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     六 軍事根拠地の問題

 省境地区の党には、もう一つの任務がある。すなわち大・小の五井〔12〕と九隴との二つの軍事根拠地をかためることである。水新、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]《リン》県、寧岡、遂川《スイチョワン》の四県の境にある大・小の五井山区と、水新、寧岡、茶陵《チャーリン》、蓮花《リェンホワ》の四児の境にある九隴川区のこの地形の有利な一つの他方、とりわけ民衆からの支持もあり、地形もきわめて険要な大・小の五川は、現在、省境地区での重要な軍事根拠地であるばかりでなく、湖南、湘北、江西三省で暴動が発展する将来においても、やはり重要な軍事根拠地になる。この根拠地をかためる方法は、第一に、完備した陣地をきずくこと、第二に、十分な食糧をたくわえること、第三に、比較的よい赤軍病院をつくることである。この三つのことを着実になしとげることが、省境地区の党の努力しなければならない点である。




〔1〕 毛沢東同志かここでさしているのは、民族ブルジョア階級のことである。毛沢東同志は、一九三五年十二月に書いた『日本帝国主義に反対する戦術について』および、一九三九年十一月に書いた『中国革命と中国共産党』という論文のなかで、買弁ブルジョア階級と民族ブルジョア階級の区別についてくわしく説明している。
〔2〕 蒋派とは蒋介石派をさす。桂派とは広西省軍閥の李宗仁、白崇禧派をさす。馮派とは馮玉祥派をさす。閻派とは山西省軍閥の閻錫山脈をさす。かれらは連合して張作霖と戦い、一九二八年六月、北京と大和を占領した。
〔3〕 張作霖は奉天系軍閥の首領である。一九二四年、呉佩孚が第二次直奉戦争でやぶれてからは、張作霖が中国北部でもっとも勢力のある軍閥になった。一九二八年、かれは呉佩孚と連合して北京を占拠した。一九二八年六月、北京から東北地方に退去する途中、これまでかれを道具として利用してきた日本帝国主義者によって爆死させられた。
〔4〕 一九二八年五月三日、日本侵略者が済南を占領し、蒋介石が恥しらずにもおおっぴらに日本と妥協すると、かつて一九二七年の反革命クーデターに追随した民族ブルジョア階級の一部は、自分たちの利益のため、したいに蒋介石政権にたいする在野反対派を形成するようになった。当時、汪精衛、陳公博らの投機的な反革命の政派は、この運動のなかでうごきまわり、国民党内のいわゆる「改組派」を形成した。
〔5〕 一九二八年、蒋介石は日本帝国主義の支持のもとに、北上して張作霖を攻撃した。日本帝国主義は、英米勢力の北部にのびるのをはばむため出兵して、山東省の省都済南を占領し、津浦鉄道(天津―浦口)をたちきった。五月三日、日本侵略軍は済南で数多くの中国人を虐殺した。これを「済南虐殺事件」という。
〔6〕 中国赤色政権の組織形態は、ソビエト政権に似ている。ソビエトとは代表者会議のことで、ロシアの労働者階級が一九〇五年の革命のときにつくりだした一種の政治制度である。レーニンとスターリンはマルクス主義の理論から出発して、ソビエトの共和国が、資本主義から社会主義への過渡期におけるもっとも適切な社会政治組織形態だという結論をひきだした。一九一七年、ロシアの十月社会主義革命は、レーニンとスターリンのボリシェビキ党の指導のもとに、世界ではじめてプロレタリア独裁の社会主義のソビエト共和国をうちたてた。中国では、一九二七年に革命が失敗したのち、中国共産党が毛沢東同志を先頭として指導した各地の人民大衆の革命蜂起は、代表者会議をもって民衆政権の形態とした。しかし、中国のこの革命段階では、こうした政権の性質は、プロレタリア階級の指導する反帝、反封建の新民主主義革命の人民民主主義独裁であり、ソ連のプロレタリア独裁の政治権力とは区別される。
〔7〕 第二次世界大戦中、もとイギリス、アメリカ、フランス、オランダなどの帝国主義の支配下にあった東方の多くの植民地は、日本帝国主義者に占領された。それらの植民地の労働者、農民、都市小ブルジョア階級の大衆と民族ブルジョア分子は、共産党の指導のもとに、イギリス、アメリカ、フランス、オランダなどの帝国主義と日本帝国主義との矛盾を利用して、ファシストの侵略に反対する広範な統一戦線を結成し、抗日根拠地をうちたて、苦難にみちた抗日遊撃戦争をすすめて、第二次世界大戦前の政治情勢を転換させはじめていた。第二次世界大戦が終わって、日本帝国主義が追いだされると、アメリカ、イギリス、フランス、オランダなどの帝国主義は、もとの植民地支配をつづけようとしたが、各植民地の人民は、すでに抗日戦争のなかで、相当な力をもつ武装勢力をきたえあげていて、これまでのような状態には甘んじなくなった。しかも、ソ連が強大になっていたこと、アメリカをのぞくすべての帝国主義国が、戦争中あるものはうちたおされ、あるものはよわめられていたこと、さらに中国革命の勝利が中国における帝国主義の戦線をつきやぶったこと、こうしたことによって、帝国主義制度全体はすでに世界的に大きくゆらいでいた。こうして、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの各植民地、および半植民地の人民も、だいたい中国とおなじように、大小さまざまの革命根拠地と革命政権をもちこたえることができ、農村をもって都市を包囲する革命戦争を長期にわたって堅持することができ、さらにそこから一歩一歩おしすすめて、都市をうばい、その植民地と半植民地で全国的な範囲での勝利をかちとることができるようになった。こうした新しい情勢にもとづいて、帝国主義の直接支配する植民地の条件のもとでという、この問題についての毛沢東同志の一九二八年の観察は、すでにあらためられている。
〔8〕 これは、一九二七年、蒋介石、汪精衛があいついで革命を裏切ったのち、各地の人民が共産党の指導のもとで最初におこした反革命勢力にたいする反撃行動をさす。広州では、一九二七年十二月十一日、労働者と革命的な兵士が連合して蜂起し、人民の政権をうちたてて、帝国主義の直接援助のもとにあった反革命軍隊にたいして、はげしい戦闘をおこなったが、力の差があまりに大きかったため、この人民の蜂起は失敗した。広東省東部沿海の海豊・陸豊県などの農民は、一九二三年から一九二五年にかけて、共産党員彭湃同志の指導のもとで、強大な運動をおこし、反革命派陳炯明にたいする広州国民革命軍の二回にわたる東征の勝利に、大きな援助をあたえた。一九二七年四月十二日、蒋介石が革命を裏切ると、この地方の農民は、四月、九月、十月の前後三回にわたって蜂起し、海豊、陸豊一帯に革命政権をうちたて、一九二八年四月までもちこたえていた。湖南省東部では、一九二七年九月、蜂起した農民が瀏陽、平江、醴陵、株州の各県一帯を占拠したことがある。それとおなじときに、湖北省東北部の孝感、麻城、黄安などの県でも、数万の農民が武装蜂起し、三十数日間黄安県の県郡を占領した。湖南省南部では、一九二八年一月、宣章、[林+”おおざと”]州、耒陽、永興、資興などの諸県で蜂起した農民が、三ヵ月ものあいだ、革命政権をうちたてたことがある。
〔9〕 赤衛隊とは革命根拠地の大衆の武装組織のことである。赤衛隊の隊員は平常、生産に従事している。
〔10〕 羅霄山脈は、江西省と湖南省の省境にある大きな山脈で、井岡山はその中部にある。
〔11〕 毛沢東同志がここでいっている小ブルジョア階級は、農民以外の手工業者、小商人、さまざまな自由職業者および小ブルジョア階級出身の知識層のことである。中国では、これらの社会構成要素はおもに町にあるが、農村でもかなりの数をしめている。『中国社会各階級の分析』を参照。
〔12〕 大・小の五井山区というのは、江西省西部の永新、寧岡、遂川、湖南省東部の[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県の四県にまたがる井岡山のことをさす。井岡山には、大井、小井、上井、中井、下井というところがあるからである。
訳注
@ 湖南・江西省境地区とは、一九二七年十月、毛沢東同志が秋収蜂起の部隊をひきいて井岡山についてからうちたてた、中国最初の農村革命根拠地である。こうした革命根拠地は、プロレタリア階級の指導のもとに、労農同盟に依拠し、革命武装組織によってうちたてられたため、「労農武装割拠」ともよばれた。これらの革命根拠地は、最初はいずれも、いくつかの省の境界地区につくられたので、「省境地区」とよばれ、のちには「辺区」とよばれた。抗日戦争の時期には、共産党の指導する軍隊がうちたてたこのような革命根拠地は、「抗日根拠地」とよばれ、「辺区」ともよばれ、「解放区」ともよはれた。第三次国内革命戦争の時期になると、こうした革命根拠地は、一般に「解放区」とよばれた。
A 省境地区特別委員会とは、中国共産党湖南・江西省境地区特別委員会をさし、当時、省委員会と県委員会の中間段階にある党機関であった。軍事委員会とは、湖南・江西省境地区労農赤軍第四軍の党の軍事委員会のことで、軍隊内の党の最高指導機関であり、同時に、省境地図軍事委員会として、省境地区赤軍および地方武装組織を指揮した。
B 本巻の『湖南省農民運動の視察報告』訳注Dを参照。


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