそ、失わなくてすむようになるということがよくあり、これが「とろうとすればまずあたえよ」の原則である。もしわれわれの失うものが土地で、得るものが敵にたいする勝利であり、そのうえ土地をとりもどし、さらに土地を拡大するならば、これはもうかる商売である。市場での取り引きでも、買う人は金を失わなければ、品物を手にいれることはできないし、売る人は品物を失わなければ、金を手にいれることはできない。革命運動がもたらす損失は破壊であるが、得るものは進歩的な建設である。睡眠と休息によって時間は失われるが、翌日の活動のエネルギーが得られる。もしこの理屈がわからず、睡眠をとることを拒否するようなおろか者がいるとすれば、その人は翌日は元気がなくなる。これはもとでを食いこむ商売である。敵の五回目の「包囲討伐」のときに、われわれがもとでを食いこんでしまったのはこのためである。一部の土地も失うまいとした結果、土地の全部を失ってしまった。エチオピアが叫歩もひかない戦争をやったことも、全国士を失う結果をまねいた。もちろん、エチオピアが失敗した原因は、たんにこの点だけではないが。
 人民に危害をあたえるという問題も、これとおなじ道理である。一部の人民の家でいくらかの家財道具を一時的にぶちこわされないと、全人民が長期にわたって家財道具をぶちこわされることになる。一時のわるい政治的影響をおそれるならば、長期のわるい影響を代価として受けとることになる。十月革命後、ロシアのボリシェビキ党が、もし「左翼共産主義者」の意見にしたがって、ドイツとの講和条約を拒否したならば、うまれたばかりのソビエトは若死にする危険があったであろう〔35〕
 革命的にみえるこのような極左的な意見は、小ブルジョア知識分子の革命焦燥病に由来しており、同時に、農民小生産者の局部的保守性にも由来している。かれらは全局をみわたす能力がなく、問題を一局部からしかみず、きょうの利益とあすの利益とを結びつけようとせず、部分の利益と全体の利益とを結びつけようとせず、一局部、一時期のものにしがみついて、どうしてもはなさない。たしかに、そのときの具体的な状況からみて、そのときの全局および全時期にとって利益のあるもの、とくに決定的な意義をもつ一局部および一時期は、すべてしっかりつかまえてはなすべきではない。そうでなければ、われわれは、なりゆき主義、あるいは放任主義になってしまう。退却には終点がなければならないというのは、こうした道理からである。しかし、けっして、小生産者的な近視眼にたよってはならない。われわれが学ばなければならないのは、ボリシェビキの聡明さである。われわれは眼力がたりないので、望遠鏡や顕微鏡の力を借りなければならない。マルクス主義の方法が政治上、軍事上での望遠鏡であり、顕微鏡である。
 もちろん、戦略的退却には困難がある。退却開始の時機の選定、退却の終点の選定、幹部や人民を政治的に説得することなど、いずれも困難な問題であり、解決しなければならないものである。
 退却開始の時機の問題は重要な意義をもっている。江西省の小回目の反「包囲討伐」でのわれわれの退却が、もし、ちょうどあのような時機でなかったならば、つまり、それよりおくれていたならば、すくなくともわれわれの勝利は、ある程度影響をうけていたであろう。退却は早すぎても、おそすぎても、もちろん損失をこうむる。だが一般的にいえば、早すぎるより、おそすぎるばあいの損失が大きい。適時に退却し、自分を完全に主動的な地位にたたせること、これは、退却の終点に到着したのち、部隊の態勢をととのえ、休息をえて疲労した敵を待って、反攻に転ずるうえに、きわめて大きな影響をもつものである。江西省で、敵の一回目、二回目、四回目の「包囲討伐」を粉砕した戦役では、いずれもゆうゆうと敵に対処した。ただ、ご三目の戦役だけは、二回目の戦役であのような惨雌を喫した敵が、新しい進攻をそんなに早くやるとはおもわなかったので(一九三一年五月二十九日に、われわれは二日の反「包囲討伐」の作戦を終結させたが、七月一日には、蒋介石はその三回目の「包開討伐」をはじめた)、亦車は、あわただしく回り道して集結することになり、そのためにすっかり疲れてしまった。どのようにその時機をえらぶかは、さきにのべた準備段階の開始の時機をえらぶのにとる方法とおなじように、もっぱら必要な資料をあつめることによって、敵味方の双方の大勢から判断するのである。
 戦略的退却で、幹部と人民にまだ経験がないばあい、また軍事指導の権威が、戦略的退却の決定権をごく少数の人ないしはひとりの手に集中し、しかも幹部の信服をうるまでにはいたっていないばあい、幹部と人民を説得するという問題は、きわめて困難な問題である。幹部が経験をもたず、戦略的退却を信じなかったために、一回目と四回目の反「包囲討伐」の初期でも、五回目の反「包囲討伐」の全時期でも、この問題で、大きな困難にぶつかった。一回目の反「包囲討伐」のときには、説得されるまでの幹部の意見は、李立三路線の影響によって、退却ではなくて進攻であった。四回目の反「包囲討伐」のときには、軍事的冒険主義の影響によって、幹部の意見は準備に反対であった。五回目の反「包囲討伐」のときには、幹部の意見は、はじめは敵をふかく誘いいれることに反対し軍事的冒険主義をつづける観点であったが、のちには軍事的保守主義に変わった。チベット族や回《ホイ》族〔36〕の地区ではわれわれの根拠地がうちたてられないことを信じなかった張国Z路線が、壁にぶちあたってからはじめて信じるようになったことも、その実例である。経験は幹部にとって必要なものであり、失敗はたしかに成功のもとである。だが、他人の経験を謙虚にうけいれることもまた必要である。なにもかも自分の経験にたよろうとし、そうでないと、他人の経験はうけいれないで自分の意見を固執するというなら、これこそ、正真正銘の「せまい経験主義」である。われわれの戦争が、こうしたことからうけた損失はすくなくなかった。
 人民が経験をもたないために、戦略的退却の必要を信じなかったことでは、江西省の一回目の反「包囲討伐」のときよりひどいものはない。当時、吉安、興国、永豊《ヨンフォン》等の県の党の地方組織や人民大衆で、赤軍の退却に反対しないものはなかった。しかし、このたびの経験をもってから、その後の何回かの反「包囲討伐」では、この問題はまったくなくなってしまった。人びとは、根拠地の損失、人民の苦痛は、一時的なものであることを信じるようになり、赤軍は「包囲討伐」をうちやぶることができるのだという確信をもつようになった。ところが、人民が信じるかどうかは、幹部が信じるかどうかと密接につながっているので、主要な、また第一の任務は、幹部を説得することである。
 戦略的退却の全役割は、反攻に転ずることにあり、戦略的退却は、戦略的防御の第一段階にすぎない。全戦略の決定的な鍵は、それにつづく反攻の段階で、勝つことができるかどうかにある。


前へ  目次へ  次へ