
半年前に起きたW氏の盗作疑惑問題について考えてみたい。同じ仕事に携わる人間として、強烈なインパクトを感じた。昨年の5月、私の所属する展覧会を三重県の文化会館で開催していた時に、すぐ近くにあった三重県立美術館でW氏の個展が開催されていた。大々的にPRされており、我々の展覧会などはどこ吹く風といった感じでW氏の展覧会を大変羨ましく思ったものだ。そのW氏が当の盗作問題でニュースを賑わせているとは全く信じられなかった。制作の領域は違うが、同じ画家として恵まれかたがこんなに違うものかと内心羨望の念を抱いていた。W氏の経歴を見るとすばらしいもので、学歴、所属団体、受賞歴、海外研修、大学の教授などの肩書きも一流で、誰もが認める素地を持っている。普通に制作活動をしていれば自然と名のある画家になっていたはずである。模写の研究に力を入れすぎだために彼の歯車が狂ってしまったように感じる。模写としての技術は誰もが認めるところだ。人の作品の模写を続けると作家として大切な発想の部分と画面構成である構図についての考えが欠落してしまう。正確に写し取る技術の追求に終始してしまい、職人としての技術の積み上げだけが身についてしまう。また、言い換えて言うと、クリエイターとして一番頭を悩ませる大切な部分である発想や構想、画面構成などは考えなくてもよい単なるコピーの仕事が模写の世界だ。絵の研究としてはいいが、その技術を自分のオリジナリティーにしようとすると無理がある。画家として初期の段階なら模写の研究はプラスになるが、画家として一本立ちしたら模写なんかやっていたら却ってマイナスになることが多い。絵で大切なダイナミック性(発想のよさ、大胆さ、迫力、動勢、活力などの情動性)の研究がより必要になってくる。模写は過去の作家の技術を研究するためにはいいが、それをいつまでもやっていたら駄目だ。その辺がW氏の歯車の狂ったところだと推測する。色や、絵の具の厚さを変えても絵の根幹となる発想と画面構成が同じならオリジナルではない。単なる模写としての仕事しかない。重ねて言うが模写はあくまでもコピーだ。それを自分のオリジナルと主張しても通らない。W氏は長年の模写の研究で画家としての大切な部分を忘れてしまったようだ。W氏は絵の修復師としての道に進めばその技術も生かせて大成できたと思う。W氏の地道な研究は貴重ではあるが、発表の仕方を間違えてしまったとも言える。コラボレーションとかオマージュとか言っていい訳をしているが、それがいけない。そんなことは作家として通らない。W氏はパソコンを全然操作できないと言っていたが、その辺が時代遅れの損失点だ。今やインターネット全盛時代において画家でも絶対に必要なものだ。もし、W氏がホームページで作品を公開していれば、早く気づきこれほど大きな問題に展開しなかったと思う。世界の情報が瞬時にして見られるこの時代であるから遠い外国の情報も筒抜けだ。多くの人の目を通せば、隠し事は通用しない。その辺がW氏の誤算でもあったように思う。また、W氏に大きな賞を与えた評論家や文部科学省の責任も大きい。W氏にとっては、模写の仕事に評価を与えられたと勘違いをしている面も見られるからだ。また、作品には『オマージュとか・・・氏に捧ぐ』とかの表記が必要であった。もし、その表記があれば、これほどの問題にはならなかった筈である。もちろん、賞の対象にもならなかった筈ではあるが・・・絵を取り巻く環境が、今の日本において首を傾げる状況であることは事実である。
平成18年11月23日(木) 記
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