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     第四節 書要な問題はよく学ぶことにある

 なぜ赤軍を組織するのか。それを使って敵にうち勝つためである。なぜ戦争の法則を学ぶのか。それらの法則を戦争に使うためである。
 学ぶことは容易なことではなく、使うことはいっそう容易なことではない。戦争という学問は、教室や書物のうえでは、多くの人がたとえおなじように、もっともらしくならべたてても、いざ戦争をやってみると、勝ち負けのちがいがでてくる。戦争史も、われわれ自身の戦争生活もこのことを立証している。
 では、その鍵《かぎ》はどこにあるのか。
 われわれは事実上の常勝将軍を求めることはできず、そういう人は昔からまれであった。われわれが求めるのは、戦争の過程において、一般的に勝ちいくさをする勇敢で聡明な将軍――すなわち知勇兼備の将軍である。知勇兼備になるには、学ぶときにも使うときにもそれによる一つの方法を学ばなければならない。
 どういう方法か。それは敵味方の双方の各方面の状況をよく知り、その行動の法則をみつけ、しかも、それらの法則を自分の行動に応用することである。
 多くの国で公布している軍事典範令には、いずれも「状況に応じて原則を活用する」ことの必要が指示されており、さらに、戦いに負けたときの処置方法が指示されている。前者は、指揮員が、原則をしゃくし定規に使って主観的なあやまりをおかさないようにするためのものであり、後者は、指揮員が主観的なあやまりをおかしたか、あるいは客観情勢に予想外の変化や不可抗力の変化がおきたときに、どう処置すればよいかを指揮員に教えているものである。
 なぜ主観上のあやまりをおかすくとになるのか。それは、戦争あるいは戦闘の部署配置と指揮が、その時、その場所の状況に合わないこと、主観的指導と客観的実際状況とがくい違っていて、合致しないこと、ことばをかえていえば、主観と客観とのあいだの矛盾を解決していないことによるものである。だれがどんな仕事をするばあいでも、こうした事情はさけがたいのであって、わりあいよくやれるかやれないかのちがいがあるだけである。仕事ではわりあいよくやることが要求され、軍事の面では、勝ちいくさをわりあい多くすることが要求される。逆にいえば、負けいくさをわりあいすくなくすることが要求されるのである。ここでの鍵は、主観と客観の両者をよく合致させることである。
 戦術の例をあげていおう。攻撃点を敵陣地のある一翼にえらび、しかもそこがちょうど敵の弱い部分であれば、突撃はそれによって成功する。これは主観が客観と合致したというのであり、つまり指揮員の偵察《ていさつ》と判断と決心が、敵および敵の配置の実際状況に合致したというのである。もし攻撃点を他の一翼、あるいは中央部にえらび、その結果、ちょうど敵の強いところにぶちあたって、攻めこむことができないとすれば、それは合致しなかったという。攻撃の時機が当をえており、予備部隊の使用が早くもおそくもなく、各種の戦闘処置と戦闘行動が、みな味方に有利であり、敵に不利であったとすれば、それは全戦闘における主観的指揮と客観的状況がことごとく合致したことになる。ことごとく合致するということは、戦争や戦闘においては、ごくまれなことである。それは、戦争や戦闘をしている双方が、ともに集団をなした、武装している生きた人間であり、しかもたがいに秘密を保っているからで、これは静物や日常のことがらをとりあつかうのとは大いに異なる。しかし、指揮が大体において状況に合致しさえすれば、すなわち決定的意義をもつ部分が状況に合致しておれば、それが勝利の基礎となる。
 指揮員の正しい部署配置は、正しい決心からうまれ、正しい決心は、正しい判断からうまれ、正しい判断は、周到な、また必要な偵察と、さまざまな偵察材料をむすびつけた思索とからうまれる。指揮員は、あらゆる可能な、また必要な偵察手段をつかい、偵察でえた敵側の状況にかんするさまざまな材料にたいして、滓《かす》をすてて粋《すい》をとり、偽をすてて真をのこし、これからあれへ、表面から内面へという思索をおこない、そのうえで、味方の状況をくわえて、双方の対比や相互の関係を研究し、それによって、判断をくだし、決心をかため、計画をたてる――これが軍事家の毎回の戦略、戦役、あるいは戦闘の計画をたてるにさきだっておこなう状況認識の全過程である。大ざっぱな軍事家は、こうはしないで、一方的な願望を基礎として軍事計画をたてるが、そのような計画は空想的な、実際と合致しないものである。向こうみずの、ただ情熱しかない軍事家が、どうしても敵からあざむかれ、敵の表面的な、あるいは一面的な状況にまどわされ、自分の部下の無責任な、洞察力に欠けた提案にあおられ、それでかべにつきあたるのをまぬがれないのは、かれらがどんな軍事計画でも、必要な偵察と敵味方の状況やその相互関係にたいする周到な思索を基礎としてたてるべきであることを知らないか、あるいは知ろうともしないからである。
 状況認識の過程は、軍事計画をたてる前だけでなく、軍事計画をたてたのちにも存在する。ある計画を実施するばあいには、実施しはじめたときから戦局の終わるときまでが、状況認識のもう一つの過程であり、すなわち実行の過程である。このときには、第一の過程のものが、実際の状況に合致しているかどうかを、あらためて点検する必要がある。もし、計画と状況とが合致しないか、あるいは完全には合致していないばあい、新しい認識にもとづいて新しい判断をくだし、あらたな決心をかため、新しい状況に適応するように既定の計画を変更しなければならない。部分的に変更することは、ほとんど毎回の作戦にみられることで、全面的に変更するようなこともたまにはある。向こうみず屋は、盲滅法にやるだけで、変更することを知らないか、あるいは変更しようとしないので、その結果は、またどうしてもかべにつきあたってしまう。
 以上のべたことは、一つの戦略での行動、あるいは一つの戦役と戦闘での行動についてである。経験をつんだ軍人で、もし、かれが謙虚にものを学ぶ人であり、自分の部隊(指揮員、戦闘員、武器、給養など、およびその全体)の気性をよく知り、また敵の部隊(同様に指揮員、戦闘員、武器、給養など、およびその全体)の気性もよく知り、戦争と関連のあるその他すべての条件、たとえば政治、経済、地理、気候などもよく知っている人であるならば、このような軍人の指導する戦争や作戦は、比較的に確実性があり、勝利をうることができる。これは、長い時間のあいだに、敵味方の双方の状況を認識し、行動の法則をさがしだし、主観と客観との矛盾を解決した結果である。この認識の過程は非常に重要であって、こういう長期の経験がなければ、戦争全体の法則を理解し、把握することは困難である。ほんとうに有能な高級指揮員には、かけだしのものや、たんに紙の上で戦争を論ずることに長じている人間ではなれるものでなく、そうなるには戦争のなかで学ばなければならない。
 すべての原則性をおびた軍事法則あるいは軍事理論は、みな昔の人あるいは今の人が過去の戦争の経験を総括したものである。これら過去の戦争がわれわれにのこしてくれた血の教訓は、とくに力をいれて学ぶべきものである。これが一つのことである。だが、もう一つのことがある。すなわち自分の経験のなかから、それらの結論を検証し、そのうちの使えるものはくみとり、使えないものはすて、自分特有のものをつけくわえていくことである。このもう一つのことは、非常に重要であって、こうしなければ、われわれは戦争を指導することができない。
 書物をよむことは学習であるが、使うことも学習であり、しかもより重要な学習である。戦争から戦争を学ぶ――これがわれわれの主要な方法である。学校にいく機会のなかった人でも、やはり戦争を学ぶことができる、つまり戦争のなかから学ぶのである。革命戦争は民衆のやることであって、先に学んでからやるのではなく、やりだしてから学ぶのが常であり、やることが学ぶことである。「民衆」から軍人までには距離があるが、それは万里の長城ではなく、急速になくすことのできるものである。革命をやり、戦争をやることが、その距離をなくす方法である。学ぶことと使うことが容易でないというのは、徹底的に学び、それを使いこなすことが容易でないということである。民衆がすぐに軍人になれるというのは、入門が別にむずかしいものではないということである。この二つのことを総合するならば、中国の古いことわざにあるように「世間に難事はなく、ただ心がけ次第だ」ということになる。入門がむずかしくないならば、ふかくきわめることもできるわけで、ただ心がけ次第であり、よく学びさえすればよいのである。
 軍事上の法則は、他の事物の法則とおなじように、客観的実際〔1〕のわれわれの頭脳への反映である。われわれの頭脳以外のすべては、客観的実際である。したがって、学習と認識の対象は敵と味方の二つの面をふくんでおり、この二つの面はいずれも研究の対象とみなすべきであって、研究の主体は、われわれの頭脳(思想)だけである。味方については明るいが、敵については暗い人がいる。また敵については明るいが、味方については暗い人もいる。こうした人たちは、いずれも戦争の法則を学ぶことと使うことの問題を解決することはできない。中国古代の大軍事学者孫武子〔2〕の書物には「かれを知り、おのれを知れば、百戦あやうからず」ということばがあるが、これは、学ぶことと使うことの二つの段階をふくめていったのであり、客観的実際における発展法則を認識することから、これらの法則にしたがって、自分の行動を決定し、当面している敵を克服することまでをふくめていったものであり、われわれは、このことばを軽視してはならない。
 戦争は、民族と民族、国家と国家、階級と階級、政治集団と政治集団とのあいだの相互の闘争の最高形態であり、戦争にかんするすべての法則は、いずれも戦争をする民族、国家、階級、政治集団が自己の勝利をたたかいとるために使うものである。戦争の勝敗が、主として戦う双方の軍事、政治、経済、自然などの諸条件によって決定されることはいうまでもない。だがそれだけではなく、戦う双方の主観的指導の能力によっても決定される。軍事家には物質的条件のゆるす範囲をこえて戦争の勝利をはかることはできないが、物質的条件のゆるす範囲内で、戦争の勝利をたたかいとることはできるし、またそうしなければならない。軍事家の活躍する舞台は、客観的物質的条件の上にきずかれているが、しかし軍事家は、この舞台一つで、精彩にとんだ、勇壮な多くの活劇を演出できるのである。したがって、われわれ赤軍の指導者は、既定の客観的な物質的基礎、すなわち軍事、政治、経済、自然などの諸条件の上で、われわれの威力を発揮し、全軍をひっさげて、民族の敵と階級の敵をうちたおし、このわるい世界を改造しなければならない。ここではわれわれの主観的指導の能力が使えるし、また使わなければならない。われわれは、赤軍のどんな指揮員にも、盲滅法にぶつかっていく向こうみず屋になることをゆるさない。われわれは、赤軍の指揮員の一人ひとりが、すべてを圧倒する勇気をもつだけでなく、戦争全体の変化、発展を駆使できる能力をもつ、勇敢で、聡明な英雄となることを提唱しなければならない。指揮員は、戦争という大海をおよいでいるのであって、沈まないようにし、確実に、段どりをおって、対岸に到達するようにしなければならない。戦争を指導する法則は、つまり戦争の水泳術である。
 以上がわれわれの方法である。


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