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     国際的援助

 最後に、中国革命と世界革命の相互関係にひとことふれる必要がある。
 帝国主義という怪物がこの世にあらわれてから、世界のことがらは一つにつながり、切りはなそうとしても切りはなせなくなった。われわれ中華民族は、自分たちの敵と最後まで血戦をする気概をもち、自力更生を基礎として失われたものを回復する決意をもち、世界の諸民族のあいだに自立する能力をもっている。だが、このことはわれわれに国際的援助がなくてもよいという意味ではない。いや、国際的援助は現代のあらゆる国、あらゆる民族の革命闘争にとって必要である。昔のひとは「春秋に義戦なし」〔31〕といったが、いまの帝国主義にはなおさら正義の戦争はなく、ただ、被抑圧民族と被抑圧階級にだけ正義の戦争がある。人民が立ちあがって抑圧者とたたかう全世界のすべての戦争は、正義の戦争である。ロシアの二月革命と十月革命は正義の戦争であった。第一次世界大戦後のヨーロッパ各国人民の革命も正義の戦争であった。中国における、アヘン反対の戦争〔32〕、太平天国の戦争〔33〕、義和団の戦争〔34〕、辛亥《シンハイ》革命の戦争〔35〕、一九二六年から一九二七年までの北伐戦争C、一九二七年から現在までの土地革命戦争D、こんにちの抗日と売国奴討伐の戦争は、みな正義の戦争である。当面の全中国における抗日の高まりと全世界における反ファシズムの高まりのなかで、正義の戦争は全中国、全世界にひろがるだろう。すべて、正義の戦争はたがいにたすけあうものであり、不正義の戦争は正義の戦争に転化させなければならないものである。これがレーニン主義の路線である〔36〕。われわれの抗日戦争は、国際的な人民の援助、まず第一にソ連人民の援助を必要とし、かれらもまた、われわれを援助してくれるにちがいない。われわれとかれらは苦楽をともにしているからである。過去のある時期、中国の革命勢力と国際的な革命勢力の結びつきは蒋介石によって断ちきられていたので、この点からいえばわれわれは孤立していた。いまでは、こうした情勢はすでに変わり、われわれに有利になっている。今後、こうした情勢はなおひきつづき有利な方向に変わっていくだろう。われわれはもう孤立することはない。これは、中国の抗日戦争と中国革命が勝利をかちとるのに必要な条件の一つである。



〔1〕 袁世凱は清朝末期の北洋軍閥の頭目である。一九一一年の革命で清朝がくつがえされたのち、かれは、反革命の武力と帝国主義の支持にたより、当時革命を指導していたブルジョア階級の妥協性を利用して、総統の地位を奪いとり、大地主、大買弁階級を代表する最初の北洋軍閥政府をつくった。一九一五年、かれは皇帝になろうとして、日本帝国主義の支持を得るために、全中国の独占を企図した日本の二十一ヵ条の要求を承認した。同年十二月、皇帝を名のる袁世凱に反対する蜂起が雲南省におこり、それに呼応する運動がたちまち全国各地にひろがった。袁世凱は、一九一六年六月、北京で死亡した。
〔2〕 一九一五年一月十八日、日本帝国主義は中国の袁世凱政府に二十一ヵ条の要求をつきつけ、五月七日には、四十八時間以内に回答をもとめる最後通牒を出した。この要求の全文は五つの大項目からなり、まえの四つの大項目には、ドイツにかすめとられた山東省の権利を日本に移譲するとともに、山東省における日本の新しい権利を認めること、南満州と東蒙古における土地租借権、あるいは所有権、居住権、工商業経営権、鉄道敷設および鉱山採掘の独占権を日本にあたえること、漠治菰公司を中国と日本の共同経営にすること、また中国沿海の港湾、島嶼などはすべて第三国に譲渡してはならないことなどの条項があった。第五の大項目には、中国の政治、財政、警察、軍事を支配する大権をうばいとるとともに、湖北、江西、広東の諸省をむすぶ重要な鉄道の敷設権をうばいとる各条項があった。袁世凱は、第五の項目について「日をあらためて協議したい」と声明したほかは、すべて承認した。しかし、中国人民の一致した反対にあって、日本の要求は実行されなかった。
〔3〕 一九二一年十一月、アメリカ政府は、中国、イギリス、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ポルトガル、日本の八ヵ国の代表を招集し、アメリカをくわえたワシントン九ヵ国会議をひらいた。これは、アメリカと日本が極東の覇権をあちそった会議である。翌年の二月六日、「中国における各国の機会均等」「中国の門戸開放」というアメリカの主張にもとづいて、九ヵ国条約が締結された。九ヵ国条約は日本の中国独占計画をうちこわすため、帝国主義列強による中国の共同支配の局面、実際にはアメリカ帝国主義の中国独占を準備する局面をつくりだす役割をはたした。
〔4〕 一九三一年九月十八日、中国の東北地方に駐屯していた日本のいわゆる「関東軍」が瀋陽を襲撃、占領した。当時、瀋陽をはじめ東北各地に駐屯していた中国の軍隊(東北軍)が、蒋介石の「絶対に抵抗するな」という命令を受けて山海関以南に撤退したため、遼寧、吉林、黒竜江などの諸省はたちまち日本軍に占領されてしまった。中国人民のあいだでは、日本侵略者のこの侵略行動を「九・一八事変」とよんでいる。
〔5〕 東北四省とは、当時中国の東北部にあった遼寧、吉林、黒竜江、熱河の四省のこと(現在の遼寧、吉林、黒竜江の三省および河北省東北部の長城以北と内蒙古自治区東部の地区をさしている――訳者)。九・一八事変後、日本侵略軍は、まず遼寧、吉林、黒竜江の三省を占領し、一九三三年にはさらに熱河省を占領した。
〔6〕 一九三五年十一月二十五日、日本は国民党の民族裏切り者殷汝耕をそそのかして、河北省東部の二十二県にかいらい政権をつくらせ、「冀東防共自治政府」と名づけた。これが「冀東事変」である。
〔7〕 外交交渉とは、当時、蒋介石政府と日本政府とのあいだですすめられたいわゆる「広田三原則」についての交渉をさす。「広田三原則」とは、当時の日本の外相広田弘毅が提出したいわゆる「対華三原則」のことである。その内容は、一、中国はすべての排日運動をとりしまる、二、中国、日本、「満州国」の経済協力体制をうちたてる、三、中日共同で防共にあたる、というものであった。一九三六年一月二十一日、広田は、日本の議会で、「中国政府はすでに帝国の提出した三原則を承認した」とのべている。
〔8〕 一九三五年、全国人民の愛国運動はあらたなもりあがりをみせはじめた。北京の学生は、中国共産党の指導のもとで、まず十二月九日、「内戦を停止し、一致して外敵にあたれ」「日本帝国主義をうちたおせ」などのスローガンをかかげて、愛国的なデモをおこなった。この運動は国民党政府と日本侵略者の同盟による長期のテロ支配をつきやぶり、全国人民が急速にこれに呼応した。これは「一二・九運動」とよばれている。これによって、全国の各階級間の関係にはっきりした新しい変化があらわれ、中国共産党の提起した抗日民族統一戦線はすべての愛国的な人びとの公然と主張する国是となった。蒋介石政府の売国政策は極度の孤立におちいった。
〔9〕 毛沢東同志がこの報告をおこなった当時、蒋介石はひきつづき東北を売りわたしていたばかりでなく、華北をも売りわたしており、同時に、赤軍にたいしてもさかんに攻撃をつづけていた。したがって、中国共産党としては、売国奴蒋介石の正体を極力暴露しなければならなかったから、当時、中國共産党の提起していた抗日民族統一戦線には、また蒋介石はふくまれていなかった。しかし、毛沢東同志はこの報告のなかでも、すでに、帝国主義諸国間の矛盾は中国の地主、買弁階級の陣営に分化をもたらす可能性のあることをのべている。のちに、日本帝国主義が華北に進攻し、英米帝国主義の利益とひどく衝突するようになると、中国共産党は、英米帝国主義の利益と密接につながる蒋介石集団がその主人の命令にしたがって、日本にたいする態度をかえる可能性があるとみて、蒋介石に圧力をくわえて抗日に転じさせる政策をとった。一九三六年五月、赤軍は山西省から陝西省北部に軍をひきあげ、直接、南京の国民党政府にむかって、内職を停止して一致抗日することを要求した。同年八月、中国共産党中央委員会は、また自民党中央執行委員会に書簡をおくって、両党が共同抗日の統一戦線を結成することと、代表を派遣してその交渉をすすめることを要求した。ところが、蒋介石は依然として共産党の主張を拒否した。かれは、一九三六年十二月、国民党内の連共抗日を主張する軍人に西安で監禁されたとき、はじめて、内戦を停止して抗日するという共産党の要求をやむなくうけいれた。
〔10〕 当時、蔡廷[金+皆]は国民党第十九路軍の軍長のひとりで、十九路軍の副総指揮をかね、陳銘枢、蒋光[”乃”の下に鼎]らとともに同軍の責任者であった。十九路軍は、もと江西省で赤軍と戦ったが、九・一八事変ののち、上海に移動した。当時、上海と全国人民のあいだにおきていた抗日のたかまりは、十九路軍に大きな影響をあたえた。一九三二年一月二十八日の夜、日本海軍の陸戦隣が上海を攻撃すると、十九路軍は上海の市民とともに抗戦した。だが、この戦争は、のちに蒋介石と汪精衛の裏切りによって敗北した。その後、十九路軍は、蒋介石によって福建省に移動させられ、赤軍と戦うことになった。当時、十九路軍を指導していた人たちは、赤軍と戦うのが活路のない行為であることをだんだん自覚してきた。一九三三年十一月、十九路軍の将領は、国民党内の李済深ら一部の勢力とむすんで、蒋介石との決裂を公然と宣言した。かれらは、福建省で「中華共和国人民革命政府」をうちたて、赤軍と抗日反蒋の協定をむすんだ。十九路軍と福建人民政府は蒋介石の兵力の圧迫によって失敗した。その後、蔡廷[金+皆]らはしだいに共産党と協力する立場をとるようになった。
〔11〕 一九二六年九月、北伐の革命軍が武漢まで攻めのぼったとき、馮玉祥は綏遠省(現在の内蒙古自治区西部――訳者)で、自分の軍隊をひきいて北洋軍閥系からはなれることを宣言し、革命に参加した。一九二七年のはじめ、その部隊は陝西省を出発して、北伐軍と合流し、河南省に進攻した。一九二七年、蒋介石と汪精衛が革命を裏切ると、馮玉洋もまた反共活動に参加した。だが、かれと蒋介石集団とのあいだには終始利害の衝突があった。九・一八事変ののち、かれは抗日に賛成し、一九三三年五月、共産党と協力して張家口で民衆抗日同盟軍を組織した。このときの抗日蜂起は、蒋介石勢力と日本侵略軍の二重の圧迫をうけて、八月に失敗した。馮玉祥は、晩年においても共産党と協力する立場をとりつづけた。
〔12〕 国民党第二十六路軍は、蒋介石の命令で赤軍を攻撃するため江西省に派遣された。一九三一年十二月、同軍の一万余人は、趙博生、董振堂らの同志の指導のもとに、中国共産党の抗日のよびかけにこたえて、江西省寧都で蜂起し、赤軍に参加した。
〔13〕 馬占山はもと国民党東北軍の将校であり、その部隊は黒竜江省に駐屯していた。九・一八事変ののち、日本の侵略軍が遼寧省から黒竜江省にむかって進撃したとき、その部隊はこれに抵抗した。
〔14〕 胡漢民は国民党の有名な政治屋で、かつて孫中山が中国共産党と協力する政策をとったことに反対した。また、一九二七年、蒋介石が「四・一二」反革命クーデターをおこなったときの共謀者であった。その後、蒋介石との権力争いがもとで、蒋介石に監禁された。九・一八事変ののち、釈放されて、南京から広州にいき、広東・広西派の軍閥勢力をうごかし、蒋介石南京政府とのあいだに長期にわたる対立状態をつくりだした。
〔15〕 「抗日救国六大綱領」とは「中華人民対日作戦基本綱領」のことで、中国共産党が一九三四年に提起し、宋慶齢らの署名をえて公表されたものである。この綱領にはつぎのような項目がふくまれている。(一)全陸海空軍を総動員して日本と戦う。(二)全国人民を総動員する。(三)全国人民の総武装化をおこなう。(四)中国にある日本帝国主義の財産と売国奴の財産を没収して抗日の戦費にあてる。(五)労働者、農民、兵士、知識層、商工業者の代表が選出した全中国民族武装自衛委員会をつくる。(六)日本帝国主義のすべての敵と連合してこれを友軍とし、善意の中立をまもるすべての図と友好関係をうちたてる。
〔16〕 広東・広西旅軍閥とは、広東省の陳済[”学”の”子”の代わりに”呆”]、広西省の李宗仁、白崇禧らをさす。
〔17〕 蒋介石匪賊一味は、革命的な人民を「匪賊」といい、かれらが自己の軍隊をもって革命的な人民を攻撃し、虐殺する行為を「討匪」といった。
〔18〕 任弼時同志は、中国共産党のもっとも早くからの党員であり、組織者のひとりであった。一九二七年の中国共産党第五回全国代表大会いらい、毎回の党大会で中央委員に選出され、一九三一年の党の第六期中央委員会第四回総会では中央委員会政治局委員に選出された。一九三三年、湖南・江西辺区省委員会書記となり、赤軍第六軍団政治委員を兼ねた。赤軍第六軍団と赤軍第二軍団が合流してからは、第二、第六両軍団で編成した第二方面軍の政治委員となった。抗日戦争の初期には、八路軍総政治部主任となった。一九四〇年には、中国共産党中央委員会書記処の活動に参加した。一九四五年、党の第七期中央委員会第一回総会では、中央委員会政治局委員と中央委員会書記処書記に選出された。一九五〇年十月二十七日、北京で逝去した。
〔19〕 中国労農赤軍第六軍団は、もとは湖南・江西辺区の根拠地に駐屯していたが、一九三四年八月、中国共産党中央の命令によって、包囲を突破し、移動をはじめた。同年十月、貴州省東部で、賀竜同志のびきいる赤軍第二軍団と合流し、赤軍第二方面軍を編成して、湖南・湖北・四川・貴州革命根拠地をきりひらいた。
〔20〕 一九三四年十月、中国労農赤軍第一、第三、第五軍団(すなわち赤軍第一方面軍で、中央赤軍ともよばれる)は、福建省西部の長汀、寧化、江西省南部の瑞金、[”あまかんむり”の下に”一”、その下に”号の口のない字”]都などの各地から出発して、戦略的な大移動をはじめた。赤軍は、福建、江西、広東、湖南、広西、貴州、四川、雲南、西康(現在の四川省西部とチベット自治区の東部――訳者)、甘粛、陝西など十一の省を通過して、年中雪をいただく高山をこえ、人跡まれな湿地帯をすぎ、あらゆる困難をなめつくして、敵のたびかさなる包囲、追撃、阻止、遮断を撃破し、二万五千華里(一万二千五百キロ)を歩きとおして、ついに一九三五年十月、勝利のうちに陝西省北部の革命根拠地に到着した。
〔21〕 四川・陝西辺区の赤軍とは、中国労農赤軍第四方面軍のことである。一九三五年三月、第四方面軍は、四川・陝西辺区の根拠地をはなれて四川、西康両省の省境に移動した。同年六月には、四川省西部の懋功地方で赤軍第一方面軍と合流し、左路軍と右路軍を編成して北上した。同年九月、松潘付近の毛児蓋一帯の地区についたのち、第四方面軍で活動していた張国Zが、中国共産党中央の命令にそむいて、勝手に左路軍をひきいて南下し、赤軍を分裂させた。一九三六年六月、赤軍第二万両軍が湖南・湖北・四川・貴州辺区から包囲を突破し、湖南、貴州、雲南の諸省をとおって、西康省の甘孜に到着し、第四方面軍と合流した。このとき、第四方面軍の同志たちは、張国Zの意志にそむいて、第二方面軍とともに北方への移動をおこなった。同年十月、第二方面軍の全部と第四方面軍の一部は陝西省北部に到着し、赤軍第一方面軍と勝利のうちに合流した。
〔22〕 張国Zは中国革命の裏切り者である。かれは若いころ、投機的に革命にくわわり、中国共産党に入党した。党内でのかれのあやまりはきわめて多く、そのおかした罪悪ははかりしれない。なかでももっとも重大なのは、一九三五年、赤軍の北上に反対して、赤軍を四川省、西康省の少数民族地区に退却させることを主張した敗北主義と解党主義であり、同時にまた、公然と反党、反中央の裏切りをはたらき、勝手ににせの中央をつくりあげて、党と赤軍の統一を破壊し、赤軍第四方面軍に重大な損失をこうむらせたことである。赤軍第四方面軍とその広範な幹部は、毛沢東同志と党中央の辛抱づよい教育によって、すぐ党中央の正しい指導のもとにかえり、その後の闘争で光栄ある役割をはたした。しかし、張国Z自身は、ついに救いようもない状態になり、一九三八年春、陝西・甘粛・寧夏辺区を単身ぬけだして、国民党の特務集団に投じた。
〔23〕 中央赤軍とは、もと江西、福建地域で発展し、中国共産党中央の直接の情導をうけていた赤軍、すなわち赤軍第一方面軍のことである。
〔24〕 一九三五年七月、国民党軍は、陝西・甘粛革命根拠地にたいして三回目の「包囲討伐」をはじめた。陝西省北部の赤軍第二十六軍は、まず東部戦線で敵の二コ旅団をうちやぶり、この戦線の敵を黄河以東に追いやった。同年九月、もと湖北・河南・安徽根拠地にいた赤軍第二十五軍は、陝西省南部から甘粛省東部をへて陝西省北部に到着し、陝西省北部の赤軍と合流して、赤軍第十五軍団を編成した。赤軍十五軍団は、甘泉県の労山の戦役で、敵軍の一一〇師団の大部分を撃滅し、その師団長を戦死させた。その後まもなく、敵軍の一〇七師団の四コ大隊を甘泉県の楡林橋で撃滅した。そこで、敵はまた新しい攻撃を計画し、童英斌(東北軍の一軍長)が五コ師団をひきい、ふた手にわかれて進攻してきた。東の一コ師団は洛川、[鹿+”おおざと”]県の街道を北上し、西の四コ師団は甘粛省の慶陽、合水から葫盧河にそって陝西省北部の[鹿+”おおざと”]県方面に進撃してきた。同年十月、中央赤軍は陝西省北部に到着した。十一月、中央赤軍と赤軍十五軍団は共同して敵軍の一〇九師団を[鹿+”おおざと”]県西南の直羅鎮で殲滅し、さらに追撃して敵軍一〇六師団の一コ連隊を黒水寺で殲滅した。こうして、陝西・甘粛根拠地にたいする敵の三回目の「包囲討伐」を徹底的に粉砕した。
〔25〕 一九三四年かち一九三五年にかけて、中国南部にいた赤軍の主力が移動したとき、一部の遊撃部隊をのこした。それらの遊撃部隊は、八つの省の十四の地域で遊撃戦争を堅持した。その他域とは、湖江省南部地域、福建省北部地域、福建省東部地域、福建省南部地域、福建省西部地域、江西省東北地域、福建・江西省境地域、広東・江西省境地域、湖南省南部地域、湖南・江西省境地城、湖南・湖北・江西省境地域、湖北・河南・安徽省境地域、河南省南部桐柏山地城および広東省の瓊崖地域である。
〔26〕  一九三一年、日本帝国主義が東北地方を侵略すると、中国共産党は、人民に武装抵抗をよびかけて、抗日遊撃隊と東北人民革命軍を編成し、さまざまな形態の抗日義勇軍を援助した。一九三四年以後になると、中国共産党の指導のもとに、東北のすべての抗日部隊をあわせて、統一した東北抗日連合軍が組織され、有名な共産党員楊靖宇が総指揮となって、長いあいだ東北の抗日遊撃戦争を堅持した。河北省東部の抗日遊撃戦争は、一九三五年五月におこった農民の抗日蜂起である。
〔27〕 ソ連共産党の指導した革命戦争とは、一九一八年から一九二〇年にかけて、ソ連人民がイギリス、アメリカ、フランス、日本、ポーランドなどの帝国主義国の武力干渉とたたかい、白衛軍の反乱を平定した戦争をいう。
〔28〕 毛沢東同志がここで提起している人民共和国の政権の性質とその諸政策は、抗日戦争の期間に、共産党の指導する人民解放区で完全に実現されていた。だからこそ、共産党は、敵の後方戦場で、人民を指導し、日本侵略者にたいする勝利的な戦争をすすめることができたのである。日本の降伏後に勃発した第三次国内革命戦争でも、戦争の進展につれて、人民解放区はしだいに全中国に拡大し、ついに統一された中華人民共和国が出現した。毛沢東同志の人民共和国の理想はついに全国的な範囲で実現したわけである。
〔29〕 一九二八年七月にびちかれた中国共産党第六回全国代表大会では、つぎの十六政綱がさだめられた。一、帝国主義の支配をくつがえす。二、外国資本の企業や銀行を没収する。三、中国を統一し、民族自決権を認める。四、軍閥国民党の政府をくつがえす。五、労農兵代表者会議の政府を樹立する。六、八時間労働制、賞金の引きあげ、失業救済、社会保障などを実施する。七、すべての地主階級の土地を没収し、耕地を農民のものにする。八、兵士の生活を改善し、兵士に土地と仕事をあたえる。九、すべての苛酷で雑多な税金を廃止し、統一的な累進税を実施する。十、世界のプロレタリア階級およびソ連と連合する。
〔30〕 トロツキスト集団は、もと、ロシアの労働運動のなかでレーニン主義に反対した一分派で、のちに完全な反革命の匪賊一味に堕落した。この裏切り者集団の変わりかたについて、スターリン同志は、一九三七年、ソ連共産党中央委員会総会における報告でつぎのように説明している――「過去七、八年まえまでは、トロツキズムは、労働者階級のなかの政治的一派であった。それはたしかに反レーニン主義的であり、したがって極度にまちがった政治的一派ではあったが、しかし、当時はやはり政治的一派といえた。……現在のトロツキズムは、けっして労働者階級のなかの政治的一派ではなく、原則のない、思想のない暗殺者であり、破壊者であり、スパイであり、殺人の下手人であり、外国のスパイ機関にやとわれて活動する労働者階級の仇敵である。」一九二七年、中国革命が失敗したのち、中国にも少数のトロツキストがあらわれた。かれらは陳独秀らの裏切り者とむすんで、一九二九年、反革命的グループをつくり、国民党はすでにブルジョア民主主義革命を完成したなどという反革命的宣伝をおこない、帝国主義と自民党の反人民的なきたない道具に完全になりさがった。中国のトロツキストは公然と国民党の特務機関に参加した。九・一八事変ののち、かれらはトロツキー一味から「日本帝国の中国占領を妨げるな」という指令をうけて、日本の持務機関に協力し、日本侵略者から手当をうけて、さまざまな利敵行為をおこなった。
〔31〕 「春秋に義戦なし」とは『孟子』のなかのことばである。春秋時代(西紀前七二二〜前四八一年)には中国の多くの封建諸民のあいだで権力や利益を争う戦争かたえずおこなわれたので、孟子はこのようにいった。
〔32〕 一八四〇年から一八四二年にかけて、イギリスは、中国人がアヘン貿易に反対したので、通商保護を口実に出兵し、中国を侵略した。中国の軍隊は林則徐の指導のもとに抵抗戦争をおこなった。当時、広州の人びとも自然発生的に「平英団」を組織して、イギリスの侵略者に大きな打撃をあたえた。
〔33〕 太平天国の戦争は、一九世紀のなかごろ、清朝の封建支配と民族抑圧に反対しておこった農民の革命戦争である。一八五一年一月、この革命の指導者洪秀全、楊秀清らは、広西省の桂平県金田村で蜂起し、「太平天国」の成立を宣言した。太平軍は、一八五二年に広西省を出発して、湖南、湖北、江西、安徽の諸省をへて、一八五三年に南京を攻略した。その後すぐ南京から一部の兵力をさいて北上し、天津付近まで進撃した。しかし、太平軍は、占領した地方に強固な根拠地をつくらなかったことと、南京に都をおいてから、その指導者集団が政治上、軍事上の多くのあやまりをおかしたことから、清朝の反革命軍と英米仏侵略者の連合攻撃に抵抗できず、一八六四年に失敗した。
〔34〕 義和団の戦争とは、一九〇〇年、中国北部の農民、手工業者大衆が、神秘主義的な秘密結社の形態をとり、武力をもって帝国主義とたたかった広範な自然発生的運動である。八つの帝国主義国の連合軍は、北京、天津を占領し、この運動をきわめて残酷に弾圧した。
〔35〕 本巻の『湖南省農民運動の視察報告』の注〔3〕にみられる。
〔36〕 レーニンの『プロレタリア革命の軍事綱領』および『ソ連共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』第六章第三節を参照。
訳注
@ 察蛤爾省は現在の河北省西北部と内蒙古の中部にあたる。
A 中国の神話に、盤古が天地をびちき、人類最初の支配者になったとつたえられている。三皇五帝は、伝説にでてくる中国原始社会の部落の長である。ここでは、「歴史がはじまっていらい」という意味にたとえている。
B 本巻の『小さな火花も広野を焼きつくす』訳注Aを参照。ここでは、閉鎖主義者が結集できる人びとをも敵の側に追いやってしまうことのたとえにつかっている。
C 北伐戦争とは、一九二六年七月、国民革命軍が広東省を出発して北上し、北洋軍閥を討伐した戦争をさす。国民革命軍は、中国共産党の政治的指導と広範な労農大衆の積極的支持をうけたので、急速に長江流域まで攻めよせ、中国のほぼ半分を占領し、帝国主義と封建勢力に手きびしい打撃をあたえた。ところが、一九二七年の春から夏へかけて、北伐戦争が発展していた矢先に、蒋介石に代表される国民党右派は、帝国主義の支持のもとに革命を裏切って、その成果を奪い、残忍きわまる新軍閥のテロ支配をうちたてた。
D 土地革命戦争とは中国共産党の指導する第二次国内革命戦争のことである。一九二七年七月、第一次国内革命戦争が失敗したのち、毛沢東同志を代表とする中国共産党は、土地革命の旗を高くかかげて、敵の支配が比較的弱くて、革命の基礎が比較的しっかりした農村に活動の重点をうつし、おもいきり農民を立ちあがらせて土地改革をおこない、遊撃戦争を展開し、革命根拠地をうちたてた。一九三六年末、全国人民の抗日運動の新しい高まりによって、蒋介石国民党がやむなく国内戦争の政策を一時放棄し、第二次国内革命戦争は基本的に終わりをつげた。


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