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茶の歴史と人物

茶の起源

茶の原産地は近年、中国雲南省西南部あたりが茶の木のルーツ地帯であろうという説が最も有力視されており、どのような茶も中国が世界の茶のルーツと考えられる。

喫茶の起源

1.人と茶の出会い
  人類が茶と遭遇した歴史は非常に古く、記録上では約2060年前であろうと推測されています。神話の世界では、今日の漢方薬の基礎を築いたと伝えられる神農帝が人間に適する野草や樹木の葉などの良否をテストするために、一日に72もの毒にあたり、そのたびに茶の葉を用いて解毒したという話が伝えられており、たとえそれがフィクションであっても、人類と茶の出会いは極めて古く、日常の飲み物というより、薬として茶の歴史が始まったというのが、今日までの人々の一致した意見である。
  中国に現れる最初の茶についての記録は、紀元前59年、前漢の時代に記述された王褒おうほうの『僮約どうやく』の一文や、中国最古の農書と言われる『斉民容術さいみんようじゅつ』(530〜550)にも茶樹についての記載が見られる。その後、唐代に陸羽によって著された『茶経』(760前後)により、当時の茶の産地や、加工法、喫茶法が明らかになっている。

2.日本茶の歴史
  日本の喫茶の起源についての記録としては、平安初期の 『日本後記』 の弘仁6年(815)の記述があるのが、わが国最初の喫茶についての記録である。平安時代に書かれた詩歌集などにも茶の文字が残されており、少なくとも、都の上流階級の間では茶が飲まれていたと考えられる。

 @古 代
  説話の上では『日本後記』にある記録より以前に、近畿や日本各地で茶が栽培されていたことが読み取れる。また、天暦5年(951)京の街に疫病が流行り、六波羅蜜寺の空也上人(903〜972)に、時の村上天皇から 『悪病退散のため祈祷せよ』とのお達しがあり、日夜懸命に祈祷したがその効が無く、ますます拡大した。そこで上人は、十一面観音像を安置した台車に茶を積み、京の街を引き回して街角に立ち祈祷するとともに、人々に薬用として梅干を添えたお茶を施した。そうするうちに、さしもの悪疫も次第に小康状態に向かったのことである。貴族、僧院などでは少なくとも平安初期(800年頃)より茶を喫していたと考えられる。

 A中 世
  1214年、臨済宗の開祖栄西禅師(1141〜1215)が将軍源実朝に、本格的な茶の効用から蒸し製法の碾茶などについて著した 『喫茶養生記』 を献上した。この書は、わが国における最初の茶書として有名であり、その後の喫茶の普及に果たした役割は大きいものがある。鎌倉時代の末になると茶寄合いなどが盛んになり、闘茶や茶香服(茶歌舞伎)などの抹茶法(茶の湯)がいよいよ佳境に入ろうとしていた。わが国南北朝時代の虎関師錬こかんしれんが著したという『異制庭訓往来いせいていきんおうらい』には、当時の銘茶産地に、京都各地、大和、伊賀、伊勢、駿河、武蔵をあげている。15世紀の初めには関東まで茶の生産が及んだと推測できる。

 B近 世
  近世に入ると、全国各地に検地帳、茶貢租などに関する古文書が現存し、また農書などに茶の技術についての記述をみることができる。以下に数例を挙げてみると、九州にある釜炒り茶には嬉野茶と青柳茶があるが、佐賀、長崎に広まった嬉野茶は、15世紀半ばに中国から移住して窯業(陶器)を伝えた人々が、自分達が飲むために作った唐茶(釜炒り茶)が始まりであるとも、紅令民という中国人が嬉野不動山に唐釜を持参し、今日の嬉野茶を伝えたともされている。青柳茶は、熊本、宮崎に広まった製法で様々な説があるが、近世中期に中国人の陶芸家達によって伝えられたとされている。静岡においても貢租が古文書に現れるのは近世初期からで、志太郡伊久
身村では文禄2年(1593)の文書や、中川根村では慶長7年(1602)の文書が残されている。
  また、この時代になると茶は庶民の食文化に組み込まれ、「日常茶飯事」、「お茶の子さいさい」などの、言葉が使われるようになったが、 その一方で茶道がうまれた。 茶道は、 鎌倉時代から南北朝時代の茶寄合、闘茶、茶香服(茶歌舞伎)などの 「茶の湯」 の形式化に始まる。 さらに15世紀後半には、 村田珠光じゅこう(1422〜1502年)、武野紹鴎たけのじょうおう(1502〜1555年)、千利休(1522〜1591年)らによって新しい茶礼との法式が作られ、「侘茶わびちゃ」として大成した。この頃、戦国武将の間にも流行し、茶室、茶器なども含めて今日の「茶道」の完成へと至る。
  茶の製法は日本各地に様々な方法があったが、早くから蒸製の碾茶(抹茶の原料)を作っていた京都では、16世紀には覆い下栽培を行っており、上級煎茶や玉露の製法技術へ容易に発展させることができる素地をもっていた。宇治田原郷の永谷三之丞(宗七郎、後の宗円)が、元文3年(1738)に宇治の煎茶の優品を作り、伸煎茶の祖として崇められていることや、天保6年(1835)宇治の山本嘉兵衛が玉露の製法を発明するなど、近世末期においては玉露、煎茶の「宇治製法」は優れた技術として認められ、近江、伊勢、駿河、狭山などでもその製法を導入していった。このように、近世はわが国の茶業が発達し、庶民にも楽しめるものとなった。

 C近 代
  わが国の茶の輸出は、1906年、オランダの商館が長崎県平戸で営業開始、翌年、オランダの東インド会社が
インドネシアを経由して日本茶をヨーロッパに輸出したのが最初であり、その頃、嬉野や有田付近で作られていた釜炒り茶と考えられる。アメリカの黒船来航後、 安政5年(1858)にアメリカ、ロシア、イギリス、フランスと修好通商
条約を結び、翌年より生糸(60%)に並んで茶(20%)も重要な輸出品となり、 181トンが輸出されてわが国の茶業は大きな転換期を迎えた。

 D現 代
  茶の生産は、戦中・戦後の食糧不足で食料作物が優先されたため、荒茶生産高は明治25年代の生産量までに落ち込んだ。しかし、昭和25年頃より生産が上昇しはじめ、昭和29年には荒茶生産高は6万トン台までに回復した。昭和40年代には、賃金の上昇、諸物価のインフレ傾向もあって、大衆用の下級茶が不足するようになって緑茶の輸入が始まり、 昭和48年には1万2千トンの緑茶(台湾産)と、 8,400トンの紅茶が輸入され、茶業全体が繁栄の時代を経験した。国内生産量も、昭和50年には過去最高の105,500トンに達したが、昭和59年頃から徐々に減少し、現在は80,000〜90,000トン程度に落ち着いている。


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お茶の伝播と世界のお茶の呼び名

 世界の茶の呼び名は、大別して 「Cha(チャ)」「Te(テ)」に分けられます。Cha(チャ)「茶」で、広東語の系統を引き、茶の伝播と共に、主に陸路を通じて北へは北京、朝鮮、日本、モンゴルへと、西へはチベット、ベンガル、ヒンディーから中近東を経て一部東欧に広がり、一方Te(テ)は、福建省のモアイ語の系統を引く「荼」で、モアイとの貿易を始めたオランダ語の影響を強く受けて、海路を通じてヨーロッパに広がったと言われています。 
 また、お茶がヨーロッパに渡ったのは16世紀になってからです。 16世紀は大航海時代で海路によって伝えられました。当時、中国とヨーロッパの交易は、ポルトガルが独占していて、1557年に広東省の香港を植民地とし、マカオを基地として中国のお茶を輸入し始めたのです。17世紀になると、オランダがアジア交易の派遣を握り、オランダに一度運ばれたお茶が高値でイギリスに売られていました。そこでイギリスは、直接中国から輸入しようと、1689年に福建省のアモイに基地を作りました。この事が、英語の「tea」の語源になっているのです。
 このようにそれぞれの国の「茶」を表す言葉は、広東語か福建省のアモイの言葉のどちらかが語源になっているのです。


茶の呼称
 

お茶と関わりの深い人々(五十音順)

足利義政 足利義政
 室町幕府8代将軍。茶の湯を村田珠光むらたじゅこうに学び、能阿弥ら同朋衆を督励し茶式改案を行わせたので「茶湯開山」とも称される。応仁の乱のさなか,将軍職を子の義尚(よしひさ)にゆずって引退。京都東山の山荘に住み,銀閣をたて,能楽・茶の湯などの趣味に明けくれたため,東山文化がさかえた。


石川丈山 石川丈山(1583〜1672)
 石川丈山いしかわじょうざんは大阪夏の陣で,家康の命令に従わなかった。そこで,武士をやめ,京都に行って学問に励んだ。その学問は儒教という中国の教えや書道だった。のち洛北に詩仙堂を構え風流三昧の生活をおくった。詩仙堂に煎茶の店を設け、訪れる文人に茶を振る舞ったという。一説にわが国最初の煎茶趣味の元祖ともされる。


杉山彦三郎 杉山彦三郎(1857〜1941)
 茶品 種改良の先駆者。明治茶業の盛況で茶園を増やす中で品種改良にその生涯を捧げた。 優良品種の「やぶきた」を選抜したのは有名。現在、杉山氏が選抜した優良品種のやぶきた母樹は、昭和38年に静岡県の天然記念物に指定され、静岡県立美術館入口そばに保存されている。


鈴木梅太郎 鈴木梅太郎(1874〜1943)
 静岡県出身の農芸化学者。米糠こめぬかからオリザニン(ビタミンB1)を発見して、ビタミン学発展の基礎を築いた。つまり彼こそが「ビタミン」を、世界で初めて発見した日本人なのである。また、三浦政太郎、辻村みちよ博士らを指導してビタミンC、カロチン、さらにカテキン類など、現在、緑茶成分の中で様々な効能が証明されている物質の分離、固定を行った。

千利休 千利休せんのりきゅう(1522〜1591)
 安土桃山あづちももやま期の茶道の完成者で千家流茶道の開祖。茶湯を武野紹鴎などに学ぶ。  16歳のとき京都で茶会を開いて茶湯の世界に登場。のち大徳寺で参禅、宗易の号で茶会を主催、織田信長の茶頭、次いで豊臣秀吉に重用された。佗び茶を完成し草庵風の茶室様式を築き、多くの弟子を育てて茶道の発展に尽力を尽くしたが、秀吉の怒りを受け、切腹した。現在の茶道千家の始祖であり、茶聖と称せられている。

高林謙三 高林謙三たかばやしけんぞう(1832〜1901)
現在の埼玉県日高町で生まれた彼は 、川越小仙波に外科医を開業。しかし、この地が狭山茶の主要産地であったことから、明治に入って茶の栽培と製茶の機械化を志し、資材を投げ打って、生茶葉蒸器機、培茶器械、製茶摩擦器械を発明した。さらに、明治30年には、粗揉機を発明し日本茶業の機械化に貢献した。

武野紹鴎 武野紹鴎たけのじょうおう(1502〜1555)
 室町末期の茶人。十四屋じゅうしや宗伍、及び宗陳に茶道を習い、古典学者の三条西実隆から藤原定家の「詠歌大概」序巻の講義を受けて、茶道の極意を得たといわれる。1532年31才の時に仏門に入り紹鴎と号した。村田珠光以来のび茶を茶の湯の理想とし、四畳半座敷から三畳、二畳半の小座敷も考案した。門下に、千利休がいる。

多田元吉 多田元吉ただもときち(1829〜1896)
 明治時代の茶業研究家。明治維新後、丸子まりこで茶園を開く。明治8年(1875)年、折りから近代化と輸出商品の開発を急ぐ明治政府の招請をうけ中国に渡り実情を調査した。翌年インドに派遣され、日本人として初めてダージリン、アッサム等の紅茶プランテーションを巡察し、紅茶用茶樹の種子・製茶機械、生産技術を招来した。茶樹の品質改良や高品質の緑茶製造を可能にした篭焙炉かごほいろをはじめ、各種機具を考案するなど、緑茶・紅茶の研究を続けた。

辻村みちよ 辻村みちよ(1888〜1969)
 埼玉県 生まれの食品化学者。理化学研究所在職時代に鈴木梅太郎の指導で三浦政太郎に協力し、緑茶中にビタミンCを発見。また独自に、緑茶葉からカテキン類を分類、化学構造を決定。緑茶葉にはビタミンAの前駆体であるカロチノイドが含まれることも明らかにした。昭和7年(1932)学位論文「緑茶の化学成分について」で東京帝国大学から農学博士の学位を受け、我が国第1号の女性農学博士となった。

豊臣秀吉 豊臣秀吉(1536〜1598)
 安土桃山時代の武将・関白かんぱく。戦国時代後の全国統一を成し遂げて、近世の基礎を築いた。千利休・今井宗久らを茶頭とし、茶室を造営したり、京都北野神社の境内と松原において開催した北野大茶会などの茶事を楽しんだ。茶道具の収蔵も熱心で自筆の目録を残している。


永谷宗円 永谷宗円(義弘)(1681〜1778)
 江戸中期 の製茶家。宇治茶の元祖。父祖以来の製茶業を引き継いで熱心に研究を重ね、改良製茶法を発明した。それまでの中国伝来の釜炒り法ではなく 、「新芽だけを蒸し、焙炉のうえで揉みながら乾燥させる」という、梨蒸煎茶(再茶)は宗円自身によって江戸の茶商山本嘉兵衛のもとに持ち込まれ、嘉兵衛の手で全国に知れ渡った。お茶漬けの「永谷園」はこの名に由来する。

古田織部 古田織部ふるたおりべ(1544〜1615)
 安土桃山あづちももやま・江戸時代前期の武将・大名。茶の湯の名人で、秀吉の時代には千利休と仲が良かった一番の人物とされている。千利休の「侘び茶」の極意を守ると同時に、利休の茶の湯の作法を推進し、また武家風に改革発展させた。


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ーおいしいお茶を求めてー2003年11月開設・現在進行形