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       盲動主義の残りかすについて

 赤軍の党組織では、これまで盲動主義にたいして闘争がおこなわれてきたが、まだ不十分である。したがって、赤軍内にはまだ盲動主義思想の残りかすがある。それはつぎの点にあらわれている。一、主体的条件および客観的条件を無視して、めくらめっぽうに行動する。二、都市政策が十分に、断固として実行されていない。三、軍紀がゆるんでおり、とくに戦いにやぶれたときがそうである。四、一部の部隊にはまだ家屋を焼き払う行為がある。五、逃亡兵を銃殺する制度や体刑制度も、盲動主義の性質をおびている。盲動主義の社会的根源はルンペン・プロレタリアの思想と小ブルジョア階級の思想との総合にある。
 是正の方法
 (一)思想の面から盲動主義を一掃する。
 (二)制度と政策の面から盲動的な行為を是正する。




〔1〕 一九二七年、革命が失敗したのちの短い期間、共産党内に極左盲動主義の偏向があらわれた。極左盲動主義者たちは、中国革命の性質はいわゆる「連続革命」であり、中国革命の情勢はいわゆる「たえざる高揚」にあると考えているので、秩序のある退却を組織しようとはせずに、少数の党員と少数の大衆に依拠して、全国で、なんら勝つ見込みのない多くの地方的蜂起を、命令主義というあやまった方法で組織しようとした。こうした盲動主義の行動は、一九二七年末にはさかんであったが、一九二八年のはじめになると次第にやんでいった。しかし、一部の党員には、なおそうした気分がのこっていた。盲動主義とは冒険主義のことである。
〔2〕 黄巣は、唐代末年の農民蜂起の首領で、曹州冤句(今の山東省[”くさかんむり”の下に”河”]沢県――訳者)の生まれである。西紀八七五年、すなわち唐の僖宗乾符二年、黄巣は民衆を糾合し、王仙芝の指導する蜂起に呼応した。王仙芝が殺されてから、黄巣は王仙芝の残した部隊をあつめ、「衝天大将軍」と名のった。黄巣のひきいる蜂起部隊は、二回、山東省をでて流動しながら戦った。一回目は山東省から河南省にいき、転じて安徽省と湖北省にはいり、湖北省から山東省にもどった。二回目は、また山東省から河南省にいき、転じて江西省にいき、淅江省東部をへて福建省と広東省にはいり、広西省に転じ、湖南省をへて湖北省にいき、さらに湖北省から東にすすんで安徽、淅江などの省にはいり、それから淮河を渡って河南省にはいり、洛陽をおとしいれ、潼関を攻めおとし、長安を占拠した。黄巣は長安にはいったのち、斉国をたて皇帝と称した。のちに、内部分裂(大将朱温が唐にくだった)がおこりーまた沙陀《さた》族の酋長《しゅうちょう》李克用の軍隊の攻撃にあったため、黄巣は長安を失い、ふたたび河南省にいき、河南省から山東省にかえり、ついに失敗して自殺した。黄巣の戦争は十年間もつづき、中国史上有名な農民戦争の一つである。旧支配階級の史書には、当時「重い収奪に苦しんでいた人民は争ってこれに身を投じた」と書かれている。しかし、かれはただたんに流動的な戦争をするだけで、比較的強固な根拠地をつくったことがなかったので、「流賊」とよばれた。
〔3〕 李闖、すなわち李自成は、明朝末年の農民蜂起の首領で、陝西省米脂県の生まれである。西紀一六二八年、すなわち明の思宗祟[示+貞]元年に、陝西省北部に農民蜂起のあらしがまき起こった。李自成は高迎祥の蜂起部隊にくわわり、陝西省から河南省にはいり、安徽省にいき、陝西省にひきかえした。一六三六年、高迎祥が死に、李自成はおされて闖王になった。李自成が大衆のあいだでかかげたおもなスローガンは「闖王を迎えれば、年貢《ねんぐ》はいらぬ」であった。かれが部隊を拘束する規律のなかには、「人ひとりを殺すは、わが父を殺すに等しく、女ひとりをはずかしむるは、わが母をはずかしむるに等し」というスローガンがあった。このため、かれを支持するものは非常に多く、当時の農民蜂起の主流となった。しかし、かれもまた比較的強固な根拠地をつくったことがなく、たえずほうぼうに流動していた。かれはおされて闖王になったあと、部隊をひきいて四川省にはいり、陝西省南部にひきかえし、湖北省をへてまた河南省にはいり、まもなく湖北省の襄陽を占領し、ふたたび河南省をへて陝西省に攻めいり、西安を占領し、一六四四年、山西省をへて北京に攻めいった。その後まもなく、清の軍隊とそれを手引きした明の将軍呉三桂との連合攻撃にあって失敗した。
訳注
@ 縦隊とは、赤軍(その後の八路軍、新四軍、解放軍)の編制単位の一つである。それは正規編制の部隊にくらべて、かなり機動性があり、その兵員数は革命の時期や地区によって異なるが、だいたい正規編制の一コ連隊、一コ師団あるいは一コ軍団に相当する。ここでの赤軍第四軍の縦隊は歩兵一コ連隊に相当する。
A これは、中国の歴史上、一部の蜂起勢力が自分の軍隊を拡充するときにとった方法である。この方法では、さまざまな人びとや投降部隊を無差別に自分の軍隊にかかえこみ、軍隊の質を無視しがちで、量にだけ注意をはらうことになる。