奥州戊辰戦争
〜東北の港町、石巻を中心に〜
佐幕派会津藩、討伐命令! 奥羽越列藩同盟! 奥羽越列藩同盟破れる 戊辰戦争時の石巻 三春藩の河野広中 「ヤーヤー一揆」 石巻と細谷十太夫、無敗の「烏組」
佐幕派会津藩、討伐命令!
慶応四年一月七日、鳥羽伏見の戦いで薩長武力討幕軍に敗れた佐幕派の会津藩主松平容保は、将軍徳川慶喜とともに江戸に逃げ帰り、江戸を焦土にしても新政府(薩・長・土・肥)と戦えと主張したが、勝海舟らに抑えられ、兵をまとめて会津に帰り抗戦準備を始めた。同じく庄内藩主酒井忠篤もまた、兵をまとめて鶴岡に帰り抗戦準備を始めた。十五日、朝廷は東北諸藩に対して慶喜追討をたすける事を命令し、続いて仙台藩主伊達慶邦に対して会津藩攻撃を命じた。二月三日、天皇は二条城太政官に行幸して討幕の為の、いわゆる親征の詔を発した。会津は京都守護職として、また庄内藩は江戸見廻役としてともに「勤皇」派を弾圧するために、公然とはやれないので新撰組や新徴組などのテロ集団を使って、反対派である「勤皇」の志士を暗殺させた結果、会・庄両藩は「勤皇」派薩・長両藩の深い恨みをかっていた。したがって江戸城に無血入城した新政府が、東北を平定するにあたって先ず会津・庄内の二藩の武力討伐を東北各県に命令したのは当然のことであった。三月二五日、仙台藩主伊達慶邦は軍議をひらいて会津討伐の部署をさだめ四月十一日には本営を白石におき、奥羽鎮撫使の副総督沢為量卿と下参謀大山格之助は薩長の兵を率いて、江戸薩摩屋敷焼き討ちの元凶である庄内藩討伐に向かった。四月十八日、会津討伐の督促を太政官からうけた慶邦は、藩体制維持=単純尊皇論にたって薩長を君側の奸とする家士の不満を抑えつつ、下参謀世良修蔵の督戦のもと兵を会津藩境に進めた。その頃会津藩主松平容保は鳥羽伏見の敗戦から軍制の西洋化をはかっており、部隊の年令別化や鉄砲装備のフランス式調練を行っていたが、短日時で身につくものではなかった。
奥羽越列藩同盟!
四月二十日、仙・会両藩は戦いを交えたが、両軍とも戦意なく形式的な戦闘を繰り返すのみなので、焦った世良修蔵は白河城に入り城内の仙台兵に会津に攻め込むよう命じたが、伊達慶邦は白石城より令を発しその進軍を止めた。このように会津藩討伐を不可とし、会津藩を救おうとする動きが奥羽列藩のあいだでも進んでおり、仙・会交戦が八百長的であったのはこの故である。四月九日、会津藩と庄内藩が同盟を組み、閏四月十九日、福島にあった世良修蔵は仙台・福島両藩士に捕縛され、翌日須川河原で斬られた。その後奥羽列藩の重臣は仙台で会合し、奥羽列藩より王制復古の業をなし遂げるべしとの趣旨から奥羽二五藩が仙台藩を盟主として同盟を結んだ。そして米沢藩の工作により、新発田(しばた)・長岡両藩が同盟に加入した。奥羽列藩がこのように動いたのには、直接にはその尊皇論の性格に起因している。それは、藩体制の否定を含まず、各藩の自立のうえに天皇をおくものだった。藩体制に疑問を感じないが故に、奥羽戊辰戦争を会津・庄内両藩と薩・長両藩の藩相互間の私闘とし、薩・長両藩はこの私闘に天皇を利用していると考え、奥羽列藩はこの私闘に利用されていると考え、ついには、会津藩の救済へ、同藩への荷担へ、さらには、尊皇のために君側の奸=薩・長を討つこととなったのである。
奥羽越列藩同盟破れる
東軍にとって戦況が日々に悪化し、三春藩の反盟がこれを決定的にした。戦争途中、三春兵が北上軍と合流したために仙・米・会の連合軍は敗れ、孤立した守山藩は降伏、続いて相馬藩も孤立し、同盟を脱して官軍に降伏した。越後においても新発田藩の反盟より、東軍の敗勢が決定的となった。二本松城を破った官軍参謀板垣退助は会津を急襲することを決め、八月二十日から若松城に進行した。この時町家に火をはなったところ、戦に敗れた白虎二番士中隊二十名が飯盛山からそれを見て落城したと思い自刃した(白虎隊の悲劇)。
戊辰戦争時の石巻
九月四日になると米沢藩が降伏し、ついで十四日には仙台藩も降伏。その頃、幕軍の榎本武揚らは開陽丸にて海路石巻沖に停泊し、石巻を根拠として仙台藩とともにもう一戦官軍に挑むつもりであったが、細谷十太夫らの進言により中止し函館に向かった。そして松平容保は孤立無援のなかで降伏を決意し、十五日、参謀板垣退助に降を乞い、二二日、若松開城となった。これをもって奥羽戊辰戦争は終わりをつげた。
三春藩の河野広中
前述した三春藩の反盟には、後の自由民権運動の運動家、河野広中が関わっている。彼は一八四九年三春藩の郷士の三男として生まれた。十六才で水戸天狗党への参加をはかり、十八才の時白河城を占領し、棚倉城を落としてそこに陣営を構えている西軍の参謀板垣退助に面接して、三春藩の無血帰順を交渉する一行に加わった。その後、広く東北地方の運動をリードしていくことになる有志会(のちの石陽社)と三師舎を結成した。
「ヤーヤー一揆」
この若松開城後わずか一週間、つまり会津藩の支配がくずれ、それにかわる新政府の支配がまだ確立されない時期に、約二ヶ月にわたり会津地方一帯を世直し一揆が席巻した。「ヤーヤー」とときの声をあげたため「ヤーヤー一揆」と呼ばれたこの一揆は、ほらがいを吹き、鳴り物をならし、「肝煎征伐」の旗をかかげて村役人や豪農商を襲い、旧会津藩全域に及んだ。その要求は、肝煎、郷頭などの村役人の改選、検地帳や年貢帳のとりあげ、戦争と不作のため、年貢を全免せよなどであり、そのかなりの部分を実現した。一揆の先頭にたった藤吉は、やがて新政府により偽金づくりの汚名をきせられ斬首された。そして会津盆地のほぼ中央、河沼郡湯川村の古刹、勝常寺に葬られた。又、この一揆の攻撃を受けた豪農商の中から、後の自由民権運動の運動家、宇田成一が生まれた。
石巻と細谷十太夫、無敗の「烏組」
前述した幕軍の榎本武揚の官軍への戦を中止させ函館へ向かわせて石巻を戦火から救った細谷十太夫は、石巻との関連が深い人物である。細谷家は伊達家の世臣で政宗公に従って仙台に住み、十太夫は幼くして両親を失ったが、自ら修練を積み剛毅果断、武術に優れ、二十才で作事方郡役人となり、部下に対しては私財を投じてその面倒を見、若くして多くの部下の信頼を得ていた。閏四月十九日、世良修蔵斬殺後、奥羽列藩同盟を締結した仙台藩が佐幕派となった頃から、細谷の活躍が始まった。細谷は数十名に依る衝撃隊を結成し、「烏組」と称して黒衣装に身を固め太刀を帯び槍は持つが銃は持たず、夜襲を得意として暗闇に乗じて官軍の陣営に忍び込み、多くの薩長兵を斬殺した。九月十一日、仙台藩は降伏したが、この烏組だけは三十戦全勝だった。
明治二年となり、新政府軍は仙台藩の佐幕派を次々と処刑したため、細谷もお尋ねものの身となり、逃亡、潜伏し、その間千両の金を調達して、これを部下に配布して烏組を解散させた。翌明治三年、細谷は北海道開拓庁吏員となり日高国沙流郡の開拓事業に取り組んだが、あまり成功しなかった。
明治十二年、細谷は宮城県五等属となり、自ら立案した宮城郡居沢、愛子石巻門脇大街道の荒地開拓事業に取り組んだ。そしてそれらが大体軌道に、乗った頃の明治二二年、再び県令で北海道に渡り、住民に耕作の術を教えつつ4年間程を過ごした。細谷は日清戦争後、再び石巻に住み石巻門脇大街道開拓事業を指導しつつ、数年を経て明治三六年五月、石巻を離れるとき歌を残した。
弓矢とる むかしの身には
ひきかへて 牡鹿の原を 引き去りにける
烏仙居士