今朝方見た夢・夢殿
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(241-250)−−−−+−−−−+−−−−+
点には大きさがない、そう習ってきた。
一日に4分余計に進む時計
若い人は洋服の裾をズボンの中に入れない。
蕾のうちは太陽の方角を追うという向日葵も
パスワードを使ったアクセスの制限
3色や4色のボールペンを何本か
浪漫のかけら
夜の訪れとともに活動をやめ
デパートの最上階にある催し物会場に行き、
クリームスイカ
(251-260)−−−−+−−−−+−−−−+
ふと蝉の声に気をとられて、姿を
ごく薄い藤色のさるすべりが咲く。
この桃の木は家の者が気をつけていないの
私って、幸せ者よね。彼女が僕に向かって
自転車のペダルを漕ぐのが少し重いのを
ドーナツの穴の数はいくつだろう。
光陰矢の如しと誰かが言ったけれど、
北海道は広い。地図を見ればそんなことは
百年の孤独
暗い道、虫の声だけが聞こえる閑かな夜。
(261-270)−−−−+−−−−+−−−−+
案山子といえば田舎というイメージを
今日のお供は草上仁の「よろずお直し業」
朝、その部屋に踏み入れると、蟋蟀の声が
フィナーレをこんなにはっきり予想して
やっと台風が去った。また次の
アメリカのテロの事件は、
香り松茸、味しめじ
鬼の書く欄
秋の彼岸の頃に咲くので、彼岸花。
カメラと替えのレンズ、そして何本かの
(271-280)−−−−+−−−−+−−−−+
今度の週末は、「塔のへつり」にいくけど、
木犀の香りを嗅ぐと無性に死にたく
月は、いつも同じ側を地球に対して
和菓子の恩について調べたついでに
売り切れていて、ちょっとほっとした
秋刀魚の焼き方について
3リットルほどもある薬缶に茶を
ノーベル賞を日本人が取ったと巷の
葉の縁が黄色くなりかけたイチョウの
雨のおと
280
━−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−280 

二本の直線を交差させたとき、その交わったところに点ができる。
これが交点である。ところでこの点の大きさはいつも同じなのだろうか。

点には大きさがない、そう習ってきた。
いわばそれは大きさ(長さ)がゼロであるというということができる。
二つのゼロの長さを持つ点があったときに、
そのゼロとゼロの間に大小関係は成り立たないのだろうか。

つまり、二本の直線を直交させたときと、斜交させたときでは、
点の大きさが違うのではなかろうか。
これを考えるために、ユークリッド平面上に、
有限かつ正の間隔の二本の平行線を考える。
この平行線の間隔を近づけていき、間隔がゼロとなった時に、
ついに一本の直線と等しくなる筈である。

ならば更にもう一本の直線を、この平行線と交わるように置いてやる。
この二本の平行線によって切り取られる線分の長さを考えてやるのである。
この平行線の間隔を近づけていくと、この線分の長さはゼロに近づき、
最後には点となる筈である。

だが待てよ。平行線の間隔をゼロに近づけた極限では線分の長さはゼロになる。
ところが、それ以外の全てに置いては、この線分の長さは、交わる角度、
正確を期すならば角度の逆正弦に依存するではないか。であれば、
この交点の持つ大きさ(長さ)も交わる角度によって異なっても良いではないか。

数学ではこういう問題をどう扱っているのだろう。
そういえば、有限の数をゼロで除するのは「不能」であるが、
ゼロをゼロで除する場合のみ「不定」であるとも習った覚えがある。
つまりゼロ対ゼロは1とは限らないということだ。
だから、点には大きさがないけれど、大小関係があっても良いということか。

(2001.07.17)
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完全に止まっている時計と、一日に4分余計に進む時計と、
どちらが正確だろうか、という頓知クイズを知っていますか。

答えは完全に止まっている時計です。一日に4分余計に進む時計というのは、
放っておけば年に約2回しか正しい時刻を示さないのに対し、
止まっている時計は一日に2回、正しい時刻を示すのです。

ごく正確な時計があったとします。その時計の時刻合わせに失敗して、
1分だけいつも進んだ時刻を指している時計を考えると、なんと驚くべきことに、
その時計はそのままにしたら、永久に正しい時刻を指すことは無いのです。

だとすると、なまじ高級な腕時計なんかを買ってみるよりも、
マジックで腕に時計の針を書いておくほうが、
よほど正確だということになってしまうのです。

えっと、あなたはもしかしてこのように考えませんでしたか?
いつも1分だけずれている時計ならば、いつもその時刻から1分引くだけで
正しい時刻を示すのだから、それは正しい時計と言っても良いのではないか。

でも、考えてみてください。一日に1分余計に進む時計でだって同じなのです。
今日は1分差し引いたのなら、明日は2分、明後日は3分と差し引けば良いのです。
この理屈で行くのなら、1日に1分ずつ遅れていく時計でも、
5分ずつ遅れていく時計でも、なんと、1日に1時間ずつ遅れていく時計だって、
同じことをやる気になればできる筈なのです。
だから、これは正確であるということの取り立てるほどの理由にはならないのです。
正確な時刻を全く指さない時計と、1日に2回は正確な時刻を、それも定期的に
示す時計では、どちらがより正確であるかはもう、一目瞭然でしょう。

ほら、時間なんていうものは、所詮このようにいい加減なものなんですから、
ちょっと寝坊しての遅刻くらいで目くじらを立てる必要なんて無いんです。ね?

(2001.07.17)
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連休に人混みの中へと出掛けて行って。
人を待ちながら駅のすみっこで人の流れを観察していて知ったこと。

若い人は洋服(Tシャツにしろポロシャツにしろ開襟シャツにしろなんでも)の
裾をズボンの中に入れない。

洋服の裾をズボンの中に入れていないからと言って、
その人が若いわけでもおしゃれなわけでもない。

あーあ、せっかくアロハの裾をジーンズから出して歩いてみたのに。

(2001.07.22)
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蝉も鳴かぬほど暑い日がつづいていて、うちわを使っても風がぬるい。
昼飯を喰いに行こうと、自転車で風を切ってみても顔にはぬるい風。

背骨に滲み入るような日射しの暖かさは嫌いではないのだけれど、
連日だといささか飽きてくる。

道脇に植えられた向日葵は、種を蒔いた時期によりなのか
まだ蕾のものもあればとっくに咲いてしまったものもある。
行きつけの食堂の前に植えられたそれは、肥料が良いのか、
特にたくましく育っていて、花の咲くのも早かった。

人の顔の倍はあるかという葉を重そうに垂らし、
中心に一本それを支える茎が生え、やはり人の顔以上ある花をつけた。

蕾のうちは太陽の方角を追うという向日葵も、
いざ咲いてしまうと向きを変えたりはしない。
やがて種を実らせると、今度は雨を避けるかのように、重みで下を向く。

儚く散る春の花でもなく、夏の日射しの中に散らで咲きつづける、
盛りをすぎた向日葵の花の周辺に生う花弁は萎れていてもまだ黄色で、
なにか年老いた人間の強さのようなものを感じさせる。

飯を喰い終わった帰り道、太陽にむかうと、眉毛のあたりに熱を感じる。
やはり黒は効率よく熱を吸収するのだろうか。
日傘は白よりも黒のほうが紫外線を効率よく吸収するとのこと。

眉毛だけ脱色して向日葵の花弁のような金髪にしてみようか、
などと戯れ事を思いつくが、実際には実行するわけもない。

(2001.07.24)
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ちょっと必要があって、パスワードを使ったアクセスの制限について勉強してみた。
っていっても、このサイトにゃ隠しページなんて… たぶんありませんが。
せっかく勉強したので、まとめて書いておこうかと思う。

サーバのBASIC認証機能とかいうものを使うのが一番安全らしいが、
そういうのが面倒な場合にはJavaScriptを使うことがあるらしい。

注意点。JavaScriptそのものが、ソースを非公開にするようには設計されていないので、
アクセスの制限法としては、完全に安全とは言えない方法であることを知っておくこと。
ブラウザの種類や設定によってはJavaScriptが無効となっている場合があるので、
これを想定しておくこと(JavaScript無効な環境では完全にアクセスが制限されるのは
まだ良いとして、JavaScript無効な環境ゆえに制限されないことへの配慮も)が必要。


アクセス制限の目的
以上のようなことを考えると、この方法では完全な排除を求める必要がない場合に限る。
・仲間内の写真などのように、プライバシーの面から他人には見られたくない場合。
 (だからと言って、見られたら非常に困るというほどのものでもない場合)
・特定の趣味の仲間のみが閲覧をすることを前提としている場合。
 フリーに閲覧できるシステムにはなっていないことで、
 閲覧をする者の同意を得たと解釈することができる。
・クイズの答えをパスワードとするなど、正解者に賞品を出すような場合。


制限方法その1 URIの隠蔽
秘密にしたいページのURIを知るためにパスワードを必要とする場合。
 一度正しいURIが知られると、パスワードを知らなくてもアクセスが可能となる。
 これはパスワード教えるという行為がディレクトリ構造を教えるという行為と相似になる。
 たとえば第3者が掲示板などにリンクしてしまった場合等に無力となる。
 したがって、巡回ロボットによる情報蒐集への対策なども考えた方が良い。

制限方法その2 ページへのアクセスの制限
パスワードが間違っていたら、もとの(/他の)ページへ跳んでしまう方法
 Script を無効にされると働かない。
 外部JavaScriptなどからジャンプさせたうえで、フレームを併用その他で
 少なくとも正しいパスワードが入力されるまではURIが表示されないようにしてやれば
 少し効果が高いと思われる。

制限方法その3 ページの表示の制限
暗号化されたhtmlページソースを復元してもどさないと正常に表示しなくする方法
 なによりも、暗号化されたhtmlページソースの作成、修正が面倒である。
 基本的には暗号の復元方法がスクリプトソース中に示されてしまう。
 rot(文字コードの回転)などのテクニックを用いた場合、数字が有限であるため、
 JavaScriptのソースの閲覧により暗号化法が解読されると、復元が容易となる。


以下、主にURIの隠匿による制限方法に絞って書くことにする。

入力方法その1
Htmlタグで入力用 Form とボタンを作る方法。
 ソースを見るのが容易である。

入力方法その2
プロンプトウィンドウを使って、ダイアログボックスを開く方法
 プロンプトウィンドウが開かれている間はソースを見られないが、
 JavaScriptが無効な場合にはそもそもプロンプトが開かない。


認証方法その1
特定の文字列(スクリプト中に記載)と比較する方法
 スクリプトソースを閲覧した時点でパスワードが判ってしまう。

認証方法その2
次に跳ばそうとしているディレクトリ名、ファイル名がパスワードそのものである方法
 容易に予想されるような名称、意味のあるファイルを用いるとばれやすい。
 同じディレクトリに index.html などを置いて
 ディレクトリ内を見られないようにする必要がある。
 間違ったパスワードを入力した場合、偶然にその名前のファイルが別に存在すると
 そこへ跳んでしまう。そうでない場合には、「File Not Found」が表示される。
 これらは下の、方法その3で避けることができる。

認証方法その3
特定のフォルダの中にある画像ファイルの名称がパスワードである方法
 その2に併用するのが一般的。
 ページ内に画像を読み込むことができる(画像ファイルが存在する)かどうかで
 チェックする。
 特定のフォルダ内には(少なくとも制限したいhtmlと同じ名称の)画像ファイルを
 一つしか置かないようにする必要がある。

認証方法その4
特定のフォルダの中にある外部スクリプトのファイル名がパスワードである方法
 パスワードを2つ要求するような方法を採る場合には有効かも知れない。
 外部スクリプトのファイル名が判らなければ、スクリプトの内容を
 知ることができない可能性が高いため、認証方法の1を併用できる。


スクリプトの隠蔽方法その1
パスワードを使っているという姿勢を見せることが重要なのでソースに直接書く。
 EUCなどのウィンドウズ系とは異なる文字コードを用いる事も少しマシになる。
 文字コードを再指定して別名で保存し直したり、複数の文字コードに対応した
 テキストエディタで見るなど、少し知識があればソースを見ることができる。
 Scriptを少し勉強したことがある人には、見たらすぐに判ってしまう。
 ほとんど隠蔽したことにはならないが、知識の無い人だけを締め出したい場合には有効。

スクリプトの隠蔽方法その2
その1に加えて、右クリックを禁止して、ソースを隠していることをアピールする。
 これもメニューバーから「ソースを表示」したり、
 スクリプトを一時に無効とすることで閲覧が可能となる。
 ほとんど意味が無い上に、もしかしたら隠す価値があるものを隠しているのでは、
 と勘繰られてかえって逆効果かもしれない。

スクリプトの隠蔽方法その3
フレームを併用する方法
 ブラウザで表示されるURIが、表示ページのものと異なるので、
 ブックマークへ加えたり、リンクを貼られたりする危険性が少し下がる。
 リンクを貼る時に、targetを_parentや_topを適切に指定しないと、
 多重フレーミングになるおそれがある。

スクリプトの隠蔽方法その4
JavaScriptによりページを開いたら、即座にプロンプト画面を表示させ、
 入力が終了と同時にページを閉じてしまう方法

スクリプトの隠蔽方法その5
その4に併用して、JavaScriptを用いないとそのページに辿り着けない方法。
 完全にこれを実行することは不可能だが、<NOSCRIPT>タグで警告などを出すことはできる。

スクリプトの隠蔽方法その6
認証方法の2、4と併用する方法。


スクリプトのソースの例はそれぞれネット検索などで探してみてください。
(万が一ご要望があれば掲示板などでどうぞ。手抜きですみません。)

(2001.07.24)
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3色や4色のボールペンを何本か持っている。
一本だけ持てば何色も使えるというのが売りなのであるが、
必ずしもそう便利なわけでもないと思う時もある。

だいたい、良く使う色というのはその人により決まっていて、
僕は黒や赤ばかりを使うから、青や緑は残ってしまうことが多い。
替えの芯だって探せば売っているのだろうけれど、
面倒くさがりなので、芯を替えてまで使うのもおっくうで、
あまり使わない色専用のボールペンと化してしまうのである。
言い訳ではあるが、本体がプラスチックでできているのだから、
そう何度も芯を替えて使うようには設計されていないのだ、きっと。

だから、本当のことを言えば、例えばゲルインキの水性ボールペンのような、
書き心地の気に入ったものを、それぞれの色ごとに用意しておくほうが、
ずっと便利で、手にとってみたものの必要な色はつかへないなどということが無い。

ではなぜこのようなボールペンを使い続けるのかというと、
もらいものなどで自然と増えてしまうというのもあるのだが、
ボールペンの尻の部分の色を変える機構が面白い
−シンプルでありながらよく考えられた構造をしている−
というのが、ちょっと気に入っているからなのである。

(2001.07.24)
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浪漫のかけら
出発まであと10分ほどもある電車のベンチ席に座って、
向かいの席に可愛い子でも座らないかなぁなどと思いながら、
窓の外を何とは無しに眺めやっていた。
やがて対岸のホームに列車が入ってきた。
少し大きめの駅なので、ここを始発とする線もあれば、通過していく線もある。
今きた向こうの列車はといえば、乗降客の出入りがすめば、またすぐに出るようである。

向こうの窓から、笑顔の綺麗な、というより、悪戯っぽい笑みがかわいらしい
という表現が似合うようなご婦人が、こちらへ向かって手をふっている。
誰か知り合いでも見つけたのだろうかと思いきや、さにあらざるようで、
こちらの車両にも該当しそうな人は見あたらない。
ちょうどその窓の向かいにあたる席に座っていたサラリーマン風の男性が、
それを目にしたようで、しばし、とまどったようにあたりを見渡してから、
意を決したように手を降り返しはじめた。

くだんの女性も、ボックス席の向かいに知り合いが座っていたのだろう、
その人に笑い崩れながら、ほら、手を降り返してくれたよ、と口が動く。
そうして更にたのしそうに列車が出るまで手を降り続けるのだった。

かように見知らぬ人に気軽に挨拶をできる場面というのは、ごく限られてもいよう。
もちろん、街中でそれをしても構わないのであるが、
相手が挨拶を返してくれなかったらと思うとなかなか気恥ずかしいものだ。
ところが、すれ違う列車の窓越しだったり、観光地の遊覧船と対岸だったり、と、
必ず相手とすぐに別れてしまう場面であれば、自然と気軽に挨拶を交わすようだ。
山に登った時に、すれ違う者どうしで声を掛け合うことが
マナーとなっているのも、同じことなのかも知れない。

思えば、ヤマトが地球を出発する時に、スカーフを振って送り出した彼女も、
ふとした悪戯心に赤いスカーフなど振っていたのかも知れない。
…誰のためだと思っているの。
 誰のためでも良いぢゃないか、みんなその気で居れば良い。

(2001.07.24)
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夜の訪れとともに活動をやめ閑かに横たわっていた屍体を、
朝の訪れとともに蘇生させる儀式を執り行うためには湯が必要である。
夜のうちにすっかり下がってしまった体温を、
朝になってすっかり温めるためにはつめたい水では不適当なのである。

必要が満たされていないならばどうにかしようと思い立ちて電話をする。
私はいまここに居るけれどもうすぐここより居なく。
必要があれば呼び出すためにこちらへかけてほしいと電話番号を告げる。
私は扉を大きく開けると暖かい日射しの中へと踏み込んでいく。

今か今かと心の中で待ちおれど呼び出しの音は響かない。
少しばかり期待を裏切られた気持ちで一日をすごし。
今宵は無理かと諦めていと暗きねぐらへと舞い戻るよりない。
少しばかりの灯りが闇に光っているのは電話に伝言が残されたる徴。

もしもし、リンナイと申しますが。
お電話をいただいてすぐ社員の者が伺ったのですが、
もうお出かけになった後だったらしくて室外の給湯器を直した時お留守だったのですが、
お湯が出るようになっているかどうかご確認くださいませんか。

ああよかった。
あさの水のシャワーは冷たくて心臓が止まるかと思ったのだ。

(2001.07.26)
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友人と、デパートの最上階にある催し物会場に行き、
帆船の模型の展示会というものを見てきた。

船の胴体の部分も、何枚も板を積層させて削り出すのだろうか、本物の船が、
木を張り合わせて造っているように、一枚一枚の木目が少しずつ異なる。
凝ったものになると、その木の色も同じような色をすこしずつ色を変えながら
積んであって、木の赤味がとても美しい。

メインのマストから伸びるロープの結び目の部分も、ロープをなぞらえる糸よりも、
更に細い絹糸か何かで、本物のロープの縛り目よろしく括ってある。
つまようじの頭を削って造ったような小さな部品もついている。
船の構造に詳しくないので、どれが何なのか、わからないのがちょっと哀しい。
一体、これ一隻にどれだけの労力が費やされているのだろう。

いや、趣味でつくる模型に、労力という言葉は似合わない。
高々1メートルもない模型に、6桁の値段や、立派な精緻な模型だと7桁の
値段がつけられているのも、模型を造る人の思い入れなのだろう。

今、海を渡っているどんな船よりも、かつて渡った帆船は絵になるものだと思う。
実際には、風を待ち、帆にはらみ、星や渡り鳥に導かれて海を渡るのは、
今の技術をしてみれば、戯れ事としか言わないのかも知れない。

何隻もの、それぞれ異なる形、色、そしておそらくは異なった時代の、
帆船の模型を眺めながら、想いを遠くに馳せる。
再び大洋を帆船が支配する時代は、もうこないかもしれない。
だが、宇宙でだったら、どうだろう。

いくら速く航行しても、摩擦を起こす風がなければ、どんな形でもとれる。
大気を通り抜けるためにはなるべく摩擦の少ない形をしているのかもしれないが、
だが大気の上や月面で作るのなら、それは可能だろう。

太陽風をうけ、ゆっくりと、とはいえそれは宇宙の規模に対しての
ゆっくりであり、実際には光の速度の何パーセントかにも届く速度で、
緻密に作られた帆を広げ、進みゆく勇姿。
想像の中の絵姿は、いつかは実現するものなのだろうか。

何故かゴツい男たちばかりを乗せ、星の世界へ向かう帆船、
それはけして沈むことなく未開拓の空を目指すのだろう。
スター・帆船。不沈艦。いや、それはスタン・ハンセンか。

(2001.07.30)
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西瓜甘いか酸っぱいか。そんな言葉遊びを聞いたことはあるが、
寡聞にして酸っぱい西瓜は食べたことがない。が。

暑い日がつづくと、体が水分を欲しがるので、と言い訳をしながら、
今日も西瓜の切り身を買い求めてきた。
ただ水やら清涼飲料を飲むよりも体が冷えてくれる気がするのだ。

西瓜といえば赤に決まっている、と思う人も多いかもしれない。
このあたりでは、たまにしか店頭で見かけないけれど、
クリーム系という、可食部が黄色い西瓜もある。
あまり売れないのは、あまり熟れていないように見えるからかも知れぬ。
だが、糖度が低い訳でもなく、同じように甜くてうまいのだ。
いろいろと調べてみると、西瓜の名産地原産地、南アフリカでは黄色いのだ、
という記述があった。遺伝的にも、黄色が優勢らしい。(これは、黄色の西瓜と
赤色の西瓜を掛け合わせると、その子供の代は黄色の西瓜になるという意味である。)

小さい頃に一度だけ食べたことがあって、
それ以来なのだから相当久しぶりではあったが、黄色い西瓜を先日食す機会があった。
黄色い西瓜も赤い西瓜も、味に変わりがあるじゃなし、
同じものよと思っていたのだが、いや、それはちがうと認識を新たにしたのである。

黄色い西瓜は、クリーム系というその名前が示すように、やや優しい味がする。
もっと端的な言い方をしてしまうと、赤い西瓜から赤ピーマンの匂いを引いたら、
黄色い西瓜の味になると感じたのだった。
目隠しをした誰かに、パプリカをふりかけたクリーム西瓜を喰わせたら、
赤い西瓜だと思うに違いないと思うのである。
パプリカをかけた時点で赤くなるが、それはそれとして置いておくが。
ところが、その事実を他人に言いふらしても、ほとんど誰も賛同してくれない。

悔しいので、いろいろとネットで検索をしてみると、
西瓜が赤色をしている原因は、リコピンと呼ばれるカロテノイドに依るらしい。
トマトや、ルビー種のグレイプフルーツ、金時人参やグァバなどの赤色の色素である。
つまり、この色素を産生しない西瓜がクリーム系となるのである。
なんだ、いいのではないか。黄色西瓜+パプリカ=赤色西瓜。
まあ赤ピーマンの赤は、実は少し構造の異なるカプサンチンという色素に依るらしいが。

小難しいことは抜きにして、うまいうまいと喰うのが西瓜の正しいあり方かも知れぬ。
ちょっとほろ酔いゆえに、過熱した頭をも冷やしてくれることを祈って、
冷蔵庫の西瓜の切り身にありつくことにしよう。

西瓜喰う酔客。

(2001.07.31)
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ふと蝉の声に気をとられて、姿を見てやろうと木を見上げた。
声からするとあの辺り、と当たりをつけるのだが、はじめはなかなか見えてこない。
目を皿に凝らして更にその木に近寄ると、警戒されたのか声も止んでしまう。
再び啼き出すまでそのまま待とうかとも思ったが、気が急いていたので諦めてしまった。

昼間にそんなことがあったのを、まだ啼きやまない夜の蝉に思い出した。
なにを一生懸命に、といいたくなるほど啼いているのだ。
蝉は羽化して1週間といったっけ。それに比べれば僕たちの時間はもっとある。
よそ見をしたり木を見上げてつったっている時間はたくさんあるはずなのに。

(2001.08.01)
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夕陽が落ちてからさほども経たずまだ薄明るい中に、ごく薄い藤色のさるすべりが咲く。
土塀の陰からひとかたまりの花をつけた枝がひょろっと伸びていて、
いつ其処を通りかかっても、その青白さにどきっとさせられてしまう。
菩提寺の境内には紅い花のさるすべりが、その名前を漢字で書くがごとく、
いつまでも花を切らさずにずうっと咲いていて、盆の墓参りの時にも
必ず見かけるものであるから、僕はいつも、さるすべりの花に墓を連想するのである。

いつか聞いたこんな話がある。

村で一番元気だった男の子がいて、山に行っては木にのぼり、
川へ行っては泳いだりしていた。その頃は、そんな遊びをするのが、
ごく当然だったのだけれど、特にその子は木登りが好きで、
周りから、あいつはましら(猿)のようだ、と言われていたそうだ。
俺に登れぬ木などない、といつも豪語していたし、
事実どんな木にもすばしこく登る様子は本当に猿のようだった。

ある夏のある日、何人かの少年達が、もう使われなくなって久しく
青草が覆い隠さんとしている獣道のような細い道を踏み分けて、
普段は踏み入れない山の奥まで入り込んだのだった。
そこには古くて小さな神社があって、もうすっかり人の手が入らないようになってから
荒れ果ててしまったけれど、境内には立派な木が何本も生えているのだった。

少年達が村に降りてきてから少々興奮して大人たちにその話をすると、
子供たちだけで行かせるには途中の山道が少し危険だからであろうか、
村の古老が、あそこの神さんは祟るからもう行くのは止めたほうが良いと言うのだった。

少年達はどうせ嘘だろうとはおもったけれど、少々気味が悪い話を聞かされて、
まだ迷信などを信じやすかい年の頃であったのもあったし、他にいくらでも
遊ぶ処はあったから、おとなしくしていたのだったが、
ある日、その猿と言われている少年がふらりといなくなると、
夜になっても戻ってこなかったことがあった。

明るくなってからということで、翌日は朝早くから捜索が始まるのだが
なかなか見つからない。そういえばあの古い神社の木に登りたいと言っていた、
などと思い出した子供がいて、大人たちにそれを知らせたところ、
すぐに行ってみることとなった。暗い山道を歩くのが危険なことくらいは
もう知る年であったから、夢中で遊ぶうちに日が暮れてしまったために、
神社の境内で一夜をあかしたのだろうが、それにしては帰りが遅いから、
途中で怪我をしていたらいけないので、ということで出掛けていった大人たちであった。

日も落ちて薄暗くなり始めたころ、大人たちがもどってきた。
大人たちの足は子供の足にくらべたら速いものなのだが、
それでも出掛けるのが遅かったのもあって、そんな時刻になってしまったのだった。
悲しげな顔で降りてきた大人たちの一人の背には、頭から流した血が茶色になって、
すでにこときれた少年が負われていたという。

後に聞いた話では、それは美しい光景だったという。
少年は、夕陽に映えた真っ赤な花のさるすべりの木の下で、こと切れていたという。
幹が子供の一抱えもある立派な木であったから、
遠目にも燃えるような赤が映えていて、木登りを自慢するその少年が
つい登りたくなったのも無理はないことだ、と大人たちは言ったそうだ。

それを聞いて、以前に一緒にその神社を訪れていた少年の一人が首を傾けたのは、
彼が覚えているかぎり、紅い花のさるすべりなど見かけなかったからだ。
たしかに立派なさるすべりはあったけれど、それは白い花を咲かせていたはずだ。
きっと大人たちは夕陽の照り返しで見間違ったのだろう、と思ったそうだ。
仲の良かった友人が吸い込まれるように亡くなってしまったのと、
あの神さんは祟るという古老の言葉が思い出されて気味わるく、
そのあとしばらくはその事故のあった神社へは近寄れなかったそうである。

何年かしてからなあ、思いだしながら祖父はそう語った。
あの神社に行ってみたけれど、さるすべりは大人たちが言うように紅かったよ。
はじめて見たときに、なんで白い花だと思ったんだか。
記憶なんて曖昧なもんだから、他の記憶と混ざってしまっただけなんだろうねえ。
でも、猿と呼ばれたあいつがさるすべりから落ちるなんてね、
まるでよくできた冗談みたいさね。

(2001.08.03)
−−−−+−−−−+−−━−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−280 

この桃の木は家の者が気をつけていないのだろうか、
熟したまま放っておかれた桃がやがて発酵しはじめて、
甘酸っぱい匂いが漂っている。

鼻は人間の感覚器官の中でも特に敏感なのだそうだ。
人間以上に鼻のきく動物だってそれは多いけれど、
匂いのもとになる物質がごくわずか鼻に届いても、
それが匂いの刺激として認識される仕組みは、
センサーなどではなかなか真似のできないことらしい。

いい匂いのするものが好き。
ちょっと疲れたなと思うときも、好きな匂いを嗅ぐと、
なんとなく元気になるような気がする。
アロマテラピーとかいうやつ?

桃が好きなのもその匂いが好きだからだ。
風邪をひいていて鼻がきかないときに桃をたべても、
きっと美味しくないにちがいないと思う。

せっかく美味しそうに実ったのに、なんで食べてあげないんだろ。
人様の庭だから、それじゃ僕が、ってわけにもいかないし。
美味しそうを通り越して、やや饐えた匂いを鼻に感じて、
勿体ないなぁと思いながら僕はそこを通り過ぎる。

(2001.08.06)
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私って、幸せ者よね。彼女が僕に向かって言った。
図書館の司書の仕事も性に合っているし、
あなたと居ると楽しいし、あなたはこんなに優しいし。
でも本当はあなたがここにいてくれるだけでいいの。

僕は彼女の話す口元が好きだ。
平和が一番、といつも言っていた祖母の面影と似て、
ゆったりとちょっと寂しげに笑う目元も好きだ。
喫茶店に向かってすわって、コールコーヒーって、アイスコーヒーの事よね、
なんて、たあいないことを話している時間がいとおしい。

ボクは本さえ読めれば幸せなんだ。
黒い学生服のパンツに眩しい白のワイシャツを着て、彼は私にそう告げる。
私の勤める図書館に毎日通ってくるので、私の貌も覚えてくれたらしい。
どきっとするほど私の眼をまっすぐに射抜く視線が若々しい。
たまには外で友達と遊んだりはしないのかしら。

自分のものと決め込んだ、奥の窓際の机にいつも静かにすわって本を読む。
カウンターに居る私から見えるのは彼の背中だけ。
そうやって毎日1時間ばかりも経つと帰っていくのだけれど、
ときどきぼうっと窓の外を眺めていることに、
私が気付いていることを、彼は知らない。

わたしにはママが居るから、わたしは幸せなのよ。
いつも泣いてばかりいる、ちっちゃな女の子がボクを見上げて言う。
ちょっと茶色がかった眼が、柔らかなまっすぐな前髪のむこうで、
真剣そうに見開かれている。
手のひらの上の、生まれたての子猫みたいだ。
一つのことに夢中になって、一つのことに泣いて、一つのことに笑う。

ボクだって、キミに負けないくらい幸せだよ。
ボクは言ってみる。
だって、ほら。ええっと。毎日ご飯もおいしいし、キミもここに居るしさ。
あら、そう。
ちっちゃな女の子は、おすましした笑い声をたてると、ぷいと横を向く。
それからもういちどボクを見上げて、にぃっと笑う。

その女の子が、いっつも泣いているのをボクは知っている。
ママの胸でなんかじゃない、ひとりぼっちの公園で。
砂場やブランコで遊ぶ友達もあんまりいないみたいで、
いっつも半分だけ埋め込まれたちっちゃなタイヤにすわっている。
いっつも4つ葉のクローバーを探している。

僕の周りの人達は、みんな自分が幸せだってことを知っている。
だけど。
自分が幸せだってことに気付かないくらい、
幸せだったらよかったのに。

(2001.08.09)
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自転車のペダルを漕ぐのが少し重いのを感じて、盛夏の去ったのを知る。
いつも主力な移動手段として活躍してくれている自転車のタイヤに、
空気を足すと、再び少し軽やかさがもどってくる。

日本は広いから、北から南まで、西から東まで、海抜0から海抜3000メートル超まで、
各地で気候風土は異なるだろうから、全くスタンダードというものは無いのだけれど、
ここ数日、この辺りはかなり涼しい。
夕方をすぎてから聞こえる虫の声は、すでにコオロギのそれである。
まだ盆もきていないのに、気の早いことだ。
ただでさえ、涼しいのに、コオロギなどの声を聞くと、
肌に刷り込まれた秋の記憶のせいか、よけいに涼しく感じてしまう。

そういえば、今年の夏は蝉の声を聞いた期間が短かったように思う。
初めは暑すぎて、そして今度は早々に涼しくなってしまって。

小学校の時の音楽の時間に歌った合唱曲の歌詞はこんな感じだ。
何年も昔の記憶で書いているので間違えているかもしれないが。

誰だろう。
夏に少し飽きて、別の季節と取り替えようとしているのは。
麦藁帽子の隙間からこぼれてくる、太陽を少し寂しい色にして。
ボクは最後のお別れに、一番大きな波に向かって、走る、走る、走る。
それから、帰りの砂浜に、わざとサンダルを置いてくる。

そういえば、今年の夏も海へは行かなかったな。

と、まだ夏は残っているのに、少し感傷的になってみる。
ところで、サンダルを海辺に置いてくるのは止めましょうね。
自然は大切に。

(2001.08.11)
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ドーナツの穴の数はいくつだろう。やっぱり、一つだ。
んじゃ、ちくわの穴の数はいくつだろう。これも一つにちがいない。
むこうとこっち、二つあるじゃんと言われても、
それらはつながってるから、やっぱり、一つだ。
たとえば、鍋に穴があいていたら、煮炊きができない。
だから普通の鍋釜には穴はあいていないということになる。

んじゃ、人間の穴の数は。
消化器管としての食べ物を取り入れて排泄するところまでが管としてつながってるから、
穴の数はこれで1つ。入り口と出口を別に数えるなら2つ。
鼻の穴は、ここにつながっているから、2を足す。
眼は、涙を通す穴がやはり口蓋につながっているから、更に2を足す。
耳は。高山に行った時に、あくびをすると鼓膜が張っているのが治るから、
やっぱり穴はつながっているんだろう。だからまた2を足す。
でもこれらは全部つながっている。
合わせて1つの口と7つの口を持つ1つの穴を人間は持つ。

その他の窪みまで数えはじめると、冷や汗の出るところまで数えなくちゃだから、
もう数えようが無い。

ではクイズ。人間の中で一番穴が多いのは誰でしょう。
穴がわんさか、で、アナウンサーか? ぶ。はずれ。
無政府主義者? 惜しい。穴空きすと、ね。でもちがう。
穴が多いで穴多。これを読んで、あなた。これ、こたえ。
あいや失礼、くだらぬオチで。あなかしこ、あなかしこ。

(2001.08.13)
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光陰矢の如しと誰かが言ったけれど、時間の矢は非可逆に突き進み続ける。
先日までは緑一色だった田圃に、盆に数日間留守にしてから戻ってみると、
赤いネットが被せられて、昼すぎの太陽をはじいていた。
ようやく葉が密生してきたと思ったら、稲が穂をたてていたのであった。
充実した緑の葉の間から、籾殻の形をした薄緑の苞の並んだ穂が伸びて、
それぞれの隙間から、真っ白い葯がはみ出している。
昼休みにちょっと外出して田圃特有の匂いを吸い込んでみるのも悪くない。
今朝になってみると低気圧が近づいてきているのか、小糠雨が降っている。
新しいまだ真上を向いたままの稲の穂も葉と同様に小さな水滴を纏っている。
雨に濡れるのはややもすれば鬱陶しいのだけれど、この雨が稲を養うのだ。
ひたすらに太陽の光をため込んだ充電期間は過ぎて、これからは稲穂を重く実らせる。
そういう時期が到来しつつあるのだ。そうして我々の飯になり酒になるのだ。
時は流れ去るのではなく積み重なるのだ、と何かのCMで言っていた。

(2001.08.21)
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北海道は広い。地図を見ればそんなことは誰でもわかるのだが、実に広い。
目に入ってくるのが十重二十重につらなった丘、丘、丘である。
さえぎるものもなく、地面と空がつながっている。

もう何年か前になるが、初夏も終わりの頃に、北海道を訪れた。
はじめての北海道というわけでもなかったのだが、
ゆっくり周ったことはなかったので、札幌でのちょっとした用事を済ませてから、
1週間ほど休んでいろいろまわることにした。
移動はJRの列車のみが頼りの一人旅である。まず何処に行くかは駅で考えよう、
たしか、そんなことを思いながら出ている列車を調べると、何本かのコースが
候補に残り、その中から富良野・美瑛方面へ向かう列車に乗ることにしたのだった。

手元に当時の時刻表があるわけでもないので、どの列車に乗ったかは定かではない。
駅に降り立ったのが早朝だったことだけを覚えている。
駅の周囲にはサイクリング用のレンタル自転車屋もあるのだが、
その時刻にはまだ店を閉じていたので、しばらくは徒歩でいろいろと動き回ることにした。
なに、どうせ目的の無い旅で、帰る日のみが決まっていて、その日のうちに
何処へ行かねばならぬというものでもない。
今ならば、観光タクシーを頼むところだろうが、学生だった当時、
タクシーというのはかなりの贅沢なものと思っていたのもあるし、
地元のものを見ようと思えば、じっくりと歩かなければ駄目だと思っていたのもある。
これは今でもそう思っているが、体力とのかねあいである。
あとから思い出そうとしても、もう、どこをどう歩いたかまでは記憶にないが、
また其処にいくことがあれば、一度歩いた道ならばなんとなく来たことがあると
感じるだろうと思う。車でさっと通り抜けただけの道では、そうは行かない。
目の奥に風景が焼き付く前に、次の景色が現れてしまうからである。

馬鈴薯の花がそろそろ終わる頃であった。
白い花は男爵で、桃色の花がメイクイーン、あとでそう聞いた気もする。
えんえんと広がる一面の咲き誇った花は、それは見事なものなのだが、
それには少し遅かったようで、ちらりほらりと咲き残った花があった。
馬鈴薯の畑の中にあった芋の倉庫はカルビーのものであっただろうか。
また、畑の合間の農道をえんえんとあるき続けていた。
もちろん、馬鈴薯畑ばかりではなく、小麦が赤黄色に色づいた畑もある。
幼少より育ったところは四方を山に囲まれていたのもあり、山にさえぎられない
地平線というものは珍しかったのだし、その畑のまん中にいると、
たまに生えている木々の他には、空を削り取る建物の影さえ無いのであった。
日本全国を行脚したわけでもないのだけれど、ボクは少し興奮して、
まったくこれは日本の風景じゃないな、と呟いて歩いていた。

そうやって歩いていると、軽トラックのおじさん
(当時のボクからみたらおじさんと見えたので、実は青年と呼ぶべき人
だったのかもしれない)が通りがかって声をかけてきてくれたのだった。
ボクはナップサックを背負っていたから、旅行者とすぐにわかったのだろう。
車に乗せていろいろ案内してやるよ、というので有り難く乗せてもらうことにした。
ボクが、北海道の人は優しい、そういう印象を持っているのは、この人のおかげである。
カメラをボクが持っていたのもあって、写真をやっているのか、と聞かれた。
まだはじめたばかりです、と正直に応える。ボクが一眼レフのカメラを買ったのは
大学生になってからであった。その話はまたいずれ書くかもしれない。
その軽トラックのおじさんは前田真三って知っているかとたづねたのだが、
あいにくボクはしらなかった。とにかく、色が綺麗な風景の写真を撮るひとだよ、
拓真館というギャラリが美瑛にあって、そこをたづねるといいよ、そう教えてもらった。

実はこのサイトの写真館に、その当時に撮った写真を並べている。
「その3」は、拓真館の前のラベンダー畑で撮ったものだ。畑の上をぬけた風が、
ラベンダーの薫りを含んでいたことを今でも覚えている。
「その6」は、別のある畑にて、朝の10時頃に撮ったものだ。
撮った時刻だけ覚えているのである。写真を撮るのに一番よい時間帯は朝と夕方である。
太陽が低いその時間帯は、物の色も深く発色し、また影が伸びて立体的に写るのである。

美瑛の丘で軽トラックに乗せてくれたおじさんに、
ボクはお礼として、あとから礼状とともに写真を送り付けたのだった。
少しだけ大きく焼き付けて、プラスチックの額に入れて。
向こうも親切からしてくれたことで、お金や物に換算するのは失礼にあたるだろうから、
なるべく気持ちが籠もったもので、ボクにしかさしあげられないものを
あげたいと思ったのだ。それが「その6」の写真だ。
前田真三なんて写真家に比べるつもりも資格もないけれど、
当時の、ちょっと意気込んでいた自分は恥知らずだったようだ。
尤も、今もネットでこうやって曝しているのだから恥知らずは治ってはいないが。
いちど写真を同封した礼状を出したあとは、それっきりで、
もう住所等も忘れてしまった。あの時のおじさんはまだ元気でおられるだろうか。

旅先で巡り合える見知らぬ人々の親切がとてもうれしい。
そういう親切をまた他人に返してあげることができるといいなあと思う。

(2001.08.22)
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百年の孤独
酒飲みには、ガルシア=マルケスによる小説、というよりも、最近では
なかなか手に入れにくい焼酎の代表格のひとつとして、百年の孤独は知られている。
手に入れにくい、と言っても、金に糸目をつけなければ、
定価の3倍から4倍を払うつもりがあればヤフーオークションなどでも手に入るし、
丹念に探せば置いている飲み屋も多いようであるから、
一度飲んで見たいという欲求を満たすだけなら、さほど難しいものでもない。

以前、懇意にしていただいていた酒屋で、百年の孤独を2本買う事があった。
あとで聞くところによると、地酒などを扱う店の中ではかなり有名なところであったらしい。
事実、日本酒も良い物が各種置いてあったし、焼酎も色々とおいてあった。
さすがに百年の孤独は予約の順番待ちでなくては買えないが、同じ黒木本店の酒でも、
ハナタレならば何本でも持っていって、というような店だったのだ。

ハナタレとは、字面がどうかと思うむきもあるが、じつは、漢字で書くと初垂れである。
蒸留してはじめて落ちてくる滴の部分、すなわち沸点の低い香り成分を多く含む、
とろっとして、透明で、非常に華やかで、強くて、贅沢な酒なのだ。

百年の孤独の1本目は、友人に振る舞ったりしながらもとてもおいしくいただいたのだが、
2本目はなんだか勿体なくてしばらく手元に残してあった。
食べ物、飲み物は、食べたり飲んだりしてこそ価値があるのだけれど、
食べたり飲んだりすると、無くなってしまうのが、ジレンマである。
次にまた手に入ることが判っているのならば惜しみなく食べたり飲んだりするものも、
もう一生手に入らないかも知れないなどと思ってしまうと、つい惜しんでしまうものである。

ある時そんな秘蔵の酒をさる事情で手放すこととなった。
友人の結婚の祝いにあげることにしたのである。結婚式に招かれたのは、
結構仲の良かった友人だったから、ご祝儀以外に、珍しいものをあげようと思ったのだ。
大事にしてもらえよ、と、まるで娘を嫁がせるような気持ちで包みを渡したのだった。

何ヶ月かしてから、その友人に会う機会があって、その酒の話になった。
あれは美味かったよ、と彼が言う。
そう言ってもらえるのなら、あげた甲斐があったと言うものだ。
彼は続ける。お湯割りにしたり、檸檬をちょっと絞ったりして飲むといいね。
僕は顔で笑いながら、心の中で愕然としていた。
僕の勝手な思いこみで、この酒はストレートが一番うまい、と思っていたのだ。
だから、お湯割りはまだ良い。それを、檸檬を絞って… 

このたび、また別の酒店で、酒を漁っていたときのことだ。
百年の孤独はやはり順番待ちでないと買えないと言う。
他にいろいろと美味そうな酒があったので、教えてもらいながら、
あれやこれやと買うことにした。いろいろと話が弾むうちに、店主が言う。
今日は小遣いは大丈夫か。僕は、もちろん、と応える。
それじゃあ、これも持っていきな。奥から百年の孤独を持ってきてくれたのだ。
いや、まじでうれしかった。

店主はまた、言う。買って行ってくれる客も、いろいろなのだという。
ああ良かった、これで頼まれていたあの人に送ってあげることができる、
そう言われるともうがっくりくるのだそうだ。
酒はおいしく飲むためのもの。酒を売る人たちも、金儲けのための道具ではなく、
それが珍しいから欲しがるのではなく、おいしいと思って飲んでくれる人の
もとに嫁がせたい、そう思うそうなのである。

そういう店主の話を聞いて、ふと百年の孤独をあげた友人を思い出したのだ。
心の中で責めてごめん。どんな飲み方でも、美味いと思って飲んでもらえたのなら、
その酒にとって一番の幸せだったのだろう。

(2001.08.30)
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暗い道、虫の声だけが聞こえる閑かな夜。

草の匂いがする。
水の匂いがする。
田圃の匂いがする。
風の匂いがする。

目や耳からのよけいな情報がないからかな。

ぼくは自転車を漕ぎつづける。

(2001.09.01)
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案山子といえば田舎というイメージを持つのだが、これは、
案山子から田圃を思い浮かべるからというよりも、破れたような衣裳を着せられた姿が
いかにも田舎臭いからではないだろうかと思う。そういえば鳥を追うためには、
動きもしない案山子がどれほどの役に立つのか、定かでもない。
目玉模様が鳥を追うのに良いということが一時期流行って、同心円を描いたビニールの
風船やらを見る機会が増えた。近くの駅のホームでは糞害著しい鳩を追うためか、
はたまた烏を追うためか、焼き損ねたCDが吊されている。
やはり円形をしているし、それに、田圃に張る赤や銀の金属光沢のあるビニールの
紐の連想で、きらきら光るところが良いとされるのだろうか。
烏などは光るものが好きとも言うので、却って逆効果ではないかと思うこともある。
近くのある田圃には、竹竿に、黒いビニール袋を、ぼろぼろのテルテル坊主のようにして
いくつもいくつも吊してある。きっと、烏をイメージしてあるのだろうな、と思う。
雀などの穀類を食する小型の鳥類を追うのに役に立つのかはわからない。
本物の烏の死骸を吊しておくと、頭のよい烏はそこへは絶対に近寄らない
と聞いたこともあるから、烏をよけるためにああいったものを吊すのかもしれない。
ナイロンのネットで田圃全体を覆ってしまっているところもずいぶんとある。
秋の実りの少しでも多くを人間さまの取り分として残しておきたいのだから、
鳥どもを田圃から追う工夫はさまざまである。
ところが最近いわゆる本物の案山子を見る機会は減ってきているのではないだろうか。
効果のほどが薄いのかも知れぬし、あれを造るのも案外大変だからかも知れぬ。
ただ案山子を欠かした田には田舎の風情が足りない気も、ちとばかりする。

(2001.09.03)
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あぁぁ、もう今日はやめや。めぇが重いわ。
なんやもう集中できひんし、今日は終わりにしたろ。
ぷち、っと。口で効果音をだしながら、パソコンのスイッチをおとし、
がたん、という音をさせて席をたつ。

絵葉書をくれた友人にお礼の電話しとかなきゃ。
それから。せやせや。おふろおふろ、おふろにしたろ。
蛇口をひねって栓をした湯船にお湯を溜めはじめる。
締め切りを無視することに決めた作家って、こんな気持ちなんやろか。
勉強ができひんかって単位おとすことに決めた試験を寝過ごしたったような
妙な爽快感で伸びをする。

朝シャン派の僕も、週末だとか疲れた時とか、湯船に湯を張る。
そうして、お気に入りの文庫の、栞やカバーを全部外し、
風呂に持ち込むのだ。

今日のお供は草上仁の「よろずお直し業」。
命の発条を巻き直すことによって、モノが壊れるまえのすがたに戻すことができる
不思議な能力を得てしまった男の話。
発条を巻くだけだから、その発条がゆるんでしまうと、
結局はまた壊れた状態に戻ってしまう。
ちょっとだけ時間を戻すだけの能力で、
その男が引き受けるのはモノを直すことだけれど、
修繕していくのは人と人との関係。
最後の章で直したのは結局自分の…

言ってみれば、水戸黄門ばりの、ばりばりの演歌こてこてのお話で、
まあ誰が読んでも同じように、ああ良かったね、
ああ悲しいね、ああ感動的だね、とレールの敷かれた話ではある。
まあそれが痛くもなくくどくもないのは筆者の力量なのだろう。

ちょっと疲れた頭にはなんとも最適な本だった。
下半身を湯船に沈め、手には文庫をもち、
ぼうっと字を追いつづける。
じわじわっと湯の温かさが心臓に達して、
じんわりと汗ばんでくる。
はふ。僕の螺子もちょっと巻かれたみたいやわ。

湯が冷めてしまう前に読み終わると、本を風呂場の外へ放りだし、
湯船の栓を抜いて、仕上げのシャワーを浴びる。
おいしいものを食べたあとに似た満足感を伴ったまま、
濡れた髪のまま、布団にもぐりこむ。

(2001.09.05)
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朝、その部屋に踏み入れると、蟋蟀の声がしていた。
姿は見えないが、たしかに窓の内側で鳴いているようだ。
そういえば昨日の夜、その部屋を閉めるときに、
すでに部屋の中で蟋蟀を聞いたような気がしていた。
やはりどこかの隙間からか迷い込んだのだろう。

ちょうど風も涼しくなってきて、
数日降り続いていた時雨も止んで
からっとした薄水色の空が見えていたから、
しばらくのあいだ窓を開け放しておいた。

虫かごに飼っておかなくても、この辺りでは
虫の声などいくらでも聴くことができる。
部屋の中で鳴かせる必要もあるまい。

しばらくして日も沈んで、また涼しくなってくると、
今宵はたしかに虫の声が窓の外からきこえてくる。

テレビの音もラジオの音もさせず、しばらくの間、耳を傾ける。

(2001.09.06)
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フィナーレをこんなにはっきり予想して
テレビで見たのは、局の開局何周年かの企画で、
母なる、という形容詞の似合う大河、
利根川を上流へとさかのぼっていき、
源流へとたどり着こうというものだった。

開けた大地をゆったりと流れる大河は、
やがて水量を減らしながら、
岩を削りながら蛇行する流れとなる。
そこにはもはや河原などというものもなく、
優しさよりも厳しさを湛えて流れている。

ロープをたくみに使い、あるいは歩くための岩場がなく、
腰までもある冷たい水の中を進んだり。
水量が思ったより多い滝を迂回するために尾根線をこえたり。
トンネルのようなものをくぐっていると思えば、
ふり積んだ雪を、水が下から融かしてできた屋根で、
しと、しと、と滴が落ちていたりする。

滝の映像や、水のしぶきを受けて咲く高山の花、
そしてどうやってそこを棲家とするにいたったのか、
思いを馳せるべき両生類も居て、その姿が映し出される。
命はしぶとくもはびこっている。

やがて細くなっていく川の源流は、
それは山の上の湖でもなく沼でもなかった。
最後に映像として映し出されたのは、三角形の雪渓。
1年中、完全に溶けきってしまうことなく、
冷たい雪解け水を1滴、1滴、と紡ぎ続ける水の源。

厳しさと優しさは、同じ源から発していたのであった。

(2001.09.10)
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やっと台風が去った。
また次の台風が控えているとのことだが、
今日の午後はとりあえず晴れた。
雨の名残の重い雲が、そらを半分がた覆っているけれど、
その隙間に覗く空は、うれしくなるような青色だ。

ふと振り向くと廊下が赤くそまっていた。
窓から射し込んでいたのは思わぬ夕焼け。
ナトリウム灯のような明るいオレンジに染められた雲と、
まだ青さを残す空の地とのコンスタント。

一切の埃はすでに風と雨に流された空。
雲の残るがゆえに、立体的に染まっていく空。
あの風とあの雨とが、この夕焼けをもたらしたのだ。

今度の台風で亡くなった方もおられるという。
その人たちと、僕はいま、同じ空を見上げている。

(2001.09.11)
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アメリカのテロの事件は、しばらく今後の動静を見つめる必要があるのだろう
と考えている。自分も含めて、戦争を体験したことのない日本人が増えてきて
おり、バーチャルな映像を通して、「モンスター」や「悪人」の血を求め、そ
れを倒すことに、違和感を感じにくくなっている中で、僕の周囲では、まるで
映画みたいという言葉で迎えられたこのたびの映像は、匂いも伴わないし、物
理的な痛みも伴わなかったけれど、そこに実際に生活していた人が居たことを
教えてくれた。戦争の悲惨さを示すための写真などとも、同等のものであった
ろう。僕の母が赤軍による浅間山荘事件の中継を偶然にみてしまってテレビの
前に釘付けになってしまった、とよく語っているのにも似ていると感じた。

年輩の知人いわく、現状は世界恐慌の頃に似ている、と。願わくば、このまま
戦争という事態は避けて欲しいものだ。歴史は繰り返すと言うが、歴史を学ぶ
のは、過去を顧みて、ただすところはただすためである。いかなる路を選択す
るのか、真剣に考えなくてはならない。

世界大戦が勃発した当時と比較して、今、何が大きく異なっているかと考えれ
ば、思いつくのは、情報網の広がりである。せんだっても、日本で臨界事故が
おきたときに、日本での報道と海外での報道の食い違い(建物の屋根に穴があ
いた、というもの。結局は海外での報道が誤りであった、ということでケリが
ついたと認識している。)などがあったことが記憶に新しいが、それは、同時
に国などが、国民に対しての情報操作を行うことが難しくなってきていること
を再認識させてくれ、力強い思いをしたものであった。とはいえ、まだそれは
先進諸国の中のみでの変化に過ぎないのだろう。また、正しい情報を持つもの
が、後から振り返った時に正しいと思える選択をできるかどうかは、わからな
い。そもそも何が正しいのか、というのは倫理の問題であり、唯一の解を持つ
ものではない。すべての世界中の人間が均質ではない以上、考え方、宗教、価
値観、いずれも異なるのは当然であり、どこまで他人を赦せるか、どこまで相
手に譲ることができるかも異なる。

日本という国も、過去には小さな国に分かれて争っていた時代があった。今で
もその時代のしがらみが残っていないでもないが、県単位での争いが表にでて
くることは、いまや多くないと思われる。交通と情報が発達し、人が行き来す
るようになり、日本が狭くなったからなのだろう。地方大学の学生も、その地
方出身者のみで占められることもなくなり、方言というものが保存すべきもの
という枠組みに収まってきているように見えるのも、その裏付けであると思う。
ならば、世界も同じように狭くなり、人種、民族の壁が低くなることはあるの
だろうか。僕にとって異民族はまだまだ理解しがたい集団であり、ガイジンさ
んは異国の人でありつづけている。言葉で、世界の人すべては皆兄弟である
(べきだ)ということは、易しいが、それをなかなか実感できずにいる。

向こうが先に手を出したのだから、やり返しても当然、という考えが主流なの
だろうな。それにきっと、そうしなければ、実際に被害を受けた人たちは黙っ
ていないだろう。ただ、叩かれた人は、どんな因果があったにせよ、その原因
が自分にあるとは思わないものだから、常に互いに相手が悪いとしか見えない
に違いない。そんなことを考えていたら、やたら悲観的にしか物事を捉えられ
ない気がしてきた。誰か、明るい見通しを教えてもらえないものだろうか。

(2001.09.12)
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香り松茸、味しめじ

キノコが好きじゃない、といえば嘘になる。
というわけで、今日はそっち方面の話にする 。

田舎の食堂に行くとたいてい置いてある山菜そばにもキノコは入っている。
ああいうやつを食べてキノコの美味い不味いを決めつけるのは、
まさにキノコの存在が世間に誤解されているようなもので、
美味いキノコを喰ってから同じ科白を言ってみろ、といったものである。

山で採れた紫しめじなんて、本当にとてもおいしい。
なんてことを言いながら、そんな贅沢の記憶は一度しかない。
親戚が山で採ってきたからと言ってお裾分けしてくれたそれは、
あけびのような薄紫色をしていて、新聞紙にくるまれていた。

キノコはね、茄子とあわせてみそ汁にするのが美味しいのよ。
それに、茄子にはキノコの毒を中和するなんて言い伝えがあるのよ、
そう母は言いながら料理してくれた。
どんな味だったかと言われると、うまく表現できるほど覚えちゃいないが、
とかくこんな美味いものは初めて喰ったと思ったのを覚えている。

あんなみそ汁なら何杯でも喰える。ご飯にかけて喰っても美味い。
あまりそればかりやっていると、それでは犬ではないかと怒られるが、
そういう下品な飯も美味いものは美味い。
犬なぞに喰わせるのは勿体ないというものだ。

キノコなんて好きじゃない、という奴もいる。
友人の一人はキノコがまったく駄目である。
何が駄目って、あの黴臭さがいけないんだそうだ。
キノコが好きな人にとっては香りでも、駄目な人にとっては黴くささなのか、
そんな感慨を持ちながら、そいつの話をきいていた。

あるとき彼は家族とともに山の方へと出掛けていったそうだ。
さて、そろそろ食事時、何処で飯を喰おうかと探していたら、
ありがちな食堂が見えてきたそうだ。
その時点で、やばいかもしれない、と彼は思ったようだ。
だが、家族に連れられてのこと、あまりわがままも言えずその店に入る。
メニューを見て、案の定、山菜そばだの、山菜うどんだのが並んでいる中から、
彼は、一番無難なカレーを選んだのだった。

それが聞いてくださいよ。
カレーなら普通、キノコは入ってないでしょ。
そりゃ世の中マッシュルームを入れたカレーなんてのもあるけれど、
そんな洒落た感じの料理を出す店にも見えなかったし。
ところが、黒いものがカレーに入っていたそうだ。
一瞬、肉のかたまりに見えたそれは、椎茸。
もう、一気に喰う気がなくなりましたよ。

人間の食べるものじゃない。もう、犬の餌。
いや犬にも喰わしちゃいけないよ、あんなもの。
あれは食べ物として絶対に間違っている、そう力説する彼を後目に、
カレーの中なら、椎茸の匂いもわかんないから平気じゃないかな、
なんて他人事のように思いながら、大笑いしてしまったのだった。

彼の言い分も一面正しい。ま、そんなキノコ大好きの犬もそうは居まい。
それにあまりキノコを犬に喰わせてばかりでも、
キノコは繊維質たっぷりで整腸作用もあるから、
その犬の糞と屁の心配もせねばなるまい。
ちなみにキノコはfungusという。


あまり企画に遅れても飽きが来るだろうからと、
昨日このことを書こうかとも思っていたのだが、
他のことに気をとられていて、遅くなってしまったが
やはりキノコのことはあまり秋がすぎないうちがよいようだ。

(2001.09.13)
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鬼の書く欄

俺は生まれつき頑丈にできていて、滅多に風邪なんてひかないんだが、
最近夜更かしが続いて体力がおちていたせいか、なんだかだるかった。

俺は医者が大嫌いだ。小さい頃からの医者嫌いで、注射が嫌なものだから、
少々熱があったりしても、平気なふりをして、気力で治してしまったものだ。
大人になってまだ注射が恐いとは、人前ではなかなか言えないけれど、
あんな尖ったもので体に傷をつけるくらいなら、熱を我慢するほうがましだ。
元来の頑丈さで、いままでも大した熱をだしたことがなかったから、
幸いにして、年をとってから医者に通ったことは一度もなくて済んでいる。

ところが今回はそうも言っていられないらしい。飯が喉を通らないのだ。
始めは少しだるいかなと思っただけだったが、
いつも、その程度ならば何も気にしない。
いよいよ本当にめまいがしてくるに至って、
もしかして熱があるのだろうかと、何年かぶりに体温を測ってみると、
水銀の目盛りが振り切れてしまいそうな勢いだった。
喰う物を喰っている間は、なんとか体力に自信のある俺も、
体が弱っているせいか、気も弱くなってしまったようで、これはいかんと
長年の信念を矯めて医者に行くことにしたのだった。

その医者は、内科に外科を兼ねた小さな診療所なのだが、
やぶで知られている。本当の腕は良いのかも知れないけれど、
何せ口が悪いし患者の扱いはぞんざいだと言う。
その鬼先生は、風邪をひいて熱を出した患者にも薬さえろくに出してくれず、
なに白湯でも飲んであたたかくしてればすぐ治りますよ、なんて言ってみたり、
ひどく転んで骨折をしたかも知れないと心配してその医者に見てもらうと、
ロクにレントゲンもとりもしないで触診だけで、その上、骨折なんか、
毎日煮干しと牛乳を摂っていればすぐ治りますよ、だなんて言うのだそうだ。

俺は医者のところなんて、どうせ滅多に行くところじゃなし、
近所なればなんでも良いと思っていたのだが、
いろいろと伝わってくるあまり芳しくない噂を聞くにつけて、
だんだんと心配になってきた。
そもそもはじめから医者なんてのは、苦手な人種なのだ。

はい、次は〜さん、お入りください。
ちょっと年増の看護婦が俺の名を呼んだ。
いよいよだ。がらにもなく緊張して俺は唾液を飲み込む。
診療室で丸椅子にすわって待っていたのは禿げた先生だった。
風邪をひく馬鹿者には人権など無い、そんな目つきで俺を見る。
いや、俺だって医者なぞ来たくて来たわけじゃない。

まずは問診。これまで風邪なんかひいたことは。
ええ、滅多にありませんが。俺は頑丈だけが取り柄でして。
噂に聞く鬼先生は、はだけた俺の胸を聴診器を当てながら
なにやらとんとんと叩く。はい、口を開けて。
ただの風邪ですね。
案外あっけなく終わったかと思って安心していると、
熱がだいぶ高いようだから注射を打っておきましょう、などと言う。
やっぱり鬼だな、俺の中でのその医者の評価は決定した。

弱っている俺は、抵抗もロクにできずにぶっとい注射の洗礼を受ける。
泪眼で受付へもどる時に、俺はその鬼先生がカルテを書いているのを
のぞき見してしまった。病名の欄には。
いや、たしかに俺もロクな風采をしてはいないが、
普通に風邪と書けば良いところを書くに事欠いて。

鬼の霍乱。

(2001.09.14)
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葉もなにもない、土色の地面から、
にょきにょきと数本の芽が伸び出してきていた。
箸ほどの太さで黄緑色の、数寸ほどのつるつるとした茎の先に、
小さな蕾がやわらかく苞に包まれている。

いちど伸びることに決めたあとは、もうすぐで、
数日前にそんな様子だった芽も、一尺を超える高さとなり、
線香花火に例えたくなるような印象的な線の蕊を広げながら
それは見事な赤い花のかたまりを咲かせていた。

秋の彼岸の頃に咲くので、彼岸花。
稲穂の色づく田の畦や、小道の脇や小川の脇の盛り土に、
そしてあるいは名前からの連想か、菩提寺の墓場の脇にも植えられている。

球根による栄養生殖を主とし、3倍体であるため種子を残せない。
徒となるのはわかりきったまま、赤く火のように花を咲かせる。

花をつけるときにはまだ葉を出さぬので
まるで生首のような印象を与えて嫌われるとも聞いた。
たしかに、この赤い色は流れた血の色にも通じる。
またこの花は毒をもつ。リコニンというアルカロイド。
いくら綺麗だと思っても、摘んできてはいけないよ、と教えられたものだ。

また、曼珠沙華の名をもつ。
梵語で天上に咲く赤い花という意味らしい。
抹香臭いけれど、美しい名前でもある。
何か陰性のイメージを嫌う場合には曼珠沙華と呼び、
場合によって属名でリコリスとも呼ぶ。

赤という色が人間の眼を強く惹き付けるのはまた間違いのないところで、
彼岸花や曼珠沙華で検索してみると、写真などが山と見つかってくる。
ずいぶんと昔から人々の生活の場のそばにあって、
そんな中でこれだけの人の心を捉えたのだ。

僕も彼岸花の美しさに特別の思いを込めて見守る一人である。
この花の命は1週間程度。やがて色あせて萎れてしまう。
春の桜もそうなのだけれど、この彼岸花も、
毎年必ず出会えることがわかっていて、
それでいてなかなか捕まえることができない。

いつもカメラを持ち歩いているわけではないのが悪いのではあるが、
ふといつものとは違う路に迷いこんだときに、印象的な花を見つける。

写真とは被写体のタイミングと、天候などの背景のタイミングとで
ずいぶんと異なってしまうもので、全く同じ表情は二度とみられない。
その一瞬にカメラを持ち合わせていたのなら、それはそういう巡り合わせ。
その一瞬にカメラを持っていなくても、やはりそれはそういう巡り合わせ。
プロのカメラマンではないから、立ち止まって見つめているだけ、
という贅沢だって赦されるのだ。

彼岸花の赤、稲穂の黄色、そして晴れ渡った青空の、
人の眼の色の三原色を折り込んで
自分なりの美しい写真を撮ってみたい、
それがいつかかなえたい悲願である。

(2001.09.18)
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カメラと替えのレンズ、そして何本かのフィルムをバッグに詰めて、
僕は市バスで数区間の植物園へと自転車を漕ぐ。
市街地のほぼ北の端にあり、市のまん中を流れる川のそばにある
その植物園は僕のお気に入りの写真スポットなのだ。

その植物園は、学生の間に伝わる言い伝えでは、
デートをそこですると別れてしまう3大スポットのうちのひとつでもある。
派手なアトラクションがあるわけでもなく、
特に植物に興味のあるカップルだとかでなければ、
話の種にも困って気まずい思いもしてしまうからだろう。
それくらい、その植物園は、無愛想に広い。

いくつかの花壇が申しわけ程度にあったりするだけのものではなく、
全国各地の植生を再現したコーナー、出根草や薬草のコーナー、
竹や椿や薔薇のコレクションの植えられたコーナーもあるし、
蓮の活けられた池もある。春には梅やら桜も咲けば、
秋には紅葉の色づくところもみることができる。
家族でのんびりすることのできる広い芝生もあれば、
薔薇や噴水のある洋風庭園だってある。
大きな温室では、珍しい花を見せている。

その植物園は近くからはもちろん、中にはわざわざ遠くから、
バードウォッチングのための双眼鏡やら、写真機やらをたづさえて来る人も多い。
休みの日など、園内を歩いている間に、ちょっと高価そうなカメラを担いだ、
何人もの趣味のカメラマンを見かけることになる。

同じ趣味者どうし、はじめて会った方と話をすることもある。
まだ写真の撮り方ひとつ、ろくに知らなかった僕は、
弾んだ話のついでに、持ち歩いていたというアルバムを見せて貰いながら、
こういうのはどうやって撮るんですか、などと教わったりした。

菖蒲の花の手前が妙にグリーンがかった色になっている写真など、
これはね、単に菖蒲の葉を前ボケに入れたから、このあたりが
ふわっとグリーンになってるだけだよ、だとか、
さも当たり前のつまらないことであるかのように、
その実嬉しそうな顔で教えてもらったこともある。
知らぬことを聴いているこちらは、ただ感心するのみである。

だいたい2時間くらいの間に36枚撮りのフィルムを2本から3本消化すると、
もう集中力も切れてきて、いろんな風景の放つ写真を撮って欲しがっている気配に、
こちらが気付かなくなってしまい、それでその日の撮影は終わりである。
36枚撮り数本というと、多いと思われるかもしれないが、
カメラをやっている人にとっては多分普通の、あるいは少ない本数である。
気に入った場所では、アングルを変え、レンズの絞りを変え、
焦点の位置を変え、ということをしながら何枚も何枚も撮るのである。
ひとつの花なんかの前に陣取って写真をずっと撮っていても、
そこではとりわけ珍しい風景でもないのだ。

世の中には写真の撮り方なんてのを教えているところもあるらしい。
当然、花の写真なんてのはひとつの分野でもある訳だから、
それなりの作法なんてのも存在するようである。
例えば僕はある時奇形の椿の花を見つけた。
妙に花心が大きく、花弁が小さすぎてちぢんでいる。
変わった花だと思い、僕はカメラを向けた。

その日も、初対面のカメラを持った老紳士と話をしていたのだが、
その椿の花の話になった。
その老紳士が言う。どの花を撮ったの。これです。僕が答える。
あぁ、だめだよ、この花は、典型的な椿の花じゃない。
それに、葉の部分だって虫喰いが入っている。写真にはならないよ。

一番間違いの少ない方法というものがあるのだろう。
花は咲きかけから最盛期、まわりの葉にも気をつかい、
虫食いなんぞもってのほか。ピントは必ず蕊の先端にあてるべし。

皆が同じお作法にしたがっていたら、
同じ写真しか撮れないのではないですか。
図鑑を作ろうとしているわけじゃなし、
典型的な花ばかりを撮らなくてもいいじゃないですか。
枯れかけた花にだってその美しさは無いのですか。

自分の撮りたい写真は、マニュアルに沿ったきまりきった美しさではない。
結果として、同じになるかもしれないし、より劣るかも知れない。
自分の感じた通りに自分の内なる声に従いたいのだ。

黒いアスファルトにならべられたプランターの、
やや盛りを過ぎたキバナコスモスとマリーゴールドが
点々とオレンジ色の花弁を散らしているのを見て、
こんな昔の話を思い出した。

(2001.09.19)
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親から電話が掛かってきた。
今度の週末は、「塔のへつり」にいくけど、一緒に行くか?

そこがどんなところか知らないままに、うん、いくよ、と答えていた僕。

というわけで、彼岸の連休は、親、兄弟と一緒にすごすことになった。
朝から親父の運転する車に揺られること数時間。
なんとも奇妙な風景がそこにあった。

堆積してできた岩が、水の流れに浸食されてできた天然の回廊。
塔のような岩がその上に聳えていることから「塔のへつり」という。
へつり(山冠に弗、という字を充てる)とは、
方言で川や山の断崖、急斜面に沿った道の意味だという。

近くから来たのではないかと思われるおばさんたちの会話。
ほら、山がへつれてるから、へつり、って言うんだね。
へつれるも方言だが、きっと語幹の似ている「ほつれる」から
類推して、崩れるという意味だろう。
あとでウェブで調べていると、「へつり」というのは「へつって歩く」からきた、
などという説も紹介されている。ところで、へつって歩く、ってなんだ?

とりあえず、写真も数葉とってみたが、今現像中。
写真としては、塔のへつりでのものより、
その後で寄った猪苗代湖の近くの田で撮った写真に手応えを感じている。

インプレッサを使用して、純正の現像に出したので、現像にやや時間が掛かる。
フジの標準の処理ならば、即日渡しが一般的なのだが、
特殊な処理を頼むと2日から3日かかるようだ。
いずれにしろ、財布の中が数百円しかないので、お金をおろすまで
現像した写真を受け取ることができない。
それも、フィルムのストックが切れたので、現像をたのむついでに
買い置きしておこうと思ったからだ。

フィルムの感度ISO800のものを普通に売る時代になったのに感慨。
室内での撮影が多かったので最近は400のフィルムを常用していたのだが、
室内撮影には800のものを使うことにして、800のフィルム5本と、
100のフィルム10本をまとめ買い。(もちろん、36枚撮り)。
この買い方はインプレッサ(感度50)を久しぶりに使ったからかも知れないなどと
一人納得している。

実は塔のへつりで余った装填済みフィルムは、家の近郊を自転車でまわって消化した。
ああ、こういう写真の撮り方は久しぶりだと、密かな充実感。
なぜかまた2人ほどの通りすがりの人に声をかけられる。
そのうちの一人は、写真の好きな老人で、日本カメラの入賞の常連だという。
先日あんなことを書いたばかりだったので、なんとなくタイムリーだと思う。

できあがった写真は明日受け取りに行く予定。
買い物をするときでもそうだが、いざ現物を手に入れてしまったあとよりも、
その直前の、結果のわからない段階の期待感がとても楽しい。

(2001.09.25)
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木犀の香りを嗅ぐと無性に死にたくなるわ
唇の端を持ち上げて笑いながら彼女は言う
先生だってこう見えても悩みくらいあるの
言いながら彼女は小さな溜息をひとつつく
脳が急に寂しくなった風を感じ取るのかな
春になると自分が生き延びたことを知って
夏がすぎてしまうとまた秋がめぐってくる

遠くからの風が甘やかな香りを孕み始めて
今また僕は秋がそこまで来ているのを知る
連絡もとらないようになって久しいけれど
呑み歩きが好きだった先生は元気だろうか

彼ら彼女らのたくさんの中からたった一人
同じ匂いを僕に嗅ぎ取ったのかもしれない
凛として生きよとそれが僕達の別れの言葉

(2001.09.30)
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月は、いつも同じ側を地球に対して向けている。
それは、地球のまわりをまわる速度と、
月の自転の速度がぴったり同じだから。

月は、いつも形を変える。
それは、太陽を受けて光るものだから。
だから、月の光のある側を辿ってゆけば、
夜、地面の下にもぐった太陽に到達する。

満月の夜は、太陽は僕の真下にいる。
それは、雨が降っていても同じ。
見えていなくても、月も、太陽も
そこにある、はず。

(2001.10.01)
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和菓子の恩について調べたついでに。

明治14年の小学唱歌集の歌詞をつらつらと見ていたら、「キミガヨ」を見つけた。
でもなんか歌詞が微妙に違う。2番まであるし、なんじゃこりゃと思って調べてみた。

http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/akiko/shoka.htm

小学唱歌集 明治14年 第二十三 君が代 

一 君が代は。ちよにやちよに。さゞれ
  いしの。巌となりて。こけのむす
  まで。うごきなく。常磐かきはに。
  かぎりもあらじ。
二 きみがよは。千尋の底の。さゞれ
  いしの。鵜のゐる磯と。あらはるゝ
  まで。かぎりなき。みよの栄を。
  ほぎたてまつる。

1番の歌詞の半ばまでが、僕の知っている君が代ではないか。
残りの部分はどう歌うのだろう。

http://www.dokyoi.pref.hokkaido.jp/hk-tosho/dore12.htm
によると、今よく知られている「君が代」とは別のメロディのものであるとのこと。
要するに、いま国歌であると定められている君が代とは、
一部歌詞を共通としながら、別の歌であるということらしい。

さがしてみると、やはりインターネットの威力。ありました。
http://www1.jca.apc.org/anti-hinokimi/archive/chronology/
senzen/shoka811124.htm
で、メロディを聞くことができる。楽譜もあります。 そしてもう一つ。よくご存知の「蛍の光」 小学唱歌集 明治14年 第二十 蛍 一 ほたるのひかり。まどのゆき。   書よむつき日。かさねつゝ。   いつしか年も。すぎのとを。   あけてぞけさは。わかれゆく。 二 とまるもゆくも。かぎりとて。   かたみにおもふちよろづの。   こゝろのはしをひとことに。   さきくとばかり。うたふなり。 三 つくしのきはみ。みちのおく。   うみやまとほく。へだつとも。   そのまごゝろは。へだてなく。   ひとつにつくせ。くにのため。 四 千島のおくも。おきなはも。   やしまのうちの。まもりなり。   いたらんくにに。いさをしく。   つとめよわがせ。つつがなく。 3番と4番があるではないですか。これも歌った覚えがないぞ。 とりあえず漢字交じり文に書き下してみる。 筑紫の極み陸奥、海山遠く距つともその真心は隔てなく一つに尽くせ國の為 千島の奥も沖縄も八洲のうちの守りなり、至らむ國に勲しく努めよわが兄恙なく 九州、東北、千島、沖縄、いずれも日本の領土なので、 國のために武勲をたてて守れよ、とでも言う感じだろうか。 そりゃ歌わないわな、今の世の中。 「国のため」に、というキーワードは、個人主義のこの世の中にあっても、 国が個人の生活の基盤となっている以上、全く無視するべきものでもないが、 そのキーワードの下に、個人の権利を大きく剥奪することが起きないよう、 なにやら焦臭いこのご時世、細心の注意を払っていなければならない。 (2001.10.02) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−╋−−−−280  スーパーに買い物に行って、売り切れていて、ちょっとほっとした。 野菜売場の脇に段ボール箱を積んで、床よりも高くした台の上に 並べられていたのは、プラスチックのケースに入れられた鈴虫。 つまようじに刺して止められた茄子だのきうりだのの輪切りは、 なにせスーパーなものだから、いつも新鮮だったのだけれど、 ちょっと前から並んでいたそのケースがひとつ減りひとつ減りして、 ようやく今日は無くなっていたのだった。 本当はこんな田舎で虫を売っても仕方がないと思う。 ちょっと道を外れれば、田圃もあればくさむらもある。 鈴虫だのキリギリスだのとは言えないまでも、鳴く虫ならば蟋蟀かなにかが うじゃうじゃいる。それを、捕まえて籠に閉じこめなくても、 虫の鳴く声はいやでもきこえてくるのに。 でもそういえば、ぼくも鈴虫を貰って飼ったことがある。 番で飼っておいて、親虫が死んだあとも土を乾燥しすぎないように うまく冬を 越えさせてやれば、春には子供がたくさん孵って殖えるので、 上手な飼い主から分けてもらったのだ。 草むらの中の虫は、見えないところで鳴いている。 ちょっと煮干しのような匂いのするプラスチックの透明なケースの中の虫は、 自分が囚われていることも知らぬげで、帆のように羽をたてて、鳴き出す。 ファーブルでもないから、なかなか自然の中で虫を観察したりもしないのだろう。 切り取られた自然を眺めて、自然に親しんだ気になれるのも、それはそれでよし。 スーパーでひと番480円ナリで買われていった鈴虫たちは、 無事に子孫を残せるだろうか。 いつまでも売れ残って、手入れしてもらえるあてもなく死んでしまうより良い。 貰い手の見つからなかった子犬達に無事に里親ができたような、 そんな妙な安堵を少しだけおぼえた夕刻だった。 (2001.10.03) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+━−−−280  生徒「先生、訊きたいことがあるんです」 先生「何についてでしょう」 生徒「昨日、うちの夕ご飯で秋刀魚をたべたんですね」 先生「今年は秋刀魚が豊漁だといいますからね」 生徒「その秋刀魚の焼き方についてなんです」 先生「それで、どんなことですか」 生徒「うちの父が言うには、秋刀魚は七輪に限るというんです」 先生「目黒ではなくて…」 生徒「は?」 先生「いや、なんでもないです。続けて」 生徒「ガスコンロで焼いたよりも美味しいというんですが、本当ですか。     本当なら、それはなぜですか」 先生「昨日は七輪で焼いたんですね」 生徒「そうです。煙がすごかったです」 先生「それで、美味しかったかな」 生徒「ええ、とても。僕は秋刀魚が大好きです」 先生「それなら、美味しいというのは、本当ですね」 生徒「それじゃ、その理由はなんでしょうか」 先生「それは化学で説明ができますね」 生徒「え、化学ですか」 先生「それと物理ですね」 生徒「んんん、どういうことでしょう」 先生「いいですか、まず、ガスバーナーではガスを燃やしますね」 生徒「だから、ガスバーナーと言うんですが」 先生「その時の燃焼の化学反応式を言ってみてください」 生徒「やっぱ、僕、帰っていいですか」 先生「… ええと、ガスは何だかわかりますか」 生徒「プロパンとか都市ガスとか…」 先生「都市ガスの成分の大部分はメタンガスなんですよ」 生徒「あ、それで臭いんだ」 先生「それは違いますね。メタンに匂いはありません。    万が一ガス漏れがあったときにすぐ気付くように、    わざわざ匂いをつけているんです。」 生徒「屁ぇ、そうなんだ」 先生「それで、メタンガスはどんな原子からできていましたか」 生徒「ええと、炭素と水素です」 先生「はいよくできましたね。ではこれを燃やすとどうなるでしょう」 生徒「炭素は燃えて二酸化炭素になります。それと、水素は… ええと」 先生「水素は燃やすと水になりますね。温度が高いから、水蒸気ですが。」 生徒「じゃあガスは燃えると水が出るんですか」 先生「その通りです。じゃ、炭を燃やすとどうなるでしょう」 生徒「炭は… 炭素だけからできているから、水がでません」 先生「はい、正解。だからガスで焼くよりパリっと焼けるんですね」 生徒「都市だけに…」 先生「いやまだ僕は若いつもりですが…」 生徒「化学はわかりました。物理はなにですか」 先生「黒体放射っておぼえていますか」 生徒「ええっと…」 先生「ははは、まあいいか。    物を温めるだけで、その温度に依存した光が出る現象のことですね」 生徒「ええと、それが何なのでしょう」 先生「ほら、炭って真っ黒でしょう」 生徒「そうですが…」 先生「それが燃えて加熱されると」 生徒「赤く輝きますね」 先生「それが黒体放射です。    実は目に見えない光、赤外線というのですが、これが一緒に出るのです」 生徒「きいたことあります。遠赤外線グリルとか、そういうヤツですね」 先生「宴席ではよくつかわれますね」 生徒「…」 先生「その赤外線は、熱を運ぶ役割をもつんです」 生徒「炎だから熱いのではないのですか」 先生「それもありますが、炭火の場合はこの赤外線による加熱が重要なのです」 生徒「そうなるとどうなるのですか」 先生「まず、肉や魚の表面が高熱で焼かれることによって、    旨味が外に逃げ出しにくくなります。そのあと、じわじわと内部まで    熱がつたわってうまく焼けるのですよ」 生徒「うわ、おいしそうですね」 先生「また今夜もお父さんに秋刀魚を焼いてもらったらいかがですか」 生徒「そうしようかな。ビールによくあうんですよね」 先生「あれ、未成年じゃありませんでしたか」 生徒「あ、いけないいけない」 キーンコーンカーンコーン 先生「あ、もう学校は終わりだから、もう大丈夫。じゃ今夜も秋刀魚だね」 生徒「うん、お父さん」 (2001.10.04) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−━−−280  3リットルほどもある薬缶に茶を沸かして、冷ましたあとで、 ペットボトルに入れて冷蔵庫に置いているのだけれど、 冷たいお茶もどうか、という季節になってきてしまった。 そろそろ温かいお茶に切替え時だろうか。 茶が切れたあとも、沸かすタイミングがあわなくて、売っているものを 買って飲むこともある。そうやって手に入れたペットボトルを見ながら、 始めは500mLのサイズのものをいろいろと試していたのだけれど、 3リットルを分けて入れると、これが6本にもなってしまう。 かと言って、1.5Lや2Lのペットボトルは重すぎて僕の手になじまない。 ようやく生茶の1Lのペットボトルが丁度手になじむうえ、 デザインも悪くないなあなんてことを思った頃合いに、もうこんな季節だ。 先日まで沸かしていたお茶は、 茶に凝っている友人からお裾分けしてもらった茶葉で、台湾凍頂烏龍茶だったか。 東方美人などに比べると発酵度が低く、やや日本茶に近いという。 日本茶のようなこくやまったり感は少なく、きりっと爽やかな香りのお茶だ。 茶葉は、一枚ずつの葉が球形に丸まっている。 ウェブサイトなんかでみると、まず茶葉に湯をそそいで、 10秒ほどして葉が開いた頃に一度その湯を棄てるのだと書いてあった。 そのあと90度くらいの湯を入れてしばらく蒸らすと美味しいのだという。 ものぐさな僕は、薬缶に湯をたっぷりと沸かし、沸騰したら茶葉を放り込んで、 そのまま湯が冷めるに任せる、といった、ごく乱暴な方法で茶にしている。 手順通りやればもっと美味いのかもしれないが、こんな方法でも充分美味い。 いちどこういうお茶を飲んでしまうと、市販の缶やボトルの烏龍茶では ものたりなくなってしまうところが難点ではある。 先日遊びにきた知り合いに、このお茶を何も説明せずに飲ませたら、 なんだか違いが判ったらしく、すごく美味しいね、と言っていた。 うん、貰いものだけど、イイお茶らしいからね、と答えておいたが、 貰いもののくせに、なんだか自分の手柄のようで嬉しかった。 そろそろ、そのお茶の葉も、全部のみきってしまったことだし、 久しぶりにと、インスタントコーヒを飲んだらちょっと美味しかった。 あれだけ能書きを垂れといて、インスタントで美味しいなんていうなよ、 なんていう茶々入れはどうかご容赦願いたいところで、 どうせ容れるなら美味い茶がいい。 (2001.10.10) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−━−280   「先生、ノーベル賞を日本人が取ったと巷の話題なんですが」 「いや、家だから、先生ではなくてお父さんでいいよ」  「ではお父さん、あのノーベル賞って何なんですか」 「バイナップなどをを不斉触媒として用いた水素化反応により…」  「ちょ、ちょっとまった。まったくわからないよ」 「いきなりは無理か、やはり」  「そうそう、簡単なところから」 「タンパク質って知ってるだろ」  「この魚とか肉の成分でしょ」 「胃で消化されるとアミノ酸になるのはおぼえてるかな」  「なんとなく思い出した。グリシンとか、でしょ」 「むう…。それは置いておくことにして、ほとんどのアミノ酸もそうなんだけど、  世の中には右手分子と左手分子と喩えられる分子があるのだよ」  「右手と左手?」 「そう、手袋を考えてごらん。  右の手袋を左手にすると、親指の位置がおかしくなるだろ」  「軍手なら大丈夫だよ」 「うーん、ゴムのいぼのついた高級軍手でどうだ。右手と左手用が違うだろ」  「うん」 「そういう感じなの」  「へえ、それで」 「世の中にはその両方があるんだけど、私達の体は、その片方しか利用できない」  「片手しかないみたいなものだね」 「簡単にいうと、そういうこと」  「それじゃ片方の手袋は余ってしまうんだ」 「まあそういうこと。その余った手袋が、悪さをしなければいいのだけれど、  中には悪さをするようなヤツもある。」  「それは困るね」 「だから片方の手袋だけを作ればいいわけだ」  「なるほど、それは気がつかなかった。でもそんな簡単にいくの」 「その工夫が大変なわけだが、それがノーベル賞なわけだ」  「へえ、手袋をぎっちょにしたのがノーベル賞なんだね」 「ほんとあぁいう人は発想がシャープれすねえ」  「呂律がまわってませんね。お父さん飲み過ぎですよ」 「酒がたっぷり呑ーめる賞って」  「またそういうありがちなボケを。いいです、僕もご相伴を」 「キミは未成年でしょう」  「んじゃ本でも読んで寝ます」 「本がたっぷり…」  「小説ばっかりだけどね」 (2001.10.15) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−━280  昼休みに飯をすませて歩いていると、 すでに葉の縁が黄色くなりかけたイチョウの木の下で、 知り合いを見かけたので、何をしているの、と話しかけた。 スーパーの買い物をするとついてくる白いビニールの袋も持っていたし、 つい、ギンナン拾いでもしているのかと思ったのだ。 実際、木の下のアスファルトの部分は、つぶれたギンナンが 黒いしみをつくっている。 イチョウの木は都会にも街路樹などで植えられているから、 ギンナンのなっているところをみたことのない人というのも少なかろう、 オレンジ色の桜ん坊のような実がなるのだが、それが臭いのだ。 このシーズンもだいぶ前からしているその匂いにももう慣れてしまったが、 つぶされたギンナンを見るたびに、自分で拾うのも後の処理が面倒だけれど、 なんとなく勿体ないなあという気はずっとしていたものだ。 だから、ちょっとからかい気味ではあったけれど、 ギンナン拾いをしていたかにみえたその友人を貶めるつもりは毛頭なかった。 僕だって学生だったころには、 友人と誘いあってバケツに3杯のギンナンを拾ったものだ。 さすがに売り物と同じというわけにもいかなくて、 小指の爪ほどの小さいギンナンを一生懸命食べた記憶がある。 その友人は、しゃがみ込んだ手に移植ごてを持っていた。 なんでも部屋の中ですずめが死んでいたので、それを葬るのだそうだ。 なにかの拍子に紛れ込んだものが、戸締まりされて出られないうちに、 渇きで死んだのだろうか、目立たないようにして隅で死んでいたのだという。 敷地の中の、地面が露出した適当な場所がないので探していたら、 イチョウの木の下になったのだろう。 自然の中でもすずめは何羽も死んでいく。 人の手で葬られるなどというのは、滅多にないことだ。 と、理屈ではわかっていても、 羽毛がぺしょっと萎れてしまったあとは ほんの片手の一握りの大きさしかないスズメの死体を、 草むらに放りだしてしまうのも、ゴミ箱に投げ込んでしまうのも、 どちらも気がひけるような気もするのである。 イチョウの木の下で、分解されて自然の循環に組み込まれるだろう。 (2001.10.16) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−280  雨が降っている。 温められたアスファルトが特有の匂いを放つような雨ではなくて、 いつ降り始めたかもわからない昨日からの冷たい雨。 雨々降れふれもっと降れ、私のいい人つれてこい 別に季節が秋だからというわけでもないが、 雨の慕情のさびの部分にあわせて、僕は胸のうちで童謡を重ねる。 雨々降れふれ母さんが、蛇の目でお迎えうれしいな 最初のフレーズが同じというだけで、 僕の中ではなぜか同じカテゴリに括られた異なるものたち。 雨の日の遊動円木 ゆらゆら揺れて ただ光って 大木惇夫の詩に多田武彦が作曲した男声合唱組曲の中の一節。 しとしとと降る雨、秋に似合う雨、誰もいない雨。 それは、ざあっとやってこいよ夏の夕立(雨の来る前、伊藤整)でもなく、 朱欒を想いながらの、冬ほの暗い雨の日は(雨の日に見る、大木敦夫)でもない。 雨のおとが きこえる 雨がふって いたのだ あのおとのように そっと世のために はたらいていよう 雨があがるように しずかに死んでゆこう 同じ組曲の最後の「雨」八木重吉。 都会では自殺する若者が増えている 僕は傘を片手に、珍しく自転車を置き去りにして歩いている。 気分によって傘をささぬこともあるのだけれど、 最近はそういうことをすることも減ってきたのは、 反抗しつづけることに疲れてきたからか。 傘の柄を軸にしてくるくると廻す。 そぼ濡れた黒いアスファルトに、 骨を伝って雫が飛び散る。 (2001.10.18) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+