今朝方見た夢・夢殿
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(201-210)−−−−+−−−−+−−−−+
ぼくは小さいころ、アカツメクサの葉の
お前はいつもツメが甘いと
英単語を覚えるのに、よく聞き知った言葉と
蒼い眼をした猫を拾ってきたといって
この世の中にいったい普遍の価値などという
泳いで渡るには遠すぎるというかのように、
酒に対する人々の欲求は昔から相当な
チェックの数を変えられないチェックボック
ファッションリーダー
男の料理
(211-220)−−−−+−−−−+−−−−+
友人が、庭でとれたからといって、
つぎの夏まで・番外編
浦島太郎
人の価値観はそれぞれちがう。
ポジティブシンキングのススメ
かげろうづくし
沖縄の海は、もう11月を迎えたというのに
去年までは剥きだしだったところに
いま、頭の中に蛍の光がリフレインして
黒文字をなんで爪楊枝っていう
(221-230)−−−−+−−−−+−−−−+
ここのところよくライトノベルズを
買い物に行って用事をすませてから
電子レンジはまことに便利なもので、
ハイドランジア・オタクサ
土砂降りって英語で
雨の音が聴こえる。
てんで俳句になってない。
そういえば今日(6/21)は、夏至だ。
少し遅めの田植えがされたのが、
蛙と茸と出会った
(231-240)−−−−+−−−−+−−−−+
お金で買えないものが欲しい。
まだ早朝なのに、夢かうつつか、
小玉西瓜が3つで300円というのを衝動買い
流通している貨幣にはいろいろあるけれど
どうしてかと思うほど風が強い日が
M.エンデの「果てしない物語」を読んだ
クレマチスの花
李も桃も、なんて早口言葉があるけれど、
ときおり夜更かしをすると、度を越えて
昨日は読書で遅くまで起きていたので、
240
━−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−240 

ぼくは小さいころ、アカツメクサの葉の模様がとても怖かった。
実のところ、シロツメクサの葉の模様もいやだったけれど、
アカツメクサの方が格段にいやだった。

切り落とした爪のかけらのような形をした、といえばよいのか、
二十六、七日の齢の月の相のような形といえばよいのか、
それぞれの小葉にあざ笑うエイの口のような模様がしらじらと描かれているのだ。
群がるおたまじゃくしと同じくらいの邪悪さがある、と感じていた。
小さい口がみっしりと密生しているのが怖かったのだ。
あの草叢にあしをふみこめば、たちまちにして血をすすられてしまう、
と本能は告げていた。あの紅い花をみればわかるではないか。

のちに母にきいたところ、母もその話をよくおぼえていた。
お前は小さいころ、けしてアカツメクサのしげみには足を踏み入れなかったね、
たべられちゃうと言って怖がってたのが可笑しかったよ、そう言うのである。

小鳥が目玉模様を怖がるのを利用して、目玉の描かれたビニールの風船や、
焼き損なったCD-Rなんかを吊してあるのをよく見かける。
あれと同じで、他人にとっては怖くもなんともないものだったのだろう。
とはいえ、誰にも苦手なものはある。くわばらくわばら。

(2001.05.16)−━−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−240 

もう一つ話を思い出した。

思い出したんだが、忘れてしまった。
というわけで書けないんである。
また思い出したらなんとかしようと思う。

これはしょっちゅうなのだが、
お前はいつもツメが甘いといわれて、
悔しくて爪を噛むのだけれど、
実際に甘かった記憶はない。なぜだろうか。

(2001.05.16)
−−━−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−240 

英単語を覚えるのに、よく聞き知った言葉と絡めて覚えると良いと言われる。

たとえば、LONE なんて単語は、独りの、とか単独の、
あるいはそこから派生して寂しいなんて意味である。

俺に言わせれば、LONE WOLF :一匹狼 なんて俺によく似合った言葉だ。
そのほかにもちょっと昔に流行った映画に、ホームアローンなんてのもあった。
当時名子役といわれたガキンチョが、家に独りで残されて留守番をする話ではなかったか。
頭にアの字がついてるけれども、意味なんてたいして変わってない。
漢は細かいことに気をとられてはいけないのだ。

なにがしかの拍子に LONE ってどういう意味だっけという話になって、
たしか孤独な寂しい、って意味だったな、と、その時思い出したようなふりで俺は言う。
いかにもそんな単語も知らないだなんて、という感じをだしてはいけないのだ。
漢は細かいことに気を配らなければいけない。

よく聞く言葉と絡めて覚えればいいよ。さりげないアドバイスも忘れずに。
ほら、金を借りてるとちょっと侘びしくって孤独っぽいじゃないか。

よく考えたら、それってちょっと違うんじゃあねぇか。
LOAN WOLF ? あぁ。いやん。
せめて、ふりこんじゃったときの侘びしさに喩えればよかったか。
点棒がでていってしまったあとの孤独感といったら。

まぁいい。漢はすぎたことにこだわってはいけないのは論を待たない。
ローンも持たない方がよいのも勿論だが。

(2001.05.17)
−−−━+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−240 

蒼い眼をした猫を拾ってきたといって見せてもらった。
たったふたつのたなごころにすっぽり入ってしまいそうな子猫で、
ふわふわとしてしっとりとした背中には白地に黒のぶちがはいっている。
まだじょうずにあるけもしないのに、抱き上げた腕から逃れようとして、
ぼくのうでに爪をたてる。
はなくそがくっついたように、はなさきのちょっと横に黒い星がある。
正面から見ると無邪気そうな顔をするくせに、
きっと将来は美猫になるそいつの横顔は、ものしり顔だ。

ペットショップのたなさきで拾ったの、というから
お店の中じゃないよね、とつっこみをいれる。
違うわよ、ちゃんと段ボールにはいってたし、お店の人にだって訊いたんだから。
お店の人だって、数日まえから捨ててあるんですよねって教えてくれたわよ。
そっか、ごめんごめん。で、どうするの、飼うの。
うん、小さい頃にも猫を飼ってたから、平気。
そう言って笑ってから、あらもう時間だからと言って帰っていった。

ぺろんと、一瞬だけ見えた子猫の小さな舌は、
ピンク色をしたなにか別の生き物のようだった。

(2001.05.18)
−−−−╋−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−240 

この世の中にいったい普遍の価値などというものが存在するのだろうか。

私にとって、これは価値がある、ということはできる。
あなたにとってもおなじそれに価値があるということはできるのだろうか。
そうやって奨められたり押しつけられた価値というものが
私にとって大事なこともあるだろう。でも、いらないことだってあるだろう。

もし、普遍の価値があるものならば、それは誰にとっても価値があるはずだ。
でも、価値があるかないかを決めるのは、私であって、他のだれでもない。
だから普遍の価値などというものは幻影にすぎないのだ。

もし誰にとっても価値のあることを挙げろといわれたら、
誰かと意志を通じあうこと、相手の意志を尊重しあうこと、と、それだけを挙げたい。
意志の通じ合うことのできぬ間ならば、互いに価値感をやりとりすることもないし、
こちらの意志を尊重してくれぬ相手の価値を尊重することもない。

ちょっと詭弁のような、希望的な価値観。

(2001.05.20)
−−−−+━−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−240 

泳いで渡るには遠すぎるというかのように、
その麦の穂の海のまん中にはヒメジオンが一本だけ生えている。

初夏の季語にだったか、麦の秋という言葉があるが、
その言葉さながらに、小麦の穂が最近黄色くなりはじめて、
朝日に光る朝の海は、まえよりもちょっと眩しくなった。

この辺りの麦畑の畝の部分には、よく矢車菊が植えられている。
かってにこぼれた種が殖えたのかもしれないが、
青、水色、薄紫、桃色、と同じような系統の色の花が乱舞している様はみごとだ。

夕方、すでに暗くなってから通りかかると、
周囲よりも少し頭をだしているその一本のヒメジオンは、
あまり目立たないのだけれど、朝の斜光でみると、
海を漂う流木にとまった鴎のように見える。

雑草だから抜いてしまえば良いのだろうに、そうしないのは、
畑のまん中まで行くために、すでに大きくなった麦を踏み分けて行かねばならぬから、
麦を痛めると思ってのことなのか、畑の持ち主が僕と同じように、
ちょっとその風景が気に入っているからなのか、そいつは知らない。

(2001.05.20)
−−−−+−━−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−240 

酒に対する人々の欲求は昔から相当なものがあったようで、
その作り上げられる過程には、生化学的、そして化学的な英知がちりばめられている。
穀物や糖の発酵によるエタノールの製造は、知られている中で最も古い有機化学的な
工程の一つであり、古代ギリシアにまでさかのぼれるという。

酒の酵母は、炭水化物を代謝して、アルコールと二酸化炭素を生じる。
ここで生じたアルコールは、酵母の活動にとっては好ましからざる排泄物であり、
アルコールの濃度があまり高くなると、それ以上、酵母は活動しなくなる。
そうして得られた酒を醸造酒と呼ぶ。
清酒等の日本酒は、醸造酒の中でも高いアルコール度数を誇ると言うが、
これは日本酒の酵母がアルコールに対して強い耐性を持つということなのだろう。

さらにひとびとは少しでもアルコールの度数の高い酒を、と求めたのだろう、
ワインからはブランデーが、シードルからはカルバドスが、
その他にも、ウィスキー、焼酎、ウォッカ、ジン… 
さまざまな種類の蒸留酒がつくられてきた。
蒸留酒とは文字通り、醸造酒を蒸留したものだ。

水の中に砂を混ぜ込んでしまったならば、それを再び分けるのは簡単だ。
静置しておいて、砂が沈んだところで上澄みとして水を得れば良い。
また、目の細かい布などで漉し分けてやることもできるだろう。
砂は一粒ずつが目に見えるから、いろいろと分ける方法も簡単に思いつくし、
うまく分けることができたかどうかも容易に判断がつく。

水と見た目のほとんど区別のつかないものを混ぜてしまった場合はどうか。
酒の精ともいうべきエタノールは、無色透明の液体である。
それが水に適度に混ざった状態、そして香りやら風味やらの微量な成分が
うまいこと配合された状態、それが酒なのだ。
濾過をしようが、静置しようが、その混ざり具合に影響を及ぼすことはできない。

ひとめ見てもすぐにはわかりさえしない混合物から、
アルコールのみを取り出してその度数を上げられないか、
と(おそらく)試行錯誤がされたのち、
ひとつには蒸留するという方法がとられている。
いわば水とアルコールの分子の性質の違いをうまく利用して
これを分けようとする、化学の世界の技術なのである。

実際には、エタノールは水よりもやや低い沸点を持つ。
このために蒸留によって先にでてくる成分には水よりもアルコールが多い。
これを利用してアルコールを濃縮している。
だから何度も蒸留を繰り返すと、アルコールの濃度はどんどん高くなる。
最終的に1/20の体積の水しか含まないような濃度にまで濃縮することができる。
ここまでくるとほとんど酒としての風味もなにもあったものではないと思うが、
そういう酒を好んで飲む人々もいる。

化学の目的などのために、全く水を含まないアルコールを得るためには、
ベンゼンという物質をそこにくわえてから蒸留するのだと聞いた。
だから実験室の純アルコールをかっぱらって飲むのは体によくないのだとも。

尤も僕自身はアルコール度数の高い酒にはあまり強くない。
プチブルを自認している僕が普段よく飲む酒といったら、
蒸留階級でもないから、ビールとか日本酒ばっかりなのだ。

(2001.05.21)
−−−−+−−━−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−240 

今日はこのスクリプト書いてみた。
ラジオボタンと同じようなはたらきのチェックボックスをつくってやろうと思って。
初めについていたチェックの数を変えられないチェックボックス。

<html><head><title>test</title>
<script language="JavaScript">
<!--
/* 01 */  function eve(p) 
/* 02 */  { if ( form1.elements[p].checked == false )
/* 03 */       { form1.elements[p].checked = true } 
/* 04 */    else 
/* 05 */       { for ( i=p+1; i<100; i++ )
/* 06 */            { if ( i>9 ) { i-=10 }
/* 07 */              if ( form1.elements[i].checked == true )
/* 08 */                 { if (i==p) { break }
/* 09 */                   else 
/* 10 */                      { form1.elements[i].checked = false
/* 11 */                        break 
/* 12 */                      } 
/* 13 */                 }
/* 14 */              else { continue }
/* 15 */            }
/* 16 */       }
/* 17 */  }
//-->
</script>
</head>
<body>
<form name="form1">
<input type="checkbox" name="cb1" value="0" checked onClick="eve(0)">0
<input type="checkbox" name="cb1" value="1" checked onClick="eve(1)">1
<input type="checkbox" name="cb1" value="2" checked onClick="eve(2)">2
<input type="checkbox" name="cb1" value="3"         onClick="eve(3)">3
<input type="checkbox" name="cb1" value="4"         onClick="eve(4)">4
<input type="checkbox" name="cb1" value="5"         onClick="eve(5)">5
<input type="checkbox" name="cb1" value="6"         onClick="eve(6)">6
<input type="checkbox" name="cb1" value="7"         onClick="eve(7)">7
<input type="checkbox" name="cb1" value="8"         onClick="eve(8)">8
<input type="checkbox" name="cb1" value="9"         onClick="eve(9)">9
</form></body></html>

/* 01 */  は、以下の説明のために便宜的に設けた行番号である。
1行目で、引数としてpをとるイベント関数eve(p)を定義することを宣言した。
 この引数は、チェックボックスのインデックスナンバーである。
 この関数は、チェックボックスをクリックした時に発生する。(on Click)
2行目と3行目では、クリックされたチェックボックスが、もともとチェックされて
 いた時(クリック後なので、反転してチェックボックス=オブジェクトのプロパティ
 ( form1.elements[p].checked )がfalseになっている場合)、チェックされてい
 る状態に戻す操作をしている。
4行目、それ以外の場合、すなわち今までチェックされていなかったボックスを新た
 にチェックしようとした場合に以下の操作を行い、新たについたチェックのかわり
 に古いチェックをひとつ消す操作をおこなう。
5行目。いわゆる FOR 〜 NEXT ループである。pは今、新たにチェックしようとした
 番号。その番号より一つ大きい数字から、すなわち一つ右のボックスからはじめる。
 iはループのためのカウンタ変数で、100までとしているが、実際には設定されてい
 るチェックボックスの数まで増えることはない。次の行を参照。
6行目。カウンタ変数iが設定されているボックスのインデックスナンバーの最大値を
 越えた時点で0に戻す操作をしている。すなわち、右へひとつずつ調べていって、右
 端までたどりついたら一番左の端から再スタートするという具合。
7行目。今調べているi番目のボックスがチェックされていない場合はいっきに14行
 目まで跳んで、なにもせずにループの中の動作を繰り返す。
8行目は、本質的には不要。念のため、iがpに等しい、つまり初めに付け加えたチェッ
 クボックスの右からはじめて、元の位置まで一周して戻ってきた場合にループを終了
 する。9行目、それ以外ならば、
10行目、11行目、i番目のボックスのチェックを外してループから抜ける。

たったこれだけのスクリプトなのだが、
ジャバスクリプトを組むのははじめてだったせいか、悪戦苦闘してしまった。
このままじゃほとんどなんの役にも立たないのだが、ま、面白かったからいいか。

(2001.05.22)
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ぼくはファッションセンスをほとんど持たないんだけど、
今日はそういうことに関する話を聞いた。
といっても、それを教えてくれたのは少し年輩の某さん。

いわく、最新のファッションは
「透ける」「揺れる」「光る」がキーワードなのだそうだ。
いわれてみれば、アイマックは透けルトンモデルで一気に売れたし、
最近は、女の子が泣いてるのかと思いきや、ラメ入りのシャドウだったりするから、
まぁそんなもんかしら、と納得する。
「揺れる」の話で、チャールストンのダンス衣装の裾を例にひくところが
その少し年輩の某さんのおちゃめなところなわけだけれども。

というわけで、風に薄い髪がゆれているあなた。
ファッションリーダーに決定。

(2001.05.23)
−−−−+−−−−╋−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−240 
男の料理
手料理といっても、ろくなものができるわけでもなくて、簡単な材
料で、目玉焼きが焼けるのだの、レンジでチンだの、手のかからないことばか
りできると言っても、自慢にもなりやしない。

みそ汁くらいは作れるよ、というと格好良いのかもしれないが、
それだって、味噌とインスタントダシと、せいぜい乾燥ワカメくらいとお湯で
汁ができてしまうんだからなんていうことにもならないだろう。

野菜サラダなんてのも、野菜を刻むだけでいいから、まぁ得意である。
最近は刻まれたまま売られている野菜もあるから、そいつを買ってきて
皿に盛るだけでも良い。コンビニのサラダを買うよりちょっとまし
だ、という程度かもしれない。

ややもすると、忙しい日ばかりで、カップ麺な生活がつづいていたから、
きのうは少しばかりのんびり夕飯を食ってやろうと思って、どんな
ざいりょうがあるか見回してみた。普段自炊をしないのにろくな物がある訳もなく、
かんたんなものにしておこうと、そうめんなどをゆでてみた。
なかなか美味かった。まぁメンズな料理っていったら、まぁこんなもんだろう。

(2001.05.25)
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友人が、庭でとれたからといって、さくらんぼを送ってくれた。

届いた小箱の中には小さなあめ玉のような粒がいっぱいに詰まっている。
もちろん、売り物のように、粒がそろっているわけでもないし、
同じ方向をむいてすまして並んでいるわけでもない。
かえってそこが、いま樹からとったからたべてくださいね、
といわんばかりでうれしかったりする。

その色は、アメリカンチェリーのようなきつい赤ではなくて、
黄色をベースとして、ほんのりと赤味がかっている。
もちろん、なかには赤の濃いつぶもあれば、薄い色のものもある。
味だって甘いのもあれば、まだ酸っぱいのもある。
おもしろいなと思ったのは、ひとつの柄から2つの粒が一緒になっている
ふたごのさくらんぼもあることだ。
こういうのは売り物ならばはじかれてしまうんだろう。

友人のこころづかいがうれしくて、ぼくはひとつぶひとつぶ、
片方の手で さくらんぼをくちに運ぶ。
もう片方の手には、読みさしの文庫本をもっているのだけれど、
目で文章を追うのが、ついおろそかになって、
さくらんぼの色に見入ってしまう。
次はどの粒をつまんでやろうかとか、
あの粒はあまりにもきれいだから、最後までとっておこうとか、
この赤は送ってくれた友人の上気した頬のような色だとか、考えている。
そのひとつぶをそっとくちに運んだ瞬間に、
友人がどんなことを感じているんだろうとか、考えている。

年にいちどのぜいたくは、すこし官能的な味がした。

(2001.05.27)
−−−−+−−−−+−━−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−240 
つぎの夏まで
番外編
<先にこちらをお読みください。>

涙腺が弛んだかのようにとめどもなくなみだを溢れさせて、彼女はだだをこねた。
たしかに、悪いのは俺だ。だからと言って、飽きてしまったものは仕方がない。
いくらそういっても判ってくれなかった。
楽しかったのは初めの数週間だけで、彼女のしぐさのひとつひとつが鼻につきだしてからは、
もう可愛いとも思えなくなってしまって、あとはただ鬱陶しいだけだった。

宝物のような日々、そう言うなら、ずっと思い出として大事にしてくれ。
冷酷なようだが、俺にはもうお前を愛せない。
いずれお前にも、再び良い人があらわれるさ。去り際にそう言って、部屋を後にする。
ルールはルール、だらだらとした関係だけ続けても互いに得るところはない。

一度だけ振り返ったときに、思い詰めたような眼をしていたのは確かだ。
だからといって、そこまでするとは思いもよらなかった。
たったひとつの命、一度は俺が愛しいと思った命を彼女は捨てた。
ただの絶望だろうか。彼女なりに思い詰めたのだろうか。
考えても今更、答えがわかるわけでもない。

今はもう秋。季節はずれの風鈴が、どこかで、りん、と音をたてた。
たったいま、どこかで誰かが俺を呼ぶ声がしなかっただろうか。
枯れた野原を照らす夕日の赤色が、妙に懐かしい気がしてならない。
いくつめだろう、ほら、また、りん、とどこかで風鈴の音が聞こえてくる。

(2001.05.28)
−−−−+−−−−+−−━−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−240 

浦島太郎

乙姫さまは太郎を引き留めます。
どうぞもう一夜、私のもとにとどまってくださいまし。
乙姫さまは、優しい心根の太郎をたいそう気に入られて、
ずっといっしょにいたいと思うようになっていたのです。

竜宮の乙姫の元結いの切りはずし、こんな長い名前の海草があります。
海藻ではなくて、海草です。陸上の緑色植物の仲間なのです。
人魚と間違えられたのだろう、といわれているジュゴンが食べる草でもあります。
この海草は、アマモという他の名前も持っています。
乙姫からの連想で海女の藻と書くのかと思いきや、甘藻という字だそうです。
甘いという字があるのに、これは海水から塩を取り出すのに使われました。
この甘藻を切りとって、海水をそそぎかけて塩分を多く含ませてから焼いて、
その灰を水に溶かした上澄みを煮詰めたものを藻塩と呼ぶのです。
今、売られている安い塩は、海水を煮詰めてつくるというよりも、
イオン交換膜電気透析法とよばれる方法で造られています。
このため、非常に純粋な食塩(塩化ナトリウム)をつくることができるのですが、
体によい微量なミネラル等は却って少なくなるため、うまみが少ないのです。

太郎はよく言えば優しいことが取り柄のような男で、
あまり強く自分の意見を言わないところがあります。
悪くいえば、優柔不断なのでした。乙姫に、もう少し、もう少しと
引き留められるまま、何日も何日も経ってしまいました。

二酸化炭素を海底に溜めるという計画があります。
私達が生活のために石油や石炭などの化石燃料を燃焼させることによって、
大気中に放出している二酸化炭素を、冷たく深い海の底に、液状になった
二酸化炭素として保存しておこうというのです。
海底の水はゆっくりゆっくり動くので、
何千年もそのままにしておくことができるのだといいます。

とうとう、竜宮城をおとずれて3年も経ってしまってから、
そろそろ家に戻りたい、太郎はそう乙姫に告げます。
ではあと一日だけお待ちになってください。
明日になりましたらきっとお送りしますから。乙姫は太郎にそう告げます。

浦島効果という言葉を知っていますか。
非常にはやく、光の速さにも匹敵するほどはやく運動すると、
時間がゆっくりと過ぎるようになるというのです。
そのため、非常に速い架空の乗り物に乗って宇宙旅行をおこなうと、
年をとらないまま他の星を訪れて地球にもどってくることができる
というのです。これを、竜宮城で3年すごす間に地上の300年を過ごして
しまった伝説の人物、浦島太郎になぞらえて、浦島効果と呼ぶのです。
中には面白い仮説を唱える人も居ます。
浦島太郎が乗ったという亀は実は円盤形の宇宙飛行船だったと言うのです。
進みすぎた科学は魔法と区別がつかない、という有名な言葉がありますが、
もし本当に大昔に、他の星から宇宙船で地球を訪れた異星人が居たとしても
当時の人々にはきっと彼らが仙術使いのように見えたに違いないのです。

乙姫さまは太郎を帰すと約束してしまいましたが、
本当はいまさら太郎とわかれたくありません。
哀しい気持ちのまま太郎を陸へと送らせます。
でも、竜宮と陸の上では、時間の進み具合が違いますから、
陸には、もう太郎の見知った貌はありません。
すぐに竜宮が恋しくなって戻ってくるはずだと思っているのです。

陸についてから、太郎はだまされたのだということを知ります。
そりゃあ3年もとどまったのは彼の責任かもしれません。
でも子供が親から離れられるようになるまで、そのくらいはしかたなかったのです。
ところが陸の上では300年という時間がすぎてしまっていました。
乙姫は知った上でだまっていたのに違いないのです。
怒った太郎は、連絡用にともらった玉手箱をうち捨てると、
二度と竜宮の乙姫に逢おうとはしませんでした。


なんやまた、要するに女はずるくて男は身勝手なのね、
という話になっちまったよ。

(2001.05.29)
−−−−+−−−−+−−−━+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−240 

人の価値観はそれぞれちがう。

おかしいなと思っていることを、なかなか言い出せずにいたのに、
他の誰かが言い出した途端に安心して強気になって同調することは、
それはそれで仕方のないことなのかも知れないけれど、すごくいや。
なんていうか、俺の美学に反する行為である。むかつく。

クラスの中の誰かがいじめられているときに、
みんながいじめているから俺もいじめることが許されるか、というのと同じ。
何かを主張したいのであれば、たとえ同調者がひとりも居なかったとしても
主張できなければおかしい。

ある意見が多数派であることを、自分がその意見をもつことの正当な理由である
と思うよりも、他人とは違う意見を自分の信じるように主張してみることのほうが、
ずっと難しく、そしておそらくは価値のあることだろう。

(2001.05.30)
−−−−+−−−−+−−−−╋−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−240 

ポジティブシンキングのススメ

たとえば朝は8時に起きなければいけないとする。
たとえばウェブサイトにアップする文章をまだ書いていないのに、
夜中の12時をまわってしまったとする。

こういう時に便利なのがポジティブシンキングの導入である。
あぁもう寝なければいけない、などと考えてはいけないのである。
まだ朝起きるまでに8時間もあるぞ、と考えるのである。

それでもって文章を書くべく頭をひねるんである。
なんとかかんとかひねり出すことができたとするのである。
あぁつまらないからだめだ、なんて考えてはいけないのである。
捨てる神あれば拾う神あるはずだ、と考えるのである。

心配しつつ、本心悩みつつ、えいやっとファイルをアップするのである。
こんなもん宣伝したら、却って逆効果かな、などと考えてはいけないのである。
騙されてでも読みに来てくれる人がいたらラッキーと考えなければいけないのである。
というわけで、更新報告まで随所でおこなってしまうのである。
以上の事は、いちいち考えずに脊髄でやっちゃうのがベストである。

やっと今日のおつとめが終わったと思って時計を見ると、
3時とか4時になっちゃってるんである。
外はもう明るかったりもするんである。
こんな時に、あぁ寝る時間が、なんて悲観的になってはいけないんである。
まだ4、5時間は寝られるぞ、と考えるんである。
4当5落なんていうではないか。である。
ナポレオンなんて3時間しか寝なかったという伝説もある。
ナポレオンが昼寝をしていても、誰も文句は言わなかったにちがいない、
なんてことは無視しておくのがベストである。

ふだん、どうせ早起きしないのに、今日なんてご来光やらを
拝めてしまったぜ、なんて得した気分で眠るんである。
そうすると寝覚めが良い(はずな)のである。
そうやって実は生活が破綻していることは誰にもナイショなのである。

そっか、だからいつもナチュラルハイだね、って言われるのか。
ハイっていうか、灰かもしれないけれど。

(2001.05.31)
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かげろうづくし
夕方から夜にかけて建物の中が明るいからか、窓からとびこんでくるようで、
草蜉蝣か、緑色のか細い体に似合わぬ大きな透明の羽を持つ虫が
廊下にぽとりとおちてこときれていた。老化がはやいなどとは言わないが、
たしか、こやつらは羽化してどれほども生きられぬはずではなかったろうか。

吉兆でありとされる優曇華の花より生まれてくるわりには肉食性であり、
近い仲間である薄羽蜉蝣の幼虫は、かの有名なアリ地獄と呼ばれる虫で、
すり鉢状の砂の穴でアリを捕獲して餌とするが、草蜉蝣の場合はありまきを食する。

単に蜉蝣という虫もいる。薄羽蜉蝣や草蜉蝣は脈翅目なのに対し、
蜉蝣は蜉蝣目に属し、分類上は全く別の虫だということだ。
蜉蝣の命などと短命なことに喩えられるのは、蜉蝣目の蜉蝣の方らしい。
たしかに、薄羽蜉蝣のような、では薄馬鹿下郎とよばわれているようで
蜉蝣のような一生と言われるときのあの儚さの感じが出にくかろう。

手に取ることあたわぬものの例えに陽炎稲妻水の月などとされる陽炎も
縦令、陽炎は現象で蜉蝣は生き物という違いがあろうとも、
同じく儚いものの喩えにされる。

とはいえ朧朧と月翳ろうとも影朗々たる一生を送ることができればそれが一番良かろう。

(2001.06.01)
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今週の写真もご覧ください
沖縄の海は、もう11月を迎えたというのにずいぶんと暖かそうだった。

僕が沖縄にでむいたのは、もう何年かまえのことになる。
10月の末に宮崎に行く用事があって、二日間のフリーができた時に、
近くまできたものだからついでに、と思い立って出向いたのだった。
宮崎から沖縄までが、相対的にはいくら近いといっても、
どうせ飛行機で飛ぶわけだから、大阪や東京から出掛けるのと、
そうたいした差はないのだが、なにかきっかけが必要だったのだ。

全国をくまなく歩き回っているというわけでもないのだけれど、
学生の頃から、なるべくいろいろな所をまわっておこうと思っていたものだから、
北は北海道から南は鹿児島まで行ったことがあって、
自分にとって未踏の沖縄はあこがれの地だったのだ。

たった二日のフリーを、わざわざ沖縄まで行ってすごした、と言うと、
なんという勿体ないことを、とコメントしてくれる人もいる。
たしかにその通りだ。沖縄にいくのなら、1週間とか、10日とか、
まとめて休みをとってのんびりするのが一番よいだろう。
でもたった1泊だけのためにでも、出向かなければ知らぬ土地のままではないか。

僕は、知らない土地では、なるべく足を使って移動するようにしている。
もちろん、全てを徒歩で移動するのは現実的ではないけれど、
普通の人よりは歩きで移動する距離が長いと思う。
歩くことによって、ゆっくりと移動していく景色や、土地がらといったものが
はじめて自分のものになるような気がするからである。
くるまなどでまわっただけの土地は、後からよく思い出せはしないのだ。

今だったら、手記にするためということでとった行動をメモしておくのだが、
当時、そんな習慣も無かったから、すでに細かいところは、やや曖昧である。
なんというか、もったいないことだ(笑)。

那覇の空港についてから、初日には首里城へおとずれた。
ちょうど訪れたのが、お祭り(首里城祭)と重なったようで、
まったくわからない「うちなーぐち」による伝統的な(と思われる)劇を
見ることもできたし(さっぱり理解できなかったが)、道脇では、
沖縄の菓子を売っていたり、爆竹を鳴らして練り歩く行列を見ることもできた。

翌日に訪れたのは東南植物楽園だ。
ガイドブックに従い、最寄りのバス停までバスで行き、そのあとは歩くことにした。
徒歩20分と書いてはあるが、本当はどのくらいの時間だったろうか。
たったの20分にはとうてい思えない。11月になったばかりの沖縄は、
もう、ただひたすらに暑くて、重い荷物を背負いながら1時間以上も
歩いたような感じがする。いや、きっとそうに違いない、20分などという数字は
ガイドブック用のでっち上げの数字で、実際に歩いて測った者などいないに違いない。
えんえんとアスファルトの照り返す道をあと1分、あと1分だけとつぶやきながら
たどりついたそこは、植物園ではない、植物楽園というその名の示すように、
まさに亜熱帯の花の宝庫だった。もっとも、沖縄で、何に一番感動したかというと、
ひとつは、そこは日本なのに、特に植物園でもない街路樹にさえ
ブッソウゲやブーゲンビリアが咲いていたことなのだが。

かえり道、この暑さを感じるのも沖縄ならではの贅沢かもしれぬと思いながら、
道を歩いていると砂浜が見えてきた。少し遠回りになるけれど、
ここは浜まで行ってみない手はない。さすがに泳いでいる人の姿は見えなかったが、
10月一杯までが遊泳期間で、11月から海を閉めたという張り紙がしてあった。
つまり、まだまだ泳ごうと思えばなんの問題もなく泳げる時期だったとも言える。
泳ぐ用意まではしてこなかったから、泳ぐのはあきらめて、海を眺めていた。
南国だからだろうか、あくまでも海は青く、砂は白かった。
あまりにもありきたりだとは思ったけれど、
青い海に、強い陽射しがつくりだした自分の影をうつして写真を1枚撮った。

短い滞在はそうやって、すぐにすぎてしまった。
食べ物だっていろいろたべてみたし、泡盛だって専門店とやらを探して
土産に購入したりもした。いろいろやったけれど、短い滞在だった。
機会があれば、またゆっくりと訪れたい、そう思う。

(2001.06.04)
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去年までは剥きだしだったところに新しくアスファルトを敷いて、
ちょっとの雨ではぬかるまないようにしたところから、立派なタンポポが生えている。
そこが真っ黒なタールのかたまりで覆われていることなど知らぬげで、
八百屋で見かけるちょっとしたホウレンソウなんかにも引けをとらない。

まっすぐに伸びた茎に、鮮やかな黄色の花をつけていたのだが、
いつぞやそれは綿帽子になっていた。
あるところを中心としてそこから等間隔の点の集合をとると球が描ける。
天気も良かったから、長さのそろった一つずつの綿毛は、
黒いアスファルトを背景に、向こうを透かした白い球をつくっていた。

その日はほとんど風がなかったのだけれど、
そのうちに風が吹いて自然にその綿毛をとばしてしまうのももったいなかったから、
ぼくはそのタンポポの綿帽子を片手につみ取った。
まっすぐで青い茎はその時に、すぽん、というこぎみよい音をたてた。

ふっ。

目の前にかざしたその丸くて白い球体に、強く一気に息を吹きかける。
球のあった位置を中心にして、四方八方へと綿毛は飛び散る。
撞球のゲームの初めの儀式のように、あるいは小さな爆発のように。
息にのって向こうへ流れるようなことを予想していたから、
ちょっとびっくりして、目の前にぱっと拡がった綿毛が耳に入らないように、
あわてて耳をおさえたりする。

風もない日だったから、僕のその、ふっ、という一息によって、
親の庇護の元から放たれた綿毛たちは、当然のことながらややもして、
アスファルトの上へとゆっくりと降り立っていく。ちょっとした罪悪感。
自然の風ならば、君たちを最後の地まで導いただろうのに。

あとで見たら、いつしか吹いた風に運ばれて、綿毛はみんなどこかへいってしまった。

(2001.06.05)
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いま、頭の中に蛍の光がリフレインしています。
いつものように閉店間際のスーパーへおつとめ品などを買いにいき、
いつものように閉店すれすれまでいろいろと物色していたのです。
そうしますと、いつものように蛍の光が流れてきます。
そうしまして、いつものようにいつものアナウンスが流れてきます。
まことに勝手ながらそろそろ閉店の時刻、なんだそうです。

閉店の時刻になったのは、果たして店の勝手な都合なのだろうか、
と微妙に悩みながら、まぁ客商売だからイチャモンのつけようがないように、
心配りをしているんだな、と思うことにしました。
でも、そんな心配りをするくらいなら、
もっと他のことに気をつかった方が良いと思います。

たとえば、バイトと思われる若いにいちゃんが、棚の上に置かれていた
いまつかわれていない値札か商品札をとろうとして、生鮮食料品の陳列棚に、
靴のまま足をかけています。横着せずに踏み台もってこいっつうの。

たとえば、どこぞのお子さまが騒いで走り回っている上に、
客が自分で透明なトレイに必要なだけ取って買うようにおいてある
むき出しの生の豚カツ(従って、生のパン粉がまぶされている)に、
指をつっこんでいます。そのうえ、そのお子さまはその指を舐めてます。
生の小麦粉もついてるし、腹こわすぞキミ。

その上、彼は走り去る時に、台の上にあった透明なポリのトレイを、
床におとしてしまいました。そこに通りかかった彼の母親なる人は、
さすがに気がついたらしく、彼にむかって、こら、と声をあげて、
落とされたトレイをもとに戻しました。え、落ちたやつだよ、と思ったけど、
衛生的には所詮あまり変わらないものかもしれません。知らぬが仏です。
その母親なる人はその後も彼の手を引くでもなく、お肉をじっと見つめて、
どれを買おうか悩んでいるようでした。

店の人は、バイトの兄ちゃんの教育くらいちゃんするのが肝要です。
小さいお子さま連れのお客様へのご注意をすることができないなら、
せめてガキの行動に目を配っておかないと、あかんよう、てなもんです。
と思ったけど、ま、いっかと思って普通に買い物してきました。
もしかしたらぼくは割とものごとに寛容なのかもしれません。

(2001.06.06)
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黒文字をなんで爪楊枝っていうんだろう。

そりゃ、子どもを育てるのに男手ひとりじゃ足りないからさ。
苦労の文字は夫婦で分かち合えってね。

(2001.06.07)
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ここのところよくライトノベルズを読んでいる。
ライトノベルズというのは、まぁ正確な定義は知らないけれど、
アニメタッチのイラスト挿し絵が多用された小説というような分類で、
概ねあっているのではないかと思う。

ライトノベルズ本は多く読まれているようで、本屋でも数多く売られているし、
読んでもほとんど疲れないのがよい。それにたまには非常に面白いものを
見つけるときもある。そんなわけで電撃文庫だのファミ通文庫だの、
最近創刊されたデュアル文庫だのがチェック対象となっている。
老舗ともいうべきハヤカワと創元をチェキ対象からはずせないのは
もちろんのことだが、ここのところ少し元気がないように見えるのも、
僕がライトノベルズへと傾倒している一因となっている。

デュアル文庫は結構頑張っているな、というのが僕の印象だった。
今年の1月2月に相継いでだされた「NOVEL21少年の時間」「NOVEL21少女の空間」
なんてのは、それぞれ text Blue, text Red なんて、
ビートルズの青盤、赤盤をたぶんに意識しているんじゃないかと思われる
副題が添えられたアンソロジーであるのだが、結構渋いんである。
著者なんかも少年の〜では上遠野浩平、菅浩江、山田正紀、ほか、
少女の〜では青木和、梶尾真治、二階堂黎人、篠田真由美、ほか、と
それなりに新進の作家が揃っていて、なかなか良い感じなのだ。

そんなわけで、新しくでていたデュアル文庫の1冊を僕は無造作に購入した。
それはいつものごとくしばしのあいだ部屋の片隅に積まれていたのだが、
やがて順番がきて、昨日とうとうそれを読み始めてみた。

それはなかなかにものすごい体験だった。一部を引用してみよう。

(:ここでひとしきり、いかにその本の日本語が酷いものか、さらしものにして、
  面白く無い本を買ってしまったことを嘆く文章がはいったが、
  自己検閲のため、カット。自分は棚の上だしね。 
  あなたが最近よんだ、酷い本から適宜文章を補ってお楽しみください。 :-p )

結局この本を最後まで読み通す辛抱が僕には足りなかった。
文庫本の代金程度のお金を、本のために支払うことにためらったり、
後悔したりすることはあまりない。
これまで本を買うときにある程度セレクトしているから、
大きくはずしたことはなかったからなのだが、たまにはこんな失敗もある。
こうやってネタに使うことで本の代金分のもとでもとらないと、
腹の虫がおさまらなかったのだ。

(2001.06.08)
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買い物に行って用事をすませてからスーパーを出ようとしておどろいた。

天気予報ではもう梅雨入りしたと言っていたし、
空模様も芳しくはなかったのだが、それでもなんとか天気は保っていたから、
自転車でそのスーパーへ買い物に行ったのだ。
それが、眼の前の駐車場のアスファルトにうちつけた雨粒が何センチも
跳ね返るような強い勢いの雨になっていたのだった。
店内でお総菜を選んでいるときに聞こえてきたごぉーっという音は、
換気扇の不調ではなく、この音だったのか、と今更ながらに気付く。

さて、傘を持ってきているわけでもなし、どうしようか。
傘があってもこの雨では濡れることを免れ得まい。
しばし待つことにしようか。そう決めてぼんやりと外を眺めていた。
いっこうに雨足の弛む気配がない。俺は佐藤俊夫でもなし、
濡れたからと言って溶けるわけじゃない、濡れて帰ろうか。
とりあえずスーパーのポリ袋に財布と時計をいれて、濡れないようにして、
濡れるのを覚悟で外へでた。

つ、冷たい。
思ったよりも雨が冷たい。道路に溜まった水を自転車のタイヤが巻き上げて、
ジーンズの尻をぬらすのがまた予想外の冷たさだ。
もう少し気持ちが若かったときには、雨が降ったからといって傘をさすのは
馬鹿げてるなんて思っていた。もともと傘ができる前から人間は居たのだから、
雨に濡れるのが自然の姿である、そう嘯いて、深い水たまりでも
じゃぶじゃぶと好んで歩いていたものだ。
そんなことを思いながらも雨に震え、唇を噛んで家路を急いだ。

とりあえず部屋にたどりついてから、風邪をひかないようにと着替えをした。
酷い目にあったなぁなんて思って外を見た。
そうしているうちに、なんだか雨足が弱まって、とうとう止んでしまった。
もしかして、スーパーであと30分粘っていたら、濡れなくて済んだのかも知れない。

計算違いをしたようで悔しかったけれど、
まぁ今日は若返ったつもりで良しとしておこうか。

(2001.06.10)
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電子レンジはまことに便利なもので、いろいろな使い方ができる。

ありていに言ってしまえば、まず食品をあたためることができる。
しがない独り暮らしをしているものにとって、この機能はあなどりがたい。
気がむいたときに作りおきして冷凍しておいたカレーやミートソースを
器にうつしてあたためるだけで、ありがたい手料理が甦る。
尤も、手料理とは言え自分でつくったものだけにありがたみは少ないのだが。

あたためることができるのは食べ物だけではない。
お手拭きのタオルをしぼってから電子レンジであたためると、
さも簡単に蒸しタオルとなる。
尤も、うちじゃそんな高級なものを出した試しはない。

乾燥に使うことだってできる。
ちょっと湿気てしまったお煎餅なんかを、電子レンジにかけてやると、
ぱりっと乾いて、たいそう良い具合なのだそうだ。
尤も、うちじゃ湿気る前に無くなってしまうから必要がない。

そういえばパンをあたためようとおもって、オーブントースターか、
ガスコンロと焼き網を使えばよかったのに、手をぬいて電子レンジを
つかったところ、時間を長くしすぎて、ガジガジのラスク状にしてしまって
哀しい思いをしたこともある。気をつけなければいけないことだ。

また、乾燥剤のシリカゲルの粒がピンク色になってしまったやつを、
再乾燥させたいときも電子レンジにかけてやると良いのだそうだ。
ただし、これは生石灰の乾燥剤には応用がきかない。
シリカゲルはただ水を吸着しているだけだけれど、生石灰は水との
化学反応で消石灰になってしまっているからだ。

乾燥の応用で、こんなこともできる。
おしば標本を作るときに、ゆっくりと乾燥させると、どうしても色素が抜けてしまう。
これをシリカゲルにいれてからそのまま電子レンジで乾かしてやると良いらしい。
尤も、植物の葉っぱを素早く乾燥させたいときには、見た目が重要ではないほうの面
(主に、裏側になるだろう)に軽くサンドペーパーをかけてやってから、
紙にはさんでおくと、あっというまに乾くから、電子レンジなんて要らないかもしれない。

さらに言えば、攻撃の道具にもなる。
探偵ナイトスクープという関西発祥の番組でやっていたのだが、
電子レンジでなまたまごを一定の時間あたためると、爆弾たまごができるというのだ。
見た目はなんということのない、殻のむかれたゆで卵に、
出演者のひとりがなにげなく食いついたときに、まだ熱いたまごは破裂したのだった。
眼の前で破裂して、さぞびっくりしただろう、そしてさぞ熱かったろう。
テレビの字幕で、絶対にまねをしないでくださいとでていた。
そんなことを知らぬふりをして、この爆弾たまごを攻撃したい誰かに出してやれば、
そいつは腰をぬかすこと必定であろう。
尤も、これはやっちゃぁいけないことだと思う。

そしてこれはうちの電子レンジに固有の楽しみなのだが、
スリルを味わうことだってできてしまう。
何度か引越しをしたときに、50Hzと60Hzの境界を越えたときがあって、
それまで使っていた電子レンジをそのままつかっているのだ。
安いものを買ったせいか、切替スイッチなどついていないから、
周波数が合っていないまま使っているのだけれど、いまのところ支障はない。
ただ、つかっているときに、ブーンという怖い音がするのだ。
いつ爆発して火を吹くか、気が気ではないものだ。
というわけで、あたために1分半にしておこうか、いや2分いこうか、と
真剣に悩みながら、スリルとともに食事の準備をするのである。
尤も、これは保証外の使い方なので、なんというか、やばいかもしれないのである。

とまぁ、このように便利な電子レンジは、
平凡な独り暮らしにはかかせないもののようだ。

(2001.06.11)
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ハイドランジア・オタクサ
酸性は赤色で、アルカリ性は青色、というのはリトマス試験紙の色のことです。

水溶液の酸性度によって色がかわる薬品を紙に染み込ませて乾燥させたものを
pHの試験紙と言います。pHという言葉(ペーハーと呼ぶか、ピーエイチと呼ぶかで、
教育を受けた年代が判るとか。)は、酸性雨なんていう現象がよく聞かれるように
なりましたから、それ以来、結構有名になったように思います。
それにリトマス試験紙というと、わりと早い段階で理科の時間に習うから、
きいたことがあるとか、実際に触れたことがあるという人が多いのではないかしら。

それがどうして色が変わるのか、なんてことまで考え出すとなかなか面倒なのですが、
そこはまぁ良いじゃないか、ということにしておきましょう。
リトマス液というやつは、なんでも地中海付近に生えるというリトマス苔から
抽出した汁なんだそうです。
実際、pHを変えることによって色が変わる植物の汁というのは、結構あります。
リトマス試験紙の色を、うめぼしは赤いから赤が酸性、なんて覚えた人も多いでしょうが、
ムラサキキャベツを千切りにして水に浸してできる汁だとか、紫蘇の汁だとかに、
酢や重曹(ふくらし粉)なんかを加えて、水溶液のpHを変えることによって、
みごとに色が変わってくれるのは、夏休みの自由課題のネタ本なんかによく載っています。
他にも、朝顔の花の絞り汁とか、いろいろ試してみても面白いかもしれません。

さて、今、梅雨どきです。なにか思いつきませんか。
そうです、紫陽花です。別名「七変化」とも呼ばれ、移り気、浮気、心変わり
なんて花言葉をもっているあの紫陽花です。
6月の誕生花で、長崎の市の花にも指定されているあの紫陽花です。
うっかりした殺人犯人が、紫陽花の根元に殺人に使ったピストルを埋めると、
一株だけその花の色を変えてしまって、名探偵に凶器の隠し場所が見つかってしまう
という有名な伝説まであるあの紫陽花です。
紫陽花の花の色は、土壌のpHに呼応して変わってるんだ、という説をききました。
リトマス試験紙とは逆で酸性だと青くなりやすいんだそうです。

ところで今日はすごいスポットを発見したのです。
とても綺麗な紫陽花が咲いていて、写真を撮ったらさぞよかろう、という場所です。
青い紫陽花と赤い紫陽花がとなりあって咲いています。白い紫陽花もあります。
数十センチしか離れていないところで異なった色の花が咲いているのです。
さて、これはどう解釈したら良いのでしょうか。
酸性の土とアルカリ性の土が交互にあって、それで花の色が変わっている?
またはミステリーではそうであるように、赤い花(青だったかしら)の下には、
凶器が埋められている? なんだかわくわくしてくるような気がします。

美しく植えられた花壇を掘り返してみるわけにはなかなかいきませんから、
まぁ実際のことはわかりませんが、紫陽花の花の不思議を感じさせられます。
ところで紫陽花にはロマンチックな話も伝わっています。
シーボルトという人が紫陽花を紹介するときに、彼の愛人の楠本滝の名をとって…
… え、紫陽花の話は、もぉたくさん? 失礼しました。

(2001.06.12)
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土砂降りって
ねぇねぇ、今朝のテレビ○○のおはよう英語のコーナーでみちゃったんだけどさ。
 なによ、いったい。
英語で土砂降りって、なんていうか知ってる?
 知らないわよ、なんだろう。スコール?
それはにわか雨よ。ヒント。動物。動物が降るんだって。
 竜巻で巻き上げられた魚やカエルが降ったって話なら知ってるけど。
ブー、はずれ。もっと可愛い動物。
 カメレオン。
あんたのそういう感覚、うたがうわよ。カメレオンって可愛い?
 無表情なくせにきょろきょろした目がいいんじゃない。
まぁいいわ、他の動物よ。その辺にいそうなもの。
 ゴキブリ?
きゃ、いやだ。そんなもの降ってきたら、私、死んじゃうわよ。あんたゴキブリが可愛いわけ?
 あ、わすれてたわ、可愛いんだっけ。んじゃ、猫とかね。
そうそう。猫。もう一つは犬なんだって。
 猫は高いところから落としても平気だけど、犬は平気なのかしら。
本当に降ってくるわけじゃないわよ、たぶん。
 そりゃそうか。でも、へーんなの。
It's raining cats and dogs. っていうんだってさ。
 でも一生使わないかもね、そんな英語。
うーん、そうかも。あはは。

ねぇねぇ、今朝のテレビ○○のおはようニッポンでみちゃったんだけどさ。
 あんた、日本びいきだったんだっけ。それでなに。
日本語で土砂降りって、なんていうか知ってる?
 知らないわ、だいたい日本語なんてスシとかスキヤキくらいしか知らないし。ハハハ。
ほら、It's raining cats and dogs. っていうじゃない、それと似てるんだって。
 へぇ、それは驚異的ね。文化が違っても同じようなことってあるんだ。
でもね、猫と犬じゃないんだって。
 ふうん。
なんだか判る?あててみて。
 わかるわけないじゃない、ヒントくらいちょうだいよ。
そうね、生き物ではない。それから、その辺にあるもの。
 手裏剣とか、ジャパニーズロングソードかしら。
そんなもの降ってきたら、死んじゃうわよ。それに、いくら日本でもそんなものその辺にないわよ。
 でも日本じゃ槍が降るって話をきいたことあるわよ。
あんた変なところで日本に詳しいわね。でもそれは中途半端な知識ね。
いくら日本でも槍は滅多に降らないんだから。他のものを考えなさい。
 それじゃ石ころかしら。
そうそう、近いわね。正確には砂なんだけど。もう一つはドロなんだって。
 わぁお、びっくりね。でもなんか汚いわね、日本の rainy season て。
本当に降ってくるわけじゃないわよ、たぶん。
 そりゃそうか。でも、へーんなの。
It's raining earth and sand. っていうんだってさ。
 でも一生使わないかもね、そんな日本語。
うーん、そうかも。あはは。

…僕も使わないと思いますがね。

(2001.06.13)
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雨の音が聴こえる。雨が閑かに降っているのだ。

昨日も雨について書いたから、少し趣向を変えてみようと思った。
でも、この雨の音をうまく活かした文を作ってみたい。
どうしようか。連想する単語を拾って、それを素材にして文にしてみようか。

雨、ノート、楽器、…
越えるような良いアイディアが出てこない。
もう一度チャレンジ。あー、
瑪瑙、咎、寄港、…
得るものがあまりない連想法のようでうまくいかない。

外からは雨の音が聞こえているのに。

(2001.06.14)
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てんで俳句になってない。
夏のバイク

轟音を響かせながら夏は来た

いつの間にか季節はもう夏。
しずかにやってくる季節もあれば、騒々しくやってくる季節もある。
生命力に溢れすぎて空模様さえ荒れ気味だ。

音たてて風強く吹き雨はぜる

どっどどどどう、どっどどどどう。
風の又三郎の登場するときの効果音だ。
梅雨どきのしとしとという雨ではない。

夕立の止むを待たずにメットかぶる

バイク乗りは自然と一体であるべし。
死んだじいちゃんの遺言ではないが、雨ごときを恐れる必要はない。
ほら、ごうごうというエンジンの音は雨の音にも負けてはいない。

二輪車が水はねとばす轍なり

雨が降れば地面に水が溜まる。これが当たり前のできごと。
雨降って地固まるのも自然のできごと。
喧嘩して前より仲良くなれるのはそう努力するから。

虹がでて濡れた体に湯気の立ち

生きているから、熱い。
水はあたためれば蒸気となる。
蒸気は自然の中で冷やされて、目に見える湯気となる。

(2001.06.20)
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そういえば今日(6/21)は、夏至だ。
北半球では太陽の南中高度が一番高くなり、昼間が一番長くなるという。
沖縄ではそろそろ梅雨明けらしいが、このあたりの外の天気はまだ悪い。
ぽつりぽつりと降ったりしているから日照時間はあまり長くない。

ちょっと前にテレビで見た覚えがあるのだが、長野のオリンピック跡地の施設でか、
高山植物展のようなもの(山と花のフェスタ)を開いた際にヒマラヤの赤い芥子を
日本に初めて持ってきたと宣伝していた。
そりゃ、日本に初めてなのかも知れないけれど、それで客を呼べるのだろうか、
とひとごとながらよけいな心配をしていたものだ。
ヒマラヤの○○い芥子、この○にあてはまる色は、と問われると、おそらく
青が浮かぶことと思う。それは黒いチューリップや青いバラ、黄色い朝顔などのように、
青い芥子というものが珍しかったから、大阪の花博で初めて紹介されたときに、
かなりブームになったからだ。すでに、いろいろな植物園で実物を見ることができる。
いまでは、国内での栽培もいくつか行われているようで、
地方ニュースに写真入りで紹介されたりもしている。
青い芥子ではもはや集客能力に乏しいとふんだのだろう、では赤でいこう、となったのか。
赤い芥子が話題にのぼっていなかったのは、松茸よりも栂茸のほうが稀少なため、
知る人の少ないが如くではあるまい、赤や黄の芥子など珍しくないからではないのか。

まぁ良い。多くの客を集めたかどうかなんてのは、言ってしまえばよけいなお世話だ。
いずれ、赤い芥子の花言葉は「妄想」だったりする。
単にネタにつかって、いろいろと妄想させてもらっているだけの話だ。
うまくいかなければ白い芥子もある。こちらは花言葉が「眠り・忘却」だ。
都合の悪いことは忘れてしまえば良い。
そういえば、今日の文は芥子ではなくて夏至の話だった。
どうか、それも忘れちゃってくれ。

(2001.06.21)
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田に水が張られて少し遅めの田植えがされたのが、この辺りでは数日前のことで、
根がしっかりと張っていないためか、まだ早苗もくったりとしている。
そもそも麦との二毛作をしているから稲を植えるのが遅くなるのだろう。
遅いスタートを切ったとしても、台風が来るころまでには、きっちりと
頭を垂れるほどに実りを迎えるのだから、自然の力はみごとなものだ。

実はこの週末に新幹線にのって少し遠出をしてきた。
観光がめあてではなかったから、天候に恵まれなかったのもさほどの痛手ではない。
それに、かんかんに晴れた中の風景だけではなく、篠つく雨の街というのも
捨てたものではない。強いコントラストやあざやかな明るさが無いかわりに、
光と影の中に色が埋もれてしまったりすることもなく穏やかな色が満ちあふれている。
晴れていれば、白っぽくみえてしまうようなアスファルトや家の塀や瓦なども、
濡れて本来の色を取り戻している。

自由な時間が少々とれたのであったが、さすがに雨が強すぎて、
外をぶらぶらするのにはためらってしまったであった。
いざ、帰る段になって晴れてきたのは普段の行いがよかったのかわるかったのか。
帰りの新幹線の窓から見た景色はなかなか印象的なものであった。
春が訪れてすぐの、若葉が木々の枝から萌えはじめたころは、山の色もとりどりで
緑にはこんなにも多くの種類があったのかと思ったのであったが、
いま窓の外に見えているのはみな同じ色で、稲もあり、蓮もあり、
木々も雑草もあったのだけれど、濡れた緑という一色であったのが非常に印象的で、
これが今年一年の豊穣を約束する色であることだと感じたのであった。

(2001.06.25)
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蛙と茸と出会った
蛙の歌がきこえてくるよ。
輪唱でうたったりしたあの歌だ。
内容はほとんど無いようなもので、
冒頭の一行に、げろげろげろげろぐわっぐわっぐわっ、の
蛙の声を付け足せばおわりだし、メロディだって、
なんの工夫があるわけじゃないような単純なものである。
単純であるからこそ、輪唱に向いているわけでもあるのだが。

なんのためにこんな歌があるんだろう、
小さいころから頭の片隅にひっかかっていた。
それは、ある日突然に解決したのであった。
田圃のわきの道路を通っているときに、
蛙の声がきこえてきたのだった。
ひとつ鳴き出すと、つられてまた一つ、また一つ。

子供のころにうたわされたメロディラインのように
のんびりしているわけではないけれども、
ふと立ち止まって耳を傾けたその蛙の声は、
さながら輪唱のように賑やかであった。
これを歌にしたかったのだろうか、と気付いたのだ。

家へ帰るときのことであった。道端にしゃがみ込んで、
このところつづいているお湿りに生えてきたキノコの上に休む
雨蛙を見ながら、そんなことを考えていたのだ。

(2001.06.27)
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お金で買えないものが欲しい。あなたが言った。
ボクはお金で買えないものを探しに街へ行った。

おもちゃ屋さんに行ってみた。
かっこいいプラモデルも、ウォーターガンも、
肌に気持ちの良いぬいぐるみも、
いろいろ売っていたけれど、
お金で買えないものは売っていなかった。

レストランに行ってみた。
温かい紅茶も、冷えたビールも、
ステーキだってラーメンだって売っていたけど、
お金で買えないものは売っていなかった。

本屋さんに行ってみた。
マンガも雑誌も、アイドルの写真集も
難しい本も哀しい本も売っていたけれど、
お金で買えないものは売っていなかった。

銀行に行ってみた。
お金で買えないものっておいてありますか。
いや知らないね、という返事だった。

きっと身近にある筈なんだ。
でもどこを探して良いのかわからない。
ずっと街を歩き回って、くたくたになってしまった。
でも、きっと見つけてあげる。あなたが欲しいと言ったから。

またずうっと歩き回って街を探した。
そして、とうとう見つけたんだ。
スマイル0円。これはお金じゃ買えない。

明日は、あなたに笑って教えてあげよう。

(2001.06.29)
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まだ早朝なのに、夢かうつつか、いづこからか甲高い音がきこえてくる。
よくよく耳を澄ませてみると、となりの部屋で目覚ましを鳴らしているのだろう、
ちいさな電子音のベルの音が鳴り続いているようだ。

それにしては、音がやむ様子がない。
目覚ましもものともせずに爆睡しているのか、
はたまた予定よりはやく目が覚めたために、
目覚ましを止めるのを忘れたままゴミでも出しに出てしまったのか。
そんなことを考えながら、オレはあと20分寝てやる、と心に決めて意識を沈める。
またふと気がつくと、かれこれ15分以上たつのに、まだ鳴り止んだ様子でもない。
壁を越えているから、昼の喧噪の中では聞き漏らすこと必定の、かすかな音である。
とは言っても、特有の甲高い音は、耳につく。
自分の仕掛けた目覚ましが鳴り出す前に完全に目が覚めてしまった。

朝の目覚めに向けて、眠りが浅くなってきているタイミングであったから、
このような微かな音にも体が反応したのだろうとは思うが、
予定より5分短くなった睡眠がもったいないなどと思うのはしみったれているのだ。

しみったれたこと、といえば、昔下宿していたアパートは、部屋の壁が薄かった。
こちらが幾ら夜にはやく寝ようと思っても、となりでどんちゃん騒ぎをしていて、
寝付けないでいやな思いをしたことがある。
壁でも蹴っ飛ばして、うるさいよ、なんて言えば閑かにしてくれたのかも
しれないけれど、なんとなく気が小さくて、そんなことはできなかったものだ。
それで、どうしたらカタキが討てるかなんてくだらないことを考えていた。
こちらは朝はやくに出掛けなければならないから、夜がはやいのである。
向こうは気楽な学生さんかなにかで、昼まで寝ていても良いにちがいない。
ならば、朝はやくから、こちらが大きな音を立てて向こうさんを起こしてやれば
などと考えた。でも、ひとつ不利な点がある。
向こうさんは朝には深い睡眠の中にいるのであって、それを起こそうとすれば、
夜寝付くのを邪魔するよりも、派手なパフォーマンスが要るような気がする。
目覚ましを止めずに出掛けてしまおうかだとか、外から自分の部屋へ電話を掛けて
そのベルの音をうるさく鳴らしてやろうかだとか、いろいろと考えたものだ。
結局のところ、考えるだけで、だんだんアホらしくなってきてしまって、
どうでも良くなって、眠くなれば、自分だって眠れるんだし、
別段、眠らないで死んだやつはいないしなどと言って、結局なにもしなかった。
いまから思うと、その実行力のなさでよけいなことをしなくて良かったのだと思う。

(2001.07.03)
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昼の休み時間にお金をおろしに行って、その帰りに財布が少々充実していたので、
あやしげな八百屋で、小玉西瓜が3つで300円というのを衝動買いしてしまった。
ついでに、ネットのかかったメロンも3つで300円だったので、
これも買ってしまった。おかげで冷蔵庫がはち切れんばかりなのだ。

安物買いの銭失いという諺がある。
まことその通りで、一つ100円の西瓜には「完熟保証」というシールが
貼ってあったのだが、完熟を通り越して実がくずれそうになっている。
西瓜のしゃくしゃくとしたあの歯ごたえがないんである。
すいか風味のジャムをたべてるんかといったあんばい。
メロンもじつは外れだった。一応、夕張系の赤肉メロンなのだが、甘くないんである。

まあ、すいかには暑い日に体を冷やしてくれるはたらきがあるようで、
きんきんに冷やしたそれは、ちょっと別の食べ物のようではあるが、
それなりに美味しいような気がした。買ってきた者の負け惜しみかも知れないが。
でも、やはり違う、と言われてしまったので、皆の意見を聴いて、凍らせてみることにした。
凍らせたあとでは包丁の刃がたたないといけないので、一口サイズに切ってから、
冷凍庫へいれてみた。狙いはよかったようで、すいかアイスをたべているようで、
なかなか良いあんばいである。あくまでもすいかとは別物にしか感じないのだけれど。

とりあえず、いろんな意味でひんやりできた買い物だった。

(2001.07.04)
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流通している貨幣にはいろいろあるけれど、その中で好きなのは50円白銅貨幣だ。
好きな理由のひとつに、穴のあいた貨幣は世界でも珍しいときいた事がある。
穴のあいた貨幣には5円玉もあるけれど、形状の美しさでは50円玉の方が上だ。

形状の美しさの一つの理由は、その平面の少なさにある。特に菊の模様のある面を、
じっくりと見て欲しい。地の部分から縁の部分へとなめらかなカーブを描いて、
美しく造り込まれた皿のようである。こういう造りは、100円玉でも見られるものの、
1円玉、5円玉、10円玉、500円玉のそれぞれは、ダメである。縁の部分が、
地の部分から直角にたちあがっていて、機械的に削りだしましたといわんばかりである。

桜の意匠を装った100円玉も、かなり美しい。でも50円玉の菊も美しいではないか。
使用済み切手のコレクションを身近に見ていたからかも知れないけれど、
1966年の15円切手に描かれた、濃青色の背景の白菊のイメージなのである。
清楚ながら、力強く、馨りたつようではないか。
菊を皇室の紋章と捉える人もいるかもしれないが、それは16弁八重の表菊紋、
または16弁の表菊紋である。ちょっと気になって数えてみた。
50円玉には、3輪の菊があしらわれているが、それぞれ15弁、14弁、13弁である。

こんな50円玉ではあるが、昭和62年の発行分に限らず、流通している枚数が
さほど多くないように感じる。ひととき、釣り銭の中に50円玉が混ざっていると
選り分けて取っておいたことがあった。
つい先日、財布の中が空っぽになってしまったタイミングがあって、
そう言えばと思い出して、引き出しの中から十数枚の50円玉を持ち出して、
買い物に行って来た。500円ほどの出来合いの弁当を買うのに、
100円玉を5枚出すのはさほど珍しいことではないのだろうが、
50円玉を10枚もさし出すのは幾分珍しいことだったのではなかろうか。
ちょっともったいない気もしたが、腹の減るのには代えられないのであった。

(2001.07.05)
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たまに、どうしてかと思うほど風が強い日がくる。
普段は空気に重さがあるなんて意識しないけれど、
びゅんびゅんと風が吹き荒れている時は別だ。
メアリポピンズは傘を開いて風に乗ってやってきたけれど、
そんな日には、傘なんかなくたって風にとばされそうに感じる。
自転車を漕いでいるときだって、順方向へなららくちんなのだけれど、
逆らおうとおもえば、かなり無理をしなければならない。
おまけに、なるべく抵抗を小さくしようと思って体をかがめなくてはならない。
そんな姿勢で自転車を漕ぐのだから結構大変なのだ。

だからと言って風の強い日が嫌いなのかというと、そんなわけでもない。
そこに空気があると認識するということは、とりもなおさず、
そこに自分もいるということを再認識することでもある。
希薄な空気の中で生きている自分にとって、強制的に自分を見出す良い機会なのだ。
それに、普段とは異なるものを見ることができる。

たとえばそれは植えられたばかりの田圃である。
風が水面を揺らしている。
風が稲の葉を裏返してはうねらせている。
強い風の中でさえ、太陽の光はまっすぐにすすむのだけれど、
田圃の動きにあわせて光も動いている。

たとえばそれは銀杏の樹である。
芽吹いたころは小さな緑色の茸のようだった葉も、表面積と容積とを増している。
たっぷりとしたその葉も、風の前ではあえなく揺れている。
木も草も同じく持つ葉は太陽の光の恵を最大限に吸収しようとしている。
風によって暴露された葉の裏側は、表の面よりもやや白っぽく見えるのである。

常に動き続けること、常に変化しつづけること、停滞しないこと。
それは生きていることを象徴しているのかななどと思うのである。

(2001.07.05)
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ある知人の言葉を思い出して、M.エンデの「果てしない物語」を読んだ。
その話は、ある古本屋の内側からの視点から始まる。
「古本屋」と記されたガラス戸の内側から、その文字が反転して映っているのである。
内側から外を覗く構図は、やがて主人公が本の中に入り込むことの伏線でもある。

その知人はこういうのだ。
彼がその本を見つけた時の様子がそのまま書かれているようで本当にびっくりした。
偶然に入り込んだ本屋で、すうっと目が吸い寄せられた本のタイトルが
「果てしない物語」で、それを手にとってしまって、目が離せなくなって。
そのまま手にして帰って、一気に読んでしまったという。
彼がその本を手にとった様子がそのまま描かれているようで、鳥肌がたった、と。

主人公は、ふと目にしたその本に惹かれ、そっと持ち出してしまう。
学校の屋根裏の倉庫にひとりこもってページを繰りはじめるのである。

一度は映画にもなったし、大まかなあらすじも知っているつもりでいた。
ところがどうだろうか、読み始めてみると目が離せない。

主人公も同じように本にのめり込んでいく。本の中で探求の旅をする緑の肌の
アトレーユ少年に、いつしか自分を重ねてゆくのである。

本の世界、ファンタージエンは2柱の神を持つ。
ほとんどは縁の下の力持ちに徹している、言葉を司り、話の紡ぎ手たる老人。
そしてもうひとりは、読み手の想像力を象徴するおさなごころの君という名の少女。
だがこの世界の存在意義はその中へ足を踏み入れて想像力を羽ばたかせる人間にある。

どうやって主人公が本の世界に入り込むかの部分は、一つの山であるから、
具体的なことをここに書くのは、きっと野暮なことなのだろう。
何故この書の名前がはてしない物語であるかという問いの一つの端でもある。
主人公が本の世界に入っていく様子を追体験できるのは、あなたがすでに、
その本に入っているからでもあるのだが、なるほどミヒャエルエンデの力技でもある。
これを追体験するためだけにでも読む価値のある本である。

主人公が本の世界に入り込むまでを前半と言うならば、
ぼくはこの本の前半部分が特に好きだ。
後半の部分も、ナルニア国へのオマージュを思わせる、色の砂漠のゴアプの
主であるライオン、グラオーグラマーンも好きな造形の一つであるし、
その他の細かいところも好きなのであるが、
だんだんと変化していく主人公に入り込むには、後半は少し痛いのである。
これは約束されたカタルシスへ向けてのエネルギーの蓄積でもあるし、
見方に依っては主人公少年の成長譚なのかも知れない。

本の世界の案内者でもあったアトレーユ少年は、
じつはすでに命の泉の水を飲んだことがあることが示唆され、
約束された友情という役目を果たしながら、やがて物語は終末を迎える。
そして、主人公は「命の水」を得る。
それは本の書き手のメッセージを読者が受け取ることであり、
実生活の中で勇気を持って生きることが命題として与えられるのである。

そうか、後半の主人公を痛いと感じたのは、
ただ、本の中に逃避してはいけないというメッセージであったのか。

(2001.07.09)
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クレマチスの花
濃い紫色の花を若葉の緑の中に配するとかなり印象的になる。
若緑が紫の補色である黄を含むからであろうか。

また同時に、紫という色はなにか和風な趣を添えるように感じる。
これは紫と言われて私の思う花が、菖蒲であり、苧環であり、
桔梗であり、菫であるからなのかも知れない。

今日見かけたのは鉄線蓮で、掌ほどもある濃紫の花がひとつ、
羽状複葉が茂った5尺ほどの高さの垣に咲いていたのだった。

広い庭園に一面に茂った菖蒲も、それはそれでみごとなものではあるが、
水平な面を見渡すかたちになり、手前から向こうへと意識が発散するきらいもあろう。
一方、棚に仕立てられたそれは、一点を凝視した時にちょうど視界を覆うほどの
面積を、やや深い緑が覆っているのであり、掛け軸や屏風のように、
私の眼の鑑賞しなれた方向への動きで全体を把握できるのである。

一幅の絵のように、というと出来過ぎかもしれない。
涼を求める団扇に描かれた絵のように、楚々と咲いたのである。

   鉄線のうちはもて夕暮れ待ちす
                                        まさと

(2001.07.10)
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李も桃も、なんて早口言葉があるけれど、
言ってしまえば果物は一般に全て好きで、李も桃もどちらも好きだ。

李と桃とで検索していたら、とても綺麗なことばを二つ見つけた。
ひとつ。桜梅桃李
桜も梅も桃も李も、それぞれがそれぞれの個性を持つ美しい花をつける。
ふたつ。桃李不言下自成蹊(桃李いわざれども、下自ずから蹊(こみち)を成す)
ことさらに自己主張をせずとも人望のある人の周りには人があつまるもの。
ところでこれ、林檎はなんにもいわないけれど、なんてフレーズには関係があるのかしら。

ぼくの育った地域では、小学校に入学するときに、
記念樹というものを配っていたのだが、ぼくは李の樹をもらった。
さほど広い庭というわけではないけれども、その一隅に植えられて、
その樹はすくすくと育った。
毎年、春になると、雪のように真っ白で、すこし小ぶりの花を一面につける。
そうして、ちょうど今頃になると、甘い実をつけるのだった。

店で買ってくる李には、きちんと消毒してあるのだろう、虫喰いにはあたらないが、
家ではほとんど消毒なんてしないから、大抵の実には虫が入ってしまう。
もう亡くなったが、当時健在だった祖父には、李は部屋を暗くして食べるものだ、
と聞かされた。それは、暗ければ李の中にいるちいさな何か虫の幼虫に気付かない、
それだけ李は虫がつきやすく、虫喰いを捨てていたら、食べる分がないという意味である。

「ぼくの」李の樹だ、という思い入れも多分にあったのだと思う。
ぼくは、そんな虫の入った李を、樹の下でもいでは口へ運んでいた。
まだ少し未熟なうちは酸味が強く、名前の由来(=酸桃)を頷かせる味なのであるが、
これが完熟してくると、果肉が柔らかくなると同時に、驚くほど酸味が消えて、
ただただ、あまくなるのだ。べとべとに汁を垂らしながら庭で食べた李は、美味かった。
食べきれないほど樹になるので、残りは砂糖とともに煮詰めてジャムにしてもらった。
とても鮮やかな色のジャムとなるのだが、これをヨーグルトなどに混ぜて食べるのも、
爽やかな香りと甘酸っぱさでとても美味い激美味(げきびみ)だ。

もらい物の李を囓りながら、そんなことを思い出してしまった。
ぼくの李の樹はいま、両親と共に実家にいる。
そろそろ実がなったかどうか、今度連絡を取ってきいてみようと思った。

(2001.07.11)
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ときおり夜更かしをすると、度を越えてしまうこともある。
そんな時の東の空は本当に綺麗だ。
気分転換にと外をみるともう明るくなりかけていて、
昼間の空の青さもいいけれど、このひとときの空の色はもっと深い。

鳥のさえずりもほとんどなく、時折蝙蝠が蛾のように飛び回っている。
地平近くには灯りの消えた建物の屋根や街路樹のシルエットが並ぶ。
わずかに橙がかった夜明け前の地平近くの空の色がシルエットの輪郭を強調している。
明けの明星というのだろうか、星が一つだけ樹のシルエットの合間に覗く。
そして天空へ向かってグラデーションで紫色へと変化する空の色。
月の齢はその時々で違うけれど、満月の頃ならば明るみなずむ西の空で
あと数刻の間だけは、かろうじてまだ黄色い輝きを保つ。
そういえば街灯もまだ灯りを落としてはいない。
そんな夜から朝へと変化するほんのひとときに、戸外の風を共有する人はほんの僅かだ。

そんな、ぼく一人だけの時間帯が、結構好きだ。
静かな朝の空気を胸にすいこむと、
自分では気付かぬうちに入っていた肩の力がすっと抜ける気がする。

(2001.07.12)
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暑さで眼が醒めた。昨日は読書で遅くまで起きていたので、昼まで寝ていたのである。
そのせいか、見た夢を覚えている。忘れないうちに書いておこう。

夢の中で、ぼくはベッドに横になっている。やはり寝ているようだ。
そして眼が醒める。眼が醒めるといっても、まだ半覚醒状態だ。
往々にして、そういった精神状態では、不思議なことを知っている気分になる。
ちょうどその時もそうだった。ボクハナンデモデキル。

超能力にあこがれたことがない、だなんていう人は僕と感性が同じではない。
小さいころから超能力者がでてくるテレビを見て、小説を読んで、
いろいろなすばらしいことができることを知っている。

そして同時に超能力者には、その能力故の悩みがあるということも知っている。
スタージョンの人間以上、家族八景の火田七瀬、燔祭そしてクロスファイアの青木淳子、
たくさんありすぎて(そして覚えていなくて)ここに書ききれないが、
いつも繰り返し描かれてきたモチーフでもある。
あなたも超能力が欲しいか、と問われた時にすぐさまうんとはうなずけないほど、
よけいな知識を仕入れてしまったのかも知れない。

人の心が読めるようになりたいか、と問われてもすぐには頷けないけれど、
ちょっと空に浮いてみたいとか、ちょっとテレキネシスでモノを動かしてみたいとか、
そういう、ちょっとした超能力ならあってもいいかな、って思う。
でも、それはいろいろな魔法と同じで、自分にそれが使えると判っている者にしか
使うことができないのだ。

昔NHKでやったキャプテンフューチャーの主題歌に「子供の頃は空が飛べたよ」
というフレーズがあるけれど、子供は空を飛べない事を理性として知らない。
メアリポピンズの子供達だって、ナルニア国シリーズの子供達だって、
できないことを知らないから何でもできるのだ。

夢の中で半覚醒だった僕は、何でもできることを知っている。
試しに寝そべったままでベッドから浮いてみよう。
ふわり。ほら、10センチほど、浮いてしまった。
よし、テレキネシスだ。布団のシーツに念波を送る。
ぼくの足下でシーツがびらびらびらっと揺れている。ふふふ、成功。
自分の体だって、自由に動かせる。
体を、すうっとベッドの足下の方へ滑らせる。
体の温もりで暖まっていない布団が冷たくて気持ち良い。
そのまま姿勢を変えずに今度は枕もとのほうへすうっと滑っていく。
何故か判らないのだが、ベッドの布団の上の範囲で、
足下と枕元を往復運動を始めるのだ。
すうっ。すうっ。すうっ。すうっ。

なんだかそのリズムがたのしくなって、往復運動をしているうちに、
今度は本当に眼が醒めてきた。
ベッドの上ではなくて、床に直接敷かれた万年床の上である。
ベッドは子供の頃に使っていたものだったのだ。
夢の中と全く同じ姿勢のまま、ただし、浮遊しての往復運動はないまま、
ぼうっと考えている。考えていて、とても可笑しくなってくる。
だって、さきほどの往復運動のリズムって、ぼくの呼吸のリズムと一緒なんだ。
だとすると、さっきテレキネシスで足下の敷布をなびかせたのは、
僕の鼻息だったろうか。

僕の枕元には、昨日遅くまで読んでいたハリーポッターが置いてある。

(2001.07.15)
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