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    割拠地区の問題

 広東省北部から湖南、江西両省の省境地区にそって湖北省南部にいたるまでは、羅霄山脈地域にはいっている。羅霄山脈の全域をわれわれはくまなく歩きまわった。その各部分を比較してみると、寧岡県を中心とする羅霄山脈の中部地域が、われわれの軍事的割拠にもっとも有利である。北部は、地勢としては攻めるにも守るにも中部ほど有利ではなく、それに大きな政治的中心都市に近づきすぎており、長沙《チャンシャー》あるいは武漢《ウーハン》を急速に奪取する計画がないかぎり、大部分の兵力を瀏陽県、醴陵《リーリン》県、萍郷県、銅鼓《トンクー》県一帯におくことは非常に危険である。南部は、地勢としては北部よりましであるが、大衆の基盤は中部よりおとり、政治的に湖南、江西両省におよぼす影響もいくぶん小さく、中部地域のようにその一挙一動が両省の湘江、[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]江《カンチァン》の下流地帯にすぐ影響をおよぼすといったようなことはない。中部地域の長所はつぎの点にある。(1)一年あまりもかけてきずいた大衆の基盤があること、(2)党の組織が相当の基礎をもっていること、(3)一年あまりの時間をかけて、闘争経験にとむ地方武装組織をつくったこと、これはなかなかえがたいものである。この地方武装組織の力は、それに赤軍第四軍の力をくわえると、どんな敵からも消滅されることはない。(4)すぐれた軍事根拠地――井岡山をもっており、地方武装組織の根拠地も各県にあること、(5)湖南省南部や江西省南部などの地方がたんにそれぞれの省にだけ、しかもその省のなかの上流地帯やへんぴな地方にだけ影響をあたえているのにくらべて、両省、なかでも、両省の下流地帯にも影響をおよぼすことができ、その政治的意義も大いに異なっていることである。中部地域の欠点は、すでに長いあいだ割拠しているために、「包囲討伐」軍が多くなり、経済問題、とくに現金の問題がたいへん困難になっていることである。
 湖南省委員会は、ここでの行動計画について、六月から七月にかけての数週間に、三回もその主張をかえている。一回目には袁徳生《ユァントーション》がきて、羅霄山脈中部地域政権の計画に賛成した。二回目には、杜修経、楊開明がやってきて、赤軍はちゅうちょせずに、湖南省南部にむかって伸展し、あとに銃二百ちょうの兵力だけを残して赤衛隊といっしょに省境地区を防衛せよと主張し、しかもこれが「絶対に正しい」方針であるといった。三回目には、袁徳生がまたやってきて、十日しかたっていないのに、こんどの手紙ではさんざんわれわれをしかりつけたうえ、赤軍は湖南省東部にいけと主張し、またこれが「絶対に正しい」方針だといい、そのうえ、「ちゅうちょしてはならない」といっている。われわれは、このような融通のきかない指示をうけて、したがわなければそむくことになり、したがえば失敗することがわかりきっているので、まことにやりにくい。二回目の手紙がとどいたとき、軍事委員会、特別委員会、永新県委員会は合同会議をひらき、湖南省南部にいくことは危険であると考え、省委員会の意見を実行しないことにきめた。ところが、その数日後には杜修経、楊開明が省委員会の意見を固持してゆずらず、第二十九連隊の郷土観念を利用して赤軍を[林+”おおざと”]県攻撃にひっぱっていったため、省境地区と赤軍を両方とも失敗させた。赤軍は数のうえでは約半分をうしなった。省境地区では、焼かれた家、殺された人はかぞえきれないほどあり、各県はあいついで敵の手におちいり、いまになってもまだ完全に回復できないでいる。湖南省東部への進出も、湖南、湖北、江西三省の豪紳政権が分裂しないうちは、だんじて赤軍の主力をあてるべきではない。もし、七月に湖南省南部への進出ということがなかったならば、省境地区の八月の失敗はまぬがれることができたばかりか、国民党の第六軍と王均とが江西省の樟樹鎮で戦った機会に乗じて、永新県の敵軍を撃破し、吉安県、安福県を攻めとって、その前衛部隊は萍郷県にたっし、北部の赤軍第五軍と連絡をつけることもできたであろう。そのようなばあいでも、寧岡県を大本営とすべきであって、湖南省東部へは遊撃部隊しかおくれない。豪紳のあいだに戦争がおこっていず、湖南省省境の萍郷、茶陵、[イ+|+攵]県の各県にはまだ敵の大部隊がいるので、主力が北にむかえば、かならず、かれらに乗ぜられる。党中央はわれわれに湖南省東部か、あるいは湘南省南部へ進出することを考えるようにといってきているが、これを実行するのは、どちらも非常に危険で、湖南省東部ゆきの案は実現していないが、湖南省南部ゆきはすでに実証ずみである。このような苦い経験は、われわれがつねに銘記しておく必要がある。
 現在は豪紳階級の支配がまだ分裂していない時期であり、省境地区をとりまいて「討伐」をすすめている敵軍は、なお十コ連隊あまりもある。しかし、もし、われわれがひきつづき現金の問題を解決できれば(食糧や衣服はもはや大した問題ではない)、省境地区という基礎に依存して、これぐらいの敵あるいはもっと多くの敵にもあたることができる。省境地区のためを考えると、もし赤軍が立ちさるようなことをすれば、たちどころに、八月のときのようにふたたび踏みあらされるにちがいない。赤衛隊が完全に消滅されることはないにしても、党と大衆の基盤は非常に大きな破壊をうけるであろうし、八、九月のころとおなじように、山地の割拠地が一部保存できるにしても、平地はすべて秘密状態にはいるであろう。赤軍がここを立ちさらなければ、現在の基礎をもとにして、しだいに周囲に拡大していくことができ、前途には大いに希望がもてる。赤軍のためを考えると、その拡大をはかるには、湖南省の敵と江西省の敵の利害が一致せず、四方を守っているので集中できないという状況を利用して、大衆的基盤をもつ井岡山の周囲、すなわち寧岡、永新、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県、遂川の四県で、敵と長期の闘争をおこなう以外にはない。正しい戦術をとって、戦わないならともかく、戦う以上はかならず勝ち、かならず捕虜や戦利品を獲得するというようにすれば、赤軍をしだいに拡大することができる。四月から七月の当時の省境地区の大衆の準備状態からみると、赤軍の大部隊が湖南省南部にいかずにいたら、八月には赤軍は疑いもなく拡大していたであろう。一度はあやまりを犯したが、赤軍はふたたび地の利と人の和のあるこの省境地区に帰ってきており、今後の見通しはそう悪くない。赤軍は、省境地区のこれらの地方で闘争する決意をかため、ねばり強く戦う勇気をもたなければならず、そうでなければ、武器をふやし、兵士をりっぱにきたえることはできない。省境地区の赤旗は、すでに一年ものあいだかかげつづけられた。それは、一方で、湖南、湖北、江西の三省ないし全国の豪紳階級のはげしいにくしみをひきおこしてはいるが、他方では、しだいに付近の各省の労働者、農民、兵士大衆の希望をよびおこしている。兵士についていえば、軍閥どもが省境地区の「匪賊討伐」を大仕事としており、「匪職討伐に年を重ね、出費すること百万元にたっす」(魯滌平《ルーテイピン》)、「赤軍は兵二万、銃五千と号す」(王均)などといっているので、しだいに敵軍の兵士や活路をうしなった下級将校たちの、われわれにたいする注目をひいており、脱出してわれわれの側に帰順するものは日ましに多くなるであろう。赤軍には拡充の道がもう一つふえるわけである。そのうえ、省境地区の赤旗が終始倒れなかったことは、共産党の力をしめしたばかりでなく、また支配階級の破産をもしめしており、政治上、全国的に重大な意義をもっている。だから、われわれは、羅霄山脈中部地域の政権をつくり、これを拡大することは、ぜったいに必要で、まったく正しいことであるとつねに考えている。




〔1〕 この戦争は一九二七年十月におこった。
〔2〕 この戦争は一九二七年十一月から十二月にかけておこった。
〔3〕 赤軍の兵士代表者会議と兵士委員会の制度は、のちに廃止された。一九四七年になって、また幹部の指導する軍人会議と兵士委員会の制度が採用された。
〔4〕 これは、一九二七年八月一日、南員で蜂起した葉挺、賀竜両同志の旧部隊のことである(葉挺部隊については本文の注〔14〕にみられる)。これらの部隊は潮州、汕頭に進軍して失敗したのち、その一部は朱徳、林彪、陳毅らの諸同志にひきいられて広東省から撤退し、江西省をとおって湖南省南部にはいり、遊撃戦争をおこなった。一九二八年四月、井岡山に到着し、毛沢東同志と合流した。
〔5〕 一九二七年の革命の時期の武昌国民政府警備連隊は、幹部に共産党員が多かった。汪精衛らが革命を裏切ったのち、この警備連隊は、七月末、武昌をはなれ、南昌にいって蜂起軍に参加しようとした。その途中、南昌の蜂起軍がすでに南下したと聞いて、修水県にいき、平江県、瀏陽県の農民軍と合流した。
〔6〕 湖南省の平江県、瀏陽県一帯では、一九二七年の春には、相当有力な農民武装組織がつくられていた。五月二十一日、許克祥が長沙で反革命事変(つまり「馬日事変」)をおこし、革命的大衆を虐殺した。五月三十一日、平江県、瀏陽県一帯の農民軍は、長沙にむかってすすみ、反革命勢力に反撃をくわえようとしたが、日和見主義の陳独秀に阻止されて撤退した。そのうちの一部の農民部隊は、ただちに独立連隊をつくり、遊撃戦争をおこなった。八月一日の南昌蜂起ののち、平江県、瀏陽県の農民軍は、修水、銅鼓、平江、瀏陽一帯で、もとの武昌国民政府警備連隊と合流し、萍郷炭鉱労働者の武装組織と協力して、秋収蜂起をおこなった。蜂起部隊は十月、毛沢東同志にひきいられて井岡山にいった。
〔7〕 一九二八年のはじめ、朱徳同志は湖南省南部で革命遊撃戦争をおこなった。もともと農民運動の基盤のあった宜章、[林+”おおざと”]県、耒陽、永興、資興の五つの県では、このとき農民軍が組織された。のちに、これらの農民軍は、朱徳同志にひきいられて井岡山にいき、毛沢東同志と合流した。
〔8〕 湖南省常寧県の水口山は、鉛鉱石の重要な産地である。ここの鉱山労働者は、すでに一九二二年には共産党の指導のもとで労働組合を組織し、毎年のように反革命勢力と闘争してきた。一九二七年の秋収蜂起ののち、多くの労働者が赤軍に参加した。
〔9〕 安源炭鉱は漢冶萍公司の一部で、江西省萍郷県内にある。当時、そこには炭鉱労働者が一万二千人いた。中国共産党湖南省委員会は、一九二一年から安源に人を送って活動させ、党と労働組合の組織をつくった。
〔10〕 赤軍内の党代表は一九二九年から政治委員と改称し、中隊の政治委員は一九三一年から政治指導
員と改称した。
〔11〕 「土豪からの徴発」という方法による軍費の調達は、一時的な、部分的なものでしかない。軍隊が大きくなり、地域がひろくなれば、徴税の方法で軍費を調達しなければならないし、またそれができるようになる。
〔12〕 このやり方は赤軍内で長いあいだ実行され、当時はそれが必要であったが、あとになると、等級に応じて多少差のあるようにあらためられた。
〔13〕 毛沢東同志はここで、革命軍隊の内部では一定の民主主義的生活が必要であることを、とくに強調して指摘している。それは、当時、赤軍かつくられたばかりであったので、民主主義を強調しなければ、新しく入隊した農民や捕虜になって編入された白軍出身の兵士の革命的積極性を十分鼓舞することができなかったし、また幹部のあいだにある、反動軍隊から伝わった軍閥主義の悪習を完全に一掃することができなかったからである。もちろん、部隊内の民主主義的生活は、軍事規律のゆるす範囲内のものでなければならないし、規律をよわめるものではなくて、規律をつよめるためのものでなければならない。したがって、部隊内で必要な民主主義を提唱するばあいには、同時に、極端な民主主義を要求する無規律の現象とたたかわなければならない。ところが、初期の赤軍のなかには一時、このような現象がひどく存在したことがある。毛沢東同志が軍隊内の極端な民主化に反対しておこなった闘争については、本巻の『党内のあやまった思想の是正について』という論文をみられたい。
〔14〕 一九二六年の北伐のさい、葉挺同志の部隊は共産党員を中核とした独立連隊で、北伐における有名な戦闘部隊であった。革命軍が武昌を占領したのち、拡大して第二十四師団になり、南昌蜂起ののち、さちに拡大して第十一軍になった。
〔15〕 実際には、赤軍内の党員の数は全軍の三分の一前後をしめていればよいのであり、その後、赤軍や人民解放軍のなかでは、だいたいそうなっている。
〔16〕 一九二七年五月二十一日、蒋介石、汪精衛らは湖南省の国民党反革命軍の将校許克祥、何鍵らをそそのかして、長沙で湖南の省労働組合、省農民協会およびその他すべての革命的な組織を包囲襲撃させ、共産党員や革命的な労農大衆を逮捕、殺害させた。中国の詩の韻についてのべた本では、「馬」の字および「馬」とおなじ韻の字を上声の第二十一韻にならべ、「馬」をその韻の韻目としているので、以前は二十一日のことを略して「馬日」とよんだ。したがって、五月二十一日におこった湖南事変も略して「馬日事変」とよんだ。この事変は、汪精衛をかしらとする武漢国民党反革命派と蒋介石をかしらとする南京国民党反革命派とが公然と合流する合図であった。
〔17〕 これは、一九二八年、湖南・江西辺区のきめた土地法のなかの一ヵ条である。あとになって、毛沢東同志は、地主の土地だけを没収するのではなくてすべての土地を没収するのはあやまりであり、このあやまりは、当時、土地闘争の経験に欠けていたことからきたものである、と指摘した。一九二九年四月にだされた興国県の土地法では、「すべての土地を没収する」を「公有地と地主階級の土地を没収する」にあらためている。
〔18〕 農村の中間階級を獲得することの重要性にかんがみ、毛沢東同志は、このあと、すぐ、中間階級にゆきすぎた打撃をあたえるあやまった政策を是正した。毛沢東同志の中間階級にたいする政策・主張は、この論文のほか、さらに、一九二八年十一月の赤軍第六回代表大会への提案(そのなかには「盲目的な焼き払い、殺害の禁止」、「中小商人の利益の保護」などの項目がある)、一九二九年一月の赤軍第四軍布告(そのなかには「都市の商人は零細なる利潤をかせぐものゆえ、服従するかぎり、他のことは問題にせず」などのことばがある)、一九二九年四月の興国県の土地法(本文の注〔17〕を参照)などにもみられる。
〔19〕 このような状態は、革命戦争の発展、根拠地の拡大および革命政府の工商業保護政策によってあらためることができるものであり、事実、のちにはあらためられた。そのばあい、断固、民族工商業を保護し、極左的な政策に反対することが鍵である。
〔20〕 労働力を基準にして土地を分配する方法は妥当でない。事実、赤色地域では人口に応じて均等に土地を分配する原則を長期にわたって実行していた。
〔21〕 衛団は反革命的な地方武装組織である。
訳注
@ 前敵委員会とは、第二次国内革命戦争の時期に、敵にたいする作戦の必要から、一定の期間、前線の部隊と地方の党組織を統一的に指導して、作戦をおこなう党の臨時的な機構であり、その委員は党省委員会または党中央より任命された。ここでいう前敵委員会は一九二七年秋に成立し、一九二八年三月に解消したものである。その後、一九二八年十一月六日、井岡山で前敵委員会があらたに組織された。本文「党の組織問題」の節を参照。
A 一華里は約五百メートル、八華里が日本の約一里にあたる。華里は原文では里であるが、日本の里と混同しないために華里とした。
B 原文の「工作」は「活動」と訳してもよいが、原文の「政治工作」を「政治活動」と訳すと誤解されやすいので、ここでは中国籍の「政治工作」をそのままつかった。ここでは人民の軍隊における政治工作のことをさしている。毛沢東同志は、中国共産党に指導されるさいしょの労農赤軍を創設するにあたって、人民の軍隊の建設が政治を先行させなければならないことを強調し、政治が統帥であり魂であり、政治が軍事を統率するということを強調した。これによって、労農赤軍のなかには、人民戦争に必要な一連の政治工作が確立された。政治工作の基本的な任務は、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想によって軍隊を教育し、全軍のプロレタリア階級としての革命的自覚をたかめ、党の綱領、路線、政策および人民政府の法令を実行、貫徹し、軍隊にたいする党の絶対的指導を強化し、軍隊の高度な統一ときびしい規律をまもり、将兵間の団結、軍民間の団結と友軍間の団結をはかり、敵軍を瓦解させ、戦闘の勝利を保障することである。したがって、政治工作は人民の軍隊の生命線である。げんざい、政治工作の制度は、すでに経済建設、文化教育、科学研究などあらゆる分野と部門におしひろめられ、社会主義革命と社会主義建設を発展させる力づよい保障となっている。
C 本巻の『湖南省農民運動の視察報告』の訳注Dを参照。
D 本巻の『湖南省農民運動の視察報告』の訳注Iを参照。


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