前へ  目次へ  次へ


井岡山の闘争

          (一九二八年十一月二十五日)

   湖南・江西省境地区での割拠と八月の失敗


 一国のなかに、周囲を白色政権にとりかこまれながら、一つの小さなあるいはいくつかの小さな赤色政権地域かうまれるのは、いまの世界では、ただ中国だけにみられることである。それがうまれた原因を分析してみると、その一つは、中国では買弁・豪紳階級の内部にたえず分裂と戦争があることである。買弁・豪紳階級の内部の分裂と戦争がつづくかぎり、労働者・農民の武装割拠もまたひきつづき存在し、発展することができるであろう。そのほかに、労働者・農民の武装割拠が存在し、発展するためには、なおつぎの条件がそなわっていなければならない。(1)優秀な大衆がいること、(2)優秀な党があること、(3)相当の力をもつ赤軍があること、(4)作戦に有利な地形があること、(5)給養をまかなえるだけの経済力があること、である。
 支配階級の政権が一時的に安定している時期と分裂している時期とでは、割拠地区は、周囲の支配階級にたいしてちがった戦略をとらなければならない。支配階級の内部に分裂がおきた時期、たとえば湖南《フーナン》、湖北《フーペイ》両省でいうと李宗仁《リーツォンレン》、唐生智《タンションチー》が戦争をした時期〔1〕、広東《コワントン》でいうと張発奎《チャンファーコイ》、李済深《リーチーシェン》が戦争をした時期〔2〕には、われわれの戦略は、やや暴進してもよく、軍事力によって割拠を発展させる地方はやや広くしてもよい。だが、白色テロがおそってきたときに、びくともしないそなえをしておくためには、やはり中心区域にしっかりした基礎をつくることに心をそそぐ必要がある。支配階級の政権が比較的安定している時期、たとえば今年四月以後の南方各省のばあいには、われわれの戦略は逐次前進するというものでなければならない。この時期に、軍事の面でもっとも禁物とすることは、兵力をわけて暴進することであり、地方活動の面(土地の分配、政権の樹立、党の拡大、地方の武装組織の建設)でもっとも禁物とすることは、中心区域にしっかりした基礎をつくることに心をそそがないで、人力をばらばらに分散することである。各地で多くの小さな赤色地域が失敗したのは、客観的に条件がそなわっていなかったからか、あるいは主観的に戦術があやまっていたからである。戦術にあやまりがあったのは、もっぱら、支配階級の政権が一時的に安定している時期と分裂している時期というこの二つの異なった時期をはっきり区別しなかったためである。支配階級の政権が一時的に安定しているときでも、一部の同志は、敵の側から挨戸団《アイホートワン》のほかに、集中的に正規の軍隊が攻撃してくるということをまったく知らないかのように、兵力をわけて暴進することを主張し、赤衛隊だけでひろい地方を防衛することさえ主張した。地方活動の面では、中心区域にしっかりした基礎をつくることにまったく心をそそがず、主体的な力の可能性を考えないで、ただ無制限に拡大しようとするだけである。もしだれかが、自己を不敗の地におこうとして、軍事の面で一歩一歩拡大する政策をとることを主張し、地方活動の面で力を集中して中心区域にしっかりした基礎をつくることを主張するならば、それに「保守主義」というレッテルをはった。かれらのこのようなあやまった意見こそ、ことしの八月に湖南・江西《チァンシー》省境地区でなめた失敗と、そのころ赤軍第四軍が湖南省南部でなめた失敗の根本原因である。
 湖南・江西省境地区での活動は、昨年の十月からはじまった。最初は、各県ともぜんぜん党の組織がなくなっていて、地方の武装組織としても、ただ袁文才《ユァンウェンツァイ》、王佐《ワンツォ》がそれぞれ六十ちょうのぼろ銃をもって井岡山《チンカンシャン》付近にいただけで、永新《ヨンシン》、蓮花《リェンホワ》、茶陵《チャーリン》、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]《リン》県の四県の農民自衛軍の武装は全部豪紳階級に解除されてしまい、大衆の革命的な情熱はすでにおしひしがれていた。ことしの二月になると寧岡《ニンカン》、永新、茶陵、遂川《スイチョワン》にはいずれも党の県委員会ができ、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県には特別区委員会ができ、蓮花にも党の組織ができはじめ、万安《ワンアン》県委員会とも連絡がついた。地方の武装組織は、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県をのぞいて、各県にみな少しずつできた。寧岡、茶陵、遂川、永新、とくに遂川、永新の二県では、何回となく豪紳打倒、大衆動員のための遊撃的暴動をおこし、成果はみなよい方であった。この時期には、土地革命はふかまっていなかった。政権機関は労農兵政府とよばれた。軍隊内には兵士委員会〔3〕が組織された。部隊が分散して行動するときには、行動委員会が組織されて指揮にあたった。この時の党の高級指導機関は、秋収蜂起のさいに湖南省委員会が任命した前敵委員会@(書記は毛沢東《マオツォートン》)であった。三月上旬、前敵委員会は湖南省南部特別委員会の要求によって解消され、師団委員会(何挺穎《ホーティンイン》が書記)に組織がえされ、軍隊内の党だけを統轄する機関にかわり、地方の党にたいしては口出しできなくなった。同時に、毛沢東の部隊もまた、湖南省南部特別委員会の要求によって湖南省南部に移動させられ、そのため、この省境地区は一ヵ月余にわたって敵に占領された。三月末、湖南省南部で失敗し、四月に朱徳《チュートー》、毛沢東の両部隊と湖南省南部の農民軍は寧岡まで撤退してふたたび省境地区の割拠をはじめた。
 四月以後の湖南・江西省境地区での割拠は、ちょうど中国南部の支配勢力が一時的に安定したときであったので、湖南、江西両省から「討伐」に派遣された反動軍隊は、少ないときでも八、九コ連隊、多いときには十八コ連隊にたっした。ところが、われわれは、四コ連隊たらすの兵力で、四ヵ月ものあいだ敵とたたかい、割拠地区を日一日とひろげ、土地革命を日一日とふかめ、民衆の政権を日一日とおしひろげ、赤軍と赤衛隊を日一日と拡大した。その原因は省境地区の党(地方の党組織と軍隊の党組織)の政策が正しかったことにある。当時、省境地区特別委員会(毛沢東が書記)と軍事委員会(陳毅《チェンイー》が書記)の政策はつぎのとおりである。すなわち、逃走主義に反対し、だんこ敵とたたかって、羅霄《ルオシァオ》山脈の中部地域に政権をつくること、割拠地区の土地革命をふかめること、軍隊の党組織は地方の党組織の発展をたすけ、軍隊の武装組織は地方の武装組織の発展をたすけること、敵の支配勢力の比較的つよい湖南省にたいしては守勢をとり、支配勢力の比較的よわい江西省にたいしては攻勢をとること、氷新県の発展に大きな力をそそぎ、大衆的割拠をつくりだし、長期闘争の体勢をととのえること、敵から各個撃破されないように兵力の分散に反対し、赤軍を集中し機会をとらえて当面の敵を迎えうつこと、割拠地区の拡大については、暴進政策に反対し、波状的におしすすめる政策をとることである。これらの戦術が適切であったうえに、省境地区の地形が闘争にとって有利であり、進撃してきた湖南、江西両省の軍隊の足並みが完全にはそろっていなかったために、四月から七月までの四ヵ月間の何回もの軍事的勝利と大衆的割拠の発展がえられた。敵はわが軍に数倍しながら、この割拠をうちやぶることができなかったばかりでなく、割拠の発展を阻止することもできなかった。この割拠が湖南、江西両省にあたえる影響は、ますます拡大するいきおいにある。八月の失敗は、まったく、一部の同志がそのころちょうど支配階級が一時的な安定の時期にあったことを理解しないで、逆に支配階級が分裂している時期にとる政策をとり、兵力をわけて湖南省南部に暴進したためであり、それで省境地区と湖南省南部はどちらも失敗してしまった。湖南省委員会代表杜修経《トウシウチン》と省委員会から省境地区特別委員会書記として派遣されてきた楊開明《ヤンカイミン》は、反対意見を堅持していた毛沢東、宛希先《ワンシーシェン》らが遠く氷新にいっているすきに、当時の環境をみきわめず、湖南省委員会の主張には同意しないという軍事委員会、省境地区特別委員会、永新県委員会の合同会議の決議を無視し、ただ湖南省南部にいけという湖南省委員会の命令を形式的に執行することしか知らず、赤軍第二十九連隊(その成員は宜章《イーチャン》県の農民)が闘争から逃避して郷里に帰りたがっている気分に追随したので、省境地区と湖南省南部の両方面での失敗をまねいた。
 もともと、七月中旬には、湖南省の敵第八軍呉尚《ウーシャン》部隊が寧岡県に侵入し、さらに永新県に進出してきたが、戦いにならず(わが軍は間道から出撃したが遭遇せず)、わが方の大衆をおそれ、あわただしく蓮花県をとおって茶陵県にひきかえしていった。このとき、赤軍の大部隊はちょうど寧岡県から卸県、茶陵県にむかって進撃し、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県で計画を変更して湖南省南部の方に向きをかえた。一万、江西省の敵の第三軍王均《ワンチュイン》・金漢鼎《チンハイティン》部隊の五コ連隊、第六軍胡文斗《ホーウェントウ》の六コ連隊が、協力してまた氷新県を攻撃してきた。このとき永新県にいたわが軍は一コ連隊にすぎなかったが、広範な大衆にまもられて、四方八方から遊撃するやりかたで、この十一コ連隊の敵軍を永新県の県都付近三十華里Aのなかに、二十五日ものあいだ封じこめた。最後に敵の猛攻撃で、永新県をうしない、ついでまた蓮花県、寧岡県をうしなった。このとき、江西省の敵に突然内部紛争がおこり、胡文斗の第六軍はあたふたと退却し、そしてすぐに樟樹《チャンシュー》鎮で王均の第三軍と戦争になった。残りの江西省部隊の五コ連隊も、またあたふたと永新に退却していった。もし、わが大部隊が湖南省南部にいかずにいたら、この敵を撃破して、割拠地区を吉安《チーアン》、安福《アンフー》、萍郷《ピンシァン》の各県にまでおしひろめ、平江《ピンチァン》県、瀏陽《リウヤン》県と一つにつなぐこともまったく可能であった。大部隊はすでにおらず、わが一コ連隊の兵士も疲れはてていたので、一部の部隊を残して袁・王両部隊とともに井岡山を守らせ、わたしが一部の兵をひきいて桂東《コイトン》の方向にすすみ、大部隊の帰りをむかえることにきめた。このとき、大部隊はすでに湖南省南部から桂東にむけて撤退しており、八月二十三日にわれわれは桂東で合流することができた。
 赤軍の大部隊が七月中旬、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県についたばかりのとき、第二十九連隊の将兵たちは、政治的に動揺して、湖南省南部の郷里に帰りたがり、いうことをきかなくなっていた。第二十八連隊は湖南省南部にいくことに反対し、江西省南部にいきたがっていたが、といって永新県に帰ることはのぞまなかった。杜修経が第二十九連隊のまちがった意見を助長し、軍事委員会もこれを阻止することができなかったので、大部隊はついに七月十七日に都県を出発して[林+”おおざと”]県にむかい、七月二十四日には敵の范石生《ファンシーション》と[林+”おおざと”]県で戦って、はじめは勝ったがのちには敗れ、戦闘から兵をひいた。そこで、第二十九連隊はすぐ勝手な行動をとり、郷里の宜章県へむかって逃亡した。その結果は、一部は楽昌《ローチャン》県で匪賊《ひぞく》胡鳳章《ホーフォンチャン》に消滅され、他の一部は[林+”おおざと”]県、宜章県の各地にちらばって、ゆくえがわからず、その日に収容したものは百人たらずであった。さいわいに、主力の第二十八連隊は損失がすくなく、八月十八日に桂東を占領した。二十三日、井岡山からきた部隊と合流し、崇義《チョンイー》県、上猶《シャンヨウ》県をへて、ふたたび井岡山に帰ることを決議した。崇義県についたとき、大隊長袁祟全《ユァンチョンチュアン》が歩兵一コ中隊と砲兵一コ中隊をひきつれて裏切った。この二コ中隊は追いかけてつれもどしはしたが、連隊長王爾琢《ワンアルチュオ》はその犠牲になった。八月三十日、敵の湖南、江西両軍のそれぞれの一部隊は、わが軍が帰る途中にあるとき、井岡山に攻撃をくわえてきた。わが守備部隊は一コ大隊にもたちなかったが、要害によって抵抗し、敵を撃破して、この根拠地を保持した。
 このたびの失敗の原因はつぎの点にある。(1)一部の将兵が動揺し、郷里に帰りたがって、戦闘力をうしなったこと。また一部の将兵が湖南省南部にいきたがらず、積極性を欠いていたこと。(2)真夏の遠征で兵が疲れきっていたこと。(3)[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県から数百華里も暴進して、省境地区との連絡をうしない、孤立におちいったこと。(4)湖南省南部の大衆がまだ立ちあがっておらず、単純な軍事的冒険となったこと。(5)敵情が不明であったこと。(6)準備がわるくて、将兵が作戦の意義を理解していなかったこと。


前へ  目次へ  次へ