前へ  目次へ  次へ


    軍事問題

 省境地区の闘争は、まったく軍事的な闘争であり、党も大衆も軍事化しないわけにはいかない。どのように敵にたちむかい、どのように戦うかが、日常生活の中心問題となっている。割拠というものは武装されたものでなければならない。武装されていなかったり、武装が十分でなかったり、あるいは敵にたちむかう戦術にあやまりがあったりしたところは、すぐ敵に占領されてしまう。このような闘争は、日一日とはげしくなり、問題もまた非常に複雑できびしい。
 省境地区の赤軍はつぎのところからきている。(一)潮州《チャオチョウ》、汕頭《シャントウ》の葉挺《イエティン》、賀竜《ホーロン》の旧部隊〔4〕、(二)もとの武昌《ウーチャン》国民政府警備連隊〔5〕、(三)平江県、瀏陽県の農民〔6〕、(四)湖南省南部の農民〔7〕と水口山《ショイコウシャン》の労働者〔8〕、(五)許克祥《シュイコーシァン》、唐生智、白崇禧《パイチョンシー》、朱培徳《チュペイトー》、呉尚、熊式輝らの部隊から捕虜にした兵士、(六)省境地区各県の農民。しかし、葉挺・賀竜の旧部隊、警備連隊および平江県、瀏陽県の農民は、一年あまりの戦闘をへて、三分の一しか残っていない。湖南省南部の農民も多くの死傷者をだしている。したがって、まえの四つの部分はいまなお赤軍第四軍の中核ではあるが、数のうえであとの二つの部分にははるかにおよばない。あとの二つの部分でも敵軍の捕虜の方が多いが、もしこの方面からの補充がなければ、兵員の問題は重大なことになるであろう。それにしても、銃はめったに失わないが、兵士は負傷、死亡、疾病《しっぺい》、逃亡があってずっと損失しやすいので、兵士の増加と銃の増加とはやはりつりあいがとれない。湖南省委員会は、安源《アンユァン》の労働者〔9〕をこちらに送ると約束されたが、すみやかに実行していただきたい。
 赤軍の構成要素は、一部分が労働者、農民で、一部分がルンペン・プロレタリアである。ルンペンの要素が多すぎることは、もちろんこのましくない。しかし、ルンペン分子には戦闘力がある。毎日戦闘がおこなわれ、死傷者も多いなかで、そのルンペンをみつけてきて補充することもすでに容易ではなくなっている。このような状況のもとでは、政治的訓練を強化する以外に方法はない。
 赤軍兵士の大部分はやとい兵部隊からきているが、赤軍にはいるとすぐに質が変わる。まず第一に、赤軍がやとい兵制度を廃止したことは、兵士に、他人のために戦争するのではなくて自分のため人民のために戦争するのだと感じさせている。赤軍にはいまでも正規の給与制というものはなく、食糧と食油、食塩、たきぎ、野菜などの費用、それにわずかばかりのこづかい銭を支給するだけである。赤軍将兵のうち、他の地方の出身者にまで土地を分配することはかなり困難であるが、この省境地区の出身者にはそれぞれ土地が分配されている。
 政治教育をつうじて、赤軍兵士はみな階級的自覚をもち、みな土地の分配、政権の樹立、および労働者・農民の武装化などの常識を身につけるようになり、自分のため、また労農階級のために戦うのだということを知るようになった。だから、かれらは苦しい闘争のなかでも不平をいわない。中隊、大隊、連隊には兵士委員会ができて、兵士の利益を代表し、また政治工作Bや民衆工作をやっている。
 党代表制度〔10〕は、経験が証明しているように、廃止してはならない。党細胞が中隊に組織されているので、とくに中隊段階では、党代表はいっそう重要になる。党代表は、兵士委員会が政治訓練をおこなうよう督促し、民衆運動工作を指導すると同時に、党細胞の書記をも担当しなければならない。事実が証明しているように、中隊の党代表がわりあいしっかりしていれば、その中隊はわりあい健全なものになるが、中隊長では政治的にそのような大きな役割をはたすことはむずかしい。なぜなら、下級幹部の死傷があまりに多いので、敵軍の捕虜の兵士で編入されてまもないのに、すぐ中隊長や小隊長になることがよくあるからである。ことしの二、三月ころの捕虜の兵士で、いま大隊長になっているものもいる。表面的にみれば、赤軍といわれる以上、党代表はなくてもよいようであるが、それは実に大きなまちがいである。第二十八連隊は湖南省南部にいたときに、党代表を廃したことがあったが、のちにまたこれを復活した。指導員と改称すれば、国民党の指導員と混同されて、捕虜出身の兵士はこれをいやがる。それに、名称を変えることは、制度の本質にかかわることではない。だから、われわれは変えないことにさめた。党代表には死傷者が非常に多いので、訓練班を自分でもうけて訓練し、補充はするが、そのほかに、党中央および両省委員会から党代表になれる同志をすくなくとも三十名は派遣してもらいたい。
 一般の兵士は半年か一年訓練しなければ戦争をやれないが、われわれの兵士は、きのう入隊すれば、きょうはもう戦争をしなければならないので、まったく訓練というものがない。軍事技術はあまりに劣っていて、戦いは勇敢さだけにたよっている。長期間の休息と訓練は不可能なので、なんとかして一部の戦闘をさけ、時間をつくって訓練するほかはない。それができるかどうかやってみることにする。下級将校を訓練するため、現在、百五十人からなる教導隊を設けており、これを恒常的にやっていくつもりでいる。党中央および両省委員会は、中隊長、小隊長以上の将校を多く送ってもらいたい。
 湖南省委員会は、兵士の物質生活をすくなくとも一般の労働者、農民の生活よりはいくらかよくすることに気をくばるよう、われわれにいってきている。だが、現在はその反対で、主食のほかは、食油、食塩、たきぎ、野菜などの費用として毎日一人あたりただの五分《フェン》Cしかあてておらず、それさえ続けることは困難である。食油、食塩、たきぎ、野菜などの費用を支給するだけでも、毎月一万元以上の銀貨が必要であり、それはすべて土豪からの徴発で支給している〔11〕。現在、全軍五千人の冬服についていうと、綿はあるが、綿布がない。こんなに寒いのに、多くの兵士はまだ夏服を二枚重ね着しているだけである。さいわいに苦しい生活にはなれている。しかも、その苦しさは誰もがおなじで、軍長から炊事兵にいたるまで、主食以外は一触に五分ぶんの食事しかとっていない。こづかい銭を支給するにも二角なら一律に二角にし、四角なら一律に四角にしている〔12〕。だから、兵士はだれにも不平をいわない。
 戦闘のあるたびに負傷兵がでる。栄養不足や寒さやその他の原因で、病気する将兵が多い。病院は山に設けられており、漢方と洋式の二つの方法で治療しているが、医者も薬も欠乏している。現在、入院中のものは八百余人である。湖南省委員会は薬を買ってくれるといったが、いまになってもまだとどいていない。何人かの医師といくらかのヨード剤を送られるよう、あらためて党中央および両省委員会にお願いする。
 赤軍の物質生活がこのように粗末であり、戦闘がこのように頻繁《ひんぱん》にやられているにもかかわらず、赤軍が依然としてくずれず維持できているのは、党のはたしている役割のほかに、軍隊内で民主主義が実行されているからである。上官は兵士をなぐちず、将兵は平等に待遇されており、兵士には会議をひらき意見をのべる自由があり、わずらわしい儀礼は廃止され、会計は公開されている。兵士はまかないを管理し、鯨日五分の食油、食塩、たきぎ、野菜などの費用のなかから少しばかり節約してこづかい銭にあてている。これを「食費の余り」とよんで、一人あたり毎日六、七十文《ウェン》もらっている。こうしたやり方に、兵士は満足している。とくに、新しくはいってきた捕虜の兵士は、国民党の部隊とわれわれの軍隊とではまったくちがった世界であることを感じている。かれらは、赤軍の物質生活が白軍より劣ってはいても、精神的には解放されたと感じている。おなじ兵士で、きのうは敵軍内で勇敢でなかったものが、きょうは赤軍内で非常に勇敢になるのは、民主主義の影響である。赤軍はるつぼのようなもので、捕虜の兵士がはいってくると、たちまちとかしてしまう。中国では人民が民主主義を必要としているばかりでなく、軍隊もまた民主主義を必要としている。軍隊内の民主主義制度は、封建的なやとい兵部隊をうちこわす重要な武器となるであろう〔13〕
 党の組織は、現在、中隊細胞、大隊委員会、連隊委員会、軍委員会の四段階にわかれている。中隊には細胞があり、分隊には細胞班がある。赤軍が苦難のなかで奮戦しながらも崩壊しない重要な原因の一つは、「細胞が中隊に組織されている」ことにある。二年前には、国民党軍隊内のわが党の組織は、葉挺の部隊〔14〕でさえ、まだ各連隊ごとに一つの細胞しかなかったように、まったく兵士をつかんでおらず、そのためにきびしい試練にたえきれなかったのである。いまでは、赤軍内の党員と非党員の比率は、だいたい一対三、すなわち平均して四人のうちに一人の党員がいる。最近、党員と非党員を半々にするという目標を達成するため、戦闘員兵士のあいだに、党員数をふやすことにきめた〔15〕。現在、中隊細胞にはすぐれた書記がすくないので、各地でそこにおれなくなった活動家のなかから多数のものを送られるよう、党中央にお願いする。湖南省南部からきた活動家は、そのほとんどが軍隊内で党の仕事をしている。だが、八月に湖南省南部で一部のものがちりぢりになったので、いまのところ人をだすことはできない。
 地方の武装組織には赤衛隊と労農暴動隊がある。暴動隊はほこや先込め銃を武器にしており、郷を単位にし、各郷に一隊ずつあり、人数は郷の大小に比例している。その任務は反革命を弾圧し、郷の政権をまもり、敵がくれば、赤軍あるいは赤衛隊の戦闘に協力することである。暴動隊はさいしょ永新にでき、もとは秘密のものであったが、県全体を奪取してから公然化した。こうした制度はいま省境地区の各県にひろがっているが、名まえはそのままである。赤衛隊の武器は主として五発銃であるが、九発銃も単発銃もある。各県の銃の数は、寧岡に百四十、永新に二百二十、蓮花に四十三、茶陵に五十、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県に九十、遂川に百三十、万安に十、合計六百八十三ちょうである。大部分は赤軍が支給したものであるが、一部分は自分で敵から奪いとったものである。各県の赤衛隊はほとんどすべてが、たえず豪紳の保安隊、挨戸団と戦っており、戦闘力は日ましに増大している。馬日事変〔16〕のまえには、各県に農民自衛軍があった。 その銃の数は、[イ+|+攵]《ヨウ》県に三百、茶陵に三百、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県に六十、遂川に五十、永新に八十、蓮花に六十、寧岡(袁文才部隊)に六十、井岡山(王佐部隊)に六十、合計九百七十ちょうであった。馬日事変以後、袁、王両部隊は損失をうけなかったが、そのほかわずかに遂川県で六ちょう、蓮花県で一ちょう保存されただけで、あとはすっかり豪紳にとられてしまった。農民自衛軍にこれほど銃を確保する能力がなかったのは、日和見主義路線のせいである。現在も各県の赤衛隊の銃はまだまだ不足しており、豪紳ほど多くはもっていない。赤軍は、武器の点で赤衛隊にひきつづき援助をあたえなければならない。赤軍の戦闘力を低下させないことを条件にして、人民が武装するのをできるかぎり援助しなければならない。われわれはすでに、赤軍の各大隊を四コ中隊編成とし、各中隊の歩兵銃を七十五ちょうにして、これに連隊本部付中隊、機関銃中隊、追撃砲中隊、連隊本部および三つの大隊本部をくわえて、各連隊は歩兵銃千七十五ちょうをもつことにきめている。戦闘でぶんどった銃は、できるだけ地方の武装にあてる。赤衛隊の指揮官には、各県から赤軍の教導隊に送られて訓練をうけたものをあてる。赤軍からその地方の出身でないものを派遣して地元の隊長の職につかせることは、しだいに少なくしていかなければならない。朱培徳もかれの保安隊や挨戸団の武装をつよめ、省境地区各県の豪紳の武装組織の数や戦闘力は相当のものである。だからこそ、われわれ赤色地方武装組織の拡大は、一刻もゆるがせにできない。
 赤軍は集中を原則とし、赤衛隊は分散を原則とする。反動政権が一時的に安定しているこの時期には、敵は大量の軍事力を集中して赤軍を攻撃することができるので、赤軍が分散することは不利である。われわれの経験では、兵力を分散させたときに失敗しなかったことはほとんどないが、兵力を集中して、わが兵力よりも小さいか、わが兵力に等しいか、または、わが兵力よりもいくらか大きい数を攻撃したときには、よく勝利をおさめている。党中央がわれわれに指示している遊撃地域の拡大は、たてよこ数千華里におよび、広すぎるきらいがある。これはおそらく、われわれの力を過大に評価しているためであろう。赤衛隊は分散したほうが有利なので、現在各県の赤衛隊はみな分散して戦う方法をとっている。
 敵軍にたいする宣伝で、もっとも効果的な方法は、捕虜を釈放したり負傷兵を治療してやったりすることである。敵軍の兵士や大隊長、中隊長、小隊長がわが軍の捕虜になれば、すぐかれらに宣伝をおこない、残りたいものと、帰りたいものとにわけ、帰りたいものには旅費をあたえて釈放する。このようにすれば、「共産匪は手あたりしだいに人を殺す」といった敵の欺瞞《ぎまん》は、たちどころにうちやぶられてしまう。楊池生《ヤンテーション》の「九師団旬刊』は、われわれのこのようなやり方について「悪辣《あくらつ》なるかな」と驚嘆している。赤軍兵士たちは、とらえてきた捕虜にたいして非常に親切にいたわったりあたたかく見送ったりするので、「新しい兄弟の歓送集会」があるたびに、捕虜たちはその演説で、われわれに心からの感謝をもってこたえている。敵の負傷兵を治療してやることも、大きな効果がある。李文彬《リーウェンピン》のようなりこうな敵は、ちかごろ、われわれのやり方を見ならい、捕虜を殺さず、捕虜となった負傷兵を治療している。それでも、われわれの兵士には、つぎの戦いのときに銃をさげて帰ってくるものがある。このようなことがすでに二回もあった。このほかに、文字による宣伝、たとえば、標語を書くことなども、できるだけやっている。いく先ざきで、スローガンを壁いっぱいにかいている。ただ絵のかけるものがいないので、党中央および両省委員会から何人か送ってもらいたい。
 軍事根拠地――第一の根拠地は井岡山であり、寧岡、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県、遂川、永新の四県の県境にまたがっている。北麓は鰹岡県の茅坪《マオピン》、南麓は遂川県の黄[土+凹]《ホワンアオ》で、両地のあいだは九十華里ある。東麓は永新県の拿山《ナーシャン》、西麓は[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県の水口《ショイコウ》で、両地のあいだは八十華里ある。周囲は拿山からはじまり、竜源口(以上は永新県)、新城《シンチョン》、茅坪、大竜《ターロン》(以上は寧岡県)、十都《シートウ》、水口、下村《シァツン》(以上は[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県)、営盤[土+于]《インパンユイ》、戴家埔《タイチァプー》、大汾《ターフェン》、堆子前《トイツーチェン》、黄[土+凹]、五斗江《ウートウチァン》、車[土+凹]《チョーアオ》(以上は遂川県)をへて拿山まで、合計五百五十華里である。山上の大井《ターチン》、小井《シァオチン》、上井《シャンチン》、中井《チョンチン》、下井《シァチン》、茨坪《ツーピン》、下荘《シァチョワン》、行州《ハンチョウ》、草坪《ツァオピン》、白泥湖《パイニーフー》、羅浮《ルオフー》の各地には、みな水田と村落があり、もともと匪賊や敗残兵の巣窟となっていたところであるが、いまでは、われわれの根拠地となっている。しかし、人口は二千にも満たず、もみの生産は一万担Dたらずで、軍の糧秣《りょうまつ》はすべて寧岡、永新、遂川の三県からの輸送に依存している。山の要所要所には防御工事がほどこされている。病院、被服廠《ひふくしょう》、兵器部、各連隊の留守本部はみなここにある。いま寧岡から食糧を山に運搬中である。もし十分の給養さえあれば、敵は攻めこめない。第二の根拠地は寧岡、永新、蓮花、茶陵の四県の県境にある九隴山《チウロンシャン》で、その重要性は井岡山ほどではないが、四つの県の地方武装組織の最後の根拠地であって、ここにも防御工事がほどこされている。周囲を白色政権にとりかこまれている赤色割拠地では、山の険要を利用することが必要である。


前へ  目次へ  次へ