WILLIAM S.BURROUGHS
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by W-ES(W-E)



「かつては単なるきわもの的な部分ばかりがとり沙汰されていたが、そうした部分の衝撃性が相対的に薄れ、カットアップや折り込みという技法への過度の期待もやっと鎮静化した今日、『裸のランチ』を筆頭とするバロウズの世界そのものに対する共感なり反発なりが、ようやく表面に出てきているのだ。それは、映画『裸のランチ』とはまったくちがう世界だ。視覚的であるよりは聴覚/嗅覚/触覚的、具体的であるよりは抽象的な世界。人間関係の構造だけが顕在化した、まるで神話のような世界」
『裸のランチ』(河出書房新社)解説:山形浩生 より 

ボクがいつバロウズを知ったのかははっきりとは覚えていない。おそらく上の引用中にも触れられているデイヴィッド・クローネンバーグ監督による映画『裸のランチ』の原作者として知ったのではないだろうか。分からない。そしていつからか「カットアップ」というキャッチコピーによってファンになったが、その辺のことについては下の、カット・アップによる小説――ソフトマシーンを参照(ちなみにそこでの文章は技法優先で語っているけれど、その文章を制作する過程でボクは本格的にバロウズを読みたくなったことをつけ加えておく。それについて以下で少し述べておきたい)。



WILLIAM S.BURROUGHS

1914-97


そのときボクは『ソフトマシーン』をこれまでよりも多く読み進めることができた。それは――上の引用文中で簡潔にまとめられているような――バロウズの作品世界が、時を経て、身近に感じられるようになったからかもしれない。そして「カットアップもの」以外にも関心を抱いたボクは、しばらくして(序文等を除いた)制作時期が最も早いと聞いている『おかま』をひとまず読んでみた。そこに流れている感傷は、『ソフトマシーン』でとくにボクが気にいっている文章にとても通じていた。そういえばボクは山形浩生や柳下毅一郎がさんざん言っていた、バロウズ作品間におけるクロスオーバー(この心象風景はあの作品にもでてきた等の、いわゆるバロウズ・ワールド)に浸る快感がいつも羨ましかったのだ。そして『おかま』を読了したとき、ボクはバロウズ・ワールドの住人になる許可がおりたのだと感じた(バロウズによるものならどれでも読めそうな感覚の一致を身に覚えた)。実際、『ソフトマシーン』等のカットアップ作品を最後まで楽しむためには、カットアップへの愛好以上に、その感覚の一致とでも呼ぶべきものが重要だということを、漠然とボクは感じていたのだ。



Link

ウィリアム・S. バロウズ(1914-97) 著作リストその他(アメリカ文学資料集内)
YAMAGATA Hiroo: The OfficialPage 日本でのバロウズ普及貢献者
Kiichiro Yanashita's Murderous Page/映画評論家緊張日記 日本でのバロウズ普及貢献者

Dr. Burroughsthe Beach by EV/細馬宏通)
webcollage

バロウズでイタ電撃退 感情廃棄物集積所より
 






カット・アップによる小説――ソフトマシーン

この個所は2000年頃にアップした文章で、当ページ内では最も古い文章です。畏れ多いことに山形浩生さんが「たかがバロウズ本。」(大村書店)巻末〈付録D-7 バロウズ研究者のために / インターネット〉のなかでlistに含めてくださっているので、改稿はしていません(※2015年注:画像をなくしそれに関する文をカットしました)。ありがとうございます。

50年代以降、20世紀末まで現役で活躍し続けたアメリカの作家ウイリアム・バロウズの、いわゆる読むのが大変と言われがちな「ソフトマシーン」「爆発した切符」「ノヴァ急報」というカット・アップ3部作のなかでも「ソフトマーシン」という小説に目を向けたい(このページの文章は、今にして思えば恥ずかしいのだけど、バロウズを読まずに知っている者が持つバロウズのイメージというのは大方こんな感じだろうと思っている。それを踏まえて読んでいただくとありがたい)

その前にバロウズについて少し。

William S.Burroughsは1914年にアメリカのセントルイスにて生まれ、とーっても切ない内容のゲイ恋愛小説「おかま」を出版社から突き返されたのちにヤク中小説「ジャンキー」という普通に読める小説でまずはデビューし、クローネンバーグによって映画化もされた「裸のランチ」によって注目された作家だ。その他、ウィリアム・テルごっこ、ビート・ジェネレーションなどの私生活上の様々なことによって、幅広いところからその名前=バロウズを見ることのできる、情報発信の広さにすぐれた作家だ。さて、「裸のランチ」のあとに作られた例のカット・アップ3部作は、60年代前半期に集中している。バロウズの40年以上に渡る作家歴のなかのほんの5年弱だ。このことは(たぶん)忘れがちなので、心に刻みつけとくべきだと思う。

その後もカット・アップをバロウズは使うことがあるけれど、特筆するほどではないと思う。バロウズのベストセラー「シティーズ・オブ・ザ・レッドナイト」を含む、西部劇だったりするのちの3部作は(長編としては「ノヴァ急報」で終わるバロウズ前半期の作品と切り離すことは不可能なのは当然としても)ごく普通に読んで楽しめる小説だ。

ここで、カット・アップ3部作に戻ろう。

この3つの小説は、「ソフトマシーン」「爆発した切符」「ノヴァ急報」の2つに分けて考えることができる。すべてにおいてブライオン・ガイシンの新聞コラージュから着想を得てバロウズが小説に使用する手段を見いだしたカップ・アップという技が使われているけれど、第1作目の「ソフトマシーン」では、技を使いこそすれ、その方法論を作中で大胆に述べたりはしない。そしてその代わりというわけではないけれど、比較的ストーリーが分かりやすい。ここが重要だ。

一般的にバロウズを直球でメタフィクションと捕らえるような文章はないと思う。しかし、前章で示したメタフィクションの最低限の要素に視点を向けてみるならば、テーマがスタイルに向けられ、しかもそのことについての言及が作中でなされる「爆発した切符」「ノヴァ急報」はメタフィクションと呼ぶことができるだろう。バロウズは文学として読むぶんには難を感じる作家なので、文学の中から生まれたメタフィクションのイメージからは、かけ離れているような印象を受けてしまうところがポイントなのだろう。バロウズは先天的にクロスオーヴァーなのだ。エンタメ、純文、SF、ポルノ、西部劇、とジャンルとしてこれらを並列するのはおかしいが、色んな要素が詰まっている夜の世界のおもちゃ箱、というのがボクのバロウズの印象だ。

ともかく3部作の第1作目「ソフトマシーン」もまた構造的に見て間違いなくメタフィクションだけれど、ここでは「爆発した切符」「ノヴァ急報」の2つと違い手法についての説明が欠如している。カット・アップとは、自分のものを含めあらゆる紙に印刷された文章を鋏で切って並んでいた順番をランダムに変えてしまう手法としてスタートし、なんか紙を折ったりするホールド・インもバロウズの得意技だが、どのような文章を選んで、どのようにカットするかは制作者の意志によっている。「爆発した切符」での現代社会/国家レベルでの大衆支配の隠喩として描かれる惑星間の闘争シーンと、バロウズが「ソフトマシーン」についてインタビューで述べた「これは支配者とその支配に抵抗する者達の間の闘争の物語」だというテーマ言及と、「ノヴァ急報」で繰り返し現れる“支配を断ち切ってカット・アップせよ”という言葉、これら3つの情報を与えられただけでも、メタフィクションであることは分かるだろう。読者は、描かれる闘争を、カット・アップを通じて体験させられているわけだ。そして、3部作が進むに従って、スタイルが前面にでてきてストーリーを追うことが極端に難しくなるところが、体感重視のベクトルをはっきりとさせている。

こうなってくると、別に自由にどこを選んで読んでもいいし、もはや読まなくてもいいような気がしてくる。なんか読むの大変そうだし、読んだ気になっちゃってるし、だいたいは分かったからあとはペヨトル工房から単行本がでてる3冊をパラッと立ち読みすりゃいいかな、そんな感想をボクは(このページのような)バロウズについての文章を読むことによって思い、ただカット・アップ使いのバロウズに強烈なカッコ良さだけは感じたので、本屋で「ソフトマシーン」をまず買ったはいいけれど、読みはじめては中断していて、何度も冒頭から挑戦してるので3章辺りまでは何度も読んでいて、あとはパラパラめくってなんかいい箇所を探したりしていた読者だ。例えばどのような楽しみ方をしていたのかを伝えるために、山形浩生の訳「ソフトマシーン」から今ぱっと2つ引用してみよう。

「注意――出口を見張れ――ちょっと待った――この率は良くない――波とひきのばしに気をつけろ――引っ越してもしょうがない――やりたけりゃやってみな――みんな体のない叫びを痙攣しながら死ぬ――答えを知ってる?――砒素二年間:任務完了――我々は砒素と流血の歯ぐき――誰?」

「骨の顔――アドービ壁に沿ってイラクサ生息地オープンシャツがはためく――サバンナと草原の土――陽が――山の影がぼろぼろのズボンに触れる――色あせたパナマの写真で暗い街路の囁き――「とってもいいもんあるぜ、だんさん」公衆便所の向こうでにっこり――オルガズムが街路の臭いとメキシコ人少年を吸い戻した――フィルターがかった緑の光の中で目覚め、アザミの影がすえた下着を切り裂く――」

全編、というわけではないけれど「ソフトマシーン」はこんな感じだ。そして「NO READING」の姿勢としては、とてもカッコいい形で情報が詰まってるし、ペヨトル工房からでている本なので(つまりバロウズとペヨトル工房によるコラボレーションのようなものなので)ジャケもいいし、ブック・オブジェとしては最適、となる。見た目だけではバロウズによるBOOKということしか分からないけれど、前知識がいくらかあるので、まるで現代アートにおけるコンセプチュアル・アートを鑑賞するかのように優れて知的に眺めることができる。つまり、意味のこめられたオブジェを前にして、様々なパンフレットを読んでみたりしながら、こめられた意味についてあれこれ考えたりするコンセプチュアル・アートに似た味わいがある。しかもこの本は、ボクが購入したものなのだから自由に手にとって(しかも形態が“本”なのだから)ページをめくって楽しむことができるのだ。・・と、こういうカット・アップ3部作との接し方はわりと日常的に行われている気がする。

ところで、奥行きを欠いた小説世界とまったく深みのないキャラクターというのはバロウズ小説の特徴だけれど、これについて深刻な問題提起をして語る評論をボクは読んだことがない。文学の世界なら大問題になるのに(ヌーヴォーロマンとかミニマリズムとか)。また、言葉それ自体の物質性をバロウズが重視しているところなんかはテクノや現代音楽の立場みたいだ。すごく面白い。


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ボクが3部作のなかでもあえて「ソフトマシーン」を選んだのは、別に前述したようにこの小説がまだ物語の展開をなんとか読みとれるのでカット・アップ・ビギナーにオススメだからだ、という理由からではない。むしろボク的にはその点が残念ですらある。というのも、バロウズによるアーティスツ・ブックスの可能性を想像しているからだ。

ボクはメタフィクションがポストモダニズムになる条件は、スタイル=テーマについて考えさせてしまう点であると思う(まぁ、具体的に述べないと誤解を招いて当然という発言ではあるけれど)。そういうものを読むのも充分に楽しいのだけれど、とくに考えさせない、つまり思考の深みにはまらせないメタフィクションを読みたい――つまり、なぜこのようなスタイルが使われているのかの説明が(暗喩的なレベルですら)省かれた小説だ。スタイル面をひたすら体感できる小説だ。そして前述したように「ソフトマシーン」にはスタイルについての説明が見事に省かれている。ひたすら体感するだけの悦びが、そこにはある。

ボクがアヴァン・ポップの代表選手マーク・レイナーのファンになったのは、スタイルが実験的でありながら、そのことを放りだしているからだ。しかし、レイナーの小説はスタイルこそ実験的だが、とても読みやすい。だからアヴァンギャルドとポップを合体させた造語アヴァンポップの代表なのであり、その点にもの足りなさを感じる(かといってレイナーがボクのなかでのトップクラスの作家であることの揺らぎにはならないけれど)。

要するに、「ソフトマシーン」がもしそのように手法への言及のない状態を維持したままで「爆発した切符」や「ノヴァ急報」のようにカット・アップを徹底させた読み物としてヤバいものだったなら、ボクはその小説にアーティスツ・ブックス(ノヴェルズ)に非常に近いものを感じ、より好きになっていただろう。以上のことは、ずっと上の方で少し述べたように、バロウズの小説が「文学」だけでは捕らえきれない点が大きく関係している(かといってエンターテイメントだとも直球では言い切れないし、それらの中間の小説なのだという印象を持つことも決してできない。魅力的だ)。

(ところでボクは「NO READING」の姿勢だけではなく、きちんとバロウズによるカット・アップ3部作を最近読めるようになってきているので、いずれバロウズ1ページ・ファンサイトを作ろうと思う。このページで長々と語った内容では、どうも中途半端という印象が強く残ってしまったので、そちらのページでもいずれ追求していきたいと思う。しかし、個人的にはもう、もういいやぁ、と思っていた巽孝之の評論とかを読み直さなきゃーということになってくるので、しんどいなぁ、と思いながらもちょっと楽しみになってきたよ)







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