脳梗塞マヒのリハビリ実践 2007年7月

第T編 脳梗塞と私(発病時の状態)                      

 私(松村睦夫・奈良県)は1945年生まれの男性で、事務の自営業をして企業に出向していたのですが、59才の2005年2月14日(月曜日)の朝、会社で手の動きが悪く喋りにくくなり病院に行くと脳梗塞と言われ入院し、検査の結果、左の脳幹の橋という所の血管が詰まり右半身マヒとなりました。小脳に繋がっている血管も詰まり左側身体にも少し運動障害が出ました。


 二週間ベットで寝ながら点滴で治療をしました。右側の手と足とがまったく動かない上に、口がわずかしか動かないのにはショックを受けました。

医者がボールペンやハサミを見せこれは何かと問い、私が答えると「思考は大丈夫のようだ」と言った時には「俺の頭は悪くなったのか」と思い、頭の状態が非常に心配でした。

 二週間後に看護婦に抱きかかえられて車イスに座らせられたとき足がグニャグニャには驚きました。もう二度と立ち上がれないと思い落ち込みました。
毎日「俺の体は?俺の仕事は?俺の生活は?どうなるのだ?」と思い悩む日々を過ごしていました。「仕事が出来る体に治らなければ稼げない。一人の自営業は、特に収入が無ければ生活が成り立たない」と分かっていましたが、パソコンを打ち見積もり等をする仕事には、とうてい出来る体でないことは嫌でも分かりました。
 三週間後ぐらいでしょうか、リハビリ室に移され車イスの病院生活が始まりました。やがて手も少し動き出し、「頭が大丈夫かと?」思い。左手だけでパソコンを打つことが出来てホッとしました。車イスからも立ち上がり歩けるようになりましたが、血圧が高く少し歩けば200になり歩くことを禁止されました。

 1ヶ月後の3月13日に病院内で気分が悪くなり全身に震えが来て2度目の脳梗塞が再発し、また二週間ベットで寝ながら点滴にて治療をしました。やがてリハビリ室に移されて車イスの病院生活が始まりました。再発の前は不眠でした。これが原因かどうかは分かりません。2度目の再発後は体力が大変落ちたようで体重も13kg減りました。

入院4ヶ月後の6月13日に退院出来ました。仕事が出来る体ではありません。だから収入はありません。無認可保育所の安月給保母の妻と、働いている二人の娘、その長女は2005年11月に結婚することが決まっています。


 年金はまだ無い。国民年金だと全額払っているが4万円少しの金額という。これでは住宅ローンも払えない。だから退院も喜べない。早く銀行に行って金利だけの支払いにしなければと思うが、その後の住宅ローンの払いは出来ない。出来ないから都落ちをしなければならない。「なんたる情けない俺か」いや政治・経済の社会保障が悪いと怒る。怒るから生きて生活し、人生を楽しみ・喜び・笑う。他人の苦しみ・悲しみが分かるのです。だから闘う

第一章 はじめに

 私のリハビリやトレーニングは、私個人に効果があったのであって、誰にでも効果があるとは限りません。しかし個別性は普遍性も含まれており、従って私のやり方が他の人に効果があると思われるし、少なくとも参考にはなります。

文章はなるべく感情面は省き、理論と具体例を書くようにします。その為に読みづらく面白くない文章になっていますが、脳卒中や障害者には役立ちます。

全てを疑い・全てから学ぶこと・自主自覚で考えぬくこと・正確かつ徹底に判断すること・良いことは確信し,すぐ取り入れ長期に実践することです。


T、何から始めるべきか
 1−1、1度目の脳梗塞

脳梗塞になった時は、医者は入院しベットの上で寝て動かないように指示しました。私は考えることは出来ましたが、一般知識として脳梗塞とは脳の一部の血管が詰まり,その関係の身体が機能しなくなることしか知りませんでした。

 医者はこれ以上悪くならないように点滴をしてくれ、2週間かけ起きあがれるように上体を少しずつ角度を付けながらする説明でした。
右側の手足が動かなくなったのは驚きました。右手が勝手に肘より折れ曲がり胸の所で指が内側に硬直し,動かそうと思っても動きません。ブルブル震えるだけで動かない。初めて自分の意志で体が動かない経験です。

 しかし考える時間は有り余るほどあるので考えた。「今、俺は何をすべきか?」しかし解らない。解らないから色々考え、その中で昔、ギリシャの数学者アレキメデスが「私に長い梃子を与えてくれたなら指1本で地球を動かしてみせる」と言ったことを思いだした。

「そうだ、俺は脳の障害で手足が動かない。脳は身体の一番上の頭にある。その脳が、おかしくなているのであれば、それより一番離れているところを強く刺激すれば、脳が少し良くなる可能性はあるはずだ。今はこれしかない」と考え、毎日、妻と娘に手足がマヒしている指先の爪の横を、きつく痛いほど揉ませました。(強く痛いほどしないと脳に刺激として影響しないから新しい脳回路は新生しない)
  
 注意 (左側のマヒの場合、左手薬指だけはしないこと、心臓に繋がっているから)

 
 それで良かったのです。少しずつ腕・手・指が動き出しました。しかしその時は少し手が動くだけで、物を握たりなど操作的な事はまったくできません。しかたなく左手でやりましたが、利き手が右手なので上手くできない。困りました。

2週間後に看護婦に抱きかかえられ車イスに乗せてもらいました。その時に右足がグニャグニャには驚き、もう二度と立ち上がれないのではないかと思いましたが、その後には立ち歩くことが出来ました。

 脳・心臓から一番離れているのは、足の指です。その次は手の指です。この認識は大事だ。脳卒中・糖尿病・高血圧病の患者は、神経障害で壊疽などを起こしやすい。ですから手足の指が大事という概念を持つことです。
手足の指を常に強く刺激することです。

1−@ 立ち歩く方法

3週間後にはリハビリ室に移ることが出来ましたが、車イスのままです。車イスから立ち上がろうと、するけれど出来ない。両足・両手に力を入れ、足を踏ん張り両手で車イスの肘を掴んで立とうとするが立てない。5・6回したけれど駄目なことは分かって諦めかけた。その時ふと思った。私は若いときから趣味で「立ち歩くことを研究」していた事を思い出した。

1−2 立ち歩くことには何が大事か

立ち歩くことには、筋肉や力は必要ではない。重心が問題なのだ。重心の移動が正確に出来れば力は最小限でよいのです。
車イスの場合には足は前方にあり、従って足の重心は前方にあって、そこに立ち上がらなければならないが、上体は車イスに座っているので後方にある。上半身は胴体や頭が重いうえに、腕の筋力がマヒし衰えているので、いくら頑張っても立てるはずはないのです。
そこで上体を前方に曲げ、両腕を前方足の間に伸ばし、上体の重心を前方の足上になるようにすると、スーと嘘のように立ち上がれました。手足の力が無くとも出来ます。

 立ち歩くには重力が必要です。従って、常に負荷を身体には掛けなくてはいけない。この意味で、身体には重心が必要なのです・重力が人間には必要不可欠です。立ち上がれた時は本当にうれしかった。驚いた。出来るのだ今度は歩くことだ。歩いたら転けるのではないかと心配でしたが、しかし安全と危険は一体のものです。少しのリスクは必要だと思う。歩くとは足で歩くのではない。腰で歩くのだ。

 病院の壁にミレーの「種まく人」の絵が架かっているが、その人物は腰で歩いている。そうでなければ坂道を登ることも出来ないと考え、思い切ってマヒの右足の腰を振り出すと足が出た。次は右足だ。出た。こんどは左だ。腰が振れたら足が出た・歩けた。ただ歩けたのではない。歩いたのだ腰を中心に体全体で歩きました。

 三歩後退し車イスに座った時には達成感はあった。「やった。俺は立ち歩いたのだ」と

注意(私は一人の時を狙ってやりましたが、車イス等からの立ち・歩くときは、マヒ側に補助者を必ず横に立ててすること。一人でやると転ぶと怪我をします)

 

1−3 体の中心とは何か  (三本足で歩く)

体の中心には、バレーダンサーがセンターラインの軸でクルクル回り踊るように、人間の体の中心には体軸があります。私の場合は、5mの細い金属の棒が頭の上から貫いて地面に2mは突き刺しているイメージで捉えていました。その棒を意識していれば絶対に転げないという自信を持つことです。コマの心棒のように思うことです。

 体のセンターラインは、人間が直立二足歩行をする場合に、左右の脚のバランスを取るために本能的に身に付けたものであって、片方の脚のマヒによりバランスがとれなくなってしまっているので、身体意識として意識化することが必要です。

センターライン(体軸)とは身体の重心位置のことでありバランスの要です。

さらに足にも重点がある。脚膝から足首のくるぶし間の内側に頸骨というのが有ります。その骨の足裏には重点という体重を支えている中心点が存在しています。
足裏の土踏まずカーブが終わる所の踵寄り内側です。ここが足の重点であり、ここの点を意識するのです。それには手でそこを押さえ身体意識化するまで何回も押さえるのです。
 

「ここが足の重点だ。ここで歩け」と自分で自己の身体に意識化させるのです。
足裏の重心が小指側にかかると転びやすくなります。ですから常に体重が掛かる足裏にある重点の意識は、転ぶ危険を避けるために大事です。
このようにセンターライン軸の鉄棒(身体意識)1足と、両足の足裏重点の2足、合計3本足で歩くと非常に安定します。


また両足の歩幅はなるべく広くすることです。両足がそろえば転びやすくなります。身体障害者は、少し足先を外向けで歩くと安全と考えます。発病前より歩幅を広くガリ股式に歩き方を変えた方が良いと思います。(注意、ガリ股で歩くと膝を痛めやすい危険があります)
バレーダンサーは、体のセンターラインが無意識に出来て、踊れるようになるまで基礎練習をします。マヒの身体障害者は倒れないように、体のセンターラインが無意識に出来て歩けるまで、身体意識の重心練習をすべきです。

1−4 体の姿勢が問題なのだ

 身体障害者が立ち・歩くことで一番大事なことは、姿勢です。補助者や保護具も杖よりも、姿勢です。これが出来なくては、まともには歩けないと思います。それほど姿勢が大事です。姿勢とは背骨です。脊椎の垂直なカーブです。背筋が真っ直ぐに伸びているかどうかです。身体障害者は足下が危ないために、常に足下を見続けます。癖になっている。従って目の見る位置の高さが問題となるのです。


 前方を真っ直ぐ見ることです。前方を見ても有る程度は足下が見えます。足下が危ないときや階段などは時は下を見ることに必要ですが、普通に立って歩く時は目線の高さで、必ず前方を見るように心がける事です。

また胸には、希望を持ち明るく歩くことも大切です。身体障害は、常に落ち込み暗く下を見ながら、とぼとぼ肩を落としながら歩く気持ちは分かるが、これでは良くなりません。このような気持ちを希望の心に変えることです。

 私は歩くときは「センターセンター重点重点前方前方」と、そこを意識しながら声を出しながら歩行練習をよくしました。歩行練習とは単に歩けばいいことではない。歩行練習とは、姿勢だ。

 何故、声を出しその力を利用するのか?身体において一番繊細で複雑な動きをするのは、口・舌・喉です。2番目が手です。従って足などを動かす場合、口(言葉)。手を統一的に利用することです。

 リハビリの指導者も、姿勢には患者の身体の肉体や精神状態が現れているので、この姿勢の点検を第一とすべし。
お年寄りや痩せている人は、腹を出し歩くことです。またナンバ歩きの右側の足と手を交互でなく同時に出し、次に左の足と手を同時に出すやり方も経験したらよいと思う。


立つとは、重心を身体意識として立てることであり、歩くとは重心移動です。重心とは引力です。人間の抽象的な重心(引力)は、具体的には姿勢です。
歩くときには絶対に下を見るな。真っ直ぐに前方を見よ。頭を下げるな。首を上げよ。これをかたくなに貫け。体の姿勢は心の姿勢に繋がります。

 歩くとは膝を真っ直ぐにすることです。足を出すときのは膝を曲げるのは良いのですが、踵の着地から足先の親指の拇指に重心移動するときに、上肢の骨と下肢の骨が膝で1本の骨のようになることです。猿は歩いているようでも何時も膝で上肢と下肢は曲がっています。(腰が曲がっている老人歩き)現在の進歩したロボットでも何時も膝は曲がっています。だから猿もロボットも、人間のように立ち・歩けてはいないのです。このことが非常に大事です。

リハビリ治療の先生で、立ち・歩行リハビリに姿勢や重心を指導の第一にしていない先生は、身体の理解が不十分で問題があると言える。
 

1−5−A 着地の仕方

歩くときに大切な足の着地の仕方は、健常者と身体障害者は違うことです。

健常者は @踵を着く A次に小指側に重心を移しあおる B親指の拇指で地面をあおり蹴る

障害者は @踵の内側で着く A土踏まず内側の重点を通る B親指の拇指で地面を蹴る


 このように障害者は地面の直地から離れるまで、足裏の重心が外側に行かないようにすることです。足裏外側の小指側に重心が移ると転びやすくなります。<この何故足の内側が大事かは、足の内側にはもう一方の足が有るからです。それで体を支えることができ転びにくいからです>
障害者は、まず安全に歩くことですから、足指を使わない歩き方をマスターすることですが、地面をあおり蹴ることが出来ないと健常者のようなスピードは出ません。

 足の第一指・第二指・第三指の骨は、踵の骨に直接的に繋がっているが、第四指・第五指の骨は、間接的にしか繋がっていなくて浮いているから。

障害者は常に重心を体の内側・内側との身体意識が大事です。また膝は曲げるよりも、真っ直ぐ突っ張るようにする方が安全と考えます。

注意(マヒしている足の膝を曲げすぎると、グニャとなり支えられなって転びます)
 立ち歩くことを、障害者の要求だと考えてはならない。直立二足歩行は、サルがヒトになるための最初で最低眼の行為なのです。立ち歩くには、人類の進化そのものが含んでいる。人間の立ち・歩く、真っ直の姿勢で、歩み前進し続ける現在の社会人間と捉えることです。

1−5−B つまずかない歩き方の着地方法

つまずかない事は、身体障害者や老人にとっては非常に大事なことです。簡単な歩き方ですが、案外これが理解されていない。歩く時につまずくのは、@つま先から着地すること。 A足裏全体で着地すること。B摺り足。このような着地の仕方では、つまずき転びます。大事な足の着地の仕方は、必ず踵で着地することです。踵の後ろ側で着地すると、足先は自然と地面から上がりつまずきません。足のマヒがある場合や脚の筋肉が弱く、長く歩くと疲れ足を引くずるようになりますが、意識して踵から着地しつま先を上げることです必ず踵からの着地の歩き方を習慣付けマスターして下さい。

この踵から着地できない人は、脚がマヒの身体障害者や脚が弱っている人達です。何故か?歩幅が狭いと踵から着地できないのです。従って、なるべく歩幅を広くする為に、脚を意識し膝を高く上げ・足を前に大きく振り出して下さい。歩幅を大きくすると踵からの着地はやりやすくなります


1−6 立ち歩くことよりも、まずしゃがむことだ。 

立って歩くことが出来ない者は、まず立ち歩くことを求めますが、最初にしゃがむことを練習することです。立ち歩けるようになった人でも、その後なかなか、しゃがめない。しゃがめなくなると、便所で用をたすことが出来にくくなります。これでは外出が不安になり家にこもるようになります。
ベットに両手で支え、ゆっくりとしゃがみ、始めはしゃがめるところまでして、すぐベットに座り休むことです。

注意(しゃがむことの練習は、特にムリするは厳禁です。足首・膝を痛めやすいから)
 
慣れると長くしゃがむことが出来るように時間を計り少しずつ長くしゃがむようにし、用をたす時間まで出来るようにすべきです。
少しでも立てることが出来れば、相撲の仕切や四股を踏むようにすることです。病院のリハビリでは、しゃがむことの訓練を教えないのはどうしてでしょうか?


1−7 補助具と杖について

補助具や杖は非常に便利な物だ。安全のようでもある。先生も患者も不安だから補助具や杖を使う。便利な物は、便利な故に危険性も伴うことを知ることだ。必要な人には必ず使用させねばならないが、安易に使ってはならない。便利と危険は表と裏の一体だからです。補助具はいいとしても、杖は姿勢の偏りや、頼ることに繋がります。杖を使うには、少し高めの物で、一本でなく二本の杖を両手で持つことです。
 特に姿勢を悪くする低い杖はダメです

 両手を使うと片側が使えなくて不自由だが、この二本の杖の使い方が正しいと思う。
私は、一本と二本の杖を使っている人を見てそう考えた。
 片杖を使えば歩幅が狭くなり踵から着地できなくなるので、できうるならば杖を使わないか、それとも両杖ですることです。

1−8 土台から学ぶ

脳性マヒの人を見たら私と同じ手の格好です。指が内側に曲がっている。他の脳性マヒの人も同じ手の格好だ。「なぜこうも同じ手の格好なのか?」内側に曲がっていることは、屈筋に力が入り縮んでいます。その拮抗筋の伸筋がマヒ?して伸びている。

 屈筋はサルの手だ・樹にぶら下がる古い手の筋肉だ。伸筋はヒトの手・自由に繋がる新しい手の筋肉です。「そうだとすれば、伸筋を刺激することだ」

それから手足の爪横を強く揉ませ、同時に指を痛いのを我慢して逆に反らしをした。これが、その後のマヒの回復や指の操作が出来るようになったと思う。(この指の反らしは、指がうずいたがやめなかった。3か月後は良くなり回復した)

 身体障害者は、健常者や障害者の中でも自分より軽い者を目指し見つめ、一日も早くそれに近づくように努力をする。自分より重い障害者には見向きもしない。だが学ぶことは、あらゆるものから学ぶことです。分からなければ本質から基本から学ぶべし。そこからのみ学べば飛躍的な前進が必ず出来る。
私は体が四つん這いも出来ないとき、リハビリ室にマットの上で赤ん坊のように(爬虫類のように)体を揺すりはいずり回った。

 両手足に力が無く不十分な体でもはいずり回ることは出来るのだ。(時には祖先帰りも・赤ちゃんになるのもいいものです)
後で分かったことだが、この時は足の指を使わず、無意識に膝を使ったが、足指を使うべきだったと考えますクルミ等の指揉みは、私には効果がなかったような気がしています。このような緩やかな刺激は健常者には効果があるかも知れませんが 脳卒中のマヒには効かないように思います。

U,2度目の脳梗塞

1ヵ月後の2005年3月13日に2度目の再発をした。1度目と違って、体力が落ちました。精神的にもきつかった。また1度目と同じく二週間ベットで寝ながら点滴で治療しました。2度目ですから頭の状態が非常に心配でした。

 この時に良かったのは、諦めきる勇気が出せたことです。収入が切れるが仕事を諦める。健常者の日常生活を諦める。スポーツを諦める。これらを諦めきる勇気は、自由な勇気です。個人収入が無い為の生活苦を“いとわない勇気は”現在の社会では本当に恐ろしいが、個人補償を、私は嫌がり個人保険をあえてしなかった。これがこんな時には、もろに響くが,そうでなかったなら,社会の苦しみ・社会保障の不十分・貧しき者の生活苦を実感できないと思い、自分の置かれた状況を慰める。

また三週間後に、リハビリ室に移され車イスの病院生活が始まりました。脳卒中は非常に再発がしやすい病気であること。その為には性格や日常生活を変えなくてはならないと分かっているが、この歳になって変えにくいこと。社会活動の世の中を変革する人間の活動を日常生活から切り離せないこと。俺がが活動をやめるときは死ぬときです。
この2度目の再発は死にかけた。全身が震え、顔の両頬が硬直し、口だけをパクパクさせ息だけしかできませんでした。だが憎まれ者の私は、簡単には死ねぬ。今は生きている。

 体の震えは体の変調によって起こるが、それが第1次要因です。もう1つの身体が自己に対し自ら震えることによって、その変調を正そうとする調和の行為です。第1次の変調よりも、この自らの震えは人間の調和の本質につながる、自己に対する変革をして正しく体調を整えようとする挑戦かもしれません。


2−1−@−A マヒのトレーニングの考え方

“マヒとは何か” 脳等の障害でマヒを抱えた者は、この考え方から始めなくてはならないと思います。
“マヒのトレーニングはどうあるべきか”よりも、医学的にマヒの状態を知っても役にはならない。医学の知識は大切ですが。
マヒのトレーニングは、マヒで動かないところを、より動かし・よく使うことだ。これが最小限で最大限の唯一のよいやり方です。この高度な矛盾の考えを実践することです。

 マヒとは、単なる筋肉が落ちそれにより力が無くなり・障害の一部の脳からの指令が出ない・伝わらないと考えてはならない。病身・病弱だから、それにあったやり方で、ゆっくりと時間をかけムリのないトレーニングで、しだいに筋肉や力をつければ良くなると考えてはならない。それは間違いです。甘く考えてはならないと言っているのではありません。初めに正確な把握が大事と言っているのです。
マヒのトレーニングとは、「やればうずき・しないと硬直し・しても効果が非常に少ない

 
 このことを分かってないと、うずきや効果がないと諦める。この諦めることにすぐ繋がる。諦めてトレーニング等をしないように、なるのが恐ろしいのだ。私の見た障害者には、このような人が多かった。始めはトレーニング等を行うが、途中で諦める。

するのか、しないか、そのような矛盾(程度の低い矛盾でなく)を、して・しない、という高度な矛盾を行いながら、しない。休むことを主体にやり続ける。失敗しながらやり続ける。間違ってミスを重ねて、なおかつ老化が進みつつ、その後退の継続が、僅かな前進を生む。この考え方がマヒのトレーニングには必要不可欠です。
 
 動き使える手足を自己意志で禁止し使うな。動かなくて使えない手足を意識し動かし使え。口はマヒしている側で喋るのだ。高度な矛盾は正しいのです。
絶望の中にこそ本当の希望がある。宇宙が暗黒だからこそ光り輝く星が見えるように。
マヒのリハビリ・トレニングは、必ず独自の努力が必要不可欠です。

2−1−@−B 立てない者のトレーニングの仕方

 立つことなど出来ない者のトレーニングは、元に戻ることです。赤ん坊、さらに爬虫類や魚に戻り、その動作をすれば良い。ハイハイ・はいずり回る・魚体操をすることです。私は車イスの時には、マットの上でハイハイ・はいずり回ることを自らしました。身体障害者は、すぐ健常者のようになりたい為に先を見て立ち歩こうとします。気持ちは分かりますが、早く良くなるためには先ではなく後に戻ることです。

 これは実践をしていませんが、歩けない者が、歩行できるようになるには特別な訓練が必要です。ベットの上で、仰向けに寝て両足の足裏を合わせ、膝をくの字に曲げられる所まで曲げ、次に両足を伸ばすことを回数を多くできるようにすることです。(重度小児マヒや脊髄破損等でない限り、歩行は可能です)

両足を伸ばす時に、足下に始めはフトン等で負荷を掛けること(しだいに出来れば、体重に近い負荷を掛ける)
こんなことで立ち歩くことが出来るのかと?思われることでしょうが、不思議ではありません。(猿がヒトになる直立二足歩行方法です。これも元に戻るから可能となります)

2−1-A リハビリの唯物論的弁証法による矛盾のとらえ方

脳卒中によるマヒは、簡単に良くならないという現実を、この矛盾で捉えること。

脳卒中によるマヒは、簡単に良くならないという現実は、治療の過渡的な通過点に過ぎないこと。

なぜならば治療の進歩とは、敵対的なものが有ってこそ発展できるからです。

この敵対的な良くならないという現実の矛盾こそが、自己身体の変革の力なのです。

現実の良くならない身体を肯定しつつ同時に、この現実の身体を否定しなければなりません。

ここに長期かつ瞬時の治療方法が必要不可欠な理由があるのです。

簡単に良くならない自分の体で、良くなる自己身体に闘いを挑むことです。

これが矛盾に内在する変革の素晴らしさ・凄さです。

脳の破損による身体の障害は、マヒした絶望的な障害身体を作り出すことによって、自ら障害が無い身体を作り上げる。


人間は、上手くいかない困難さ・そのものが、人を動かし変化させ障害を克服させるのです。

脳は再生はしない。そのような程度の低い行いはしない。もっと高度な行いをする。脳は破損した脳を変換創造する。それは身体からの能動的行為を受けたときにダイナミックに行う。バイパスや置換等の新しい脳として実現する。

大切なものを失うことが、大切なものを作っていけるのだ。生命・脳は、自ら絶えず内部と外部の対立の統一として”自己更新・自己形成”をする。

障害を持つ身体は、必然的に一進一退を絶えず繰り返す。その動かない障害の身体を、能動的に動かすことだけが身体を前進させる。
(身体は螺旋状に前進する。時として "後退しつつ前進" する)ことを知るべきです。


身体内部の根幹が変化を起こせば、身体は急速で大規模に変わる。(例えば、脳梗塞で身体がマヒする場合等) これでも分かるように変化が起これば、大規模に激変するが、問題はそれが悪くするのか、良くするのかです。(これが変化の矛盾です)
身体内部の根幹部の筋肉等をリハビリ・トレニングで強化できれば、身体は大規模かつ急速に変わり健常者のようになれる。


健康と病気は対立しながら一つのものとして統一されている。より強くなる為にも病気をする。障害者になれば、より強くなれる可能性が出てくる。


見えにくく・分かりずらくとも 真実は、全てのものが運動で変わることだ。何故か、あらゆるものは究極的に自由を求めるからです。

2−1−B 体の変化とは

変化とは=運動です。運動=変化=自由なのです。これが原理なので常に徹底して体を動かすことです。ベットの中でも常に動くことです。質の問題よりも量として常に動くことです。見える動きばかりではありません。新聞や本を読んで体の一部である脳も動かすことです。”学んで動く”これが大事です。
運動 → 学ぶ → 変革 → 継続 → 自由 です。

2−1−C マヒのトレーニングの鉄則

リハビリは最悪の条件ですること、これが鉄則です。ただし出来うればのことです。例えば階段のリハビリでは、手摺り付きで練習ばかりすれば、手摺りの無い階段の場合困るわけです。社会には手摺りの無い階段や急な勾配の階段が多くあります。従って条件は悪い状況を想定しリハビリは行うことです。

2−1−D 介護とリハビリの対処の違い

家族等の人達は、介護とリハビリの違いを正確に理解しなければなりません。介護とは、介護を必要とする患者に対し常に気を配り、すぐ手助けをするように心がけることです。それに対しリハビリは、なるべく手助けを避けることです。患者が自ら動くようにし向けることです。これらは付き添い者が分かり最低限守らなければいけない。(家族がよく手助けをして、その為にリハビリの効果が出ない患者を見ました)

2−2 マヒのリハビリの長期計画と短期決戦

マヒのリハビリには長期計画を立てることです。

@ 長期計画   5年  10年  15年  20年

A 中期計画   1年   2年   3年

B 短期計画   1  2ケ月   3ケ月  6ケ月  10ケ月 

C 超短期決戦  1日   3日   5日  1週間

私が入院したときに、先生に仕事がしたいので1週間で元気にして退院させてと言ったところ笑われました。その時の状態は右側の手・足・口がマヒ、左側は小脳の障害で失調です。手足は動かせないが感覚は感じる。口は舌が回らなくて,うまく喋れないが相手に何とか通じる。すぐ疲れる。頭もどうなっているのか分からない。情緒は不安定だ。

 1週間後から食事は慣れぬ左手でスプーンを持ちイヌ食いしました。利き手の右手はスプーンも握れない。3週間過ぎた頃ノートパソコンを左手でだけで打つ。文章は作れた。頭の思考能力はまあまあだ。ホッとし安心する。うれしかった喜びました。

 右手が駄目なら、左手で練習すれば何とかなるだろうと思い、ハシを握るが使えない。なんとか書けた字は3センチ角の升目の大きさです。これでは使える字の大きさに書けるのは1年もかかるだろう。ちょうど選挙があり病院で投票することにした。投票用紙の字は大きくてもよいが、もう少し小さくしなくてはと思う。そこで考えた。技と技術は違う。ペンも握れない利き手の右手で書くことにした。
選挙に間に合わせるためにすぐ書くこと。一週間で駄目なら1日でやる。1日で駄目なら、3日でやり遂げると覚悟した。何故このような考え方をしたのか?

教育の大法則はやさしい事から始め、しだいに難しいのを教えること,これは普遍的で正しいですが、技には当てはまらない。
江戸時代は士農工商だった。武士は武士しかなることは出来ないのです。ある剣道の道場主の一人息子は、女々しくて弱々しく生まれても才能が無くとも、後を継がねばならない。その道場の弟子には中には出来る者もいる。後を継ぐ息子が弟子より弱くてはいけないので、名人の道場主は一人息子を小さいときから特別の訓練をするのだ。

 例えば、組み手等はさせずに、ひたすら特別の素振りを10年も一人でさせる。そうすれば他人より抜きん出る技を、使える剣の達人になることが出来る。このように始めに習得が無理な剣術の奥義の技を教える。後を継がねばならない一人息子にはこのような技を、他の弟子にはしだいに難しい技術を教えるのです。これが技と技術の教え方の違いです。
 
 私の利き手の右手は、なるほど動かない、動かないけれど数十年は書いてきたので技となっている手と腕はある。有るが、動かないだけだ。動けば書けるはずだ。動けば。
パソコンを1日で・字を1日で・ハシを1日で使いこなす。動けば出来るはずです。1年や数ヶ月かかるものを、1日で出来るのか?出来るには練習をしないことです。我慢をして一気にやるのだ。それしかない。

 その時はパソコン操作をすれば、右手でJのキーを押すつもりでも、OやPのキーを押してしまう。ブルブル手は震えるし、Jを押そうとすれば左手で右手を持ち無理やり持っていくしか有りませんでした。だから練習はしない。ひたすら手を揉んだりして。「やれる・出来る・すぐに」と言い聞かせた。叩いたり・ひねったり・牛コツをしたりしました。
1ヶ月すぎたころパソコンで右手を使ったところ出来た。驚いた。できないはずの手で出来ました。練習しないのに一気に1日で出来た。自分の手が信じられないが出来たことは確かだ。

 1月半後には1日で字が書けました。その前は横線引くのにミミズのような線しか引けなかったのが、一気に名も住所も書けました。それ以上は手が疲れて書けなかったが、少しでも書くことが出来れば、後も練習しなくとも書けるはずです。

4ヶ月目には、1日でハシが使えた。ハシで物がつかめる。手は忘れていなかった。知っていたのだ。食事の仕方を忘れずに覚えていたのです。脳と関係なく?手自身で知っていたのか?それとも脳か?分からないが、いまは不十分な動きだが、ある程度の正確さで手は自由に動いてくれました。バンザイ 出来た。けれど誰も信じてくれぬが、出来ればいいのです。
技術とは段階的な回復です。技とは飛躍的な突然の回復を意味します。

 左手・右手共に練習しなくてよかった。利き手の右手を諦め、左手の練習ばかりしていたら今頃どうなっていたやら、『始めよければ全てよし』が正しい考えです。
無茶や無謀をやっては行けないが、時には“やりすぎは必要不可欠”です。立てなくて座りながら考えることは、立つことではない。歩けることを確信することです。
だがそうではない。歩けない時に、立つ事や歩く事を考えるのではない。走れることを信じ切るのだ。能動的に考え行えば、空想や夢が実現するのです。

全てのものは
やりすぎを徹底し継続してこそ本物になれるのです。

速ければ何でもよいものでもない。また経済・工業の進歩も速ければよいわけでもない。観念論者は急ぐ為に、科学・医学をも、悪の道具にする危険性がある。病気が早く治るのを急ぐばかりに、人間の人間性に繋がる事を疎かにしてはいけない。自由と民主主義の社会の前進が、あってこそ本当の人類・個人の進歩になるからです。

2−3-@ 音楽治療

音楽を聴いての治療などは無いと思う。私はモーツアルトが寵愛し毎日のように聴くが、その効果はないようだ。クラシック好きの私は、なるほどクラシック音楽の中には心を落ち着かせ和ませ癒すものもあるが、脳の回復や安定には関係がないのではと考えます。だが好きな音楽を聴いて気持ちが良くなることはあるので、患者はおおいに聴くことです。
 私の音楽治療は、聴くことでなく、動作に音楽を取り入れたことです。体が思うよう動かず一人でベットに寝ているとき、ポータブルCDのイヤホンを耳に付け、動かないマヒの手で、指揮者やバイオリン奏者・ギター奏者・ドラム奏者・トランペット奏者・トロンボーン奏者等になり音楽に合っていようがいなくても、名指揮者になったつもりで両手を動かしました。始めはマヒの手は動きませんでした。それでも動かしていたら動くようになるではありませんか、その効果には驚きました。

 ただ単に動かすことを私は狙ったのでは有りません。指揮棒のしなやかさ・バイオリンの弦を操る繊細さ・ギターのタッチの速さ等の微妙な指や体の動きを習得するために音楽を利用したのです。動きには力よりも、人間にはこのような繊細さ・微妙な動きこそ必要なのです。指揮者の優美なしぐさ、そうです”美”が必要です。たとえ体がうまく動かない身体障害者であっても、これらは必要不可欠と強く思う。動かない体を、ただ動けばいいと考えるのは間違いのもとです。それでは、その後の発達はない。


 体が立ち少し歩けるようになった時に、私はカーテンを引き一人で隠れて、ジャズ系のリズム音楽のCDをポータブルプレヤーにかけ、それをポケットに入れイヤホンで聴きながら踊りました。ムチャクチャな踊り方でも手足や腰やら全身を使って踊ればよい。楽しかった。心までが踊った。先生や看護婦や他の者に言っても、この人は頭がおかしいことを言っているというとらえ方でした。
 退院後もジャズ系のリズム音楽で踊るのが好きです。全身運動ですし、リズム感も取り戻せてよいと思う。(今はボクシングのシャドープレーもできる)マヒした体は、音楽を聴くのではない。音楽と共に動くのだ・踊るのです。

身体障害者にとっては、音楽は聴くだけではない。必ず身体運動と結び付ける事です。ベットに寝ながらでも、座っていても、車イスでもリズム音楽を聴きながら体を出来るかぎり動かすのです。


 2−3-A シャドープレーで元気に
 シャドーボクシングとは、鏡の前で基本動作を行うことですが、私のシャドープレーとは、勝手気ままに自分が自己流に創造豊かに上手くしている姿を想像しながら動くことです。 @リズム音楽等を聴きながらダンスプレーを全身で踊る Aシャドーボクシングは特に肩胛骨を動かす B縄跳び、ロープは使わない。 ※体が立てない人は、畳の上で水泳のシャドープレーの動作をして下さい。  <四つん這いのハイハイ動作も優れたシャドープレーです>
(注意 シャドープレーは、強度がきついので、回復が十分でないと危険がありので、必ず体力の回復におうじてのみ行って下さい)

 2−3-B イメージトレーニングの重要性について
 体の動きが思うように出来ない身体障害者は、イメージトレーニングが非常に大事です。この重要性に気が付いていない人が多い。目をつぶって自分が動いているイメージ(想像)を脳に浮かべるのです。これで実際の体の動きに近い刺激が脳に起こります。歩けない人も、この方法では楽に歩けるのです。実際にはこれだけでは歩けませんが、歩ける前提条件が出来上がるのです。人間の観念力(精神のイメージ力・想像力)も偉大です。これは脳の意識による脳プロセスへの直接刺激方法です

 毎日色々なイメージを思い徹底してイメージトレーニングをやるのです。ただしこれには一つ困ったことがあります。感情だけでなく、イメージトレーニングの重要性を理論的に理解していないと、脳が刺激されていることが本人には分からないことです。(脳測定機器で測定は可能です)

 脳は宇宙で一番の優れものです。現在の宇宙学では、これ以上の物は確認していない。これほど脳は考えられない可能性を秘めています。脳があまりにも優れているので、イメージだけで脳は脳にだまされてしまうのです。それでイメージトレーニングの後に、実際の身体の動きをして脳に本物の刺激を送ることです。
だが脳を特別な物質であっても、脳をそう思ってはならない。脳は身体と一体のものとして生きていて、また自然・社会的な存在です。この認識が大事です。

2−4 トレーニングのデータは必要か

データの記録や点検は必要と思われます。それ自体は使い物にはならないけれど、毎日付けることにより励みになります。私はパソコンに点検項目表を作り、それで点検しています。簡単に付けられる表がよい。毎日こまめに書き込みが出来なくとも継続が大事と思います。(日にちが経てば、項目の書き換えも必要です)  だがデータの記録や点検を重んじてはいけない。リハビリは気が向いたときにすることだ。リハビリはいい加減にすることです。身体と心に聴くことです。その後で精神力に頼りきちんと、やるべきです。

2−5 恐ろしい日々と社会的な闘い

6月13日に退院したが、その後の日々は恐ろしかった。朝から夜中までしんどくて、どうしようもないのです。毎日毎日、寝ていても体全体がしんどくて、しかたがないので1週間ふてくされて寝ていたが、しんどさは治らない。これからもこのような日々が続くのか。自分の体が嫌になる。将来が不安だ。生きているのが面白くない。

 しんどくて辛い7月の暑い夏。降ってわいたように近くの空き地にコンビニのセブンイレブンが建設されるという。2年前に中止になったのに、セブンイレブンは市の条例をかいくぐり、住民無視の営業をしようとする。集会では自治会も動こうとしない。建つ脇の住民は困っていました。

 私はこのような運動には慣れている。しかたなくフラフラ歩きながら、喋るのも(ろれつ)が回らないのに、住民の中心的になり運動を始めた。会合5回以上、市交渉2回、市職員との話し合い等とパソコンで文章を数回作成し。コンビニは24時間営業になりましたが、住民の要求も通した。住民から喜ばれたが、ひとつ間違うと脳梗塞の再発する危険性はあった。

 この問題が決着して、気候が涼しくなり発病10ヶ月目の頃から体のしんどさが少なくなりました。体力が身に付いてきたのでしょう。

科学とは、社会的人間がいつも現実と闘い一歩一歩社会的に勝利を収める行為を含まなければ、空想科学となります。科学者であっても知識のみを追求する者であったなら真の科学者ではありません。本当の科学者・科学的人間とは社会と闘う人間のことです

2−6 私の生活は地獄、だが地上の天国を手に入れた。

もう私は仕事が出来ない体。仕事が出来ないことは収入がないこと。収入がないことは住宅ローンを払えない。払えないことは家を取り上げられる。それでは生活はしにくい。現在は、金が無ければ生活は出来ない社会。この地獄状態の私生活なのに、私の気持ちは非常に幸せだ。何故か?


人間の人間としての完全なる人格発展は、個人の能力の問題でなく、自由時間が有るのかどうかです。しかし一定の生活が出来る収入がないと暮らせませんから、私達は労働をします。この生活の為の拘束された労働時間が長い場合は、個人の自由時間がありません。
たとえ個人的能力があろうとも、この個人の自由時間がなければ、能力を伸ばすことや人間としての全面的な発達は望めません。
働いているときには、とても自由時間は少ない。その自由時間が脳梗塞と共に向こうから勝手にやってきたのです。しかし自由時間は手に入れたけれど、今度は体が動かない。

 後は体さえ動けばよいのです。私は地上の楽園を手に入れたのだ

毎日好きなだけ本が読め・音楽を聴ける。こんな楽園が地上にあるのか。読書・音楽三昧をしていても、誰も文句を言わない。これほどの環境がこの世にあるか、まさに天国だ。

 私が身体障害者にならなければ、このような環境は手に入らなかったのです。失ったものより、受け取ったものの方が大きいように思える。この状況を喜んでいいものか悲しむべきか、分からない矛盾・はかりきれない矛盾、喜び・悲しみの矛盾です。

だが自由時間は手に入れたのに、肝心の身体が思うように動かない。ああこの皮肉の矛盾。しかし大事なことは、この矛盾をありのまま受け入れることです。自由時間バンザイ、今の俺の生活 バン・バンザイだ。これが俺の今の状況を正しく認識していることになるのです。

 日本のルールなき資本主義社会では労働時間の延長等により、個人の自由時間が少ないために、人間の能力発達が阻害されています。ここに労働時間の短縮により、自由時間の確立で豊かな人生が過ごせます。

2−7−@ 体がマヒした所には何をすべきか

“マヒした体の所のへは、優しくしたり・さすったりしてはならない。貴方は飼っている牛が動かなくなったら、綱を引っ張り「さあ動け」と言い、動かなければ、その場に座り込んで動くまで待つのか?昔から、牛が動かなくなったらムチでたたくのだ。川に自ら落ちてしまった飼い犬は殴るのだ。それが道理というものです。

 道理とは考え方ではありません。正しい感情と正しい思考が一体となったものです。ですから自ら身体が自己の思うように動かなかったらそこを“たたくことだ・殴ることです”強度の刺激を与えることです。これがマヒのリハビリの道理です。本当に正しいやり方です。
何も無茶をせよと言っているのではありません。徹底してやること、その上に継続しなくてはならない。良くならなくとも、諦めてはならないと言っているのです。

 脳障害等のマヒのリハビリを「よくなるのか、それとのも治らないのか」そのどちらかなのかという観念に取りつかれ、後の結果を憶測して、今の過程を断念することになるのがいけないからです。

「どうせ元の体には、健常者になれないから」と諦めるのが恐ろしいのです。マヒした身体の所には、強く痛い刺激こそ必要なのです。苦しくて長い時間が必要不可欠です。

 良くなるのか、それとも悪くなるのかは、分からないけれど、必ず変化すると認識することが人間には一番大事なのです。身体障害である自己の身体は否定しようとも、その中に内在する人間という普遍的な身体は変化するという。この自由で真の勇気を認めるのだ。

だがこの勇気には、もう一つの深い勇気が必要です。諦めきる勇気です。それと共に人間としての、社会変革の運動は諦めない覚悟の勇気も同時に必要です。それは人類につながる人間の勇気です

 退院後は車に30分以上乗せてもらって降りようとすると、足が思うように動かないしドアを開いて降りようとすると、足がふらつき危険です。
私は車の補助席のボックスに(ゴム金槌・木槌)を常に入れていて、長い時間乗っている時には、木槌で足裏全体を叩くことにしています。
健常者は長距離の飛行機に乗れば、エコノミークラス症候群にならないため足を動かすだけで良いのですが、マヒの身体には足を動かすだけでは不十分です。
(足首を前後に屈伸することや指を開くことも少し効き目がありますが)マヒの初期には叩かないと車からの降りるときは危険です。私は退院後の3ヶ月間は危なかった。

 マヒした体を正常に戻す確実な方法は今は無いこれは理論が無いからです。だから実践がなされていないのです。従って、まず理論を考える。
 マヒした身体は、以下の3項目により解決できるのではと考えます。
 @熱(体温+外気熱)    ・・・マヒした患部に、少し熱すぎる程度の熱(ヒーター等)を外部から一定時間かける。1日1回〜2回を30分
 A電気(微弱電気・アース)・・・ヘルストロン・低周波等を1日1回1時間、散歩(マイナスアース)
 B動作(身体の柔らかさ)  ・・・脱力等の体操・温泉の中での体操
 現在(2006年10月)これら等を行っています。しびれが無くなり少し良い結果は出ているが、完全ではありません。

2−7−A マヒは無くなるのか?(だますのか?)
 マヒした身体は、脳の損傷の度合いによって初期に治るものが有るが、その後に残るマヒは治らないと考えます。だがマヒした身体を”だます”ことは出来そうだ。私の場合は右側がマヒしている。右手は使えるようになったのでマヒしていると思わないことしている。これが大事です。(健常な左手が腱鞘炎と二本バネ指になってマヒしている右手よりも、ひどくなっているので健常な左手をマヒしていると思い。マヒしている右手をだましている)これが案外上手くいっている。今はもうマヒしている右手をマヒしているとは思っていない。

 右足は歩くときに意識をして歩いている。マヒは脳と神経が上手くいっていないからおこる。だが神経と意識は違う。だから神経はダメだからマヒして所を意識をして動かす。歩くときに「右脚・右足」と言って右の脚と足(踵・指)を意識しながら歩くと、時にはマヒしている右脚をマヒしているとは思わないことがある。しかし疲れるとマヒしている右足が他人の脚のように感じてしまいます。もっとこの意識を徹底して継続すれば、マヒをだまし切れることが出来るかも知れない。やることだ


2−8―@ 浮力の利用について 

健康な人は、自分の体重を利用したトレーニング等が出来ますが、マヒしている人は自分の体重を支える筋肉や力がありません。このことでもってトレーニングを諦める。しかしこれで諦めてはなりません。
 浮力を利用し体重を軽くしてトレーニングが出来るのです。風呂の中で完全にしゃがんだり、スクワットや腕立て伏せ等など負担が少なく面白いほど出来ました。 足に水圧が掛かり浮力によって脚や膝に負担が少ないと思います。身体障害者にとっては、風呂はトレーニングの出来る良いところです。
ただし風呂ですので、やりすぎて倒れる危険があるので無理を一人でやってはいけません。(銭湯などで他人が大勢いる所で行うと安心です)

体の芯まで温めながら軽い運動は良いと思います。(注意。お年寄りや病弱者・身体障害者は長湯は危険ですので気を付けて下さい)

2−8−A プールの利用方法

プールの利用方法は色々ありますが、温水プールだとお金がかかります。私は退院後、無収入でしたから、月に一度ぐらい妻と一緒に長寿村という健康ランド的な銭湯にいきました。そこには15mぐらいのミニプールが有ったので、泳ぎ・水中歩行を行いました。
 水泳の得意な私でしたが、手足がマヒしているので始めはブクブクと溺れかけ驚きました。落ち着いて平泳ぎ的なスタイルで泳げば、なんとか泳げました。今ではクロールも出来ます。プールの深さは1.35mですが、水温が25℃ぐらいなので長く泳いだりしていると体が冷えるようでしたが、銭湯なのですぐ暖かい湯船につかることが出来ました。

2−9−@ フトンの中の体操 

フトンの中の寝床体操は、重要です。マヒの障害者は特に重要と思う。何故か?手軽に毎日続けやすく、継続が身に付くからです。それは人間なら毎日寝るからです。このフトンで寝てすることはバカに出来ません。誰でも毎日フトン寝るから継続しやすいのです。全ての背骨を魚のように、ゆすり動かすことなど簡単にできます。その他の色々な動きを、私は1週間に5日は実行しています。
@ 背骨のゆすり   寝たまま上体を左右にゆする。 10〜20回   1セット
A    足首の曲げ伸ばし 足をそろえて(手を大きく開閉も)  20回   1セット
B    両手上げ伸ばし  両手を寝た体に直角に肩胛骨より上げる 3回   1セット
C    腰上げ      両膝を曲げ腰の上下     50〜100回   1セット
D     腰ねじり     右の膝を曲げ左の脚外側に右膝を床に付け、左側の手で曲げた  

膝を押さえ右手を右側に伸ばす。次は反対動作  左右1セット
E 片脚伸ばし  左右の脚を伸ばし、伸ばしやすい脚を伸ばす 片側3回 1セット

F 手足全身伸ばし  寝ながら両手足を合わせ伸ばす     3回   1セット

G 両手足上げブラブラ 両手足を上げブラブラ振る  10〜20秒   3セット

H 赤ちゃん体操   両膝や片膝を胸に抱え込む。股を開き両足先を掴み抱え込む

片足を上に上げの大腿部を持ち足首を回す・足指開く   1セット

 I 活源       野口整体                    1セット

J チベット体操   始めの3種類 (これしか今は出来ないから)   1セット

K 上体反らし  俯せ両手で上体を反らす(両手を頭・肩・腰横でする) 1セット

L ヨーガ      簡易体操のヨーガをする。            1セット

M 木刀の素振り   フトンに座り木刀を頭上に上げ振り下ろす 50回 1セット

CD音楽を聴きながら1時間やる。セット間にはヨーガの死人のポーズを入れる。背骨揺すりも入れる。腰上げと木刀の素振りは、数を増やしていますが、ある一定の数になれば固定化して、鍛錬にしたいと思っています。

実際の私は、もっと多くの種類の体操をしています。夜の寝る時は、少しだけです。

@ ベタ座り     正座し脚を広げ尻を床に付ける。 5〜10分   1セット

A 背骨のゆすり   寝たまま上体を左右にゆする。 10〜20回   1セット

B 全身脱力 足をそろえて曲げ踵で脚を支え肩胛骨を縮め脱力 1回   1セット

       (力を入れ、踵・尻・肩胛骨の3点で体を支え、脱力)

1週間に2日は、休みを必ず入れることです。そうしないと疲れがたまります。疲れが出ないことが最優先です。


2−9−A 毎日の三大リハビリ行動とは
 1,寝床体操・・・・・・・・・・・・朝晩に計1時間(朝45分・夜15分)
 2,風呂中体操・・・・・・・・・・・30分     
 3,
ウオーキング(散歩)・・・・・・40分(30〜1時間)


2−10 正座が出来る方法について 

脚がマヒや膝が悪いと正座ができません。正座が出来るのに私は10ヶ月かかりました。
足首回し(手の親指と人差し指で、足の親指を握り、膝を曲げた脚を反対側の真っ直ぐ伸ばした別の脚の上に置き)足首を内側回し20回、次に外側回し20回、最後に内側回し20回、合計60回を毎日しています。なぜなら足首には全体重がかかり体の重心のバランスなどで重要だからです。

 また足首の捻挫を身体障害者は、起こしやすいので、この足首回しは毎日することが、必ず必要不可欠で重要です。山道を登ると必ず2,3回は足首をねじります。
まずこのようにして足首が柔らかくなると、こんどは直径10センチぐらいの丸枕を膝裏付近に挟み、慣れてくると踵側に挟んで、次に踵側に座布団を挟んだりしました。
このようにして正座が出来るようになり、今はベタ座り(おしりを直接畳に付ける座り方)をできるように練習しています。

注意 正座は足の爪先を重ねないようにして下さい。体が歪みます。


2−11 自転車を利用する方法について 

立つことも歩けない人は、どのようなトレーニングが出来るのか?家で簡単に出来て効果がある方法があります。
古い自転車でも良い(私はパンクしてさび付いた自転車で行った)片側が壁近くにスタンドを立てた自転車に乗り(補助者が付き沿い)始めは足をペダルにかけるのも難しかったが、載せてもペダルを回すとすぐはずれたけれど慣れると出来るようになる。始めは空回しで速く回せるようになることです。次にハンドルブレーキを握り負荷を少しかけ回すことです。

注意点はブレーキによる負荷はかけすぎないこと、負荷をかけすぎると長続きしない。少しの負荷でも良いトレーニング効果が出ます。時には空回しの逆転回しもすることです。北国の人は自転車を家の中に入れトレーニングが、冬でも手軽に出来ると思います。

発病する前に自転車が乗れていた人は簡単に乗れると思いますが(自分の経験では)しかしこのことと転倒しやすい事は別です。私は何回も転倒しました。私は小脳も脳梗塞でやられているので失調がありコントロールが不十分なのにスピードを出し転倒したりしましたが、いい経験と思っています。このことは人には勧められませんが、安全と危険は表裏のことであり、少しの冒険は許しても良いのではないのでしょうか?
しかしながら健常者ならいいが、障害者には危険すぎることは事実です
(立ち・歩くセンターラインは、自転車では役立たないのでよく転ける。軽い自転車でも身体ものみを支える力だけの身体能力の場合では、自転車もろとも転倒する)

2−12 二上山登山

 元旦は、天気が良くて暖かいので思い切って,奈良県香芝市の二上山に一人で登ることにしました。西真美の自宅を午後1時半に出て、徒歩で山頂をめざして登り切りました。
 途中で何度も諦めようとしましたが、なんとか上がりましたが、下りも足が痛くてたまりません。しかし疲れているにもかかわらず驚くほど、麓から自宅までの足取りは軽かった。達成感や自信が付いたからだと思います。人間は感情が第一の動物であり、理性は次なのです。
 自宅に付いたのは5時半です。全行程は4時間でした。速く歩けたと思いますが、健常者と行けば迷惑をかけたと考えます。

下りの階段的な坂の全行程は「重点・重点」と言って歩きました。これを言いながら足の重点を意識しなかったら転んだ事でしょう。

 これが私の新年元旦の冒険でした。皆さんはこんな馬鹿げた事はしないように。

その夜から左足の骨が疲労骨折と思うほど痛んだ。マヒの右足をかばったからか、あくる朝は退院後からはリハビリをかねて、1週間に一度、5軒の近所の家に新聞を配達している。正月の2日は一般新聞の配達は休みです。ですから毎年この2日に新聞を配達する。2階の寝室から階段で下りようとするがとても出来そうにない。しかたなく尻を階段につき一段一段下りた。それからペンギンのよちよち歩きで配達はやっと出来ました。

山に無理して登ったのは、登る行為の過程と頂上に立った時の満足感・開放感・達成感を、私は求めていたからです。
(発病してからは失望感・落胆ばかりで狭く落ち込んでいたので、その反対の開放感・満足感・達成感で自信を取り戻す為の登山をしたのです)

 登山の行為は、科学の追求過程と似ている。1歩1歩目的に向かって苦しくとも進み、頂上に到達したときの達成感は、科学的行為と同じではないでしょうか。人間は目的があれば、なんとか出来るものだ。目的を作ろう。自分に合ったものを。しかし合わないものも、時には必要です。


 脳卒中患者は「うつ状態」になりやすい。そこで障害で自己喪失の狭く落ち込む状態の自己中心から、登山等の運動で自己を解放し自信を付け元気になることです。

 ※
下山と科学について
 登山は登りと下山は一体です。だが普通は登ることを重要視する。苦しい登りを登り切ると、高い頂上にたどり着き周りがよく見渡せます。その後の下山は、ただ仕方なく生活をしている地上に戻るだけのように思えるが、これを科学思考に置き換えると、学問的に高い頂上に立つことと、それと同時に我が身を地上の低い場所に下げることが大事です。何時も虐げられた・弱い立場の人々と共にいることが、高くて科学的理論と共に低い立場に身を置く、この対立している二つが統一させたのが、正しい科学的な人なのです。   新しい道を創ろうとしたら正しく歩いた人の後を歩め、それが必ず大道となる。

 登山家は連日吹雪こうが登頂を諦めない。科学者は何度失敗しても真理探究を諦めない。身体障害者も治らなくても決して諦めてはならない。

2−13−@ 発音の呼吸について

私達は、人間は空気を吸うことにより生きている。自然に人間は吸う。しかし呼吸と言います。始めに吐くのです。吸うのではありません。吸呼ではありません。吸うとは生物にとって原始的なもの。呼(吐く)とは程度が高い人間的な進化の行為などです。


 人間進化の言語の発音には、呼吸の吐くことが重要ですが、身体の健康にとっても大切です。身体障害者の身体はどうしても動くのが少なくなります。マヒ等により血液の流れも悪くなり体が冷えます。そこで腹式呼吸法を取り入れます。呼吸の対比が問題なのです。吸うことを1とすれば、吐く時間を2から3にする。練習すればこの比を5か10倍に出来る可能性があります。これにより脳にも静かな刺激を与えるかも知れません。

 笑いとか、顔の色々な表情をリハビリに取り入れることも大切です。脳卒中の患者の多くは笑わない。顔に表情がない。生活に潤いがない。テレビを見ても笑わない患者には、大きな空笑いをリハビリに取り入れても良いかも知れません。また口だけの発声練習でなく腹から声を出す練習も重要です。

人間の動作は力を入れると息を吸い込み、息を吐くと力が抜ける。呼吸の速さは動作の速さと一致する。身体障害者は呼吸の速さにも注意する事です。


2−13−A 
咳・痰には鼻呼吸を

 私も口呼吸を子供の時からしていたので、50年ほど気管支炎を患っていました。数年間意識して鼻呼吸をしたり腹式呼吸をしたところ痰が少なくなり喜んでいます。

 多くの人達が主に鼻呼吸をしているようです。そのため咳・痰に苦しんでいます。気管支炎関係が悪い人は、鼻呼吸法や腹式呼吸法をすべきと思います。鼻呼吸方法は鼻からゆっくり吸って鼻からゆっくり吐けばいいのです。
 このように鼻呼吸は技術的には簡単なのですが、鼻呼吸を身に付けるには、「毎日つねに鼻呼吸を意識をして継続」することです。

気管支の障害等が有る人は、口を閉じ鼻で喉の奥を振るわせる鼻歌を、毎日5分ぐらいすれば風邪や肺炎にかかりにくいと思います。

2−14−@ インナーマッスル(内深部筋肉)も痩せ衰えていた

マヒの体になって、外面の筋肉はゲッソリやせ衰え細くなりました。入院3ヶ月以上たった時の利き腕右手の握力は7kgでした。発病前は40kg有ったと思います。
退院後の10ヶ月の時に、全身を俯せてマヒの脚を曲げ、マヒの右手で足先を掴みなんとか少し反らしました。実際はほとんど反らせず足先を掴んだぐらいを1回しただけで、それ以上は出来ませんでした。翌日もう一度すると、下腹のインナーマッスル(内部筋肉)が引きつりました。こぶらかえりのように非常に痛くて驚きました。このようになったのは初めてです。

 外面の筋肉の衰えは見え感じていましたが、内部の筋肉は見えないし感じにくい為に分かりませんでしたが、外部の筋肉と同様に衰えていたのです。考えてみたら分かることですが、案外だれも理解していないのではないでしょうか?患者も先生も、理解していればインナーマッスルの筋肉を強くするトレニングをしなければなりません。この為にも骸骨等の模型も病院には必要です。学ばなければ誰も理解できないからです。


2−14−A 身体感覚も衰えていた
 体のマヒ等で動き(反応速度)が、遅いのは仕方のないと思っていましたが、そうではなくて身体感覚器官も衰えていて身体反応が遅くなっていることに気がつきました。(身体のマヒと同じ身体の感覚衰えを、同一と考えてはならない
感覚が鈍っているので、その結果反応が遅く、体の動きが遅れていることです。ですから感覚を鋭くする訓練も大事です。

 リハビリにスピードトレニングを組み入れることです。同じ歩くのでも速歩が大事。またランニングも大切です。動きに速さを求めることです。飛んだり・跳ねたり・リズム等をすべきと考えます。

脳卒中者の多くは肉体や感覚だけでなく、感情も鈍っている。
心は、脳の動きではない。心は、身体全ての変化です。部分の全ては全体ではない。全体を把握すれば、部分はよく分かる。


2−15−@ 階段の上り下り

社会生活をするには、どうしても階段の上り下りは必要です。手摺りを掴んで上り下りは、出来ないときは仕方がありませんが、手摺りのない階段もありますから、手摺りなしでも出来るようになることです。
 身体障害者には、階段が難しい。何故か?マヒした脚が上がらないからです。マヒしているので足の感覚が感じられないからです。転ぶと怪我をするから危険です。この為に階段を不安で怖がります。

 この克服には脚が上がればいいのです。上がらないマヒしている脚を上げるには、マヒが良くならなければ、マヒした脚では上げられない。ですから身体の他で脚を上げればよい。
 脚が不十分なら手を使えばよい。手の反動を使う事です。手が完全麻痺の場合はできないが、始めに手を下ろし脚に沿わし、脚を上げるときに、手を前に90度まで曲げ挙げれば、足を上げやすくなる。
 
身体意識も脚を上げる時に使うのです。観念の精神力で足が上がると思うことです。手を挙げる動作と身体意識の精神で、マヒした脚を上げることです。手を90度にまげることに合わせて、手首と手指を曲げるテクニックを練習すれば、段差の高い階段の登りも、しやすくなると考えます。


 障害が回復すれば、踵を着地する階段登りや駆け足での階段登りを試みることです。駆け足での階段登りは、疲れないので驚きました。

 階段を下がる場合は、90度に手を前に曲げ挙げた手を下げればよい。脚に沿って手を下げるだけでよいのです。テクニックは手を広げてこれが足と思い、階段に安全に足が着地すると思い込むことです。これも上がる時と同じく、手を下げる動作と身体意識の精神で、マヒした脚を下げることです。
 下がるときに転べば、階段を数段落ちる危険性があります。ですから階段を下がるときは、足の重点や踵で階段に着地し、重心を常に後ろに残し転んでも尻餅を打つようにすべきと思う。足のつま先で着地を行うことや、前屈みになり重心が前だと、転んだときには数段転び落ちます。非常に危険です。

(階段の上り下りのテクニックよりも、上り下り出来る筋肉がなければ出来ない


2−15−A 胴体力の利用

手足が不自由な場合、いつも手足ばかりを正常に動かすようにしますが、手足を充分に動かすには、胴体の筋肉(胴体力)胴体の動きを手足と共に動かし利用することです。胴体を @側面を伸ばす A背中を曲げる B腰を捻る C背中を伸ばす。毎日このトレーニングをすることです。


2−16 低周波治療器はマヒには効くようだ

体全体がしんどいし痛む。手足がうずく。体全身が冷える。手足が特に冷たい。脳梗塞の後遺症です。糖尿病や高血圧がある私は新陳代謝が悪い。そうだといってもマヒした身体は思うように動かない。動かせばすぐ疲れる。それで毎日一人で悩み落ち込む。
発病後の10ヶ月の時、「そうだ」と思った。新陳代謝が悪ければ、他の力で動かせばよい事に気が付きました。身体がマヒしているので、脳に行く神経が少ない。刺激をするには体を動かすに限るが、マヒで動きにくい。低周波治療器の電気で筋肉を動かせば、脳に刺激やマヒしている筋肉が動く、それにより新陳代謝がよくなると考えました。


 3、000円の安物の低周波治療器を買い、使ってみると効果がありました。もっと前に知っていればよかったと思い残念です。
 ヘルストロンという電気治療器を知り無料のこともあって毎日通っている。体のだるさなど軽減したように思う。この機器は高価なので(30万円〜100万円)で買えない。ただ万能治療器など存在しない。それほど人間の身体は素晴らしいのだ。

 市販の色々な健康器具がありますが、健常者が使っても、その多くがすぐ慢性化し効果が無くなります。しかし身体障害者や高齢者には効果があります。リハビリ治療には大いに利用すべき事であり、このことでは大変遅れているように思います。
(例、振動マシーン等の電気で筋肉を動かすので障害者には非常によい。多くの機器を並べてサーキット式のリハビリが出来る最新のリハビリ治療です)

2−17−@ リハビリから筋力トレーニングへ
 身体障害者のリハビリと、トレーニングは別です。これをはっきりと認識しなければならない。リハビリとは、身体障害者が日常生活が個人的に出来るようになるように訓練することです。トレニングとは、身体障害者が健常者に近づくための訓練です。

2−17−A 筋力トレーニングについて

難しい問題ですが、重い病気等や80歳以上などはウエイト・トレーニングが必要ないと思いますが、マヒの身体障害者には、ウエイト・トレーニングは必要です。
マヒにより筋肉が減っていること、従って筋力を付けるにはウエイト・トレーニングが効果的です。では、なぜ難しい問題か?マヒによりウエイト・トレーニングがやりにくいからです。又その患者に合った正しいウエイト・トレーニングをしないと逆に体を悪くします。

 患者とその身体の部分に合った正しいウエイトを選び、なおかつ正しいトレーニングを行うことが難しいのです。ウエイト・トレーニングの正しいやり方を知っている人や、マヒの身体障害者のウエイト・トレーニングの正しいやり方を知っている指導者は少ないからです。
健常者のウエイト・トレーニングの原則と、身体障害者のウエイト・トレーニング特殊法則との融合的なウエイト・トレーニング方式を行うことです。これにはトレーナや患者の知識能力等がまず問題となります。

 器具も多種多様の種類です。私のように利き手の右手がマヒの場合、鉄アレイでも右手には0.5kg、2kg、3kgを使い。左手には4kg、3kgで3種類の動作とセット数も違います。今は左手には5kgが必要ですが無い。ジムに行けば重さの違うウエイトは有るがジム等に行くには金が必要です。 
このように正しいウエイト・トレーニングを行うには、色々な問題があります。これらの問題を、まず解決しなくてはなりません。だから難しい問題が有るのです、
マヒの身体障害者のウエイト・トレーニング極意は、ウエイト・トレーニングをして、しない、これが正しいやり方です。無理をして、同時に無理をしない。休み・休日を頻繁に入れる。力まない。(力まないとは、歯をくいしばらない・微笑しながら)後は健常者のウエイト・トレーニングの原則で行うことです。


2−18 体温(血液の需要を知る)

人間を知るには、考えなくてはならないけれど『人間とは何か』と、観念的に考えれば袋小路に入り込む。まず人間の身体から始めることです。そのことは初めに体の自体をよく知ることです。では体の何が大事か?体は60兆個の細胞で人間の体はできあがっています。その半数の30兆は血液の中に色々な細胞は含まれています。ですから血液が人間の体にとって、一番大事と言っても言い過ぎではありません。

 この血液の流れは運動変化しエネルギーを生み出します。栄養・酸素等の宝庫でそれを身体の隅々まで循環させます。この血液を体温として私達は簡単に測定できるのです。体温の高さで、最低限で体の調子を自覚できます。体温は37度の高さ付近が必要の目安です。それ以下の1度も低い36度では芳しくないと思います。従って血液の流れも運動変化としても大切で、血液がさらさらで流れやすく、同時に血管自体も柔軟かどうかが健康には必要です。これらも現在は簡単に測定が出来ます。

血液(体温として測定)は、血圧測定よりも大事です。


2−19 食事について

食いしん坊の私は、食事の量を落とさなくてはならない。質も問題だが、総カロリーを下げる事です。分かっているが、大食漢の俺は、幾度のダイジェストを重ねたが、いつも失敗続きでした。
一日に食事は3食です。これを2食にすると総カロリー量は減る。そこで食事を抜きやすい朝食をしないことにしました。だが今は腹が減るので、リンゴとニンジンのジュースを飲んでいます。
質の問題は、ご飯は昼と夜に一杯の一日2杯としています。おかずは、大豆類(納豆・凍り豆腐・豆腐)を食べ、野菜・果物・魚類・海草類も多く食べるようにしています。


2−20 クエン酸(結晶)100%を飲む

マヒの身体障害者の体は、体を動かせば筋肉は痛むし・疼く、だからといって動かさないわけにはいかない。風呂やマッサージを何時もすることは出来ない。そこで私はクエン酸100%の結晶の粉を飲むようにしている。安い上に手軽に水の中に入れて飲む。筋肉の痛み・疼くは、和らいだ。これと低周波治療器を併用している。


2−21−@ 嚥下(喉の奥のマヒ)

脳卒中マヒの身体障害者の体は、喉もマヒになるため嚥下になる。嚥下には悩んだ。今も悩む。水を飲めばむせた。肺炎になる危険があるので医者に日本酒を飲む、お猪口で飲むように言われて長らく飲んでいたが嚥下は良くならない。水に湿らした綿を凍らした嚥下棒で、喉を刺激したが一向によくならない。
色々試してみたが、上手くいかない。そこで考えた。喉がマヒしているので、嚥下からの信号が喉頭蓋に送られないから、肺の気管入口の喉頭蓋が閉まらない。だったら自分の自己で、自分を騙せばよいと気づいた。

 水や飲食する直前に、大きく息を3回吸い込み肺に『空気を一杯吸いこんだから、もう喉頭蓋を閉め』と騙すと、喉頭蓋は閉まる。この方法で練習していたら上手くいった。このことを先生に言ったら、そのような方法もあるとのこと、何故それを早く教えてくれなかったのか?4ヶ月間、悩み苦しんだのに。
ほとんどこの方法で克服できるが、慌てながら食事をする場合や薬を飲む時、水を少し長く口の中に含んでいると、喉頭蓋が開き気味になり、むせる事が今でもある。
嚥下とは直接関係ないかは分からないけれど、飲食の時、笑えば時としてと瞬時に口の中の物を勢いよく全部吹き出す。困ったものだ。現在の私の課題はこれです。


2−21−A 唇の矯正(片側唇のマヒ)

脳卒中者は片側マヒで唇が歪む人がいる。私の場合にはマヒのために右唇がつり上がり、マッサージをしても良くならない。そこで歯磨きの時に歯ブラシでその部分の歯茎や頬の内側を磨くと、かなり良くなりました。

2−22 情緒不安定に悩む

脳梗塞の発病後、外泊の時に家でテレビを一人でかけ、サウンド・オブ。ミユージックの映画を見たら始めから号泣するではないか。ほとんど泣いたことが無いのに「いったい俺はどうしたんだ?」
 脳の前頭葉が脳梗塞で衰えたからか? 情緒不安定ばかりではありません。パソコンも打ち間違えが、日に日に増え、ひどくなる。
 頭の中の脳がやせ衰える。頭の中だけではない。頭の外の毛も痩せ無くなり、ハゲが目立つこの頃、自信をもつ、勇気を持つこと、今はこれが大切だと、自信のない自分に”自信や勇気のない自己が”自ら言い聞かせている毎日です。

2−22−@ 走る(ジョギング)

発病10ヶ月後には、近くの公園で走れた。小走りに出来るのには、単に走れるだけではなくて、自分で走っている身体意識で感じられるかどうかです。小さな公園を1周走り休み、また1周走り休みを5回繰り返せた。この回数を増やし、1周を連続2,3周に繋げていけばよい。1kmをめざす。焦らずにすることです。

2−22−A 動作の速度(スピード)は必要

身体障害者は、安全が第一のために動作を意識的に遅くしがちです。それは体が動かない為もあって当然と思い動作がのろくなります。しかし老化も障害も身体の動作の遅さからも始まります。従って身体の許す限り動作にスピードを意識的に取り入れることです。このことがリハビリの先生方や本人も理解していないのです。
 私も発病後これが分かっていなかった。1年半後に速度の重要さに気がつきトレーニングに取り入れたところ身体動作が面白いように向上しました。

 リハビリには動作だけでなく、勇気が必要不可欠です。患者・医師・家族は、このことを早く理解しなければなりません。特に一部の女性の場合、勇気がないために(転倒等を必要以上に怖がるので)リハビリ効果が生かされていない事をよく見かけた。

 動作の速さの追求と、リハビリ効果の進歩を混同してはいけない。身体の回復は『ゆっくり』と正確・着実に前進です。安全は最優先です。


2−22−B 動作には大きさも必要

身体障害者は、動作が小さくなる傾向があります。ですから「大きな動作」を概念として持ち実践することです。動作は最速かつ最大を追求すべきです。(例、歩行の場合 歩幅を大きく、かつ早く歩く・同時に手も大きく速く振る)さらに軽快リズミカルに動く動作が大事です。


2−22−C プレッシャー(ストレス)も必要

身体障害者は、肉体的にも精神的にも弱っているので、負荷は避けるべきですが、体の調子をみてプレッシャー(ストレス)をリハビリや日常生活に意識的に取り入れることです。リハビリとは負荷を身体にかけることです。


2−23-@ 整体

整体とは、野口整体のことです。病気の治療方法を私が理解するところでは、身体治療は、外科治療(体の外面等)、内科治療(内臓等)、骨(体の土台)の3種類治療があると思う。

 野口整体では多くの病気は体のゆがみで起こるとされていますが、私は体外面のケガの場合は、外科手術で縫い合わせることが必要と考えます。また内臓疾患は内臓治療が必要と考えますが、身体の土台は骨格と考えます。体の土台の骨が身体の中心で、その骨がまず正確にその位置に収まっているか、どうかが、身体の基礎的要素の第一義的で大事なことです。

 私は、鍼灸やマッサージ等にも行っていますが、整体で骨を治療してもらったところ思ったよりも効果がありました。ただ整体は、先生の技術に能力がなければならない。このことが問題です。

2−23-A 脚と手との関係進化論 (手の一部の操作が、なぜ骨盤に影響を与えるのか?)
 なぜ、手の骨を少し操作して動かせば、脚の骨盤部が動くのか?脚骨と手骨の関係はどうなっているのか?この問題は進化的に追求しないと分からない。赤子は生まれたときには、成人のような骨格をしていますが、例えば、脚は立ち歩けない。このことは脚の骨盤部が未発達を意味します。人間は、猿からヒトになるには直立二足歩行で人間になれたのですが、そのことにより手が自由になりました。この自由の手は猿人では、まだ未熟の手を意味します。赤ちゃんの手は中手骨(有頭骨・月状骨等の8個骨)や指節骨(指の3個の節骨)は形は出来ていますが、まだ間接等は軟骨であり人間として本当の手の役目は出来ていないのです。

 約一歳にもなれば立ち歩くことができて、それにより手の軟骨が骨に変わります。(もちもん手を動かす事との相乗関係は有りますが)立ち歩くことは重力によって脚骨や骨盤(腸骨・仙骨等)の完成を促し、それが手の完成に導くのです。ですから逆に手の中手骨(有頭骨・月状骨等の8個骨)や指節骨(指の3個の節骨)を操作すれば、骨盤(腸骨・仙骨等)が動き影響が出るのです。骨盤そのものは(寛骨の接合部の軟骨)は16歳頃に骨になります。

 以上のことから脚は大腿骨頚部からではなく、骨盤を含んで脚とするのが正しいと考えます。足指の操作でも骨盤(腸骨・仙骨等)が動きます。
 
2−23-B 愉気

愉気とは整体の大事な要素です。私は唯物論者ですから、神や占いや超自然現象等は、まったく信じません。よく気のことを、超自然現象で神懸かり的に言いますが、間違いです。(科学的に分からないから気という超自然な名を付けた)
気とは、そのような超自然現象でなく、身体にそなわっている深部の見えない能力、磁気・熱(体温)等と考える。(微量なので、現時点では測定できない?)
2−23-C なぜ他人が,]手を患者の患部に当てる愉気で良くなるのか?
@温度による。 ・・・体内部温度と、外部大気に触れている皮膚温度差は、毛細血管の流れを活発化させる。患部は毛細血管の流れが悪く冷たくなり筋肉は硬くなる。
             そこに手を当てると、熱くなり血液が流れだし筋肉は柔らかくなる。
             
A電気による。 ・・・食物の摂取によるエネルギーの一部は、必要な体内微細電気エネルギーに変換される。エネルギーの放出がなけれらば、エネルギーの蓄積は出              来ない。他人が手を当てるとアースになり地球に電気が流れる。それによる血液の流れが筋肉を柔らかくする。

 科学は、まだ発展途上なので解らないことが多くあって当然です。故・野口氏は、多くの病気は手を患部にかざすことにより、人間は誰でも癒すことができるとした。このことは愉気を、普遍的に捉えた事はたいしたことと思いますが、それでは野口氏のように病気を簡単に治せるかと言えば、そうではないと思う。やはり愉気には、技術的要素もおおいに有ると考える。

 愉気で、発病後1ヶ月以内だと脳卒中は高い率で完治できるという。ただ私には、現在の日本にはそのような愉気で治せる人は、数人と考えます。でも現在医学ではこのように、治療が遅ければ(3時間以内)治せないのに、治せると言い切るのは凄いと思う。

この点の信憑性は、本の中なので確定は出来ない。

(知ることが出来たのは2005年11月です)もっと早く知っていればとも思う。


2−24-@ 何故、良くならないのか?

 患者の中には、良くならない人達がいます。私の観察では、10人中、7・8人が、手足をある一定まで回復できない。何故か?その多くは個人としてリハビリをしない人達です。個人が主体となっていないリハビリをしているからです。病院の先生からのリハビリのみをしているからです。

 患者の多くは病院のリハビリを、少しするだけに止まっているのです。それでは効果が無いリハビリをしていることになります。

 我流の自己流でもいいから、できれば毎日多量で、正確徹底的に、長く継続することです。ほんの少しの量をするとか、三日坊主ですぐやめることは、何にも実らないのです。

 継続とは力ではない。絶対的な力なのです個人の能力や環境を超えた力になるのです。どのような者でも長期に継続すれば力となるので絶対的な力です。 正しい理論で行為をすることを実践するといいます。ただ単に行動するとは、まったく違います。実践の継続こそ。良くなる人と、ならない人を分けるものです。

(全ての変革を追求しない性格の人達には、このことは難しいかも知れませんが、出来ないことはありません)


 脳卒中の脳障害者は、脳の障害で身体の一部がマヒしています。従って普通のリハビリではあまり効果は期待できない。異常なマヒ身体には、常識はずれたリハビリが必要不可欠です。

2−24-A マヒ患者が脳に刺激を与え活性化するに必要不可欠なこと

@ 一日中時間さえ有れば、体を動かさなくてはならない。
    常に体を動かすこと。全身をどのような動かし方でも動かす。一部分でも動かすように習慣化することです。
A 頻繁に会話を楽しむこと。
    機会さえ有れば誰にでも話しかけ会話をする。家族だけでなく一日に多く色々の人とコミニケーションをする。(会話の機会を自ら作ること)
B 思考を働かす為に学ぶ。
    新聞・雑誌・本・テレビ・音楽等あらゆるものから学ぶ。
以上により脳が活性化されて、自覚・自主の自己主体が確立できるようになります。肉体のリハビリも大切だが、同時に精神のリハビリも大事です。

2−25−@ 便利なものの取り扱い方

 時代が進むと、世の中には非常に便利なものが増えてきます。例えば電気関係です。電気器具は私達に魔法の力を与えてくれますが、この利便さの力に頼ると、しっぺ返しをくらいます。便利は楽なものですが、それ故に危険性もあり・人間を一面ではダメにします

身体障害者にとって、車イス(電動車イス)や補助具等は便利な故に、それに頼り切り安全な故に、自己の回復力も無くしてしまいます。ですから便利なものを使う場合には注意が必要不可欠です

 観念論者は便利なものは、便利だから人間には良い・使えば得をするのだという精神で安易に使用します。

これが人間にとって本当にいいものか、どうか、社会全体ではどうかなど考えなくてはなりません。量的には使う時間。質的にはそのものの価値を考えることです。
便利な物(電気器具類、特にテレビ・パソコン、特にインターネット・あらゆる自動機械、特に車等)これには使用しても良いが、自己規制をすることが大事です。

2−25−@ 服装について

 服装や髪型や化粧等のモードは個人の自由ですが、身体障害者の服装は、スポーティな方が良いと思います。私はトレーニングウエアーの上下を着るようにしています。明るい色の年齢よりも若い服装姿をするようにしています。服装等の姿は身体に大きな影響を与えます。

ところがリハビリ病院の中には、そろいの寝間着を着るように義務づけをしているところがありますが、これでは障害が治りにくくしているのです。ですからこのような病院は問題が有るのではないでしょうか。(身体障害者にとって、一日中の寝間着姿は厳禁です。起きている時と、寝るときは着替えることです)
 もっと今よりも、人間を全面的に捉えなければならない。

2−26−@- 脳についての考察

 脳の細胞は、1日に10万個死んでいる事実をもって観念論者は、徐々に脳細胞は死滅していると思っているが、そうではない。脳細胞は死滅しながら(縮退し)ダイナミックに変化することによってプロセスを創造し再生をしているのだ。個々の細胞は死にながら、そのぶん生きながらえている細胞は、シナプスを伸ばし変化しながら大きく充実しているのです。社会的人間は、あらゆるものに関心と関わりを持つ者であり全面的で統一的な人間であるので、そのような人間の脳は日々個々の細胞は死ぬが、それを補うように日々一部の海馬の細胞は再生し、シナプスは伸び豊かな創造を脳は自らしているのです。これが唯物論者の脳についての考え方です。

 これから脳卒中で死滅した脳は再生しないが、その死滅した周りの脳の細胞がそれを補うように死滅した脳の役目を補おうとするが、脳が自らするのはここまでです。だから身体を動かし脳に刺激による信号を強制的に送り、その周りの脳細胞に代役を強制しなければならない。

 現在社会に住む人間の脳は、昔の時代よりも進歩したしまった脳です。そして今も進歩し続けている脳です。高度な現在社会を生き抜ける脳なのです。過去の脳では現在社会を生き抜けない。進化した脳は「真実の脳」です。

 脳は人間にとって大事なものだが、特別扱いや格別に考えるのはどうか?人間にとって脳は中枢であるが、その他の人体臓器・身体も大切です。現在は脳を特別扱いにしすぎのように思う。’(ただし脳は宇宙での一つの小宇宙の存在です。それほど凄いものです)

身体障害者は、脳を特別に重要視したり身体でも手足ばかりを特別扱いしすぎです。身体の全体性(社会性も含む)や統一性も大事です。

 次から次へと困難が引き起こる現実、身体のある部分が良くなった思えば、別の所が悪くなる。だが、このやっかいな現実が障害者の進歩を促すのだ。現実の困難さと痛みを感じる脳に対し、身体が脳に「現実に対処し・立ち向かえ」と叫んでいるのです。

 脳がどれほど正確に身体の現状に対し実際に考え、現実の変化を推論出来るかが、身体障害者や指導者には必要です。

 「脳は小宇宙です」脳は宇宙のように激しく変化し運動している。従って体の中で一番の動きをしています。その脳は教育学習の段階的発達な動きもするが、常にダイナミックに動くので身体障害者がリハビリによって日常生活が出来るには、発病後すぐにマヒしたところを動かさなくてはならない。

リハビリ指導者は、大原則の教育的学習方法に囚われてはならない。何でも早くは間違っているが、脳卒中のリハビリは発病後一日も早くしなければならないし、教育的学習方法のみの一面リハビリだけをしてはならない。脳卒中のリハビリは、脳の働きの性質(進化と退化)を考慮し身体障害者の身体リハビリを早くすることです。
 『私は、リハビリ指導員が教育的学習方法を重視するあまりリハビリを教科書的な仕方のみでして、患者の回復が遅れマヒが固定化されるのを多く見た』

 脳は高齢になっても進歩する。高齢になって進歩できない者は、学ぶこと・知的活動をしないからです。頭脳的で活発な精神活動の学問や実践をすることです。

 脳には心はない。脳は心そのものでもない。昔は心臓に心があると思っていたが、そこにもない。ではどこに? 身体の全体と、社会文化の統一として心はあるです。脳はその中心的な役目を果たしているに過ぎない。

2−26−@- 脳から離れた動き(同じ動作を繰り返す事で自動運動身体に

 脳卒中等で障害を受けた所の脳の細胞は働かないが、その周りの脳の神経細胞は働かなくなった分を補う。このことは次のことを意味します。
@ まず始めに意識で自覚してマヒしている所を動かす。意識的運動が必要です。
A 次に同じ動作を繰り返し継続することによって、意識しない神経自動運動にする。(この時点でもって身体の一部は意識から離れ、自動運転身体になりうる)
B さらに自動運動出来た運動を計画的に意識し、上の高い段階の自動運転化をはかる。
これらによって障害の受けた脳から、身体運動を非意識化の神経自動運動の身体を新しく創造できます。

2−26−@- 老いた脳について

 脳の細胞は老いると少なくなるが問題はない。それは脳の神経細胞は一千億有りシナプスは無数にあるからです。その上に無制限の可能として脳の可変があるからです。老いたる脳の問題は学習にある。若き学生の時には多くの時間を学習に費やす。従って、多くのことが学習され脳に記憶される。
 老いても、繰り返し学習する時間を多くし脳に刺激を与えると、脳は学生時代と同じような能力を出す。ただ老いた身体や意欲が、若き学生時代のように出せるかどうかです。(だから、老いると気力が大事です)

 人間の脳は子供の時から多くのことを記憶し蓄積する。日常生活や仕事等で、それで支障なく過ごせると人は学習しなくなる。それで基本的には脳の進化は止まる。だから歳をとると、知的学習や新しい生き方などが必要不可欠となる。老いたる脳の問題はこの学習のにもある。この知的学習や新しい生き方が出来るかどうかです。(歳をとっても、脳は特別だから老化しない。老化するのは学習意欲や身体能力や、無気力な生き方の人生が老化するのです)

2−26−A 諦めの考え方について
 障害者の中には、自己のマヒ等の身体について諦める人もいるが、諦めない人もいる。何故か?
諦める人は、物事を固定的に考え、リハビリ等をしても変化しないから、変化しないものと捉える。@物事を静的に考える A運動・変化しないものとして B長期に捉えない C全体的・統一的に考えない、このような人は観念的に結果を重視し,すぐに結論ずける。
諦めない人は、現実をありのまま受け入れる @物事を動的に考える A運動変化するものと捉える B長期計画で B全面的に考える。 始めと過程を重視する。

諦めないことは、その諦めないことだけでは不十分です。最後まで諦めないことなのです。死ぬまで諦めない。この最後まで諦めない思想が大事です。なぜなら思想は死なないからです。

 世の中は患者が治らない状態になれば治療を諦める。だが人々が諦めてどうする。家族が諦めてどうする。医者が患者を諦めてどうする。ましてや本人がリハビリを諦めてどうする。人間を諦めてどうするのだ。

2−26−B 人間とは

人間は動物と違うことは誰でもが知っている。だがその何処が違うのか?決定的に動物と違うのは社会的な存在ということです。ですから政治的人間でなければならない。このことを多くの人達は、人間を思考が高く・感情が豊かな動物として取り違えて考えている。
人間とは、社会的な人間関係の感情に支配さえれている動物です。

人間ならば、最低眼の完成度の人間として、この政治的な要素を持っているかどうかで決まります。(それと同時に、高度な思考・感情豊かさが必要なことは言うまでもない)患者や身体障害者にとっても、単に知識論・感情論に流されるのではなく(だが、この感情を無視してはならない)政治的な道理をもつ社会的人間として捉えるべきです。
 それには全てに「なぜ}という疑問を持つことです。自立した個人による他者との連帯の組織化が人間性の偉大な力を誕生させます。

 人間と政治との関係はこうです。政府というのは国民を守り幸せにする為にある。経済が国民を困らせるときは、政府はこれを正さなければならない。しなければ倒す。
 身体障害者・弱者・負け組は、健常者・強者・勝ち組以上に、多くの利益(良きこと)を受けることをするのが政治です。このような政府を私達の力で生み出すことです。

 身体障害者は体が不自由だから「誰にも頼らずに自分で出来る」ことを強く自分に言い聞かせる。だが人間は健常者であるかどうかでなく、どのような者でも「誰でも頼らず自分のことが出来る」など不可能です。誰かに頼って生きるのが現在の社会的人間なのです。誰かに頼り、同時に自立出来ているかが大事なのです。
 身体障害者がどのような者であれ、社会は治療(リハビリ等)などの社会保障は果たさなくてはならない。入院・リハビリの政府の支援切り捨て政策は間違いです。

 身体障害者の幸せとは”普通の生活をするために闘うこと”です。その身体障害者がよりよく生きるには、自己変革と社会変革を同時にやらなければならない。

 人々が現在社会の人間関係に対して鈍感になっている今、人間の命が危険にさらされている。身体障害者の生活が困難になっている。正しいルール有る社会になるような変革が緊急に求められている。過敏になる必要はないが、社会的に敏感でなくてはならない。

 人間が社会的な存在だということは、個(個人・家族)としては人間になれず、群れ(集団・人類)で連帯し共同で行動するのが人間としての本質です。

 宇宙は多様に変化し進化する。社会も人間も多様に豊かになり着実に進化する。身体障害者も人間として豊かで多様に進化発展するので 「うれしいなー 幸せだ」

 人間の社会的な存在とは、社会の中に人間が生き生活していることだが、そのことより大事なことは、その人間個人の中に正に社会が存在している概念意識を持つことです。そして個人的批判や社会的非難を恐れず”生き生き”と生き抜くことです。

 人間を、人間中心の価値や愛情や脳の知能で推し量らないことです。少しづつ変化する者として、少しづつ改良される者、社会の進歩と共にとぼとぼと歩む者として。

2−26−C 自然とは

人間にとって自然は大事ですが、その自然とは何か?人間にとって自然とは、山や海といった風景ではありません。それも自然の一部ですが本質では有りません。人間にとっての自然の本質には二つあります。自然とは緑と光です。緑とは草木であり光とは太陽の日光のことです。この草木と日光に人間は接しなければなりません。従って率先して屋外に出て野原等で日光の陽に当たることです。このことは人間の脳や身体の健康に必要不可欠です。

現在は太陽光線の紫外線による問題ばかりを指摘し、なるべく直射日光を避けるように言っていますが、日光を浴びる被害よりも、身体にとっては良い方が多いのです。
 特に身体障害者は ”「緑と日光」が必要” この認識と実行が大事です。人間(動物)なら屋外の野原へ行こう。

 自然は、唯一の物質の単純が源であって、それでもって多様化を産み出し、長年の進化が驚嘆すべき複雑で豊かな多様さの美しい姿を創り出した。

2−27 人権とは
 国・育ち・体質・体格・性格・地位・才能・能力・身体障害・資産・文化・思想・信条・宗教・生活水準・男女差・年齢差等の格差が、各個人大きく違っていても、権利・人権はまったく同じでなくてはならない。全ての人間は「生きていれば同じ人間」この平等の考えが大事なのです。人間個人の格差と人権のこの二つのものが全然違っていても同じという思想は、唯物論的弁証法です。観念論者では、このことが理解できない。

諸個人は、隔って違っていても根元は人間なのです。人類は文化等が違っていても(能力の格差が有っても)人間の権利は同じなのです。人権はどのような他人(敵対者)でも自分と同等です。間違っている敵対者とは闘い正す実践と、敵対者の人権を認めることは統一しなければならない。

少数の個人の抗議(デモ・ストライキ等)が出来ない。反対意見が通らない社会や企業では、人権のための民主主義は存在しない。

2−28 先生や看護師の責任とは

 指導者の責任とは、単に心・体・技を教えることではありません。指導者自身の人間性の自覚であり、他者の人権の尊重です。病院においては、患者が主体であることを認めることです。


 人間と人間の”間”に幸せも・不幸もあることを分かる指導が大事です。個人の中に幸福も不幸も有るのではありません。先生方と患者の間に人間の幸せも不幸も存在するのです。(社会の他者の間に)したがって先生や患者の生活全面に対し、お互いにつきあう態度が必要で、それが先生や看護師の人間性の責任と思います。患者の苦しみ悲しみや喜び楽しみは、先生方みんなの苦しみ悲しみや喜び楽しみ
であるからです。


2−29 愛情とは
 愛情とは、ただ好き嫌いとかの感情面ではない。愛情とは、生命の二重性です。他者の生命の中に自己の生命を感じることが愛情なのです。自己と他者は違うが、そこに同一性を見ることが愛情となるのです。他人と自己との対立している生命の統一こそが愛情です。他の生命を自分の命の他出として感じるから他の生命に感心が持てるのです。それが人間性豊かな愛情に育ちます。

 身体障害者を本当に自立させるには、家族・知人・医療関係者の自ら冷淡になることの実践をしなければならない。この理性的な道理あるリハビリ的冷淡な愛情も時として必要です。

 愛は偉大な力を発揮するが、変わり身も早い。だが正義の弱者に対しての親切な行為は継続する。家族に対する狭い愛より、他者に対しての大きくて深い弱者正義の実践は愛情を超える。

2−30 患者の宗教観について 

患者の中には宗教や占いを信じ、それに頼り切ってしまう人もいるので、その件での問題をここに書き留めておきたい。
もちろん人間が、神を信じる信仰は自由だし、それを広める布教活動も保障しなければならない。私が問題にするのは、気持ちは分かるが、超自然のものに、すがることの問題です。

 観念論とは、自分の頭の中で考えたことの精神を第一義的とします。それに対し唯物論は、自己の外界に存在する物質を第一義的とします。

一般的には、神の存在を信じるかどうかで決まります。あらゆる物質の存在を認める唯物論者と、存在を確定できない超自然的な観念を信じる観念論者に別れます。

哲学のそもそもの根源が何か、物資か、それとも精神が根源なのかで、正しい認識の唯物と、固定した観念の間違いに別れます。この問題はそれほど大事なことなのです。

 人間の脳は現在のところ全宇宙で、一番複雑で高度な身体組織を営んでいます。脳も物質ですが、脳の行いは精神を生み・いろいろな考え方を創ります。この精神はあまりにも偉大なため多くの人達は、この精神を人間にとって第一義的と決め思いこみます。

その一つの表れとして、愛情第一主義もあります。人間にとって、愛情や思いやりが大切だからと言って、愛や優しさこそ人間的であり大事なものだと思いこみ、それが人格の価値判断になり、表面的な愛情の表現がその人物の評価にしてしまうことです。

 この精神は、人間は不可知や恐怖があるために、他に頼ることの神をも創りました。この存在しないものを創造する人間精神の素晴らしさは認めても、物質としての存在しない神を認めるわけにはいきません。

自分だけがどう思おうと勝手ですが、間違った考えを押しつける事に対し、反論しなければなりません。科学の進歩を阻害するだけでなく、人間が暮らしている社会の進歩も遅らせることが問題なのです。


 私は唯物論者なので、物質の運動変化しか存在しないと確信しています。ですから神の存在も信じません。しかし存在しない神がどこに存在しているのかは知っています。

おかしな事に観念論者は、信じている神が実際の所どこに存在しているのか解っていないので、滑稽です。

神は信じている者の脳の中に住み着いているのです。神社や仏像やお題目・聖書の中には神は存在しない。信者が死ねば脳の精神も消滅するので神様も信者もろともお陀仏です。


 現在の医学も・科学も私達を満足にさせてはくれない。不十分だ。だからこそ進歩は存在できる。未来は限りなく真理に近づく可能性があるのです。

満足できない・不十分だからといって、医学や科学を捨ててしまうのは、その人間のおごりです。私達はある時代の産物的存在なのです。歴史的過程としての存在なのです。

完全な神が宿る場所は、神を信じる者の脳の中です。そこで透明な神は信じる者に寄生し何もせずに、安心しきってすやすやと眠っています。不完全な人間を認めてこそ、人間は無限の可能性を持っているので、不可能に対し自ら実践し変革するのです。


 進歩と同時に後退しつつ前進する社会的存在としての暮らしている人間、本当はその過程の社会状況に私達は不満足なのだ。しかし、この矛盾があるからこそ変化が出来て、自然や社会も人間も素晴らしいと感じることができるのです。

社会的弱者にとって毎日の生活が苦しくても、現在社会は容赦なく、さらに貧困は襲いかかる。それを見て信者は、「神さまって、なんて不公平なのでしょう」と、ため息をつく。唯物論者の私は「あたりまえだ、神はいなくて、人間だけがいるからだ」と、怒る。


 人間にとって、存在しない神は必要ではない。真理に向かう存在する「人間」こそ必要不可欠です。


2−31-@ 最高、最大のリハビリとは
 
身体障害者は当然の事として身体障害を取り除こうとする。このリハビリの要求は絶対的だ。しかしながら身体障害者の多くは、元の健常者の身体には戻れない。この事実を考えると身体障害者の最大のリハビリは、単なる身体の回復でなく、身体障害者になった「新しい自己によるコミュニケーション」です。「新しい人間」となった自己(身体障害者)と、他者との「コミュニケーション」これが身体障害者にとっては一番大事リハビリでなくてはならない。
この真理を、本人も家族もリハビリ師・医療関係者等はよく理解しなければなりません。

 身体障害者となった自己は、今までの自分の延長として身体障害者である自己ではなく、新しい考え方・価値観に変わる必要があります。自己の社会観・人間観の価値観が変化しなければなりません。

 具体的には言えば「よく喋る」ことです。他者といつも機会をつくり接触し会話をすることです。コミュニケーションとは自分の考えや思い・意見を他者と話し合い出来れば討論することです。
他人とは、自分とは違う人を意味しますが、家族や知り合いでない他人との会話が特に必要です。言葉が言えない人は手話や文字での会話ですることです。

その上の最高のリハビリとは、他人の「世話や連帯を持ち実践する」ことです。身体障害者には、これが最高・最大のリハビリなのです。

(重度障害者・失語者の障害者は、コミュニケーションや障害者の世話は出来にくいが、出来る方法は有ると思います)

 障害は、その対応としてのリハビリやトレーニング等の個人的な涙ぐましい努力によるよりも、逆に、マヒ障害等の強力な困難さがあることによって、それと闘うことにより、はじめて人間が、本当の社会的人間として生きるための新しく変わることが出来ることの 身体障害の強敵を作り出すことによって、可能になるのです

 身体障害者は、「身体障害に依存し」同時にその障害を否定し、それでもって障害を乗り越えるのです。「身体障害に依存」したら、それは生活全体を規定するが、障害を引きずりながら障害を克服しようとする行為が、障害を持ちながら新しい身体障害者として生まれ変われるのです。


2−31-A リハビリの目的とは
 身体障害者にとって、リハビリの最小限の目的は「身体の回復」です。それがリハビリの目的である「生活の回復」に直接に繋がるからですが、しかし個人によって生活が出来るということが、本来のリハビリの目的になってはいけません。医療関係者・家族等の多くが障害者をこのように狭く捉えています。障害者を多様で豊かな人間として捉えることです。自らの負の障害により価値観が変わり「新しい人間としての存在になる」ことが、リハビリの最大の目的なのです。
 リハビリは身体の回復であるが、それが最終目的であってはならない。リハビリの継続こそ最終目的でなくてはならないと思います。


2−31-B リハビリの本質とは
 身体障害者のリハビリの本質とは、理論が大事だからといって、理論をうのみにしてはいけません。なぜなら理論は実践に仕えるものだからです。リハビリの本質とは理論でなくて、あくまで実践です。このことはリハビリは、理論よりも実践が優先するからです。しかし、だからといって理論を軽視してはならない。理論と実践は統一された一体のものです。対立しながら一つのものとして統一されているのです。ですから実践も理論も、リハビリでは無視してはならない。

2−31-C リハビリでの回復可能とは
 リハビリは、回復可能なものを扱う方法です。だから小さな実践の長い年月が及ぼす力が、やがて大きな力を引き起こすことを意味します。
 可能も変化です。個人一人の身体内部の部分器官は、この各器官は時間差の変化の進行があり、一人の人間の中にも回復の可能な各器官は違いがあるのです。
 多様性で不確実性の現在社会だからこそ、正しい思想は何かを良く見定めて、その信念を持ち実践することです

 リハビリを、凄い可能性があるものと想定する誤りと、やってもあまり効果がないという想定する誤りがあるのです。この両方とも観念論者が行き着く考え方です。無限の可能性を信じる。だが死んだ細胞は決して生き返らない。しかし真理はこうです。身体をリハビリすることから、脳のシナプスは自らバイパスを創り、非常に大がかりに突然変異で複雑に脳を変化させて再構築し、その力でさらに身体を激変させるのです。

2−31-D リハビリ方法の恐ろしさ
 リハビリは、身体障害者に対し、やれば良いというものではない。単に合っている方法でも効果があるわけでもない。教科書通り行っても良い結果が何時も出ない。それはど人間の体は、複雑で繊細で変化に富み豊かな個別性をしているのです。ですから表面的でなく深いところまで合致した個人リハビリをする必要があるのです。リハビリ指導者は、リハビリ方法の間違いをすれば、恐ろしいことになることを知り、従って全てから学び・研究追求し苦悩しながら実践しなければならない。
 リハビリは絶望的身体を、希望的身体に変える方法です

2−32 新しい人間になるには基本概念を学ぶこと
 
身体障害者が新しい人間になるには「新しい価値観」が必要となります。不自由な体は時間が必然的に出来ます。ですから考える時間は有るので、今まで考えていない概念を考えることです。(例)人格・人権・社会的存在の人間・自由等を追求することです。これらの概念を自己の中に確立しないと「新しい人間」には成りえません。さらに弁証法的唯物論の哲学を学ぶことです。その上に社会科学を学び、その他多くから学び実践することです。

 物質が全ての根元だが、人間はその物質性から自己を解放しなければならない。障害が有る身体の物質性を否定しつつ、物質の本質を認め・その障害身体に依拠してこそ、精神を高めることが出来るのです。

 身体の肉体・脳が不自由になっても絶対に、心を不自由にしてはならない。体に僅かな動きがありさえすれば、精神の”自由”は得られるのだ

 障害を持ち続けながら生きることによって、障害者自身の価値観が変わり、障害そのもの影響で新しい人間として育てられていき、さらにはそれが社会全体を障害者に対し、優しい環境を創ろうとする意識が人々に芽生えさせるのです。

 脳卒中は脳の障害です。それは体のマヒ等として身体の障害で始まる。片側マヒだけでなく、障害は全身に及ぶこともある。同時にそれによって、新しい人間が創造される可能性が出てくる。


 治るか、治らないかが、問題と捉えてしまうと迷路にはまり込んでしまいます。観念の精神魔力「心神性」に束縛されてしまいます。常にそれを追い求める価値観ができあがります。身体障害者が新しい人間になるには、障害が治らない身体でも、これからの障害者人生を新しい価値観で 「乗り越える」 ことです。

 精神にとって単なる好奇心は必要ではない。「知的好奇心」が必要なのです。障害を通して、自分で自分のことを考えられる人間になること。社会や人間のために働ける身体障害者になる精神が大事なのです。

 正義は、正しいことを知ることではありません。弱者・苦しんでいる人達の立場に立ち行いをすることです。これは社会の「人間原理」です。だが正義は、悪徳と対立しながら統一されています。そのことを知りつつ人間として正義を貫くことなのです。

 障害が人を変え、人生を変える。これは間違いはありません。しかし問題は、どのように変わるかです。単に障害を克服する人ではなく、新しい人間になることです。

 新しい人間になるには、考え方が変わる必要があります。しかし考え方を改めるだけでは新しい人間にはなれない。思考が斬新的で革新的・進歩的な考え方になることでなれる。

 身体障害者は、過去の健常者にはもうなれないが、新しい人間にはなれるのです。これが素晴らしいのだ

2−33 長距離歩行の方法
 
歩行に障害を持つ身体障害者は長距離歩行が出来ない。それをどうすれば出来るようになるかは重要な歩行リハビリ方法です。少し歩けるようになると病院や自宅を起点にして、円を描くように歩きます。それが出来れば回数を増やします。この方法では距離は飛躍的には伸びません。有ると思います)有ると思います)有ると思います)有ると思います)有ると思います)有ると思います)有ると思います)有ると思います)

 歩けるようになれば、病院や自宅を起点にして直線方向に歩けるだけ所まで歩くことです。その所から引き返すことです。この方法は厳しいですが中距離には効果はあります。それが出来れば、次に病院や自宅から近い鉄道で車道と道路が平行にある様な道路を探し歩くこと。疲れると近くの電車の駅から乗車し帰ることが出来ます。
 この方法では5kmから始め、10km・20kmに増やすことが可能となります。この長距離歩行では便所の出来る所を知ることです。良い季節も水分も大切です。

2−34 エネルギーの概念の重要性
 
身体障害者は、特にエネルギー概念を持つ必要があります。自分の中にある「エネルギーを常に使うこと」これは、体を常に動かすこと・精神を常に働かすことです。この”エネルギー概念”や”時間概念”を持ち、この実践が大事です。 エネルギーの”消費”概念 が身体障害者には不可欠です。

 このことは”独自”に特別なリハビリ方法も考え実践することも意味します。

終わりに

脳梗塞の発病・入院は、悲しく・苦しくもあったが、同時に入院は楽しい事も多かった。先生やリハビリ指導員や看護婦等と冗談を言いあって、私は楽しい入院生活ができました。それ以上と思うのは、患者の知り合いが出来たので良かったし面白く過ごせました。
そのような状態の私は皆さんと別れる退院が嫌でした。そのような気持ちにさせた下さった皆さんに、ここでありがとうございましたと、お礼を述べます。


 多くの人達が脳卒中のリハビリを書いている。よく書けているものもあるが、その多くは観念論的です。そこで唯物論者の私は、マヒのリハビリについて弁証法的唯物論で書くことにしました。なぜなら精神の知は、物資としての脳細胞のダイナミックな動きにあるからです。
一般的には観念論の考え方の者が多いので、私の書いてあることは理解しがたいと思いますが、見える事実に隠されている見えない真実を見る方法は『物事のすべてを疑い・同時にありのままに受け入れて・科学的に追求をすること』を心がければ理解出来ると思います。

 本当の大事なことは、考え方の正しさを最後に決定するのは、唯物論です。この理論で身体を変えるのです。物質しか根源的には認めない私も、観念の精神の中では、未来は,自由な人間により人間世界が変革される理想と、マヒの身体だけを見ていたら嫌になることから、身体が健康体に変わることを夢見るロマンを考えると、希望が胸にわきあがる。

貴方を、このように幸せにしたいと想う心の身体を、障害者の私は持っています。

 私の身体は脳梗塞のマヒ障害に従属しており、このマヒ障害とがっちりと結びついており、このマヒ障害から抜け出すことは出来ない。
 私の身体はこういう状態になっている。どうも出来ないのです。だから、後がない『最終の決戦』を、私は身体に挑み続けているのです。

  障害は私の大事なパートナー 誰にも隠さない人生の宝です。障害の苦難な人生を生きる喜び

   そのような困難で喜びあふれる人生とは 社会と自己変革の積極的な人生です

               作成  2006年2月

       改正 2007.2.14     脳梗塞障害者   松村 睦夫    Eメール  m-mutu@m3.kcn.ne.jp

2年3ヶ月のベットに寝たきりの患者を車イスで自走させた実践

 2006年6月知り合いの人が家に見舞いに来て私の話を聞き、その人の隣のNさんが、脳幹出血で2年3ヶ月病院のベットで寝たままなので、何とかならないものかと相談を受けました。そこで立ち歩きさせるまでとの約束で受けました。

 年齢69歳でベットに寝ていて車イスには乗せることは出来るのですが、真っ直ぐには体が立たず、寝返りも出来ないし言葉は少しだけ分かるのですが正確な会話は難しい。

 病院も3カ所変わったけれどダメだとのこと。1週間に3回午後4時から7時までの時間でしたが、その間に夕食と奥さんが身の回りやらおやつ等の時間があり、実質30分から1時間ぐらいしか訓練する時間はありませんでした。

 また病院から訓練等はしないようにとの圧力がかかり、道具なし。いっさいの協力なしでしなければなりませんでした。

そこで私は,リハビリ無しで回復を目指すこと。理論学習(専門書・インターネット等)を学ぶ。訓練中に実践を学びながら進む。全面で統一的な最高の訓練を行うことにしました。

 その結果は5ヶ月経った2006年11月には、寝返りも自走式車イスを病院内で、Nさんは走行出来るようになりました。

なぜ私のような素人がこのように出来たのか?

@ 真摯にまともに受け入れたこと・・・患者も体が動かないものだから、私もやり方が分からなかったけれど、悩み苦しんだこと
(それで2,3日寝れなかった)

A 学習をしたこと・・・専門書(脳関係・リハビリ・身体等)を読み研究した。

B 型(姿勢)を重視した・・・常に姿勢を注意したこと。

長下肢装具を付けるように家族から病院に言ってもらったが、先生には聞き入れられなかったので、立ち歩く訓練は出来ませんでした。残念です。
それでも2病院の2先生から車イスは無理と言われていたのに、車イスを自走できることになったのは、正しい理論の勝利です。


追記 (入院して時間があったので、考えたこと・思ったこと)

3−1 生と死について 

2度目の再発した脳梗塞の時、全身震え顔が硬直し息ができににくくなった時は、もうダメで死ぬかと思いました。それで生と死のことを考えました。生というものは、それだけ単独であるのではなく、相反する死というものと一体のものとして、この世に初めから存在しているのです。
死ぬのが嫌と言っても、生を得るならば死を受け入れないと産まれることはできなかった。この文章を読んでいる貴方は、すでに生と死を受け入れた存在の人間なのです。

 観念の考えを持った者は、この対立し統一した高度な矛盾の考えを、間違っていると思い受け入れられないのです。(一日生きたことは、一日死に近づいたことになる)

死しても、なお天国や地獄があるとか、人間は死んでも魂は永久に死なないと言ってみたりします。だが突き詰めると生と死は同一で、同時にまったく別なものであって、矛盾した生き生きした動きそのもので、同時に消滅しつつあるものです。

 無から生じ・有になり運動変化し・無に消滅するのです。だがこの過程の運動変化の生は素晴らしい。美しく綺麗・醜く汚い。これらが生き生きとしたダイナミックな人生を育む。苦しい・楽しい・悲しい等は観念の精神的な営みです。
あらゆるものは人間も、偶然性で生じ、必然性で死する存在です。だからこそ存在できたのです。生ばかりでは存在できない。なにごとも生と死が同時に必要です。

 生が大事だからと言って、死を認めないのは間違っています。生と死が別な物であって、同時に統一された高度に矛盾した素晴らしく絶望的で、相反するものが完全に関連し合いつつ存在しているとは、闇と光の宇宙と同じです。

 私が死ぬから、新しい生の誕生がある。生と死は、まったく違っているので対立しいるが同一のものだ。
生と死は、素晴らしく・はかなくて悲しくとも、生き生きとした偶然と必然・生成と消滅の自然の営みなのです。

死そのものが、生を生むのです。死は生の一部であり、死そのものだけが単独で存在しているのではない。生と死は一体のものだ。この正反対のものが(あまりにも違いすぎる)同一とは思われない(感情面ではわりきれない)が、真理は無から有が生じて無になる。観念や精神の有や無でなく、あくまでも物質の有と無(生と死)である。

それにしても余りにも生と死は違いすぎる。避けられないと知っていても、死は恐ろしいことです。無になることは
 単に個別に死のみを考えると、このような観念に捉われてしまいます。従って全体から個別を捉えること「人生として”生と死”を捉えること」です。

 人々や身体障害者の中には、こんな苦しみは経験しない者しか絶対に分からないと思っている者がいますが、このような経験主義の考え方は間違っています。ただ一人も死を経験した者はいないのですが、死を考え死を恐れ怯えます。このように人間は実際の経験が無くとも、想像力や知的・詩的等により経験並みに、無経験を受け入れ理解を得るのです。

 生か死は問題でなく、今の生き方で、いいのか変わるべきか、それが問題です


死は一つではない。神経死(脳死・心理死・精神死)や社会死(貧困死)そして肉体死です。

生きることを忘れるな。自分を大切にすることを捨てるな。自分が何であるかを失うな。身体障害者に対し不公平に扱う者に対し従うな。障害者の尊厳を捨てない。これが障害者の人間性あふれる最高の生き方です。


生きる苦しみ、そのものが生きる喜びに転化することを正しい考え方の弁証法は教えています。実際、能動的に苦しみと闘うと日常生活や個人生活に生きる喜びが芽生える。


 障害者の変わりのない、ささやかな人生にも日々に時はたち、わずかな変わりがあるのが、生と死の真実です。

3−2―@ 主体性について
 患者(子供でも老人でも)主体性を持ち生きるべきです。このアイデンティティ(自覚的主体性)人間が人生の困難さに自ら・うち勝つ意志力です。
他人や先生の言うことに不満があっても、何も言わず従うことが、人間の素直さの美徳とされている日本では、この人間の主体性こそ第一番に確立すべきことです。

 先生や指導者は、患者に対しアイデンティティを育て確立できるように配慮しなくてはならない。
資本主義の経済体制は利潤(私的企業のあくなき利益追求)を得るために大量生産・大量消費を生まざるをえない。当然その社会は影響を受け、この同じ規格品早く安く大量消費は、同じような人間を・主体性の自覚がない人間を“無気力・無関心・無行動”の人間を多く社会に送り出す。年少の子供や患者・老人はその影響をもろに受ける。

(大量消費とは、たとえば家の近くにコンビニストアーがあると、苦労せずほしい物がすぐ手に入る。苦難を避けるような人間になります。生活苦を知らない人間が育ちます)
従って個人的には問題はなくとも、社会人間としての年少の子供や患者・老人は、資本主義経済の国家体制が生み出す無気力・無関心・無行動の問題を持つことになる。

 また世間の人達は、子供や患者・老人(人間)がどうなるのかでなく、強くなり・競争で勝つことが評価の基準になる。それは企業が儲かるかどうか、人間がどうかではなく、金持ちや利益で大きくなり、人間の競争や企業間の競争にうち勝つ事を求めることが、世間の人達にも影響を与え続けている反映です。年少の子供や患者・老人の「やる気」をどう出させるのかが、現在日本の指導者や病院先生の能力をはかる物差しである。
 

 大量生産は中間の触媒的な「お金」生み、それで大量消費ができ「金」さえあれば全てがかなうように思える。この「物神性」が人々に、ただの紙がまるで価値があり「お金」だけが神と同じように信じるようになる。そして「金」だけを信じきるようになってしまう。本当の価値のある“真理・真実”はどうでもよいこととなる。このように資本主義経済国家の日本人のやる気のある人間の多くは、個人的な自己得「獲得金」がやる気の元になっているだけです。

 資本主義経済国家における社会の人々の多くは、価値判断が資本主義経済の“損得勘定”が主体になり、人々にも影響を与え当たり前もなり、この損得勘定で全てを判断しがちになる。
全面的な人間を・豊かな人生を、人間性否定の貧弱な損得勘定の人間・損得勘定の人生に自ら押し下げる。

 現在日本の社会は、高度な資本主義経済国家です。情報社会なのです。メディアでのテレビ等のマスコミ影響は強力です。そこからは人々に・子供や患者・老人に、膨大な情報としての退廃的で表面的な面白さを、繰り返し続けて番組を長期に渡り送るのです。

 さらにそこから人々は無気力・無関心・無行動を身に付けた人間になってしまう。その上に現在体制を擁護する者や観念主体に考える御用学者がニュースとして、自分たちに都合良く解釈し・嘘を平気でつき・ごまかし間違いを正しいように言いくるめ送るのです。これらから保守な無批判・無趣味・現状維持の人間になる。
 

 これが現在の日本社会のメディアです。人達が置かれている社会情報環境なのです。

子供や患者・老人は基本的には弱者である。強者である権力者や指導者や大企業が(暴力・権力・圧力)を振るってはならない。資本主義経済の強者の大企業が横暴な振る舞いに対し、政治は弱を助け強をくじかなくてはならない。今の政治が逆のことをしていることに対し闘わなければならない。このことは

 現在の社会体制の権力が間違っていれば、闘わなくてはならないことになる。

この闘いの改善は一部の者でもできるが、変革は、反対者を含め全ての者を運動に巻き込まなくてはできない。ここに連帯が必要になります。
温かい心をもっているのか(闘う気持ち)・憐れみ情を持ち続けているのか(援助する心)、自分の敵対者に対しても愛情をそそげるか(いたわる心)、科学の理性の思考をしているのか(変革の考え)、人間性の道理で実践しているか(進歩の行動)で闘うことです。

3−2−A 自主自覚について

日本は独立しているが、実質的にアメリカに従属している。これを解らないと日本の自主独立の意味が理解できない。また自分の自己の病気である脳の障害を、自ら治すものとは理解できないようだ。この自ら治すことは、個人的に治すことではない。他者と共に社会全体の進歩と一体のものとして治すのです。
個人の身体内部に備わっている自然治療力だけでもない。医学の全てでもない。全面的に統一的な、そのような自主自覚し同時に他者と連帯できる個人が自ら自己を治すのです。

3−3 人間の尊厳について

 まず「人間の尊厳」とは、人間には人格は必要だが、ここでは人格のもとの身体組織の肉体まで落とさなくてはならないし、さらに生命までなお下げなくてはならない。個人的生命まで下げて同時に精神の公共性まで高めなくてはならない。このことは生まれるまでの生命や死後の死体もふくまれる。
 身体の人格的機能が問題ではない。身体の組織こそが問題なのだ。「人間の尊厳」を全面的に・統一的に・全体的な存在として捉えなくてはならない。

 人間にとっても身体障害者にとっても「人間の尊厳」は、まず「身体の排便」として現れる。従って患者の「排便」を軽視してはならない。

人間にとっては自然で当たり前の「排便」という行為を、ただ何人もする行為だから恥ずかしくないという低劣なものから、恥じらいの崇高なものに高めるのが、ささやかであるが大切な「人間の尊厳」です。

 「人間の尊厳」とは抽象的な概念です。それは本来は排便と関係がない。しかし関係がない排便と尊厳を、人間を仲立ちとして関係づける。これが人間の抽象思考と、単なる排便の本来の価値から離れて、排便に「人間の尊厳」という別の価値観を持てる優れた能力を見いだす。

未来に確信を持つ。人間の正義を信じる。身体障害者の人間的名誉と道義的権威を守り闘うこと。身体障害者は、誠意と道理と理性を力に、世の中に訴え続けることです。身体障害者は、自覚的に共同独自の立場の態度でつらぬく運動が大事です。

身体障害者は、運動の困難さを恐れるな。障害者の立場を忘れるな。困難に耐える意志と強い理性で対応しよう。困難を打ち破り前に進むのが運動の法則です。

3−4―@ 患者の可能性についての考え方

可能性は、可能性のあるところには存在しない。可能性のないところにしか存在できない。可能性のあるところに存在するように思えるが、それでは可能性とは言えない。
 可能性のないところの存在である可能性は、高度な矛盾である。不可能なところに可能性は存在する。否定の否定である。

 患者の脳卒中の可能性は、このように考えないと正しい可能性とはいえない。

障害者は、障害そのものが障害を無くす。この覚悟が可能性を大きくする。障害の制約そのものが、障害者の人間を大きく自由にするのです。

3−4−A 上達の考え方について

患者の身体能力の上達における前進は、前方に前上がりに進むのではありません。実態として、螺旋状に後退しつつ前進するのです。この後退こそ前進のための力を蓄えているのです。これがその後のダイナミックを生みます。時には後退しつつ前進する。また前進には断絶が付きものです。断絶し前進するのです。人間も歴史社会も、個人も自然もこのように、全ては前進しつつ後退し一時は断絶して、その後さらに突き進むのです。


 マイナス面は、プラス面の相対としての存在としてあるのだけでなく、このマイナス面の中にプラスの要素があるのです。

このように上達するには・身体能力が強くなるためには、一時期には弱くなる必要があります。具体的には一時期には体が弱くなる必要もあります。これが患者には分からない。ですから先生や指導者は、このことを理解し患者に説明をしなければなりません。

 指導者・人間は、実践の中に理論を見いだし、理論の中に実践のいとぐちを見つける。この相互運動の実施の確認が大事です。この往復作業が常に行わなくてはなりません。従って、実践ばかりして理論を考えない。また理論を重要視し、実践を無視するのも間違いです。
実践の理論化、理論を実践に具体化、この繰り返しによって限りなく真理に近づくことができるが、しかし真理を掴むことはできない。真理は、理論を実践から切り離してこそ理論的に世界を掴み”真なる”ものを認識できるのです。このことは経験主義や実践主義者に陥らないことだけでなく、弁証法的唯物論の思考での理論的方法の核心です。これは観念論の精神的思考方法とは、まったく異なります。

3−4−B 量よりも質の練習を(量練習の問題点)

リハビリの練習量(週間回数・練習時間)を多くすると当然として強くなるが、この経験が上手になる唯一の判断基準となる。経験に裏付けられた観念論の考え方が根付くと、この観念から抜け出せなくなります。また他の質的な(理論・法則)に関心が持てなくなる。このように患者は実施体験の経験から、知識を組み立てるようになる。抽象的な思索が苦手となり、上達の理論付けが出来ない職人的患者・職人的先生の指導者になります。

やがて多く練習しているのに上手にならないのは、自分には能力がないと観念的に決めつけてしまう。指導者もこのように量の練習方法をとると、そのように決めつけます。

 患者の練習量の第1は基礎身体の体作りです。これに時間を多く取ることです。力(筋力トレーニング)でなく、@体の柔らかさ(柔軟性・しなやかさ)A体の重心感覚 B身体感覚です。もちろん筋力トレーニングも大切です。
無駄な練習をなくすことでも法則は必要です。だが量の問題で、必要なのは量そのものです。何事も量が、絶対に必要なのだ。量の問題は量の大小でなく、突き詰めると多くの量の問題なのを忘れるはいけません。

3−4−C 勝ち負け(スポーツ勝利)について

 スポーツの勝利には、試合の結果の勝ち負けと、自己身体組織の自由による解放表現があります。それは対立しながら統一されたものであっても、いつも表面的には同時に実現できない高度な矛盾を含みます。(試合・ゲームの結果の勝ち負けと、人間の勝ち組・負け組を混同してはいけない)

試合に勝っても、身体組織の解放はできない場合や、身体組織は自由解放表現ができても、勝利には結びつかない場合があります。(時には実現できることもあります)

 このことが分からないと管理指導をします。スポーツには選手の身体組織の自由による解放行為の過程と、試合結果の勝利の二つを見なくてはなりません。この二つのことが理解できない指導者は、威圧的な指導をして試合結果の勝利を得ようと権力を使います。

時として偶然性を多く含む勝利よりも、必然性の人間発展に繋がる身体組織の自由解放表現が、私達にはより必要と思われます。
 
 実際の試合は、勝利者は一人(1チーム)だけであり、従って大多数は敗者なのです。今、私達が暮らしている競争社会体制では、多くは負け組・敗者・弱者なのです。
能動的敗者は敗戦からよく学ぶ。従って社会的弱者も弱さから学ばなければならない。

3−4−D 人間の身体組織について

脳梗塞の病気で体がマヒになって初めて、なんと人間の身体は全体的で統一的の身体組織と理解できました。こんなにも多くの制御によって調和を保っているとは、その組織の1つが狂うと全てが狂う可能性があります。それほど人間の身体は多くの脳細胞と身体神経の調和と統一としてできあがっています。それは自然や宇宙と同じようになっているのです。

 進化・歴史的に日本人の身体を考えると、早期の長寿や少子化は日本人の身体に大きな影響を与えていると考えます。その為に日本人の身体に病的な要素が発生しているのです。

3−4−E 身体には何が重要なのか (自己体温を知る)

身体には動きによる変化が必要です。この始まりはエネルギーであり体が温かいことが必要です。体温が高くなければならないのに、今の子ども達は36.5度以上の体温の有る子は少ない。これは血液の流れが悪いことです。これでは早い動きはできない。 全身のすべての血液は、約三分間に一回肝臓を通る動きをする。その血液の流れが悪い。食事や生活を変えるような指導をすることです。体温は1日1回朝に測定の習慣付けを。

3−4−F (体の柔らかさが最重要)

 身体には力よりも柔らかさが必要なことを、指導者は十分理解し、患者・老人・子供に知らせて解ってもらうことです。

柔軟性こそが動き等の技を決めるのです。力ではない。体格でもない。常に体を揺する移動をして、柔軟性の柔らかさを点検し確認することを指導者は怠ってはならない。

3−4−G (心にも温かさを)

 人間は優しさが大切ですが、それだけでは不十分です。人間は全面的で統一的の存在だからです。この優しい心に闘う心を加えなくてはなりません。これでやっと温かい心になれるのです。悪いことに・他人のことでもあっても“闘う温かい心”を持つような指導をしなくてはなりません。なぜなら温かき人間性の心は、批判精神の民主性の反骨に宿るのですから。

もう一度言います日常の体温の高さが大事です。36.5℃〜37℃が必要です。これが健康に繋がり・心の温かさの基にもなります。

4、性格について

 4−@ 性格判断(日本式血液判断はどこから出てきたか)
 血液型で性格を判断するのは、世界中で日本人だけと思います(百年も前では西欧の一部でも行われていましたが今ではしていない)現在ドイツ人は、ほとんどの人達が自分の血液型を知らない。知る必要がない。手術では調べて輸血をするため知る必要がない。

では何故、日本人だけが血液型で性格を判断しようとするのか?


 日本人は何事についても「いいかげんである」自分の意志を表に表そうとはしない。有る物事について、いかに考えているかを言わない。常に一般的なあたりさわりなき事を述べる。自分の立場をはっきりさせない。政治(政党支持名)・宗教(何教か無宗教か)その他に、ついても自己意見を極力言わないようにしている。常に自己防衛が働いています。


 これでは、その人の性格が分からないので付き合えない。それでは困るので、血液型を聞くのは簡単な事なのですぐ聞き、これにより知って性格を判断し、その人間を解ろうとする。これでやるといかにも性格が血液型と合うように思える。何故か?

人間の性格は単純ではなく複雑であること、だからどの血液型でも合うこと、また性格は普遍的な要素もありいかにも性格と血液型が、合致するかのような錯覚をするのです。いいかげんには合っているようだが、正確にはまったく間違っているのです。 


何故?このような血液型性格判断を、日本人はするようになったのか。人間は自分の意志を表す意見を述べないと、その人の基本性格は解らない。

封建時代の社会制度や日本は国土が狭いために、意志を通す発言をすれば、弾圧され本人どころか親族・親戚も逃げ切れない。戦前にもこの要素は抜けきれず、戦後の民主制度は、過去のこのような問題は反省はされず、表面的な話に解消されてしまっています。ですから未だに多くの人達が(知識人も含めて)血液型性格判断に囚われています。


 現在でも少なくなったとはいえ手相(その他の方法等)で占うことなど行われています。10万人以上も居れば、色々な手相の人々がいたのに、原爆で一瞬にそれらの人々は亡くなったのです。これにより手相等の運命判断が、いかに間違っているかが判断できます。

科学・医学界でもこの非科学的な血液型性格判断や星占いや手首数珠等がまかりとおっていることは、いかに日本の社会が思想・科学理論等の理論面を軽視してきたかが分かる。

4−A 患者の性格で指導をしてはならない

 患者の性格の型で指導をしてはならない。患者の性格を考慮しての指導をすべきです。

普遍的な科学理論法則で指導をしないと、患者に合わした指導になり多くの患者が身体能力の上達ができない。あくまで正しい理論で全ての患者が元気にならなくてはなりません。

5,物の扱い方について

変化や威力の違う色々な形の物を、同じように扱わなくてならない。簡単な物も丁寧に扱うように指導することです。柔らかく・優しく、同時に激しく・厳しく扱うのです。

6,自己主張の強い患者の指導について

自己意識が強い者であっても、法則には従わなくてならない。これが出来るかどうかで科学的な人間かどうかか決まります。
だが病院生活にも、自由と楽しさと民主主義が必要です。この自由とは自己解放の自己表現です。生活をする人間の美しさもここから生じます。楽しさとは生活をする面白さです。この日常生活を行う中に自己主張が加わらないと、楽しく生き生きとした行為はできない。
病院生活の行為の民主主義とは、病院のルールを守りフェアプレーに徹底することです。

 自己主張が強く先生や指導者に従わなくとも、押さえつけ管理しては患者の能力の伸びを殺すことになる。管理はあくまでも自己管理でなくてはならない。科学理論法則を繰り返し説明し納得を得るように、指導者は粘り強くなければなりません。
(スポーツの技術の習得も繰り返しが必要なように、理論も繰り返しの習得が必要です)

7,一貫性の指導は不可欠か

一般的には断絶とは途切れることであるが、そうではない。断絶があるために、その後の発展・進歩の連続があるのだ。断絶がなければ継続はない。これは高度な弁証法的矛盾である。

少数先鋭の特別英才教育の一貫した個別指導は、勝敗を基本にした方法であって目先の結果を重視した間違った教育です。慌てすぎる教育方法です。このことは「プルアップよりもボトムアップが必要」が正しい教育方法であることを教えています。教育とは、まずすそ野を広げその上に頂点を引き上げる事を意味します。これが教育全般には必要です。

8,再度、先生(指導者)と患者の基本的な関係について 

世界は、人間の世界であり従って人間の理性・道理がまかり通ることです。この人間の世界は平等・対等です。病院は病気治療をする医者と、その治療を受ける患者であっても、関係は対等でなければならない。各患者に対しては平等が基本です。だが現実の人間社会は、関係者が特権を振り回し、指導者が上位の立場から患者を押さえつけて服従を強いる場合がある。医学が人間のために、患者のために役立たなくては、ならないのだから医者・関係者・指導者は、この原則の前提を理解しなければならない。

9,患者の叱り方について

 患者を罵倒してはいけません。全員の前でしかってはけません。しかるときは指導者と患者と一対一でしかるのです。時間がたってからでは遅すぎます。その場でしかることです。また感情的に言うのではなく、指導者は「なぜ」なのかの意味を納得させる説得力・指導力を身に付けることが必要です。

10,未来治療

10−@ 未来治療はどのような治療か

未来治療は、医学の発達が鍵を握るだけではない。社会体制が人間発展のために変革すること、それは自由・科学・民主主義が必要ですが、社会の前進すなわち経済・政治・生活の民主化と自由の前進が不可欠です。

 未来治療における治療そのものは、患者に重きをおくとこらから始まる。当然のこととして治療内容の充実が問題となる。人間にとって・患者にとって身体は重要だが、社会生活の保障は不安からの解放され、競争に規定されているのは、ゲーム等の表面で見える外的な個人目的に縛られているだけにすべきです。経済の生産手段が社会化され搾取のない未来社会では、病気の治療が、人間本来の自然で高度な動きを取り戻し社会生活が何も不自由無く過ごせること。これは生産の労働に社会的な変革が起こってこそ実現できるのです。


 それには人間関係の社会的連帯がなくてはなりません。その連帯は,連帯を知らない人達を含む連帯でなくてはならない。

その社会で、人間性の内容が発揮できる自由の環境が伴わなければ、個人の自由時間の確保が無ければ、全ての人々は最高の身体・精神・感覚感情も持ち得ないことになります。
自由な人間は、常に全てに変化を求め、動きそのものを愛する。自然の全てがそうだから。

10−A 未来治療には何が不可欠か

金より時間、個人の自由時間、個人の全面的発達には自由時間が必要不可欠、時間とは命。自由時間とは自由人間のことと同じ事を意味します。
 未来に思いをよせるのはいいけれど、未来を急ぎすぎるのはいけません。病気になった今、過去の生活はどうだったかを正しく清算しなくて、未来を希望的に考え・未来に耽るのはよくありません。しかし現在社会での「精神の未来化」は大事です。

 身体障害者(人間)は、現在の今日の自分を直視するだけではいけません。明日や未来の夢を同時に持たなくては、治療・回復も、生き生きとした生活は出来ません。

11,治療の高速化について

治療方法は高速がよいのは基本的にそうですが、全ての治療がそうではない。社会は合理思想によって進みますが、歴史法則によって、経済・政治の人間の実践による変革活動で実現するのです。従って、まず身体について学び・科学全般思想を学び・変革の実践をおこなうことです。患者は特に医学思想・健康方法・予防方法・治療方法を学ばなければならない。この思想こそが健康や治療の真髄で、健康に過ごせる本質なのです。
医学の進歩には、治療は早いほどよいのでスピードは必要です。しかし治療は、全てスピードが必要とは限らないのです。遅い場合がよい治療もある。

 

12,現状の困難さを突破する力はどこから

日本社会の現状を嘆いてはならない。ある意味で喜ぶべきことなのです。今までの繁栄した日本経済の中で、労働者階級の社会生活水準の貧困化が、あまりにも進んだからこそ、新しい力が出てくるのです。GNP(国民総生産)の多さや力や能力の高さではない。今までにない新しい力。その力とは正しい思想の力・科学理論の力・共同人間の法則力です。

13,子ども達のとらえ方

13−@ 人間とは何か(子どもの人権)

 現在社会では子ども達の事件が多すぎます。多すぎるとは何か、多すぎるからには、子ども達に問題があるよりも、社会体制に問題の原因が有ることを示しています。
子どもは人間です。生まれる前から人間なのです。受胎すれば人間と認めるべきです。では人間(子供)とは何か、全面的なもの・全体的なもの・統一的なもの、それは全てに関連しており、自然と社会が対立しながら統一された個別の存在としての社会的身体組織そのものです。

 子供は社会的に弱い存在です。このように子供であっても、人間として・子供にも人権があることをみと認めることです。人間はただ生きているだけでも愛らしく・美しくて素晴らしい。子供が動き回るだけでもそうなのです。大人が他者である子供の権利を尊重することが子供の人格の発達になり、社会的安定にもつながります。

 子供は身体障害者と似ている部分があります。弱者であること。大人になるには長期の年月が必要です。身体障害者が回復するには長期の年月が必要と同じです。共に長期の年月が、個人的な人を、つながりがある社会的人間にするのです。

13―A 処罰をしない(罰をあたえない)

 人権がある子どもに対し、言ったことに従わなかったり、いたずらしたり・悪いことしても、処罰的な罰をあたえてはなりません。指導者の指導をしたことが出来なくても・暴力を振るってはなりません。親子であってもしてはいけません。

処罰をすれば、罰を恐れ強いストレスとなり、学習やスポーツをすることを嫌がりやめてしまいます。処罰をすれば結果としてこのようになるからではありません。単に処罰をすることは、その物事に対応していないからです。対応できていないから指導者・親は、怒鳴ったり・暴力を振るったり罰を与えてしまうのです。


 子供も人間ですから対等の立場に立ち話し合うこと、押しつけでなく納得させることです。常に、どんなことが有ろうとも、子どもに必要なのは大人の『かわいい』という感情です。この「かわいい」感情に大人が子どもに対する価値が有るのです。これを失ってはならない。

 処罰する大人は、子供の問題に対応できていない。対処の方法が分からないのです。それなのに処罰をするのは間違いです。処罰よりも『愛しているまなざし』です。『思いやる言葉』と『怒る言葉』の統一です。これで子どもは劇的に変わるのです。

14,個人の能力について

14−@ 能力とは
個人の能力とは共同力である。優れた人間(子供)であっても「共同の能力です」
諸個人の能力であり同時に共同の能力なのです。強い人間(選手等)ですら自ら強くなったわけではない。協力関係の人間と人間の間に、能力は生まれ、それが諸個人の能力となる。
親の能力が創り出した環境、指導者の良き指導などで能力は創られる。個人の能力と見えるものは、共同によって創られた個人の能力なのです。

14−A 遺伝と環境

 両親の遺伝と両親と他者(指導者等)の作り上げる環境と自然・社会等の他者環境の共同体が、その個人の能力になる。優れた学習能力・運動能力が、いかにも個人の能力に見えようが実は、他者との共同で自己が主体として他者との創造性共同体が、個性としての個人の能力なのです。

14−B 機会と平等
個人の能力が共同性ならば、個人の能力の差はあっても機会は平等でなくてはならない。この平等は機械的平等ではいけない。学習や運動面の生得的能力が劣っていれば、心・体・技は、もちろんのこと思想・科学的理論・法則を与える機会を指導者等は、その個人に対しより多くしなければならない。(これが指導者の年少者に対しての科学的責任です)


14−C 平等について

 人は平等ではない。能力や環境も違う。しかしだからこそ人間は平等でなくてはならない。社会的な人は、人間としての存在です。人と人同士が共に生きるのが歴史的な社会です。その人間社会(人間関係)では、社会的権利が平等でなくてはならない。平等でなくては、人間幸せになれないからです。人は諸個人として平等ではないが、人間として基本的人権では平等である。

 人間個人として各人は不平等な存在だが、同時に社会的人間としては平等である存在なのです。この諸個人の不平等な事実の存在を理由にして,人間を不平等としてはならない。人権の真理は、全ての万人にとって平等かつ対等であるということです。人種・性別・年齢・富・地位・力・その他の格差で、不平等が有ってはならないから必然的に長く苦しい人間的な闘争が無くては、平等自身も前進しないし社会進歩もない。したがって未だに現在の社会には不平等が存在しているのです。

 平等には同感が必要です。見知らぬ・会見しない他人に対する同感が平等には必要不可欠です。(他人の気持ちが分かる。他人の心を持てるかです)

 晴れた日に太陽は、すべてのタンポポに同じように光を授ける。だから日陰には、タンポポは咲かない。

14−D 判断と差別
 指導者・先生・学者・権力者・上級者は、安易に人間(子供)の性格で判断をしてはならない、また能力で差別をしてはならない。全ての人間(子供達)に均等の機会を与えることが、正しいと思います。

14−E 社会の抑圧と個人の欲望について

 人が同じ間違い等を繰り返すのは、諸個人の強い欲望がその原因です。その個人の欲望は社会の抑圧によって誕生するのです。人間は経済の発展による繁栄と抑圧によって押さえがたい欲望を持つのです。従ってその時代の個人の欲望をより良くするには、経済と政治体制を変えるしか方法はないのです。

15,経験をしないと分からないか

 経験主義は不可知論です。間違いです。経験をしないと人間は理解できないのではありません。書いたものや聞いたものでも、人間は探求心や想像力で経験者にも劣らず感情的にも知ることができ、又それ以上の本質の真理を掴むことが可能です。


全ては・なにもかもが(人間の高度な精神も)物質の不均衡による運動の変化であるが、相対関係もあるので同じ運動変化の場合は固定化された変化ないものに見えるが、常に運動・変化して、それは全面的であり統一的であり進化し発展消滅する。発展とは消滅と同じである。発展も消滅も同じ運動変化です。
医学の科学的理論の問題とは何か?医学にも法則があるのかどうかです。まずこの疑問を問うこと。


なぜ人間は、苦しむのか・悩むのか、それだけ人間は全面的かつ統一的な存在なのです。それが今の社会では人間は、疎外され自由がなく非民主性がまかり通っているため苦しむのです。この社会的な苦しみと個人的な苦しみは、時として対立し統一され同一のもの。
現在の社会体制の中に苦しみ・悩む要素があるからです。人間の悩みの本源的なものは社会法則の欠如です。それは正しい思想・科学理論が身に付かないと解決できない。

 人間の自由は、人間に人権が保障されてこそ実現できる。自由と人権は一体のものだ。自由は諸個人の自由時間が、社会的に保障されたときに実現できます。同時に人権は社会的民主制が、人々の中に高度な民主主義が定着したときに実現できる。この二つによって全面的で統一的な人格を持った人間となれるのです。

16,歴史の学び方について

歴史には二つの流れがある。表面の見えるダイナミックな流れ、もう一つは深部の見えない静かな大きな流れ、表面の流れは時として逆流するが、見えない基本的な流れは表面が逆流しようが、静かに深く必ず前進する。人類の社会歴史の流れと、科学の歴史の流れは別個であり、かつ同じ流れであるのです。歴史は全体の人類の進歩であり、同時に各個人の人間の発展でもある。

過去から学ぶということは、昔の愚かな人間の行為をあざけり笑うためではない。良いことも悪いことも等しく学び、その中に未来に通じているものを掴むことです。

過去は現在を触媒としてこそ未来に通じている。医学の歴史、脳卒中の歴史、リハビリの歴史を私達は学ばねばならない。

現在は過去が有ったからこそ存在できる。現在が存在しているから未来もある。私達はこの真理から過去の歴史を”正しく保持しなければ”未来はない。

百年は長生きだが、歴史(人類学)から見ると一瞬の出来事です。短期間でのみ物事を判断すれば間違います。人生の出来事も長期の歴史(人類学)から見ることで正しく判断が出来て真理を見ることができる。

過ぎ去った歴史と言われるものが人類の全てを形作ってきた。それを少しでも失うと未来が分からなくなる。歴史を失った人類は人間ではない。歴史は一貫性のものであり、従って思想も人生も一貫性のもの、その一貫性は”真実がある歴史”を求める人間の生き方を決定する。

 独裁は、一部の間違った意見が、多数決という非民主主義の「数の力」で押し通されることです。だから独裁者は力で反対者を抹殺するが、だが間違った思想は長くは続かないので、正しい少数派が将来は多数者になるのです。歴史はこのことを教えています。

歴史は本源的に長期の時間(時代)が必要です。ですから過去からの歴史を学ぶことが大切です。人間の人生は、歴史に比べて相対的に短期である。従って現在の社会を、個人として短期的に判断して今の情勢に一喜一憂してしまう。歴史が出来るには長い日数が不可欠です。歴史は中期・長期での判断が大事です。しかし、だからといって、短期での激変を見失ってはいけない。また歴史は過去だけではない。現在から続く未来に目をそそがないと、歴史の変わり目を見失ってしまう。歴史とは過去・現在・未来である。
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歴史を知ろうとしない者、歴史を正しく学ばない者は、現在も未来も正しい生き方は出来ない。

17,科学的思考とは

科学に、甘さや常識は厳禁である。科学には徹底した厳しさや非常識こそ必要不可欠です。だがこの厳しさは人間性を否定した厳しさであってはならないし、非常識も道理を否定した非常識であってはならない。全てに対し絶対に諦めてはいけないのが科学だ。 

 科学の失敗と成功は同じように起こる。ただ初めに失敗が続き、後には成功が続くのです。

科学の見えない真理は、その真理を見つけた者は必ず人々に伝えること。真理を言い続けること。反対があっても・弾圧があっても真理を叫ぶこと。それをやりきれる度量があるかどうかです。

いいかげんな小説家は観念の力で小説のストリーをもてあそぶが、優れた小説家は現実に真理を見いだし真理を語る。科学者は真理自体をどうも出来ない。だから、えせ科学者はねつ造する。


科学的思考とは、科学的知識や社会・環境で起きていることに関心や感情を覚えることではダメです。”社会の敵を知ること”です。社会の敵の悪人を見れなければ、真の社会的人間にはなれないし、闘う事も出来ない人間になりさがる。

 身体障害者は、発病前の健常者の状態や将来の健常者になった時の事から、現在の障害状態を考えてはならない。(そのような思考方法では落ち込み嘆くだけです)常に現実の障害身体の事実を直視し、そこから出発し真実を明らかにすることが、希望の持てる変革の科学的な正しい思考方法です。

全てから学ぶべきです。出来うる限り、人間に関わるあらゆることから正しく完全に学ぶのだ。

18,希望と絶望について

科学にも夢や希望がなくてはなりません。それと絶望的なものも必要です。希望と絶望は表裏の一体のものだ。絶望がなくては希望が出てこない。闇がなくては光がないように。本当の生きた夢も、現実がどうしようもなくなった時に生じるのです。

 希望とは、現実を悲観視して無視することではない。現在社会の問題に対し人々の諦めの暗黒中に、かすかな希望を見いだすことです。希望とは変革であり人間の共同が希望そのもので、単なる頭の中の夢物語ではない。

本当の希望は、思いや願いではない。希望は行動である。実践をしてこそ希望は実現する。

19,注意について

注意とは、意識である。意識は脳のシステムであり運動変化です。意識は、外部の存在の反映を内部の自己として、脳のダイナミックな統一行為で生まれます。

20,複雑について

複雑な物事の中に単純な法則を見いだすこと。その能力の凄さ。物事の変革とは今までの法則を変革させること。法則の深い溝の底には本質が隠れている。だが複雑なものを何でも単純化することは、危険すぎることも知っていなくてはならない。複雑なものには複雑で対処するのが基本です。

21,表面現象について

物事の解明ができないのは、多くの人の判断基準が、表面上の現象を問題にする間違った判断に基づくからです。見える表面を優れた感覚で掴む目、見えない本質内面を捉える科学の眼、この二つで見ることです。

22,自由について

 個々の自由は、全体の自由と一体のものであって、かつ社会の民主主義の全体が前進することに制限される。

自由とは、個人が他者と関係が無く、かって気ままに振る舞う事だと個人主義者は考えているが、そうではありません。世の中の全てのものは関係しており、そのもの単独で存在しているものはありません。物質同士だけでなく精神も、また物質と精神も関連しているのです。

経済を離れた自由もないが、経済にとらわれた自由であってはならない。

 身体障害者は身体が不自由です。この不自由さが自由の源です。自由と不自由さは対立しつつ統一された一体のものです。不自由な身体そのものが、自由な身体を自ら求めます。動かない不自由な肉体にとらわれない精神。この体の自由・精神の自由が、人間の身体が求め続ける自由なのです。したがって人間はこのような自由を追求する存在です。

 人間は自由に考えることよりも、自由に振る舞うことや、自由にものが言えることの方が大事です。自由に個人のことを考えることよりも、全体の全ての個人が自由になることを考える方が大事です。自由にあらゆる事に興味を持つことよりも、自由に経済・政治・社会・他人に関心・興味を持つことが大事です。
人類全ての各個人が自由にならなければ、個人一人だけの本当の自由はあり得ない。それは人間が統一された全面的な社会存在だからです。

23,関連について

 全ては関連し繋がっている。有るものが変われば、他の関係ないものも、実は繋がっていて必ず変わる。これが真理です。

24,道理とは

 道理とは、科学的理性と正しき感覚が融合したものです。一方の面からのみ判断し行動をすれば間違います。常に科学的理性を学び同時に正しき感覚を磨き、その対立したものを統一した道理でもって、物事を判断し実践をすることです。
 

 科学が、道理を無視し科学のみの価値を求めると間違います。道理抜きの科学・経済・政治は悪いものとなる。

政治や行政が道理を第一とすべきです、まず道理でもって、物事が道理であっているかで人間は判断すべきです。ですから人間の道理から離れた民主主義も自由などありません。

25,過去とは

 過ぎてしまった過去は変わらない。変わらないから過去は教訓となる。その過去の事実を意図的に偽装すれば、その後は間違ってしまう。このことは過去から正しく学べば,その後は正しい道を歩める。過去は現在を通じて未来に繋がっていることを教えている。

過去を偽る者に未来はない。過去の事実から真実を見いだす者にのみ未来はあるのです。

背負っている過去は、捨てるべきではない。重たくとも過去を引きずりながら前進するのです。過去を手放すときは、今の現在を正しく未来に過去を掛ける時のみ。


 事実の過去を知ろうとしない・変革の未来を語ろうとしない者には、現在を正確に語ることは出来ない。

 考えかたの基準スパンとは、過去から未来に続く「長い物差し」と、宇宙的な「広い物差し」と、どこまでも「深い物差し」の大きなスパンの定規の考え方が必要です。

26,考え方の根本と人生について

 哲学の根源的な問題は、物質かそれとも精神かで唯物論と観念論に別れる。物質を第一義として考える唯物論、精神を第一義と考える観念論、これは人間の考え方に留まらず、その個人の全ての考え方の基本になるだけでなく生き方にもつながる。従って人間にとって一番大事なものだ。
人間の生き方には、このどちらかの考え方をとることで決定的となる。

 人生の分かれ道に来たら、迷わず険しくて狭い暗い道を進め。真実の力とは、最初は認められなくとも、いずれ認められる最強の力です。

常に変化のある人生を、病気になっても良かったと思える人生を、自分や家族のためだけでなく、他人の不幸の元凶である社会の不正や悪徳と闘うこと。


27,身体障害者の戦争と平和

 身体障害者にとって最大の幸福は、健康と平和です。反対に最大の不幸は、病気の悪化と戦争です。この戦争は身体障害者の現状をより艱難にします。また戦争自体が多くの身体障害者をだす。
 戦争は思考の価値観や経済・政治体制を、相手側に強制的(武力等)に押しつけるために起こります。日本の平和憲法を守る闘いは、身体障害者の敵である戦争をさせないことに繋がります。身体障害者の味方は、元気な健康だけや先端医療だけではありません。平和と民主主義と自由も、身体障害者とって強力な味方になりえます。身体障害者の真の敵は、傍観者になり自分の健康を願い、ただ生きることなのです。

 戦争は経済・政治の反映です。戦争は軍事産業を栄えさせるが、全体としての経済は衰える。平和は経済を最大に繁栄させる政策なのです。財界人・身体障害者もこのことを知るべきです。身体障害者は、戦争が弱者にとっては最大の不幸と認識するだけでは不十分と考えます。平和経済も大事と知ることです。

28−@ 身体障害者の社会保障
 身体障害者等の社会保障の前進は、それ自体が経済・政治等の社会体制を前進させる。身体障害者等は自己の権利の自覚が必要です。また身体障害者等は他者の人権の必要性を認めることですし、社会に認めさすことです。
社会保障の財源は、財源のある大企業や高額所得者の”お金持ち”から負担を求め、実施させることです。社会保障の第一は生存権の保障です。社会正義の負担とは、所得に応じて負担し、それにより給付は生活状態により平等に給付することです。

 正義なくして命なし。社会に人間に正義がなければ、社会保障・保護・人権はありません。政治・経済に正義のルールがなければ、弱者の幸福は無いのです。
 正義を無視したり判断が出来ないと言う人は、正義の判断基準が分からない人です。どちらの意見も認めて折衷をして、あくまでも客観的立場で自分は判断しているのだと言わんばかりです。正義には思考・分析(観察・推理)・学びの統一道理態度が必要です。

身体障害者は、優れて傷つく自己意識や悲しむことが出来る精神を持っている。

哀れみや、慰めや、優しさや、思いやりはいらない。身体障害者の私は人々に怒りを求める。この生活状態・この尊厳なさ、障害者の生きにくい社会に対する“怒り”を本当は人々に障害者は求めているのだ。そしてこの怒りを、祈り・願い・哀れみに取り替えてはならない。

 障害者となって障害のある自分の身体ばかりを嘆き悲しむ者は、現在社会が病んでいることを知らない者だ。

 
社会の階級は、貧富・所得の格差として現れる。さらに健康の格差として見える。最後に社会的格差は『命の格差』として存在する。

28−A 福祉の後退とは

 福祉の後退には二つの要素があります、一つは社会弱者に対する支援・保護の低下です。もう一つは社会の後退を現します。経済・政治・行政の行き詰まりです。現在の日本社会の経済・政治が後退しつつあるので、人間の人権が立ち止まる現象を現しています。しかし、それでも歴史・人間社会は前進する。

 福祉は、現体制を批判する者から成り立つ。現政府の政策を観察し推測しながら、問題点をえぐり出し批判の声を上げるのだ。そうしなければ福祉は進まない。

 現在の福祉の後退は異常です。歴史的にも人間の社会進歩的にも異常です。これを正し正常な社会にすべきです。このことに気づつくことです。

29,身体障害者の美

 身体障害者の姿は一般的に言って醜い。元気になるための”悪あがき”をする気持ち、悪戦苦闘が続くリハビリその容姿は醜い。だがその醜い中にも美は存在する。絵画にも醜い対象物を描いた”美”の名画もある。しかし単なる悪戦苦闘から美は生まれでない。
 美しいものから美は出てこない。苦しみ悲しみから真の美は誕生する。

 自分や他人の人間性を社会生活に実現しようという闘う姿には、自立した精神的な意志を通しての”社会生活の美”が、鈍く僅かに光りエネルギーに満ちて見えるのです。それは実生活に裏付けされた骨董品の美のようです。この美は誰でも見えるとは限らない。見えない美を視る眼、目利きの眼を持っている者しか”見えない美”なのです。

 美しい姿ではなく、美しく生きることです。美しく生きるとは、社会的弱者の立場に立ち、正義の闘う人生です。

30-@ 身体障害者の肉体と心

 人間の肉体に心はあるのです。他には無い。貴方の偉大で高貴な精神も肉体にあるのです。観念で宇宙の端まで思いや考えを飛ばしたつもりでも、その精神は体から少しも離れず貴方に住み着いているのです。心も体にあること、精神も身体にこそ存在できること。貴方が精神よりも低いと見下げている肉体に精神は寄生しています。だが肉体がどれほど駄目になろうとも肉体の死以外は、肉体を殺せない。観念の精神や心では肉体を殺せない。精神では肉体を殺せないので、人間は力を失った見かけの精神の脳の力でもって物理的な自殺をします。

 観念の力、精神で、哀れな肉体を、丈夫な肉体に瞬時に変身させる。”心”がいつも威張っているのです。肉体の中で、頭の脳の玉座に、自己の王として座り君臨して、いつも貴方を操っているのです。

 観念の精神は、不安や絶望の気持ちも希望に輝き嬉しい気持ちにさせてくれます。夢も自由自在だ。その魔力のために貴方は、否応なしに常に降れ伏す。
だが精神の王様も、心の神様も、肉体の生命の炎が消えるともう何処にもいない。残るのは死に絶えた肉体のみです。あの偉大な精神は何処にもない。これでまともな精神の持ち主の人は物質が根源であることが分かります。

 『障害は困難で苦痛を伴う。しかし幸福になれるし・喜びの人生もすごせる』 『健常でない障害肉体にも、人間性の豊かな精神は存在する

30ーA 身体障害者と「うつ病」

 多くの身体障害者は健常体から不自由な体になるために「うつ病」になります。しかし健常者の3人に1人は「うつ病」と言われています。それほど気にしなくてもよいのですが、この「うつ病」は、精神病と思われていますが、そうではありません。「うつ病」は精神病ではない
 「うつ病」は神経の病気なのです。脳からの神経伝達物質が、脳が故障し出が少なくなった為に、元気とかやる気がなくなり精神面や行動・言動面に問題が出るために「精神の病気」と勘違いされるのです。心理面も影響されて表面にそれらがよく見えて「精神病」と思われているのです。
「うつ病」は精神病ではなく「うつ病」は神経の病気なのです。
 医者の中には平気で「うつ病」を精神病と言う人がいるがいいかげんです。根本的な事に対しては厳しく正確でなくてはならない。

30ーB 身体障害者の障害に価値は有るのか

 身体障害者の障害に価値はあるのか?障害者にとって障害は不幸の源になっていると考えています。このマイナス要因になっている障害に価値はあるのか、無ければ身体障害者は価値無しで生きなくてはならないことになる。

 障害の特別の価値とは何か?障害そのものの価値ではないが、障害に関係があって障害以外のものです。例えば時間があります。障害者になれば、働いている時よりも自由な個人時間はあるのです。また社会的弱者に対して関心や思いやりが出てきます。それから人権の権利意識等が新しく生まれ、怒りや憤りが出てきます。それらよって闘う意志や実践が行うことが出来ます。これが身体障害者の価値です。

 自分の障害に価値を見いだすと、人間はその価値に対し特別な思いを持ちます。

31,病院内の主権と人権

 病院側に経営権や運営権はあるが、治療を受ける・弱い立場の患者に、病院内の主権者の地位はあるのです。これを「ただ治療を受ける患者」としての低い立場にしてはならない。(国の権力の行政権は政府にあるが、主権は国民にあるように)


 社会に存在できる権利・基本的人権は社会の最高価値として、国・自治体・病院等が患者に対し保障義務を負うのです。

そのために病院内では、患者の意見を最優先にしなければならない。患者の横暴は許されないが、弱い立場の患者の意向を、最大限に実現出来るように病院関係者・医者・看護師等は患者本人を尊重することです。

権利・人権は少数者が理解しても役には立たない。社会の全員が平等に教えられ・知り・理解しなければならない権利・人権。そう出来ないと権利・人権は不完全のままです、だが、権利・人権を認める者が少数であっても、その者がまず権利・人権を認めさせる闘を行うことです。

 基本的人権の最大のものは自由です。肉体の自由・精神の自由とは人間の共同の自由です

32-@ 経済学を含まない治療(リハビリ)はあり得ない

 経営学は、会社の利潤を飽くなき求めるので、生産を増強し、人件費等の軽費を低く抑えようとする。社会に働き生きている私達も、収入を増やし、収出を押さえようとする。経済学では、社会には生産とそれに対応する消費が問題です。

 私が入院していた4人部屋の隣は1人部屋で、一人の脳性マヒの患者が入院していた。寝たきりで返事が看護婦しか分からない程度なので、看護婦の誰かが付いている。これを経営学からみると生産が無く、人件費の軽費がかかりすぎるとみえる。
 経済学では、社会には生産とそれに対応する消費が必要不可欠です。消費の面からみると重度の患者は手間が掛かるということは、それだけ消費に貢献し・かつ労働力を必要とするので看護師等の就職が増えるというものです。
このことを重度の脳性マヒの患者から私は学んだ。治療には経済学が必要不可欠です。この経済学を抜きにした、新自由主義経済「勝者勝ち・独り占め」の構造改革や規制改革・行財政改革・公共サービス効率化法(市場テスト法)では、国民は幸福になれないのです。
 政府の新自由主義の「富国強経済」では、何よりも日本の大企業のグロバール化を押し進めるかが、国策の第一課題としているので、いたるところに大きな弊害を出しています。

32-A 現在の日本医療の問題点
 現在日本の医療の大きな問題点は、医療費の削減と医師不足です。医学・科学・技術の世の中が発展すればするほど、教育・福祉・医療の分野での人間相手のサービス労働は手間がかかり時間も費用も当然かかります。歴史の進歩はこのことを教えています。この必然を知り学ばなくてはならない。
 日本国民の医療費の自己負担額は世界最高です。国の負担額は世界的に見て低い。これを国際的水準の医療費するにはGDP対比で10%以上を国は医療費として歳出すべきです。
 また医師を計画的に増員し国際水準にするには、約13万人医師増員が必要です。現在日本の医師数は人口当たり世界67番目です。こんなに低いのです。

33,政治について

 政治とは、経済・権力・行政・軍事等の内在する暴力性を制御するための思想行為です。したがって強き者の力を制限規制し、弱き者を保護し援助するのが政治の本質です。人間はその政治社会に暮らしているからには、政治的な人間でなくてはなりません。

34,理想について

 人間は高い理想を持たなければならない。なぜならば、それによってのみ偉大な人間になれる可能性が出てくるからです。現実をふまえた理想が必要です。しかし同時に現実を無視した高すぎる理想が必要不可欠です。個人的ではなくて、大きくて深い人類的な高すぎる理想も必要です。


 理想は事実と対立しながら統一している。それを変化させ真理を見えなくしたのが現実です。ですから現実には見えないけれど理想は含まれているのです。

35,基本生活の基準とは
 全てには基準がある。長さでは1mです。しかし身体障害者や年金暮らし者は、日や曜日や時間等も関係が無くなり分からなくなる。私のようなグウタラの性格者は、身体障害者の生活がムチャクチャになる。そこで生活基準を考えました。日数では、第一基準は一週間です。第二基準は1ヶ月です。第三基準は1年です。

 1日の時間基準では、第一基準は12時です。第二基準は朝の8時です。第三基準は24時です。なぜ1日の基準では昼の12時か?基準とは、普遍的で誰でもが同じく認めるものです。そうでなくては基準にはならない。

 昼の12時は、@誰でもが昼食の時間と認める。A午前と午後の境界時間です。従って昼の12時前後には昼食を摂ることです。この時間帯に昼食を必ず食べるのが大事です。1日の最大の生活基準とすることです。(武士は食わねど高楊枝と思っている精神主義者みたいに、食べることを軽視しないことです)

 なぜ第二基準は朝の8時か?朝の時間関係は各人違う。だから朝起きなどは各人まちまちだ。だが8時としたのは、8時には用意が万端すんでいて行動がやれる準備が出来て、具体的な事柄が始まる時間であることだからです。
なぜ第三基準は24時か?夜の24時は一日の終わりです。だから24時を基本的に超してはならない。11時には床に着くことです。
あとはテレビの見る時間の自己規制です。

36,歴史の螺旋状の前進とは(特に後退しつつ前進について)
 近代歴史において1917年のロシア革命はロシアばかりでなく、その他の資本主義国家の社会をも前進させた。そして1991年には全体官僚体制のソ連が崩壊した。社会主義を支持していた多くの人達は落胆したが、その後の世界はこのソ連の解体で、現在は全世界が生き生きと活気づいている。

 ヨーロッパ諸国のEU化、東欧の独立化、中国・インド経済大国化、南米のほとんどの国の左翼化、イスラム諸国の自立化、アメリカ一国の影響力の低下、これらが世界史における螺旋の後退しつつの前進なのです。しかしその中で日本だけが沈滞化している。嵐の前の静けさか?前上がりの螺旋の前進の後には、必ず螺旋の後退しつつの前進がある。全てはこのように進歩します。歴史のごとく螺旋を描いて前進する。

自然に進化歴史があるので、人間社会にも進化歴史が有るのです。現在の自然環境の悪化は恐ろしいことですが、一方では自然環境の悪化が、人間社会の進化歴史を創るのです。

感覚・感情は同じ事を代が変わっても個人的に繰り返す。このことを見て、人間社会は全然進歩していないと思う。間違いです。進歩変革思想が変わらない人々の心をつかめば、人間社会は変化進歩する。


新自由主義のグローバルな経済が社会の表舞台では格差を生み、露骨に人々の心を蝕んでいるので社会文化はすさむ。その資本主義経済の裏で、人間は「思いやりと弱者に優しく

気配りのある文化」がよろけながらも、だが堅実に進歩が美しく組み立てられている。


 身体障害者の身体は、発病後1年を経てば体の回復は停滞する。その時は螺旋の後退しつつの前進に入ったのです。障害の身体が、さらなる前進のための後退期にさしかかったのです。だからここで諦めてはなりません。能動的なリハビリを継続することによって身体は回復前進します。螺旋の上昇を遂げる。

37,身体は肉体と精神の対立物の統一

 身体の肉体と精神の対立は分かるのですが、統一が分かりにくい。統一とは単に相反するものが一体になっているものではない。反するものですから、なかなか統一には成りにくい。


 例えば、精神は観念の考え方ですから、肉体が思いとおりに行かない場合や、気にくわない肉体に対立し続けようとして、精神の存在させうる自己の肉体をも見下げます。ですから精神には自己肯定の確信が必要不可欠です。精神力の確信が肉体を肯定し、なおかつ精神力が肉体と融合し合わなくては、統一はかないません。

 この確信は、信念にまで高めなくてはらない。徹底して肉体と精神の統一を長期にわたり追求し実践することです。(これを実践すれば、不可能と思えることも実現可能となる)

観念である精神の力を利用するので、夢や理想や信念・イメージ等を持つ、それを肉体にしっかりと繋げることです。ただし超自然現象や神などを信じるのは間違いです。熱烈な願いが、肉体をそのように向けるのです。実現可能を広げるのです。そして実現できるのです。これが肉体と精神の統一なのです。ここには超自然現象や神など入る余地はないのです。

 観念論者はこれが分からないので、願望が実現できると超自然現象や神などで意味合いを付けるのです。観念だけで考える人達は、進歩や偶然性と必然性の関連が分かっていないために、不可知には、何かと意味合いを付けたがり、何か(神等)がそれらの不可知を簡単に説明でき合致すると、そのことが本当の原因であると思いこんでしまうのです。


 最先端の物理化学者が、不可知論の虜になり観念論者に陥る間違いがここにあります。

不可知が無くては、可知の進歩もありえない。これは単なる矛盾ではない。高度な矛盾なのです。不可知と可知は対立しながら進歩の過程として統一されているのです。


 「気は病」と言う。この場合観念論者は、気持ちの持ちようで病気になったり、ならなかったりするし、病気になった場合も気の持ちようで早く治るという。
観念論者にとっては、この気は精神力で、何か肉体と離れた存在の超自然の力が働くようで、肉体に対し上部の位置として高度な精神力が、人間には働き、肉体に影響し病気を治したりすると考える。(従って観念論者にとっては、肉体よりも精神の神とか愛が最高なのです)

 唯物論者は、思考は肉体の一部である脳の動き変化であり、この脳の働きは外部の反映として認識し、同時に精神の自己創造も行います。この外部の反映としての認識をもとに精神の自己創造も行い、それは夢やイメージや超自然を含む観念です。この観念は自己精神力として肉体とは独立しているように感じ思いますが、精神は肉体と一体のもので、身体の一部である脳の精神は、肉体内部からも外部からも影響をうけ、時には受動的に、時には能動的に働きます。思考の精神が能動的に考えると、精神と一体の肉体にも能動的に力として働きます。反対に肉体が弱ると精神も萎えます。これが本当の「気は病」の真理です。


 唯物論者こそ思考の精神の偉大さ・自己創造を誰よりも大事に捉えているのです。ただ肉体が根源であり、身体とは、肉体の一部である脳の高度な働きが精神であり、それらが身体内部と外部を実在の存在と認識しているのです。
 違う二つのものを常に同一のものとして捉えようとする。究極においては最小は最大に激変する。偶然と必然は同時に不可欠なもの、だから失敗を成功と一体のものと考える。いつも理論と感情を統一しようとする。直感とは理論と感情が正しく融合したもの。宇宙・自然・社会の発生と消滅の運動と変化を確信する者、これが唯物論者の私です。

弱き者、汝の名は強者なり。なぜならば弱き者は、それ以上の弱者にはなり下がることはないから、しかし強者は、いつも弱者になり下がる不安や恐怖に怯えなくては、ならないからです。

身体障害者の定義と保障
 身体障害者とは、単に身体に障害を持っている者ではない。障害と健常の分裂状態が矛盾として統一された身体を、自己認識して生きる存在です。ただその障害としての身体が社会存在の現象の一つとして現れているのです。身体障害者の存在が社会的現象ならば、自己責任としてとどめては置けない。社会全体はその身体障害者を保障しなければならない。生活が苦しく悩みが重くて深い社会的弱者の貧困者には社会保障が必要なように、身体障害者にも保護が必要です。

 身体障害者の定義とは、社会的に、また個人的に障害者と認めるかということではないでしょうか。身体・知的・精神等の障害を持つ者を身体障害者としていますが、その範囲は曖昧です。そこで本人自身が、自分は身体障害者かどうかを認識し認めるかどうかです。

 リハビリを続けることが障害者です。人々に人権を言い続け、社会に権利を訴え続けるのが本当の障害者です。一人や家族・知人だけの人生は不完全です。ですから地域社会と繋がり働きかけることです。

 宇宙が、発生・運動・変化・消滅・再生の偶然性と必然性の統一による揺らぎならば、全ては自由なのだ。だから社会も自由をめざし進歩すべきです。文化(芸術・スポーツ等)は自由であるべきだ。人間は自由であるべき存在です。リハビリ等も自由であるべきです。

 体の悪い一部の患部や脳や心の問題を重要視し、身体の全面を掴んでいない。
 肉体と精神の対立と統一を 自然と社会の対立と統一を
 その全社会的人間を個人として捉えること。

 障害者の生きずらさ・生活のやりにくさの責任は、本人でなく経済・政治の社会にあるのです。貧困と不平等の格差をもたらしている経済のルール・政治の仕組みの社会を変えることによって身体障害者の幸福は実現できます。

身体障害者の生活貧困は、社会体制の精神貧困を現わしています。従って経済・政治・行政の貧困ですから、もう自分を責めるのは明らかに間違っています

身体障害者が自己の文化的な生存を正当とすること。社会的弱者しての重度の身体障害者が生き抜いているだけで、社会に向かって貴方が貧困闘争を十分にしているのです

安全重視のリハビリを批判的に捉えること、身体障害差はマヒの身体に対し無謀な情熱でリハビリをやることも必要なのです。(野蛮な行為も必要です)

身体障害者が豊かに生きて行くには、希望や人間性を追求し高めなくては出来ません。これには生活と精神の理想を共に持たなくてはならないことです。その鍵は自由に生きることが当たり前だと思う考え方と、将来・未来はどうなるのかを考える考え方です。

マヒの部分的な所のみをリハビリすれば、統一体としての社会的身体を改善できない。

社会的弱者(貧困・障害者等)の人間の痛みや悲しみは、観念的で精神重視な詩的感性があると、その弱い立場の苦しみが共感できますが、それに唯物感性がないと、社会的弱者を生み出している原因に対し闘いを挑もうとしない。



 障害は障害者の足を引っ張るが、同時に障害は障害者の人間性を上に押し上げる。(マイナス要因の中に見えないプラス要因が含まれている)

ペット動物愛護の皆様方へ
 貴方はペット動物愛護運動をなさっていらしゃいます。その上に、全ての動物の愛護を訴えておられる。そのことは賞賛すべきことがらです。動物愛護のことは、同じ動物である人間にも当てはまるのではないでしょうか。ただし人間は社会的動物ですが。現在世界の社会では貧困者や障害者がたくさんいます。
 貴方様の頭の中は自分のペットを愛することや、あらゆる動物愛護のために、弱者人間をお忘れになっているのではないでしょうか。貧困者や障害者の弱者と言われる全ての弱者の人々が保護されたならば、役立たずで障害者の私も動物愛護運動に加わせていただきます。ですが何より大切なことは、動物よりも人間のほうが第一義です。この大事なことを、どうか間違いなきよう願います。


障害に屈するな、社会で孤立するな、自分が障害者であることを忘れるな。障害に価値を見いだす

障害から常に学ぶことを生涯怠らないこと。障害から新しい人間を発見するのです。

障害者の障害は「人間の鏡」です。そこに映っているのは自己の人間性の姿です。人々に自分という人間の内部をさらけ出すスクリーンにもなります。

障害は、政治や世の中を動かす力や、平和や進歩につながる力になる。それには知性を高めること。よりよい知性が身に付けば、障害を嫌がらなくなり、障害を恐れなくなります。

マヒが治らない障害者が、マヒを治そうと努力する障害者を、いつまでも身体の内に持っているのです。これが諦めないリハビリです。

身体が障害で悪くなると、心が傷ついて、心は弱くなる。だが心は、そのことを乗り越えることによって、心が豊かになって、心は強くなる。肉体が少しは良くなり安定してくると、心は大きく変わり、考え方や生き方も変わる。そして自己の新しい人間を発見できるのことによって、他者に対し正しく対応できるのです。

障害者は、障害者であり続けて、障害者でなくなることが、新しい人間としての障害者になれるのです。

障害者は、発病前の健常者であった肉体状態や気持ちに、いつまでも囚われてはいけない

障害者は、障害者としての今と同じ自分に満足してはいけない。新たな成長した障害者になることです。

障害者にとって生活・身体自立と障害者としての人権自覚が、障害者としての人間の人生を豊かな者に出来るのです。ですから自立自覚を障害者は認識出来なくてはならない。

障害者が、障害を隠そうとすればするほど、障害は自分をだまします。障害者は、障害を人々に示すと、障害は自分に正直になれるのです。障害が、障害者から奪うのは健康ではなく日常生活」である。



障害者は恐れることなく障害の真実を語れ。障害者は社会に対し明白な主張を示すのだ。人々の為に

政治・自治体というものは、人々・障害者のために生活がしやすい行政、介護等を提供し、幸せに暮らしてもらうのが本来のやり方です。国民・企業から徴収した税金を再分配し、人々に喜んでもらうのが目的なのに、大企業や軍事費等に税金を投入しその結果、財源が苦しいので、福祉費等を削るのは、結果と目的があべこべになっている現在社会を生み出している。


人生は、強者と弱者・富める者と貧しき者を、違った意味で勝利者として成功させる。

人生は、正しい価値観と思想を学び、自ら新しく変化し実践することにある。

万能の神を信じず、愚かで崇高な人間を信じ、経済・政治・科学・社会の進歩に依拠し、現問題は歴史の過程の矛盾。社会体制は前進し変化す。

脳卒中は、マヒした治らない身体障害をつくり出すことによって、自らの人間を成長させる。

人間を人間だけで評価すること。それは人間を人間関係のみで認めること。身体障害者をただ身体障害者とだけ評価することです。
                         (健常者の身体能力や日常生活等々と、身体障害者との価値比較をしない)


弱者を守る力は何か、非暴力であり、民主主義であり、自由であり、他人の思想や思いを尊重することです。このような感情・思考の価値が認められる進歩方向であり、自分と「違うものを認めて許容する人間力」です。

身体障害者は、あきらめて同時に希望を持つことだ。身体障害者は、元の体に戻れると思うな新しい人間になることだ


身体の重い障害が、その身体障害が自ら再生しようとする。人々や貴方がどう思おうと

006年〜2007年4月 作成 

2007年7月 追加 


       奈良県の脳卒中者を支援する会

(奈良脳卒中者の支援会) 会則

第一条(名称)  この会は、奈良県の脳卒中者を支援する会(奈良脳卒中者の支援会)と称し、事務所を奈良県下におきます。

第二条(目的)  この会は、奈良県の脳卒中者とその家族・関係者の悩みや要求を出し合い共に助け合って、脳卒中者の健康・就労・           治療・生活・文化・スポーツなどを行い、又それらを守らせるための権利運動を進めことを目的とします。

         この会は、奈良県の障害者運動の相互援助をはかり、全国の障害者運動諸団体との交流も深めます。

第三条(構成)  この会は、第二条の目的に賛同する個人および団体によって構成します。

第四条(性格)  この会は、それぞれの個人や団体の自主性を尊重し、相互の援助・協力を進めます。

第五条(活動)  この会は、第二条の目的を達成するために、他の障害者団体や個人にも広く呼びかけて請願運動や交渉、懇談会や講          演会やレクリェーション、その他この運動を発展させるために必要なことをおこないます。

第六条(地域連絡会)この会は、各行政区ごとに地域連絡会を置くことができます。

第七条(役員会) 役員会は月一回開き、活動や運動方針のやり方を話し合い、その他の重要事項を決定します。

第八条(運営)  この会の運営は、役員会によっておこないます。役員会は代表者・事務局長を含む役員を選出して会の業務を分担し          ます。

第九条(財政)  この会の財政は、個人の会費、寄付金、事業収益、その他によってまかないます。

附則 この制約は2007年 2月 14日より効力を発します。


       奈良県の脳卒中者を支援する会 (奈良脳卒中者の支援会)

     連絡先   松村 睦夫

  〒 639−0222 香芝市西真美2丁目18−18

     TEL/FAX 0745−77−2065Eメール mmutu@m3.kcn.ne.jp

    奈良県の脳卒中者を支援する会(奈良脳卒中支援会)は、脳卒中による障害者の運動をする会です。

   会則に賛同する方ならどなたでも入会できます。

   共に身体の健康向上のリハビリ方法や医療の治療の情報交換、生活の文化方面の学習などを進めていきたいと思い活動を行います。

     入会申込書

氏名

住所

TELFAX

入会日     年   月  日


私が障害者となって分かったことは、障害は個人の問題でありながら同時に社会体制のあり方なのです。その社会的な弱者である障害者こそ現在社会の鏡です。
この現在社会には人間の権利が不十分であり弱者は特に社会的保障が壊されています。現在の政治体制に影響を与えている新自由主義の思想は強者優先の社会体制を強化する考えによって、弱者の身体障害者は生活そのものが脅かされている。(例 障害者自立支援法)
またリハビリ期間の短縮等で脳卒中の人達のリハビリや生活そのものに問題があると思い、そこで私はとりあえず脳卒中の会を立ち上げることに致しました。
この会は各障害者個人の諸要求に基づいて連帯し、障害者の幸せ実現のために運動を進めます。

奈良県下の脳卒中のお方でご賛同下さる方は、「奈良県の脳卒中者の健康と生活と権利を支援する会」(奈良脳卒中者の連絡会)に入会して下さい。お願い申し上げます。

小泉・安倍内閣の官から民への経済利益面だけの効率化を追求する格安の低福祉改悪によって、福祉制度から障害者等の弱者が国民廃棄化(自殺・孤独死・最低限生活者・ワーキングプアー・その他)されている現実が起こっています。

私は各個人の能力・才能の格差は認めますが、人権等の差は認めません。あくまで人間の権利は同等でなくてはならないと確信しています。

しかし競争社会は人間の格差を正当としています。経済は世界を支配していますから、政治・人間は、経済によって最大限の影響を受けています。現在の経済は、新自由主義の私利追求思想によって自由競争や規制緩和の名のもとに、強者繁栄と弱者貧困を生み出しています。

このような現在社会を変革しようでははありませんか、弱者が幸せに暮らせる社会に変えるには、各個人が一人で思い悩むだけでは解決できません。

お互いの悩み・苦しみ・悲しみを語り合って同感し、何処に問題があるのかを学び解決の糸口を見いだそうではありませんか、経済・政治・行政抜きの身体障害者の幸せはあり得ません。

一部強者の人達の幸せと、多くの弱者の不幸を生み出す時代逆行の格差景気経済・政治は社会にあらゆる面(景気・仕事・教育・生活・福祉・医療等)で問題が吹き出ています。

弱者を幸せに出来る新福祉政策を前進させるには、偽りの防衛論で仮想敵国を拠り所にしている軍事費を年々減額し、その分を福祉費に増額する方法があります。

軍事費は約4兆8千億円です。それに対し2007年度(平成19年)障害保険福祉関係予算案は9千億円です。障害保険福祉関係費が軍事費の5分の1以下では国の障害福祉の貧弱さを現しています。このような政策を支持している内閣や政党を支持しないことも大事です。

全ての人類が自由・平等・団結であること、これが平和・生活の安定・健康な幸せに繋がること、これに信頼し同感すること。これらを無視しようとする人達とは闘うことです。