漫棚通信

日本のマンガの棚その16


新謎本「日ペンの美子ちゃん」

 謎本の元祖にして大ベストセラー「磯野家の謎」は面白い本でした。マネ企画もいっぱい出版されましたが、元祖をこえるものはなかった。謎本のキモは「元テキストをすべて真実とみなす」態度です。知られざるエピソードの羅列ではなく、矛盾をムリヤリつじつまあわせて楽しむ。磯野家の間取りを考えたり、ノリスケの住所を調べたり。最近もネットで読める「巨人の星」とはどの星かを探す遊びも同じ方法をとってます。

 謎本になるには元ネタが有名で、長く続いていることが望ましい。時間の経過とともに作者の予期せぬ矛盾がいろいろと出てくるからです。「鉄腕アトム」のように作者が版ごとに修正してしまう作品では、どのテキストを真実としていいかがわからなくなるので謎本には適しませんね。

 岡崎いずみ「あの素晴らしい日ペンの美子ちゃんをもう一度」は新しい謎本。著者は「磯野家の謎」「THE ゴルゴ学」にも参加していたそうですから謎本の専門家。わたしは「日ペンの美子ちゃん」が4代目までいたことも、1999年を最後に美子ちゃんがいなくなってたことも知りませんでしたので、楽しく読ませていただきました。世間では常識だったのかもしれませんが、初代美子ちゃんの作者・矢吹れい子が中山星香だったとはっ。そういえば猫のデザインとかそっくりだよなあ。

 この本の成功は題材に「日ペンの美子ちゃん」を選んだことにつきます。ほとんどの日本人が知っているが、きちんとまとめられたことがないマンガ。なるほど、広告マンガという手があったか。あと何が残ってるかなあ。「黒子さん白子さん」とか?(2004/5/17/月)


読まなくていい本もある

 一時期「エヴァ」本を集中して読んでたことがありました。「エヴァ」に関する本ってホントにいーーーっぱい出てます。でもって、脱力するほどくだらないのもあるんだこれが。若い時は駄本も読むべきとは思いますが、短い人生、できるならムダな時間は使いたくない。「エヴァ」本を読むこと自体が時間のムダといわれればそれまでですが。

 「エヴァ」は「エヴァ2」関連以外は今や熱気がさめきってて、評論といえば昨年出た野火ノビタ=榎本ナリコ「大人は判ってくれない」あたりが最後でしょうか。でも「手塚治虫」本の発行はとどまるところを知らない。今もNHKでアニメ「火の鳥」放映してますが、手塚治虫はオヤジたちに人気あるなあ。でも「火の鳥」と「ワンピース」を同時にやってたら「ワンピース」見るでしょ普通。

 数ある「手塚」本ですがどれもこれもゆるゆる。だいたい「ヒューマニズム」という言葉が出てくる本はダメダメ。みなさーん、ほとんどが読まなくていい本ばっかりですよー。でもたまに必読というべき本があるから困るんだよなあ。というわけで、わたしはくだらん本を読み続けていくんですね。人生ムダにしてます。

 評論・感想はあたりはずれ大きいので、一次資料というべき手塚治虫の文章・対談・インタビュー・講演はどうかというと。こっちは一応目を通すようにしております。岩波新書「ぼくのマンガ人生」(1997年)は講演記録をまとめたもの。惹句に「ハートフルな肉声」とあります。目次は「マンガを描きはじめた頃」「すばらしい先生たちとの出会い」「ぼくの戦争体験」「『生命』の尊厳がぼくのテーマ」「アニメーションをつくる」「子供は真剣なメッセージを持っている−大人たちへ」「人間性こそ大切−若い人たちへ」。手塚治虫もホントのことを言うかどうかアヤシイので、すべてを信じるわけにはいかないのですが、特に子供時代の話は要チェックかと。

 「虫られっ話」(1981年潮出版社)は対談集。相手は小松左京、北杜夫、田河水泡、横尾忠則、ジュディ・オング、尾崎秀樹、磯村尚徳、石森章太郎と松本零士。こちらには手塚妻のインタビューがついており、「ぼくのマンガ人生」のほうには手塚妹と子供時代の友人のインタビューあり。こういう周辺の人の話の方が面白かったりします。(2004/5/15/土)


水木しげるの自伝は他と違う

 水木しげるの自伝といえるものはたくさんあります。そのうち戦争を書いたものを別にして、少年時代からマンガ家に至るまでの人生を書いたものは「ほんまにオレはアホやろか 妖怪博士ののびのび人生」(1998年社会批評社、元版は「のびのび人生論7」1978年ポプラ社)。水木しげるの人生は若くしてデビューしたマンガ家と違い波瀾万丈というべきものですから、若い頃の生活を書くだけでムチャ面白い。

 1922年境港市生まれ。小学校高等科を卒業してから1943年召集するまでの青年期はそれこそムチャクチャで、大阪の印刷屋就職。クビになり別の印刷屋就職。病気になり帰郷。大阪の精華美術学院へ。大阪府立園芸学校受験失敗。松下電器就職して当日退社。新聞配達。日本工業高校採鉱科入学。退学。中之島洋画研究所へ。日本大学付属大阪夜間中学入学。昼間は支那通信配達員。そして召集令状。

 水木しげるの十代は、当時としても異色の経歴。ベースは絵画におきながらふらふらしてます。戦争中については別の本もありますし、わたしも別項で書きました。さて戦後。

 帰郷した後、再度上京し相模原病院で左腕の再手術。ユマニテ美術研究所へ。武蔵野美術学校入学。魚屋をしたりもしてます。神戸に移りアパート経営。そこで紙芝居画家を始めます(1952-53年頃)。紙芝居関係の会社とヒトビト。「トモエ画劇社」、「林画劇社」、鈴木勝丸の「阪神画劇社」、東京の大先生・加太こうじ。紙芝居は印刷でなくすべて手描き。10枚1組で1巻。水木しげるが1巻200円、3日に1巻のペース。加太こうじは1巻1000円、1日に5巻は描いていたと書かれています。紙芝居を描きながらも神戸市立美術研究所にも通い続けていました。

 このころ紙芝居で鬼太郎が誕生します。以前東京で伊藤正美の「ハカバキタロー」が流行したことがあった。水木しげるは鈴木勝丸と加太こうじにすすめられて似たものを描くことに。「墓場鬼太郎」を始めたが因果ものでウケない。「空手鬼太郎」(全100巻)は沖縄で空手をやる話で少し評判に。このとき鬼太郎の目玉親父が登場。SF風「墓場鬼太郎 ガロア編」40巻。「幽霊の手」が90巻。鬼太郎がチャンチャンコを着て超能力を持ち、後年のものに近くなって100巻。最後の「小人横綱」はウケたが未完。紙芝居が壊滅状態になったためです。

 紙芝居1巻が300円となり1日2巻のペースで描けるようになっても生活はますますきびしく、水木しげるは紙芝居をあきらめ1957年上京、マンガ家になります。ただしここからもやはり貧乏。

 当時の貸本マンガ出版社の名がいろいろと出てきますが経営は苦しい。兎月書房、日昭館、暁星、ひばり書房、長井勝一の三洋社、中村書店、曙出版、セントラル出版、若木書房。稿料は1冊3万円から5万円ですが、どこもまともに払ってくれません。それどころか次々倒産。1日16時間働いても極貧の状態が続きます。

 こんな中1960年兎月書房で出した怪奇ものの短編集「妖気伝」の中で「墓場鬼太郎」を再登場させます。「妖気伝」廃刊後も「墓場鬼太郎」シリーズは3冊続き、その後竹内寛行が鬼太郎を描き続けます。竹内寛行版鬼太郎については大泉実成「消えたマンガ家」3巻をどうぞ。水木しげるのほうは三洋社で「鬼太郎夜話」を4冊刊行。

 転機は1964年の青林堂「ガロ」創刊です。水木しげるは長井勝一に請われ創刊号から作品を発表。このときページ500円で水木は大喜びしてますが、1954年「漫画少年」で石森章太郎がデビューしたときページ750円だったそうですからこりゃ安い。ただしこれをきっかけに講談社から依頼が来る。ただし最初の依頼の宇宙ものを断って自由に描いたのが1965年8月「別冊少年マガジン」の「テレビくん」。手塚治虫と「少年マガジン」間のW3事件の直後でありました。この作品は年末に講談社漫画賞受賞(当時はちょっと賞の名が違いますが)。1965年秋から「少年マガジン」に「墓場の鬼太郎」連載。1968年1月からはアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」が放映開始され大人気となりました。

 自伝の最後はいつものとおりニュープリテン島を再訪問する話。ええ話やなあ。(2004/5/12/水〜5/13/木)


マンガ家の自伝てえやつは

 わたしはおそらくマンガ家の自伝をよく読んでるほうじゃないでしょうか。でも、わたしが求めることはあんまり書いてないんですね。読みたいのは、何年何月に誰と出会ってこんなことがあったか、どんな発想からそのマンガが生まれたのか、当時の状況は。でも、書いてあるのはたいてい

・子供時代の思い出いっぱい
・デビュー前の思い出少々
・でもって、人気を得たマンガの話は少しだけ
・今の若い者に言いたいこといっぱい

という構成であります。

 だいたいみんな日付と固有名詞が少ないことはなはだしい。もちろん日記なんかはつけてないでしょうから、不正確な記述はしょうがないんですが、ちょっとはきちんと語ろうとしてくれよ。貴重な歴史の証言なんだから。この点マンガ家の自伝はもう信用してません。編集者の自伝の方に期待しておりますので、みなさんどんどん書いて下さいねよろしく。

 石ノ森章太郎「絆 不肖の息子から不肖の息子たちへ」。最近も再版されましたが、わたしの読んだのは元版の方、1998年9月NTT出版発行のもの。石森章太郎(以下、石ノ森じゃなくて石森と書かせて下さい)が亡くなったのが1998年1月。この本は1997年夏にされたインタビューを元に没後に発行されたものです。石森はすでに死というものを意識していますが、20世紀中に「サイボーグ009」を完結させるという悲しい言葉も。この本も上記「マンガ家自伝の呪縛」にとらわれていますが、編集がはいってるからか、比較的正確のようです。ただしこの本にも編集者の名前は「少女クラブ」の丸山明(この本には「明」と記載してありますが、確か「昭」だったような気が)だけ。マンガ家の自伝には意外と編集者の名が出てくることは少ないんですよね。

 以下、興味あったことなど。

・「マンガ日本経済入門」は日経からの持ち込み企画。「HOTEL」のタッチで経済を描いてくれと。シナリオは日経の編集者が担当。

・「漫画少年」でのデビュー作「二級天使」は田舎の高校生時代に手紙で依頼。「漫画少年」はすでに末期で編集のチェックは全くなし。原稿料1枚750円。

・1958年実姉が亡くなる。その後マンガをやめたくなり、1961年3カ月かけて世界一周旅行(←このとき23歳)。

・「サイボーグ009」の9人が世界中から集められているのは世界旅行の直接の影響。(←009の9人のサイボーグは野球の9人であるというのが米沢嘉博の説ですが、わたしはそうは考えない。石森的なものと野球マンガとは全く異なるベクトルを示しています。)

・アイデアに悩んだことなどない。おそらく手塚治虫もそうだったはず。「僕はあの人もドンドンパッパカの口だったんじゃないかと思っている。描くことにそんなに苦労していたとは思えない。だから産みの苦しみっていうのも単なるポーズだったのではないだろうか。」

 この指摘は面白い。創作する人は普通悩むでしょ。でも石森は自分と手塚は別だと言っています。

・手塚マンガの「涙」を評価。「よく手塚治虫の功績として映画を持ち込んだと言われるけど、それは言ってしまえばただのコピーでしかない。(略)ディズニーのやらなかったことは『悲劇』だった。マンガでドストエフスキーを取り上げたことにこそ手塚治虫のオリジナリティがある。」

 実作者の鋭い指摘でしょう。

・手塚治虫が読者への手紙で「COM」連載中の石森の「JUN」を「あんなものはマンガじゃない」と中傷。それを知った石森は編集に連載打ち切りを通告。「その夜」手塚が謝りに来たので連載を続けることになった。

 「COM」の人気連載だった「JUN」は1969年2月号を最後に突然終了してしまいました。同時に連載中だった「章太郎のまんがSHO辞典」も中断。当時「COM」には石森の旧作の再録も載ってましたし、虫プロは「石森章太郎選集」を発売中。2月号の次号予告にはちゃんと「JUN」の予告もありました。3月号の編集後記に「石森先生のご都合により」しばらく休載すると。次に石森が「COM」に登場するのは1969年10月号「サイボーグ009 神々との闘い編」でした。手打ちしたとしても「その夜」はないんじゃないか。これだからマンガ家の自伝は…(2004/5/10/月〜5/11/火)


長谷邦夫の「マンガ世界経済入門」

 長谷邦夫といって何を思い浮かべるか。子供マンガの代表作といえば「少年画報」連載の「しびれのスカタン」でしょうか。火星人のスカタンが地球人の家に居候するというオバQ型の作品です。ただし赤塚不二夫・作、長谷邦夫・絵、フジオプロ作品とクレジットされていました。実体がどうだったかわかりませんが、おそらく長谷の単独作品だったのじゃないか。ほのぼの系で赤塚ほどの毒がなかった。

 長谷本来の資質が出た作品といえば「COM」などに連載された一連のパロディマンガでしょう(最近「パロディ漫画大全」としてまとめられました)。長谷邦夫は知性の人というイメージがこれでできあがりました。一般的には赤塚不二夫のブレーンとして知られ、雑誌「まんがNo.1」の編集も彼がやっていました。土田世紀「編集王」に出てくるマンボ好塚のマネージャー仙台角五郎は長谷がモデルなんでしょうが、これはあくまでフィクション。

 最近は知性の人らしく大学のセンセイをされており、教科書として「漫画の構造学!」(2000年)も著していますが、これについてはまた別項で。長谷邦夫が1987年に描いたマンガが「マンガ世界経済入門」。もちろん石ノ森章太郎「マンガ日本経済入門」ヒットを受けた柳の下の二匹目のドジョウ本です。さて、元祖とどこが違うかというと。

 元祖「マンガ日本経済入門」には「劇的」な展開やアクションはあんまりないんですが、長谷版には「エコノミック・アーミー、暗黒の木曜日グループ」という世界経済の裏で暗躍する日本人組織とその首領「ジェネラル金太郎」が登場します。「エコノミック・アーミー」にスカウトされた主人公の銀行マンはココム違反した日本企業を脅迫し、自分たちに出資させる。そして彼らの計画の中心が、あの、「常温」超伝導物質だ! 「常温」騒動が懐かしいですな。

 とまあ、思いきりあやしげな話が展開するんですが、このあたり元祖よりトンデモ度が強くて面白い。主人公の銀行マンはドイツでフランス政府の手先の中国人と格闘したりしてますし。これに影響されたのか、石ノ森章太郎の同名の「マンガ世界経済入門」では、主人公の経済企画庁のキャリア役人がアフリカで、マシンガンを持った誘拐犯を投げ飛ばしてました。(2004/5/7/金)


一条ゆかりのデビュー作

 一条ゆかりのデビュー作「雪のセレナーデ」は1968年「りぼん」3月号に掲載されました。当時の新人賞では水野英子に似すぎていると言われたそうですが、そうかなあ。

 総32ページ。舞台はヨーロッパ(?)の地方都市。おフランスでしょうか。少年のモノローグから始まります。「リシュベーヌの春は忘れたころにやってくる 木々は5月になってようやく芽をだしはじめるのだった」 雪の中を散歩する少年ウイルは少女エリカとすれ違い、その後雪の降る中、公園のベンチに座り本を読んでいると少女がナンパしてきます。「またあったわね 読書がおすきなの」 ウイルが読んでいる本のタイトルは江戸川乱歩「罰と罪」。いい趣味をしてらっしゃいます。

 この最初の出逢いのシーンが7ページ。ページを横長ばかりのコマ6つに切ったり、縦に5つに切ったり、一条ゆかりも石森章太郎の影響下にあることが明らか。ウイルが病気らしいことが明らかになり、エリカとの2回目の出逢いで彼女の手が氷のように冷たいことがわかります。「君はいったい」「ああウイルおねがいなにもきかないで」 どうもエリカは人間じゃないらしい。ここあたりもまるきり石森章太郎です。雪のヨーロッパで人間じゃない少女との悲恋。まだ若描きですから絵は未熟ですが、一条ゆかりが華麗・ゴージャスに描きたいことはわかります。

 ウイルは実は2カ月の命でした。春になり突然雪が降り始めます。「エリカがよんでいる ぼくのくるのをまっているんだ」「さようならウイルお別れにきたの」「エリカぼくもつれてってくれ」「いいわつれてってあげる 遠い遠いふたりだけの国へ」 なんと後ろ向きなお話ではありますが、雪女のホラーと読めないこともありませんね。

 実は1968年のりぼんを持ってるわけではなくて、「りぼんデラックス」1976年春の号に「人気まんが家デビュー作大特集」として一条ゆかり・萩尾望都・大島弓子・西谷祥子・津雲むつみ・木原としえ・陸奥A子のデビュー作が掲載されたんですね。デビュー作の比較検討ができておトクな特集でありました。(2004/5/5/水)


一条ゆかり「デザイナー」の頃の「りぼん」

 一条ゆかり「デザイナー」は「りぼん」1974年2月号から12月号連載。この作品連載中、わたしは1号の欠けもなくりぼんを買っておりました(ただし繁華街の古書店でひと月遅れのもの、付録はついてません)。70年代少女マンガビッグバンの中で、わたしは萩尾望都より先に一条ゆかりとおおやちきを「見つけた」んですね。

 先日のNHKBS2「The 少女マンガ!」の「デザイナー」の回は「ベルばら」よりインタビューされる人間が多かった。一条ゆかり・山田五郎・実姉・現代洋子・藤本由香理・グラフィックデザイナー原田一男・弓月光・そして編集者達、デビュー作を準入選に推した麻木正美・初期担当佐治輝久・デザイナー担当倉持功・コーラス編集長嶋田龍一郎。作者が現役の人気マンガ家であるということもあるのでしょう、編集者が多い。

 「デザイナー」のどこが新しかったのか、番組では以下のことを挙げています。
・テーマ、ストーリーの先進性。働く女性を積極的にとりあげた。
・少女マンガにおける絵の進歩。服装や髪形。
・背景、メカの絵の緻密さ。
・レタリングを含めたデザイン処理。

 わたしが「デザイナー」のどこにひかれたかというと。なんといっても絵です。当時わたしは「少女マンガにおける劇画」という表現をしていました。ここで「劇画」というのはリアルなストーリーや絵という意味、従来のマンガに対するムーブメントの意味で使っていた言葉です。それまでの古典的少女マンガのそれとは、背景のビルが違う。自動車が違う。家具やオーディオが違う。そして人物の絵が違う。

 なぜか番組ではふれられていませんが、主要登場人物秘書の柾、その他多くの人物を描いていたのは、おおやちき(当時大矢ちき)でした。このことは当時から秘密ではなく雑誌内でもオープンにされており周知のことでした。一条ゆかりの絵は、ある角度以外ではかなりヘン。おおやちきの存在が「デザイナー」の完成度をどれほど高めたか。

 まちがいなく「デザイナー」こそ少女マンガの絵を変化させたもの。この後、少女マンガとはいえ、「真横から見た自動車」は描けなくなりました。

 もうひとつ。みやわき心太郎がファッション誌記者を描いてますが、なぜ?(2004/5/4/火)


手塚治虫=藤山寛美という説

 「手塚治虫批判」の続きになります。

 石上三登志「手塚治虫の奇妙な世界」は1977年奇想天外社刊。その後増補版「手塚治虫の時代」(1989年大陸書房)、文庫版「手塚治虫の奇妙な世界」(1998年学陽書房)が刊行され、現在発売中のものが「定本 手塚治虫の奇妙な世界」(2003年東京創元社)です。もとは「ローリングストーン」「奇想天外」に連載されたもの。評論というよりファンが愛情込めて書いた文章ですが、手塚マンガのいろんな発見を指摘しており今読んでも名著です。

 「定本」には元版にはなかった文章も多く、石上と手塚治虫の対談「キングコングがどうした!」(初出はキネマ旬報1977年1月下旬号)も新しく収録されました。この中で手塚が自分の泣かせのコツを語っております。

 学生に「どうしてそんなに泣かせるヒューマニズムに徹した作品を描くんだ」と問われた手塚は「僕のはヒューマニズムでなしに、センチメンタリズムで、女の子を泣かせるためのものだ」と答えます。手塚治虫が娯楽としての涙を意識していたことがよくわかる。

 「僕には泣かせるコツが三つあるわけです。一つは、死なないだろうと思っていた主人公を、最後に殺すこと。」読者にちょっとでも死を予感させてはダメだそうです。「それと、三枚目を配置して、笑わしておくこと。」「それからもう一つ。泣かせたあと、余韻がほしいわけ。(略)泣かせっぱなしでなしに、最後にもう一回、その余韻のダメ押しで泣かせようというわけ。女の子を泣かせるのには、余韻をえんえんと付ける。」

 笑わせて笑わせておいて、殺して、泣かせる。さらにベタであっても、もう一押しして、さらに泣かせる。つまり、笑いと涙の松竹新喜劇(といっても今はもう伝わりにくいか)と基本的に同じです。読者の感情を自在にあやつる天才的な演出力という意味で、手塚治虫は藤山寛美であった、というのが今回の発見です。(2004/5/1/土)


The 少女マンガ!:少女マンガで「プロジェクトX」

 NHKBS2で4月27日から「The 少女マンガ!〜作者が語る名作の秘密〜」が3日間放映されました。最初アナウンスされたときは「少女マンガの黄金時代」のタイトルでしたが、「ベルばら」「デザイナー」「ポーの一族」の1970年代3作を取り上げ、少女マンガの黄金時代と称するのは正しい選択です。ただし、できあがった番組はまるきり少女マンガ家版「プロジェクトX」でしたねー。

 とくに池田理代子の回はその傾向が強かった。なんせ「ベルサイユのばら」は一般的な人気という意味でマンガ史に残るほど巨大な作品。作者にとっても自分の他の作品が全くかすんでしまうほどワンアンドオンリーのビッグヒットでしたから。池田理代子のインタビューと伝記(再現ドラマ!)、その他の人のインタビューで構成。出演した人は宝塚の涼風真世、元若木書房社長・北村二郎、藤本由香里、なぜか中井美穂、学習院大学の篠沢秀夫です。すべての人が池田理代子とベルばらを誉めて誉めて誉め上げるだけでした。

 収穫とすれば、池田理代子が最初に感動したマンガが手塚治虫の「つるの泉」(1956年)であったとか、貸本デビュー作のひまわりブック「由起夫くん」(原爆病をあつかった難病物だったらしい)の書影が映っていましたが池田の名は表紙になかったとか、「マーガレット」初登場「星くずの童話(メルヘン)」がどんな絵だったかとか。少女マンガ初のベッドシーンは一条ゆかりの「ラブゲーム」であったが、これはワンシーンだけでベルばらでは連載1回分まるまるベッドシーン、これは画期的であったと。藤本由香里はいつも教えてくれるなあ。

 わたしはベルばらのリアルタイム読者じゃありませんでした。この時期はりぼんや少女コミックを読んでおり、旧世代に属する池田理代子は眼中になかった。持ってる単行本も連載終了直後に古書店で買ったものと新刊で買ったものが混在。古典的少女マンガは男子には恥ずかしいんだよう。今回もTVであらすじ紹介見てるだけで身をよじってました。

 「デザイナー」と「ポーの一族」については語りたいことがいっぱいあるので別項でね。(2004/4/30/金)


松田哲夫の筑摩書房「少年漫画劇場」

 筑摩書房の編集者・松田哲夫の自伝「編集狂時代」(1994年本の雑誌社、2004年新潮文庫)を読んでいて、「『少年漫画劇場』は、ぼくが、筑摩書房に入社してすぐに企画、編集して刊行したシリーズだ。」という文章がありまして、ありゃりゃと思いました。ハードカバーのマンガ選集は筑摩書房の「現代漫画」などいくつかありますが、この「少年漫画劇場」ほど、わたしが熱中したシリーズはありません。松田哲夫は、のちの路上観察学会あたりの仕事は知ってましたが、こんな昔からわたしの書棚にあったとは。

 「少年漫画劇場」は1971年8月から刊行開始。戦後すぐから1960年頃までのマンガの選集ですが、作品の選び方は凝ってるし、そのボリュームも十分。ラインナップは以下のとおり。

1(冒険活劇):山川惣治「少年王者」、小松崎茂「大平原児」
2(冒険活劇):福島鉄次「砂漠の魔王」、塩田英二郎「コックリくん」、前谷惟光「ロボット三等兵」(←「ロボット三等兵」を冒険活劇とは苦しいですが、たしかに戦争マンガにはちがいない。)
3(空想科学):手塚治虫「来るべき世界」(←不二書房版の復刻。)
4(空想科学):横井福次郎「ふしぎな国のプッチャー」、手塚治虫「鉄腕アトム」、横山光輝「鉄人28号」(←横井福次郎といえば戦前の人と思われているかもしれませんが、「プッチャー」は1947年〜1948年の作品。)
5(時代劇):杉浦茂「猿飛佐助」、倉金章介「あんみつ姫」、原一司「カンラカラ兵衛」
6(時代劇):武内つなよし「赤胴鈴之助」、益子かつみ「さいころコロ助」、白土三平「死神剣士」
7(探偵推理):河島光広「ビリーパック」、うしおそうじ「朱房の小天狗」、手塚治虫「ケン1探偵長」、桑田次郎「月光仮面」
8(西部劇):手塚治虫「サボテン君」、杉浦茂「弾丸トミー」、白土三平「死神小僧キム」
9(スポーツ):井上一雄「バット君」、福井英一「イガグリくん」
10(スポーツ):田中正雄「ダルマくん」、関谷ひさし「ジャジャ馬くん」、寺田ヒロオ「もうれつ先生」
11(ユーモア):新関健之助「かば大王さま」、馬場のぼる「ポスト君」「ブウタン」、他
12(奇想天外):手塚治虫「冒険狂時代」、杉浦茂「ピストルボーイ」、馬場のぼる「キャラメルはしょっぱいこともある」

 すべては持ってません。わたしの手許にあるのは、1・3・4・6・7・8・12巻です。

 山川惣治では「少年ケニヤ」より「少年王者」が好きなのはこのシリーズで繰り返し読んだせいもあるでしょう。戦後まず紙芝居として出発。集英社からと単体で発行されたあと、これをきっかけに創刊された「おもしろブック」(のちの「少年ブック」)に連載。第1巻には全6巻のうち4巻を収録。ヒロインの「すい子さん」が少年王者に抱かれるシーンはセンセーションを起こし、朝日新聞から叩かれたそうです。スフィンクスのような仮面をかぶる謎の怪人アメンホテップは叫びます。「アメン!アメン!アメンホテップ」

 「来るべき世界」は1951年不二書房から前後編2冊として発行。「少年漫画劇場」版は不二書房版からの復刻で、後編の冒頭を省いたもの。当時、筑摩書房のマンガ選集「現代漫画」で読めた手塚治虫の「メトロポリス」にしても「ファウスト」にしても後年の描き直し。オリジナルからの復刻のこの版はいかに本来の魅力を伝えていたか。

 「鉄腕アトム」は「冷凍人間の巻」と「海蛇島の巻」、「鉄人28号」は「ファイア二世の巻」。「赤胴鈴之助」は「妖魔が原の決闘」と「秘伝真空ぎり」。「月光仮面」の収録は最初の「サタンのつめの巻」の冒頭だけです。アトムと鉄人はこのころも手にはいる作品でしたが、赤胴や月光仮面はすでに入手困難となっていました。白土三平「死神剣士」は1957年デビュー直後の作品。「死神小僧キム」は「ぼくら」に1962年〜1963年連載された西部劇。このころ白土は「シートン動物記」も描いてたし、西部劇づいてました。

 「ビリーパック」「朱房の小天狗」については別項をどうぞ。

 12巻(奇想天外)収録の馬場のぼる「キャラメルはしょっぱいこともある」は、「少年画報」1953年2月号付録。少年が空想の中で宮本武蔵になったりガンマンになったりする話で、ダニー・ケイの映画「虹を掴む男」(1947年製作日本公開1950年)のイタダキですが、しゃれたタイトルが評判になりました。

 全巻を通じて杉浦茂が3作もはいっているのは選者の見識ですが、再評価の時期でもありました。逆にこの当時すでに人気作家になっていた水木しげるの貸本初期作品は選んでほしかったですね。

 巻末の文章の部分もなかなかで、第1巻(冒険活劇)では山川惣治と小松崎茂が対談してます(おお!)。これは熟読しましょ。第3巻(空想科学「来るべき世界」)には南部正太郎(「ヤネウラ3ちゃん」の作者)の「関西時代の手塚治虫」という文章が載ってます。

 編集者の文章も。第4巻(空想科学)には元「少年」編集長・金井武士の「『鉄腕アトム』と『鉄人28号』の誕生」。1950年の段階では光文社編集部ではだれも手塚治虫の名を知らなかった話などが書いてあります。第6巻(時代劇)に元「少年画報」編集者・福元一義(当時手塚プロ勤務)の「武内さんと『赤胴鈴之助』との出逢い」。福井英一が亡くなり「赤胴鈴之助」が連載第1回で頓挫したときの編集部裏話。当時の少年ジャンプ(初代)編集長・長野規「益子さんの思い出」。第8巻(西部劇)に「ガロ」編集長・長井勝一「三平さんとシートン」。

 作者本人の文章。うしおそうじ「免罪符」。もうマンガ家は引退してました。手塚治虫「西部劇あれこれ」。杉浦茂「汗顔の至り」。作家の家族の文章。横井福次郎の子供の書く「私のためにかいてくれた『プッチャー』」。河島光広の弟の書く「兄・光広の思い出」。壮絶なマンガ制作風景です。

 珍しいところでは北山修(当時フォークル、今精神科医)やダディ・グース(当時マンガ家、今矢作俊彦)の文章も。

 ネットで見るとわたしの持ってない巻もけっこう売りに出されてますが、やはり高価ですねえ。うーむ。(2004/4/27/火〜4/29/木)