びっくり箱 別館
横丁の隠居部屋

隠居の寝言
「手品評論家」



 以前から不思議に思っていたことなのですが、1億総評論家などと言われ、 あらゆる分野に「評論家」が存在しているように思えるこの日本にどういう訳か「手品評論家」という方がいらっしゃらないのです。
 或いは江戸時代の切支丹の様に「手品評論家」と名乗ると世間から迫害を受けて身の危険を感じるという理由で「隠れ手品評論家」として地下に潜っていらっしゃるのかと思っても、どうもそういう気配が感じられません。
 もしかして、本当に「手品評論家」という方はこの日本に一人もいらっしゃらないのだとしたら誰かが名乗る前に「私こそ、元祖手品評論家」と唾を付けておいた方が良いのではないかとさえ思ってしまいます。どうせ「元祖」が現れれば、いずれ「本家」や「家元」も現れるでしょうから、その時はその時で誰が本物かの議論を行なえばそれだけでも周囲は充分に楽しめると思います。

 評論家が存在しない、という事は手品が評論に価しないものと考えられているのか、それとも手品の評論などには全く需要が見込めないと考えられているのでしょうか?

 少なくとも私は手品だって評論に値するものだと信じておりますし、そうであって欲しいと願っております。評論家が存在しない理由は前者では無いと思っております。
 後者となると私もマーケッティングの専門家では有りませんし、どうやって需要予測を行なうか分りません。しかし、これだけ手品のファンが居て全く需要が無いとも思えません。

 それでは何か別の理由が有るのでしょうか?
 どこかのマジック・ショーなどの感想などを時として目にしますが、「なるほど、そういう見方も有ったんだ」と思うくらい自分の感想とは異なったものを感じます。つまりは一方は尺貫法で、別の方はメートル法で、また或る方はヤード・ポンド法でと夫々の皆さんが異なった物指しでお話をされている様に感じるのです。
 時にはもっと極端な例ですが、こちらの方は長さについて話をされているのに、こちらの方は重さの話をされている、或いは全く異なった土俵の上でそれぞれの主張をされている様に思う場合すら有るのです。

 こうした統一的な物指しと言うのでしょうか、基準が存在しないために「個人的な意見」以上のものを発表出来ない、と言うのが評論家が存在しない理由なのでは無いでしょうか。

 さて皆様、やはり今の日本に「手品評論家」は必要の無い存在なのでしょうか?
 私ですか?私は横丁の隠居、気が向いた時に八っつあんや熊さん相手に適当な能書きを言うだけの人間ですから、とても「元祖評論家」などと名乗る資格なんか有りません。



 1月7日にスタートしたこの『隠居部屋』、多数の皆様のご訪問を頂いて本当に有難う御座います。
 様子も良く分らないままにここまで勢いで走って来た様な気がしますが、この先皆様と長いお付き合いをしたいと思いますので、ここらで少しペースダウンをさせて頂こうと思います。
 一気に走って息切れを起こしてしまうよりは、休み休みでも長くお付き合いをした方が・・・と思います。





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