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     十四の大きなことがら

 一般に農会を非難するものは、農会がたくさん悪いことをしたといっている。わたしがさきに指摘したように、農民が土豪劣紳をやっつけることは、完全に革命的な行為であって、非難されるようなことはなにもない。しかし、農民がやったことはたくさんあるので、人びとの非難に答えるために、われわれは、農民のやったすべての行動についてこまかく点検し、かれらがいったいどういうことをやったのかを一つ一つ見ていかなければならない。わたしは、この数ヵ月来の農民の行動を分類し、まとめてみたが、農民は、農民協会の指導のもとで、あわせて十四の大きなことがらをやっている。それはつぎのとおりである。


   第一 農民を農会に組織したこと

 これは農民のやった第一の大きなことがらである。湘潭、湘郷、衡山のような県では、ほとんどすべての農民が組織され、どんな「片すみ」にいる農民でも、立ちあがらないものはほとんどいない、これが第一級。いくつかの県では、農民の大部分は組織されているが、まだ一部分が組織されていない。益陽《イーヤン》、華容《ホワロン》などの県、これが第二級。いくつかの県では、農民の小部分が組織されていて、大部分はまだ組織されていない。城歩《チョンプー》、零陵《リンリン》などの県、これが第三級。湖南省西部一帯は、袁祖銘《ユァンツーミン》〔13〕の勢力下にあり、農会の宣伝がまだはいっていないので、多くの県の農民はまだぜんぜん組織されていない、これが第四級。だいたい、長沙を中心とする湖南省中部の各県がもっとも発展しており、湖南省南部の各県がそれにつぎ、湖南省西部では組織しはじめたばかりである。昨年十一月の省農民協会の統計によると、全省七十五県のうち、三十七県には組織があり、会員数は百三十六万七千七百二十七人である。この数字のうち、約百万人は、農会の勢力が非常にさかんになった昨年十、十一月の二ヵ月間に組織されたものであって、九月以前にはまだ三、四十万人にすぎなかった。いまはまた、十二月、一月の二ヵ月をへており、農民運動は大きく発展しつつある。一月末までに、会員数は、すくなくとも二百万にはたっしたであろう。入会するとき、たいてい一戸で一人しか登録しないから、一戸あたり五人家族とみても、大衆はおよそ一千万人いる。このようなおどろくばかりの加速度的発展が、すべての土豪劣紳、汚職官吏を孤立させ、以前といまとではまるで別の世界だと世間をおどろかせ、農村で大革命をつくりだした原因になっている。これは、農民が農民協会の指導のもとでおこなった第一の大きなことがらである。


   第二 政治的に地主に打撃をあたえたこと

 農民が組織をもつようになってからとった最初の行動は、政治的に、地主階級、とくに土豪劣紳の威光をたたきおとすこと、すなわち、農村の社会的地位から地主の権力をたたきおとし、農民の権力をおしあげることであった。これは、きわめて重大な、重要な闘争である。この闘争は、第二の時期、すなわち革命の時期の中心的な闘争である。この闘争に勝利しなければ、小作料や利子の引きさげ、土地やその他の生産手段の要求などのいっさいの経済闘争も、けっして勝利するみこみはない。湖南省の多くの地方、たとえば湘郷、衡山、湘潭などの県では、地主の権力が完全にくつがえされ、農民による唯一の権力が形成されているから、もちろん問題はない。ところが、醴陵などの県の、まだ一部の地区(たとえば醴陵の西部と南部の二区)では、表面的には地主の権力が農民の権力よりもよわいが、実際には、政治闘争がはげしくないために、地主の権力がまだひそかに農民の権力に対抗している。こうしたところでは、まだ農民が政治的勝利をおさめたとはいえず、地主の権力が農民によって完全にうちたおされてしまうまで、政治闘争にもっと力をそそがなければならない。農民が政治的に地主に打撃をくわえる方法をまとめてみると、つぎのようないくつかのものがある。
 清算――土豪劣紳は地方の公金をとりあつかっていたが、たいていのものがそれを横領し、帳簿はでたらめである。こんど農民は、清算という問題をもちだして、多くの土豪劣紳をたたきふせた。多くの地方は清算委員会をつくり、もっぱら土豪劣紳にたいして勘定のかたをつけさせた。土豪劣紳は、このような機構をみるとふるえあがった。このような清算運動は、農民運動のおこっている県では、いたるところでやられているが、その意義は、金をとりかえすことよりも、土豪劣紳の罪状を公表して、土豪劣紳の政治的地位と社会的地位をたたきおとすことにある。
 罰金――清算の結果、不正行為とか、かつて農民を食いものにした悪行があったとか、げんに農会を破壊する行為があるとか、ばくちの禁止にそむいているとか、アヘンのきせるを差しださないとかいうようなことが摘発された。こうした罪名のもとで、農民は、土豪のだれには罰金いくら、劣紳のだれには罰金いくら、というぐあいに、数十元から数千元までの罰金を課することを決議する。農民から罰せられたものは、もちろん面目まるつぶれである。
 寄付金――金のためには血も涙もない地主から寄付金をとって、貧民の救済、協同組合の設立、農民資金貸付所の設立、その他の費用にあてる。寄付金も一種の懲罰であって、罰金より軽いだけである。地主のなかには、難をのがれるために、自分の方から農会に寄付金を出すものもすくなくない。
 軽い詰問――農会を破壊するような言動があったもので、その罪状がわりに軽いものにたいしては、おおぜいの人をあつめてその家におしかけ、あまりきつくない詰問をする。さいごは、多くのばあい、「始末書」を書かせ、こんご農会の名誉を傷つけるような言動はしない、とはっきり書かせて、ことをすませる。
 大デモ――大衆をひきつれて、農会をかたきにしている土豪劣紳にデモをかけ、かならず豚をつぶさせ、米をださせ、その家で飯を食う。このようなことはすくなくない。最近、湘潭県馬家河《マーチァホー》では、一万五千の大衆をひきつれて、六人の劣紳を糾弾し、それが四日間もつづき、豚百三十余頭をつぶさせたことがあった。デモのあとでは、たいてい罰金をとる。
 三角帽子をかぶせて村をひきまわす――このようなことは、各地でさかんにやられている。土豪劣紳に紙でつくった三角帽子をかぶせる。その帽子には、土豪なにがし、あるいは劣紳なにがし、というように書きつけてある。なわでひっぱりながら、前後をおおぜいの人がとりまいていく。なかにはドラを鳴らしたり、のぼりをおし立てたりして、人目をひくようにするのもある。このような処罰は、土豪劣紳をいちばんふるえあがらせる。いちど三角帽子をかぶせられると、体面はまるつぶれになり、人まえに出られなくなる。だから、金持ちの多くは三角帽子をかぶるより罰金のほうをのぞむ。しかし、農民がききいれないときは、やはりかぶらなければならない。ある郷農会のやり方はなかなかうまかった。ひとりの劣紳をつかまえてきて、きょう三角帽子をかぶせるといいわたす。すると劣紳はすっかりおびえて青くなる。ところが、農会では、きょうは三角帽子をかぶせないと決議する。きょう帽子をかぶせてしまうと、その劣紳は観念して、処罰をおそれなくなるので、むしろ後日かぶせることにして、釈放したほうがよいからである。すると、その劣紳は、いつ三角帽子をかぶせられるかわからないので、まいにち家にいても気が気でなく、いても立ってもいられなくなる。
 県の監獄にいれる――これは三角帽子をかぶせるのよりもっと重い処罰である。土豪劣紳をつかまえ、県庁の監獄につれていって拘留し、知事に処罰させる。いま監獄に拘留しているものはまえとちがう。まえには顔役が農民をつれていって拘留したが、いまでは農民が顔役をつれていって拘留している。
 追放――土豪劣紳のうち罪悪のめだっているものにたいしては、農民はかれらを追放するどころか、つかまえたり、殺したりしようとする。かれらは、つかまえられたり、殺されたりするのをおそれて逃げだす。おもだった土豪劣紳は、農民運動のすすんでいる県では、ほとんどみな逃げてしまったので、追放されたのとおなじ結果になっている。かれらのうち、一流どころは上海に逃げ、二流どころは漢□に逃げ、三流どころは長沙に逃げ、四流どころは県都に逃げた。これらの逃げた土豪劣紳のうちでも、上海に逃げたものがいちばん安全である。漢□に逃げたものは、華容県の三人の劣紳のように、結局、つかまってつれもどされる。長沙に逃げたものは、なおさら、各県からここに勉強にきている学生たちにいつつかまえられるかわからない。げんに、わたしは長沙で二人つかまったのをこの目で見た。県都に逃げたものは、格からいっても四流であり、農民には目や耳がたくさんあるからみつかりやすい。湖南省政府は財政難をきたしたが、財政当局は、それを農民が金持ちを追放したため、金あつめがむずかしくなったことのせいにしている。このことからも、土豪劣紳がどれほど郷里にいられなくなっているかの一端がわかる。
 銃殺――これはかならず大土豪劣紳にかぎられ、農民が各界の民衆と共同してやるものである。たとえば、寧郷県の楊致沢、岳陽《ユエヤン》県の周嘉淦《チョウチアカン》、華容県の傳道南《フータオナン》、孫伯助《スンポーチュー》らは、農民と各界の人民が政府を督促して銃殺させた。湘潭県の晏容秋については、農民と各界の人民が、監獄からだすことをむりやりに県長に同意させ、農民自身の手で銃殺にした。寧郷県の劉昭《リウチャオ》は、農民が直接に殺した。醴陵県の彭志蕃《ポンチーファン》、益陽県の周天爵《チョウティエンチュエ》、曹雲《ツァオユイン》は、いま「土豪劣紳裁判特別法廷」の判決と死刑執行をまつばかりとなっている。このような大劣紳、大土豪は、そのひとりを銃殺するだけで、全県を震かんさせ、封建制の余毒を一掃するうえできわめてききめがある。このような大土豪劣紳は、各県に多いところで数十人、すくないところでも数人はいる。各県ですくなくとも何人かの、罪のもっとも重い、極悪のものを死刑にすることこそ、反動派を弾圧する効果的な方法である。土豪劣紳は勢いがさかんなときには、農民を殺すことなどまったくなんともおもっていなかった。長沙県新康《シンカン》鎮の団防局E長何邁泉《ホーマイチュアン》は、団の仕事を十年やっているあいだに、「匪賊《ひぞく》処決」という美名のもとで貧しい農民を千人ちかく殺した。わたしの郷里、湘潭県銀田《インティエン》鎮の団防局長湯峻岩《タンチュインイェン》、羅叔林《ルオチューリン》の二人は、一九一三年いらい十四年間に五十余人を殺し、四人を生きうめにした。殺された五十余人のうち、最初に殺された二人はなんの罪もないこじきであった。湯峻岩は、「こじき二人を殺して店びらきにしよう!」といった。この二人のこじきは、こうして一命をたたれた。これまで、土豪劣紳の残忍さや、かれらが農村でやった白色テロはこのようであったのに、いま農民が立ちあがって土豪劣紳の何人かを銃殺し、反革命分子を弾圧するほんのわずかな恐怖現象をつくりだしたからといって、これを不当だという理由がどこにあろうか。


   第三 経済的に地主に打撃をあたえたこと

 米穀の県外持ちだし禁止、米価のつりあげ禁止、買いだめ投機の禁止  これはここ数ヵ月来湖南省の農民がやった経済闘争での大きなことの一つであった。昨年十月から現在まで、貧農は、地主や富農が米穀を県外に持ちだすのを阻止するとともに、米価のつりあげや米の買いだめ投機を禁じている。その結果、貧農の目的は完全にたっせられ、米の持ちだしは、水ももらさぬほどきびしく阻止され、米価は大幅にさがり、買いだめ投機はあとを絶った。
 小作料と小作保証金の増額禁止、小作料と小作保証金引きさげの宣伝――昨年七、八月ごろ、農会の勢力がまだよわかった時期には、地主たちは、依然としてしぼれるだけしぼるという昔からのしきたりにしたがって、小作料と小作保証金をどうしても増額すると、どれもこれも小作人に通知してきた。ところが、十月になると、農会の勢力が大きくなり、小作料と小作保証金の増額にこぞって反対するようになったので、地主は、もう小作料と小作保証金の増額についてはなにもいいだせなくなった。十一月以後になると、農民の勢力が地主の勢力を圧倒するようになったので、農民は、さらにすすんで、小作料と小作保証金の引きさげを宣伝しだした。農民は、昨年の秋、小作料をおさめるころには残念ながら農会がまだよわかった、でなかったら、昨年の秋にはもう小作料引きさげができたのに、といっている。ことしの秋の小作料引きさげについて、農民はいまさかんに宣伝しており、地主たちもまた、小作料引きさげの方法についてききにきている。小作保証金の引きさげの方は、いま衡山などの県ですでにおこなわれている。
 土地取りあげの禁止――昨年の七、八月ごろにはまだ、地主は小作人いれかえのための土地取りあげをさかんにやった。十月以後になると、もう土地取りあげをやれるものはいなくなった。いまでは、小作人いれかえのための土地取りあげは、ぜんぜん問題にならなくなったが、すこし問題になるのは、自作のための土地取りあげだけである。ところによっては、地主が自作のために土地を取りあげようとしても、農民はゆるさない。またところによっては、地主が自作するばあいは、土地の取りあげをゆるしているが、しかし、同時に小作人の失業の問題がおきている。この問題には、まだ一致した解決策がない。
 利子の引きさげ――利子引きさげは安化県では全県にわたっておこなわれているが、ほかの県でも利子引きさげがみられる。ところが、農会の勢力がさかんなところでは、地主が「共産」をおそれて、完全に、「貸借ごめん」をやっているので、農村には、ほとんど貸しつけがなくなっている。このばあい、利子の引きさげというのは、旧債にかぎられている。旧債については、利子を引きさげるばかりでなく、元金でさえ、貸し主のむりなとりたてをゆるさない。貧農はこういっている。「まあそういうな、不作だから、来年にしてくれ。」


   第四 土嚢劣紳の封建的支配をくつがえした
       ――都、団〔14〕をうちたおしたこと

 ふるい型の都、団(すなわち区、郷)の政権機関は、とくに都、すなわち県にちかい段階では、ほとんど完全に土豪劣紳ににぎられていた。「都」が管轄している人口は一万から五、六万で、団防局のような独立した武装組織をもち、土地付加税〔15〕などのような独立した財政徴収権や、勝手に農民を逮捕、監禁、訊問、処罰する独立した司法権をもっていた。このような機関にいる劣紳は、まったく村の王さまであった。農民は、政府、たとえば総統や督軍〔16〕や県長Fらにたいしては、わりに無関心であったが、こうした村の王さま連中こそ、ほんとうにかれらの「目上」であり、かれらが鼻先でふんといっただけでも、これはよほど気をつけなければならないことだと知っていた。こんど農村でむほんがおこった結果、地主階級の威光はいたるところでたたきおとされ、土豪劣紳の牛耳っていた郷の政権機関は、それにつれて自然につぶれてしまった。都や団の長官はひっこんで表面には出なくなり、地方のことの処理はすべて農民協会の方へおしやった。かれらの逃げ口上はこうである。
 「よけいなことには手をださない!」
 農民たちはいろいろと取りざたしていて、はなしが都や団の長官のことになると腹をたてていう。
 「あんなものは、無用の長物だ!」
 「無用の長物だ」ということばは、革命の波に洗われた地方のふるい型の郷の政権機関を的確に描きだしている。


   第五 地主の武装組織をくつがえし、最民の武装組織をうちたてたこと

 湖南省の地主階級の武装組織は、中部にはわりあいすくなく、西部と南部にはわりあい多かった。一県平均六百ちょうの銃をもっているとすれば、七十五県で合計四万五千ちょうの銃をもっていることになるが、実際にはそれより多いかもしれない。農民運動の発展している中部と南部の地域では、農民の立ちあがりかたが非常にはげしかったので、地主階級は、たちうちできなくなり、その武装勢力は、大部分が農会に降伏して、農民の利益の側に立っている。たとえば、寧郷、平江、瀏陽、長沙、醴陵、湘潭、湘郷、安化、衡山、衡陽などの県がそうである。小部分は中立的な立場に立っているが、それも降伏に傾いている。たとえば宝慶《パオチン》県などがそれである。他の小部分は農会と敵対する立場にたっている。たとえば宜章《イーチャン》、臨武《リンウー》、嘉禾《チアホー》などの県がそうである。しかし、農民がいまそれに打撃をくわえているので、まもなく、その勢力を一掃することができるであろう。このようにして反動的な地主の手からうばいとった武装組織は、すべて「挨戸団《アイホートワン》常備隊」〔17〕にあらためられ、新しい農村自治機関――農民政権としての農村自治機関の管理のもとにおかれる。このようなふるい武装組織をうばいとることは、農民の武装組織を建設する一つの面である。農民の武装組織を建設するには、もう一つの新しい面がある。すなわち農会のほこ隊がそれである。ほこ――これは長い柄のさきにもろ刃の剣をつけたもので、湘郷一県だけで十万本もある。その他の各県、たとえば湘潭、衡山、醴陵、長沙などでも、それぞれ七、八万本、五、六万本、三、四万本はもっている。農民運動がおこっている各県では、どこでもほこ隊が急速に発展している。このようなほこをもっている農民は、「挨戸団非常備隊」となる。こうした広範なほこ隊の勢力は、さきにのべたふるい武装勢力よりも大きく、すべての土豪劣紳を一目でふるえあがらせる新興の武装力である。湖南省の革命当局は、七十五県二千余万の農民のあいだにこのような武装力を、いたるところで確実にうちたて、青壮年の農民一人びとりに一本ずつほこをもたせるべきで、人がこわがるからといって、制限するようなことがあってはならない。もし、このほこ隊にきもをつぶすものがあれば、それこそ腰ぬけというものだ。それを見てこわがるのは土豪劣紳だけで、革命派はけっしてこわがるべきではない。


   第六 県のお偉方から木端役人までの政権をくつがえしたこと

 県の政治は、農民が立ちあがることによってはじめて浄化されることが、すでに広東省海豊《ハイフォン》県で証明された。こんどは湖南省で、とくに十分に証明されている。土豪劣紳が権力をにぎっている県では、だれが知事になっても、ほとんどが汚職官吏になる。農民がすでに立ちあがった県では、だれがなろうと、みな廉潔な政府になる。わたしがいったいくつかの県では、知事はことあるごとに、まず農民協会の意見をきく。農民の勢力が非常にさかんな県では、農民協会のいうことは、じつに「霊験あらたか」である。農民協会が土豪劣紳を朝のうちにつかまえるといえば、知事はそれを正午までひきのばしきれないし、正午につかまえるといえば、午後までのばしきれない。農民の権力が村でもりあがりはじめたころは、知事は土豪劣紳とぐるになって、いっしょに農民に立ちむかった。農民の権力がもりあがって地主の権力と肩をならべるようになると、知事は、地主と農民のどちらにたいしても、ばつをあわせるような態度をとり、農民協会のいうことも、一部はこばみ、一部はうけいれるようになった。さきに、農会のいうことが霊験あらたかだとのべたが、それは地主の権力が農民の権力によって完全にうちたおされてからのことである。現在、湘郷、湘潭、醴陵、衡山などの県の政治状況はつぎのとおりである。
 (一) すべてのことが県長と革命的な民衆団体との合同会議できまる。このような会議は、県長が招集し、県庁でひらかれる。いくつかの県ではそれを「官民団体合同会議」とよび、県によってはそれを「県務会議」とよんでいる。出席する人は、県長のほかに県農民協会、県労働組合連合、県商業協会、県婦人連合会、県教職員連合会、県学生連合会および国民党県党部〔18〕の代表たちである。このような会議では、各民衆団体の意見が県長を左右し、県長は万事いわれたとおりにするだけである。だから、湖南省で民主的な委員制の県政治組織を採用しても、問題はないはずだ。現在の県政府は、形式も実質も、すでに相当民主的になっている。このような情勢になったのは、最近二、三ヵ月のことで、つまり、農民が四方の村から立ちあがって、土豪劣紳の権力をうちたおしてからのことである。知事は、これまでのうしろだてがたおれたのを見て、官職を保つために別のうしろだてをさがさなければならなくなり、そこで、民衆団体のご機嫌をうかがいはじめ、さきにのべたような局面に変わったのである。
 (二) 担当判事のあつかう事件がなくなった。湖南省の司法制度では、まだ知事が司法を兼掌し、担当判事が知事をたすけて事件を審理している。知事とその補佐役がふところをこやすのは、もっぱら、公租のとりたてや公課の割りあて、軍隊のための壮丁や糧秣《りょうまつ》のかりあつめ、それに民・刑事訴訟のうえで日を黒としてのゆすりなどのやり方によっている。とくにあとのものは、恒常的な確実な財源である。ここ数ヵ月らい、土豪劣紳がたおれたので、三百代言もなくなった。また、農民のことは、大小にかかわりなく、すべて、各段階の農会で処理される。だから、県庁の担当判事は、まったくやることがなくなった。湘郷県の担当判事はわたしにいった。「農民協会がなかったころ、県庁は一日平均六十件の民・刑事訴状を受けつけていたが、農会ができてからは、一日平均四、五件しかない」これでは、知事とその補佐役どものさいふも、からっぽになるほかはない。
 (三)警備隊、警察、下役人はみんななりをひそめ、村にいってゆすりやたかりをやれなくなった。以前は田舎の人が町の人をこわがっていたが、いまは町の人が田舎の人をこわがっている。とくに、県政府が飼っていた警察、警備隊、下役人などの犬どもは、村にいくのをこわがり、村にいっても、もうゆすりやたかりをやれなくなった。かれらは農民のほこを見るとふるえあがる。


   第七 祖先廟・族長の族権、県と村の守り神の神権および夫の男権をくつがえしたこと

 中国の男子は、ふつう三つの体系的な権力の支配をうけている。それは(一)国から省、県、郷にいたるまでの国家の体系(政権)、(二)本家の祖先廟、分家の祖先廟《びょう》から家長にいたるまでの同族の体系(族権)、(三)閻魔《えんま》大王、県の守り神から村の守り神にいたるまでの冥界《めいかい》の体系および玉皇上帝Gからよろずの神と精霊にいたるまでの神仙の体系――これを総称した神冥《しんみょう》の体系(神権)である。婦人となると、以上のべた三つの権力の支配のほかに、なお男子からの支配(夫権)をうけている。この四種類の権力――政権、族権、神権、夫権は、封建的同族支配体系の思想と制度のすべてを代表しており、中国人民、とくに農民をしばりつけているふとい四本の綱である。農民が農村でどのように地主の政権をくつがえしたかについては、まえにのべたとおりである。地主の政権はすべての権力の根幹である。地主の政権がうちたおされたので、族権、神権、夫権もみなそれにつれてぐらつきだした。農会の勢いがさかんなところでは、族長や祖先廟の公金の管理人は、もう二度と同族の末流のものを圧迫したり、祖先廟の公金を横領したりしなくなった。悪質な族長や管理人は、すでに土豪劣紳としてたたきのめされた。以前祖先廟のなかでやられた「しりたたき」「溺殺《できさつ》」「生きうめ」といった残酷な体刑や死刑は、もう二度とやれなくなった。婦人や貧乏人は祖先廟の祭りの酒盛りにでられないという昔からのしきたりも、うちやぶられた。衡山県の白果《パイクオ》というところの婦人たちは、隊をくんで祖先廟におしいり、どっかりとすわりこんで酒盛りをしたが、一族の長老たちも、かの女たちのするままにさせておくほかなかった。またあるところでは、貧農は祖先廟の酒盛りにくわわることを禁止されたので、一群の貧農たちがおしかけていって、さかんに飲んだり食ったりした。土豪劣紳やお羽織の先生方はびっくりして逃げてしまった。神権の動揺も、農民運動がすすむにつれてひろがっていった。多くのところでは、農民協会が神をまつる廟をとりあげて事務所にしている。どこの農民協会も、「迷信公金」という名目で廟の財産を引きだして農民学校をつくったり、農会の費用にあてたりすることを主張している。醴陵県では、迷信を禁止し、神仏の像をたたきこわすことがさかんにやられている。醴陵県北部各区の農民は、家の守り神(厄病はらいの神)をかついでねりあるくことを禁止した。[シ+碌のつくり]口《ルーコウ》の伏波嶺《フーポーリン》の廟内には神仏の像がたくさんあった。国民党の区党部をつくるのに部屋がたりないので、大小の神仏の像を片すみに積みあげたが、農民からはなんの苦情もでなかった。それからのちは、人が死んでも、神さまにおそなえをしたり、法事をしたり、灯明をあげたりするものは、ほとんどいなくなった。これは、農会の委員長孫小山《スンシャオシャン》がさきだちでやったので、その土地の道教の法師たちは孫小山をひどくうらんでいる。北三区の竜鳳庵《ロンフォンアン》の農民と小学校の教員は、神仏の木像をたたきわりそれで肉を煮てたべた。南区の東富寺《トンフースー》の三十何体かの神仏の像は、学生と農民がいっしょになって、みんな焼きすててしまった。ただ、そのうち「包公《パオコン》さま」Hという二つの小さな像だけは、ひとりの年とった農民にうばいさられた。「ばちあたりのことをするものではない!」とかれはいった。農民の勢力が支配的な地位をしめているところでは、神を信じるものは年とった農民と婦人だけで、青年や壮年の農民はだれも信じなくなった。農民協会は、青年と壮年の農民が権力をにぎっているので、神権の打倒や迷信の打破が、いたるところですすめられている。夫権というものは、もともと貧農のあいだでは、わりあいよわかった。貧農の婦人は、経済的な必要から裕福な階級の婦人よりもよけい労働に参加しなければならないので、家庭についての発言権ないし決定権をもつものがわりあいに多かった。近年になって、農村経済がますます破産するにつれて、男子が女子を支配する基本的な条件はくずれた。最近では、農民運動がおこると、それにともなって多くのところで、婦人たちが農村婦人連合会を組織し、婦人たちが頭をもたげる機会がやってきたので、夫権は日一日とぐらつきだした。要するに、ありとあらゆる封建的同族支配体系の思想と制度は、農民の権力がつよまるにつれてぐらついている。しかし、いまの時期では、農民は地主の政治権力をうちこわすという一点にその精根をうちこんでいる。地主の政治権力がすっかりうちこわされてしまったところになると、農民は、同族、神仏、男女関係というこの三つにたいする攻撃をはじめる。だが、このような攻撃は、いまのところは、なんといっても「序の口」で、この三つを完全にくつがえすには、農民の経済闘争がすべて勝利するのをまたなければならない。したがって、いまのところ、われわれは農民が地主の権力を徹底的にくつがえすために、全力をあげて政治闘争をやり、それにつづいて、貧農の土地およびその他の経済問題を根本的に解決するために、ただちに経済闘争をはじめるよう指導しなければならない。同族主義、迷信的な考え、不平等な男女関係の破壊は、政治闘争と経済闘争が勝利したのちにおのずからえられる結果である。もしあまり大きな力を入れて、強引に、むりにこうしたものを破壊すると、土豪劣紳はかならずそれを口実にして、「農民協会は祖先をうやまわない」とか、「農民協会は神仏をふみにじっている」とか、「農民協会は共妻を主張している」とか、といった反革命的な宣伝スローガンをもちだして、農民運動を破壊するにちがいない。湖南省の湘郷県や湖北《フーペイ》省の陽新《ヤンシン》県で、最近、神仏の像のうちこわしにたいする農民の反対を地主が利用するということがおきたのは、そのあきらかな証拠である。神仏の像は農民がまつったものだから、その時期がくれば、農民は自分たちの手で神仏の像をとりはらうだろう。はたのものがかわって、せっかちにとりはらう必要はない。こうしたことにたいする共産党の宣伝政策は、「引いて発せず、躍如たり」〔19〕でなければならない。神仏の像は農民自身にとりのぞかせるべきであり、烈女や貞女をまつった祠《ほこら》や碑も農民自身にうちこわさせるべきである。はたのものがかわってやるのは、まちがいである。
 わたしも村で農民に迷信を打破するように宣伝したことがある。わたしはこんなふうに話した。
 「生まれた時の干支《えと》による運勢を信じて好運がやってくるのをねがい、地相を信じて墓地に瑞気《ずいき》のたちこめるのをねがうというが、ことしの数ヵ月のあいだに、土豪劣紳や汚職官吏がいっせいにたおれてしまった。まさか数ヵ月まえまでは、土豪劣紳や汚職官吏はみんな好運で、墓地にも瑞気がたちこめていたのに、この数ヵ月のあいだに、突然全部が悪運にみまわれ、墓地からもいっせいに瑞気が消えたというわけでもあるまい。土豪劣紳は諸君の農会のことをこういうようにいっている。『よくしたもんだ。いまは委員の世の中だよ。どうだい、便所にいっても委員にぶつかる』たしかにそのとおり。町でも村でも、労働組合でも農会でも、国民党でも共産党でも、一つとして執行委員のいないところはない。たしかに委員の世の中である。だが、これも干支や地相のおかげだろうか。よくしたもんだ! 村のすかんぴんの干支が、いっぺんにみんなよくなった! 墓地にもいっぺんに端気がたちこめた! 神さまだって? それはありがたいものだろう。だが、農民会がなくて、ただ関帝さまや、観音さまだけで、土豪劣紳をたおすことができるだろうか。あの関帝さまや観音さまたちもあわれなもので、何百年もおがまれてきながら、諸君のために一人の土豪劣紳だってたおしてくれなかった。いま諸君は小作料の引きさげをのぞんでいるが、諸君はどんな方法でやるのかきかせてもらいたい。神さまを信じるか、それとも農民会を信じるか。」
 わたしがこういう話をしたら、農民はみな笑いだした。


   第八 政治宣伝の普及

 一万の政治法律学校をつくったからといって、現在農会がやっている政治教育のように、こうも短期間に貧しい片田舎の老若男女にまで、政治教育を普及させることができるだろうか。わたしはできないとおもう。帝国主義をうちたおせ、軍閥をうちたおせ、汚職官吏をうちたおせ、土豪劣紳をうちたおせ、こうしたいくつかの政治的スローガンが、ほんとうに羽根がはえたように、数かぎりない農村の青年、壮年、老人、子ども、婦人たちのところにとんでいき、そのまま頭のなかにはいりこみ、そして、頭から口にながれでる。たとえば、一群の子どもたちがそこらであそんでいるとする。そのなかの一人の子どもが他の子どもにむかって、目をむき、足をふんばり、おこってこぶしをふりあげたとき、こういう鋭い叫び声をきくであろう。「帝国主義をうちたおせ!」
 湘潭一帯の子どもたちが牛の番をしていて、戦争ごっこをはじめると、一人は唐生智《タンションチー》になり、一人は葉開[金を森のように三つ並べる]《イエカイシン》になる〔20〕。しばらくすると、一人が負け、もう一人が追いかける。追っているのが唐生智で、追われているのが葉開[金を森のように三つ並べる]である。「列強をうちたおせ……」という歌は、町の子どもならもちろんほとんどのものがうたえるが、村の子どもでもうたえるものが多くなった。
 孫中山先生のあの遺言は、村の農民にも暗唱できるものがいる。かれらは、あの遺言のなかから「自由」「平等」「三民主義」「不平等条約」といったことばをとりだし、それを日常生活のなかで生のままつかっている。農民が顔役ふうの男に道で出会い、その男が身分をかさにきて道をゆずろうとしないと、農民はおこっていう。「土豪劣紳め! 三民主義を知らないのか。」長沙の近郊で野菜つくりをしている農民が、町に野菜を売りにいくと、いつも巡査にいじめられていた。いまでは、農民はやっつける手を知った。その手とは三民主義である。巡査が野菜売りの農民をなぐったり、どなりつけたりすると、農民はすぐに三民主義をもちだしてやりかえすので、巡査もだまってしまう。湘潭県のある区の農民協会は、あることで、ある郷の農民協会と仲たがいした。すると、その郷の農民協会の委員長は宣言した。「区の農民協会の不平等条約に反対だ!」
 政治宣伝が農村に普及したのは、まったく共産党と農民協会の功績である。ごく簡単なビラやポスターや講演でも、農民の一人びとりを政治学校にいれたとおなじような、非常に広い、また速い効果をもたらした。農村で活動している同志の報告によると、政治宣伝は、反英デモ、十月革命記念、それに北伐勝利大祝賀会という三回の大衆的な大集会のときにひろくおこなわれた。これらの集会にさいしては、農会のあるところではどこでも政治宣伝がおこなわれて、全農村をゆりうごかし、効果が大きかった。こんご注意しなければならないことは、いろいろな機会を利用して、さきにのべたような簡単なスローガンの内容をしだいに充実させ、その意義をしだいにはっきりさせていくことである。


   第九 農民のいろいろな禁止事項

 共産党の指導によって農会が農村で権威を確立すると、農民は、自分らにとってこのましくないことを禁止したり、制限しだした。いちばんきびしく禁止したのは、牌《パイ》あそび、ばくち、アヘンの三つである。
 牌あそび――農会の勢いがさかんなところでは、マージャン、かるた、花札などはすべてあとを絶った。
 湘郷県の第十四区の区農会は、ひとかつぎほどのマージャン牌を焼きすてた。
 村にいってみると、どんな種類の牌あそびもやられていない。禁をおかしたものは、すぐに処罰され、すこしも容赦されない。
 ばくち――以前の「ばくち打ち」が、いまでは自分からばくちを禁止している。農会の勢いがさかんなところでは、牌あそびとおなじように、この悪弊はあとを絶ち、風気が一新した。
 アヘン――非常にきびしく禁止している。農会がアヘンのきせるを差しだすよう命令すると、これに少しでもさからって差しださないものはいなかった。醴陵県ではひとりの劣紳がアヘンのきせるを差しださなかったので、つかまえられて村中をひきまわされた。
 農民のこの「きせる取りあげ運動」のすさまじさは、北伐軍が呉佩孚、孫伝芳《スンチョワンファン》〔21〕の軍隊にたいしておこなった鉄砲取りあげにもおとらなかった。革命軍の将校たちの家庭には、ひどいアヘン中毒にかかっていて、一本の「きせる」で命をつないでいるご隠居さまがたくさんいたが、それもみな「陛下」 (劣紳が農民をこほかにした呼びかた)たちに取りあげられてしまった。「陛下」たちは、アヘンの栽培、吸引を禁止したばかりでなく、そのもち運びも禁止した。貴州省から宝慶県、湘郷県、[イ+|+攵]《ヨウ》県、醴陵県をへて江西省にはこばれるアヘンは、途中で押さえられて、焼きすてられるものが多かった。こうなると、政府の財政と衝突することになった。その結果、ついに省の農会は、北伐軍の軍費の都合を考えて、下級の農会にたいし、「もち運び禁止の一時延期」を命令した。だが、農民たちは不平満々であった。
 この三つのもののほかにも、農民が禁止あるいは制限したものは、まだたくさんある。いくつかの例をあげればつぎのとおりである。
 花鼓《ホワクー》――田舎芝居のひとつで、多くのところでその上演を禁止している。
 駕籠――多くの県で駕籠をおそうことがおき、湘郷県がとくにはげしかった。農民は駕籠にのるものをもっともにくみ、どうしてもおそおうとしたが、農会がそれを禁止した。農会の役員は農民にむかってこういった。「駕籠をおそうと、かえって金持ちに金を節約させることになる。駕籠かきも失業するし、自分たちの損ではないか。」農民たちは納得すると新しい手を考えだした。それは、金持ちをこらしめるために駕籠代をうんとつりあげることであった。
 酒の醸造と飴《あめ》の製造――米で酒をつくったり、飴をつくったりするのをどこでも禁止したので、酒屋や飴屋は悲鳴をあげている。衡山県の福田舖《フーティエンプー》というところでは、酒をつくることは禁止しないが、酒の値段を非常に低く釘づけしたために、酒屋はもうからなくなり、つくるのをやめるほかなかった。
 豚――豚も穀物をたべるので、一軒で飼育する数を制限した。
 鶏、あひる――湘郷県では鶏とあひるを飼うことを禁止したが、婦人たちが反対した。衡山県の洋塘《ヤンタン》というところでは、一軒に三羽というふうに制限し、福田舖というところでは五羽に制限している。あひるは鶏よりもたちがわるく、穀物を食うばかりでなく、稲をつつきあらすので、多くのところでは飼うのを完全に禁止した。
 宴会――ごちそうの多い宴会はどこでも禁止されている。湘潭県の韶山《シャオシャン》というところでは、客があっても三通りの肉類、つまり鶏と魚と豚しか食わないことを決議している。たけのこ、昆布、はるさめもたべることを禁じている。衡山県では、料理八品で、それ以上は一品もゆるさないと決議した。醴陵県の東三区では、料理五品までとし、北二区では、肉類三品と野菜類三品しかゆるさないし、西三区では、正月のふるまいを禁止した。湘郷県では「たまご菓子づき一卓料理」というそれほどごちそうでもない会席まで禁止した。湘郷県の二区では、ある家で嫁とりのとき、たまご菓子づきの一卓料理をだしたので、農民は禁令にしたがわないといって、おおぜいでおしかけ、会席をめちゃくちゃにした。湘郷県の嘉謨《チアモー》鎮では、ごちそうを食わないことを実行し、祖先への供物も菓子類ですませている。
 牛――これは農民の宝である。「牛を殺したものは牛に生まれかわる」といって、まったく一種の信仰となっており、したがって、牛は殺してはならないものとされている。農民がまだ権力をにぎっていなかったときには、牛の屠殺《とさつ》にただ宗教的な観念による反対しかできず、それを禁止する実力はもっていなかった。農会ができてから、その権力は牛にまでおよぶようになり、町で牛を屠殺することを禁止した。湘潭県の県都には以前牛肉屋が六軒あったが、いまでは五軒がたおれ、のこった一軒は病牛や廃牛をつぶしている。衡山県では、牛の屠殺を全県にわたって禁止した。ある農民は、足を折った牛を殺すのさえ、農会にうかがいをたてなければならなかった。株州《チューチョウ》商業会議所が軽率に牛一頭を殺したので、農民が町にやってきて罪をなじり、罰金をださせたうえ、謝罪のしるしに爆竹をあげさせた。
 ならず者の生活――醴陵県では正月のご祝儀たかり、土地神を讃《たた》えての銭もらい、流し芸人などを禁止する決議をした。県によっては、禁止しているところもあれば、自然にあとを絶って、そんなことをする人がなくなったところもある。「ゆすりこじき」または「流民」といわれているものは、これまでは非常に凶暴であったが、いまでは農会に屈服するほかなくなっている。湘潭県の韶山というところには雨神廟があって、ふだん流民があつまり、こわいもの知らすであったが、農会ができると、みなこそこそ逃げてしまった。同地の湖堤《フーティー》郷の農会は、三人の流民をつかまえて、れんが焼きをさせている。年始まわりの悪いしきたりも、禁止することを決議した。
 このほかにも、各地の小さな禁令はたくさんある。たとえば、醴陵県では、厄病よけの神をかつぎまわることを禁止し、ぜいたくな食品や供物の贈答、お盆の精霊《しょうりょう》流し、正月のお飾りなどを禁止した。湘郷県の殻水《クーショイ》というところでは、水ぎせるも禁止した。二区では爆竹や花火を禁止し、爆竹をならしたものには罰金一元二角、花火をあげたものには罰金二元四角をかけた。七区と二十区では法事をすることを禁止し、十八区では香典を贈ることを禁止した。こうしたものをいちいち数えあげるときりがないが、すべてこれらを農民のいろいろな禁止事項という。
 これらの禁令には、二つの重要な意義がふくまれている。第一は社会の悪習にたいする反抗であって、牌あそび、ばくち、アヘンなどの禁止がそれである。これらのものは地主階級の悪い政治的環境からうまれたものであり、地主の権力がたおれてしまえば、それといっしょに一掃されるものである。第二は都市商人の搾取にたいする自衛であって、宴会の禁止、ぜいたくな食品や供物の贈答の禁止などがそれである。工業製品は途方もなく高く、農産物は途方もなく安く、農民は非常に貧乏で、商人からひどい搾取をうけているので、自衛のために節約を提唱せずにはおれないのである。さきにのべたように、農民が米穀の県外持ちだしを禁止したのは、貧農が自分の飯米にも不足していて、買いいれなければならないので、米価の値上がりをゆるさないようにするためである。これらはいずれも、農民の貧困および都市と農村との矛盾によるものであって、なにも農民が工業製品や都市と農村との取りひきを拒絶して、いわゆる東方文化主義〔22〕を実行しようというのではない。農民は経済上の自衛のために、共同購入して消費する協同組合を組織しなければならない。また、政府は農民協会が信用(貸付)協同組合を組織できるように援助しなければならない。そうすれば、当然農民は米価をおさえる方法として、米穀の持ちだし禁止をしなくてもよくなり、経済上自衛の方法として、一部の工業製品が農村にはいってくるのを拒絶することもなくなる。


   第十 盗賊の一掃

 禹、湯、文王、武王の昔から、ずっと清朝の皇帝、民国の総統にいたるまで、どの時代の支配者も、現在の農民協会のように、盗賊を一掃する威力をもったものはひとりもなかった、とわたしはおもう。農会の勢いがさかんなところでは、盗賊など影さえ見せなくなった。よくしたもので、多くの地方では、野菜をぬすむコソ泥さえいなくなった。一部には、まだコソ泥のいるところもあるが、匪賊になると、わたしのまわってきた各県では、たとえ以前匪賊のたくさんいたところでさえ、まったくあとを絶っている。その原因はつぎのとおりである。一つは、農会の会員がどこにでもいて、ひと声かけると、ほこや棍棒をもって、わっとあつまり、匪賊はかくれようもない。二つは、農民運動がおこってから、もみの値段がさがり、昨年の春は一担I六元であったものが、昨年の冬はわずか二元になり、人民の食糧問題は以前のように深刻なものではなくなった。三つは、会党〔23〕のものが農会にはいり、農会で公然と合法的に豪傑ぶりを発揮し、うらみをはらすことができるので、「山、堂、香、水」〔24〕といった秘密結社は、存在の必要がなくなった。かれらを抑圧していた土豪劣紳階級にたいし、豚や羊をつぶさせ、重税をおわせ、重罰に処したりして、うっぷんも晴らしたいだけはらした。四つは、各地の軍隊が大量に兵隊を募集したので、「不逞《ふてい》の輩《やから》」がおおぜいいってしまった。こうしたことから、農民運動がおこると、盗賊の害はあとを絶ってしまった。この点については、顔役や金持ちの側でも農会に賛意をしめしている。かれらのいい方はこうである。「農民協会かね。ほんとうのことをいえば、少しはよいところもある。」
 牌あそび、ばくち、アヘンの禁止と盗賊の一掃について、農民協会は一般の人の賛意を得ている。


   第十一 苛酷な税金の廃止

 全国がまだ統一されず、帝国主義と軍閥の勢力がまだくつがえされていないので、政府に税金を納める農民の重い負担、率直にいえば、革命軍の車費の負担であるが、これはまだとりのぞくてだてがつかない。しかし、土豪劣紳が村政を牛耳っていたとき農民にかけていた苛酷な税金、たとえば地租付加税などは、農民運動がおきて土豪劣紳がたおれたので、廃止されたか、すくなくとも軽減された。これもまた、農民協会の功績の一つといえよう。


   第十二 文化運動

 中国ではこれまで、地主だけが文化をもち、農民には文化がなかった。しかし、地主の文化は農民がつくりあげたものである。なぜなら、地主の文化は、ほかでもなく、農民からしぼりとった血と汗でつくりあげられたものだからである。中国では文化教育をうけたことのない人民が九〇パーセントをしめているが、そのうちの大多数は農民である。農村で地主の勢力がたおれると、農民の文化運動がはじまった。どうだろう、農民はいままで学校をひどく憎んでいたのに、いまでは夜学校の開設に力をいれている。「洋式学校」は、これまで農民の気にくわぬものであった。わたしは以前、学生のころ郷里にかえり、農民が「洋式学校」に反対するのを見ると、やはり一般の「洋式学生」や「洋式教師」に同調して、洋式学校の利益の側にたち、どうも農民のほうが少しまちがっているような気がしていた。一九二五年に、わたしは農村で半年ばかりくらしたが、このときには共産党員であり、マルクス主義の観点をもっていたので、わたしのほうがまちがっていて、農民のほうがすじのとおっていることがはじめてわかった。村の小学校の教材は、町のことばかりとりあげ、農村の役にはたたない。小学校教師の農民にたいする態度も、非常にわるい。かれらは、農民のたすけにならないばかりか、逆に農民のきらわれものになっていた。だから、農民は学校(かれらは「洋学」といった)よりも寺小屋(かれらは「漢学」といった)の方を歓迎し、小学校の教員よりも寺小屋の先生を歓迎した。ところが、いま、かれらはさかんに農民学校とよばれる夜学校をつくっている。もうすでに開設されたところもあり、いま準備中のところもあるが、平均して一郷ごとに一校ある。かれらは、このような学校の開設に非常に熱心で、このような学校こそ自分たちのものだと考えている。夜学校の経費は、迷信公金、祖先廟の公金、その他あそばせている公共の財産からとっている。これらの公金を、県の教育局は、国民学校、つまり農民には役にたたないあの「洋式学校」の開設につかおうとし、農民はそれを農民学校の開設につかおうとして、もんだあげく、いくらかずつわけあったが、農民が全部獲得したところもある。農民運動が発展した結果、農民の文化水準は急速にたかまった。ほどなく、何万という学校が全省の農村にぞくぞくあらわれてくるだろう。これは、知識階級やいわゆる「教育家」の連中が、口先で「教育の普及」をとなえ、騒ぎまわってみたが、結局口先だけに終わってしまったのとはわけがちがう。


   第十三 協同組合運動

 協同組合、とくに消費、販売、信用の三種類の協同組合は、たしかに農民にとって必要なものである。かれらは、物を買えば商人に搾取され、農産物を売れば商人に買いたたかれ、金や米を借りると高利貸しに搾取される。かれらは、この三つの問題の解決をさしせまって求めている。 昨年の冬、長江《チャンチァン》で戦争がおこり、商人の行き来がとだえ、湖南省では塩がたかくなったので、多くの農民は塩を手にいれるために協同組合をつくった。地主が「貸借ごめん」をしたので、金を借りるために「資金貸付所」をつくろうとしている農民もいたるところにいる。大きな問題は、詳細な正規の組織法がないことである。各地の農民が自発的に組織したもののなかには、とかく協同組合の原則にそぐわないものがあるので、農民活動にたずさわっている同志は、「規約」の問題について、いつも熱心に問いあわせてくる。適切な指導があれば、協同組合運動は農会の発展にともなって、各地に発展させていくことができる。


   第十四 道つくり、堤つくり

 これもまた農会の功績の一つである。農会がなかったころは、農村の道路は非常に悪かった。道をなおすには金がいるが、金をもっているものは金をだそうとしないので、こわれたままにしておくよりほかなかった。多少なおしたとしても、それは、一部の「陰徳を積もうとする」人から報徳事業としていくらかの金をつのって、狭くて粗末な道をつくるだけであった。農会が立ちあがると、命令をくだし、道路のつかいみちに応じて三尺、五尺、七尺、一丈Jといったぐあいに、道幅の等級をわけ、沿道の地主に命じて、それぞれひとくぎりずつつくらせた。命令が出たからには、だれがさからえよう。まもなく、たくさんのよい道ができあがった。これは、報徳事業ではなく、強制によるものであるが、これくらいの強制は本当に結構なことといえる。堤もまた同様である。強欲な地主は、いつも小作人からものをとりたてるだけで、堤をなおすのには、はした金もだし惜しみ、たとえため池がひあがろうと、小作人が飢え死にしようと、かれらは小作料をとりたてることしか知らなかった。農会ができてからは、地主に堤をなおすよう強制する命令を遠慮なくだせるようになった。地主がなおさないと、農会はおだやかな口調で地主にこういうのである。「よろしい。おまえさんたちがなおさないなら、もみをだしなさい。一人の日当は一斗だ!」地主は、一人の日当がもみ一斗ではとてもひきあわないので、自分でいそいでなおす。こうして、たくさんのこわれた堤がみんなよくなった。
 以上の十四のことがらは、いずれも農民が農会の指導のもとでなしとげたものである。その基本的な精神からいって、またその革命的意義からいって、読者諸君、考えてもみたまえ、どれ一つ悪いものがあるだろうか。こういうことを悪いというものは、土裏劣紳だけだと、わたしはおもう。まことに不思議なことに、南昌《ナンチャン》方面〔25〕からの消息によると、蒋介石、張静江《チャンチンチァン》〔26〕などの諸先生は、湖南省の農民のやったことにはどうも承服できないという。湖南省の劉嶽峙《リウユエチー》〔27〕といったたぐいの右派指導者は、蒋、張などの諸公とおなじ意見で、かれらはみな「これはまったく赤化だ!」といっている。これくらいの赤化もなくて、どうして国民革命といえようか。口先では、毎日「民衆をよびおこす」といっていながら、いざ民衆が立ちあがると、すっかりたまげてしまう。これでは、葉公《ショーコン》が竜をこのんだ物語〔28〕とどれほどの違いがあろう!




〔1〕 湖南省は、当時全国の農民運動の中心であった。
〔2〕 趙恒[小+易]は、当時湖南省を支配していた北洋軍閥の代理人である。一九二六年、北伐軍はかれの支配をくつがえした。
〔3〕 辛亥革命とは、一九一一年、専制的な清の王朝をくつがえした革命のことである。この年の十月十日、一部の新式軍隊が、当時のブルジョア階級と小ブルジョア階級の革命団体にうごかされて武昌で蜂起した。これにつづいて各省でもあいついで蜂起したので、清朝の支配はまたたくまにくずれさった。一九一二年一月一日、南京に中華民国臨時政府がつくちれ、孫中山が臨時大総統に選出された。この革命は、ブルジョア階級が農民、労働者および都市小ブルジョア階級との同盟によって勝利をかちとったものである。ところが、この革命はまた、革命の指導者集団がもっていた妥協性によって、農民にほんとうの利益をあたえず、さらに、帝国主義と封建勢力の圧力をうけ、このため政権が北洋軍閥の袁世凱の手におちてしまい、革命はついに失敗した。
〔4〕 「あやまりをただすのに、度をこした」というのは熟語で、本来、あやまりをなおすのに、まもるべき限度をこえたという意味である。しかし、昔は人の行動を束縛し、ふるい秩序を改良する範囲内で行動することだけをゆろして、ふるい秩序を完全に破壊するのをゆるさないために一部の人がよくこのことばをつかった。ふるい秩序を改良する範囲内で行動することが「度」にかなったもので、ふるい秩序を完全に破壊するのは「度をこした」というのである。これはほかでもなく、改良主義者や革命陣営内の日和見主義者の理論でもある。毛沢東同志は、ここでこうした改良主義者の理論を論駁している。「あやまりをただすには、度をこさなければならず、度をこさなければ、あやまりはただせない」とは、ふるい封建的秩序を終結させるには、修正的な――改良的な方法ではなく、大衆の革命的な方法によらなければならない、という意味である。
〔4〕 一九二六年冬から一九二七年の春にかけて北伐軍が長江流域まで進撃したころは、まだ蒋介石の反革命的な正体が十分に暴露されていなかったので、農民大衆はまだかれが革命的だとおもっていた。地主と富農は、蒋介石をきらい、北伐軍は負けた、蒋介石は足に負傷した、というデマをとばした。一九二七年四月十二日、蒋介石は上海などの各地で反革命のクーデターをおこし、労働者を虐殺し、農民を弾圧し、共産党に打撃をくわえ、ここにその反革命的な正体は完全に暴露された。そのときから、地主や富農はかれを支持する態度に変わった。
〔6〕 広東省は、第一次国内革命戦争の時期の最初の革命根拠地であった。
〔7〕 呉佩孚は、北洋軍閥の有名な代表の一人である。かれは有名な買収選挙によって一九二三年に総統になった曹[金+昆]とおなじく、北洋軍閥の直系(つまり直隷省派)であると同時に、曹[金+昆]を首領としていたので、世間ではこれをいっしょにして「曹呉」といっていた。一九二〇年、安徽系軍閥の段祺端をうちやぶってから、かれは北洋軍閥政府の政局を左右するようになり、英米帝国主義の代理人になり、一九二三年二月七日には、京漢鉄道のストライキ労働者を大虐殺した。一九二四年、張作霖との戦争(一般には「直奉戦争」とよばれている)で失敗すると、呉佩孚は北京政権から失脚した。だが、一九二六年、日英帝国主義の策動で、かれはまた張作霖と提携することによって再起した。一九二六年、広東省を出発した北伐軍が最初にうちたおした敵はこの呉佩孚である。
〔8〕 三民主義というのは、孫中山が中国のブルジョア民主主義革命について提起した民族、民権、民生の三つの問題の原則と綱領である。一九三四年、孫中山は「国民党第一回全国代表大会の宣言」のなかで、三民主義にあらたな解釈をくだし、民族主義を帝国主義反対と解釈するとともに労働者・農民の運動にたいして積極的な支持の意をしめし、それによって旧三民主義を連ソ、連共、農労援助の三大政策を内容とする新三民主義に発展させた。この三大政策を内容とする新三民主義は、第一次国内革命戦争の時期における中国共産党と国民党との合作の政治的基礎となった。本選集第二巻の『新民主主義論』の第十節を参照。
〔9〕 富農か農民協会へ加入するのをゆるすべきではなかったが、一九二七年当時、農民大衆はまだこのことを知らなかった。
〔10〕 毛沢東同志がここでいっている「赤貧」には、作男(農村プロレタリア)および農村のルンペン・プロレタリアがふくまれる。
〔11〕 農村の半プロレタリア階級をさす。
〔12〕 当時の国民党県党部をさす。
〔13〕 袁祖銘は、当時、湖南省西部一帯に根をはっていた貴州省の軍閥である。
〔14〕 湖南省の都と団は区と郷にあたる。旧式の都と団の郷政機関は、地主が農民を支配する道具であった。都、団の首長を「都総」「団総」といった。
〔15〕 土地付加税とは、当時の豪紳政権が、もとからとりたてていた地租のほかに、田畑の面積に応じて農民にわりあてた苛酷な税金である。
〔16〕 督軍とは、北洋軍閥の支配権力が各省においた軍事首脳の称号である。督軍は実際上、全省の軍事、政治の大権を一手ににぎり、その省内の独裁者であった。かれらは帝国主義者と結託し、地方で封建的、軍事的割拠をおこなった。
〔17〕 挨戸団常備隊とは、当時の農村の武装組織の一種である。「挨戸」とは、ほとんど各戸ごとに人をだすという意味である。一九二七年、革命が失敗したあと、多くの地方の「挨戸団」は地主にのっとられ、反革命の武装組織に変わった。
〔18〕 当時、武漢の国民党中央執行委員会の指導下にあった各地の国民党県党部の多くは、連ソ、連共、農労援助という孫中山の三大赦策を実行する組織であり、共産党員、国民党左派およびその他の革命的な人びとの革命的同盟体であった。
〔19〕 このことばは『孟子』から引用したもので、だいたいの意味は、人に弓をおしえることの上手な人は、弓をいっぱいにひきしぼりながら、矢をはなたず、いまにもはなとうとする姿勢をとるということである。ここでは、共産党が、農民にたいして迷信その他のよくない風俗習慣をとりのぞくよう命令したり、農民にかわってそれをとりのぞいたりするのではなく、政治的自覚を十分にもつように農民を導いてから、農民の自発的意志でみずからそのようにするのを待たなければならないということをたとえているのである。
〔20〕 唐生智は、当時革命の側にたって北伐戦争にくわわった将軍である。葉開[金を森のように三つ並べる]は、当時北洋軍閥の側にたって革命に反対した将軍である。
〔21〕 孫伝芳は、当時長江以南の五省を支配していた軍閥であり、上海労働者の蜂起を弾圧した下手人である。かれの軍隊の主力は、一九二六年の冬、江西省の南昌、九江一帯で北伐軍に撃破された。
〔22〕 東方文化主義とは、東方のたちおくれた農業生産と封建的文化を保存することに満足して、近代的な科学文明を排斥する一種の反動的思想である。
〔23〕 『中国社会各階級の分析』の注〔15〕を参照。
〔24〕 山、堂、香、水とは、原始的秘密結社の派の名称である。
〔25〕 北伐軍は、一九二六年十一月に南昌を占領すると、蒋介石は機に乗じて、かれの総司令部をここにもうけた。かれは当時の革命的な武漢に対抗するため、国民党右派や北洋軍閥系の一部の政客をよびあつめ、帝国主義と結託して、反革命の陰謀をすすめた。一九二七年四月十二日、蒋介石はついに上海で革命を裏切る大虐殺のクーデターをおこした。
〔26〕 張静江は、当時の国民党右派の頭目のひとりで、蒋介石のためにあれこれ画策した人物である。
〔27〕 劉嶽峙は、当時、湖南省の重要な反共団体「左社」の獺目である。
〔28〕 葉公竜をこのむとは、漠代の劉向があらわした書物『新序』のなかのつぎの故事にもとづく。
 「葉公子高は竜をこのんだ。かれは鉤《かぎ》(武器)にも竜をほりつけ、鑿《のみ》(用具)にも竜をほりつけ、居室の飾り模様にも竜をほりつけた。天の竜がこれを聞いて降りてきて、窓から頭をのぞかせ、母屋に尾をのはした。葉公はそれをみるや、魂も消しとび、いろをうしない、一目散ににげだした。葉公は竜をこのんだのではなく、竜に似て竜でないものをこのんだのである。」毛沢東同志はここでは、蒋介石のやからが口では革命をとなえなから、実際には革命をおそれ、革命に反対したことにたとえたのである。
訳注
@ 農民協会(略称は農会)とは、第一次国内革命戦争の時期に、広範な農民が中国共産党の指導のもとに、地主・豪紳階級と闘争するためにつくった大衆的な組織である。
A 一九二五年七月、中国共産党の指導と支持によって、広州の革命政府は国民政府に改組され、つづいて黄埔軍官学校の学生を中核とする国民革命軍が創設された。当時、この部隊の政治工作は、大部分、共産党員がうけもっていた。一九二六年七月、北京を中心とする全国的な反動支配をくつがえすために、国民政府は「北伐宣言」を発表し、国民革命軍が三路にわかれて北伐の征途についた。この軍隊を一般に北伐軍とよぶ。
B 中国古代の貴族支配を維持する一種の制度。父系家長制から転化したもので、周代にしだいに完全なものとなり、何千年もつづいた。この制度では長男が家父長の地位、財産、爵位をうけつぐことになっており、そこから一定の同族関係が構成された。その後、同族支配体系の制度は、さらに、封建的な身分制度、「天命」の思想、鬼神をうやまう宗教や迷信と結びついて、封建的同族支配体系の思想、制度全体を構成していた。
C 省、県、郷は、いずれも中国の行政区画の単位である。省と県のあいだに専署が設けられているところもあり、県と郷のあいだに区が設けられているところもある。郷とはいくつかの自然村をあわせたもの、村とは一般に農家の集落をさす。一九五八年、政社合一の人民公社ができてから、それが郷にとってかわった。
D 元は貨幣の単位で、一元は十角、一角は十分にあたる。一分は、銅貨若干文に相当する。一元の銀貨はふつう純銀約二四グラムをふくんでいた。
E 団防局とは、当時の湖南省の「都」(すなわち区)の行政機関がもっていた、独立した反動的な武装組織のことである。本文の「第四、土豪劣紳の封建的支配をくつがえした――都、団をうちたおしたこと」を参照。
F 知事と県長はどちらも県行政の最高責任者である。北洋軍閥の支配した時期には知事とよんだが、のちに北伐軍が到達して、県の行政組織を改組したところでは県長とよんだ。毛沢東同志がこの論文を書いたころ、湖南省では北伐軍の勢力と北洋軍閥の勢力が同時に存在していたため、一部のところではすでに県長と改称したが、一部ではまだ知事とよんでいた。
G 玉皇上帝とは、道教があがめる神のなかで、地位のもっとも高く、職権のもっとも大きい神である。
H 包公(包拯)は、北宋(西紀九六〇〜一二一七年)の都、開封府の府知事であった。旧社会では、封建的支配階級の欺瞞的な宣伝によって、「廉直な」役人で、「正しい」裁きをした、と信じられていた。
I 担とは重量の単位で、旧制では一担は百斤、一斤は十六両で、普通一担は六十キログラムであるが、地方によって重さがまちまちで六十キロをこえたところもめった。いまの新しい制度では一坦は百斤、一斤は十両で、一担は五十キログラムである。
J 中国の三尺は一メートルに相当する。なお、一丈は十尺、一尺は十寸にあたる。


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