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    党の組織問題

 日和見主義との闘争の経過――馬日事変前後には、省境地区の各県の党は、日和見主義に牛耳られていたといえる。反革命がやってきたとき、断固としてたたかうことはまれであった。昨年十月、赤軍(労農革命軍第一軍第一師団第一連隊)が省境地区の各県にきたときには、身をかくし避難していた若干の党員が残っていただけで、党の組織はぜんぶ敵に破壊されていた。十一月からことしの四月までは、党を再建した時期であり、五月以後は党を大いに拡大した時期である。この一年来、党内の日和見主義的現象は依然としていたるところにみられ、一部の党員には闘争する決意がなく、敵がやってくると山奥にかくれて、それを「伏兵」と称した。一部の党員は積極性にとんではいたが、盲目的な暴動にながれた。これらはみな小ブルジョア思想のあらわれである。このような状況は、長期の闘争による鍛練と党内の教育によって、しだいに減少してきた。同時に赤軍内にもこのような小ブルジョア的な思想が存在していた。敵がやってくると、向こうみずにぶつかることを主張するか、さもなければ逃げようとする。この二つの考えが、作戦討議のさいにおなじ人の口からでることがよくある。長期にわたる党内の闘争と客観的な事実による教訓をつうじて、たとえば向こうみずにぶつかって損害をこうむったり、逃げだして失敗したりしたすえ、しだいにあらためられた。
 地方主義――省境地区の経済は農業経済であり、一部の地方はまだ、きね・うすの時代に停滞している(山地ではほとんど、きねとうすとで米をつき、ふみうすは、平地でなければ多くはみられない)。社会組織はどこでも一つの姓を単位とした同族組織である。村落内の党組織は、居住の関係から、多くは一つの姓の党員で一つの細胞をつくっており、細胞会議は同時に同族会議のようなものである。このような状態では、「戦闘的ボリシェビキ党」を建設することは、非常にむずかしい。共産党は国境や省境を問題にしないといっても、かれらにはよくわからないし、県や区や郷の境を問題にしないといっても、かれらにはやはりよくわからない。各県のあいだには地方主義がひどく、一つの県内の各区ないしは各郷のあいだにも根づよい地方主義がある。このような地方主義をあらためるには、道理をはなしたところでいくぶん効果のあがるのが関の山で、多くのばあいは、白色勢力の非地方主義的な圧迫にまたなければならない。たとえば、二つの省の反革命の「共同討伐」によって、人民が闘争のなかで共通の利害をもつようになったとき、はじめてかれらの地方主義がしだいにうちやぶられていく。地方主義は、多くのこうした教訓をつうじて減少した。
 土着民と移住民との問題――省境地区の各県には、もう一つ特別のことがある。それは土着民と移住民とのあいだにみぞがあることである。ここの土着民と数百年前北方から移住してきた移住民とのあいだには大きなみぞがあり、歴史的にその反日は非常に深く、ときには激しい争いがひきおこされる。このような移住民は、福建と広東との省境から、湖南、江西両省の省境にそって、湖北省南部にいたるまでのあいだに、およそ数百万人はいる。移住民は山地を占有しており、平地を占有している土着民に圧迫され、日ごろ政治的には無権利であった。一昨年と昨年の国民革命にたいして、移圧民はこれを歓迎し、これで日の目をみるときが近づいたと考えた。ところが、革命が失敗したので、移住民はあいかわらず土着民から圧迫をうけている。われわれの地域内の寧岡、遂川、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県、茶陵の各県にはみな土着民と移住民の問題があり、寧岡県での問題がもっとも重大である。一昨年から昨年にかけて、寧岡県の土着民の革命派は移住民と結びつき、共産党の指導をうけて、土着の豪紳の政権をくつがえし、全県をにぎった。昨年六月、江西省の朱培徳政府が反革命化し、九月には、豪紳が朱培徳の軍隊の手びきをして寧岡を「討伐」し、ふたたび土着民と移住民とのあいだの争いに火をつけた。このような土着民と移住民とのみぞは、道理からいえば、搾取されている労農階級の内部にもちこまれるべきではないし、まして共産党内にもちこまれるべきではない。しかし、実際には、多年にわたって残されてきた習慣なので、このようなみぞは依然として存在している。たとえば、省境地区の八月の失敗のとき、土着の豪紳は反動軍隊を手びきして寧岡県に帰り、移住民が土着民を殺すといいふらしたので、土着農民の大部分が寝がえりをうち、白い腕章をつけ、白軍を手びきして家屋を焼きはらったり、山狩りをしたりした。十月、十一月に赤軍が白軍をうちやぶると、土着農民たちは反動派について逃げさり、移圧農民たちはまた、土着農民の財産を没収した。このような事情が党内に反映して、ときどき無意味の争いがおこる。われわれのやり方は、「寝がえりをうった農民を殺さない」、「寝がえりをうった農民も帰ってくれば同じように土地がもらえる」と宣伝して、かれらを豪紳の影響から切りはなし、安心して家に帰るようにさせる一方、県政府からは、移住農民に没収した財産をもとの所有者にかえすよう命令するとともに、土着農民を保護する旨の布告をだすことである。党内では、この二つの部分の党員がかならず一致団結するよう、教育をつよめることである。
 投機分子の寝がえり――革命の高揚期 (六月)に、公然と党員を募集した機会に乗じて多くの投機分子が党内にもぐりこみ、省境地区の党員数は一時一万以上にふえた。細胞や区委員会の責任者の多くが新しい党員なので、よい党内教育のできるはずはなかった。白色テロがやってくると、投機分子は寝がえりをうち、反動派を手びきして同志たちをつかまえ、白色地区の党組織は大半がつぶれた。九月以後、党内の清掃を徹底的におこない、党員の出身階級について厳格な制限をくわえた。永新、寧岡両県の党組織は全部解散し、再登録をおこなった。党員数は大幅に減少したが、戦闘力はかえって増大した。それまで党の組織は全部公然化していたが、九月以後は、秘密の組織をつくり、反動派がやってきても活動できるように準備した。同時に、あらゆる手をつくして白色地区にはいりこみ、敵の陣営内で活動した。しかし、付近の各町にはまだ党の基盤がなかった。その原因は、一つには、町での敵の勢力が比較的大きいこと、二つには、わが軍がこれらの町を占領したときに、ブルジョア階級の利益をひどくそこねたので、党員がそこにおれなくなったことである。現在ではあやまりをあらため、町にわれわれの組織を建設することにつとめているが、成果はまだそれほどみられない。
 党の指導機関――細胞幹事会は委員会と改称した。細胞の上は区委員会で、区委員会の上は県委員会である。区委員会と県委員会とのあいだには、特別の事情によって、永新県の北郷《ペイシァン》特別区および東南特別区のように、特別区委員会を組織しているところもある。省境地区には、寧岡、永新、蓮花、遂川、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県の五つの県委員会がある。茶陵にはまえに県委員会があったが、活動が根をおろせなかったので、昨年の冬からことしの春にかけてつくられた多くの組織が大部分白色勢力のためにこわされてしまい、この半年来は、寧岡、永新に近い一帯の山地でしか活動できなかった。そのため、県委員会を特別区委員会にあらためた。[イ+|+攵]県、安仁県はいずれも茶陵県をとおっていかなければならす、人を派遣してみたが、成果があがらずもどってきた。万安県委員会は一月にわれわれと遂川で合同会議を一回ひらいたが、半年以上も白色勢力のために連絡をたたれ、九月に赤軍が万安県に遊撃していってやっとまた一度連絡がついた。八十名の革命的農民が赤軍について井岡山にやってきて、万安赤衛隊を組織した。安福県には党の組織はない。吉安県は永新県と隣合っているのに、吉安県委員会はわれわれとたった二回連絡をとっただけで、少しも援助をあたえてくれないのは、不思議でならない。桂東県の沙田《シャーティエン》一帯では、三月と八月の二回土地を分配し、党の組織がつくられ、竜渓《ロンシー》県十二洞《シーアルトン》を中心とする湖南省南部特別委員会の管轄下におかれている。各県の県委員会の上は湖南・江西省境地区特別委員会である。五月二十日、党の省境地区第一回代表大会が寧岡県茅坪でひらかれ、第一期特別委員会委員二十三名を選出し、毛沢東を書記とした。七月、湖南省委員会から楊開明が派遣されてきて、書記を代理した。九月、楊が病気になり、譚震林《タンチェンリン》が書記を代理した。八月、赤軍の大部隊が湖南省南部にいき、白色勢力が省境地区に強い圧力をくわえてきたとき、われわれは永新県で緊急会議を一回ひらいた。十月、赤軍が寧岡県にもどり、また茅坪で党の省境地区第二回代表大会を招集した。会議は十月十四日から三日間ひらかれ、「政治問題と省境地区党の任務」などの決議が採択され、譚震林、朱徳、陳毅、竜超清《ロンチャオチン》、朱昌偕《チューチャンシェ》、劉天千《リウティエンチェン》、円盤珠《ユァンパンチュー》、譚思聡《タンスーツォン》、譚兵《タンピン》、李郤非《リーシーフェイ》、宋亦岳《ソンイーユエ》、袁文才、王佐農《ワンツォノン》、陳正人《チェンチョンレン》、毛沢東、宛希先、王佐、楊開明、同挺穎の十九名が第二期特別委員会の委員に選出された。うち五人が常任委員となり、譚震林(労働者)が書記、陳正人(知識人)が副書記になった。十一月十四日、赤軍第六回全軍大会をひらき、ニ十三名を選出して軍事委員会を組織し、うち五人を常任委員とし、朱徳を書記とした。特別委員会と軍事委員会は前敵委員会によって統轄される。前敵委員会は十一月六日に再組織されたものであり、党中央の指名によって、毛沢東、朱徳、地方党組織の書記(譚震林)、労働者の同志一名(宋喬生《ソンチャオソン》)、農民の同志一名(毛料文《マオコーウェン》)の五人で構成され、毛沢東が書記となった。前敵委員会には、暫定的に総務部、宣伝部、組織部および労働運動委員会、軍事委員会を設けた。前敵委員会は地方の党を統轄する。前敵委員会は、時には軍と行動をともにしなければならないので、特別委員会はやはり存在させる必要がある。われわれは、プロレタリア思想による指導の問題は非常に重要な問題であると考える。省境地区各県の党は、ほとんど完全に農民出身者によって構成されている党であり、もし、プロレタリア思想による指導がなければ、その方向をあやまるにちがいない。各県の県都や主要な町の労働運動に積極的に気をくばるとともに、政権機関のなかにも労働者の代表をふやすべきである。党の各段階の指導機関も労働者と貧農の要素をふやすべきである。


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