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 山形県には古くから「草木塔」なるものが有り「山川国土悉皆成仏」(さんせんこくどしっかいじょうぶつ)(全てのものは心があり成仏するという仏教の考え方)がベースになっているようです。
 近年、山形大学を中心に「草木塔ネットワーク」が発足し、2009年3月に会誌の創刊号が発刊されました。
 草木塔ネットワークの会員でもある管理人が拙文を寄稿しましたが、草笛と関連もありますので下にコピーしました。
 感想などお聞かせ願えれば幸いです。

草に想う

全国草笛ネットワーク事務局 溝口忠博

横山祖道師

 草木塔ネットワーク編集の本「いのちをいただく」に、渡辺誠弥氏が「草木塔雑記」を寄せられており、その中で草笛和尚こと横山祖道師を紹介しています。
 記述によれば、渡辺さんがNHKアナウンサー現職だった昭和五十年の夏、懐古園に祖道師を訪ねたそうです。渡辺さんは「マイクを向けられるとしゃべりにくい」と言っていた師から、故郷(現在の宮城県登米市)のことなどを話題にする中で、草笛の草についてとか道元の四摂法についてなど、ある種の根幹的な言葉を引き出されています。

横山祖道師は三十年ほど前に没していますが、生前、小諸市の懐古園で草笛を吹いては訪れる人に禅の道を説いたことで知られた禅僧です。私は昭和四十八年に懐古園を訪れているのですが、当時は祖道師のことを知らず、残念ながら会った事はありません。しかし、その後草笛に関わり、草笛関係者による師の十三回忌には参加しています。

祖道師の言葉の中に、次のような印象的なものがあります。
 昭和十七年肥後の野へまいり、生まれて初めて麦刈りをした私が、麦の根もとに咲いていた草の花を麦と一緒に刈ったとき、痛い腰を伸ばして、こう思いました。
 「こういうこと(麦の根元の草の花が麦と一緒に刈らるるということ)は歌に詠んでもよまなくとも一つの歌ではないか」と。私このことから宇宙人生一切は題しらず読人しらずの歌と申してもよいと。(紀尾井書房「草笛禅師歌曲集」より)

実を付けることなく刈られてしまう草も、地上に芽生えて間もなく枯れてしまう命も、あるいは天命を全うして子孫を残せた草も、無限の自然界の中で考えた時、それぞれに比較することのできない尊さを持っていることを言ったのかと思います。

同事
 
 渡辺さんの文によれば、祖道師は「私はね、草笛始めるときね、道元さんの四摂法をうんと勉強したんだね。布施・愛語・利行・同事てやつね。草笛ひとつでそれが出来るんだね。しんみりするとふっと世の中のこと忘れるんだね。そうすると天然にほっとしてね。我を忘れるんだね」とあります。

四摂法は、永平寺を開き日本に曹洞宗を広めた道元禅師の提唱した教えで日本曹洞宗の根幹をなすものだそうです。今ここで四摂法について解説する学識はありませんし、それが本意でもありません。ただ、中のひとつである「同事」は、草木塔を建て、守ってきた人たちの想いと深く重なっているような気がしてなりません。
 曹洞宗のお寺へ行けば四摂法について詳しく説明したお経が有るはずだと思いますが、同事とは「あなたは私」ということだそうです。もう少し言い換えれば「あなたは他人に見えるけど実は私そのものです」となるでしょうか。

「一つしかない命」とはよく使われる言葉ですが、私は「命は二つある」と考えています。先ず、誰もが意識している肉体的な命で生殖細胞の合体と遺伝子の複製によって親から子へ受け継がれて行く命です。もう一つ、それとは別に「魂の命」と呼べる命があるはずだと思うのです。
 魂とは、何となくイメージされているように「産まれた時ヒョッコリ入ってきて、死ぬ時フワフワと出てゆく」というものではありません。人間の場合で情報や知識について考えてみますと、産まれた時に持っているものは遺伝子による本能的な情報と、母親の胎内で聞いたり感じたりした僅かな情報だけなのではないでしょうか。その後成長するに従い言葉を憶え、知識を蓄え、感受性を養うなどで人格を形成して行くことは、多分間違いないと思います。この人格こそ「魂の命」と呼べるのではないかと考えています。

これらの知識や理解の仕方は、直接には親・兄弟・友人などから受け取りますが、メディアや本など様々な媒体からも受け取ります。それら沢山の頂くものは、くださった相手のものかというと、その相手もまた沢山の人から受け取っているのですから、これはもう無数の人から頂いていることになります。
 わたしたち人間が生きてゆく上で、衣食住さえ足りれば満足かと言えば決してそうではないと思います。欲を満たすことによって得られる喜び(云ってみれば本能の歓び、あるいは遺伝子の喜び)は勿論あるのですが、その他に「心に響く喜び」「心が震える喜び」といったものがあることは誰もが実感しているのだろうと思います。私はこれを「魂の喜び」または「共鳴する喜び」と呼んでいます。

少し視点を変え、宇宙の果ての果てを想像してみてください。最新の望遠鏡を駆使して観測しても現在は120億光年前後の所までしか観測できないようです。そこからさらに向こうの1000億光年先、その又向こうのその向こうはどうなっているかを考えてみれば、自然界は人間がどんなに研究しても解き明かすことが出来ない無限の大きさを持ったものと言えます。
 この無限の自然界を仮に「神」(御札を授けてくれる神様とは別)と呼んでみれば、私たち生物は神によって一瞬を生かされて居るに過ぎないはずです。神によって生かされているなら、神の意思にそって生きるのが最も自然な姿だろうと思います。

では、神の意思をどのようにして知るかですが、私は神の意思に沿って生きた時「喜び」を感じ、その意思に反した時「苦しみ」を感じるのではなかろうかと考えています。このように仮定してみますと、なるべく多くの喜びを求めて生きて行くことこそ神の意思に沿うことであり、望ましい人生と言えるのではないでしょうか。
 欲を満たす喜びも立派な喜びですから大いに求めて良いと思いますが、見方によっては「魂の喜びこそ求めたいもの」との考えも成り立つのだろうと思います。

このように、私たちの人格を構成する魂というものを考えてみると、生まれてから死ぬまでの間に無数の人や自然の事象から様々のものを受け取り、自身の中で磨き、同時に一生の間に多くの人に受け渡してゆくものであることは多分間違いありません。ですから自分の魂は自分のものであると同時に無数の人から預かったものでもあるはずです。
 今、自分の中に存在する「魂の命」を想像してみると、親・友人・恩師など、顔と言葉が一致して思い出される場合はありますが、大半は誰から頂いたものか見当もつきません。つまり、自分の中にある魂は当然自分のものなのですが、頂いた無数の魂も同時に生きていることになります。
 遺伝子の命の場合、自身を繁栄させ子孫を多く残すことこそ重要課題であり、他者は競争相手に過ぎません。しかし、魂の命はその無数のつながりを考えてみても全ての魂は一つに結ばれていると考えることは出来ないでしょうか。道元の云う「同事」とは、このこと指していると思えてなりません。

このように考えてきたのですが、最近、肉体も又「あなたは私」と言えるのではないかと思えてきました。
 動物も植物もその体を形成しているものは数多くの元素ですが、中でも炭素と水(酸素と水素)が大部分を占めます。人間の場合、死ぬと火葬され二酸化炭素と水蒸気になって大気中に漂いますが、土葬の場合も菌類に分解されて同じようなことになります。
 大気中に混じった二酸化炭素はやがて植物に吸収され、光合成でお米や野菜や材木になります。地球全体の生物の営みで見れば、植物も、それを食べさせてもらっている動物や昆虫も、炭素を初めとするいろいろな元素が単に形を変えているに過ぎません。

科学的研究も進んでいない七百年以上も前に、道元禅師が「何もかも、あなたは私ですよ」と考えたとしたら、その慧眼(けいがん)には驚くばかりです。道元禅師がそう考えて居たかどうかは別として、草木塔に関わった人たちが「自分たちは草や木によって命をつないでいられるし、草や木も同じ命なのだ」と考えただろうとは容易に想像できます。

草笛は自然への入り口

講演などで「草笛が吹けるようになると幸せになれる」と話すと余りの我田引水に皆さん一様に苦笑いされます。もちろん冗談なのですが、自然を深く知ることが幸せへの早道だろうとは思っています。

草笛は草の葉も使いますが、多くの場合木の葉を使います。吹けるようになると、吹きやすい葉、音の良い葉を求めていろいろ試してみたいのは人情ですから、山野を歩き回って良さそうな葉を探します。「これは具合が良い、これは今ひとつ」とやっているうちに植物のことに詳しくなって行きます。自然を深く知るためには先ずそこに入ることと親しくなることが大切ですから、草笛はそのきっかけであれば良いとも言えます。

草も木も(種類によって大きく違う)生涯の間に何千何万、あるいは何百万という数の種を実らせます。しかし統計的にみれば生涯に残せる子孫は一本前後しかありません。その根拠を、一本のシイの木(実を落とす期間を百年と仮定して)で計算してみましょう。もしも百年の間に子孫を二本残したとすると、二百年で4本、三百年で8本、という具合に増えて行きます。たった千年で千倍、二千年で百万倍になりますから、生物の歴史の過程では一瞬でしかない期間に、どこもかしこもシイの木で埋め尽くされてしまいます。

人間の場合も、一人が生まれるために何億(見方によっては何百億)という兄弟が産まれることが出来なかったのです。自分がこの世に生まれて来たことを当然のことのように思い勝ちですが、生まれて来ただけで「一枚だけ買った宝くじが毎回特等に当たる」より、もっともっと少ない確立の幸運に恵まれたのです。
 このように、植物も人も「この世に生まれてきた」だけで途方も無い幸運なのですから、一歳で死んでも二十歳で終わっても、生まれてこなかったより「幸せ」なはずです。横山祖道師の「麦と一緒に刈られる草」とは、そのことを言っているのではないでしょうか。

自然界への入り口は草笛に限りません。星を見る、森を歩く、山へ登る、何でも良いと思います。自然界を知ることで、その無限の大きさを意識することが出来るし、そこに「今生かされている」ことの幸運を実感できるような気がします。
 大変な幸運を実感し、全てのものを「あなたは私」と理解すれば、心の中は感謝で満たされるのではないでしょうか。当然ながら他者への妬(ねた)み・恨(うら)み、憎しみなどは棲みつく場所がありません。

「全てに感謝する」これこそが「幸せ」への必須条件だろうと思います。草木塔なるものの存在を(長井市在住の多田知子さんから教えられた)初めて知った時、言い知れぬ感動を覚えました。草木塔を建て、守ってきた人たちが、単に「草や木のお陰で生活できる」だけでなく、無限の自然界に対する感謝の想いを草木塔に込めたのではないかと感じたからだろうと思います。

(浜松市在住、ホームページ 全国草笛ネットワーク)