林子平の海防論

江戸の日本橋より唐、オランダまで境なしの水路なり!

子平の画像はみなもと太郎『風雲児たち』第5巻より

林子平(1738〜93)ってどんな人?
 林子平は名を友直といい、元文3年(1738)江戸で生まれた。1741年に父が同僚を殺傷し、浪人になったため叔父に預けられたが、姉が仙台藩6代藩主伊達宗村の側室となった縁で、兄が仙台藩士にあげられ、兄とともに仙台に移り住んだ。子平の身分は、無禄厄介というものだったが、彼はこれを逆用して自由に長崎に赴き見聞を広めた。
 林子平が生きた時代は、ロシアの南進を中心とした北方危機の萌芽期であると同時に、蝦夷への関心が一挙に高まった時代であった。子平は唐山、ヨーロッパ諸国に対外的危機感を抱くと同時にロシアの南下策を知り、日本を植民地化から防ぐために蝦夷地の確保を説いた『三国通覧図説』を出版し、翌々年には日本海岸総軍備という論旨の『海国兵談』を出版した。しかし幕府はいたずらに世間を惑わす行為としてこれを取り締まり、版木を没収して子平を罰した。このわずか4ヶ月後にロシア使節ラックスマンが漂流民大黒屋幸太夫を連れて根室に着き、61年後にペリーが浦賀に入港している。ちなみに渡辺崋山は子平死去の年に生まれている。

『三国通覧図説』について
 朝鮮、琉球、蝦夷三国の地図が中心であるが、記述のほぼ3分の2が蝦夷に関する記述である。日本の隣境にある朝鮮、琉球、蝦夷地の三国と、小笠原諸島の地図、日本とそれらの地域の路程を示す総図、合わせて五枚付いている。
 長崎で得たロシアの南下政策が執筆動機で、子平は蝦夷地の確保が日本のロシアによる植民地化防止になると考えた。そこで子平はロシア人より先に蝦夷地を日本の領土にするために、蝦夷地を経済的に開発し、アイヌを教化し、日本人の蝦夷地観を改め、蝦夷を日本の国内とする認識を確立することが急務であると考えたのであった。ここに子平の蝦夷地開発論、北方防備論の本質があるといえる。そして「日本全図」のなかには、中国、ロシア、フランス、日本の地図情報が含まれており、そのことにより日本人の地理的視野を一挙に北方へ拡大したのである。
 当時日本で認められなかった『三国通覧図説』は1832年に仏語訳が出版され、その付図「無人島之図」は、幕末、諸外国との間に小笠原諸島の帰属が争われたとき、日本側の有力証拠資料となった。

『海国兵談』について
 『海国兵談』全16巻は1786(天明6)に完成し、1788(天明8)に第1巻のみ刊行された。当初、1000部刊行する予定であったが、自家蔵版であり、巻数が多かったので、以後資金不足になり、全16巻刊行したのは1791(寛政4)で、わずか38部であった。
 第一巻「水戦」の主旨は如何にして日本を海外からの植民地政策から守るかということである。子平は自序で国内外の情勢を記し、水戦の巻で日本海岸総軍備の重要性・必要性を説き、総軍備の具体的方法や手段をいくつも提示している。特に海外を模倣して大砲を作り、軍艦を破る数々の方法と心得は工夫に満ちている。また、安房・相模の大名配置論を打ち出している。そして子平の考え方は異国からの侵入に対する国防の性格を持っており、国内における大名同士、または幕府の支配体制に対する反抗というような内乱、擾乱、内戦の場合を予想していない。これが子平自ら序で「日本前兵家の未發せざるところ也」とする所以である。
 江戸湾岸防備の緊急性を説いたのは彼が最初であり、対外問題の切迫をいち早く公にした意義は大きい。そして海防論に現れた強い対外的危機感、西洋列強との並立の欲求、富国強兵論などは、近代日本全体に強い影響を残した。
【原文】
「海國とハ何の謂ぞ。曰地續きの隣國無して四方皆海に沿る國を謂也」「軍艦に乗じて順風を得レば、日本道二三百里の遠海も一二日に走リ來ル也」「備に怠ル事なかれ」「海國の武備ハ海邉にあり、海邉の兵法は水戦にあり、水戦の要は大銃にあり。是海國自然の兵制也」「江戸の日本橋より唐、阿蘭陀迄境なしの水路也」
【現代語訳】
「海国とは地続きの国が無く、海に囲まれている国を言う。軍艦に乗っていい風を受ければ、2,300里はある日本まで1,2日で来られるだろう。備えを怠らないように。海国の防御は海辺にあり、海辺の兵法は水戦にあり、水戦の要は大砲である。これは海国では当然のことである。江戸の日本橋から中国、オランダまで境なしの水路である」

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子平関連の参考文献とリンク集

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