今朝方見た夢・夢殿
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(161-170)−−−−+−−−−+−−−−+
おとこからおんなへのこくはくのひ
それを言うなら Why Today?
物の怪の話をするのも季節はずれなのだが
メールを送ってもなかなか返事がこないと
ちょっとだけこじゃれていて、量が
東方美人の想いはゆらゆらと漂う
「歯は3分以上、磨きなさい」
朝からひと気のない露天風呂に入って
昼過ぎから定期健康診断総合検診なる
きょうび、レシートが進歩している
(171-180)−−−−+−−−−+−−−−+
ちょっと留守にしているあいだに、
器用貧乏という言葉があって、
お花見の宴席で。
「うわっ、まっずぅ」
おそばやさんのカレーライスなるものが
科学者と文学者とでは、どちらが
めざせマイナス10(せめてマイナス5)
つい先日まで満開だったそめいよしのの
蒲公英のまぶしい花を見ていて、ふと
集合論的野菜論
(181-190)−−−−+−−−−+−−−−+
朝と晩に通る道端に麦畑がある。
きのうは友人の結婚披露宴があった。
酸とは、という話になって、
ビタミンCを採ろうと思って苺を
ゴマノハグサ科の越年草で、春一番に
小さいころに親に手をひかれて教えられた
民主主義は異なる世代間にまたがるエゴ
「邪馬台国って実は○○に在ったって、
さくらのみやという名前の駅でおりて
軽佻不惑
(191-200)−−−−+−−−−+−−−−+
普存の原理と呼ばれるものがある。
目一杯に遊びたおしたゴールデンウィーク
加納朋子の「いちばん初めにあった海」を
あらいやん、な意図
Dreams I've got this morn.
この居酒屋に来たらいつも豚の角煮を
小さい頃に遊んだ公園に、宝くじの
気合いをいれる、気を使う、気を許す、
風船をほぼ同じ大きさに膨らませてから
今朝は少し湿気が高かったからか、
160
━−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−200 

おなかがすいたなぁと思ってきょろきょろする。
と、上手い具合にそこにインスタントココアがあるじゃないですか。
ここはひとつ、お夜食がわりのココアにしましょう。
からだにも、ポリフェノールが良いにちがいないし。
らーめんなんかを食うより、きっとずっとよいに違いない。
おお、これは良いところに気がついたなり。
んなことを言いながらすっげぇ濃いココアを入れてみました。
なんだかチョコレートを囓ってる気分。
へんだよね、やっぱり。
のみものっていうよりちょっと食べ物ちっく。
こい方がおなかにはたまるけど。
くはっ。これではかえって体にわるかったかも?
はんぶんくらい飲んでから、お湯を足して薄めてのみました。
くはっ。摂取量は全体で変わってないじゃん。
のみものだけではなくて、つまむものもあれば最高だったのに。
ひまな人誰か美味いクッキーでもつくってよぉ。

なんて限定しなくてもいいんだけどな。べつに。

(2001.03.14)
−━−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−200 

あれ、そういえば、ホワイトデイってば、
「バレンタインデイのお返しをする」日だっけ。
それとも「男の子から女の子へ告白をする」日だっけ。
どっち?

なんというか、昨日のことを何でいまさら今日になって。
それを言うなら Why Today?

(2001.03.15)
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まだ寒い日がつづくのに、
物の怪の話をするのも季節はずれなのだが、
夏の本番のシーズンになってからだと
感じる寒気を気候のせいにできないから、
なにかと都合が悪い。

幽霊もセミやバッタといっしょで、
寒いところが苦手な様で、今はまだ冬眠中だから、
ウワサ話も耳に届くまい。

なぁんていって、安心していると、背後に人の気配がしたりする。
まったく。なんか用かい。なぁんちゃって。さむ。

(2001.03.15)
−−−━+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−200 

メールを送ってもなかなか返事がこないと寂しかったりするけれど。
自分は返事を書くのが遅いほうだ。だから、そちらを擁護する立場で書く。

仕事のメールは、受け取った旨、相手にすぐに返信するのがマナーかも知れない。
メールは往々にして何処かへか消えてしまうことがあり、
本当に相手のところへ着いたかどうかの確認ができないからだ。

でもプライベートなメールは、少し色がちがっていると思う。
電話での呼び出しなんかと異なって、メールの持つ一番のメリットは、
送信者と受信者の間の非同時性にあると思うからだ。

3日間ルスにする人にメールを送っても、受信者は3日後にそれを読み、
そのとき忙しければ、時間のとれる更に3日後に返事を書けば良いのだ。
もちろん、相手との間に信頼関係があれば、それが3ヶ月後でもかまわない。

だから、オレはいつも返事をすぐに書いているぜ。なのにあいつは返事が遅い、
だなんて憤る人は、きっとヒマ人なのだ。(かなり問題ある極論)
そういう人は、ネット上で面白いサイトでも見つけて読みふけるか、
チャットでもすればいいんである。

…って書いてみても、郵便受け(リアル)をチェックし忘れて、
手紙を2週間以上放って置いたことの言い訳にはならないかしら。
ねぇ、だめ?

(2001.03.15)
−−−−╋−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−200 

ちょっとだけこじゃれていて、量がはんぱじゃなく多いことで
このあたりじゃちょっと有名なパスタ屋に昼メシを食いにいった。

たとえばそこでハンバーグ定食をたのむと、皿に盛られた
普通サイズのご飯、普通サイズのみそ汁、まぁ普通サイズのハンバーグ
がでてくる。そこまでは良い。問題は、その付け合わせなのだ。
人参ジャガ芋クレッソン、くらいを予想した人、甘い甘い。
野菜ではなく、スパゲッティなのだ。しかも味付けなし。
さらにしかも、その量が半端ではない。ご飯の2倍くらいの量。
当然、鉄製のそのプレートのほとんどを山盛りのスパゲッティが
占めていることになる。

万事がその調子で、スパゲッティを単品で頼んでも、
レギュラーとスモールがあるところを、知らずにレギュラーを
頼むと悲惨な目にあうこと請け合いである。
スモールがレギュラー、レギュラーはイレギュラーで、
そのいわゆるところのレギュラーは一抱えもあるほどの皿に
山盛りのスパゲッティがのっているのだ。

一度そこの定食で懲りてから、独りで食いに行く自信はまるでなく、
数人で連れだって行くときのみ参戦可能であると認識している。
まぁ3人で行ったら2人分を頼んで、取り分けて食べるのが
丁度良い感じだと思う。

そんな店に数人で連れだって昼メシを食いに行ったのだ。
こういう時になんとなく楽しいのが、周囲の観察である。

折良く左のテーブルでは3人のりーまんがメシを食っている。
驚いたことにでかい(イ)レギュラーサイズのスパゲッティが
3つ運ばれてきた。しかもそいつら全部食ってるし。
なんと食後にコーラまで頼んでるぞ。すごいすごい。

右のテーブルでは女性2人づれが、食事を終えたところだ。
もしもし、わかってて頼みましたか?
テーブルの上には、食の細い人ならば2人分くらいの炭水化物が
残されている。スパゲッティと、グラタントースト。
そのトーストは、一斤半ほどのサイズの食パンの中をくりぬいて
グラタンを流しこんだようなもの。
パンの耳の部分がまるまる一斤半ぶん、万里の長城のように
皿のうえに聳えたっている。あぁもったいない。
蛇足ながら、その2人づれが席を立つ時に確信犯であったらしいことを
確信した。その女性の体型からである。きっとこの店の常連にちがいない。

離れたテーブルではレギュラーのスパゲッティを頼んでいる。
あぁサラダまで追加している。君ら大丈夫か。

あ、今奥のテーブルに向かってウェイトレスが皿を運んでいる。
皿に山盛りになったナポリタンスパゲッティに、7センチはある
トーストがセット盛りになっているのだ。うっぷ。
両方小麦粉じゃんかよう、というツッコミはきっと通じないに違いない。

まぁ周りを見回すとすーぱーがっかり体型な善男善女どもか、
まだ代謝のおちていないわこうどが多いのだ。
この店の常連になったあとに体型が決まるのか、
体型が先にあって普通の店では飽きたらずにこの店にくるのか、
そこまでは関知しない。

強調しておく。私は常連ではない。たまにしか行かない。
まぁそれはそうとしておいて。3人とも店を出るときには、
額に汗し、もう動けないとほざいていた。

昼メシ時にはかなり繁盛する店で、そそとした女性が順番を待っていたりする。
アナタのような方がお待ちになってまで食べる店じゃないですよ、
なんて教えてさしあげたいが、それは余計なお世話というもの。
もしかしたら奥のテーブルでランチと格闘している、りんごみたいな
赤くて丸いほっぺの女性が(オレの予想では)この店の常連であるように、
アナタも実は痩せの大食いでこの店の常連なのかも知れない。

いずれにせよ、かならずしも激美味とは言い難いが、
ちょっとくせになる店であることには違いない。

(2001.03.16)
−−−−+━−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−200 

東方美人の想いはゆらゆらと漂う。

水色(すいしょく)の綺麗な、という形容があるけれど、
白くてなめらかなシルエットのマグカップの中で、
湯を注ぐと、はじめ、わずかに水色(みずいろ)が溶けだしたかのようである。
その後、白い産毛を持つ、黒く縮れた新芽がゆるみはじめるのにつれて
香りとともに、淡い褐色が広がりはじめる。

その香りは、さながら薔薇のポプリのようである。
ジュンサイのようなつややかな茶葉を底に沈めたまま、
マグカップに口をつける。

ウーロン茶なのだけれど、ほんのりとした甘みと、水の丸みが口に広がり、
けして渋みは感じられない。
夢中になって、ゆるりとたゆたう時間を喫する。

白いカップの底に残る茶葉は、
冬の朝に凍てついた池を覗き込んだことがおありだろうか、
そこに凝縮された夏の陽を浴びた時間を思わせる。

最後の一滴まで飲み干したあと、僕はまた、おもむろに湯を注ぎ足す。
またふうわりと広がってくる淡い褐色。
一杯目よりも丸くやわらかく、奥ゆかしいけれどその実力を思わせる味と香り。
先程とはまったく異質の満足感が心を満たす。
そして3杯、4杯、5杯と、同じ葉のまま湯を注ぎ足す。
これは決して出涸らしなどとは呼ばない。

良い水でいれた良いお茶は、美しい絵のような贅沢な喜びを与えてくれるものである。

(2001.03.18)
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「歯は3分以上、磨きなさい」
それがその日の母の言いつけだった。

「はぁい」
僕たち兄弟は、そう返事したあと、時計をにらみながら歯を磨きはじめる。
カシャカシャカシャカシャ、モゴモゴモゴモゴ、
 シャカシャカシャカシャカ、ペッ。1分が経過。
カシャカシャカシャカシャ、モゴモゴモゴモゴ、
 シャカシャカシャカシャカ、ペッ。2分が経過。
カシャカシャカシャカシャ、モゴモゴモゴモゴ、
 シャカシャカシャカシャカ、ペッ。
時計を見ると、2分50秒が経過している。
やばい、時間だ。
コップに水を汲むと、大あわてで口をすすぐ。
ぶくぶく、ぺっ。歯ブラシも水でゆすいで、終了。
2分58秒、ふうっ。

「ははは、やっと間に合った」
そう報告した僕に、なぜか母は大受けしている。
僕は以上と以内の意味をとりちがえていたのだった。

それ以来、歯を3分以上かけて磨きなさいと言われたことはない。
まだ小さい頃の思い出である。

教訓
ひとは制限されたものには一生懸命にとりくむ。

(2001.03.18)
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朝からひと気のない露天風呂に入ってきた。
露天といっても屋根がないだけで、塀に囲われていて
その外側には道路もあれば人も通る、温泉街の中の風呂だった。

朝、空気はまだひんやりとしていて、
のぼせずに長いあいだ湯につかることができる。
温泉では、時間が許せば、1時間も2時間も、
湯につかったり、湯船の縁にこしかけて体を冷やしたり
それをただ繰り返すのが好きなのだ。
そんなわけで、ひとりぼうっと湯の表面をながめていた。

湯の表面で温められて、大量の水蒸気を含んだ空気は、
すぐに朝の空気で冷やされて、白い湯気となる。
焼き饂飩の皿の上の削り節のように、うねうねと形を変える。
湯気は風呂の水面をなだらかに流れている。
その流れはまるで観測衛星からみた地球上の雲の動きにそっくりである。
あるときには向きを変え、あるときにはぶつかりあって
渦をまいて立ち上る。まるで颱風の小型版だ。

温められた土地や海で上昇気流が生じて風が吹くのは
地球の摂理であって、スケールの大小には関係がない。
地球サイズのガリバーにでもなったような気分だった。

(2001.03.22)
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昼過ぎから定期健康診断総合検診なるものがあるとの連絡があり、
いつもよりも昼飯を遅らせることにして、空腹のまま受診にいった。
もちろん、ちょっとでも体重を軽くしておこう、という魂胆だ。

そもそも、なぜだか知らないけれどステイタスにはこだわってしまう。
正論を言えば、たとえば同じ身長で体重が80キロでスマートに見えるのと、
体重が70キロだけどデブに見えてしまうのでは、なんか前者の方が得な気がする。
実際に痩せているより、着やせするほうが、実より見かけをとっているようで
逆に見かけより実をとっているのだ。

ましてや、体重をはかる直前に一食や二食抜いて、数字だけ小さくしても、
普段は結局同じ体重でいるのだったら、それこそ何も意味がないところだ。
実は体重が変わらないのに、カルテに75キロと書かれていようが
77キロと書かれていようが、誰がカルテを覗くでもなく、関係ないはずだ。

なんだけど、ちょっとでも食事は抜いておこう、などとあの時には思ったのだ。
しかしそんな思惑はおもいきりはずされた。
そういえば秋口ごろに身長、体重など一式の測定は済んでいて、
お医者さんが、単にそのデータを眺めて、コレステロールがどうのこうの、
とか体重がどうのこうの、などとのたまうだけだったのだ。
とはいっても、ここのところの体重増加が気になっていたので、
測定がなくって、ちょっとだけ安堵していたりなんかして。

(2001.03.23)
−−−−+−−−−╋−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−200 

きょうび、レシートが進歩している、なんて感動すると、
とても古い人間かと思われるのかもしれない。

一行がわずか8ドットくらいのドットインパクトプリンタで印字されたような
水溶性のインクによる青い数字のみが並んでいるのが、
1世代前のいわゆるレシートのデフォールトだったと思うのだ。
そのレシートをみても、何を買ったかなんてことは判らないで、
それぞれ買ったものの単価と支払い合計額がかかれているだけで
せいぜいよくても買ったものが食品か日用品かなんて大ざっぱな
情報しか載っていなかったように思う。
だからレシートとは受け取り証という意味でありながら、
領収書が必要な時は別に作成してもらう必要があった。

バーコードによる管理法が普及してきて、ソウザイだのイヨカンだの、
何を買ってそれが幾らだったか、なんて情報が書かれるようになって、
なんとなくすごいなぁなんて思っていた。

いま、主流はたぶん感熱紙を使った黒い印字のもので、
店のロゴが綺麗に印字されていたりするのも当然で、
カタカナ以外の漢字ひらがなも当然の様に書かれている。
行きつけの本屋のレシートでは、文芸書だの文庫だのという分類が
書かれるのだが、ある日、都会の大きな書店に行って買い物をしたとき、
受け取ったレシートに早川文庫だの富士見ファンタジア文庫だの電撃文庫だのと、
出版社まで克明に印字されてしまい、びっくりしたものであった。

あとからレシートを頼りに家計簿をつけているならともかく、
あまり詳しい情報までレシートに書かれてしまうのも
ちょっと考え物で、それまで読書家だなと思われるだけのレシートも、
こんな片寄った趣味をしているのだな、だとか、
こいつ肉食ってないぞ、だとか、カップ麺ばっかり食ってるじゃんとか、
下手にレシートを人目にさらせなくなってきてしまっている。

情報が詳細になることの利点もないわけではなくて、
うちから近いスーパーのレシートには、レジ打ちした人の名前が
フルネームでバッチリ載っているのだ。
ちょっと可愛い子の列に並んでも、通常は胸の名札から苗字だけしか
知ることができないのだけれど、ここならば、美味い棒30本いり270円を
買うだけで、レジのバイトの子のフルネームまで判っちゃうのである。

まだ流石に、レシートの上下だかウラだかに、その店のロゴ以外の広告やらが
入ったものは見かけないけれど、そのうち登場するだろう。
もうすでにあるのかも知れない。

あぁ、このレシートの下部には、「本日の買い物は入会すれば16点」と書いてある。
店の会員向けの、割引サービスで、200点で100円分の商品券になるとかなのだ。
月に何度かしか通わない店だから、面倒がって会員になっていないのだけれど、
あんた今日は8円分損したよ、と言われているようでおばちゃん根性が刺激される。
これは広告の一種かもしれない。

なんか書いてて思ったのだけど、siorixなみに、
レシートだけでサイトを1つ開けるかも知れない。
そのくらい奥は深そうである。めんどうだからやんないけど。

そもそもこんなことを書き出したのは、財布をあけてみたら、
まぁいつものことなんだが、レシートばっかりだったからなんである。
財布の中が紙幣ばっかりだったら、こんなものは書かないで、
どこかで豪華に遊んでいるってもんだ。

(2001.03.24)
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ちょっと留守にしているあいだに、友人からメールが来ていた。
どうも今度、籍を入れることになったらしい。
籍を、といっても婚姻ではなく養子縁組だそうだ。

また別の友人からもメールが来ていた。
ご両親がご病気とかで、田舎に急に帰ることになったとのこと。
帰るまえに一言あいさつしたかったのだが、どうも留守にしているようだから、
とのこと。田舎は遠くなので、またいつ逢えるだろうか。

さらに別の友人からもメールが来ていた。
3年つづいていた職場からクビをいいつかったとのこと。
このご時世、新しい仕事がすぐに見つかると良いのだが。

またひとつメールが来ていた。
先日出した懸賞に当たって、10kgのお米が貰えるらしい。
どうせならハムの詰め合わせとかの方がうれしかったのだが、
まぁ文句は言うまい。

翌日、またメールが来ていた。
エイプリルフールのネタだから全部ウソだとのこと。
世の中、いろいろと信頼できないことが多くて困る。

というのは、全部、ウソです。
っていうネタはもっと早うにやらなきゃな。反省。

(2001.04.05)
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器用貧乏という言葉があって、それは辞書に依ると、
器用でいろいろできるためにひとつに集中できず、
かえって損をすること、とある。

背水の陣という言葉もある。
オレにはこれしかない、そう思った時には、
一生懸命に山にのぼらんとする。そこに崖があれば、
回り道をして他のルートを探してでもその山にのぼる。

だが、何をやってもひととおりこなせてしまうようだと、
オレにはこれしかない、
というものがなくなってしまうかもしれない。
何かをやっていて山にぶちあたったときに、
別の山に逃げることが可能だからだ。
だから底辺が広がるばかりで山は高くならない。

でも。

1つの山に8合目までのぼるのと、
3つの山に3合目までのぼるのと、
どちらに価値があるのか、といったら、
それは個人によりけりと言わざるを得ないだろう。

それは、エベレストに登頂するのと、
山の裾野の原生林を歩き回るのと、
どちらが優れているとは言い難いのと同じである。

人は目的や存在がそれぞれ異なるからこそ、
個人個人の存在意義があるのだと思うのだ。

ある山の5合目から隣りの山へのぼりなおそうとおもえば、
いったん山を下らなければならないかもしれない。
しかし、そのアナロジーは必ずしも成立しないかもしれない。
2つのこと、3つのことに同時に集中することだって、
頑張ればできるかもしれないじゃないか。

いろんな興味のあることに手をだして、
それぞれちょっとずつでいい、高くのぼっていきたいな、
なんて思ったりする。

山は高くて、天辺はなかなか見えてこない。

(2001.04.06)
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お花見の宴席で。

仲居さん、仲居さん、ビールを数本持ってきてくださいな。
それとジュースを十数本。

(2001.04.07)
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「うわっ、まっずぅ」
「なんじゃこりゃ、ひでぇもんだ」
「こんなもんしか喰えないんじゃ、窒息してしまうな」
「つまり、喰う気がないと」
なんて独り言を思わずつぶやく。

目の前にあるのは、スーパーで買ってきた焼き魚。
ラベルにはチリ産の銀鮭と書かれている。
正月の塩鮭にしても、焼き魚一般にしても、
背の部分よりも腹の部分の方が油がのっていて、美味いと思う。
少し大きめのスチロール樹脂製のトレイの中に、
鮭の腹の部分だけ、切り身にして焼いたものが並んでいる。
これは安くて良い買い物に違いないと思い立ち、
勇み買ってきてかじりついてみた結果が冒頭の部分なのだ。

けものの肉には赤身の部分と脂身の部分がある。
魚には脂身などというものは存在しないと思っていた。
ところがこれが甘かった。
パックの上から触った感じが、焼いた魚にしては
どうも柔らかいような気がするとは思っていたのだが、
焼き目のついた皮の下の部分の脂肪が、
1センチほどの厚さもあったのだ。
焼き魚でも、ぱりっと焼かれた皮の下にほんのり脂がのっているのは、
とても美味い。
でも、1センチはどうかと思う。

刺身なんかでも、脂ののったものが好きだから、
ぶりはまちかんぱちなどに並んでサーモンも好きなネタである。
よくよくかんがえてみると、
あの鮭も背身の部分であるわりにはけっこう脂がのっている。
ということはアイツの腹身の部分は、きっとぽよぽよに違いない。
そうか、この1センチがソレなのだ。
きっと刺身をとったあとの残りものだから、安く売っているのだ。

出所に納得はしてみたものの、
さて、こいつはどうしたものか。
すかさずゴミ箱行きにしてしまうのも、
なんとなく罪悪感がある。

とりあえず、蒸して脂をおとしてみることにした。
湯を貼った鍋にステンレスのざるをいれ、切り身をならべて、
蓋をして蒸すこと約10分。
だめだ。柔らかさが増しただけで、脂は落ちきっていない。
そりゃそうだ。1センチだもの。

結局のところ、ほぐして赤身?の部分だけをとりだしてみた。
その結果、はじめあった量の1/3にまで嵩が減った。
それだけでいかにすごい脂の量だったかわかるというもの。

とりだした部分もまだ脂まみれである。
まだそのまま食べるにはちときつい。
しかも、蒸したためか、もともとか、
塩味がぬけてしまっている。
ほぐして、醤油と七味でから煎りすることにした。
から煎りといっても自分の脂で炒めているようなものだが。
できあがってものを紙の上にひろげて余分な脂をおとしてできあがり。
鮭だったはずが、塩鯖のような味のフレーク状のモノになった。

なんとかおいしく喰えるものができたので、
めでたしめでたしなのであるが、
あの脂を見てしまって、喰い過ぎには気を付けようと思ったのであった。

(2001.04.08)
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おそばやさんのカレーライスなるものが、コンビニで売られている。
なんでも、カレーを蕎麦のだし汁で作ったものだとかで、
こぐちに刻んだ葱をそえて食べると、ちょっと和風な趣でおいしいのだ。

そんなわけで、おそばやさんのミートソースもあってもいいじゃないか、
と、勝手にきめて、半分のこっていたレトルトのミートソースに、
刻んだ葱と麺つゆをぶちこんであたためたもので、
ゆがいた冷や麦を喰ってみた。

まぁまぁいける、というのが今日の結論であった。
インド、イタリアときたから、次はイギリスあたり?
でも、おそばやさんの紅茶セットはちょっといやだなぁ。
おそばやさんのまーぼ豆腐くらいで堪忍しといてやろう。

(2001.04.08)
−−−−+−−−−+−−−−+━−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−200 

科学者と文学者とでは、
どちらが幸せなのだろうか。

たとえ見出された自然の姿に感動しても、
その自然を作り出したのは科学者ではない。
ならば写真家は、美をある角度で切り出しただけであり
芸術とは認められないだろうか。

と、こういうのを机上の空論という。

(2001.04.09)
−−−−+−−−−+−−−−+−━−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−200 

めざせマイナス10(せめてマイナス5)
あぁ、このカッコがいけないんだよね。
まぁ具体的な努力が伴わないところもいけないんだけど。
あぁ、カッコわるい。

(2001.04.09)
−−−−+−−−−+−−−−+−−━−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−200 

つい先日まで満開だったそめいよしのの花も
盛りをすぎて、はらはらと花弁をこぼしていく。
風に落ちるその花弁には、ある種の風情があるけれど、
散りかけた枝の方は、さほど美しいとは思えない。

一方で、遅咲きの品種の桜は赤味がかった新しい葉と、
濃い桃色の組み合わせで、今が盛りのものもある。
まだ蕾の品種もある。
そんな桜にかぎらず、豪勢に、
さまざまの花がこれから咲き始める季節で、
春本番と呼ぶのが定番といった感である。

おぼろな月で薄明るい夜道を歩いていた。
丸く刈り込まれたどうだんつつじの植え込みに、
うっすらと白く、桜の花びらがつもっていた。
まるで雪化粧のようだ、と思った。

家に戻ってからよく考えてみると、
あのどうだんの植え込みの上には桜の木はないのだった。
はてどうしたものだろうか、と思っていたのだが、
今日、明るいところで再びみてやっと気付いた。
そのうすい白は、どうだんのつぼみだったのだ。

なんとなく桜のことばかりかんがえていたためだろうか、
それが本性だからだろうか、サクラに騙されていたのであった。

(2001.04.10)
−−−−+−−−−+−−−−+−−−━+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−200 

蒲公英のまぶしい花を見ていて、ふと思った。

花はなぜ美しいかと人は問う。
虫媒花であればそれは私はここにいるという虫へのアッピール。
美しいというのは、人間が勝手に付与した価値観にすぎないけれど、
成長し子孫を残す枠組みの中で、最適なシステムが生き残ってきた。
完成されたその姿が美しいと思えるのだろう。
人だって、一生懸命に頑張っている姿は、造作にかかわらず美しい。
何か勘違いながんばりをしているお方も… 

墓穴。

(2001.04.11)
−−−−+−−−−+−−−−+−−−−╋−−−−+−−−−+−−−−+−−−−200 

集合論的野菜論

金田一京助らによる小学館の国語辞典には次のようにかかれていた。

 やさい :食用に栽培する植物、あおもの
 くだもの:食用になる果実
 果実  :植物の実

この定義に依れば、すいかもメロンもキュウリも果物であり、かつ野菜です。
大根、ホウレンソウなどのように根や茎や葉、花を食べる野菜は果物ではないです。
このように、大抵のくだものは野菜に含まれます。
微妙なのは、栗や胡桃のように、もともと山に自生していた木になる果実類です。
これらはくだものですが、栽培していませんから、野菜ではありません。

したがって、べん図で示すとき、以下のようになります。
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓  ┃┌──────┐   植物 a ┃  ┃│果実   b │       ┃  ┃│┌─────┤       ┃  ┃││くだもの │       ┃  ┃││ ┌───┼──────┐┃  ┃││c │d   │   やさい│┃  ┃└┴─┼───┘      │┃  ┃   │e          │┃  ┃   └──────────┘┃  ┗━━━━━━━━━━━━━━━┛
食用であるもの :c, d, e, 山菜など a の一部 実であるもの  :b, c, d 栽培しているもの:d, e, 花卉など a の一部  a :実ではないし、食用ではないもの   例 しらかば、しきみ  b :実だが、食用ではないもの      例 ようしゅやまごぼう  c :実で食用だが、栽培されていないもの 例 くり、くるみ  d :実で食用に栽培されているもの    例 ぶどう、ブルーベリー  e :実以外で食用に栽培されているもの  例 つるむらさき 野生のくだものはあり、野生の野菜はないが、 野菜のくだものはある。実にややこしい。 (2001.04.11) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+━−−−+−−−−+−−−−+−−−−200  朝と晩に通る道端に麦畑がある。 やがて麦の秋を迎えた後には水田となるその畑は、いまは青々として広がっていて、 平らな土地にあるので、端までいっても落ちてしまうこともない。 ついこのあいだまで雪で白く覆われていたと思ったのに、 やがて黒い土が見えたと思うと、今度はしゅっとのびた 緑の葉で覆われてしまっている。 ただひとくちに緑といっても、よく眺めてみると、微妙に色が異なるものだ。 盛り上がったあのあたりは少し色が濃く、あそこはわずかに黄味がかっている、 といった具合にである。 じっと眺めていると、その風にそよぐ様は、うねりあわだつ海の波のようだと思った。 さらにじっと眺めていると、波の合間にイルカの背が見えたように思えた。 それは風と光のいたずらだったのか、そこになにか鳥でも居たのか。 はたまた疲れた目の作り出した錯覚だったのか。 首を振ってその場を後にしたのだった。 さて、ここで落とし方  その1。イルカだって?そんなもの、陸上におるか。  その2。近くで飼育されていた豚が逃げたものだったかもしれない。  その3。麦畑だけに嘘(lie)でーす。って、ryeじゃなくてwheatだけど。 こんなことを考えているから、無駄に疲れているんだろう。 (2001.04.12) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−━−−+−−−−+−−−−+−−−−200  きのうは友人の結婚披露宴があった。 おヨメさんになった人も気さくなひとで、 2次会、そして3次会とつい長居をしてしまった。 お酒をだいぶのんでから帰ってきたので、 冷蔵庫に冷やして置いたお茶を飲んで、 のどの乾きをいやした後に、崩れるように寝てしまった。 朝、といっても寝てからまだ間もないころだが、 眠りの浅い周期に入ったためか、 なんとはなしにまぶたがあがる。 時計を見てから、今日は休みだったことを思い出す。 うう、ちょっとお手洗いにいきたいかも。 でも面倒なので、そのままうつらうつらとしてしまう。 夢に見たのは例によってトイレで用を足す夢。 それから数時間後にまた同じことを繰り返す。 カラダにきいてみたら、まだ大丈夫だよというので、 面倒なので、また寝てしまう。 で、同じ夢をみる。 そんなことをさらに数回繰り返す。 時計を見ると昼もすぎている。 惰眠をむさぼるのはなんという快楽であることか。 でも、やっぱ尿意が。 一大決心をして、手洗いに行くことにする。 さぁいくぞ。漏らさないように、ょういドン。 すっきりしたあと、また布団にもぐってしまいました。 でもって、熟睡できましたとさ。 どうせなら、さっさと行っとけばよかったね、お手洗い。 という夢を見ました。 (2001.04.15) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−━−+−−−−+−−−−+−−−−200  酸とは、という話になって、 塩酸は胃液の成分ね、 んでもって酢酸はお寿司に使うお酢の成分ね。 なんて説明をしてみた。 それでもって、えっとそれから、 硫酸は、ガミラス星の海の成分ね、 なんて説明をしたのだが、 こちらはどうも通じなかった。 うぅむ、おそるべし、世代の差か。 (2001.04.16) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−━+−−−−+−−−−+−−−−200  ビタミンCを採ろうと思って苺を買ってきた。 キャベツだのきゅうりだのもいっしょに、 スーパーの袋に下げて帰ってきたところで知人に逢った。 へぇ。買い物? そお。夕御飯とかデザートとか。 あ、イチゴもある。 うん、つまむ? 洗ってないけど、いい? いっただきます。 一粒たべて、それっきり遠慮してる。 いいよ、もちょっと食べても。 でもまさとの分が減っちゃうし。 なんとしおらしいことよ。 と思ったのだが、今判った。 やっぱひとパック200円のいちごって甘くないのね、あんまり。 (2001.04.17) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−╋−−−−+−−−−+−−−−200  ゴマノハグサ科の越年草で、春一番に誰の目にも止まるであろう 小さな青い花をつける植物にオオイヌノフグリがある。 草野心平の「春のうた」の中で「いぬのふぐりも咲いている」と歌われるアレである。 雪が融けてでてきた地面すれすれに、時にはまだ近くには融け残った雪があるのに、 土の匂いとともに小さな青い花をつけて、見る者の気持ちを融かしてくれる。 厳密には「イヌノフグリ」と「オオイヌノフグリ」は別物である。 在来種であるイヌノフグリはタチイヌノフグリとともに、 あまり目立たない小さな花をつけるから、 大抵のひとがイヌノフグリの名前で覚えている青い花 といえばオオイヌノフグリのことだろうと思う。 親に手をひかれて散歩したときにその名前を教わった花のひとつであり、 小さい頃から見慣れて、見知っているつもりの花でもあった。 ところが小さいこどもの認識力というのは得てしていい加減である。 ぼくは小さいころにクレヨンで檸檬の絵を書いた時に、 黄色の紡錘型の端に緑色のぽっちをつけたものだ。 当時、それが何かなどとは考えなかったけれど、 それは枝からつり下がっている結合部分の名残である。 幼稚園の先生には、良く観察してますね、と誉められたのだった。 そこまでは良かったのだが、物事は対称な構造を有するべきと感じたのか、 もう片方の端にまで緑色のぽっちをつけて描いて幼稚園の先生を慌てさせたものだ。 小さいころといえば、ヤツデの葉とイチジクの葉の区別もつかなかった。 どちらも手のひらを大きくしたような形をしているのだが、 あきらかに葉の質感が異なる。今では一目で区別が付く。 非常に曖昧な表現になるけれども、つるんとした感じなのがヤツデの葉で、 毛がたくさん生えているのがイチジクの葉である。 そのくらい、認識する能力というものは時にいい加減であり 必要に応じて、あるいは成長に応じて、物事に対する認識を新たにしていくのだ。 オオイヌノフグリの花の形を描けと言われたら、しばらく前まで 菱形の花を描いただろう。家紋の「もっこう」紋の形である。 2回回転対称の、そういう形の花だと認識したままずっと育ってきていた。 実際のオオイヌノフグリがどういう花の色や形をしているかは、 花の名前でネット検索するだけで簡単に1000件以上ヒットするから わざわざ引用やリンクをするまでもないのであるが、もっと対称性の低い形をしている。 むしろ同じゴマノハグサ科のキンギョソウなどと同じ鏡面対称性を持つ。 はじめてこの花の形がこういう形だと気付いた時には、かなり大きな驚きを伴った。 小さいながらもコペルニクス的転回というヤツである。 毎春毎春、目にしていた筈だったのに、 その姿をきちんと見たことが無かった、上っ面だけを見ていたのだ、 ということを思い知らされたのであった。 思いこみというものは時に観察眼を眩ませる。 常に新鮮な心でさまざまなことがらに対処していかなければならない。 (2001.04.17) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+━−−−+−−−−+−−−−200  小さいころに親に手をひかれて教えられた野の花は他にもいくつかある。 ヒメオドリコソウとういうピンクの小さな花をつける雑草もたくさん生えていた。 ヒメとかイヌという語が付くのは、小さなという意味を表すのよ、と習い、 また同時に、オドリコソウという花もあるのよと教わった自分は、 ヒメオドリコソウの群生の中で、すこし背の高いものをみつけると、 これこそはオドリコソウなの?と手をひく母にいちいち確認していた。 オドリコソウというのは、ヒメオドリコソウとはまったく別物であることを 知ったのは、もっとしばらく経ってからである。 はじめて本物のオドリコソウを見たのはたしか高校生になった後だった。 すこし山に入った道の脇の日陰に生えていた白い花をつけるそれをみては、 この母に手をひかれた日を思い出して懐かしく思ったものである。 (2001.04.17) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−━−−+−−−−+−−−−200  民主主義は異なる世代間にまたがるエゴイズムをチェックする機能を持たない。 加藤尚武氏の「環境倫理学のすすめ」という、リオ宣言よりも前に書かれた本の、 世代間倫理についての記述の中に、上の旨の言葉が書かれている。 ここのところ忙しくしていたり、さぼっていたりでニュースのチェックを 怠っていた。アサヒ新聞サイトが記事検索サービスをはじめたのは、 一月も前の話なのに、そのことに気が付いたのもつい先日である。 だから幾らか世の中の情勢に疎くなっている。 とはいえ、偶然小耳にはさんで知った、アメリカの京都議定書の不支持表明は、 やはり、という思いもあったが、大きなショックであった。 ここのところ、この関連のニュースがつづいているようだ。 日本はどういう立場で発言するか、など、ちょっと意地悪な見方もできて、 なかなかに面白いという気もする。 なにより冒頭の言葉を彷彿とさせた一連の動きに、しばらく注目していよう。 個人的には、全面的には必ずしも賛成しかねるのだが、 アニマルライツ(動物の権利)という考え方がある。 その考えの中のキーワードに、「帰属意識」というものがある。 私達の善意の及ぶ範囲、と別の言葉でも書かれている。 歴史の中で、我々の帰属意識は拡大してきた、とピーター・シンガーらは言う。 家族、村、町、国家、共同体、民族、そして人類全体へと。 その流れの中で、性差別や人種差別は否定されてきた。 同じ地球に棲む動物にも、その帰属意識はやがて拡大するだろう、というのが アニマルライツの考え方の核心である。 その一方で、我々の帰属意識は、同じ人類の将来の世代の上には 拡がっていないのであろうか。 現在の世代は、将来の世代の生存可能性を保証する責任がある。 口でそう述べるのは非常に簡単だ。 だが我々はいかに行動してゆくのか。 先月の末に発表された国連人口部の推計では、2050年に世界人口は 93億人に達するという。 また、ネット上にはいくつか世界人口計と呼ばれる計算機があり、 現在時刻、あるいは指定時刻での世界人口を表示してくれる。 チェックしてみたら、ただいまの世界人口は61億4千万人であった。 (2001.04.18) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−━−+−−−−+−−−−200  「邪馬台国って実は○○に在ったって、知ってた?」 ある日、歴史が好きなある友人が得意そうにそう問いかけてきたのだった。 「そうそう、それから勝海舟って実はね…」 まだ今ほど知名度が高くなかったと思うのだが、 鯨統一郎氏の「邪馬台国はどこですか」が出たばかりのころだった。 その本を読んで、話のネタに使えると思った彼は、くだんの言葉をかけてきたのだ。 鯨統一郎は、今でこそ知る人ぞ知る「まいじゃー」な作家さんだと思うのだが、 保険の代理店に務められていたという当時は、まだそれほど有名でもなかった。 ふうん、へぇ、そおなん。ところで。 とぼくは意地悪く応えて言った。 ところで、最近、鯨統一郎って人の本でおもろいのでてたで。 ぎゃふん。 意地の悪い対応やったかな。 でもちょっと勝った気分だった。<ひでえ。 抜き打ちテストに、昨日偶然見た問題がでてたって感じかな。 鯨統一郎氏は「邪馬台国はどこですか?」「隕石誘拐」 「金閣寺に密室(ひそかむろ)」「千年紀末(ミレニアム)古事記伝Onogoro」 「北京原人の日」(未読)「なみだ研究所へようこそ!」(未読) と何冊か本を出しておられるが、はじめの4冊の中で一番の傑作はやはり 「邪馬台国はどこですか?」だろうと思う。未読の方、オススメですよ。 お気に入りの本の話が合う友人というのは良いものだ。 彼とは今もたまにメールのやりとりをしている。 (2001.04.19) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−━+−−−−+−−−−200  さくらのみやという名前の駅でおりて少し歩くと、造幣局がある。 八重の桜の季節になるとたくさんの人が押し寄せる。 今年は少し桜が早かったようでこの週末にはすでに終わりかけていた。 人の流れはそれでもつきることがない。 造幣局の入り口へたどりつくまでの参道には人の流れをあてにして たくさんの屋台がたつきをたてるべく構えている。 金魚すくいもある。かえるの子であるおたまじゃくしをすくわせるのもある。 ミシシッピアカミミガメをすくわせるところもある。 今はおたまじゃくしなどさえその辺りにいない世なのだろうか。 昔の記憶だが、山の中の道の轍に水の溜まったところがあって、 卵から孵ったのであろうおたまじゃくしが群れていたのを見たことがある。 おたまじゃくしは親の蛙と同じで肉食性であるから、 弱った個体は共食いされてしまうのだろう。 そんなことを考えてしまうから、黒々と群れ泳ぐおたまじゃくしに 生理的な嫌悪を覚える。一匹二匹ならば構わないのだが、群れは苦手だ。 カメすくいというのはどうやってすくうのか、ちゃんと見なかったけれど、 看板をみると50匹以上すくうと小さな水槽とカメの餌が貰えるらしい。 たいそうな数がすくえるのだから、きっと丈夫なものですくうのだろう。 40匹、30匹でもそれぞれ何かがついていたと思う。 すくったカメは全て持ち帰るわけではない。くれると言われてもいらないと思う。 カメは1匹だけ貰えるのだ。それで一回あたりが500円。 カメが欲しけりゃペットショップでカメを買った方がよほど良いじゃん、 なんて考える人には不向きな遊びである。と、思う。 食べ物だっていろいろな屋台がでている。 たこやき、いかやき、韓国ちぢみ、クレープ、鯛焼き、カステラ、りんご飴、 サツマイモスティック、じゃがバター、焼き鳥、どて煮、エトセトラ。 もちろんビールもある。ジュースやお茶だってなんでもある。 ちょっと欲しいなと思ったのが桜の花の塩漬けだ。 湯飲みに一輪いれてお湯をさすと桜湯になるというあれだ。 桜餅をつくるためにか、塩漬けの桜の葉も売られている。 屋台ではなくてもたまに見かけるけれど何処にでもあるというものでもない。 迷ったが、屋台というと値段が高いというイメージがあったので買わずに通りすぎた。 桜の花といえば、むかし植物を教えてくれた先生を思い出す。 図鑑を書いたりもしていて少し名の通った先生だったらしい。 その先生が次のようなことをおっしゃっていた。 最近、桜といえばソメイヨシノが主流で、園芸屋はソメイヨシノばかり植えたがる。 これはソメイヨシノは花が散るまで葉を出さないからというのもあるが、 若いうちから花をつけるからで、樹勢がつくまで花をつけないヤマザクラなどを 植えるとあの園芸屋の持ってきた桜の樹はなかなか花をつけないと言われて しまうので嫌われる。ところがソメイヨシノというのは50年ほどが寿命である。 このころになるとヤマザクラはとても立派な樹になりみごとな花をつける。 だからソメイヨシノとヤマザクラを一本置きに植えたら良いのに、と。 個人的にはヤマザクラがとても好きで、やや赤味のつよいシンプルな花と、 花がひらくとほぼ同時に芽吹く真っ赤な新葉を、逆光に透かして見るのが良い。 さくらいろの染め物だって、桜の花びらを使わずにヤマザクラの枝の 皮の部分を使う、と国語の教科書で読んだ覚えもある。 より野生に近い分だけ流れている赤味がより濃いのだろう。 通り抜けの中にも売店があって、そこではコインをかたどった炭酸煎餅やら、 いろいろなものが売られている。桜茶というものも売られていたので、 先程買わずに済ませてしまったこともあってひとつ求めてみた。 結構大きな袋に入っているけれど、5杯分しかない。 それで500円というのは、どうも高いような気がする。 もちろん、その製造には、最新技術を駆使したのであろう、 桜の花と食塩や昆布だしなどがフリーズドドライされたものである。 フリーズドドライという製法は、たかが桜湯の為にはコストがかかりすぎる。 昆布茶のような味がするのも、手をかけていじりすぎて、シンプルさを 失っただけのように感じた。いってみれば僕にとっては、 桜の花の塩漬けで充分なような気がしたということだ。 なににしろ手のかけていない素朴なものが好きなのかもしれない。 (2001.04.23) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−╋−−−−+−−−−200  軽佻不惑 「あ〜、これで四捨五入で大台かよ」 「オレなんて、とっくだぜ」 某友人たちの会話だ。 そこに僕がくちばしをつっこんだ。 「孔子さんだって迷わないようになったのは40だよ。  それに比べたらまだまだ若いじゃん」 某友人のたまひて曰く 「オレ、人生の中で迷ったことないぜ」 彼は孔子に勝ったようです。 あるいは緒突猛進? どっちにしろかっこいい。 あるいは何にも考えてないのか。 (2001.04.24) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+━−−−+−−−−200  普存の原理と呼ばれるものがある。 たとえば岩石などの中にふくまれる元素の種類は、 分析法の精度があがるほど多くみつかる、 ということから類推されたもので、 さまざまなもののなかには、多かれ少なかれ全ての元素が含まれている ということを示している。 水はたった18ミリリットル、 ほんの3センチ四方の正方形を底として高さが2センチの容器に一杯分、 その中に6かける10の23乗個という想像しがたいほどたくさんの 水分子、水という物質をつくるいちばん小さな構成要素、がはいっている。 そんなにたくさんの水の分子があれば、 その中にはいろいろな不純物がほんの少しずつ混ざっているかも知れない。 それを見つけだすための技法というものが分析であり、 どの程度まで不純物を見つけだすことができるかというのが分析の精度である。 分析の精度が低ければ見つけることができなかったような不純物も、 分析の精度があがるようになれば見つかってしまう。 そうやってどんどん分析の精度が上がっていって、 たとえば原子や分子が数個しかなくても見つけてしまうようになると、 ほとんどどんなものでも見つかるようになるよ、というのだ。 あなたは水銀の入った、あるいは砒素の入った水を飲みますか、と問われると、 ほとんどの人は、それは毒だから飲まない、と応えるだろう。 それはある意味正しいのだが、また、ある意味正しくはない。 もし先ほどあげた普存の原理がただしいとすれば、 あなたが先程飲んだ水道水の中にも、ほんのわずかだけれども 水銀や砒素がかならず入っているのである。 でも、安心しても良い。水道水は飲んでも害がない。 それは何故か。ほんの少量であればこれらの物質を摂取しても、 まったく害がないと考えることができるからである。 さらには、砒素などは取りすぎたらもちろん有害だけれど、 全く摂取しなくてもかえって体に障害がでるという、必須元素でありさえするのだ。 と、ここまでは理屈で考えて納得したとする。 それはそれで良いのだけれど、知らなければよかったということだってある。 いくら無害な量だからと言って、水銀が入っていると宣言されたものを 飲むことには抵抗があるじゃないですか。 それを心理的なものと笑うなら笑っても良い。 いわんや、そのコップの中の水にはほんの数分子かもしれないけれど かつてあなたのおしっこだった水が入っているんだよ、 なんてべつに教えてくれなくてもよかったのに。 ね、きいてる? それと、このご飯の中には… (2001.04.25) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−━−−+−−−−200  目一杯に遊びたおしたゴールデンウィークももう終わってしまったから、 月曜の朝はとりわけ憂鬱だった。 曜日のことなど考えなくても良かった日々は終わり、 また毎日の生活が始まるのだ。 いくら厭だと思っても現実は待ってくれない。 久しぶりに仕掛けた目覚まし時計が容赦なく朝を告げると、 ぼくはシャワーを浴びて出掛ける準備をする。 これで雨など降っていたら目も当てられないところ。 このGWの間には寒い日や雨の日もあったけれど、 社会復帰戦の初日は幸いにして良い天気のようだ。 崩れてしまった体内時計のせいでこんなに眠くなければ きっと爽やかな朝という形容も成り立ったのだろう。 ややもして自転車で風を切っているうちに目も冴えてくる。 現実を受け入れる覚悟もだんだんにできあがってくる。 そもそも臆病な人間だからちょっとぐらいは思ってみたとしても 本当に逃避をしてしまうことなどできはしない。 いつもの自転車置き場に自転車を停める。 雨よけの簡単な屋根がついただけの、自転車置き場。 朝の斜めの陽射しが少し差し込んでいる。 誰かの自転車の部品にあたったものだろうか、 コンクリートで固められた地面に光が反射している。 そんな小さなスポットライトのひとつが虹になっていた。 ほんの数センチの光のスペクトルバンド。 別にアーチになっていたわけじゃない。 空にかかっていたわけでもない。 ただ地面の上で光はそれを構成するななつの色に引き延ばされていたのだ。 それを見たときにちょっと得をしたなと思った。 ほんの些細な得。 ちょっと憂鬱だった月曜の朝の気分がくるんと丸まって 見慣れた筈の目の前の景色が少し鮮度を増した瞬間だった。 (2001.05.07) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−━−+−−−−200  加納朋子の「いちばん初めにあった海」を読んだ。 まぁほかにもいろいろと読んだのだけれど。 「ななつのこ」「魔法飛行」と彼女は水滴のついたクモの巣のように 美しく絡み合った連作短編の本を出していたから、 本当はすぐに気付くべきだったのかもしれない。 この本におさめられた2つの話だってつながっていたことに。 2つの物語を読み流してしまってから読んだ解説の文章の中の はじめの物語で解かれなかった謎、という言葉がすぐには判らなかった。 そうしてしばらく考えてやっと気付く。 加納朋子は優しい。あくまでも優しく登場人物をつつむ。 2番目の物語は「ぼく」の語りで進められる。 ではその物語の聞き手は誰なのか。 是非想像して欲しい。 たぶん、これはぼくの想像だけれど、話が語られるその場所には、 話し手と聞き手と、さらにもうひとり居たはずだ。 そこまで思いを至らせた時、ぼくはますます加納朋子が好きになった。 (2001.05.07) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−━+−−−−200  あらいやん、な意図 石の上にも三年なんていうけれど、 3年なんて時間は短いようで結構長いようだ。 おとなりのだれだれちゃんはついこの間中学に入学したと思ったら、 もう卒業だよねぇ、なんて言ったりするおばちゃんや、 思い出すにつけても高校の3年間は充実してたなぁ、戻りたいなぁ なんて五月病になってる大学の新人くんには3年は短かっただろう。 ほぼ3年にわたって、 命を懸けてものがたりを語りつづけたシャハラザードには、 その3年はどうだったのであろうか。 3年間もの間、なにかを強制されつづけるということは、 苦痛の体験であり、繰り返したくないものだったかも知れない。 でも、自分のつたない体験に照らしてみると、 それはそれで楽しかったのではないだろうか、とも思えてくる。 キーボードを前にして何時間も座ったまま書けない日もあった。 かと思えば、4つも5つも書きたいことが浮かんできて、 もったいないと思いながら書いただけアップした日もあった。 でもやっぱり好きなんだよな、オレにとって。 なぁんて あらいやん なことを、あと2年半もしてから、 しれっとして書けると良いななんて思っているのである。 やっぱり3年なんて時間は短いようで結構長いようだ。 (2001.05.08) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−╋−−−−200  ネタばれ(古い) Dreams I've got this morn. 先年度の末頃に、現実逃避を兼ねてつくったバナー(新)に書き込んだ文字。 これは実は次のような意味なんです。 Dreams(夢) I've(見た) Got(方) This(今) Morn(朝) そうです。これを並べ替えると、サイト名になるんです。 ええっと…(汗) (2001.05.09) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+━−−−200  この居酒屋に来たらいつも豚の角煮をたのむんですよ。 そういいながら奴は、いくつかの料理とともに豚の角煮をたのむ。 週末でもないのだけれど何故か、何人かで夕飯も兼ねて飲みに出たのだった。 とりあえずは、ということでビールで杯を合わせる。 何日かぶりに飲むビールはやはり旨い。 九十と幾つめの夜かは知らないけれど近づいた夏に感謝する。 唐揚げだとか、サラダだとか、定番のメニュで酒がすすんでいく。 おおっと、先程たのんだ角煮がやっと来たね。 奴がいつも頼むというからにはよほど旨いのだろう。 ほどよく柔らかく甘く煮付けられたそれは、 なかなかに旨いものだった。 そして奴は口を開く。 何で角煮って言うか、知ってます? 俺はありきたりな答しか思いつかない。 四角く切って煮てあるから、なんて今更言わないだろうな、 などと思いながら、さあ、と応える。 ここの店員からきいたんですけどね。 奴は言う。いちばんのオヤジな店員です。 今日は居ないみたいだけど。 ほどよく酒がまわった奴も、 今思えば少々オヤジが入っていたかもしれない。 いわく。以前頼んだとき、皿に2切れしか入ってなかったんです。 その店員が言うには2切れだから皿に各2だって。 でも、酷いんですよ。 その次の時、各1を2つくださいって頼んだら、角煮を2皿持ってきた。 そりゃひでえな。別に美味かったからいいけどな。 (2001.05.09) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−━−−200  小さい頃に遊んだ公園に、 宝くじの収益金から寄付されたものであろう、 宝くじラダーという遊具があった。 そのラダーの名が示すとおり、 雲梯のような、はしご状のものであるが、 双こぶの山のようにうねっている形をしていた。 ぼくらは夢中になって、そこにぶら下がったり、 ジャングルジムのようにそれに登ったりして遊んだものだ。 その遊具の名前だけは、なぜ明瞭におぼえているのかというと、 子供ごころに不思議にも思ったのだが、 その遊具にのみ「たからくじラダー」とかかれた板がつけてあったのだ。 ブランコにもシーソー(ぎったんばったん、と呼んでいた)にも なんにも書かれていなかったのに。 今思えば、おそらくそこは市立の公園だったのだが、 そのラダーだけが寄贈された遊具ゆえ、 寄贈主に対する礼儀としての看板であっただろうということは容易に想像がつく。 ところが小さい頃にはそれの意味するところまでは理解できなかった。 そもそも宝くじという単語を拾い出すことさえままならなかったくらいだ。 もっとも、たとえ宝くじという単語がわかったとしても、 ラダーという英単語を知らなかったわけだから、 くじ、と、ラダー、の間で区切るということに思いが及ぼうはずもない。 その遊具が大きいから、たから鯨だぁ、だと思っていたのだった。 (2001.05.11) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−━−200  気合いをいれる、気を使う、気を許す、気が散る、気がせく、気がちがう。 この気なんの気なんて言いたくなるくらい、気には意味がたくさんある。 代表的なものだけでも、呼吸、精神、心、スピリッツ、性質、気配、意思。 まだまだある。でも今書いてみたいのは、カラダの中にまわす気の話である。 経絡(けいらく)というものがある。経は動脈、絡は静脈を表しているらしい。 また、漢方ではつぼ(経穴)とつぼを結び連ねる気および血の循環系統を言う。 ここでいう気とはなにかあやしげだけれど、生体エネルギーのようなもの、とされている。 ぼくもそんなに気やら経絡やらに詳しいわけではないけれど、 どうやら鍼だとか灸とかも、この気の流れというものを整えるのだそうだ。 そもそも手当てということばは、手を当てて気の流れを整えるという意味だったそうだ。 臍下丹田に気は集まる、とものの本は言う。 へそのした、腹をすえる時に力をいれる場所、そこが気の中心らしい。 いわば血液が心臓から流れ出す中心であるがごとく。 その臍下丹田を出発点にして、カラダの中をぐるりと気をまわすらしい。 エネルギーの球のようなものを感じて、それを背骨にそってのぼらせるのだという。 気の流れがよくなると体調がよくなるらしい。 でも、中途半端な知識ではいけない。 気になった人はご自分でよく調べてみるのが良いだろう。 例えばインターネットで「経絡」だとか「整体」だとか「経穴」だとかを キーワードにして調べてみれば、非常に多くのサイトがひっかかるだろう。 それだけ、東洋医学の奥が深いということかも知れない。 ひとつだけ気をつけた方がよい。 というのはそういったサイトのいくつかを読んでいくと、 健康セミナーだとか、気をはかる装置だとか、経絡図だとか、 なにかあやしげなものを買わされそうになる場合があるからだ。 とはいえ、個人の責任で読んでくれれば良いだけ話である。 いろいろ書くのはそれこそ気のまわしすぎというべきか。 (2001.05.14) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−━200  風船をほぼ同じ大きさに膨らませてからストローでつないだとして、 その2つがうまくバランスがとれているときに、 片方を押して小さくなるように力をかけてやってから手を離すとどうなるか。 これが、2つの皿を吊した天秤だったら、こうなる。 バランスがとれている片方を下へ押しやって、手を離すと、 下へ押しやられた皿は元の位置へもどろうとする。 我々にとって、なんとなくそれが普通の感覚であって、起こった変化は放っておけば もとへ戻ろうとするのが当たり前のようなつもりでいる。 ところが、先程の風船の場合はまったく異なった挙動をする。 同じ大きさでは釣り合っていた風船のしぼもうとする力は、 風船の大きさが変わるにつれて変化するのだが、 小さな風船のほうがしぼもうとする力が強いのだ。 したがって、小さな風船はより小さくなろうとし、 大きい方の風船はより大きくなってしまう。 仮に風船がいっぱいいっぱいに膨らんでいたのであれば、 ここに至っては、大きな風船は割れてしまうのである。 このような天秤と風船の挙動の差は、谷の合間にある球と、 山の天辺にいる球とで考えることができる。 天秤のように、変化が与えられると、元へもどろうとするものというのは 谷間の球で、その球を動かしてやると必ず元よりも高い位置にくる。 だからいつも元へともどろうとする。 世の中の出来事のうち、バランスのとれているもの、というのは、 この谷間の球になっていることが多い。 というのは、いろいろと動いた球が最後に落ち着いたところ というのは、谷間になっている、逆にいえば、谷間にこそ 物事のあるべき最終的な姿があるのだ、とも言える。 ところがいくつかのことは、山の天辺の球であらわされる。 なにも手をくわえなければ止まっていた球も、 一度ある方向へ押し出せば、勢いついて山を転げ落ちてしまうのである。 世の中のことは複雑なバランスの上になりたっている。 たとえば地球の平均気温の話もそうだ。 二酸化炭素が増えると地面や海の表面から放射される熱がうまく宇宙へ 逃げることができずに、地球の平均気温が上昇するということが知られている。 これを温室効果という。 ある時、大気中の二酸化炭素の割合が増えて、地球の気温が少し上がったとする。 これをさきほどのちょっとした変化として考えてみよう。 天秤のように、くわえられた変化がうち消される方向に力がはたらくのか、 あるいは連結された風船のように変化が拡大される方向に力がはたらくのか。 ある説には、二酸化炭素の割合が増えると、 海の中や地上の植物がよく成長するようになる、という。 そのことによって、二酸化炭素の割合は減る方向にはたらく。 だから地球の気温が低下する方向に力がはたらくのだ、という。 また、ある説には、地球の、そして海の温度が上昇することにより、 海の中に溶け込むことができる二酸化炭素の量が減るのだという。 炭酸飲料をあたためるとすぐに気がぬけてしまう原理である。 そうやって大気中の二酸化炭素の量が増えるから、 地球の気温は上昇する方向に力がはたらくのだ、という。 非常に複雑で、よくわからない。 よくわからないけれど、今の地球から大きく変わってしまうと、 いろいろと不都合なことが起きるのではないかという心配がある。 だから、なるべく今のままの地球に、 なるべく長いこと住めるようにするのがいちばん良いような気がする。 (2001.05.14) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−200  今朝は少し湿気が高かったからか、 外からのシロツメクサの花の香りに眼を醒ました。 このごろは、ややもすれば暑いと感じる昼間には、 バラのように強いにおいはきちんとわかるのだけれど、 地面すれすれに咲く白い花の甘い香りは しめった朝にいちばんよく似合う。 クローバーといえば思い出がひとつある。 何の懸賞でだったか、その景品のひとつに、 幸運のシンボル、四つ葉のクローバーの鉢植え、というものがあった。 特等とは言わないけれど、2等だとか3等だとかで、 当たる確率はそう高くはなかった筈だったのだけれど、 それに応募したぼくは、なぜか、絶対にそれが当たると思いこんでいた。 普通に考えればあるはずもないことなのだが、 もしかすると虫の知らせだったのかも知れないし、 当たるという思いこみによって懸賞を勝ち抜いたのかもしれない。 偶然、といってしまうよりも、そんな風に思ったほうが神秘的なので、 いままで人にもあまり話さずそう思いこんでいた。 シロツメクサは基本的には三小葉からなる葉を持つから、 いったい四つ葉のクローバーとはどうしたものか、と不思議だった。 なにか突然変異を固定でもしたのだろうかと思っていた。 そうしてある日その賞品が届いたのだった。 それは、クローバーという名前だったけれど、 豆科のシロツメクサでもムラサキツメクサでも、ウマゴヤシでもなかった。 球根性のカタバミだった。もちろん、球根性のカタバミでも、 基本的には三小葉であるから、四小葉のカタバミはちょっと珍しかったのだ。 しばらくは嬉しくて、でも当たることが何となくわかっていたから、 当然の権利のような気もしていて、その花を育てた。 たしか、ミヤマカタバミとおなじような花だったと記憶しているが、 いつの間にか枯らしてしまって、今はもうない。 同じようになくしてしまったものは神秘を信じる力だ。 あのときは当然のように賞品があたると信じることができたのに、 今は、単に当たればいいななどと思うことしかできない。 理性をひとつ得るたびに、決められた四角の箱の中に収まりやすいかたちに、 どんどんと刈り込まれてしまったのかもしれない。 (2001.05.15) −−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+−−−−+