烏リハビリフィールド報告

20021017日 から 1222日 まで

摂食障害と躁鬱病の中でのフィリピン・ネグロス島、

東ネグロス州・ドマゲッティ滞在記録

 

 これは、摂食障害と躁鬱をかかえ(ちなみに大鬱状態で飛び立った)た烏が、2か月フィリピンの田舎でどたばた過ごした記録です。病気なんだけどさ、研究費もらってたからいかにゃならんと思った訳よ。だから大変珍しい状態の人が、とんでモナコとを繰り広げる(とんでもな場所で?)どたばた記録です。

 

  で、今回は街の下宿も場所を変えて、街の中でも比較的高級住宅が多い地区にいます。

で、管理がきちんとしている、外人向けの高い下宿にいます。アメリカ人と以前結婚して、離婚しためっちゃやり手のおばさんが大家です。実際の所、最近になってようやくぽつぽつ外人向け住宅が増えてきたのですが。それでも、すぐにフィリピン的あり地獄のええ加減な世界に陥ります。

 だから、外国人の「安全・清潔・快適」のつぼを満たしてくれるところは、探すのが大変です。高いのは仕方ないです。それでもいい物件は少ないので、学期や学年の変わり目にあらかじめ予約して押さえておくしかなく、この下宿も半年前からよけいな家賃を払って押さえておいてもらったのでした。

 だって烏、今回もまだまだ病気。自分の限界を知っているので。フィリピンにいつ戻っても、以前のような山の家暮らしや、アル中パプの所は無理だろうと。フィリピンにちょっと調子が落ち着いたら戻りたいけれどいつでも、いい下宿が見つかるわけではない。そこで掛け捨て、保険だと思って友達が以前にいた下宿にいもしないのに、この半年家賃を払い続けていたわけでした。あれ?ちょっと学習機能ついてる?

 

 今回は、落ち着いた「静養」生活になるといいな。

 

                結局  なりませんでした

 

 詳細は以下にGO

 

リハビリ現地報告1

暑い中で寒い所のことを思う

 

 

 烏が、フィリピンまで来てしていることはお習字とお昼寝と、時々ちらりと本を読むこと。そして、ぽろぽろこうやってお字書きすること。なんだそれでは、京都にいる時とかわらんではないか。そう、ぜんぜん変わんないの。

 

 だったら「何もむんむんくそ暑い、時々トンガラがっしゃーんと雷落ちてザアザア雨の降る所までわざわざ来なくても良いんじゃないの」って思われるかもしれない。実は烏も、そう思ってる。ちなみに、ここでは雷はダログドッグと落ちる。ゴロゴロ様みたいに。そしてたたきつけるような雨が続く。この季節は、雷様はだいたい午後にやってこられる。

 

 海辺で遠くの方に、雷が落ちているのをみるのは好き。だけど、山だとほぼ毎日のように雨が降る。すると道は川になる。そして、山の小さな家に降り込められる。ひっそりと。雷が落ちたときのために、電灯も消される。雷いと雨音があまりにひどいと声も届かない。空気も重い水を含んだようで。体もぐったり重くなる。実際、洋服ばかりでなく体中が冷たい湿気を含んだように重く感じる。どうしてだろう。

 

 で、体も頭もいかれている現在の烏は、今も又、山のあの急変する気候や、厳しい暮らしに堪えられないので街の下宿で温んでいる。扇風機が一日中ぬるい空気をかき回している。ぬるい。頭のねじも23本はずれたようにぬるい。

 

 この街の下宿屋は郊外にあって不便だけど静かで、部屋は大変気持ちよい。朝早くから隣の大家一家の妙なる生活音とともに、部屋の前のカラマンシー(沖縄のシークワーサーと同じで、スダチみたいなの)の木に小鳥が巣を架けていてぴちゅぴちゅ鳴いて賑やかだ。それを聞きながら鬱で動けない烏は、老衰の象のようにキングサイズのベットの上で、物憂くのたくってる。

 そんで昼ぐらいになると、本を読んだりして動き出せるようになる。腹這いでだけど。最近のお気に入りは宮沢賢治の童話集。岩波文庫版の2冊。夢中で2回ずつ読んでしまった。もっと本は持ってきたのだけれど。今はどうやら難しい本は読めない。だから、10歳ぐらいかなあと思う。良寛の漢詩の本は読めるけれど。いわゆる専門書が読めない。立派で賢そうだから。

 

 去年の今頃、1ヶ月間いきなり病院を飛び出してきたときは、周りの人が大変だった。友人達に世話や迷惑のかけっぱなし。今は、おこもりしてはしゃぐこともなく、じっとしてる。ほんとに5歳児らしく1冊も本が読めず、ろくな字も書けずお絵描きばかりしていた。だけどお絵描きが、お字書きより簡単かというとそうでもないようだ。最近はお絵描きが難しいので、お字書きばかりしている。

 

 お気に入りの宮沢賢治の童話集に「オッペルと象」を見つけた。子供の頃に絵本で何度も読んだのがよみがえる。その絵本は、ずいぶん文章と一致していて、何度も何度も読んだことを思い返した。あれは宮沢賢治先生の作であったか、と。子供だから、作者の名前なんて気にもとめなかったけれど。内容や絵は実に細かく覚えいて、白い象の毎晩の「サンタマリア」というお祈り。脱穀機が「のんのんのんのんのん」と建物を揺るがせるような音を立てて動いているとたこと。怒った仲間の象がグラアアアガアと地響きたてて押し寄せきたところ。などなど。擬音語、擬態語の使い方がおもしろくておもしろくて。今、活字だけで読んでもみてもやっぱりおもしろいのだった。

 

 どうしていいか分からない烏は、今は白い象と一緒に「サンタマリア」ってお祈りしたい気分。とりあえず一日の大半を寝ている象のように腹這いになっている。

 

 で、銀河鉄道の夜を読んだら、映画の時も泣いたけれどまた泣いてしまって、もうおろおろぼろぼろ泣いて泣いて。子供の時はそんな泣いた覚えがないのに、どうにも涙が止まらない。年を取って分かる悲しみがということか、それとも「鬱だねぇ烏」というところか。

 

 宮沢賢治詩集は難しいので、すこおしずつ読んでいる。ぽろぽろと。「永訣の朝」から。どうしてかって云うと、烏はかつて合唱団員だった折りに宮沢賢治の「永訣の朝」を歌ったのだな。これは賢治の最大の理解者で最愛の妹のトシが24歳にして結核で死ぬときに、最後に一椀の雪を賢治に頼むのだ。そのときの心引き裂かれるような賢治の思いと、「今度はこんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれてくる」というトシの祈りが、真っ白な雪に託された歌なのだ。

 歌い終わったときに本当にコンサートホールの天井から何かが降ってきそうな気がしたよ。

 

 でも、本当は烏にとって必要な詩は、「永訣の朝」に続く、「松の針」ではないかしらと今回思った。

「 おまへがあんなにねつに燃やされ

  あせやいたみでもだえてゐるとき

  わたくしは日のてるところでたのしくはたらいたり

  ほかのひとのことを考へながらぶらぶら森を歩いてゐた 」

  ああ本当にそうだ。そうやって気づかぬままにいろんなことはすぎてゆく。残るは後悔ばかり。賢治もいざトシが死ぬときになって一緒に連れて行ってくれと言うほどの慟哭を表している。いつも人は失ったときに、それが何であったかを考え出す。だけどこの詩はそれだけで終わってはいなくて

      「  おまへの頬の けれども

      なんといふけふのうつくしさよ              

      私は緑のかやのうへにも

      この新鮮な松のえだをおかう

      いまに雫もおちるだらうし

      そら

      さわやかな

      turpentineの匂いもするだろう   」             

  ここら辺が人を引きつけてやまない宮沢賢治の賢治たるすごい所なんだろな。後悔や悲しみを表すことは人には必要。それを押し殺してはだめ。哭するときにきちんと泣けないでいると、どこかが壊れる。烏みたいに。だけれど、その悲しみや苦しみを意味あるものに、意味のあるように転化する力が人には備わっている。この彼の信念がけざやかに、切り開いてみせるてある。そう信じるようになるには、時間や力が必要だろうけれどもね。

 

  烏は今どうして良いのか、その転換点の上に立ち途方に暮れている。賢治がトシのために雪を取ろうとして、あんまりどこも真っ白なので途方に暮れたように。途方に暮れている。途方に暮れた子供は、それでも徐々に成長はしてきているみたい。スペイン行きの前は7歳程度だったけれど、その点でもちょっとは進んでいるのかもしれない。微速前進。でもどこに行くのか目的地不明てところだけれど。

 

 微速前進といえば、去年の今頃5歳なみの状態でフィリピンに来たときは、あらゆることに友人の手助けがいった。めちゃくちゃしてたし。判断力はまるでなかった。英語は一言もしゃべれなかったし。会話は日本語以外、全部セブアノ語だけで通した。というより、脳の中の英語回路が閉じていて、本当に完璧にしゃべられなかった。

 

 まあ、入院中にもっともっとちっちゃく退行してた時は、日本語も不自由で、うつむくと開いた口からツーとよだれたれてたけど。で、5歳の時は日本語と不思議なことにセブアノ語だけしゃべれた。まるで英語の言語野が閉じてたみたい。

 

 だけど、5歳児の状態では、躁鬱病である。摂食障害を伴っている。自覚はある。日本で、これこれの治療を受けており同様の処方をしてほしいなどと、医師の前できちんと言えるわけがない。でもって、こちらの精神科医の前で、まともに英語を聞き取ることもしゃべることもできない烏は、必死で英和辞典からメモって、メモを指さしてわあわあ喚いてた。向こうの医者にもなんだかよくわからなったにちがいない。しかも、糖尿だのなんだのと。それで即入院っていわれたようだ。経験のために、入院しても良かったのかもと思ったりもしたるが(この好奇心がいかんのか?)。

 

 後でうちの精神科の先生に「躁鬱病って英語で言うのも大変だったんだよお」と言ったら「わしもそんなんしらん」って嫌がらせを言われた。烏は、いつも精神科の先生が嫌がるのを無視してぷいって外国へ行ってしまうから。よく嫌がらせを云われる。つきあって1年以上たって「ああ、あんたには遠回しな言い方は通用せんのか」って、云われてつんのめった。烏みたいな子供に、遠回しな言い方が通じてたまるか。何でも真に受ける大馬鹿野郎でここまで来たのに。

 

 だから、今年はちょっと大きくなってずるがしこくなった烏は、入院中に研修医の先生に英語で処方を書いてもらった。その英文レターを見たら添削したくなったけど、10歳児にはそんな力はないのでやめた。疲れるし。

 今はちょっと英語がしゃべられる。そういう意味でも少しは成長したようだ。だけど以前みたいに辞典を引くのがいやなので、症状や病名を一生懸命書き写したページは手帳に残してある。今回は、できることしかしていない。無茶は何一つしていない。ちょっと大人になったよ。今のところ。この今のところというのが油断ならんのだが。

 

 しかしまあ、英語のことわざに「椰子は松にあこがれ、松は椰子にあこがれる」とゆうのがあるけれど。この椰子だらけの島に来て烏は東北地方の童話だとか、秋から冬の漢詩の本ばっかり見ているぞ。なにしに来てんだか。

 

   ということで、今回は現地にいても現地報告ではない、烏の現況報告でした。しかし、ほんまこのくそ暑い南で、ようこんな厳冬や、寒さ、秋のわびしさについて書かれた本ばっかながめているなと笑える。京都にいた方が読んでいる本の気候にはあっているのにね。

 

 だけどその現地にいるからといって、そうすぐに現場がよく見えるわけでもなし。想像力の方が観察力を圧倒してしまうことだってある。だけどここに来て、思ったこともあるから。それらを思い出しも含め、整理してアウトプットしてゆこう。まだまだ頭は混乱しているけれど。ゆっくりゆっくり。10歳児並みに、行かふではないか。「烏は植物と一緒で引っ張ってものびません。烏にも、どんな花が咲くのか分かりません。痛いです引っ張らないでください。」と、以前先生に云ったことを自分に言い聞かせて。

 

 熱帯性の花を咲かせに来たわりには、寒い地方の松の話をおもしろがりながら。

 

 

                              リハビリ現地報告2

                         それでも今日も機能している

 

 私のいる街ドマゲッティは東ネグロス州の州都。なのに、この街には、信号が一つもない。ここ4~5年のいきなりのモータリーゼーションの開花で、バイクやバイクタクシーや車が一気に増えた。それらが、交差点に四方から突入してくる。真ん中でお巡りさんが必死で整理したり、どんどん一方通行の道を増やして何とかしようとはしているけどね。まあ、めちゃくちゃもいいとこ。

 マニラよりぜんぜんましだけど。マニラで鼻をかんだら排煙で鼻水が黒いから。だから、フィリピンの街中で走り回って仕事をしていた頃は、風引くと気管支細炎になったりしていた。1ヶ月は激しい咳が止まんなくて、咳で体力を消耗する。でも、仕方ないからアメリカ製のチェリー味のおぞましい味の咳止めシロップを飲み続けて、仕事してたけどね

 

 とにかくここも街の中心部やハイウェイ沿いはひどい。排ガス規制もないし。烏の脳の中もそんな感じ。ちょっと整理整頓のお巡りさんや、もう振り返らないという一方通行や、モクモク頭をくもらせる排ガス規制が必要なのかも。

 

 お習字用に李白先生の本を持って来たら良かったな、と思う。あの人ならぐじゃぐじゃ迷っても、迷いそのものを迷いの詠として見事に詠い上げただろうな。そうしたならばそれはもう迷いではなく、一つの詠で。難しい言葉ではなく心が表せたのに。迷いそのもの

が詠になる手前なのかな。よくわかんないけど。

 

 あっダログドッグがなってる。ざあざあ雨ふって。雷落ちると街にいても、時々電圧状態がおかしくなって、変圧器を入れていていてもその許容量を超えちゃうの。だからすぐパソコンとかのアダプターや電池がいかれて、あの世に召されてしまう。ここにいると文化の変圧器も、ぶっ飛ぶこと多いけど。

 

 まあでも、街にはアダプターぐらいだったらすぐに直しちゃうマジシャンがいるのだけれど。トランクの鍵を2秒で開けるマジシャンとか。街にはいろいろなマジックを持つ技能者がいるのだ。いちいちメーカーに修理してもらわなくてすむ。持久(自給)体制があるのだった。島だからね。そのマジシャンを見つけるのは全部、口コミなんだけどね。

 

 電圧の加減で早速プリンターの調子が悪くなったので、マジシャンの所に持っていった。通常彼らは、テクニシャンとかエンジニアとか呼ばれているのだが。どうやっても動かなかったプリンターが、なんだかよく分からないうちに彼がふれただけですぐ直ってしまった。だから私にとっては、やっぱりだ。

 

   交通事情もめちゃくちゃなら、何がなんだかよく分からないうちになんとかなってしまう。この街。そして、烏。大事なのは、めちゃくちゃだろうが、とんでもだろうが、なにがなんだか分からなかろうが、それでも機能していると云うこと。そういうわけで烏も、のたくらごにょごにょ今日も生きている。

 

 

                     リハビリ現地報告3

初めて軍艦を見た

 

なんと、ドマゲッティのとぼけた田舎の港で軍艦を見てしまった。ここに来るようになって初めて。ここの港はちっさくてとぼけているけれど、一応ミンダナオのザンボアンガ(イスラム原理主義者の爆発事件が絶えないところ。もっとも華人が、保険目当てや古いビル取り壊し目当てでやっているという噂の絶えない街だけど)から、大型客船がマニラやセブへゆく船が途中で寄る港なのだな。

 ついに政府は形だけでも、ザンボアンガ以北のホロ諸島(フィリピン人はJって発音が苦手だ。それを知らない人はジョロ諸島って読んじゃうんだけど。スペイン語もJがhになる事が多いようだ。)の海賊というかモスリム退治に力を入れることにしたらしい。最近港が改修されたのはこのためか。ってつい勘繰っちゃう。

 

 っていってもそれほど大きな船じゃなくて、砲門1つの灰色の船だ。いっちょまえに国旗翻してるけど、いったい米軍から何年前に払い下げられたんだ。建造されて何十年だって云った様相の貧弱な軍艦だった。ベトナム戦争にも行ったんだろうか。うーむちょと複雑なかんぐりの気持ち。烏この街に8年ぐらい通ってるけど、軍艦を間近で見たのは初めてで、ほんとに子供のようにびっくりしてしまった。やはり烏も平和ボケしている日本の子か。

 

 ザンボアンガからはすぐ隣のマレーシアのサラワクのサンダカンに逃げ込める。サンボアンガからサンダカンやマレーシアに向けていっぱいフィリピン人労働者が、自由に行き来していた時期もあった。そういう意味では、烏が調査を始めた5~6年前って一番治安が安定していて、どこでものんきな外国人が気安く入っていけたいい時期だったと思う。今だったら、烏が行った最奥地は治安上の理由でとてもいけない。当時でも、知らないうちにゲリラから接触されていたし。勢いとは恐ろしいもので、ひょいと危険なところに突入していたなあ。

 

 今覚えば、あのパワーはどこからでてたんだろ。日本に帰って病院にいたとき、烏が行った最奥地、ドブドブ村の小学生の女の子から手紙をもらった。その子が烏の手を引いて家の周りを案内してくれたんだよ。手紙には「また来てね。いつでも歓迎するからまた来てね。」って。たぶんその子の1ヶ月の小遣い代のほとんどだったろう切手代と、最寄りの郵便局まで7時間の道のりをついやして。それを思うと切なくて、涙が止まらなかった。だけれど申し訳ないが当分いけないなあ。

 だが度重なる引っ越しと研究室の引っ越し、入退院の繰り返しで完全に住所が散逸して女の子の宛先が見つからない。物の整理が悪いのだ。それに、だいたい体力的にいけない。気力的も。今日は腰痛でほとんど1日寝ていた。痛みと痛みの間の瞬間に、起きてトイレに行って何かつまんで、薬を飲んでまた横になる。そして良寛の詩の本を眺めてた。切なさだけがつのる。

 

 そこの村に行くにはほんとに大変だった。途中のバイクタクシーはぬれた赤土で滑って転倒するし。ぬかるんだ道に足を取られ、裸馬にひょいと乗せられた。くつわをとってもらえる代わりにたてがみをつかめだって。その馬も、ぬかるみで滑ってよろめく。そして、股までびちょびちょぬれながら川を渡り。あの時は、本当に何度か死を覚悟したなあ。

 

 そのとき、すでに烏はゲリラ側にマークされてたようだ。だから、帰国後、ゲリラから、「金塊を買わないか」などと接触された。そのゲリラとは、親切に村まで案内してくれた見知らぬおじさんだった。村から帰ってから、いろいろ内情を知らされたけど。知らなくて良いこともある。ここにいると時々、そういう目くらましにあって、何を信じていいのか分からなくなるときがある。それでも何とかなっちゃうから不思議なんだけど。ちょっと治安と私の様態が落ち着くまで、当分そこにはいけないなぁ。

 

 あとで山の方の出身の親しい女の子から密かに聞いたり、いろいろな人たちの言葉を総合すると。アキノ時代、ネグロス島は米軍の対ゲリラ戦のマイクロウォーズの作戦の対象になったのだ。山の人の人心の中には、その時の村人をゲリラと民兵に別れさせて、互いにリンチをさせあう。などといった隠された経験が、密かに村の中の人間関係に尾を引いていることがあるとか。何とも云えないできごとだ。

 

 インドネシアやミンダナオなどのテロ事件。ミンダナオには、烏の苦境を救ってくれて家族同様に扱ってくれたファミリーがいる。日本にいると遠くの事件が、近くの事件になる。ミンダナオのファミリーはね、烏が初めてフィリピンに行って睡眠薬強盗にあったとき、身柄も知らないのに預かってもてなしてくれた。ここにいるだけで、遠い事件が身近な話題になる。

 

 そして街。今まで金持ちと中産階級と貧乏人が顔を合わせていたのに。底辺からてっぺんまで丈の低い三角形の中で仲良くやっていったのに。この数年のモータリゼーションの開花など、豊かになっていってる人もいるが、相変わらず底辺にも人はいる。底辺はそのままで、ビローンと天辺が途中の中産階級を含めて、のびたみたい。 とここまではわりと正気でしたが、ここから少し酔談です。というか睡眠薬酔いして時に書いたから、睡談か?

 

 「自分が何やってんだろうと思うとぐるぐるして眠れない。だからこうやって書いて吐き出している。でも烏は、実は書くこともうまくできないでいる。苦しい。自分のことで精一杯。でも仕方ない。仕方ないと自分を贖罪したくて仕方がないのだけれど。眠れない。だからこうやって吐き出す。ああ現地報告とは贖罪記でもあったか。頭がぐるぐるする。寝させて。寝させてほしい。」

 

 と書いたのはおとついの夜のことで、おとついは頭がぐるぐる回りすぎて睡眠薬を、やまほどのんだのだけれど一睡もできず。薬ボケした頭で、かなり苦しんでいた。薬ボケした頭で書くと、悪酔いみたいなもんだから、理性が飛んで、感情面の本音が出てくる。と、冷静に読み直したら思うなあ。泥酔状態だよ。烏。だけど、ちょっと正直にくだを巻いてみました。烏は以外と泣き上戸だったらしい。まっ普段から、感情調整剤を楽勝でぶっちぎって。怒ったり、笑ったりしているからな。たまには泣かせたれや。 

 で、おとつい一睡もできなかった反動で、昨夜はかっきり12時間は寝た。まだ寝られると思って、昼寝もした。いったいどうなっているのだか。昨日は街へ出て、郵便物を出して、食べ物を買ってきた。ここの下宿はいいところなのだが街の中に遠く、洗濯と掃除はしてくれるのだけれど最寄りに食べ物屋がないのが不便。これでご飯とお薬の時間が付いてたらで、完全に病院と一緒なのだけれど。朝は小鳥が起こすし。だが来てからしばらくはおみやげに持ってきた日本のチョコレートと飴を食べて暮らしていた。すごい食生活だった。まあそんな感じ。

 

 

                     リハビリ現場報告4

                           羊頭狗肉な話1

 

 街で、食べ物とついでにクッションを買ってみた。いやあこの田舎街も発展したもんじゃと驚いた。ちょっとおしゃれなクッションが見つかったのじゃ。びっくり。今まで、そういったものは、少なくとも隣のセブ島のショッピングモールまで行かないとなかったのじゃ。街で唯一のデパートの売り場面積が、いつのまにか1.5倍になっていたのじゃ。でも無理矢理(無理矢理な、強引さがフィリピンぽいのじゃ。羊頭狗肉なんて平気じゃからな。羊頭狗肉で、なお機能するところがさらにすばらしいのじゃが。)斜め裏のビルとくっけたらしいので、烏にはまるで迷路じゃ。

 

 烏は、病院でも家でも不安の強いときにはぬいぐるみを抱いて寝ているのじゃ。それでおとついの不眠後、何か抱くものが必要じゃったのではと結論づけた。そこでしんどいのを押して買い物へ出た。ヨーロッパでは、シングルでも必ず枕が2個あったし。1個の枕は抱いて、その上だいたいが体に無理をさせていたので、体の力でなんとか寝ていた。将来への漠然とした不安より、明日のために。体が寝させていた。脳内物質vs薬+体。烏は気性が激しいので、烏内部の分派闘争も激しいのじゃ。

 

 体の声が聞こえない烏は、時々、体の声と反するニューロンへ行く脳内物質が圧倒的勝利を締めてしまうのじゃ。それに、調子が乗ると体がついていけずに倒れる。だから体の声と脳内物質のバランスがうまくとれないので、お薬の力を借りているのだが。それでも、薬に勝ってしまう。羊頭狗肉のごとく頭と体がくっついていないのじゃ。

                   

 ちなみに、いつも暴言や極論を吐いている烏の研究室の教授は、ごっつい手をしていて、ごっつい体をしている。ごっついことを云うのも得意じゃ。しかし初老に達し、ごっつい脳内物質に体がついていけなくなって、ようやく切なさや哀愁を知るようになったようだ。いいことじゃ。が、じじい、退官間際になって悟っても、烏にとっては間にあわんのじゃ。じゃが、まだまだ生きそうなじいさんにとってはいいことじゃ。人間、できないことを悟るのは大切なことじゃ。と、何もできなくなった烏は、そう自分を慰めている。

 

 烏は30で倒れ、今なんとなく「人生わずか50年」の時代の閑吟集や、梁塵秘抄と相性がよいのじゃ。もうほとんど人生が終わった気分なのじゃ。閑吟集を持ってこなかったのが残念じゃ。が、重かったのじゃ。重くても持ってきたら良かったな。まあいいか。梁塵秘集の文庫版は持ってきたし。年若くして既に老いたりじゃ。10歳のくせに

 

 入院中もリハビリをかねて、精神科の看護助手の姉ちゃんの仕事にくっついて京大病院の外来本館をカルテをもってくるくる回っていた。すると2人でいつも、老年科の「ものわすれ外来」の案内を見つめ合ってしまうのじゃ。2人いても、いつもどこかの科を回るのを忘れ「私ら、若年性痴呆症?」って云いながら。その上、二人とも体が年寄り臭く、5階まであがるので精一杯なのじゃた。ばばぁじゃばばぁじゃ。

 

 で、机といすの座高の高さも合わないと云うか。家でパソパソ打つ時も、お習字する時もずっとこたつと床の高さでしかも座布団や、クッションでかなりかさ上げしてお字書きしていた烏は、どうもここの下宿の机といすの高さが合わんと、枕を椅子おいていたのじゃが、枕カバーに墨を付けるに至って、いかんクッションを買おうと思いったのじゃった。

 

 やすもんだから抱くとばりばりいうところが気にいらんのじゃが。見かけ倒し大好きのフィリピンだから仕方ないか。スポンジの中にビニールの固まりを入れて分厚さをごまかしていたらしい。うーむやはり羊頭狗肉じゃ。まあいいけど。

 

 烏はきちんと幼児退行しているので、時々スヌーピーのスナイダーの毛布(いつも毛布引きずっていて、取り上げると泣く奴)みたいに、お気にいりのぬいぐるみ(今回はとりあえずクッション)がいるのじゃ。

 だけど、これは烏だけじゃなくて、病院でも思春期鬱の子や摂食障害の子達の多くは、そういうものを大事にする。でけぇドラエモンのぬいぐるみを抱いたままいきなり廊下で倒れるおしゃれな奴やら。その上、論文でも摂食障害の場合、治療過程でこういったものに愛着を示すのは重要である。とまでお墨付きまであるしな。実践プラス、クロスチェックじゃ。

 

 烏の京都の下宿にはカエル1号(お父さん)とカエル?号(おっちゃん)とゴー君(ゴーヤマンの特大ぬいぐるみ)とコゲパン枕、その他がいる。よりどりみどりのハーレム状態じゃ。30すぎて自分がぬいぐるみを買ったり必要とするとは思わんかったが。年相応の時に年相応の発達をしていないとそうなるのじゃ。枕も3個あるしな。だいたい腰痛と脊柱側湾の激痛で泣きながら横になっていると、寝るにもいろいろ姿勢補助グッズがいるのじゃ。

 

 それで、実家にはカエル2号とクマがあるが小さいのじゃ。それでむかし自分でパッチワークしたクッションも使うのじゃ。昔も今と変わらず暇人じゃったのじゃ。持ってきた漢詩集も、閑吟の詩を集めてあるのじゃ。日本は忙しいのじゃ。じゃから暇人であるべき、自分の本文忘れそうになるのなってこけるのじゃ。じゃが、大きくて柔らかければなんでもいいかもしれないが、やっぱり寝辛いのぉ。

 

  発病当時は、というより摂食障害が激化した時代は、カエル1号からカエル3号まで必要でその上マイ毛布とマイ膝掛けとコゲパン枕までいったのじゃ。スナイダーどころではなかったのじゃ。物持ち烏。退院時には大変だったぞえ。入院中、火曜日のシーツ交換の時も、ころっとベッドの上を片づけるのを忘れると後が大変じゃった。シーツ交換のおばちゃんの怒りが炸裂するかのように、烏グッツが方々に積み上げられたものじゃ。

 今いるこのフィリピンの下宿は、料金の高い外人用下宿なので掃除洗濯付きなのじゃが、火曜日と金曜日の掃除の時は大変なのじゃ。掃除のおばちゃんがいろいろ片づけてくれるのじゃが、その後は烏にとっては結局どこに何があるかわからんようになるのじゃ。ちなみに入院中より、ものは少ないはずじゃ。もってこれんからの。

 3度目の入院の時、でかい鞄とバケツを下げて行ったら「どうせすぐもっと増えるんでしょ。烏さんのことだから。」と看護主任さんに言われてしまったのじゃが。ばれておるのじゃ、ゴミイ様な事は。京都の下宿でも、他の人と部屋の広さはかわらん筈なのに、他の人の部屋より動けるスペースがぐっと少ないのじゃ。とんと不思議な事じゃ。

 

 じゃが、フィリピンの山の上の農家には、以前烏が留学し調査などをいたしておった折りにためまくったものを置いてもらっている。なんであげてもあげてもこんなに残ったのじゃろ。家具類はほとんどあげたのじゃが。ボホール島で買ってきた、人間が入れるぐらいでかいカゴとかあるからの。どうするもりなんじゃろか烏は。

 その上、すぐに頭も混沌化し混乱するのじゃ。良寛の本などを読んでいるとよくそんだけのもんでたったな、と思うぐらいものがなくて充足しとる。かくありたいと思うのだが、何故に烏は、このようにもの持ちになってしまって混沌化するのじゃろうか。

 

 ちなみにその後はいろんな人がカエルグッズをよこしてくれ、ちっさすぎていなくなったカエルもいて。結局何匹いるか分からないのじゃ。象徴的なことに、烏がはじめて親の前でパニック発作を起こしたとき買ったちっさいカエルは行方不明のままで。そのかえるをにぎりしめてふるえていたのじゃが。部屋を引っ越ししたときも見つからず、烏ガエルは未だ行方不明なのじゃった。烏は仕方がないから、自分でちっさいカエルからじゅんばんにやりなおしておるのじゃった。で、あいかわらず不安時の愛着の対象を求めさまよう烏じゃた。三子の魂百まで成長せずじゃ。

 

  今回は、とりあえずガサゴソいう安もんの(といってもペソ感覚でいうとそうでもないのじゃが)、黄色い花柄クッションとともにここにいるのじゃ。どうせ烏の頭の中はイエローサブマリンじゃからの。

 

  そんで、烏はすぐになんかに感化されるのじゃ。宮沢賢治が東京にいた数ヶ月、貧乏でジャガイモばっかり食べていたと読んだら、ではジャガイモを買ってみようと思い立ち、スーパーの野菜売り場に行ったのじゃ。そこでジャガイモは、パンや他の食べ物よりずっと高くここは日本の気候とは違うのじゃ、と気がつき自分の愚かさを恥じのじゃ。

 ジャガイモはね、熱帯湿潤気候では作るのが大変難しいんじゃ。あんた一応農学士でしょ、と。やはり「ものわすれ外来」ものじゃ。宮沢賢治ごっこをしたければ、水・日の夜中市(夜中に始まって朝終わるので朝市ではな」い)に行って、ひたすらバナナでも食べているべきなのじゃ。とジャガイモの棚でううううううと落ち込んだ。

 

 内科病棟にいた時代も、たくさんのものたちに囲まれていても足らずに、夜中にしくしく泣いていると、今ほど枕や座布団にされてぺったらこになっていなかったコゲパン枕をそっと胸の上に置いていった看護婦さんがいたのじゃ。その看護婦さんは精神科の経験がなかったが、分かる人には分かるのじゃな。いつも明るくて元気が良かった人じゃったが、夜中に熱を出した時、黙って熱いタオルで背中を拭いてくれた。一番安心できる人じゃった。こういうことは感受性プラス知性がいるのぉ。

   感受性と知性がくっついていない烏の言動も羊頭狗肉っぽいかの。うーむ。

 

 

                     リハビリ現場報告4

羊頭狗肉な話2

 

 夜中市まで歩いていく気力はない遠いし、途中で野良犬多いし、夜中なので乗り物ないし。今、烏の足のバイクがないのじゃ。バイクはきれい事ばかりいうボケ牧師がかりていったまま返してくれないのじゃ。この牧師に関しては、口先ばっかりきれい事をいうのはやめましょうと思う。どの口がそんなこといわせとんのじゃ。行動と云っていることがずれとんぞ。

 と、烏は、大人の方便が通じない子供らしく怒っている。むしろ融通の利かない年寄りのようにか。しかし、この件でふりまわされているのも事実で、まあフィリピンらしい、ちゅやあフィリピンらしい事件じゃけど。「次はちゃんとするよー」っていって、その次があったためしのないフィリピンじゃった。

 

 で、ここで怒るとまた全身に活性酸素が走り回って、体のどこかを傷つけると思うと怒りたくないのじゃが。ああ、怒りと落ち込みと安定剤。「牧師!お前の神さんに言いつけるぞ。」てっいっても7days Advantestの神さんってどんな奴なんじゃろ。ちなみに信者の人たちは土曜日が安息日で、イカ・タコなの鱗のない魚は召し上がられん。アルコールもなしじゃ。じゃが、ようわからんもんには意義の申し立てようがない。困惑と怒りがあるのみじゃ。キリスト教ちゅうってもいろいろ宗派があって、「あんたの宗教は何か」はどこの国でも聞かれることじゃが、ここでは「何派か」と聞かれる事があるのじゃ。

 

 この街には、烏も前に留学していたフィリピンで唯一プロテスタントの大学があるのじゃ。だからプロテスタント系のアジア人留学生がたんと集まる。インドネシア人とか韓国人とか。じゃもんでここでは一応、烏はプロテスタントで通している。それでも、長老会派か何とか派とかつっこまれると困るのじゃ。えせプロテスタントじゃからの。洗礼受けたわけでなし。

 

 根拠は、昔プロテスタントの学校で、雨の日も雪の日も礼拝守っとたということだけじゃ。そのときも、物の良くわかってる牧師もいたが、ただ権威だけで押さえつけようとする憎そい牧師もいたしな。だから、教条主義的に「~だから立派」とかいう頭は、烏には全然ないんじゃ。羊頭狗肉牧師に、13歳で泣かされたのじゃから。ほとんどマグダラのマリアじゃ。

 

  羊頭狗肉といえば、フィリピンにも犬肉を食べる習慣があるのじゃ。実際に殺すところも、料理するところも見た。で、あるとき妙な味の肉料理が田舎の屋台で出され、異常に味覚が鋭敏な烏は「これは」と思ってあまり食べなかったのじゃ。そのとき一緒にいた、フィリピン人の先生や学生は、やすい割にうまいうまいと食べまくっていたのじゃが。烏は自分の本能を信じたのじゃ。すると烏をのぞいてみんな、次の日激しい下痢に襲われ、2~3日学校に来られなかったのじゃ。で、烏だけピンしゃんしているので、日本人の胃は異常だといわれ大変心外じゃった。ただ、やばそうな味と思ってほとんど食わんかっただけじゃ。後の噂では、あの肉は犬肉で、寄生虫にみんなやられたのではという話じゃった。

 

  ここに来るといろんな羊頭狗肉話に振り回される。じゃが、そうでもないいい人もいっぱいいて。結局はどこにいてもその人次第ということか。

 

   話がぐるぐる長くなったの。ばばぁの炉端話のようじゃ。

やっぱり「ものわすれ外来」か?

じゃが、このぐるぐるした話の進行方法は躁鬱病患者に特有なのじゃ。

 

 

                             リハビリ現地報告6

身近な動物の話

 

   相変わらず街でも夜になるとザアザア間欠的に雨が降る。山では午後一杯もっと激しく降っているのだろうな。

 街の下宿でも時々窓の外にテッケ(白いヤモリ)がいたり、トッコーというトカゲが鳴いたり。トッコーは東南アジアの田舎では、トッケーとも呼ばれて、どこでもいる奴です。はっきり言って、うるさい。トッコーが住み着くと家に良いことがあると云って、皆に大目に見られているのですが。一度泊まった家で、壁越しにトッコートッコーと枕元で大声で鳴かれ、あまりのうるささに発狂しかかりました。その部屋の壁に掛かっていた銃で、壁越しに撃ったろうかと思うほどでした。

  あと、とんでもない時間に鳴き喚く、闘鶏用の雄鳥もたまりません。何であんたら1羽鳴いたら、1km四方みんな鳴くの。ネグロスは闘鶏用の鶏の産地でも有名な場所です。結構飼育場があっちこっちにあります。今の場所は住宅地なのでまだましです。以前に住んでいた街の郊外では、隣に許せん1羽がいました。声ばかり大きく、気が小さいせいか夜中でも、しょちゅうなにかに驚いてしょっちゅう鳴き喚いていました。憎たらしいくて、いつかお前を殺してばりばり食ったる。と思っていたほどでした。

 テッケはそれに比べるとかわいいです。テケケケケケと鳴き声もかわいい。が、こいつも油断はなりません。酸性度の高いしょんべんをひりたくり、電気製品を壊すという特技を持っています。蟻ンコを始め、見た目より油断ならない生き物が多いです。

 

 以前、留学して調査していたときは、街の下宿と山の上の農家という2本だてでやってました。何しか山の上には電話もないし、電気や水や道の状態も大変悪かったから。大雨降るとすぐピンチ。で、しょっちゅう大雨は降る。というと、あーまた大雨ということは1週間は水が濁るなー。とか道が崩れるなーとか。山の家に住み続けるのは、都市生活になれている人間には結構ハードです。近所づきあいや、親戚のいざこざにも巻き込まれるし。でも、山の家の話はでもまた今度。今回は、以前住んでた郊外の街の下宿のお話です。

 

 そのときの街の下宿は、今これを打っている部屋のようこぎれいではなかったです。もっと不便な郊外の集落にある大学の先生の2階を間借りしていました。今いるところは、国道で街を分けると中心部街よりで、前の家は国道の向こうの田舎側。国道の向こうは、しょっちゅうある停電や断水の復旧も遅いし。今のようなちょっと高級住宅地が集まっている地区と違って、いきなり道路にガチョウや牛や山羊なんかが出てきました。バイクに乗っていると、突然出てくる動物は結構、危険です。

 当時、烏はあの集落に住む唯一の外人だったのではなかろうかと思います。そこのベランダにはテッケがわんさとおり、部屋の中にも4匹すんでいてテッケ1号から4号と名付けていました。4号だけ小さいくて分かりやすいのですが、あとは判別は難しかったです。

 

 今の京都の下宿にも、はえ取り蜘蛛1号と2号がいますけど。鬱になってぼーっと天井見ていると、2匹並んで止まってたりする。それを見てはなごんでました。が、2匹の見分けはつきません。ただ自分が動けなくても、勝手に動く生き物がいてくれると和むなあ。と、前回の入院時に、なぜか机頭台のところでベタ3号という熱帯魚を飼って思ったのですが。これは付け足し。

 

 しかしある夜、前の下宿では烏は見た。暗がりをちょろちょろ走り回っている者を。ネズミだ。なめてはいけない。奴らはマホガニーでも食い破る。何でもかじる。その上壁の中で暴れるので、ちゅうちゅうがたごと眠れない。

 そのときの大家はおおらかというか。忙しい人だったというか、あまり家の管理に関しては当てにならんと云うか。まあとにかく、そういう人だったので自分の部屋に関しては何とか、穴をふさぎ壁と床の隙間に殺鼠剤をまき倒し手当てしましたが。夜、階下の台所に行くと生ゴミ箱から、ネズミがウワッと沸いてでるのはあたりまえでした。

  まれに大家がご飯を食わせてくれようとしたが、そこの食卓は油断するとあっという間に蟻だらけで。おおらかというか、老眼で細かいものが見えないのか、蟻ぐらい気にせんというか。「マグロの蟻の黒山まぶし炒め」を食わせてくれようとしたこともありました。ヒッチコックの世界です。

 

 で、その下宿を離れなかったのは単なる成り行きと、動くのがめんどくさかったのと、フィリピン人と暮らすのはどんなもんだろうという好奇心からで。後で、自分のいるうちはかなり周りのフィリピン人とずれていると思いましたけれど。フィリピン人の土地感覚や近所との関係を具体的に知るには、集落の中にいたのは良かったのかもしれません。

 

  庭にはガマのようなカエルだの、キノボリトカゲだもいました。蟻んこはそこらじゅうを我がもので占拠してましたし。食卓に長時間、むき出しの食べ物は置けませんでした。だけれども大家の家は、庭が広くて沢山マホガニーの木を植えいて、晴れた日はとても気持ちが良かったです。そこで大家は自分家をマホガニーパークと名づけていました。ここでは地名は自分で勝手に住民が名乗るものらしい。緑が豊だったせいか同じ街の中でもめちゃくちゃ雨が降りました。ここでは雨は、局所的に降ることが多いのです。

 

   ここにいたら、この生き物たちに負けてはいけない。と思うほどタフな生き物に囲まれて、烏という生き物は、のんべんだらりとやってます。

 

 

                            リハビリ現地報告7

                            マホガニーパークでのお話1

 

 大家が勝手にマホガニーパークと名付けた、以前の下宿のある集落内の道が、ある日突然変わってました。勝手に15mほど家をずらした所帯があったので。おかげでいきなり、朝と夕では道が違って曲がり、元々未舗装で雨が降るたびにむかるむ道が、地面が固まってないところに新たに道がえけ替えられたので、バイクや徒歩だとぬかるんでぬかるんでえらい往生しました。ぬかるみに足を取られてどろどろになったり。ここら辺の土地問題は、ちょっと郊外になると集落内でなあなあにやってる所があって、部外者にはよく分からないことが多いです。部内者でも、「えっ」ていうことが生じると大家は云っておりましたが。

 

 だいたいイリーガル(違法)とか云っても、集落に入ればリーガル(合法)も違法もなくて、その家族間の力関係や情やら人間関係ですべて決まるのだということが、つぶさに見てとられました。法治国家は、ハイウェイまでで、ハイウェイから中に入ったバランガイの世界はまだ別なのでした。という意味で、郊外の集落の中の家に下宿したのはおもしろい経験でした。

 

 ともあれ、庭には大きなマンゴーの木やアボガドの木、そのほかにも果物の木があって楽しめました。烏は、庭に果物の木がある家に生まれました。そのせいか、山の農村の調査地も家の周りが食べられる実をつける木ばっかりだという理由だけで選んでしまった気がします。とにかく烏は、季節の果物とりが好きなのでした。

 

  だけど、マンゴーが熟してくると、たびたびドカーンと2階の屋根を直撃し。安眠は妨げられる。直撃のたびに、2階のトタン屋根がずれて雨漏りがする。何しろ夜中に突然雷雨がおそう地域だから。はっと気がついたら水浸しなんて事も。「大きなマンゴーの木の下で」なんて一見、絵本のタイトルにもなりそうだけれども実際暮らしてみると、死活問題です。

  何回「マムー、水浸し、バケツとぞうきん」と叫んだでしょう。で、次の日、近所の親戚のなんたらという大工が仕事に出かける前にやってきて、イージーに屋根のずれをなおしてゆくけれど、また23日したら、マンゴーの直撃のせいでイージーに雨漏りがするのでした。ある日「マミ、今度はトタンと天井板の一部を取り替えてみたわよ」と大家が明るく云いました。やれやれと思ったら、やっぱりマンゴーに直撃されると別の所からぼたぼた雨漏りしているのでした。

 

  マンゴーの木は、街では専門の収穫屋がいて、マンゴー木の持ち主はその収穫屋と契約することが多いのです。マンゴーは値も高いけれど、何しろ農薬やったり、袋懸けたり手間をかけないと良い実がなりません。そのうえ木は、めちゃくちゃ大きくなる。だもんで、木登り能力が退化した都市住民は、収穫を分け合う条件で収穫屋と手入れを含めた年間契約を結びます。

 で、時々収穫屋が農薬も撒きに来ていた。が、すると網戸しかない2階の烏の部屋は農薬の直撃を受けてました。だもんで、実はあのマンゴーの木は、何かにつけ烏の体に悪い木でもありました。

  だけれど、マンゴーの収穫の日、家中にあふれたマンゴーとその香りは忘れられません。床じゅうマンゴー。あのさわやかな甘酸っぱさ。その日の幸せは格別でした。それから、45日間は大家の冷蔵庫のマンゴーを食べ倒していました。口の周りがかぶれるのもおそれず。

 ちなみにマンゴーはウルシ科なので、汁が皮膚にくっついてかゆいのを放っておくと、かぶれることがあります。

 

  でも、今回は「あかん」と思いました。山の家も以前の街の家も。山の家は、山の激しい気候の変化や、生活環境の不便さや、交通の便の悪さで「あかん」のですが。以前住んでいた街の家も、以下に述べる理由で、烏の病気にとってはたいがいなのでした。

 

          

      リハビリ現地報告8 

マホガニーパークでのお話2

                 あるいはフィリピン的酔っぱらいが生み出される一過程

 

 実は、烏が下宿していたマホガニーパークの家は、パプ(お父さん)がアル中でした。烏家は、マム(お母さん)が大家で、マムは烏が留学していた大学で英語や言語学の先生をしてました。で、一応このマムが烏の身元保証人なので、まずその家に住んでから別の下宿を探そうと云うことにしていましたが。上記の理由で、ずるずるそこに住んでしまいまた。烏は、けっこうなりゆきで生きているのであった。

 北杜夫が躁転すると、株に手を出しめまぐるしくなりゆきで売り買いしまくるらしいですが。烏は、自分の生活そのものをなりゆきでやってます。計画性つまり「後先を考える頭=学習能力」があまりないらしい。とよく精神科の先生に指摘されますけど。

 

 マムはちょっとビジネスライクなところもあるけれど、英語でセブアノ語文法の基礎を教えてもらえ、調査票とか作るときの翻訳や手伝ってくれて親切でした。マムは外国暮らしの経験もあるので、相対化してフィリピン生活の特徴を説明してくれました。そういう利点もあって、街の不便なところにあっても居着いてました。

 

 しかしパプは、よく喚き、叫び、切れました。直接、烏にとばっちりがくることはなかったけれど。階下の騒動によく耐えていたと思う。何度か、マムが寝間着で2階に逃げてきたし。それで私が愚痴を聞いていたり。摂食障害児の悪い癖で、親の愚痴を一方的に受け止めてしまうという。マムの娘の代わりに、烏があの家のバランサーになってしまいました。おかげで、あの時期は大変良く英語が分かったともさ。

 後で、近所の洗濯を頼んでいたおばちゃんから、「マミがここに来る前は、もっと騒動がひどくてマムが一時期、マムん家の隣に住んでるパプの妹の家に避難してた」だの「パプが酔っぱらって椅子振り回して暴れた」とか聞かされました。さもありなんというような喧嘩や、言い争いが2階まで聞こえてくるのはしょっちゅうでした。

 あの時は、せい一杯突っ張ってたから「ほー」「ふーん」とかわしていたけれど。所詮烏はのみの心臓、でも強がり。パプの気持ちもわかんない訳ではないので、結局、摂食障害児として間にはさがった良いショックアブソーバーになっていました。今から思えば、両方の気持ちを察し、ひたすらマムの愚痴を聞く子供という典型的な役割をしていましたね。

 パプはできすぎる妻を持つつらさを持ち、しかも短気だった。マムはせっせと稼げるし、常に一生懸命、人生の目的を持ちそれに邁進している人だった。歳が行ってから博士号を取ったり、アメリカで雑誌の編集の仕事をしたり、タイで英語教師をして一発金を当てたり。街の家と別荘の維持費はすべてマムが稼ぎ出していた。パプはちょっとした小作人がいる土地持ちで、することがない。で、暇というか、自分の生きる目的が見いだせなくてキッチンドランカー化してました。

 でも、そういう生きる目的や経営に興味のない小地主はパプだけじゃないみたい。パプみたいなおっちゃんがたまって、昼まっからビールを飲んでいるレストランが街にはある。そこには、昼過ぎには地元老年キッチンドランカー組と、若いフィリピン人の姉ちゃんと結婚したけど、昼間はすることない老年不良外人組がいつもいる。

  しかも、フィリピンにはスペインの影響のマチズモ、「男は男らしくなくちゃ」精神がある。だけどマムに比べると、パプは全然かっこいい出番がないから、酒飲んで暴れてたんだろうな。威厳見せたくても、見せ場がない欲求不満で。でも、これはしっかりもので働き者の女性が多いフィリピンではよくあるパターンなんだな。

 烏は自然とフィリピンの家庭の問題の一つにバランサーとして組み込まれることで、その現状を体で会得して行った。実際、烏がそのうちに下宿するようになって、騒動の回数はぐんと減ったらしい。だけど烏以外でそこに下宿する人は、みんな短期間で移っていきました。

 マム曰く「マミみたいに信頼できる子じゃないと、下宿させるのは嫌だわ」。いやあ烏以外には住み込むのは無理だったでしょう。それに烏には山の家という逃げ場があったしね。

  全然つっぱてない、幼児退行している今の烏だったら。ずっとあそこに住むには、毎日だばだば精神安定剤ものでしょう。すごい騒動が、時々ありましたよ。はっはっはっは。よく耐えてたねぇ。はじめの頃は、怒鳴りたくるパプのセブアノ語がわかんなかったから良かったんだろけど。

 

 家族に問題があるとき一番弱いものにとばっちりがいって、その子供が病気になることはよくあること。マムんちでは、4人の子供のうち一番下の子だった。この子がパプの八つ当たりとも云える、威厳の誇示のような怒りを受けまくっていたという話です。馬鹿な奴と思えますが、かわいそうではある。

 上の3人は女の子達で、マムに似て医師だの弁護士だの、インターナショナルスクールの先生だのとばりばりのやり手になった。末っ子の男の子はパプと同じようにアル中になりかけた所を、田舎の別荘に隔離され真夜中のニンテンドー君になっていた。

  テレビゲームのことをフィリピンでは全部ひっくるめて通称ニンテンドーと呼ぶんだよ。たとえば、写真を撮るって云うのをコダックでなくてもコダックといったり、歯磨き粉はメーカーを問わずコルゲートっていう。まあ日本人も、ホッチキスをホッチキスの会社でない製品のものまでホッチキスって呼んでいるようにね。

 そんで、彼は昼は起きてこれず、人前にもほとんどでずにいる。高校の成績とかものすごく良かったらしいのだが。大学に入って力尽きたようだ。大学に途中で行かなくなって飲み出して。街ではお酒飲んだりして遊べるバーも多少あるのだが、それをおそれた両親に、田舎に隔離された。昼は寝て、夜中にひたすらニンテンドーをしている。何もする気が起きないらしい。

 これって鬱じゃん。たぶんマムは、長女が医師だから分かっているかもしれない。だけど、精神科医なんてものは州に一人。しかも処方箋もらうのだけでもばか高い。心理療法なんてとんでもない。実は去年、精神科医を見つけるのにえらい苦労しました。たった一人でもいたのにも驚いたほど。そんでマムは転地療法で何とかしようとしたらしい。

 

 だが、ニンテンドー君はいつの間にか近所の女の子とちちくりあって、孕ませてしまいました。これいかに。パプん家は中産階級で、この街に有力な親戚もいる一族郎党の一派。近所の女の子の家は名もない庶民の一族。近所の同じ集落でいつも顔つき会わせている家の女の子でなかったら。そしてニンテンドー君がこれほど不甲斐ない奴でなかったら、女の子の泣き寝入りでしょうね。そういうパターンは結構多く、いわゆる家の格があわないという奴です。

  マム達は同じ集落内でもめ事を起こしたくなかったのと、結婚を機にニンテンドー君が変わってくれることを望んだらしい。でもだめでしたね。嫁さんが、せっせと別荘の切り盛りを手伝い、ニンテンドー君は相変わらずです。まあそうそう人間変わるものではないというところでしょうか。

 

 

                  リハビリ現地報告9

   読書子に寄す

 

 相変わらず鬱で、午後になってからでしか動けません。腰痛や背中の痛みがひどいし。その上、いま薬ともバランスがとれてなくて、いきなり日中に意識が飛んだように眠る。あげくに、夜中に眠剤をだばだば飲んだ状態でも眠れず、追眠を入れても眠れず、しかも「あかん、あかんてー」ってい自分で自分に云いながらも、ふらふらとバイクで出かけてしまう。まあ出かけたって、行く場所決まってるんですけどね。

 

 雷があっちこっちに落ちるなか、海岸にいって坐ってるんです。そして、ぼーっと周りに落ちまくる雷の光輝を見ているんです。この世のものとは思えないほどそれはそれは。それでずぶぬれになったり。

 

 やばいなぁ、入院していたほうが良かったか?とちょっと思ったりもするけれど。まあいいや。もういいやきちゃったし。もうどうしようもないや。とにかく、生きて帰るように。ぼろぼろでも良いから帰るように。それだけ。

 

  ところで、宮沢賢治の童話集は5回以上読んでます。他にも本はあるんですが。今のところこれがお気に入りらしい。そういえば、子供の頃は気に入った本だと10回だろうが20回だろうが、ほとんど全文覚えてもまだ読んで。それが年を取るにつれ、だんだん通り一遍にしか読まなくなって。専門書なんか、斜め読み、とばし読みが多くて。文章を味わうと云うより、情報を得るためだけに読んでいる。つまんない読み方するようになりましたね。

 

  で、宮沢賢治の童話集はついつい最後のページについてある、岩波茂雄の「読書子に寄す 岩波文庫発刊に際して」まで読んでしまって、えらく感動した。曰く「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら求む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことは常に進取的なる民衆の切実なる要求である。云々」昭和27月の言葉に、2002年の10月、烏は感動している。簡潔かつ明瞭、そのうえ意味深い。格調高い文章だなぁ。

 「読者は自己の欲するときに自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる。携帯に便にして価格の低きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容は厳選最も力を尽くし」いい文章だなあ。おかげで梁塵秘抄は持ってこれたので、今んとこ烏の主要なお習字のお相手です。頼むよ、近々、烏のために、閑吟集も出しておくんなまし。そういえば専門書は重たい思いをして持ってきたんですけど、未だ眠ったままなんですう。

 

  そういえば、前回の入院での数少ない収穫の一つは、岩波文庫の「ゴッホの手紙 上・中・下」を読んだことぐらいだった。不安定でほとんど本が読めなかったし。その上、本当にお疲れ入院だったので、ほとんどを寝て過ごしていた。そういやあ、この前、ゴッホが入っていたアルルの精神病院に行ってきたのですが。ゴッホの絵の中に「ミストラル(嵐)」という絵があって、アルル地方の嵐の中に星が瞬いている絵なのですが。そんな感じで烏も雷の中一人で坐っているようです。でも、安心してください。とりあえず人の二番煎じは嫌いなので、発作を起こしても自分の耳は切りません。

 

 

                         リハビリ現地報告10

嘘つき牧師を神の手にゆだねる

 

  嘘つき牧師から、ようやく烏のパルパルバイクが帰ってきました。こやつ、嘘ばかりつき、言を左右する牧師にあるまじき奴です。烏は鬱でなかったら、バイブルで両頬ぶん殴って、おまけにバイブルの角で頭をどつき倒してた所でした。烏は切れたところを、こちらでほとんど人に見せたことがありません。たいがいは営業スマイル。だもんで、適当にあしらってうまくすれば、そのままバイクを我がものにしようとした形跡があります。ボケ牧師、牧師のくせにほんま油断ならん。

 

 なにしろ、烏の大家さん(今の大家さんはいろいろアパートを持っている実力者)が電話したときにも「あれはマミが僕にくれたんだ」だとか。いつ、誰がそんなことを云ったんじゃ、何調子こいとんじゃワレ(所詮、烏は大阪人)。烏が子供の頃、そんな見え透いた嘘をついたら、親に「どの口がそんなことを云わせとる」と口をひねりあげられていた所です。

 

 バイクは一杯壊されていた上に、無理矢理改造されてました。ガソリンタンクのある座席は焼き切ってから付け直してあって、ふたが閉まらない。仏陀の絵(去年も奴には怒っていたのですが、5歳だったので文句が言えず、黙って嫌がらせに絵を描いた)はナイフで削り落としてあって車体は傷だらけ(ベンジンで拭くという知恵はないんか)。ミラーは割れて変なのがついているし。チェーンはゆるんでる。

 何よりもスピードメーターが壊れている。恐ろしいことにハンドブレーキはほとんどきかない。ランプもつかない。「なにーようこんなんで乗ってたな」ちゅうほど壊れてて、修理代が部品代だけでめちゃくちゃかかった。烏のスキ(フィリピンでいうお得意さん関係。)のエンジニアの兄ちゃんに、けたけた笑われながら「新しいの買った方が良いんとちゃう」といわれたぐらい。走るくず鉄と化していた。

 

 烏は今回は珍しく計画的に、1ヶ月以上も前からこの日に帰ると奴に予告してその後も電話をしているのに。なんやねんこの有様は。烏が教会に電話して、奴の上司にわあわあいい、うちの大家のきつい押しがなかったら、絶対返すつもりなんてこれっぽちもなかったに違いない。

 

 その上、返す際にごめんなさいの一言もなく、「言い訳ばかり」。それを思い出す度、に大変胸くそが悪くなります。うちの親やったら、口ひねりたおされとったぞ。口を持ってぶら下げられたら泣きも叫びもできひんからこたえるぞ(あれ、うちの親って世間より厳しかった?)。その後、新しい故障箇所や、改造箇所を見つけるたびにクラクラしてます。烏が躁期で、薬も使ってなかったらな、お前は一発かまされてたぞ。烏みたいなガキにはな、バイブルもアイアンハンマーも変わらへんねんど。

 

 わざと携帯電話も切っていたようで(今フィリピンは携帯電話が大流行、だって電話線ないところが大部分だから)、なかなか連絡がとれないので教会に電話し、上司におもくそ嫌みを言ってしまった。「あんたらは祈る人(プライヤー)じゃなくて、嘘つき(ライヤー)なのか」って。だけど、これ以上怒ってても壊れたバイクは直らないので、後の裁きは奴の神様に任せようと思います。これ以上、活性酸素を増やさないために。どんな神さんか知らんけど。

 

 

                          リハビリ現地報告1

                               止まること

 

 とりあえず、バイクはぼろぼろだけど動いている。というか、そのフィリピン人感覚が怖い。フィリピン人は「とりあえず、動けばいい」感覚で、後は野生の勘で乗り回している。だけど、烏にとっては、外観はともかく走行系に関しては完璧じゃないとだめなのだ。はっきり言って、烏運動音痴。しかも躁状態に入ったら見境ない。鬱状態だととっさに反応ができない。そんな烏にとっては、「走ることより止まることの方が重要」なのだ。

 どうにも止まれない。もしくは、止まったら交差点の中でも止まったきり。動くことより、上手に止まるのことが難しいのだ。今回の入院の退院計画書に、研修医に「躁状態の時、がんばりすぎないこと」とたわけたことを書かれてしまったが。上手に止まってセーブできてたら、こんな病気になっとらんわ。と悪態をつくほど、止まるのが下手です。

 

  で、ここのところ午後になったら、無法の交通渋滞の中、怖い思いをしてパルパルバイ

クでスキの兄ちゃんの所に通ってます。その度に、スキの兄ちゃんに笑われてます。「またこけたんかー」って。くそお、くやしい。

 どうして烏と修理専門の兄ちゃんがスキ関係かというと、烏はよくこけてあっちこっち壊していたから。でもすぐに修理してた。メンテナンスだけはとにかく良くしてた。自分の能力の低さをカバーするのに。現在、病院がよいを続けて、とにかく人様に体のメンテナンスをお願いしているのと一緒ですね。とにかくバイクも体も、運転する能力引くいもんで。スキの兄ちゃんも、2年たとうが3年たとうが覚えていてくれた。

 

 烏は、調査をするためにフィリピンで生まれて初めてバイクに乗った。だのに、いきなりホンダ70cc、ギア付き、キックスターター。山道のオフロードでモトクロス状態。バックライド(後ろに調査助手とかいろんな奴が乗ってくる。3人乗りなんか当たり前)。荷物満載。もちろんノーヘル。

 

  だから烏は、バイクを走らせることはかなりできる。だけどバイクは、止めるときが難しい。バランスとれなくて。スリップしたときに、うまくスピード殺せないと、ほんとうに大けがする。体もほどほどで止めらんないから、病気してんだけど。

 

 烏は留学してた頃、後半はほとんど山にこもっていたので、留学生仲間では伝説の山姥と化していた。そして新しく留学しにやって来た子達に「山にはねカガワサン(ちなみにセブアノ語ではカガワサンは自由という意味)というすごい人がいるんだよ」と伝えられていたらしい。その伝説の山姥は自分の送別会の日、にこにこしながら血みどろで現れた。後で聞いたら、新しく来た子は大変たまげていたらしい。まあ、そうかもしれない。

 いきなり、バイクでこけて左肘から手首にかけてぽたぽた血を垂らし、笑いながら現れたからなあ。実はその上に、肋骨にもひびが入ってた。後で写真を見たら、にこにこ血みどろの山姥が笑っている。その体で、20kgのザックを背負って京都に帰って行きましたとさ。本当に躁ですねぇ。躁だよな。

 

  そのほかにもこけて、手をついたとき尺骨と橈骨が行き違われて、関節はずれてギブスしてたりしたしな。重いんだよ石膏固めは。右手だったし、指先まで固められてらえらいこと苦労した。そのうえ、ギブスはずしてもめちゃくちゃ痛い。ギブスはずしてからも2ヶ月はドアのノブも回せなかった。未だに何か絞るのは苦手。大小の火傷やら、怪我は数知れず。

 

  だもんで、無事に生きて帰るために走行系にだけは、金がかかっても良いから徹底的に直すことにした。病院通いを続けているように。ハンドブレーキは結局、前輪のブレーキシュー(がっとタイヤの回転を止める金属)が壊れてたのでお取り替え。後輪のフットブレーキだけで止めるとブレーキランプがつかないから、後ろを走ってる人にブレーキかけてるのがわかんなくてオカマを掘られる危険性が大きいから。電気系統は全体的に弱ってたのでバッテリーの交換。ライトは電球切れとった(恐ろしい乗り方をしとったな牧師)。よくぞまあこう次々と、人のものだと思って。

 

  前輪と後輪と両方、ブレーキ効かないと危ないだろうがボケ牧師!ここまでやって良いという限度で「止めとけ」。烏のお人好しにも限度があるんだぞ!

 

 

                           リハビリ現地報告1

                       ゆっくり走ろうネグロスの道

 

  そしてスピードメーターも修理した。フィリピン人にとっては一番どうでも良いものだろうけれど。スピード違反で切符きられることないから。街の中心では、駐禁で黄色い切符を切られることはあるけど。烏は、黄色い切符をもらったとき、即、市役所まで払いに行きましたとも(切符切られることより、それを口実にしたお巡りのたかりの方が怖い)。で、なぜスピードメーターがフィリピン人と違って烏に重要なのかというと。躁鬱病だからだ。

 

 烏のパルパルバイクが安定走行できるのは時速60kmまで。60km超えると、たとえ整備が完璧でも車体がぶれる。だってエンジンちっさいし、軽いもん。それでも、必要とあれば、時速80kmぐらいは楽勝で出せる。メーターの目盛りは時速100kmまであるし。で、実際出してた。だけど、この「出せる」と云うところが怖い。「出せる」のと「出しても安全」というのはまったく違う。

 時速80kmぐらい出してると、パルパルバイクでは何かトラブルが1つでもあれば吹っ飛ぶ。「はい、さよーならー」の世界。幸い今まで大きな事故をしても、まあせいぜい時速40kmかもっと遅いぐらい。泥でスリップして、そのうえ減速かけながらこけた。事故を起こした時、もし時速80kmだったら、もう烏はこの世にいないかもしれない。

 

 だけど、烏は、かつては時速80km以上だして殺人セレスと競争して勝ったりしているのだ。殺人セレスとはネグロスのハイウェーの主、セレスライナーバス。このセレスは、ネグロスの周回道路のバス路線をほぼ押さえるメインのバス会社。これが怖い。時速80kmぐらい出してとばす。だけど道ばたで客を見つけたり、客が降りたいというと、いきなり止まる。無茶な追い越しは平気でかける。もうハイウェーの王様。そこのけそこのけセレスが通る。セレスと競争するっちゃ、命かけてるのも同然。

 別に、競争したくてするんじゃないけど、目的があって何が何でもになると、目的一直線になる烏。そうなると烏には、セレスがハエの王様になっちゃうんだな。うるさいよ、じゃまって。パルパルバイクのくせに、道路の王様の殺人バスに喧嘩うっちゃう。ここで交通事故を起こして人をひいても罰金5万ペソ(今だったらペソが落ちてるから15万円以下?)ですんじゃう。そして、実際セレスが起こしている人身事故は少なくないのに。

 

 だのにだ、去年も躁転したときやっぱりセレスと競走になって(競争したくなくても、ハイウェーの路線をうじゃうじゃ占めてるから、そうなっちゃうの)、抜きつ抜かれつの大激戦をして勝っちゃったんだな。向こうの運転手もパルパルバイクに負けているようじゃ商売になんないしね。途中から明らかに、意地になっていたみたい。

 そのとき、待ち合わせ場所で待っていた友達は「もしかしたらやるんじゃないかと思ったけれど、ホントにやってきたから青ざめたわ」。だもんで、今回こっちに来るときの、お友達とのお約束。「セレスとは絶対競争しない」「事故に気をつける」「バイクで山にあがらない」を守るために、スピードメーターが壊れていたら困るのだった。

 

 今?時速40kmも出してない。鬱だし20km30kmでゆっくりのたくら道のはじっこをパルパル走ってる。いろんなバイクに抜かれながら。あまりにのろいので、目の前に山羊が飛び出したって、大丈夫だった。こないだ半泥酔状態で帰ったときも時速10kmぐらいだったし。とにかく、ゆっくりぱるぱるぱるぱるぱるぱるー。

 

 

                             リハビリ現地報告1

                                   餓鬼

 

   大事な用事のある日だったのに、日中は何もできず。鬱の風がきついです。躁の風が、追い風だとすれば、鬱の風は向かい風。それでも上手に細かく間切って行けば、少しでも進むのに。それができずに、倒れたまま薬が効いてくるのを待ってます。そして、とんと日が暮れて、今更何ともしようがない時間になってから動き出します。後悔で一杯になり

ながら。気を取り直せれば良いんですけどね。

 

  だけど、こんな日は、烏はいじけて、ただの餓鬼なってしまう。餓鬼は、床にしゃがんでやたらとものを口に運ぶ。賢治が修羅ならば、烏は修羅なんてもんでなく餓鬼道の餓鬼。

 そうだ、食って食って食らいつくせ。人の姿からかけ離れて、一人でがつがしつ食いつくせ。何でもかんでも食らいつくせ。そしてカエルのようにばんばんに張った腹を上に向けて、倒れ込む。苦しくなるのど元まで、つめこめ。もっともっと。

  これが過食症の正体です。冷静に振り返れば、ゴッホの耳切ほどドラマテックではないですが自傷という点ではほとんどかわりません。やむにやまれぬ点では。そのうち血液が胃の周りに集まってきます。頭がスッカラカンになるぐらいに、必死に消化器官がお働きなる。そして、そのために意識がぼーっとしてくる。だから絶対自分から吐かないよーだ。

無意識下で血流を変えて、自分の意識レベルを下げてるんだもん。

  後で、消化され吸収されたカロリーは、どっと血管に流れ込む。結果的に血管に流れ込んだブドウ糖が脳にいって、手痛いしっぺ返しを受けんだけどねー。めまいがするのは、高血糖のせいか、薬のせいか、鬱のせいか、その複合効果か。ああ、くらくらする。

 

  餓鬼道から烏はいつ救われるのでしょうか。食べ物のない、どこか地の果てに烏を追いやってください。マジエル様。切ない願い。こんなに豊かな世界で、餓鬼の海に沈んで行く。ああ、あまりに腹がくちくなったので、意識が次第に不明朗にぼんやりしてきました。

 

 これ以上、自分に悪いことをさせないように安定剤と眠剤をフルセットで飲んでみました。が、食らったものが吐き出せないので、脳の中をぐるぐる全力疾走しています。だもんで、居寝もいていられず。

 

 だから書いて、吐き出してみました。あー苦しい。もし烏に「書く」という表現手段がなかったなら、もっと不幸な人生だったでしょう。

 書くことは烏にとって吐くことと同義で、それがこんなに苦しく吐くのではなく、息を吐くように、さわやかな歌の息を吐くように、心からの声を吐くのが願いです。 しかし、朝まで安眠もできず。何度も夜中に、意識がもうろうとしたまま、断眠が続きどこで寝ていいのか分からずに、部屋中うろうろゴロゴロしてた。本当にお馬鹿さん。お馬鹿さんは今腹這いになってこれを書いているので、膨れた胃が圧迫されて大変辛いです。気持ち悪いちゅうねん。うぷっ。読んでる方も、気持ちよくはないでしょうが。こらえてください。ゴッホも耳を切った自画像を描いてます。烏は書くことで吐くけど、ちゃんと帰ってきますから。

 

  

                 リハビリ現地報告1

                           お墓参り

 

 今日はフィリピン全国「お墓参りの日」で、午前中は土砂降りでした。で、昨日の埋め合わせせをするべく、バイクで山に上がってしまいました。昨日の自己嫌悪は、月日の感覚がぼけていて「全国お盆の日」を間違えて、しかも鬱で動けず山に上がらなかったことと。1112日はカトリックの盂蘭盆会のようなもので、全国的にお盆で休日になるのです。そして、111日は家族や親戚で盂蘭盆のお祀りを家でするのですね。2日が花やろうそくを持って墓参りの日。

 

 去年は、日程的にぎりぎり世話になった家族のママの新盆に間に合わず、今年こそはと思っていたのですが。ちなみにママの死因は糖尿病でした。

 

 で、せめて今日の墓参りだけは間に合おうと、しんどくても早く目が覚めるように目覚ましを2個かけ。抗うつ剤や安定剤を入れて、効いてくるのを待って動かない体を動かして、飛び出していきましたとも。花束買って、土砂降りの中。

 はい、やはり時速40kmは超えておりました。途中でジプニー(乗り合いジープ?最近は軽トラ型が多いけれど)抜かして。がうん、がうん、がうん。「絶対に山にバイクで登らない」と約束した友人に云われそうです。「やっぱりね、1回はやると思ったわよ。」烏の行動パターンはあまりにも見え透いて、分かりやすいのですぐばれます。何しろ嘘ついたら、口をひねられるからな。すぐにばらしてしまう。

 

  でも、意外と登れたのにはびっくりです。気合いでしょうか。でも一歩間違えたら、雨の中、視界も悪いしスリップして怪我してたらからもうやめようね。で、雨のおかげで家族も動けず待ってくれていました。それで、雨がやむのを待って家族全員で、お墓参りに行きました。

 

 おもな墓地は村がいくつか集まった町に1カ所で、墓地内の小さな礼拝堂でカトリックの坊さんが祈祷して、みんなそれに併せて詠ってました。で、墓がうじゃうじゃある。近年墓所も道路を挟んだ向こうに拡張気味なのですが、何しろ死人の数が多い。墓所内には残った土地はほとんどないのでは、というぐらい無秩序に墓がひしめき合っている。

 目的の墓にたどり着くまでには、誰かの墓を踏まないとたどり着けない。大胆な奴は墓の上から墓の上へと飛んで歩いている。墓の上に靴跡が一杯ついているのはちょっとなんですが。墓についたら花をお供えて、ろうそく飾って。ちなみにろうそくは墓の入り口あたりでがきんちょがずらりと並んで、手作りのろうそくを1本1ペソで営業活動しております。花は、烏のファミリーが居る村は花卉栽培で知られた所なので、ちょっと他の所の墓所より賑やかかもしれません。

 

 で、親戚で縁の深かった人の墓、最近死んだ人の墓を全部巡ります。おかげで親戚関係の確認が今頃になって出来ました。烏も念願の世話になったママのお墓がようやく分かりました。お墓の形はいろいろです。一般的にはコンクリートの箱に、棺桶をそのまま入れてふたをし、墓碑銘を置きます。だけどゴージャス版だと、一面にタイルを張り巡らせてあったり。町一番の有力者ファミリーの所なんかは、更に豪華で屋根付きです。はっきり言って村の貧乏人の家より立派です。

 

 ママのお墓は、白いコンクリートでシンプルですがそれなりにちゃんとしてました。これがお金がないと、お墓を作るお金ができるまで埋めて、石にペンキで墓碑を描いただけとか、ここ何かが埋まってることを暗示するかのような石が置いてあるだけになります。

 

 墓地の奥は、お金のないファミリー用のアパートタイプで、いくつもの棺桶を入れるコンクリートの棚が蜂の巣のように何段にも積み重なっています。そのアパートタイプでも2000pの使用料がないと使えないと、パパの甥が嘆いてましたけれど。で、10年たつと合葬ができるそうです。だから、急に死者が出た場合や、墓所を確保できない場合は昔死んだばあちゃんと大叔父さんをまとめて一つの所に入れて、場所を空けそれを使うとか。そのあわてて合葬をする光景は見たことないですが、ちょっとぞくっとします。

 

  まあとにかく墓地には、いろんなお墓が歩く隙間もほとんどないぐらい、ひしめき合っていて、今日は更にその墓地を花やろうそくを持った人が沢山うじゃうじゃひしめいていて。本当に賑やかしいお盆でした。

 

  で、パパの娘の一人の姿が見えないので、どうしたのと聞いたら街に降りて花を売っているだそうで。そういやお盆の時は、バレンタインデー、卒業式シーズンとともに、花作りをしているこの村のかき入れ時だったよな。ということを思い出しました。ちなみに烏の母方の親戚は花屋なので、盆・暮れはかき入れ時で、やはり休む暇もないです。 

 だけど、ママはその花売りに一家みんなでかけている間に、低血糖昏睡を起こして死んだので何とも云えません。

 

 

                                 現地報告1

                                  花のこと

 

 で、山から下りて、おばちゃんが花を売っているよって云われたところにいくとおばちゃんとともに「あれ?見たことのあるアレンジメント」が。そうそれは、烏が3年前に教えたアレンジメントだ。うちの村の人相手にアレンジメントを教えていたら、偶然それを見かけた烏の大学の職員組合の人から、自分たちのミーティングでも講習会をしてくれと頼まれた時やってみたデザインだ。やっほー覚えて身につけてくれていた。うれしい。

 

 いやぁ、あの時は元気でしたねぇ。40人ぐらいを相手に講習するのに、村中走り回って。いろんな人から、バラだの蘭だのクジャクソウだの菊だの、手にはいる限りの花材を安く仕入れ。シダなんか自分で刈り取りに行ったもんな。デパートや荒物屋などをかげずり回って、ワイヤーやリボンを手に入れ。ネットなんて、日本やマニラじゃないからなんにもなく、荒物屋で普通の金網を切ってもらい。躁だぜ。ハイパワーだぜ。

  英語と図解で、フラワーアレンジメントの基礎のテキストを作って。テーブルの真ん中の盛り花、玄関や壁際の花、花束、ブーケ、コサージュと一通り教え、最後にみんなそれぞれの人に贈り物用の花束を作ってもらった。みんな個性的でいろんな花束作って見せてくれて、ホントに烏も楽しかった。あの講習会の時のテーブル花だ。

 

  で、そのアレンジメントは一通り、おばちゃんのところで練習していったもんな。で、協力してくれた村で花を売っている人へのお礼にあげたテキストの烏オリジナルデザインだ。値段を聞くと、他の盛り花の倍ぐらいで売れているそうで。自分がしたことがちょっと役に立っているようでうれしかった。

  あの時、烏は盛んに、「ただ花を売っているだけじゃだめ、付加価値が大事なの。」といかにも、農業経済学者らしくわあわあ云ってたんだよなあ。

 

 ちなみに烏、フラワーアレンジメントは習ったことがありません。ですが門前の小僧で、子供の時におばあちゃん家に遊びに行ったら、手が足りないときなど他のいとこと一緒に結婚式のテーブル花など作るのを手伝っておりました。その後、自分でどんどん、こなしていくようになり。友人のウェディングブーケを作ったり。

 だけど、日本と違い花材の補強材がないところで一からデザインするのは、大変だった。このくそ熱い熱帯で、徒手空拳でやれるもんならやってみい。わはははは。習ったことがなく、自力で全部テクニックを工夫して覚えていったおかげでありましょう。

 

 烏は、よほど花が好きらしく病院でも枕頭台に生花をかかしたことはないです。なぜか今年の夏は熱帯魚の飼育と、カイワレ大根栽培も行われておりましたが。すみませんお魚先生、ニックがただで熱帯魚を配っていたのでついもらってしまったのです。カイワレ大根栽培はリハビリで(食っただろうな、精神科の先生)。

 ついでに、洗面所に勝手にアレンジメントし出すわ、1年以上病院でためた花(なかなか捨てられない)のドライフラワーでアレンジメントもするわ。

 

 スペインに行く前の躁時代には、病院横に花壇を作成してしまった。入院患者さんのために。たとえ鬱やらなんやらで外に出られなくてもひまわりや朝顔などの夏の花が見られるようにと。ところがスペイン帰国後すっかり、鬱転して自分がその花を建物の中から外に出られず見ることになるとは。計算違いなのは、ひまわりが建物陰で全部反対向いていたこともだぜ。どうせ烏のやることは誤算だらけなんだぜぇ。

 ただ本当に、情けは人のためならずだぜぇ。「ただ人は情けあれ、あさがほの花の上なる露の世に 閑吟集」だぜ。日本を出てくるときはコスモスとマリーゴールドが満開だったけどな。後、百日草も良い感じだったし、サルビアとブルーサルビアも植えてきたけどな。帰ったら花壇どうしようかな。まだ2ヶ月さきだちゅうねん。

 

 うむ、ちょっと、今日は花にまつわる情けのことでいろいろ「ほろっ」としてしまった。ちなみに枕元にバラや生花を置いておくと、香りで少し落ち着いて眠剤が減ります。

 

 

                               リハビリ報告1

                                   お薬の話

 

 「風の又三郎」と「銀河鉄道の夜」は10回以上読んでしまった。この2冊に入っていない、「シグナルとシグナレス」とか「月夜の電信柱」も読みたくなってしまった。専門書も読めっちゅうに。で、せっかく持ってきたのでコラムなど読みやすい所を中心に「医療人類学」の本を読んでいる。なにか助けになりそうなのだけれども、今のところ混乱した頭はまだ崩壊中です。

 

  だいたい村の家族での例を1つ取っても、あああああああです。偏頭痛がひどいからあげた痛み止めを、良く効くからって一度に2錠飲むのはやめなさいって。1日に2錠以上飲んではだめっていうのを、1日に2錠以上じゃないからって、いっぺん2錠に飲んでどうする。飲むなら朝と夜2回って云っただろう。「腹をこわすから、2錠一度に飲んではだめ。」と、改めて説明したけれど。使用上の注意なんか守らないので、危なくてそうそう薬は渡せない。もろにダイアナ・メルローズの「薬に汚染される第3世界」です。

 

 だいたい私がこっちの薬を飲まなくて、山のように日本からしょっていってしまうのは、こっちの薬で過去ひどい目に何度もあっているから。

 

 だけど、その烏自身がものすごく薬が必要な状況下でこちらに来てしまっているので、とんだ薬長者だ。トランクの1/4が薬たっだ。しかも、薬の効きがいまいち不安定で、たまらん。だけど、手持ちの薬は限られているし、何が何でも後7週間、これで持たせるのだと思っている。だから毎週だいたい1週間分を、まるでごちそうのように鏡台の前の器に盛って、それで過ごしている。

 

 来るときも薬の勘定が大変だった。一日6錠飲んでる薬は、70日で420錠。一日2錠のは140錠。薬を数えるだけでも疲れて2日かかった。定期薬だけで10種類以上あるもん。2日おきにうちの部屋を掃除してくれているおばちゃんは、「なんなのこの子」と内心びびっているだろう。ゴミ箱にざらざら薬のかすが入っているもの。一応、規定量しか飲んでないんですけど。これだけ飲んでいると、自分でも時々なんだか分からなくなるので、薬のチェック表を鏡に貼ってます。ちなみに飲まなさすぎても、鬱がきつくなるので。

 

 その薬物中毒者烏が、薬に対して批判的なことを云うのはなんですが。

 

 3年前のことでしたか、山の家族と一緒に居たときに家族のおばちゃんが激しい、偏頭痛を起こしました。烏も、時々、偏頭痛を起こすので痛み止めとは縁の切れない奴なのですが。偏頭痛もひどくなると、上から下から来ます。頭痛で転げ回った上に、下痢と嘔吐が起こります。

 

 非常に重篤で典型的な偏頭痛持ちの烏の友人は、まず光が見えて、それからトイレとまぶだち(親友)になります。烏は光は見えませんが、枕や壁にがんがん頭をぶつけたくなるほど苦しんで、やっぱりトイレとまぶだちです。おばちゃんの場合は烏より激しく、それはそれは辛そうなのです。なまじ、烏も偏頭痛のつらさを知っているだけに見てはおれませんでした。

 

 そのとき、山の烏用薬箱のストックの痛み止めが切れておりました。そのうえ烏は、痛み止めを自分用に村に携帯して行くのも忘れておりました。だけど、街の下宿には、どっさりストックはあったのです。のたうち回るおばちゃんを、見ておれず烏は「誰かバイクに烏を積んで街まで取りに行かせて」と云いました。日はとっぷり暮れておりました。いくらモトクロスレーサー烏でも所詮はビギナーですから、夜は怖くてバイクで降りられません。

 

  でも、家族は「いいよ、そんなことしなくても」。といって、誰かが家の近くに生えている薬草を探しにゆき、薬を煎じて飲ませました。もちろん、近代薬品とちがって即効性なんかありません。そのかわり、家族で交代ごうたいに背中やら手足をさすって一晩を明かしたのでした。それで随分、痛みは痛みとしてあるにせよ気持ちは和らぐようでした。少なくとも、烏のように人知れずのたうち回って、枕にがんがん頭をぶつけるようなことはありませんでした。

 

 どっちが幸せなんだろうか。入院してても、痛いとかしんどいと云えば、すぐ薬です。確かに薬は良く効きます。だけど、「手当」の本来の姿って、こういった「あなたのつらさや痛みを分かっているよ。だからそれを分かち合おうね」というところにあるのではないのかなあ。だからといって、近代医薬品を否定するわけではありません。(それどころかジャンキー烏です)だけれども、何がいいのか。未だに混迷の中にいるのが事実です。

 

 入院中は苦しかったら、いつでも担当の研修医を呼び出していいはずの精神科ですが。苦しかったらすぐ頓服のお薬を飲んですませる、大変意地っ張りな烏でした。そこら辺が、烏の病気の病気たるゆえんで、未だに薬はへらんわ。かえって増えるわ。それが、小さい頃から熱を出しては、すぐ病院に連れて行かれて注射うたれたせいなのか。親の背中でげろ吐いてても、保育園に連れて行かれていた厳しい生育歴のせいなのか、理由は知りません。

 

 

                              リハビリ現地報告1

                                   閑中好

 

   一昨日から床の上でしゃがんで、餓鬼状態でかつがつ食べてたから蟻がいっぱい来ちゃった。ああ、精密機械のピンチだぜ。生き物vs人間。今日が床掃除の日だったら良かったのだけれど、あいにく洗濯の日だったのだった。掃除の日か、洗濯の日か、何にもない日かで、かろうじて曜日を認識している烏だった。

 入院しているときとかわんない。月曜日から金曜日までは研修医が覗く日。だから平日は、調子が悪いとか、薬を変えてとかぐちょぐちょ苦情がいえる。火曜日はベッドメイキングの日。水曜日は作業療法の日(鬱になってからは行かないけどさ)。土・日は何にもなくて外来もがらーんとしてて、詰め所も静か。仲良しの看護助手さんも来ない日。掃除のおばちゃんもかたっぽしかこない。平日だったら掃除のおばちゃんが2人いるので、10時の休憩時間に2人の間にはさまっておやつが食べられる。

 

 学校の研究室に遊びに行っても、土・日はお魚先生や秘書さん、編集室のお姉さんがいなくて誰も遊んでくれない。教授は時々おやつをくれるけれど、子供との遊び方は忘れてしまったみたい。一人はすぐにカヌー遊びとかに行っちゃうし、一人は閉じこもったまま。「あほ抜かせ、お前と遊んでるほどこっちは暇ちゃうわ」と言われそうだけれど。

 

 最近お魚先生は、会議続きで大変そうだ。時々意識が飛んでる。どうしてうちの講座は、というか研究科はこんなになるかねぇ。沢山予算を取って、雑務やプロジェクトを増やすより、もっと楽しいことしたらいいのに。

 「学問って何か知っているか?」「わかんない」「遊びや」と言ったのは、烏の精神科の先生だった。だのに、最近はお魚先生も雑務で振り回されていて、お魚先生は大好きなタナグモとか昆虫の名前も、思い出せないときがある。かわいそうだ。ももしーはずるくて(賢くて)、遊べなくなって煮詰まりそうだとすぐに海外に逃げる。

  産婦人科の先生も、いとおしそうに自分が実験しているネズミについて語る。とても楽しそうだ。ずるい。でも、烏は鬱になると自分で生き物の世話ができなくなるので、鳥類とかほ乳類を買うこうとを禁止されている。お魚先生は、ほ乳類が苦手。特に会議、会議でわあわあ騒ぐ訳のわかんない大人の大型ほ乳類が。気の毒だなあ。だから、烏も部屋の前のカラマンシーの木に来る小鳥で我慢している。

 

  そんで、暇なのはいいな楽しいな。なんて云う意味の「閑中好」っていう中国の漢詩のお習字なんかしている。白居易の「夜雨」なんか、特に気に入って何度も写してる。「コオロギが鳴いたかと思うと鳴きやみ、ともし火が消えたかと思うと明るくなる。窓の外に、夜の雨が降り注ぐ。芭蕉の葉の先にまず音が聞こえた。(石川忠久訳)」。

 なかなかシチュエーション的にぴったり。白居易も若いときの血気盛んな頃の詩は鼻につくけど、いろいろ人生けつまずいて隠居してからのは良いよな。思い通りにならない、ままならないけどまあいいやって。だけど、白居易君もなかなか眠れなかった夜が多かっようですね。そう言う意味では、烏ともまぶだちだ。

 

 本当に日中、体を起こしているのが辛い。だから、少しやる気があっても、床に腹這いになってお習字してたりする。だけどその床が蟻んこだらけとは。これからなるべく、おやつは起きて食べよう。

          

 

                            リハビリ現地報告1

                                閑中忙有り

 

  長期休業中の烏は、ようやっと村に置いておいた荷物を、街まで持ってきました。だけど、だいたい普通の人みたいに1日動いたら、次の1日は死んで寝ている。まじで目も開けられないぐらい、くたくたになってる(神経性胃炎とか風邪ひきになって、体が強制終了させられる)。だから明日は1日中、寝ている日だろうきっと(後述、やっぱり寝てました)。

 

 荷物を下ろすのも、悪魔のロザリーという性悪妻にとりつかれた日本人のダイバーのおっちゃんに頼んで車を出してもらった。だけど悪魔のロザリーも一緒だったので、高くついた。でも、これからは荷物のあるときにはおっちゃんをドライバーに雇って無理しないでいよう。ついでに、街で唯一のデパートで念願のプラスチックのタンスを買ったし。フィリピンでも物持ち(がらくたともいう)烏は、フィリピンに置く荷物はできるだけあのタンスに収まる範囲にしよう。

 ダンボール箱を開ける度になんでこんなんとっといたん、ちゅうものが一杯。せっかく今日はお掃除の日だったのに、床がすでにゴミの山。箱詰めした時は、すぐにフィリピン生活に復帰するつもりだったけど。それ以後、ずっと入院してたからな。荷物は寄る年月で埃はたまるわ、一部は黴びてだめになって使えなくなってるわ。

 

 醤油丸ごと1本(未開封)とか、日本酒1L(未開封)とかまである。飲めるよね3年ものの日本酒。人からもらった3年ものの真空パックの赤飯もあったけど。これも食べられるよね、たぶん。賞味期限なんか完全に無視してるけど。

 

 箱詰めのとき結構、いろんなものを人にあげてきたのに、それでも多い。世話になったうちには家具とか大物あげたし。だけど、わざわざオーダーメード(っていっても、ここの家具はほとんど手作りが当たり前なんだけど)した勉強机がテレビ台になっているを見るのはちょっと辛い。烏、自分の姿勢に会う机と椅子がなかなかないから。まあ有効利用されて、大事に使われているから良いか。

 今の下宿の机と椅子とも相性悪くて、黄色いクッション買っちゃったけど。一番お気に入りなのが床に腹這いになって、枕とクッションを支えにパソコン打ったり、お習字すること。ありがとう、お掃除おばちゃん。大好きです。昔の下宿じゃ、蟻が怖くてパソコンを床に置くなんてできませんでした。書き物をしているときは、ほとんど床を蛇女のように這いずってます。                 

 

 しかも帰国直前にばたばた箱詰めしたので、詰め合わせが何がなんだかわかんない。ラジオは3年ぶりにテープをかけたらテープが切れて、ラジオもカセットのところが分解して壊れた。本当にバネが飛んで、ぼろって自然分解したんだよ。「はにゃ?」です。もういいや、なんでもいいや。

 音楽はほとんどパソコンのCDで聞いているし。ラジオは、誰かにあげよう。そいつが意地でも直すだろう。烏はそう言うの、今はめんどくさい。切れたテープは実は、昔の合唱団時代の貴重な録音だったけどあきらめよう。そう言う運命だったんだって。もうこのフィリピン生活と、闘病生活で、烏は、すっかり運命論者です。なるようになってんだって。

 

 

                            リハビリ現地報告19

                              良いビサヤっ子

 

 笑けたことに悪魔のロザリーが自分でばらしたのか、村の家の人たちがロザリー行状を知って気をつけなさいよ。と、さんざん注意された。ロザリーは浮気して、他の男とできた子を偽って日本人ダイバーに育てさせているという豪儀な奴です。村の家には、まだランソーネスと言う果物がなっているのですが、だまっててもくれるのにくれくれとも云ったらしいし。一応、黙っているのが美徳なっですけどね。そして、相手が黙ってても、山ほど収穫物を土産に持たせるのも美徳だったりする。

 

 特に子供がひどかったらしく、「あの子はすっかり、母親の悪い性格を受け継いでいる」って。そう言われれば、村の家の女の子は小さいときから烏の荷物の中に欲しいものがあっても、じっと指くわえて「あげる」って云うまで我慢して見てる。これが良いビサヤッ子のしつけだよ。おっちゃん子供に甘いって。

 

 いやあー、2階で荷物の整理してたら、村の家の人が二人してこっそり忠告に来たので笑えました。そんで、「ロザリーのひどさは烏だけじゃなくて、日本人はみんな知っているから大丈夫だよ」って云っておきました。おっちゃんはちょっとこすかっらいけど、結局は全部知ってもロザリーみたいな疫病神をけり出せないという、人が良いと言うか、情に弱いというか。フィリピンの田舎に居着ちゃう日本人には、こんな情にほろっとってタイプが多いです。情が薄い奴の場合は、自分の子供でも捨てて逃げちゃう。

 ここにくると、まあこんな家族の出来方もあるのね、という不思議なファミリーのパターンをいくつか見受けます。

 

 まあ、烏の長い病院暮らしも、烏にとっては一種の疑似家族の中での治療だったんだけど。その病院の疑似家族(同室の患者さん)の中には、自分を「宇宙の女王様」だと思っている人もいた。烏は、いきなりその人に「あなたも宇宙人ね」と言われた。その時、烏はずっと日本で生き難いものを感じていたので「やっぱりそうだったか」と変に納得してしまった。不思議な不思議な家族ごっこでした。

 

  村の家の女の子に誕生日かクリスマスになったらあげようと思っていた、ティーンエイジャーのドレス(実はうちの姉ちゃんのお古)をあげたら大喜びで大喜びで。早速、着替えて鏡の前で、スカートひらひらさせてくるくる回っていた。そういや、烏クリスマスも、その子の誕生日の6月もここ数年こられてないしなあ。ちなみにその服は、烏は着たことないです。暗あぃ幼少期だったので。あまり華やかなことには縁がなかったねぇ。今もだけど。

  その子のママは、街の金持ちの坊ちゃんと恋愛して結婚の約束までしたのに、相手の母親が「家の格が違う。そんな貧乏人の子なんて許さない」と言って反対し。結局シングルマザーになってしまったので、その女の子はお父さんの顔を知りません。まあだから、情や結婚の問題って日本人男性に限らないんですけどね。それでもフィリピンの村の中で何一つ悪びれることもなく元気いっぱいに育っちゃうところが、大変にうらやまい人間関係でした。

 

 荷物を片づけていたら、沢山の調査用品を発見してしまった。ますます鬱になってしまうではないか。調査用品は、こちらの大学院にいた日本人の友達にあげたら良かったと思うほど。質問票を取るためのボードから、記録を分けるための一杯袋のついたファイルから、色分けしたファイル。聞き取り・記録用のノートまで一杯予備がある。もっと他にも調査機材はあるんだけど、また再び使えるほど元気になれるんだろうか。今の烏には、まさに豚に真珠だな。働き者のビサヤっ子になりきれない烏でした。

 

  ちなみにビサヤとは、フィリピンの中でマニラのあるルソン島と、カニのような形をしたおっきな島ミンダナオ島の間にあるごちゃごちゃした島々のことを云います。ビサヤはフィリピンの中でも所得が低く、貧しい人が多い所です。マニラでもお手伝いをしている人には、ビサヤの人が多くて働き者で知られています。

 ビサヤっ子とはセブアノ語で「ビスタック」と言います。「ビスタック コ(私はビサヤッコだよ)」と言うときは、ビサヤにいる限り胸を張ってられまが、マニラだと差別されます。その代わり、ビサヤにいてタガログ語しかしゃべれないと、「タガログマン シャー(タガログもんやで)」とちょっと嫌がられます。

 

  烏は、完全にビサヤッ子でセブアノ語(ビサヤの方言ですが一応リンガフランカです)しかしゃべれません。だもんで、マニラなどに行くとダガログ語がしゃべれないので「プロビンシャーノ オイ(田舎もん)」と言って馬鹿にされます。

 

  おまけですが、セブアノ語の2割はかつての植民地の宗主国だったスペイン語を語源としています。だのでスペインに行ったときも、相手の云っていることはおぼろげながら分かることもあったのですが、返事がセブアノ語だったので相手をきょとんとさせてました。

                              

 

                     リハビリ現地報告20

                             たとえ不十分でも

 

 来る前に、鬱がきつくて精神科の先生に「入院前の状態に戻してよ」って泣き言云ってしまいましたが。どうも、学校の諸先生方におかれては(未だに、親もだけど)、烏の症状への理解がない方が多く。もう以前のように、向こうを張って強がれなくなっているので、いろいろ余計なことを云われるとたまりません。

 実はフィリピンには、そう言ったうるさい状況から逃げてきているのかもしれない。なんて、だらだら書いているのかというと、荷物を出そうとしてゴミの山化した部屋を見たくない。のと、片づけるのに疲れたからだ。

 

 といいつつ、また一休みして続けてたら、ろくでもないものを見つけてしまった。結局は出さなかった手紙が沢山。出さなかった手紙は、今読み返しても涙が出そう。だけど相手にはわかんないだろなって思って出さなかったんだな。

 理解し合うにはお互いに持っているコンテキスとが違いすぎる。と思ってたり、果たしてこんなもん書いて、この状況が分かってもらえるのって。烏は変なところで完璧主義。分かんないなら分かんないなりに、通じないなら通じなくてそれでもコミュニケートする努力をすればよいものを、書くだけ書いて、途中で涙とともにためておいた手紙が沢山。結局、あきらめて出さなかったんだな。

 

  今は、もう少し前向き。分かんないなら分かんなくてもいいや、伝わらないなら伝わらなくてもいいや。烏は、烏のために吐く(書く)。と、あれ以前よりちょっと大人になった?受け取っている先生方は迷惑かもしれないだろうけれど。これが、この患者のリハビリ法の一つです。独自のリハビリが多いけど。

 

 

                            リハビリ現地報告2

                            ゲロ吐き烏

 

 久しぶりに、止めどなくゲロを吐いてしまいました。比喩的なゲロではなく本当の嘔吐。ちょっと今日は対人関係や、いろんなことで無理をした上に、いろいろと行き違いが重なって。10歳児には大変ストレスフルな1日でした。だもんで、また餓鬼道に落ちて、なんといつもの5倍のお菓子を食ってしまいました。食べ出したら、どうしてもどうしても止まらないの。これが始まると、理性君は死にます。

 

 その後あまりの苦しさに腹這いにすらなれず、お腹が張りすぎて気持ち悪いのを、気晴らししながらじっと耐えていたのですが。胃の物理的な限界を超えていたらしく、その上罪悪感が後押しいたようで。嘔吐が始まってしまいました。「あ、きぼち悪。」読む人も、さぞかし気持ち悪いこととは存じ上げますが。私の病態、および現地での状況をお知らせするという意味で書きますね。

 書けると云うことは、ようやく腹這いになっても吐かないほど収まったということなので。まあ、最後に食べてから4時間以上たっているので胃が空に近いので、書けるのですが。嘔吐中は薬も一緒に吐いてしまうので、ただ嵐が過ぎるのを待つように待つしかありません。一応、薬も飲んだけどさ。吸収されずに、すぐに外界にお戻りになったんだな、ああもったいな。

 

 1時間前に何とか嘔吐を押さえようとして、安定剤飲んで気晴らしにお習字もしようとしました。ところが腹這いになったとたん、胃が圧迫されて鼻から吐きました。鼻から半分消化されたえびせんが出てくるとは、「げげげげっ」ちゅう気持ち悪さです。もうトイレとまぶだち状態でした。だけどこちらの水洗トイレは日本のようにスムーズに流れてくれない。しょうがないので、自分の吐瀉物の上にかがみ込み続けましたが。これは、本当に最低だと思いました。 

 

 烏はいわゆる「過食嘔吐」を自主的にしません。過食嘔吐とは摂食障害の病態の一つで、短時間に大量に食べて、喉などに指をつっこんで吐くという行為です。吐くために食べている。食べることと、吐くこと、その両方でストレスを放出している状態です。烏は、吐くために指をつっこむことなんて、もったいなくてできないたちです。そんなローマ貴族のようなことができていたら、こんなフィリピンの田舎に来てません。だもんで、ずっと過食がつづいて、太っていったのですが。別の言い方をすると、容姿なんてどうでも良かったぐらい追い詰まっていたんですけどね。

 

 しかし、糖尿病と過食は両立しません。それでどうしていいか分からなくなって、激しく混乱をきたし3週間、全く食べられなかったのですが。点滴のバッグ捧げ持って、大学構内を走り回っていた頃です。いまは、過食および偏食(いわゆるご飯が食べられない。カロリー源の多くをパンや菓子類に依存している。)状態です。烏は「白いご飯が怖い」ので。ヨーロッパには白いご飯がなくて幸せでした。

 今回フィリピンに来てからも、ほとんど白飯を食べていません。たまに人と一緒でないと、ご飯らしきものも食べてません。ほとんどが、麺類かパンやお菓子。それでもできるだけスナック菓子は避けていたのですが。ここ数日、チョコレート菓子や、オイシイのスパイシー味(ほんとうに日本語で「おいしい」とかいてあるOishiというこちらのメーカーのお菓子)えびせんにはまってしまって。

 

 こっちに来てもあまりにも誰とも連絡を取らず、挨拶にも行かずの状態だったので気がとがめてました。烏、ここ数日「このままでいいの」とちょっと自分を追いつめていたかもしれません。だから、今週は少しは頑張って動こうとしてみました。それで、10歳児が耐えられるストレスの限界ていたようです。だから変なスナック菓子にはまり込んでしまったのかもと、自己分析してみたりはするのですが。

 (一応見本に研究室への土産はこの一連の「Oishi」ブランドの、おいしい?お菓子にしようかしら。吐くほどおいしいから。うっ、ちょっとそう言うことを考えるのも、今は気持ち悪いからやめよう。)

 

 

リハビリ現地報告22

                                頑張らない

 

 で、過食嘔吐を自主的にする方々ですと、もちろん消化吸収したくないわけですから、食べた直後からトイレにこもって自主的に嘔吐活動に入られます。だけど烏は別にそんなつもりもなく、「ああ、食っちまったぜ」と後悔の気持ちで一杯になっただけです。そして、気晴らしに、山から持って降りた段ボールに入っていた、昔の雑誌などをぺらぺら見ておりました。

 

 ら、心のどこかで「罪悪感君」と「まあいいや君」の駆け引きがあって、いつの間にか「罪悪感君」が勝ったのでしょう。(だいたい最大の気晴らしのお字書きが、苦しくてできないぐらい食うからじゃ。)突然、食後2時間もたった頃から嘔吐が始まってしまいました。もうこの状態だと、メインのハイカロリーな部分は腸に送られているはずです。

 烏の場合は、カロリーがどうのとは関係がなく「起こるときには、起こる」のです。たとえ、胃に未消化の糸こんにゃくや山菜、キノコしか残っていなくても。そのうえ、この手の嘔吐はいったん始まってしまうとよほどのことがない限り止まりません。しかも波状攻撃でおそってきます。

 いきなり全部吐いてしまうのではなく、胃がけいれんするかのように波のような嘔吐が連続して起こります。しかも吐き気とかいうものもなく、気がついたら口の中いっぱいにに嘔吐物がやってきていると言う状態です。だから、いつ次の「うっ」という波が来るかも分かりません。一番嘔吐の波がきついときは、ゲロのにおいが立ちこめる中「銀河鉄道の夜」を読みながら便器を抱えて待機しておりました。

  しかも、最低なことにいつ終わりかが分かりません。ちゃんと食事を取っていたら食事中の消化の悪い物が出てきたりして、あっそろそろ胃が空に近くなってきたなと分かるのですが。食事でなくずっとおやつだったので、どこら辺がめどか分かりません。で、だんだん吐瀉物の色が薄くなってきて、これは胃液かさっき飲んだ水の方が多いなと思っていたらようやく落ち着いた次第で、これを書いてます。

 

 吐くというのは胃の電解質バランスが壊れるし、体への負担が大きいので大変好ましくないのですが。まあしゃあないですね。入院中にはしょちゅうあったことだし。ホントいきなり始まるから、気がついたら靴の上に吐いてたり、病院の詰め所の洗面所で吐いてしまったことも。去年はひどかった。バイク乗りながら吐きつつ走ってた。 

 と、読む人まで巻き込んで気持ちの悪い思いをさせたので。Oishiやチョコレート過食から何とか離脱しよう。

 

  で、やっぱり病的状態は完治していないのだ。と言うことが、再確認できたので「あれをせねば、これをせねば」はひとまず置いておいて、静養に専念しよう。「無理はきかない」のだから。と強く自分に言い聞かせた。と、言う1日でした。

 

  しかし、ゲロ吐き烏が再発したって知ったら、おばちゃん(と烏が呼んで慕っている看護婦さん)は「ほれ見てみい。だからあたしはスペインに行くのは良いけど、フィリピンはだめやって云うたんや。あんた人間関係で頑張るから。」って云うやろな。やっぱりおばちゃんはえらい、プロです。あうー。

 

 でも、おばちゃんが心配するような、薬の飲み過ぎだけはしません。あれをやると、鼻からえびせんどころの苦しさではない、胃洗浄と導尿が待っている。そのうえ、薬でラリってったら、救急車を呼ぶこともどうもならんて(だいたい、ここだとどうやって呼べるんだ?)。持ってきた薬の数も限りがあるし。

 

 でも下宿の掃除の人は、絶対烏を怪しんでいるにちがいない。大量の駄菓子の袋。薬の山。むちゃくちゃ変則的な睡眠時間。野菜を一杯買ってきている割には、滅多に料理せずにどんどんしなびさせて行っている(料理をしたい気はあるんです。だから、このことについては大変心が痛んでいるんですけれどね)。枕元には、高価なバラの花が飾ってある(だって、バラの香りがするほうが寝やすいんだもん。だけど熱帯だから、熱くてすぐに花が開ききってしまうけど。)何をやっているか、怪しさ一杯の下宿人だった。

 

 それでもいったん外国に出たら、たとえボロボロになっても、何が何でも帰国する。その直後に入院しようと、「帰る」。それだけが外国に出たときの、最大にして唯一の責務だと思ってますから。

 

  だから「ここでも頑張らない」!と。堂々と宣言する次第です。学生としてはどうかと思うが、病人としては正しいのだ!と開き直ってふんぞり返ろう。

 

 それにしても気持ち悪い。

 

 

                           リハビリ現地報告2

                           烏ゲロを吐かれる

 

  この間から、ゲロ話ばかり続いていて申し訳ない。だけど、今回は烏がゲロを吐いたんじゃないから。ゲロを吐かれた話。それも原因は、烏じゃなくて船酔い。10月、11月のここらの海は、風がきつくて波が高くて荒れるのだ。特に午後は、他のシーズンに比べてびっくりするほど波頭が高い。

 

 烏は、子供の頃から良く乗り物酔いをしていて、特に車がだめだった。でも、なぜが電車は良い、とかいろいろあるんだけどさ(なかを自由に動き回れる乗り物だと良いらしい)。たとえば保育園の時に行った海水浴の帰り、乗っていたバスでものすごく気持ち悪くなった。バスは混んでいて、父親はバスの離れた席で眠りこけてる。仕方がないから、一人でバスの窓から首をつきだして昼食に食べたカレーライスを全部吐いたさ。周囲の人々は目が点になってたけど。もちろん、後で起きた父親にはそんなこと云わなかったけどね。昔から、親にはあまり何も言わない子だったようだ。

 

  でね、烏はフェリーには強い。どんなちっこくても耐えられる。なかを動けるからね。しかも、揺れるときは重心を体感的に捜し出して、そこで寝ちゃう。だめなのが、ジェットホイルのような高速船。座席指定だし。一度、ボホールからミンダナオまで、波のきついなか4時間乗って、吐いて吐いて死にかけた。だけど、なんだかアメリカのロードショー物のコミック映画のビデオをやっていて、お笑いのシーンの時は大丈夫でケタケタ笑ってて、お笑いのシーンじゃなくなると、とたんにゲーロゲロ。

 烏がノーマン・カズンズの「笑いと治癒力」を信じちゃうのは、ゲーロゲロ吐いてても、笑ったらとまるちゅう経験が積み重なっているからなんだな。人間笑ろうてなんぼです。ちょっと自傷症的ギャグがすぎると逆効果だけど。

 

 今回は、ちょっとまた余計なことをしに、向かいの島に出かけてしまいた。「ご静養中」なのに。小型のジェットホイルにのる機会があった。しかも夕方。

 

 沈みつつある夕日はどこまでも美しい。ビサヤの夕焼けは本当に美しいよ。透き通る淡い青空に、夏の雲の白ががさっとはかれて、その雲をキャンバスに茜色、スミレ色、黄金色、紫色幾重にも幾重にも薄い水彩絵の具を重ねた色が映って。しかも刻々と色が移り変わる。天が描く大カンバスの見事な芸術。そしてそれが海にうつり、ところどころに緑の島影が見える。本当にこの夕焼けを見るためだけに、来ても良いと思うぐらい。

 

  その美しい夕焼けを見ながら、烏は危ぶんでいた。だんだん緑の波頭が高くなる。この港に来てから、折り返すジェットホイルの来る時間が遅い。風もきつい。やばいぞ。かつて、それでいきなりジェットホイルのキャンセルがあったしな。たとえ来てもこれはかなり荒れるぞ。しかも、ミンダナオに行ったときの船よりずっと小さい。小さければ小さいほど、揺れるよ。一緒にいたインドネシア人やフィリピン人の若い女子学生がはしゃぐなか、一人烏はかなり危惧していた。「やばいよこれは」。

 

 それでも何とか、当該船はやってきて、別の船(この別の船で、去年とんでもない思いをした)越しに、何とか乗り込めた。で、幸いチケット番号も通路際(重心に近いほうが、揺れがまし)でやれやれと思っていたら、周囲の子が「マミサン、マミサン」と余計なサービス精神を出して、窓際に押し込んでくれた。ええっちゅうねん。でもそこで、あいかわらずNOといえない烏だった。この性格が烏をいつもとんでもない目に遭わせる、最大の元凶だっちゅうに。

 で、仕方がないから窓際に座って、この船に慣れたフィリピン人の女の子が気を利かせて、配ってくれた飴をなめながら、真っ暗なガラスに必死で頭を押しつけて、激しい揺れに耐えていた。あらかじめ安定剤を飲んでいたら良かったかな。今から飲んでも遅いかなと反問しながら。作用時間を計算して飲んでおけば良かった、とか。烏は普段から、飲んでいる量が多いけど。

 だから、窓に頭をぐりぐり押しつけながら、何度も何度も時計を見て、後30分ぐらい、後15分ぐらいでつくはず。薬が効くより先につくはず。そろそろドマゲッティの灯りが見えてるはずと、必死で耐えてた。

 

 そしたら、隣のフィリピン人の女の子がエーロエロ始めてしまいました。やっぱし。その船に乗りつけている子は、にっこり笑って通路際を取ったのに。その吐いた子はビギナーでした。通路際が一番、その意味を悟らんかい。危惧は当たった。だてに烏、しょっちゅうビサヤのいろんな島を巡ってた訳じゃないよ。こんな波の日に小型のジェットホイルに乗るのはな、吐きそうなジェットコースターに乗ってることと同じやねん。

 

 だけど、感情調整剤と精神安定剤を飲んで、この手の乗りもんに乗って平気なのはちょっと反則かも。と言う気がしないわけではない。2年前、日本で立ったまま乗るジェットコースターに「何が何でも(いつものことです)」乗ると主張し、友人を巻き添えにして乗ったことがあったのだ。

 烏は、今を去ること10年ぐらい前に、同じジェットコースターに乗って、怖くて怖くて大爆笑したことがある。それ以外の例を取っても、どうも以前の烏の感情の反応は他の人とずれが大きく誤解されやすい。怖いと笑ってしまったり。だからよく人から誤解されたんだけど。

 で、その同じジェットコースターに乗ってもう一度、自分の反応を見てみたかったのだ。そしたら、横で友達が「きゃーきゃー」と普通に恐怖で叫んでいるなか、ぐるんぐるん上下に回りつつ、ぼーっ空を見上げて「秋空がきれーだな」などと。どうも反応がおかしい。冷静すぎると思ったら、あっ薬のせいかと気がついた。友達にそう言ったら一言「卑怯者」と。はい、烏は卑怯者です。

 

 だってそうしないと、日々の生活そのものがジェットホイルに乗っているかのようなんだもん。感情の波が激しくて、通常の域を超えているんだもん。

 

 で、こうやってちょっと元気になると、余計なことをしに出かけたりするので、明日は倒れて死んでいるでしょう(結果的には、訳のわからん流動食過食に走ってました。牛乳かけたふにゃふにゃな食べ物をがつがつ飲み込むのはやめなさいって。でも鬱の時は、堅いものが食べられないんですう。)。いい加減自分が鬱やってわかれちゅうに。抗鬱剤を飲みながら余計なことしなさんなちゅうに。あきらめの悪いだだっ子、10歳だった。

 

 

                          リハビリ現地報告2

                             お薬の話

 

 ちなみに昨日、久々にいっぱいダニに食われました(これで、田舎で余計なことしたのがばれましたね)。ダニの食い口は、蚊と違って穴が二つなので分かりやすいです。手首の所なんかガンガンに腫れています。レスタミン軟膏を塗っても塗っても痛がゆいです。堅くなってかなり赤く腫れています。

 感情の反応だけでなく、免疫反応も異常に激しい烏だから。もうこれは、リンデロンでしょうか。それとも、掻きすぎて黴菌が入ったせいでしょうか。膿んできたらゲンタシンにしてみようかな。いまいち自分の使っている薬の使い分けが難しい。とりあえず順番に3種類塗っていったら少し腫れが引きました。どれが効いたのでしょうか?

 

 そのうえ昨日港で風のきついなか、しゃべってたらものすごく喉がかすれてきました。昨日あたりからトローチかイソジンでうがいが必要かなとも思っていたのですが、あいにく手元になかったので、のど飴でもいいやとも思ったのですが。

 そしたら突然、港でつれのインドネシア人の姉ちゃんに、有無を云わさず水とともにいきなり「なんだかよく分からない錠剤」を口に放り込まれました。後で喉の薬と云われたのですが、あれは何だったのでしょう?一瞬の隙をついて飲み込まされました。あれはいったい何やってん。気になる薬品名。

 

 今度海外に行くときは、是非、『京大おくすり手帳』の英訳版を下さいちゅうねん。しかも、商品名じゃなく物質名で書いてある奴。

  「新しく医師の診察を受けるときや、お薬を買ったりするときは『おくすり手帳』を医師、薬剤師に見せましょう。」ちゅうても日本語の商品名しか書いてへんやんけ。ちなみに糖尿病は、英語版糖尿手帳がある。そのうえ「お薬は正しく保管しましょう。直射日光を避け、湿気のない、涼しいところに保管しましょう」。っても直射日光は避けれても、これだけの量の薬を冷蔵庫に入れられへんしな。

 

 そういえば、前にいた下宿ではあまりに湿気が多くて、クローゼットのなかの物まで黴びるので、押入などの「湿気取り」を置いていてました。あっという間に、水が一杯たまります。日本の倍以上の速度でお取り替えラインまで水がたまります。その時のあまった湿気取りの予備は封を切らずに、新品状態で保管して置くことにしました。

 で、3年後に段ボールを開けると、見事に半分以上水がたまってました。それでほとんど使いでがなくなったので捨てました。あの銀色の密封の蓋は何だったんでしょう。毎年防虫剤とか黴び取り剤は欠かさず入れ替え、黒いビニール袋に入れて密封しておいたのに。まあ、フロッピーディスクが黴びるというサラワクよりましですか。

 

 

                     リハビリ現地報告2

                           花井せんせの世界?

 

 烏は名作「じゃりんこチエ」が大好きだ。なかでも烏はじゃりんこチエのなかに出てくる「花井せんせ」を尊敬してる。花井せんせは大学でなんかあったらしく、若い頃に大学の研究室を飛び出して小学校の先生になった。そんで主人公チエのお父さん?のテツの小学校時代の恩師になってしまった。でも密かに李白の研究をつづけていたんだな。気骨ある市井の研究者だ。

 

 烏が今、お習字しているお手本のなかで、せんせとゆうてもええ気がするのは、李白せんせだけ。白居易とかもぐだぐだゆうてるけど、李白せんせには勝てへんで。

 なんでかって?「めちゃくちゃやからやー」「あんなめちゃくちゃな奴おらへんわー」「勝たれへん」。白居易君が李白の墓についての詩を書いてるけど「さい石の大川のほとりの李白の墓。 墓辺の田の周りには、草が茂り、雲まで続いているかのようだ。 何ともまあ、この荒れた墓の下、黄泉に眠る骨が、天地をも驚かす名詩を作ったのだ。 詩人には不幸な者が多いが、あなた以上はないと言うほど、とりわけ落ちぶれてましたね。(石川忠久訳)」ほっといたれや、白居易君。

 李白せんせは「(有名な人の墓の)土台の石は欠け落ちて、すっかり苔が生えている。 名にしおう堕涙の碑も、これじゃあおしまい、その前で涙を流す人もいないし、悲しんでくれる人もいない。 だからまあ、死んでから先のことなんぞ心配してもしょうがない。美しい飾りとてどうせ灰になるだけ。 すずしい風とさやかな月影は、一文のかねも必要ない。」っていって酒ばっかり飲んでたんだから。

 

 そういやあ摂食障害で完全に、肉・魚が食べられなかった時代(あの当時は、肉のにおいがするだけでも吐き気が)、直ったら一番食べたかったのがジャンジャン横丁のどて焼きでした。180円、今も昔も変わらぬ良い値段。ただあの辺り一帯が、大阪市にこぎれいに整備されてしまったので、昔の怪しさというか熱気が半減して残念だけど。昔はあんなとこの飲み屋、女の子づれは入られへんかったのに、今は入れる。街がきれいになる。一見それはよいこと「かも」しれへんけど、それで住み辛うなる人も多いんやで。だからそれがええことなんか、ようわからんで。

 昔、釜ガ崎で医療ボランティアしてたとき、帰りに一人でどて焼き食べて酒飲んで帰ってた。釜ガ先の世界と自分が普段生きてる世界が、どうやってもすぐ結びつかへんかったから。で、まっすぐ電車に乗られへんで、間にワンクッションいった。で、どて焼き食べて2合ほどカーっとお酒飲んで、電車乗って帰ってた。

 そのジャンジャン横町や通天閣やら天王寺公園あたりが、ジャリンコチエの舞台なのだ。で、チエもホルモン焼き屋をやっている。そう言えば、「ホルモンうどん」というよそでは見たことないもん食べたんも釜ガ崎やったな。おっちゃんらと一緒に並んで、100円のお好み焼きこうたり。なぜか配給の弁当を一緒に食べてたりもした。

 

 そう言えば、どて焼きって、こっちで云うトッシーノに似てる。インドネシアだったらサテなんだろうけど、ちょっと違う。もっとみみちいし、お酒が付き物。港の近くとか、ちょっと裏ぶれた場所のいろんなとこに屋台がある。豚肉がみみちく・みみちく細切れになって、たれが付いて串にさして椰子殻炭であぶってある。ほんでサンミゲルとか、もっと安いレッドホース(まずい、悪酔いする)ってビール飲んだり、タンドアイ(サトウキビの糖蜜で作るラム酒)のコカコーラ割ちゅう、体に最悪の飲みもんでみんなできあがっちゃうの。

 

 ついでに、肉が食べられるようになったら、フィリピンで一番食べたかったのがこのトッシーノの鶏肉版。手羽先が一番好き。手羽先の骨までがじがじ囓んの。手で食べるし。所詮チープな烏だった。チープやけどB級グルメ。変なとこで、味にうるさい。

 何で、フィリピンに来てまで、烏は漢詩の本読んでお習字したりしてのかなあと思ったら、まるで花井せんせの世界みたいやなあとちょっと思った。勉強もしろよと思うけど。何の勉強したいんかも混乱してるし。まあいいや、しばらくこうやって遊んでよ。

 

 

                      リハビリ現地報告2

                  郵便でーす!

 

  やっぱり今日は鬱がきつくて、昨夜も睡眠状態が悪くしんどい。睡眠パターンが乱れるのが一番応える。続けて4時間ぐらいしか寝られないし。今、入眠困難、断眠、早朝覚醒といろんなパターンがでています。だもんで朝からずっと横になっていました。が、出さなきゃいけない手紙があるし、トイレットペーパーも切れかけてるし、牛乳もコーヒーもない。でも、郵便局は4時半に閉まる。しょうがないので夕方、パルパルバイクで出かけました。帰ってきたら、疲れ切っていて2時間ぐらいお夕寝したけど。

 

 郵便局にはいつものことだけど、おもくそ人が並んでいた。この街にはポストがないので、街に一つしかない中央郵便局(と言ってもしょぼいの)の、一つしかない窓口にいる愛想の悪いおばちゃんの所に出さなきゃなんないんです。ええ、烏は郵便物を出すだけでも、実はかなりのパワーを使っています。こっちの郵便局が開いている時間は月~金の8:304:30。しかも、昼休み1時間はたっぷり閉める。その上どれだけ人が並んでいようがおばちゃんは、おばちゃんのテンポでしか仕事しない。

 

 だったらメールつなげばいいのに(一番楽)、意地でもつながない烏だった。入院中はほとんどメール見なかったし(3ヶ月に一回ぐらい、まれに見た。と言うより捨てていた。連絡とかのメールが150通とか貯まってるもん。)。その上、日本でパソコン2台とプリンターも盗まれてから、さらにパソコンが嫌いに。それにインターネットも嫌い。情報過多で、不要な情報に振り回されて混乱するから。

 

 けっこう、入院中に始めたお習字のおかげで、筆で紙に字を書く「お字書き」が自分にあってることが分かった。それに入院中は、葉書か手紙以外は出さなかったし。相手も、それでしか連絡のとりようのない状態だったし、それで結構用が足りてた。IT革命とは無縁でありたい烏だった。入院中に携帯電話もなくしたし。結構それはそれですっきりして携帯を持たない方が楽な人になった。と、超アナクロ烏。でも、まあ作文や現地報告はワープロとラジカセ代わりのパソコンで書いてますけどね。

 それでリハビリ現地報告は、愛想の悪い郵便局から、能率の悪いフィリピンの郵便で研究室に送っています。そこから「申し訳ない」と思いながら研究室の秘書さんに学内便で出していただいております。とにかく、人手と手間がかかっとりますです。だからペッて送信を押したらおしまいではないので、我慢して読んでください。

 メールの簡便さ、と引き替えになくしてしまった心はありませんか。簡便さの裏返しに、無神経さがある部分を感じてしまう10歳児は、ちょっとメールが嫌いです。しかもオールユーザーとかのは、ことのほか。「あなたに」と言う対象性が消えてしまったようで。

 

  郵便局は烏の好きな海辺の公園に近いので、割に自分を励ましてゆけます。それでも行くだけで疲れ切ったときは、海辺の公園に面したところにあるドイツ人の店で本日のデザートを食べます。ここは嫁はんがフィリピン人、旦那がドイツ人の店で結構おいしいドイツソーセージとかライ麦パンを売っていたりします。

 ドイツハムの薫製を作って、この店に卸しているフィリピン人と結婚したドイツ人のおっさんもいます。日本人がフィリピン人の姉ちゃんと結婚すると、相手にたかられるだけのパターンが多いのに、ドイツ人はどうしてこうしっかりやってるのか驚きます。が、結局、夫婦関系のあり方の違いか知らんと思います。

 ちなみに、店の表の海辺のテラスには、若いフィリピン人のねーちゃんを連れた不良外人が複数、昼まっからビールを飲んでます。

 烏は、昼は客のいない店内で、一人でおやつとコーヒーです。本日のおやつは、ほうれん草入りキッシュパイでした(今日はいつもより、比較的健康的だった)。一昨日はマンゴーパイだった。いまんとこ、おやつが主食なもんで。はい。

 

 

                             リハビリ現地報告2

                     それまか縁の禅定か、賞嘆するにあまりあり

               (良寛の漢詩ばっかり写してたら抹香臭くなっちゃった)

 

 それでその後、頑張って街で唯一のデパート兼大型スーパーに行きました。で、コーヒーと牛乳をとって。いかんいかん駄菓子のコーナーに入っちゃいかん。と、ネギとグラノーラ(「去年の研修医にそんなまずいものをよく食べるな」とめちゃくちゃけなされた干しぶどうとか大麦の入ったコーンフレークみたいな奴です。高いです。でも、今は料理するのが難しいので。)と、便所紙をつかんでレジに行きました。

 鬱の時は、たったこれだけでもかごに入れて下げるのがきついです。今日はそれで、めまいと立ちくらみがして、「鬱だあこれ以上、外にはおられん。はよ帰って倒れて横になろう。」と思ったら。

 

 バイクのところで「マミ!」と叫ぶ人がいるじゃないですか。あ、村のおばちゃん達だ。ランソーネスを売りに来たところだったらしい。街が小さいもんで、いろんな人とはち合ることが多いんですよね。密かに見られてたり。去年は「糖尿病」と言っているくせにアイスクリームを2個食っていたのを見られてしまいした。そこで、村の人たちからは「いつ来るの。いつ又、来るの。」って。ありがたいんですけどね。鬱って云えないところが辛いのよ。

 

 村のおばちゃん達は、マミは重症の糖尿病だと信じています。「体が悪い」と。実は「頭が悪い」んですけど。鬱って云っても、村だったら、みんな心のままの「躁鬱病」みたい奴であふれてるから、云っても分からないだろうと思う。でも、村では大変に感情豊かな人たちも、村から街に降りてくるジープのなかでだんだん感情を殺しておとなしくなってしまうのだ。おらんちじゃない街は、ちょっと怖いみたい。 

 村では、クギハン(こつこつまめな働き者)か、タプラン(原則的には、怠け者。時にお祭り好き、まれに「やるときゃやるぜ、がってんだ親父」になることもあり。)のカテゴリーで分けられちゃうから。タプランのサブカテゴリーとして、フボゴン(酔っぱらい)、とかボゴイボゴイ(遊び人)とか、ギリンギリン(いっちゃってる、気が狂ってる)がありますが。例外的にクギハンでフボゴンな奴もいるけど。

 一応烏はこのカテゴリーのなかでは、クギハンに入れてもらってました。昔、一生懸命調査してたから。だから烏は、今は(実は前から)タプランのコーナーへ移行したんだよお、と云っても信じてもらえないでしょう。

 

 で、精神科的に、ここの文化特有の事例としてはアモックがあります。ニューギニアでアモックがあるのは知ってましたが。ここでもアモックはアモックと呼ばれています。いきなりプッツンして、刃物とか持って走り回って周囲の人を傷つけまわるの。ランニングアモックとも呼ばれている奴。いやあ、かつてスンダン(山刀)持って走ってきたアモックから逃げてきた人や、傷つけられた人に会って驚きましたが。アモックは発作がすむとけろっとしてるんだけど。取り押さえるのが大変なのだった。

 かつてアモックになった人に会ったけれど、アモックになった時は母親を叩き切ろうとして、兄貴にエアガンで撃たれて取り押さえらえたらしい。烏が会ったときにはすっかり普通のフボゴンなお人好しでした。そのエアガンに、もっと空気が一杯詰まってたら死んでいたと、けらけら笑いながら眉間の傷も見せてくれました。

 

 で、こんな村なんですけど。これじゃあ鬱も説明できないし、摂食障害はもっと説明できないと思いません?この前、烏についた精神科の研修医に「アモックって知ってる?」って聞いたら「知らん」って。うーむ、たまには社会学とか人類学も勉強しろよ。それぞれの文化に固有の精神疾患があって、文化や社会と精神疾患のありようは切り離せないんだぞ。

 

 それで明日の午後、ちょっと村を覗く約束をしてしまった。またバイクで上がるんかいなぁ。がうん、がうんって、はぁ。でも、まあ下に置いておいてもしゃあない蚊帳とかも、持って降りちゃったから持って上がろう。

 

 その上、今日会った時に売りものの八丁ササゲを沢山もらってしまった。知ってます?八丁ササゲ。日本でも時々作ってるんですけど、長ーいサヤインゲン。1mぐらいあるの。この体を起こすのも難しい烏に、どないせいちゅうんじゃ。今、料理もできないちゅうに。おやつか、いいとこグラノーラをざらざら牛乳で流し込んでいるというのに。流動食烏は、コーヒーを入れるので精一杯。せいぜい3年物のレトルトおかゆにネギ入れるとか。この八丁ササゲ、大家さんに半分あげようかな。

 

 

                            リハビリ現地報告2

手紙をもらった

 

  今日3通まとめて手紙を受け取りました。ちょっと遠出した件が引っ張って、相変わらずどよーんと鬱です。体調が悪い。痰が絡みまくって、喉の調子がめちゃくちゃ悪い。鬱が悪化して、眠剤飲んでも朝の4時まで眠れなかった。最近、1000mgに減らせたはずのテグレトールを再び1200mgに戻してます。そうしないと、どうしても眠れない。

 

 で、朝の11頃起きて(と言うか大家んちの生活音で目が覚めた)、コーヒーをぼーっと沸かしながら、もそもそコーンフレーク(最近、流動食過食ぎみ。何か食うためでないと硬直したまま動けない。)を食ってたら、めっちゃくちゃハイテンションの大家さんに、「Good Morning!」って。こっちは口中コーンフレークだらけだし、テンションは低いしとてもGoodって云えずに、ようやくなさけなく「Morning」って返事しました。で、ご機嫌の大家に、冷蔵庫の中でぐるぐるとぐろを巻いている八丁ササゲを、半分以上をあげました。

  

 それから、日本から来た手紙受け取りました。  手紙の消印を見たら3通とも別の人が同じ日に出していて、11日ばかりで届いており、さすがにハイウェイのこっち側(街の中心側)は違うわ。と感心しました。かつてハイウェイのあっち側に住んでいたときには、2週間以上かかってたもんな。同じ街でも都会やー、ここは。

 

 母親からの手紙は達筆すぎて、何が書いてあるのかようわからんかった。絵手紙を習い初めてから、行書だか草書だかイトミミズが暴れたような字を書きよる。人の字を汚い汚いとけなし続けてきたくせに、だったら万民に分かる字を書けと思う。

 ちなみに文字の発達の歴史をさかのぼると、楷書が一番最後にできたらしい。文字文化の発達の最後の形。だから烏は堂々と楷書しか書かない(他の字体を知らんだけという話もある。)。旧字体はなぜその字が、こういった意味を表すのか分かって好きだけれど。

 だから、思わず「読める字で書け」と返事してしまいました。母親にしてみればショックでしょうが。10歳児に分からん字を書くな。小学校の先生だったんだから、小学校の4年生にでも分かる字を書けっちゅうに。いまいち、娘の精神状態が分かっていない人だった。親心子知らずと言うけれど、読めん字で書いてあったら知りようもないわい。

 

  ほんで、郵便屋さんをしている摂食障害で入院中の姉ちゃんからも手紙をもらった。11月から職場復帰するつもりが、引き留められてめっちゃショックだと書いてあった。わはははは。烏もだよ。2年前の11月には、フィールドに復帰しているはずがそれから1年以上病院にいたもんな。そんで今回フィールドに戻ってきても、ままならない体。3歩進んで2歩下がる。じゃなくて、1歩進んで、2歩下がるだもん。

 烏がこの夏、熱帯魚を飼っていたベッドで寝起きしているらしい。彼女も子供の頃から摂食症が続いているという珍しい人なので、まあ烏のように子供に還って楽しくやって下さいと言いたいけれど。ちょっと今はそれを受け入れるのは無理かな。不甲斐ない自分に泣いてるって。ここの郵便屋のおばちゃんのように、どれだけ列が並んでいてもマイペースちゅう訳にはいかんらしい。

 そういやあ昨日、おばちゃんは切手代のおつりを間違えて5P15円ぐらい)多くくれた。あとで気がついたので、そのことで心が激しく痛んだ。でも、今日行ってみたら、いつもの調子で淡々と無愛想(えらそう、かつ乱暴)に仕事をしていたので、あれーそんなことは問題にもならんかったんかいなぁ。と、おつりが多かったことは黙っていることにした。たぶん、その入院している郵便屋さんの子が聞いたら仰天するだろうけど。

 些細なことは気にされない、いい加減な国にだった。「あー、おつり多くもらってしまった」と気に病んだ烏は、些細なことでストレス貯めて活性酸素の貯金をしたようなものだった。もっとフィリピン人に慣れんと。と言うか、ならんと。

 

 

                           リハビリ現地報告2

                              降れば土砂降り

 

  とりあえず、昨日山に上がるよと云ってしまったので、背中の痛みに耐えつつコルセットをし、痛み止めと安定剤を多めに飲んで、よろよろと出かけることにしました。郵便局のおばちゃんのところで「何書いてあるか読めん」という、葉書を出すついでに。天気も良いことだし。

 

 幸い、州の事業で道の途中まで改修が進んでいるので、去年より上がるのがちょっとは楽です。でも途中からやっぱり、がうんがうんがうん。この運動音痴で、こと平衡感覚が人より劣っている烏が、1速と2速のギアチェンジをこまめに繰り返す。ほんと、ほとんど気を抜けない道を上がっていくんです。バイク歴20年で慎重な人が、雨の夜にこけて5針も縫ったというような道です。

 ちなみにパルパルバイクは、日本で云うカブでしかも郵便屋さん色の赤です(いやあ、もうバイク買うなら、郵便屋さんと同じ赤のカブって決めてましたから)。で、去年も嘘つき牧師に怒っていたのに、「クソぼけ、いてまうぞワレ」という力のなかった烏は、怒りのあまりバイクに落書きしたくりました。

 仏陀の絵は削られていましたが。「烏号」とか、あくまで「ありがとう」「ごめんなさい」と言わない牧師のかわりにこれらの言葉を大書してやりました。精神科のとある窓辺の作品と同じような表現が、バイク全体になされているのですね。

 ここではバイクの盗難が多いのですが、幸い烏のバイクは一目で分かります。結果的に「取れるもんなら取ってみ、オンドレ」仕様になってます。実益をかねた、5歳児のみごとな作品です。

 

 で、話を戻すと山に登っても午後だというのに珍しく天気がよい。だまされましたね、すかっり。山の天気は変わりやすいってことに。ひさびさにゆっくり、だらだらよもやま話をしておりました。体がえらいので、寝椅子に寝そべりながら。

 

 じいちゃんの誕生日が近いので、今年はレチョン(子豚の丸焼き)がないというので、代わりに烏が街から鶏の丸焼きを買ってくだのと。去年、せっかく高いケーキを買ってきたら当のじいちゃんには受けなかったので。じいちゃんは慣れない食べ物は、好きでないらしい。

 おばちゃんは、「ケーキは美味しい、大好き」とか云ってましたけど。おばちゃん「あんたも糖尿病やろ、ええんかそんなんで。」って、人のこと云えへんから黙ってたけど。「2月に子宮筋腫の手術をするっちゅうに、血糖コントロールはどないなってんねん。」って、云えへんかったけど。ねえ、婦人科の先生。云ってもしゃあないこと、切ないことはもう云われへん烏でした。昔やったら怒ってたけど。おばちゃんのために、たぶんケーキも買っていくんだろうな烏、ああ。どうしたら良いんでしょう、糖尿科の先生。

 

 ら、やっぱり雲がかかってきたじゃないですか。やばいんちゃうん。でもまだ薄雲やしいいか、と思ってランソーネスを食べながら、だらだら話をしてました。そしたら、やはり天候は刻々と変わってくる。これは来るぞと思って、「街に降りるわ」って云ったらランソーネスを持たせてくれました。

 そこで、ついでに降りる用のある人がいたので後ろに乗せて降りようとしました。たら、やっぱり、乗り出してしばらくしたらザーッて。もう土砂降り。後ろから傘を差し掛けてくれるのですが、眼鏡さえ濡れなければ何とか走れるけど、もうびしょぬれ。

 

 おまけに途中からガスガスガスって、妙な音がする。あ、久々のパンクの音。わお。後ろの人はその先でおろして、その人は乗り合いバイクに。で、烏は一人で街へ降りる途中の道でパンク修理屋を探し回りました。パンク修理屋は、街中だと専業でやっている場所があるので見つけやすいんですけど、町外れだと見つけるの大変。営業してたら見つけやすいんですけど、町外れだと副業でやっている場合が多いので誰が修理やなんだか分からない。もういろんな人に聞いて、聞いて聞いて聞き倒して、修理屋というか修理もするおっさんを見つけました。

 烏、セブアノ語が分かんないところではバイク乗る自信がないです。ホント。故障や事故に対応できないし。田舎にはガソリンスタンドはもちろんないので、ガソリンがそこらの家でコーラの瓶に入れて売られてる。田舎の人は英語なんてわからんし。

 ちなみに、今回見つけた修理屋のおっさんは女房がご飯の屋台をしてて、自分はビニールシートの屋根だけのビリヤード屋だった。

 

 で、ここのパンク修理は暇かかる。まず水に沈めて空気漏れの場所を探すところまでは日本と一緒。そこからが違う。その穴の周辺をグラインダーではなくヤスリで削って、適当なゴムをはっつける。そして、その適当なゴムの切れっ端とタイヤのチューブが、まったりと解け合うまで、チューブを締め付けた上に火を乗せ永らくあぶる。大変気の長い作業です。おっさん火であぶってる間ビリヤード見に行ってましたもん。

 で、お金がちょっきりでなかったので、そこいらのガキに金を持たせ使いに出して、向かいの屋台に両替に行ってもらいました。今、街中だと3年前はほとんどおつりがなくて使えなかった高額紙幣(ちゅうても、300円とか1500円だけど)が割に使えるようになっては来ているのですが。田舎エリアは昔と一緒ですねぇ。ちなみに修理代は、60円ちょっとでした。

 いやあその間は、烏いらいらと緊張がとんでもなく高まりましたとも。途中、雨はザアザア降って気分は落ち込むし。しかも穴があいていただけでなく、空気を入れるところのムシまで壊れてて。結局、別の中古タイヤのムシを代わりにくっつけて、おっさんの唾で蓋をすることで収まりましたが。急に「わおぉ、追加の安定剤、安定剤がいるぅ」という全身硬直の緊張ものでした。

 

 で、その後何とかバイクは走り出せたのですが、薬はすぐには効きません。そのまま緊張と硬直が続くなか、急に横から出てきた車をガッとさけ「オンドレ、何さらすんじゃあ」と絶叫し、ぶち切れたままバイクを飛ばしてしまいました。でも、あの時テンションが高くなかったら、車を避けきれず事故られてに違いありません。

 ら、途中で追加した安定剤が効いてきたらしく、もとのパルパル状態に。でも、あんまりパルパル状態だと車やバイクの波に乗れずに、それもまた危険なんですけどね。ぼーっなっているから。

 

  と言う、降れば土砂降りの一日でした。それにしても、無理が続いているから腰はめちゃめちゃ痛いわ、痰の絡んだ咳はとまらんわ。やな予感。

 

 

                          リハビリ現地報告3

                           烏ゲロの海に沈む

 

 なんか毎回ゲロの話ですが。今度は烏はゲロを吐いて倒れ、というか、倒れてゲロを吐き、ゲロの海に沈みました。今回は「摂食」の問題ではなくお薬の話。 

 

 ここのところ夜間に眠れなくて、眠れなくて。眠剤の効きがおかしい。断眠に次ぐ断眠で、熟睡感が乏しくたまりません。「さあ寝るぞ」って、ベッドも整え、電気も消し、眠れるお香なんか焚いてみて、完璧にお眠り体制に入ってから、お薬を飲んでも眠れない。

 それに変な眠剤酔いをするようになった。明らかに酔ってるのにお習字を始めたり。朝になったら床が、散らばった紙やあやまってつけた墨で、もうめちゃくちゃ。李白先生や良寛さん(良寛にも酒を飲んで詩をひねるのが楽しい、と言う詩がある)じゃないから、酔って書いてもただの紙の無駄。と最近は中途覚醒にも困ってます。とにかく眠剤酔いしている間だけは、何があっても「外に出ない」ようにだけはしようと思ってます。ここだと「外に出ること=バイクに乗ること」になるので。

 そのうえ、ふらふら中途覚醒したときに、眼鏡をどこか適当に置いて、又寝入るらしくて毎朝の眼鏡探しが大変です。見えない目で宝探しをしているようなものです。だから、自分をちゃんと寝かしつけようと、また眠剤が増えます。

 

 でもちょっと元気になると、すぐに余計なことをして反動で鬱が悪化したり。最近はUp Dawn が激しく、自分に振り回されています。それでも、なるべく無理はせんとこうと下宿におこもりしています。とにかく食べ物の供与がこの下宿にはないので、料理する気力がないから、外には少しは出なくちゃいけないし。ほんと、日中に疲れてひっくり返っていることが多いです。それも睡眠障害の原因の一つでしょうが。頑張って1日起きてたときも眠られないので、原因はよく分かりません。

 

 で、今回のゲロ話になるのですが、今回はどうもお薬のせいではないか、と。ただでさえ眠剤の量が増えているのに眠りが浅いので、大家の生活音で起きることが多いのです。すると、眠剤が引っ張ってる(眠剤の効果がまだ残っていてぼーっとしている)けど朝だしな、起きたしな、朝のお薬を飲まんと。と、薬を飲んで、モーローとしたまま買ってあったものを、昨日入れた残りのミルクコーヒーやお茶で食べてのみます。朝からお湯沸かす気力ないですもん。

 

 有り体に言うと、烏は、今、感情調整剤(抗躁剤)と言う、気分を下げて感情を一定にするお薬と、抗うつ剤と云う気分をあげるお薬と、安定剤と言う気分を穏やかにするお薬を飲んます。つまり、お薬でアクセルやブレーキをかけ安定走行をはかって「烏号」という体の運転をしているのですね。何故、抗躁剤を使うかというと感覚が異常に鋭敏になっていて、ちょっとしたことでもたまらなくなる事が多いから。

 

 それで、今朝は十時過ぎに、ハイテンションの大家の話し声で(何でいつもあの人はあんなに元気なんでしょう)起きてお薬を飲みました。でも、鬱ベースだから朝はどよーんとしか動けない。だから朝は横になっている(最近は腹這い)になっていることが多い。だけど、30分ぐらいしてくると抗うつ剤が効いてくるから、動けるようになってくる。

 それで今日は、午前中に郵便物を出してしまおうと、薬を飲んで30分ぐらいしてから、しゃきしゃきバイクに乗って出かけました。ちなみに抗躁剤が効いてくるのは、飲んで1時間ぐらいたってからです。だから作用時間のずれる30分だけ「異様に」しゃきしゃきした人になりやすくて出かけました。

 

 で、郵便局に行く途中、今度は前輪がパンクしているのが発見されました(こないだは後輪)。だいたい街中でも、道路のメンテナンスがかなり悪いちゅうか、メンテナンスなんかされてないちゅう道がほとんどなので、穴だらけの道が多い。だから、たとえ舗装されていて油断がまったくなりません。

 

 とりあえず郵便物だけ出して、街のパンク修理屋さんの所に行きました。街には、ハイウェイ沿いに何軒か修理屋が固まっているところがあります。で、その一番手前の修理屋に行ったら、ちょうど12時頃だったしおっちゃんは飯時だったらしい。

 で、おっちゃんはここらの金のない人の標準的な昼飯を食っていた。要するにてんこ盛りのご飯とサバウ(肉か魚が申し訳程度にちょっと入ってて、菜っぱなんか浮いている汁)、日本でいうところのご飯とみそ汁です。「いいよ、ご飯食べてからで」と、烏は、すでに抗躁剤が効いてきて、ぼーっとした人になっていますから。穏やかな気分で待つことにしました。もはや、わざわざハイウェイを渡って反対側ある修理屋に行く気力もなくなっている。

 

 でもおっちゃんは、「いいよ、いいよ、わしら貧乏だから仕事のあるときに仕事をせんと」「それにお前は、昔は反対側の店のスキだっただろう。」いやあよく覚えてるもんですね。そんな2年も3年も前の話を。「うん、だけど。ハイウェイ渡るの怖いし」。確かに、ハイウェイだけではなくてここ2~3年で街全体の交通量は倍以上に増えています。そんな中、パンク状態でガスガスガスガスって渡るのはすでに鬱になっている烏には怖い。

  おっちゃんがチューブを取り出すと、それはパンクどころではなくムシの所から数センチに渡って裂けてました。「取り替えなきゃな」「うん、チューブごと取り替えて」ってことになった。それで、おっちゃんの所にある他の中古チューブ!とお取り替えになりました。まあ、ここではよっぽどなことがないかぎり新品じゃないといや!なんて贅沢は言ってられませんから。(と言う割には他の部分の修理には、ホンダの販売店の裏で修理をやっているスキの兄ちゃんに頼み「マレーシア製ホンダ!」の純正品を使っているのですが。)

 

 それで、朝からものすごく仕事をした気になって、自分にご褒美をあげるために近くのケーキ屋さん(街で唯一)に行きました。ケーキ屋さんの姉ちゃんと烏は、もはやスキです。毎日、行っているような気がする。1日に1食はケーキなの。だけど日本のコンビニみたいに「どこでも」ある訳じゃないから、このケーキ屋に行ってる限り、過食にはならないのだった。だって恭しく、姉ちゃんがスライスしてくれた一切れだけだもん(それでも、こっちの人からすると高いです)。

 だから烏がチョコレートチーズケーキ(オレオチーズケーキという日本では見たことのない希代なものですが、けっこうおいしい。)とインスタントじゃないコーヒー(と指定しない限り、この国ではだいたいネスカフェがでる。)が、好きなのも知ってくれています。

 それで、「今日はオレオチーズケーキあるわよー(いつも同じものがあると限らないところが又この国らしいのだけれど)、それとコーヒーでしょう」って姉ちゃんの方が先に行ってくれて、「うん」って答えました。それを食べて、お昼ご飯をしたつもりになって12時半過ぎに、又お昼の薬を飲みました。そしたら、又30分だけ余計に元気になってしまいました。

 

 そういやあこのケーキ屋の近所の大学病院(街で3つしかない総合病院の一つ)に、山の親戚のマリセールが入院してるって云ってたよな。と思って、ケーキ屋さんでマリセールのお見舞いにチョコレートのお菓子を買ってしまいました。だけどよく考えたら烏は、マリセールの本名を知りません。

 一般的にフィリピン人は、本名を呼び合わないのです。だいたい山のおばちゃんだって、さんざん世話になったくせに、みんながずっと通称のイキアムとしか呼ばないので、本名がペリグレーナなんて最後まで覚えきれなかったほどです。しかもマリセールは、結婚してるから名字も違う。

 でも元気になっているので、山まで上がってマリセールについて聞いてきて、ついでに誰か見舞いに行く人が連れてこようかと思いました。が、山に上がる途中で30分のタイムリミットが切れ(ウルトラマンみたいです)クヤのビッグを探しに行きました。クヤとは義理のお兄さんという意味です。確かビッグは、この道沿いの街の浄水場で働いているよなって。で、浄水場に行ってみたら、ビッグは今日はもう一つの浄水場にいると言うではありませんか。で、だいたいの場所を聞いて走ってみても、よく分かりません。それに途中で、ものすごく抗躁剤が効いてきてだるくて眠くなってきました。

 

 こりゃいかん、と思いあわっててハイウェイを引き返し(途中でエンストして死にかけましたが)下宿に帰ってとりあえず、ミルクコーヒーを飲んで、例のお見舞いにするはずのお菓子を食べかけました。ら、もう食べようとする意識ももたない。だから決して過食ではないのです。それで、お習字の散らばる床に倒れ込みました。よく考えたら、朝と昼は2時間しか間をあけないで薬を飲んでいる。抗鬱剤はともかく、抗躁剤は普段から人体の限界量まで飲んでいます。

 で、異常に薬の血中濃度が上がったためでしょう。なんとか体の薬の濃度を下げようと、胃が反応したに違いありません。床に突っ伏して起きあがる力もないままに、ゲーロゲロ。オレオチーズケーキがこちらの世界にお戻りに。なにしろもともとが柔らかいもんですからね。既に液状化されておられました。それでゲロの海に。ようよう近くにあった水のペットボトルの水を多少飲み、5時間はそのまま死体化していました。

 

 午後疲れて死んでるっていっても、普段ならせいぜい1時間半か2時間で回復するのに、今日は丸5時間、数ミリも指先さえ動かせない状態でお亡くなりになっていました。眠っていたわけではなく、倒れていた後ろのドアが網戸のままで、通路をお手伝いさんが通るたびになんとかしなきゃ。とかせめてベッドに乗りたい。とかゲロを拭きたい、とか今はいったい何時とか、ずーっと意識はあったんですよ。

 

 脳梗塞の人の気持ちが嫌と云うほど分かる5時間でしたとも。意識と体がこれほど離れる経験は少ないでしょう。でもぴくりとも体が動かない。情けないぐらい動かない。

 

「体は脳が動かしてんだよ!!!!」ちゅうことが嫌と云うほどわかりました。

 

  5時間たってようやく薬を肝臓がある程度、分解し終わったのでしょう。徐々に動けるようになって、ゲロまみれの床を拭こうとしたら、既にゲロはコベコベに乾いておりました。それにしても抗精神薬ちゅうのはあつがいが要注意だよな。今までも分かってたけど。今まで以上に、気をつけようという反省の1日でした。

 

 

                          リハビリ現地報告3

ああああ?

 

  うぉ、なんか左肩がかゆいなと思ってTシャツ脱いだら左肩から二の腕にかけて、全面に無数の赤い発疹が。蕁麻疹じゃなくてダニに噛まれたようだぞ。一部脇から胸にぽつぽつ渡っているし、たぶん。なんで?今日は山に上がらなかったし。

 

 昔、調査してたときはよくあったけど。山の果樹園の調査ったって、ごちゃごちゃ果物の木が植わってて、下草も一杯生えてる森みたいなもんだもん。その調査をしていたときは、よく木の上からダニが落ちてきて、それが襟からはいると襟首から上半身、さらには足の先までやられる。ようは体半分やられ、発疹だらけになる。だから毎日首にタオル巻いて、ダニが入らないよう防御に努めていた。

 それに、山だと毎日水浴びできるわけでもない。未だに庭の隅のドラム缶にためた水をくんで、天気の良い時に服の上からかぶるだけ。

  山にはマリガスというアリもいた。これが人を噛む。畑の調査をしているときに巣を踏んで、一瞬でわわっとたかられ、足首を十数カ所噛まれて熱出して寝込んだ。それ以来、足首まであるスニーカーはいてしか、畑には入らなくなったんだよな。いくらこちらの人がゴムゾーリでも、素足でも。体質が違うんだよ。

 

 海外に出るときに山のように、軟膏類や薬を持たせてもらうのは、こういう油断のならない生き物がいて、油断のならない反応をする烏がいるからだ。しかし、この発疹はほんまにダニか?Tシャツについていたのかも。Tシャツ干してたときについたのか?すぐに全身お召し替えじゃ。シャワー浴びてこ。

 今日は、マンゴーの木とかアメリカアカシアの枝落としの下とか通ったから、そのときに落ちてきたのか?だけどバイクで一瞬、通りすがったんだけなんだけどなあ。こちらの人にはとって、どうでもいい「原因」について考える烏でした。もっと、「現象」に対応せんといかんのにな。ようはその分、現実への対応能力が低いのだった。

 とりあえず薬用石鹸で洗ってみました。で。後でレスタミン軟膏をたっぷり塗り込んでみました。蕁麻疹にしては発疹が集中していない。ばらつきがあってあっちこっちに島のように固まってる。これは蕁麻疹では決してない。既になんとなく、かゆいかゆいと思っていた烏に掻きむしられている。で、レスタミンが効かなければリンデロンで、掻きむしった後はゲンタシンなんだよな。ううううううう。

 

 蚊にも刺されにくけりゃ、蚊に刺されても腫れもしない、掻きむしってもへのカッパという人がいますが(うちの教授か?)。烏はそう言う人がうらやましいです。蚊に刺されやすいし、蚊に刺されたら人の倍か3倍は腫れるし(抗原抗体反応が激しいに違いない)、腫れたらかゆいから、無意識で血が出るまで掻きむしるし、掻きむしってかさぶたができたら20回ぐらいはがします。このかさぶたはがしは「自己確認」のせい。と、うちの精神科の先生に云われましたが。こんなことで自己確認したないわい。でも、無意識にやってるから止めようがない。

 

  ちなみに以前ここで足の甲を蚊に噛まれ、掻きむしって化膿したことがある。これもお得意のかさぶたはがしと、雨期だったせいで傷が乾かず悪化したんだよな。足首がサラミみたいに赤白まだらになって、足首も分からないぐらい太いハムほど足の全体が腫れた。それで足を地面につけられないほど痛くなって、歩けなくなって片足でケンケンして大学病院に行った。

 そしたら医者が鼻歌歌いながら、直径5cmぐらいになった膿だまりから膿をぐりぐり掻き出してくれた。だけど麻酔も何にもなしだし、こっちは痛くて絶叫阿鼻叫喚ものでした。エマージェンシーの診察台についている手すりを両手でがしって握って、歯を食いしばって「うおおおおおおおおお」って耐えたら、診察台ががたがた揺れました。でも当時その大学の学生だったから学割が1割きいたんだよな。京大病院も学割効けばいいのにね。

 何故、烏がフィリピンに行くって行ったら、たくさん薬を持たせてとリクエストが多いのか、これで分かってくれるとうれしいです。

 

 

                    リハビリ現地報告3

いっそおしっこの話もしちゃえ

 

 ゲロとか膿の話しかないと、また教授が怒るよな。今年度でご退官遊ばされる、うちの研究室の教授はシモネタが嫌いです。別にシモネタが嫌いなのは、烏10歳としても喜ばしいのですが、かつてはウンコやトイレネタもお嫌いでした。お酒の席で、ウンコの話をしただけで激怒してましたもん。生き物なんて、口から入れて排泄口から出してなんぼのもんやろう。余裕があったりもしくは、生存の危機の時に繁殖するんや。生き物が「排泄」できなかったら死んでるちゅうに。と言うのが烏の見解なんですが。

 

 ウンコの話は食べ物の話と同じぐらい大事だって。そこで認識が一致している烏とお魚先生は、楽しくウンコネタを話していたのに激怒する教授に、きょとんとしたものです。ところが同じ教授が、排泄物から「生態を探るだの」、排泄物がいかに大事かという話をどこかで聞いてきたらしく60歳を過ぎてから、いっぺんに認識を改めたというのにも、きょとんとしました。

 芦生の京大の演習林に実習に行った時に、動物の生態の調査をしていた学生に、狸のウンコを自ら御突きになり「これで何が分かるかね」と話を振ってきたので、びっくりしましたもん。が、ご本尊はけろっとしたものです。

 60歳を過ぎても認識を改める力があるのがうちの教授の良いところですが、認識が改まるまでのクソ頑固じじいぶりは何とかならないのでしょうか。いくら自分と異なった認識を持った人に、ああも頑固に自分の主張をせんでもいいのに。だから急に認識が改まったときに、相手がきょとんとしたり、おののくんだって。退官するまでに「物忘れ外来」のパンフレットでも持ってきてあげようかな。ちったあ、以前の言動を自分を思い出せちゅうに。

 

 教授と違って、烏の生活はトイレとまぶだちでした。幸い、今まで教授が「ゲロ」とか「排泄」で苦しむことがなかったから「トイレ」ネタを軽蔑できたんですって。そのうちよぼついて、嚥下能力が低下したり、括約筋や泌尿器系に障害が出てきたら、もっとゲロやトイレネタが愛おしくなるぞ。と言うか死活問題になってくるぞ。そのとき、本当に「トイレ」に会えて良かった、トイレって大事だと思うぞよ。先生の好きな汎神論には、ちゃんと厠の神様もいるんだから。

 だいたい、女の人にとっては普段からトイレのありようは重要だもんな。中国にいたとき(何故か昔短期留学をしていた)、溝トイレやら、ドアなしトイレやらになんとか慣れたけど、女の子には婦人科的に苦痛な場合があるんですって。立ちションできるわけでなし。中国で、一度だけいわゆる高級ホテルの「化粧室」に入ったら、へたり込むほどうれしかったもん。

 

 ちなみにフィリピンの田舎で、ずっと田舎の人と一緒に生活するには「アリヌーラ」と呼ばれるオマルが使えるかどうかが、分かれ道かと思われます。アリヌーラとは取っ手のついた蓋つきバケツです。最近のはプラスチック製です。一度、鍋と共有している家があると聞いて唖然としました。まあ、洗えば上も下も一緒なんだろうけど。

 フィリピンの家はだいたいが、夜になったら家じゅう鍵をかけちゃうのだ。で、田舎では、もともとトイレはないかあっても家の外だから、部屋ごとに(って、いったって何部屋もないけど)アリヌーラが配られる。そんで部屋ごとのしきりも、そんなたいしてきちんとしてないから、おならもおしっこも下痢の音も家中に響き渡る。人のを聞くのはまだ耐えられても、なかなか自分でアリヌーラを使いこなすには根性いりました。一応、女の子でしたもん(じゃあ今はなんやねん?)。

 

 だもんで去年、病院で一日分のおしっこを「尿がめ」いっぱいに貯める検査をした時は笑ってしまいました。糖尿科のは自動で計ってくれるけれど、精神科はまだまだ看護婦さんの肉体労働です。でかい「尿がめ」がトイレに置かれ、「烏氏」って書いて堂々と鎮座している。それに一日分のおしっこをためて検査するので、ちょっとアリヌーラを思い出してしまいました。アリヌーラにはウンコもするけどさ。

 

 そう言えば、以前の研修医に「かがわさん、いくらセルシン(安定剤・抗うつ剤)が好きだからって、そんなに愛用しちゃあだめですよ。海馬が堅くなって記憶力が悪くなりますよ」。安心しろ、既に記憶力は悪い。昔から「モズ頭(モズのハヤニエ。自分で捕ってきて木に引っかけて捕っておいた虫や蛙などの餌を忘れてミイラ化させる)」とか「ざる頭(編み目にひっかからん)」とか云われていたし。

 そのうえ烏も、精神科の先生お墨付きの「学習能力のない頭」だからな。人のことは云えない。だが本当のところを云うと、こうやって駄文を書いているのはだな。左肩が真っ赤に変わってかっかとしているのから、何とか気を紛らわそうとしているからだ。パソコン打ってりゃ両手使ってるから、掻きむしれんもん。

 

 しかし赤みは、多少収まってきたが、ちりちりちりちり散り痛がゆいぞ。しかも熱を持っていてかっかしてる。やはりリンデロンも塗ってみよう。で、しばらくしてもどうにもなんなかったら、掻けないように上からカトレップをテープで張って寝てみようっと。そうでないと寝ている間に血まみれにしてしまうぞ。なんか湿布薬の目的外使用だけれど。ううううううう。背に腹は代えられん。一応、湿布も消炎鎮痛が目的だし。

 ついでに腰も痛いから腰にもはっとこう。それにしても腰が痛いぞ。ロキソニンか。それらが穏やかになるよう、ついでにセルシンとデパスも飲んでみました。ますます海馬が堅くなって、更にモズ頭化するでしょうけど。このモズ頭は、学習能力はないけれど、変なところでずるがしこいのが問題です。子供の浅知恵だけど。

 

 今から10年近く前のことです。とある健康診断で、「絶対に問題なし」と言うお墨付きをもらわねばならなかった時がありました。でも、タンパク尿で要精密検査になりました。その時は大変過労状態で、再検査してもタンパクがでるのが分かっていました。で、どうしたかというと自分の尿を水道水で10倍希釈して、提出したんだよな。タンパクか糖しか計らない検査だったから。10倍も薄めたら通常は、ひっかかりっこないって。塩素とか計ったらででたかも、くすくす。

 あの時だけです、検査の「ずる」は。だもんで、一昨年は学内検診で立派に糖Ⅲプラスをもらってしまいました。             

 

 

                           リハビリ現地報告3

マリア様の行列

 

 久しぶりによく寝たぜい。っても6時間だけれど。人の生活音で起きたんじゃなくて、自然覚醒だし、途中で起きなかったし。眠剤のレンドルミンの広告の「さわやかな目覚め」って奴です。でも起きる時、又ベットから転落したけど。気分はまあまあ良いけど、体が鬱なので動けません。気分の良さと体の鬱状態がずれているので、起きようとしても体がままならず、ベッドから「落ちた」気がする。この気持ちと体のずれの大きさが、たまらんぜい。

 

 腰痛もひどいし。時々、痛みで死んでた方がましと思うけど、それでも今日も生きてゆく。生きてゆくったら、生きて行く烏号だった。たぶん寿命が尽きるまで。うちのぼろバイクのように、まめにメンテナンスしつづけて。他の人より壊れやすいみたいだけど。

 

 昨夜の肩の発疹は、やはりなにかの虫さされと云うことが判明しました。肩全体が、かっかと熱を持っていたのはさめて、ぽつぽつと星のようにあっちこっち発疹がもりあがってる。もう一回「掻いちゃだめ、掻いちゃだめ。掻いちゃだめったらだーめ!」と、レスタミン塗ってから、上からカトレップを全体を覆うように2枚張っておこう。

 

 その上、何とかコーヒーを沸かしたものの、買ってきておいたパンの袋に穴があったらしくアリンコまみれです。これは、ハコットという蟻で噛まない。だけど果物と違ってパンは洗うわけにもいかんし。適当に蟻を払い落としても、蟻はパンの中まで潜り込んでいる。仕方がないので、取りきれない分は蟻ごと食べた。胃酸vs蟻酸。絶対胃酸が勝つだろう。糖尿科の先生、自分の指示カロリーの計算を久しくしていませんが良いですよね。もうここまで来ると。「とりあえず生きてるし」でやってるんですが。

 

 あまりゲロだのお上品ではないネタ。医学に携わっている人に受けるネタばかりでなく、ちょっと昨夜にあったお話でもしよう。

 

 昨夜は硬直からさめたら、既に外は暗くなっていました。そこで、ゲロ掃除をした後「あーなんか食べなきゃなあ、胃が完全に空っぽだ」と思って食べにでました。そして、こんな時ぐらいまあ良いか、とサラダバーまでついている高いレストラン(街でたった一軒。例のドイツ人の店の姉妹店です。ここは、まだ「ましな外人」と金持ちフィリピン人のたまり場)に出かけました。で高かったけれど(っていっても600円ぐらい)、豚肉と野菜のクリーム煮にサラダバーとおまけにパンまで付いてるメニューをえらんだ。その上、そこの姉ちゃんは愛想が良いもんだから、ビールとカプチーノまで飲んでしまった。ここのコーヒーだけは唯一ヨーロッパの味がします。日本でも出会えないなつかしい味。

 

 それで海岸通りにでたら、お祭りが近いので路上封鎖されて、路上ロックコンサートをやっていた。しょうがないから、ハイウェイに出た。出たら、めちゃくちゃ混んでいる。事故か?とジプニーや車の間をすり抜け前に出てみた。烏は物見高いし、パルパルバイクはちっこいので。するとマリア様の聖像を担いだ一行がしずしずと行列をしている。像の前後に尼さんやロウソクとロザリオをもった、女の子やおばちゃん達が続々と続いてハイウェイを横切っている。

  てんでに、マリア様の像の後ろの車から信者のおばちゃんが放送する(こういった放送はスペインにはない)お祈りの祈祷文や賛美歌にあわせながら。ロウソクもロウがたれてこないように、ただ段ボールをはめたやつから、きれいな紙のランタンをこしらえた人もいて、といろいろでした。夜のとばりの中に揺らぐロウソクは、とてもとてもきれいでした。そこで10歳烏は、銀河鉄道の夜にあるカラスウリのランタンみたいだなあと、途中までついて行ってしまいました。

 

 だけど、いくらパルパルバイクとはいえ、人の歩く速度に合わせるのは大変です。行列の最後尾にくっついていっていた交通課のお巡りさんも、自転車に乗ってましたし。で、ずーっとどこまでもついて行くのは途中であきらめたのですが。

 

 ちょっと、セルビアの夜を思い出してしまいました。セルビアでフラメンコを見た後、有名なホテルに泊まっている、多くのお客さんは迎えのシャトルバスに乗って帰りました。でも、安宿に泊まっている烏にはそんなお迎えなんてありません。

 それにスペインは本当に夜が遅いのです。フラメンコも夜10時に始まって、11時半に終わりましたし。それで、何とか来た道と違う道をたどって帰ってやろう、と思った烏は、旧ユダヤ人街にある烏の宿を目指して歩き出しました。でも旧ユダヤ人街は本当に迷路のようになっています。その上、太陽もでていないので東西南北もいまいちよく分からなくなってしまいました。

 そしたら、楽隊の音が聞こえ、花々の中のロウソクの光でかがやく、白と金で飾られたマリア像の御輿が目の前を通るじゃありませんか。

  それはあまりに幻想的で美しく。思わず又ついて行ってしまいました。道に迷って良かったなと思う、地元のほんのささやかなマリア様の行列でした。が、おかげで宿とはもっと反対方向に歩いて行ってしまったらしく、人に聞き倒して宿にたどり着けたのは夜中の1時前でした。

 

 烏はたぶんハーメルンの笛吹や、子供十字軍に真っ先について行って、すぐにどこかに売り飛ばされるタイプの子供だと思います。

 

 

                             リハビリ現地報告3

                   パルパルハイウェイクイーン

 

   久しぶりにやってしまっただよ。今日は鬱で、起きたものの2時過ぎまで止まってました。で、なんとかちったぁ動こうと、前から気になっていた、お世話になった先生の別邸に行くことにしました。行くためのご褒美に、遅いお昼ご飯として例のケーキ屋でケーキを食わせてやらねばならなかったのですが。

 

 で、今日は趣向を変えてウォルナッツケーキを食べてみました。チョコレートのスポンジにホワイトチョコのコーティングがなされて、なかにクルミがはさがってたので美味しかったです。その上、ケーキ屋とは完全にスキ関係になってしまい、今日は新作のケーキの試食までただでさせてもらいました(あ?糖尿病だったか烏)。

 クルミ入りリンゴケーキ。どうもオーナーの旦那が外人みたいで、旦那と一緒に試食をして、二人して「美味しいけど、ちょい甘過ぎ。もっと砂糖を減らした方が良い。」って。この旦那が試食をしているから謎のケーキが出てきても、それなりに外人受けもするケーキが完成するのだわ。

 だって、ここのアップルパイは日本でもヨーロッパでもいけるなと思うほど美味しいもん。はい、烏フランスでは、さんざんサンドイッチ(お金がないから)とパティスリー(デザートには目がないから)を食ってました。おやつにはうるさいんです。

 

 で、例のチョコレート菓子(好きなんです、烏が)をおみやげに買って、マム(要するにマンゴーの落ちてくる家にいた先生です)の、街から約20km(でも道が曲がりくねっているので実質の距離は倍ぐらいあります)ほど離れた別宅に行くことにしました。で、行く前に、一応薬の時間を計算し、今日は朝の薬から3時間半以上経っているし、これだけいろんなものが胃に入っているから大丈夫だよな。と鬱の薬も躁の薬も安定剤も、全部飲みました。

 マムの別宅には、くつろげるデッキ・キャビンがあって(マムがタイで英語の先生をして稼いだ金で作った)リラックスできます。今度いったらそのキャビンの裏にコンクリートの穴を掘って、川から水を引くプールまで作っていたのでおののきましたが。これもマムがせっせと外人留学生相手にチューターして稼いだお金で作ったんでしょう。

 

 そのマムの別宅に行くために、パルパルパルとバイクでハイウェイに乗りだしました。が、今回初めて時速60kmを超えてしまいました。パルパルパルが、途中でバウンバウンバウン、バウバウになって。もはや躁状態です。次々とバイクやジプニーやトラック、バンまでぶっちぎっていく。クラクションも3回ほど鳴らされました。

 目の前に対向車がいなくなって、オールクリアになるとアクセルぶん回して、瞬間最大時速80kmちょいで抜いていく。無茶な追い越し大平気。バンなんかはパルパルちゃんに抜かれて、明らかにプライドを傷つけられて怒ってクラクションをブァーなんて鳴らしてましたけど。その時は、躁に突入しているので、そんなもんしらん。抜かされるお前が悪いんじゃボケ状態です。

 で、とばすとばす。まあ所詮はパルパルバイクで、ボケ牧師のせいでがたがたになっていますから、ずっと時速80kmは維持できなくなっていて、60kmオーバーでいましたが。でーたよでたよ、パルパルハイウェイクイーンが。これがでたら、止まりません。実はこれがでるから、いつも整備状態を最良にしておかないといけないんだな。整備状態が悪いと、吹っ飛ぶもん。いざという時にハンドブレーキと、フットブレーキと空いてる左足まで使わないと止まれないもん。

 それにつけても、ディスクブレーキの100cc のホンダドリームが欲しかった。烏の街では、烏が買った時はホンダエコノという70ccのカブが主流だったんです。でも、その次の年ぐらいからホンダドリームがはやりだしたのだ。100cc の方がパワーがあって、山にも上がりやすいし高速度で安定走行できるんだよな

 

 くすん。でも神様が、お前はとばすなと言う意味で70cc をお与えになったのかもしれない。ドリームのドルドルドルって云うエンジン音にはあこがれるんだけど。今回は、ほとんど時速40km超えてない鬱々烏だし。

 ちなみにパルパルバイクで血相変えてとばすと、時速50kmを超えるあたりで、周りの風景は飛んで注意書きも見えなくなります。50km以下になってやっと、Danger だの Caution! Accident Areaとか見えだします。だけど一時期、広大な日本向け冷凍エビの養殖場だったところが、すっかり廃れて徐々にマングローブ林戻ろうとしているのは、しっかり確認しました。

 それに、やっぱり田舎のハイウェイも交通量が増えていて、以前より追い越しがかけにくい。目の前をちんたら走るバイクや車もかなり増えた。

 

 確実にハイウェイでの危険度が増している。うーむ。鬱もしんどいけれど、躁も怖い烏のパルパルハイウェイ報告でした。抗躁剤をぶっちぎってとばした烏が死なないことを祈っていて下さい。

 

 

リハビリ現地報告3

松明の思い出

 

  山まで上がるのが、めんどくさいのでパウナイ(農民の夜中市)に降りてくるおばちゃんを捕まえようと思いました。毎週、水曜日と日曜日の夜中ちゅうか早朝の1時から7時にチャンゲ(市場)の横の道路を路上封鎖して、農民の(青空とは云えない、真っ暗だから)露天市がひらかれます。

 

 おばちゃんは毎週日曜の夜中の2時ぐらいに降りてきて、6時ぐらいには撤収に入る。その頃から、チャンゲの店はがたがた開きだして、おばちゃんは魚や干し魚、スパスという米の粉をバナナの葉につつんで作ったお菓子などを買って、又山に帰って行く。

 だから6時前に捕まえようとして、5時半に目覚ましをかけていたのに。目は覚めたが、しんどくてちっとも体が動いてくれない。ので、パウナイに行くに失敗しました。7時半頃にようやく1m先にある鏡台まで何とかたどり着け、お薬を飲み。10時半頃まで、じっと横になっていました。

 やはり、昨日パルパルハイウェイクイーンをやったのがたたっている。筋肉痛みたいだな。ちょっと頑張って躁になって「しまう」と、次には鬱が待っている。しょうがないから思い出でも書いていよう。今日は腰痛大魔王で、腹這い蛇女だ。

 

  パウナイのある日は、早い人は1時前から店開きしています。でも、おばちゃんの村は夜中の12時に村でチャーターしたジプニー(運転手は村の人)が、村の道路の一番上までやってくる。人は、車の上れる場所よりもっと上まで住んでいるので、道路の端っこに、おのおのの収穫物をかごに入れて置いておく。ジプニーは来たよ来たよってって賑やかにクラクションを鳴らす。そしたら山の上から、めらめらと椰子の葉をたいまつ代わりに燃やした人たちが降りてくる。山の小道沿いには、松明の口火にするために樹皮がはがされた松の木があるし。闇の中を無数の松明が降りてくる。電気もないし、それはそれは幻想的な光景です。

 

 で、道路のてっぺんで拾った農民と収穫物だけではなく順次、道沿いの農民と収穫物を拾って降りる。もうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅう詰め込むから。人間は狭い座席にぺちゃんっておしつぶされて横になっている。満員電車もかくもあらんです。

  そうやって、ジプニーの中にも天井にも荷物や人を満載してゆっくり降りてくる。本当は、烏はジプニーの天井の上に乗りたいのだけど、一応法律で「女・子供」は天井に乗ってはいかんらしい。それでも、強引に乗ったことあるけれど。

 

 で、街の市場に着くのが午前2時頃。村ごとに、おらが村の場所が決まっていて、自分の村の場所に野菜や果物とともに座る。おばちゃんの村の場所はちょっと奥まっていて、「なんで、そんなとこにしたん(場所は村ごとの協議で決めたらしい)」って云ったらすぐ頭上の街路灯を指さして、「ナ アナ スガ(電灯があるもん)」。ああそう言う考え方であったか。早くから来ている人は、自前の乗り物を持っているか、共同ジプニーのでない遠方の村の人が多い。

 ここで野菜や果物を買ったら、とにかく安い。市場やスーパーの半値ぐらい。卸市みたいなものです。で、店開きしていたら、そのうち市役所の係員がIDの確認と(毎年、自分は「正真正銘の農民」でパウナイの参加資格があるという、市役所のIDを取ることが必要)税金のチケットを切りに来る。ちなみにできることがあったら何でもする手から口へのフィリピンの田舎で、正真正銘の農民なんてほとんどいないけど。主に農業をするけど、実は何でもする百姓が一杯いるだけなんだな。

 

 パウナイに行くと、いっぺんに知り合いの村の人に挨拶できて便利だったんだけどな。まあいいや。で、7時になると例の交通課のお巡りが追い立てに来る。農民は7時までには道路の「清掃」をすませて、道路を明け渡すという約束だからあわてて、荷物を片づける。まだ残っている人は道路はきをする。

 

  と言うのが、我が街の農民市の様子でした。

 

 隣の島のとある烏と縁ができた村の、共同の野菜運びジプニーに乗った時のことです。バイクタクシーとバスを乗り継げば4時間足らずでつく距離を、野菜を乗せたり降ろしたりで12時間かけて州都まで行きました。

 可能な限り積み込むので、野菜に圧迫されて死ぬかと思った。その上天井に、ジプニーの高さと同じぐらいゴンゴン荷物を乗せてるし。烏確か肋骨は丈夫だったよなとか思いながら。で、ゆっくりゆっくり山の上から時間をかけて降りてきたのですが。

 

 途中で野菜を積むために泊まった家の前の木に、蛍が、数千、数万の蛍が。木全体がまるで松明のように明るく、蛍の光で明滅している。「もちもちの木」と言う絵本に出ていた、最後のページの光る木みたいだぁ。と言うものすごい量の蛍。それが普通の家の庭先の木に何げにいる。言葉も失うほどの、わずかに黄色みを帯びた青白い明滅する無数の光。

  後でお魚先生に聞いたら、そう言う蛍の場所はマレーシアでは既に有名な観光地と化してしまい、蛍の群生地は東南アジアでもどんどん減っていっているそうです。あの山の不便さ。外人なんてほとんど来ないし、地元の人はいつものことだから返って気にもとめない、密やかな場所。だから、蛍の松明が生き残っていたのでしょうかね。

 

  野菜の売り方の農業調査のために、野菜につぶされそうになりながら、夜中にぎゅうぎゅうのジプニーに乗ったのですが。結果的には両方とも、かけがえのない幻想的な松明の思い出として残っています。

 

 

               リハビリ現地報告3

                            パレードの路上封鎖に会う

 

 そろそろだよなとは、思っていたさ。公園でガキどもが練習していたから。何故か、こっちのお祭りにはパレードがつき物。パレードっていっても例のマリア様の行列みたいに、しずしずした奴からいろんなのがあるけどさ。

 

 今日はバランガイ(集落)ごとのパレードで、街中の集落全部から1チームごとにダンスチームが出てる。バランガイごとに大人数で衣装もそろえ、人がたくさん出て、装飾も大がかり。だいたいがハイスクールの生徒ぐらいな年頃だった。たぶんみんなハイスクールの中から選抜されたんだろう。

 もう子供ん時からこうやって、みんなとリズムに合わせてノリノリで踊ることになれているから、ダンスがうまいうまい。その代わり、すごく練習もするんだけど。ダンスのリズムは、それぞれのチームの後ろをついて歩く、ドラム缶や金属缶で上手に作ったドラムのドラム隊が決める。ドラムもうまいよ、はっきり言って。

 

 今回は、ダンスのコンセプトが、スペインが来る以前を表しているチームが多かった。ただでさえ黒いのに。その上をさらに真っ黒に塗ってたりしてる。編み傘かぶって竹製のネックレスじゃらじゃらつけて、竹製のざるに模様書いてたり。背中にカゴをしょい、椰子の葉っぱを編んだものを振り回していたり。パンボートのオールに絵を描いて、船をこぐまねをする踊りがあったり。そのチームは、ちゃんと海に見立てた長い青い布を、子供が振って横を歩いてた。

 スペイン時代のお嬢様のかっこをして、扇子広げてひらひら踊るチームもあったし。アバカの繊維でつくった、烏達が小学校の運動会で桃色のちり紙で作ったボンボンの巨大版をつけて踊ってたチームもあった。いろんな端切れを縫い合わせ派手た衣装で、化粧もなんだか訳のわかんない派手なチームもあった。

  それに今回は、かつて見たことのないチャイナ風というコンセプトがあった。チャイナドレスっぽいのを来てひらひら踊ってた。まあここはセブと一緒で華人が多いし、かなりフィリピナイズされて訳が分かんなくなってるけど、中華料理屋も多いし。中華学校もあるし。唯一のデパートだって、「スーパーリー」ちゅうもろ華人系の店で、入り口にでかい大理石の唐獅子が1対鎮座ましましている。

 

 で、中央通りが路上封鎖されていたので海岸道理に出たら、海岸通りも封鎖されていた。そこで烏は行き場を失って、立ち往生した。だけど、強引な烏はバイクのエンジン切ってチームとチームの間をガアーッて押して横切った。今日は何が何でも、中央通りの真ん中のとある場所に行かなくてはならない。

 何故なら、烏にはほとんど金(フィリピンペソ)がなかったからだ。しかも土・日と続いたので、ちゃんとした両替屋は開いてない。でも、中央通りの真ん中にはいつも、日暮れとともにいなくなる私設の路上換金屋がいて、交渉によっては両替屋とほぼ変わらないレートで変えてくれる。そのあたりをちんたら走っていたら「チェンジマネー、ダーイ!」ってうようよ声をかけてくる。

 あっダイってのは若い女性、ドンってのは若い男性の呼び方。初めてここに来た時は、そう言うことも知らず、やけにダイさんとか、ドンさんちゅう名前の人が多いなと思ったんだけど。

 

  でも今日はパレードだし、いないかなって思って人混みかき分けて探したら一人だけ見つけた。向こうは1万円しか換えないんだったら、交渉レートを多少低めに云ったけど。「ここまでくるのに人混みかき分けて、どんだけ苦労したか。その分おまけして。」って云ったら少しレートを上げてくれた。ここら辺が人情のビサヤなんだな。

  で、せっかく換えた高額なお金を、盗まれたり、すられないように人混みが少ないところまで誘導までしてくれた。「ダイ、鞄ちゃんと抱きしめろ」とか云いながら。

 で今回は、ここに定住している外人ダイバーに見られた。観光客にしてはセブアノ語しか話さんし。いつもはチャイニーズフィリピノに見られるけど、前髪だけ金髪ちゅうヤンキー頭が外人ぽいようだ。どおりで、いつもの年に比べて「チェンジマネー」って云われることが多いわけだ。だけど、一応ダイには見えているらしい。別にドンでも良いけど。

 

 で、又人混みをかき分けかき分けパレードの途中を突っ切って、バイクを置いた公園に戻りましたとさ。パレードは街の中央教会(カテドラル、カテドラルが街に付き物なのはスペインも一緒)を通ってから公園に入っていった。たぶん、そこで市長の演説と今年のパレードのナンバー1とかが発表されるんだろな。でも、ものすごい人混みに辟易して、順次路上封鎖が解けていった海岸通りに迂回して帰ってきました。

 

 

リハビリ現地報告3

わーいカルナバルだ!

 

 昨夜ポンポンポンポーンってきれいな花火が何発も上がるのを見た。むふっ、方角から云えばあれはカルナバル(移動遊園地)が今年開かれる場所じゃない?最近の都市開発で、空き地の場所がどんどん減ってきており、なんか毎年空き地を求めて、カルナバルの開かれる場所が移動しているような気がするけど。

 

 もうじきフェスタだもんね。実はパレードもフェスタに向けた行事の一環だったんだけど。フェスタとはその街ごと、村ごとの毎年のお祭りで、一応その土地に由来するカトリックの聖人の日に関係している。花火が上がったと云うことはカルナバル開きじゃないの。

 

  スペインにもそう言うおらが村の祭りがあった。でも、フィエスタと言わずにスペインでは、フェリアと云ったんだが。スペインにいた時は、漁師町の地元のお祭りに参加して、なんと300人前のパエリアのご相伴にあずかりました。で、お祭り行事はだらだらと何日もつづき、けちくさいカルナバルが出るところも、地元の女の子の美人コンテストがあるところも一緒だった。フィリピンみたいに街一番のオカマコンテストはないようだが。

 スペインの美人コンテストの入賞者にはかなり太っている子もいた。日本のようにデブ=ブスではないようだ。中学でいじめに遭ってから太ってしまった烏も、スペインだったらもうちょっと明るい青春時代だったかもしれない。

 

 でもメインはやはり宗教行事で、烏がいたスペインの漁師町(今はヨーロッパのバカンスの場所として汚染されつつある)のお祭りでは、船に大漁旗を一杯つけて海岸に埋めてあったマリア様の像を乗せ、港を一周して又同じ所に埋める。それで豊漁と安全の祈願をするんだな。

 

 フィリピンでも、やはりカトリックの宗教行事は大事で、先日のマリア像の行列もフィエスタに関するものだったのでしょう。が、烏にとって、この街のフィエスタはわーいカルナバルだカルナバルだの日々なのです。幼児性満開ですが。

 

 海辺で夜中にぼーっと、遠くの雷の光輝を静かに見ているのが好き。と書きましたが、それができるのも11月半ばまで。それ以降、1125日のお祭りのための様々なイベントがあちらこちらで開かれ、先日の海岸通りロックンロールコンサートもその一つ。これからおまつりの日まで静かな海辺の日々は遠のきます。

 

 その代わり、烏にはカルナバルがある!カルナバルは3つのパートに分けられる。「乗り物」、「見せ物」、「賭け事」。どれをとっても「しけ」ている。でもこのしけ具合が、湿気たせんべいをキシキシ噛むのが好きな烏にはたまらんのだな。どのようにしけていて、どこが烏のツボにはまっているのかの報告はまた今度。

 

 

リハビリ現地報告3

電話と一緒?

 

  ここのところの多少の活動の反動と、薬の影響でかかめちゃめちゃ鬱がきついです。ベノジールという眠剤がひっぱているせいか知らんけど、今朝は午前中いっぱいどぼんでした。まったく動けんちゅうに。

 

 最近、烏の電話も調子が悪い。烏の電話は大家さん名義になってます。それで烏がいない間に、大家さんがお手伝いさん向けにこちらから遠距離通話をかけられないロックをしたらしい。いなかった間の電話の基本使用料は、烏の家賃にプラスされてますが。今も、ロックがかかったままです。ロックはずしてと言ったのですが、なにかの手違いで大家さんもはずせないらしい。でも、そんなに遠距離電話かける用事もないし。かかってくる分にはどこからでも問題ないんですが。

 

 ちょっと困るのは、フィリピンの周りの人みんながセルフォン(携帯電話)のメールでやりとりしていることです。なんと山の家族もそうです。さすが、電話会社の電波塔がある(壁と言う絶壁みたいな名前の)村だけあって通信状態は良いみたいです。いやあ、こんなちょっとの間にセルフォンが普及しているとは。本当ににみんな持ってる。びっくりです。しかも電話としてではなく、安いメール送信機としてしか使わない。

 

 で、それはともかく、烏の電話は最近もっとおかしくなった。かけてくる人の声ははっきり聞こえるんだけど、烏の声は雑音だらけで聞こえないみたい。ジャックの所を開けたら埃だらけの上に蟻が這ってた。掃除して、ジャックの配線をつなぎ直しましたが、通話状況がいまいち。

 通話がうまくいかず、かけてきた友達が怒り狂ってた。友達はこっちの電話事情が分からないので「国際電話料金を返せ」とか「電話機を買い直せ」って怒鳴っていたけど。「そう言う問題じゃないと思う。」っていう私の返事も聞こえないようだ。電話会社に行けばいいのかもしれないが。行ってすぐになおらん気もするし。最近ほんとうに鬱がきつくて。やる気がおきん。

 ほんで昨日、大家に電話機の話をしようとしたけど、だるくてできませんでした。あの大家のハイテンションにあわせる体力がなかったので。何であの人はいつもああハイなんでしょう。でも、今週の目標は電話の件を何とかすることにしよう。と思う。

 一応今日の昼過ぎ元気を振り絞って、大家に云ってみた。大家がジャックと電話のコードをつなぎ換えてもおかしい。大家の推測は土曜日に大家んちのマンゴーの木の枝落としをした時に電話線を切ったのではと言うものだった。烏の個人的見解としては、ジャックの中に蟻が入ってショートしたからなのでは、と思ったんだけど黙ってた。まあ、彼女が何とかしてくれると祈りたい。                                                      

                         

 

リハビリ現地報告3

烏病院に行く

 

  「またか」と思われる方も、「今度は何やったんじゃ」と思われる方もおられるかもしれませんが。烏はちょっとバイクでこけて、擦り傷をした以外は今のところ無事です。その時できた膝の擦り傷の上を、ヒランタウ(あんま術師)のばあちゃんにもまれて、おもくそ痛かった以外は。

 ちょっと擦ったのが広かったんで、消毒する時に絶叫してしまいした。後で口の中も切っていることが分かり、デキサルチンと言う口内炎の薬も持ってきて良かったと思いました。膝は打ち身になっていてひどく腫れたので、湿布も貼りました。とにかく、何でもかんでも一通り持って来ておいたので、とりあえずこちらの病院と薬のやっかいにはならずにすんでます。

 

 反省です。朝、動けないのに思い切り安定剤を入れ、モーローとバイクで山道を走ってはいけない。たとえ人に頼まれたって。ただでさえ、朝は鬱がひどくて反射神経や、その他すべてがぼけているのに。

 

 その上、過去の教訓から、烏は今、もし病院に行かなくてはないほどひどい状態になったら、何が何でも日本に帰って「おうちの病院(京大病院)」に駆け込み入院しようと思っています。ここの街の病院の治療はかなり懲りた。だから、日本まで帰ってこれなくても、せめてマニラの病院まで飛んで誰かのお迎えを待ちます。

 

 病院に行ったのは、親戚のマリセールのお見舞いに行ったからです。マリセールは腹水がたまって本当に辛そうでした。明るくて、いつも強気だったマリセールがすっかり弱り、蚊の泣くような声です。病名を聞いたのですが、烏には、さっぱり分かりません。あれは英語だったのであろうか?とにかく自分の病名でさえ、辞書で予習をしないと分からない烏なので、人の病名まで分かるはずがありません。

 分かったのは10日程前に腹水がぱんぱんにたまって、救急車で病院に担ぎ込まれたと云うことです。担ぎ込まれた先は、かつて烏が留学していた大学の大学病院でした。はじめは水も薬も飲めず、鼻から2本の管を入れられていて、2日程前から点滴に変わったそうです。倒れてからずっと食べる事も飲む事もできないので、どんどん生理食塩水と薬を点滴で入れて、飲み薬も飲ませてて、おしっこをさせて腹水を抜いて行くらしい。と言うことだけです。

 

 鼻から管を入れられた時に、喉をひどく傷つけられたらしく「喉が痛い痛い」と言いながら、しきりに痰を吐いていました。管の一本は酸素のようでした。あれほど痰を吐いていたら、喉の痛みのせいで飲んだ薬もほとんど痰として戻しているような気がしましたが。飲み薬は錠剤を砕いて、少しの水で溶いてどろどろにしたような変わった薬でした。

 喉が痛くて痛くて痰ばかり吐いていたマリセールに、弱々しく「喉の痛みの薬ない?」って聞かれました。薬長者の烏は、その手の薬を持っていないわけではない。って心は大変痛んだけれど、入院中の患者に勝手に薬をあげるのはためらわれて「ない」と言ってしました。薬の話の問題は相互作用や副作用があるので、烏は自分があまり問題のなさそうだと思える場合にしかあげられません。薬の扱いは怖いのだ。烏は医者でも薬剤師でもないので、「自分の病気」のことしか知らないのだ。

  

 腹水は確かに以前より減って、おしっこをするためにオマルに座ることもできるぐらいに元気になってきているようです。水も雀の涙程、飲めるようになっています。ですが、病名はさっぱり分かりません。こちらの家族にとっても原因である「病名」は重要ではなく、現象である「病態」が重要なので、あまり病名は気にしていないようです。

 

 ただ、たまんないなあと思ったのはお金のことです。毎日、前日にかかった医療費が細かく書かれた請求書が病人に渡されるのです。病人が意識不明だったらまだ良いものを、意識があったらお金の心配で、治療どころではないような気がするのですが。点滴1本うつのにも、いちいち本人か家族の受取書への署名が必要です。マリセールは何度も何度も請求書を見て、ため息をついていていました。

 それを烏は見ていられなくて「今はお金のことなんか考えると、もっと病気(ちなみに、セブアノ語では「痛い」も「病気」も同じく「サキット」と云います。)になるからだめ」と言いました。家族もそうだそうだと云って、家族がマリセールから請求書を取り上げてしまいました。マリセールが逆の立場だっとしても同じようにしたでしょう。

 でも現実問題として、日々支払い続けないと点滴一本打ってもらえないのです(病院に借金という形で借りることはできますが)。たとえば救急車にしろ、300P(100Pが街の高卒のお姉ちゃんや、どかたをしているおじちゃんの平均的な日給です。)なければ病院まで連れて行ってくれないのです。今は、もう親戚中からお金を借り集め、何とか毎日しのいでいるようです。しかし受け取り書がない限り、点滴1本打ってもらえないとはな。

 

 ようやくおかゆが食べられそうになったら、すぐ退院予定です。理由はお金がないから。烏は、退院時には粉ミルクや栄養ドリンクや果物を沢山も持たせる心づもりです。

 

 たとえ、あぶく銭(学振)であれ、1年7ヶ月も悠々と入院できた烏とは大違いです。国民保険に入っておいて良かった。と言うか国民保険があってよかった。もう、何でもしちゃえって、せっかく入院したんだし血液検査も、MRIも、脳波も、筋電図も、エコーも、レントゲンも、これでもかこれでもかって云う程、検査したからなあ。

 

 だけど前回の入院では「たった」5週間で、いきなりかつてない25万円以上の請求が来てあわをくいました。それでスペイン帰りの烏は入院費を払ったら、預金がはじめて1万円を切りました。だもんで、フィリピン行きの費用と生活費のためにのしょっちゅう会計係のお姉さんに「ねえ、まだ?まだ?まだ科研費は降りないの?」って聞きに行ってました。正直に言って、今回のフィリピン行きの目的のいくらかには、科研費をもらうための「出稼ぎ」が入ってます。

  なんで25万もかかったんかなあ。くわしい明細が知りたい。内科で好きなだけ検査をしても月に22万ぐらいやったのに。と、学振費をもらっても、所詮はほとんどを文部省収入係に取られてしまっている烏は悩むのだった。どえらい研究や。もらった金をもらったところに、ただそのままかえしているだけや。まあ、それはおいといて。

 

 今は、飲むことも、食べることもできないマリセールに直接どうにもしてあげられなくて、マリセールの妹のギンギンとさんざん内輪の笑い話をして、(烏がバイクでこけた話も当然入っている)笑わせ元気づけました。そしてギンギンに、だいたい一日分の入院費に相当する1000P3000円ぐらい)を握らせて帰ってきました。他にどうにもしようがない自分にちょっと切なくなりながら。

 

  ただ、興味深かったのは近代病院の中に、堂々とビネサヤ(ビサヤ独自)の治療法が入っていたことです。マリセールはたとえわずかでもと、良く効くと家族が信じているアユンゴンの呪術師の祈祷済みの水を飲まされてました。マリセールの同室の、別の人は烏がしてもらったようなヒランタウ(あんま術師)によるヒロット(あんま術)を受けてました。マリセールの妹のギンギンが薬草を持っていったこともあったしな。もちろんこういった治療は、家族が病院とは別に、勝手に頼んでするのですが。病院の方も、それに対しては文句をいうつもりはないようです。

 

  京大病院にも全快地蔵とかが、あることですし。ようは良くなれば何でもいいのかもしれません。精神科の先生が「わしらは現代の呪術師や」と言ってましたが、「従来の呪術師」が点滴を受けている病人に対して、病院で堂々と仕事をしていたらこれいかに?

 どおりで、州に精神科医が一人しかいらないわけだ。「現代の呪術師」を呼んでこなくても、もっと安価に「従来の呪術師」が病院に来てくれるもんな。だけど、それだったら烏も、のんべんだらりと1年以上入院できなかっただろう。けっこう入院が、おもしろかったらしいからな。

 

  そういえば、うちの精神科の先生は「どうや、ロールシャッハテストってよう当たるやろ。わし仕事無くなったらロールシャッハ八卦見でもしようかな」と言っておりました。この人はいつも思いつきで、訳のわからんことを云います。「寒いのが嫌だから、沖縄の医者になりたい。」だの。何を考えてんのか。そんなに寒いのが嫌だったら、フィリピンの呪術師のでもなれっちゅうの。フィリピンの方が、沖縄より暑いぞ。それなら、烏もここの「ヒランタウ(あんま術師)」になれそうだわい。

 

 

                        リハビリ現地報告40

   パッタイ

 

   ここでは、「死ぬこと」も、ものが壊れて「二度と使えなくなること」も、ひどすぎる「無体なこと」もパッタイと言う。ついに扇風機様がパッタイなされた。今まで何度も死にかかり、その度に扇風機の首をはめ直し、微妙な角度に持っていってやると復活なさっていたのですが。今日はバチバチッと火花をお吹きになり、ビニールコードが焼ける嫌な臭いが立ちこめてそれきりになられました。今度こそ本当にパッタイだろう。

 それで、テラスにあった扇風機と取り替えた。テラスにあった扇風機は、ナショナル製の上物だ。だけど、あの壊れかけたフィリピン製のどうしようもないけだるさが好きだったんだけどな。首も自動でまわんなかったから、烏がいつも足でちょいちょいって気に入った角度に回してた(だって腹這ったきりだもん)。ナショナル製は風が強くてちょっと立派すぎ。何を言ってんのだか。

 

 それはともかく、ここにいると、すぐに家族や親戚の誰かが「病気で借金」だとか、「病気の上に葬式で借金」で首がまわらん。っていう事件に巻き込まれているな。パッタイって、しょっちゅう云っているような気がする。それが本来の人の世のあり方なのかしらん。と思ってしまうほど。

 それにパッタイには、その次にロオイが付いてくるんだな。ロオイは、心配するとか、かわいそうだとか云う意味。パッタイが本当に悲しみのこもった人の死になってしまった時、パッタイはマタイという言葉に変わる。

 

 ビサヤでも一世代前までは、このロオイは無敵だったような気がする。ロオイをなくすと情け知らずと思われる程、ロオイロオイで助け合ってきた。最近は街ではロオイが、ネゴシオ(商売)やクワルタ(お金)に変わってきたような気がするが。でもやはり田舎にはロオイの世界観が生きていて、何かあるとロオイロオイで助けあう。すぐにサキット(病気)になってパッタイしマタイする世界には、「再び」は無いから。

 いつもバリックバリック(帰ってきてね、又来てね)って云われるけど、それは「又」、「再び」がめったに無いから大事な言葉なのかもしれない。パッタイが身近で、ロオイにあふれているからこそ「又」、「再び」の「バリック」があったとき、それだけうれしいと思うのかもしれない。

 

 最近、ひらがなでお習字する材料に事欠いて、悪魔のロザリーの旦那から西行の本を借りた。悪魔のロザリーは今、親戚の葬式でルソン島のオロンガポにしばらく行っている。で、暇な旦那が豆腐を作ったから食わしてやるというので、ほいほい食いに行った。この人は豆腐もみそも自分で造っているので、豆腐は大層うまかった。

 今後もし烏が「碁」を覚えると、もっと食わせてくれるらしい。だもんで「碁」の入門書を無理やり持たされた。「碁」と「将棋」は幼少のみぎり、父から手ほどきを受けかけたが。烏は父がトイレに行っているすきに、自分に有利なように勝手に石や駒を並べ替えてしまうので、父はそれに根負けして、と言うか率直に言うと怒ってそれきり教えるのをあきらめた。だから未だに、はさみ将棋と将棋倒しと、五目並べしかできない。

 

 昔からそう言う余計な知恵だけ働いたので、体系だって何か習ったり、覚えたりせずに来てしまった。有り体に言うとだ、習うだけの根気がないのだ。パッタイ。だが、食い物がかかっていると多少はやる気がでる「かも」しれない。

 

 まあそれはともかく、西行は昔から好きだったので、今回再び西行の歌を読み返してみた。昔は分からなかった、無常観にあふれてる。簡単に人が死ぬ世だったからなあ。貴族社会から、武士社会に移る乱世だったし。しかも、あきらめた世の中に、あきらめきれず。捨てた身に、捨てきれず。特に30歳代から50歳代は、乱世の始まりのなかで、親しき人を次々亡くして。西行のパッタイや、マタイでロオイな気持ちの歌が続く。

 

  西行自身は自分が病気になった歌をあまり残していない。が、良寛なんて病気やじじいになった歌がいっぱい。それに、年を取るにつれ親しい人をどんどん無くしマタイで、ロオイな歌がいっぱいだ。友達が来たら、次の日まで切ながって思い出して歌を作っているし。人が死んだら、いつまでもしつこく、ここに来てもあいつに会えないって嘆いているし。李白も酒飲みで適当でええ加減なおっさんだっだが、友人を亡くして哭すとか、友人をどこまでも見送る、という別れの切ない歌がいっぱいだ。無常観とは、ロオイな世界観であったかとちょっと思ってみたりする。

  

  昔は、西行の歌では「ねがはくは花のもとにて春死なむ

                その如月の望月の頃」  と言う歌が一番好きだった。 10年ぐらい前、中国の留学生楼にいた時に、記念にいろんな国の奴が壁に自分の好きな言葉を残してた。だから、烏はこの一首を落書きした。今思えば、あの頃はまだ自分の「死」のことばかり考えていたような気がする。

  でも今、西行の歌を読み直すと

         「津の国の難波の春は夢なれや

                蘆の枯れ葉に風わたるなり」  と言う歌が気になって仕方がない。その分、いろんな人の生病老死を感じるようになったのかもしれない。自分が津の国(摂津)で育ったからかもしれないが。

 だけど     

「われもさぞ庭のいさごの土遊び

                さて生ひたてる身にこそありけれ」   でも、烏は、未だに庭の土遊びに夢中になっている。本当は「さて生ひたてる身にこそありけれ」なんだけど。本当にパッタイだ。

 今から「碁」も覚えなあかんらしいし。ようは、陣取りゲームなんだろうけど。モズ頭の10歳児には難しすぎるぞ。万が一、覚えられたら精神科の入院生活が、もう少し楽しめるかもしれないが。ちなみに精神科の主なゲームは、卓球、碁、将棋、花札、麻雀、オセロだ。いつも、烏はオセロで負けていた。目先の利益に走るからだ。最初はいいけど、後でパッタイしまくって、ついにはマタイするのだ。長期的な展望をする頭がない、といえよう。ロオイマン コ(あわれなやっちゃ)

 

 

                            リハビリ現地報告41

                           3度目のパンクをする

 

  ここのところ1週間足らずで、3度パンクしている。烏躁転しかかってんのか?と、多少危惧する。

 

 とりあえず、「行ったら絶対これだけはしないといけない」と思っいたじいちゃんのお誕生日祝いをした。ただし、行くことだけで疲れて、山ではほとんど寝てた。街で鶏の丸焼き3羽買って、巨大なデコレーションケーキを持って山に上がるのでせいいっぱい。行くだけで、本当に疲れた。

 

 だもんで、行ってすぐに今年新たに作ったというテラスの手作りの寝椅子に倒れこんだ。おおよそ、2時間程意識が飛んでいた。このテラスも、親族のうちの大工仕事が好きなものがよってたかって手作りした。疲れていた烏は、夜のお誕生日会までパワーを温存するためにお手伝いをしてはいかん。と、目が覚めてからも薬をまた飲んで、わざと自分を寝かせておいた。

 ジャガイモの皮むき(やはりジャガイモは田舎ではごちそう料理なのだった)や、スパゲティのチーズ削りとか、いつもはしている料理のお手伝いもせんかった。ちなみに田舎のごちそうのスパゲティとは、ぶにゅぶにゅにゆでたスパゲティに挽肉を混ぜ、バナナケチャップ(トマトケチャップの半額)であえて、最後にプロセスチーズの固まりをフォークでぶっかいたものを混ぜるのだった。当然スパゲッティはどれも5cm以下になるのだが、それが田舎の正当派スパゲティなので、この世の中にはもっと違うスパゲティがあると云っても通らないのだった。

 そこで「本当に、料理が上手でしょ。」と、おばちゃんに同意を求められると苦しい。しかも、たらいに一杯程作っていた。

 

 もう今回は完全にお客さんモードだから、寝ている間にそっと蚊取り線香を焚いてくれたのも知らず、夕方には寒いと言って上着まで借りてさらに寝た。テンションはすべて、お誕生日会までとっておいた。じいちゃん達は鶏を2羽つぶした。おばちゃん達は、こんなに食べられんのか?お客さんは何人来るねんと言うぐらい、大量に料理していた。ご飯も大鍋で、あけたら小山になる程炊いていた。

 

  結局お誕生日会は、いつも畑仕事を手伝ってくれている人や、近しい間柄でごく内輪に行われた。それでも1213人は越えていた。だけど食べ物の件で案ずることは、ちっともなかった。来た人全部に、おみやげとしての「お持たせ」があったからだ。来た人の家族の翌日のご飯になる程、みんながそれぞれの料理を、帰る時に持たされていた。

 お誕生日会の間、いつものお祭り騒ぎと比べて烏は静かだった。だが、お客さんへのサービス精神というか悪のりがでて、犬や人と踊っていた。これが出るからパワーを残しておかなきゃいけない。烏を会の主催者にすると、フルパワーでサービスするから。

 入院してからこの方、烏が主催するとハイパワーを出して倒れるので、古くからの友人のなかでは集まっても、烏はいるだけで何もしなくていいことになった。だいたい当年取って10歳だし。子供はいるだけでいいのだ。

 

 その夜は、当然烏はお泊まりだった。その前の晩は、どのケーキにするかから始まり、どうやって持っていこうなど、諸々のくだらない事で気が立ち、ほとんど寝られなかった。そのくだらない悩みには、病院以外の自由にならない場所で寝たことがないから、山で寝られなかったらどうしようというのも入っていたんだけど。

 

 とりあえず、夕薬と眠剤を一緒にすると寝やすい。だから、山ではとっぷり夜が更けたことになる10時頃にまとめて飲もうとした。するとただでさえ多いお薬が、山のようになる。10数錠をいつものようにまとめて飲もうとしたら、おばちゃんに「ハラ!バリン ダグハナ(ええ!なんてたくさんの)」ってびびられた。まあ日本人でも、これだけの量をいっぺんに飲んでるのを見たらびびるだろう。

 ほとんどが同じ目的の薬なんですけど。卵巣ホルモン以外は。抗うつ剤と感情調整剤をのぞいたら全部眠剤だもんな。だけど目の前でざらざら薬を飲むことで、「本当に病気」だということが分かってもらおうとした。

 

 それで、蚊がぷんぷん飛ぶのをうるさいなあと思いながら寝た。そう言えば、昔は蚊帳をつってたんだよなと思いながら。じいちゃんの揖斐をずーっと聞きつつ、枕元に追眠を置いておくのを忘れたなあと後悔したけれど。それで、みんな既に起きている気配がするので、翌朝は6時過ぎには起きた。でも、家で一番遅かった。

 みんながすでに「生活」を始めているなか、一人朦朧としていた。で、朝薬を飲み「これが効いてくるまで30分はうごけん」と言って、寝椅子に犬みたいにくるまっていた。のに、何が何でも人に飯を食わせないといけない文化だから「朝飯を食え、朝飯、朝飯」と騒がれて、横にならせてくれなかった。病気やっちゅうたやん。薬の量も見せたやん。から怖いちゅうねん。病院以外のよそでお泊まりするのは。たとえ実家でも。 

 

  その後、まだ全身鬱モードというか、脳内物質が安定していないと言うか、脳が腐った状態でバイクの後ろに人を乗せ、近くの親戚の家に行く事になって「こけた」。山の石だらけのオフロードで。でも、自分のことより後ろに乗せた人が怪我してないか、気になって自分はバイクの下敷きになったまま「大丈夫か、大丈夫か?」って喚いた。幸い、後ろの人はたいした怪我じゃなくてすんだので笑われた。烏ときたら、もっと怪我していたのに。その上、鬱で自分でバイクを起こす気力も体力もなかった。病気やっちゅうねん。

 

  やはり朝はだめであった。それでもなんとか街まで降りたら、やっぱりハンドルがぶれる。それ以後、どんなに慎重に運転していてもハンドルを取られる感じがする。下宿に帰って、後で見たらやっぱり前輪がパンクしていた。それで、昔はなかったところにできていた一番近い修理屋に行った。すると、ムシのところが取れかけていてまたもやゴムを巻き付けて、まったりと火にあぶられた。

  こけたショックで、右足を乗せるステップがえらく後ろに曲がってた。スタートする時のキックもしにくければ、フットブレーキも踏みにくい。明日直しに行こうかな、と思っていた。でも、何にも云わないのにパンク修理の兄ちゃん達が、「これじゃ不便だろう」って、ぐいって元に戻してくれた。親切な人たちだ。バイクに乗っていると時々こういう親切な人に会う。

 烏はよくライトを消し忘れたり、スタンドを降ろしたまま走ってしまう。スタンドを降ろしたままだと大変危ない。すると、それを見つけた誰かが大声で叫んで教えてくれる。ありがたいことだ。だからやっぱり、セブアノ語じゃないところではバイクは乗れない、と思う。

 

 うーむ。これでもちょっと頑張りすぎたかね。自分ではよく分からないのだが。とにかく朝はだめ。特にバイクに朝早く乗ると危険だ。あれは午後の乗りもんだ。それに山では、どうやっても「鬱」は分かってもらえない。と、言うことがよく分かった。

 去年は最低限しないといけないと思っていたことも、友達の手を借りていた。それでも、結局出来なかったことがほとんどだ。それが今年は自分なりにこなそうとしている。それが、ちょっとは成長しているのか、頑張りすぎの結果なのかよく分からない。だけど背中は痛いわ、朝から動けんわ、ほんまに体全体がえらいのだった。

 

 でも、こけた時ミラーとかどうでも良いところが壊れたし、エンジンオイルも変えなきゃいけないし、排気管も掃除した方が良いし。やっぱり明日は笑われるだろうけれど、明日の午後になったら、「またこけたー」っていって例のスキのエンジニアの兄ちゃんの所に行こうっと

 

 

リハビリ現地報告42

                                 ギャップ

 

 宮沢賢治詩集の「母に言ふ」を読んだら、此奴は本物の阿呆だ。と思った。阿呆になることは簡単で、大変に難しい。気がついたらすぐ小利口になる自分に嫌気がさして、時々死にたくなる。だけど、「こんな事ぐらいでいちいち死んでいては、ますますやってはいられないから、とりあえず生きることにする。」と言う詩も、どこかの詩人が歌ってのを昔読んだいたなぁ。と、思い出す。烏も今、そんな感じ。

 

 山から街に下りてきて、下宿でぼーっとしていたらインドネシア人の友達が呼びに来た(電話が壊れていることに怒っていた)。彼女はキリスト教系のインドネシア人で、姉妹そろってフィリピンに留学している。だから、インドネシアでは、彼女の家庭はけっこうお金持ちだ。

 彼女は、中流家庭出身の日本人学生達とはつきあいやすかったらしい。かつて遊びに行く時は、彼女と日本人達という不思議な混成グループがあった。それで「妹がクリスマス休暇で帰国するので街のレストランに行こう」、と言う誘いと、「カメラ貸して(烏の方が性能が良いから)」というので、わざわざやって来たらしい。

 

  だから夕食は彼女たちと食べに行くことになった。最近改装した、街ではかなりお上品な外国人や、金持ちフィリピン人が行くレストラン。そこで夕食に200Pもかけながら、今日の昼までいた村の暮らしとのあまりのギャップにくらくらしそうになった。メニューには、もちろんいろんな種類のスパゲティがある。バニラアイスとフルーツのクレープなんて、街の他の場所では見たこともないメニューがある。

 一緒に食べたのが全員インドネシア人だったので、会話のほとんどはバハサ インドネシア(インドネシア語)だった。でも、それはインドネシア研究研究者や、インドネシア人留学生の多い京都の大学の飲み会で、共通語がインドネシア語の事もあったので気にならなかった。時々インドネシア語の単語が分かるので、一緒に食べていた子達におののかれたぐらいだ。さびしいけれど、京都の大学に帰ってもセブアノ語なんて分かるのは、烏の他は2人いるフィリピン人の先生のうちの一人だけだもん。

 

  で、烏は黙ってにこここして食べながら、クラクラしていた。なーんにも矛盾や問題もなく外の世界と同居できている彼らと、昼までの村の生活とのギャップについていけない烏と。今、5人で食べているけれど、その支払いだけでマリセールの1日の入院費だよな。今日ギンギンは育てていた豚を売ったが、あれもマリセールの薬代にするためだよなと思いながら。

 

 インドネシア人の友達は日本人学生とのつきあいが長いので、決して一般的に思われている程、日本人学生が金持ちではないことを知っている。学期休みに帰って、思い切りバイトをしてお金を貯めてきたり、節約できるところでは、無駄なお金は使わなかったり。ましてや、毎晩は飲みに行ったりはしない。 

  でも、その友達の妹は、日本人は金持ちだから、毎晩遊び歩いていると思っているらしい。「毎月たくさんお金を使うんでしょ」って聞かれた。すると姉である友達が「説教してやって説教。妹は毎晩飲みに出かけたがるし、タバコ代はたくさん使うし」。彼女たちは安くて狭い下宿屋に住んでいるが(お金のためだけでなく、大勢で一つ屋根の下に住むのが好きだとしか思えない)、妹は毎晩、バーやビリヤード場に行って、飲んで遊びたい盛りなのだ。

 

 烏は、病気なので下宿からほとんどでないし、寝たきりだし。健康と精神衛生のために多少、食費はかけてるけど。でかけても、夜ぼーっと一人で海を見てたり、離れた海辺にバイクを飛ばしておぼろ月を見ていることが多い。だから「コーヒーも自分で入れるし、自分の家でほとんど食べているし。あんた達みたいに、いつもいつもスーパーリーのコーヒーショップで見かけたりなんかしない。タバコも吸わない」って云った。すると、すぱすぱタバコを吸う妹は「パッタイ」っていってけらけら笑った。

 

 阿呆になるのは簡単で難しい。阿呆になりきれず、今日も烏はのたうつ。

 

 

リハビリ現地報告40

ンガノマン?

 

   3年前には、何故か日本人学生や。青年海外協力隊員や、NGOの兄ちゃん達がいろいろいた。だから、時々日本人のなかでも話の分かる人たちとご飯を食べていたりした。今は日本人自体がめっきり少なくなって、日本人学生の親しい友人はみんな卒業してしまった。遊びで語学留学している姉ちゃんとは話す気にもなれんし。仲の良かった協力隊の姉ちゃんはサマール島と言う別な島で、もっとハードなプロジェクトに取り組んでいる。

 

 こっちの人と何とか取っ組み合ってでも、真剣につきあおうとする日本人がめっきり減った。だから、悪魔のロザリーの旦那(女房に振り回されているが、めげんなぁ)にたまに会うぐらいだ。自分が育てている子供も、大層パパっ子なので、おじいちゃんが世話するように相手をしてやっている。最近では、血がつながっていようと、いまいとどうでも良くなってきたらしい。なつく生き物はかわいい、と言う感覚みたいだ。

 

 その人を除くと下宿のおばちゃん達と話すか、山の村の人らと話すか、そこらの街の人と話すか。街の友達の家族の所に転げ込むか。で、セブアノ語ばかり。でも、一度山に行く度に「どどどどどどどど」ってセブアノ語が、音を立てて戻ってくる。一つでたら芋蔓式に、わわわわって押し寄せてくる。来た当初はすっかり忘れていたのに。

  だけど烏はセブアノ語を全部思い出したわけではない。しかもボキャブラリーが10歳児なみに偏っている。「おなら」とか、「げっぷ」とか、「鼻くそ」とかどうでもいい単語が思い出されて、「走る」とか大事な単語が思い出せない。でも、少しずつ生活に必要な単語が戻ってくる。

 

 山の家は動物好きで、花好きのクヤ・ビックによって九官鳥が2羽も飼われていた。総じて山の家族は、動物好きなのだ。犬も5匹いるし、猫も5匹いる。牛も豚もいて、鶏なんか無数に走り回っている。その鶏を、じいちゃんは全部把握していると云う。昔、烏が気にしていた片足の悪い雌鳥のことを覚えていたので、たぶん本当だろう。体を悪くして、畑を耕せなくなった今でも、自分の家の牛の分だけでなく隣の親戚の牛の分まで草刈りに行く。でも、これらの動物はみんな、家の番をしたりネズミを捕ったり、食べられたり、売られたりして生活の役に立つ。

 

 だけど、九官鳥みたいなもん飼ってどうすんだ?こいつが「ウンサマン(何)?」ってしゃべる。だけど烏には、「何?」も大事だけど、「ンガノマン(何故)?」が知りたくて、しょっちゅうンガノマン?って聞いていた。だから冗談で家族に「今度来るまでに、九官鳥がンガノマン?って云うようにしといて」って頼んでおいた。

 

 とにかく、ここの人とっては「原因を検討すること」より、その場の「現象に対応すること」が大事なようだ。もっともらしい理由より、もっと直裁的に動く。だから、烏があらゆることに「ンガノマン?」って聞き倒すのは不思議だったらしい。で、なんで九官鳥を飼ったか「ンガノマン?」って聞いたら、「しゃべるから楽しい」だって。それこ「そンガノマン?」だ。高かったろうに。預金より、日々の生活を楽しくするためにお金をぱぁって使っちゃうんだろうな。で、病人がでたら大あわてで、金策に走り回る。

 

 常々思っていたけれど、日本人は「明日のために、今日を預金(がまん)する」。だけどここの人は「今日のために、今日を使う(楽しむ)」。どっちがいいか分からないけど。

 

 烏は入院してから、預金というものを全くしなくなった。次々に、遊びを見つけてお金(学振と言うあぶく銭)を使い果たしてきた。以前は、バイトしたお金を自動積み立てとかしてたんだが。信じられない&