氷の宮殿            Ice Palace
『マイ・ロスト・シティー』(中公文庫)所収 村上春樹訳

 この作品はフィッツジェラルドが1920年に『楽園のこちら側』で華々しくデビューした年に書かれたものです。まだ二十四歳の時の作品ですが、完成度の高さに驚かされます。フィッツジェラルドの作品は出だしのすばらしいものが多いのですが、この作品もそのひとつでその冒頭の部分を引用しました。村上さんの翻訳もすばらしく、我々はいつの間にかアメリカ南部の昼下がりの世界に入り込んでしまいます。

・・・ここはジョージア州南端、タールトン市。九月の昼下がりである。
 二階のベッドルームの窓ではサリー・キャロル・ハッパーがその十九歳の若々しい顎を当年とって五十二歳になる古い窓枠に載せ、クラーク・ダロウの骨董品のようなフォードが角を曲がってやってくるのをじっと眺めていた。金属が吸い込んだり吐き出したりした熱のおかげで車は焼けるように熱く、クラーク・ダロウはげんなりした顔つきでしゃちこばってハンドルを握っていた。自分までが自動車の(それもいまにも壊れそうな)部品になり果てたような様子だった。彼がやっとの思いで二本の轍を越えると、四つの車輪は腹立たしげにきしんだ音を立てた。そして彼はすさまじい表情でぐいとハンドルを切り、自分の体ごと車をハッパー家の前に横づけにした。もの悲しく苦しげな断末魔の呻きがあり、そのあとにちょっとした沈黙が続いた。口笛の音が大気を切り裂く。
 サリー・キャロルは眠たそうに下を見やった。欠伸をしかけたが、顎を窓枠に載せたまま欠伸をするのは不可能だと悟ると、それをかみ殺し、口をつぐんで車を眺め続けた。男はとってつけたようなにこやかさを顔に浮かべて合図への返事をずっと待ちつづけていた。少し間をおいて砂塵漂う大気の中に再び口笛が響きわたった。
「おはよう」
 クラークは長身を苦労してねじ曲げ、しかめ面を二階の窓に向けた。
「朝はもう終わったぜ、サリー・キャロル」
「ああ、それもそうね」
「何してるんだい」
「りんご、食べてるの」
「どうだい、泳ぎに行かないか」
「行ってもいいけど」
「じゃあ急げよ」
「わかったわ」
 彼女は深いため息をつき、おっくうそうに床から立ち上がった。さっきからずっとそこに座って、青りんごを齧ったり妹のために人形の絵を描いてやったり、それを交互に繰り返していたのである。鏡の前に立ち、けだるさを楽しむようにしばらく顔を見つめてから口紅を軽く引き、パウダーをおしるしほど鼻につけ、とうもろこし色の断髪の上にバラ色の模様をちらした日よけ帽をかぶった。そこで足もとの絵の具用の水差しを蹴とばしてしまう。チェッ、でもまあいいや。そして部屋を出る。

 南部のけだるさとサリー・キャロルの物憂い様子がよくでているところです。タールトンの街にもの足らなさを感じていていつか街を出たいと思っているサリーはこのあと北部の婚約者の家で一ヶ月過ごすことになるのですが、氷の洞窟の中で迷子になり傷ついて二週間目に帰って来てしまいます。しかしそのまえから彼女は彼の家族になじめず、それが破局を予感させることになります。その原因のひとつは彼女の性格にあるわけですが、この冒頭の部分では彼女の南部的な怠惰な性格が見事に表現されていて、読み進むにつれてそれが不安へとかわってゆきます。

マイ・ロスト・シティー
スコット・フィッツジェラルド著 / 村上 春樹訳

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冬の夢          Winter Dreams
『フィッツジェラルド短編集』 (新潮文庫)所収 野崎孝訳

 ところで彼の夢というのは、内容もさまざまなら、それを生み出した状況も無論一様ではなかったけれども、夢の本質だけはいつまでも変わらなかった。数年の後にデクスターが州立大学のビジネス・コースへ進むのをやめて---そこなら、すでに裕福になっていた父から学資を出してもらえたろうものを---もっと古くてもっと有名であるというだけで、どれほどの利点があるやらもおぼつかない東部の大学を選び、自分の財政的基盤の貧しさに苦労させられるに至ったのも、この冬の夢の仕業であった。とはいうものの、そうした彼の夢が、最初がたまたま金持ちの世界にまつわるものであったからといって、彼をたまたま俗物根性の持ち主と考えてもらっては困る。彼はきらめく人間との接触がほしかったのではない---きらめく物そのものがほしかったのである。しばしば彼は、なぜほしいのか、その理由も分からぬままに、最高のものを得ようとして手をのばした---そしてときどき不可解な拒絶や妨害にぶつかった。それは世間によくある例だけれども、この話も、そうした欲求が阻まれた一つの実例を語るものであって、彼の生涯の全貌を伝えるのが目的ではない。

 この冬の夢というのはいろいろな含のある好きなタイトルです。「きらめく物そのもの」というのは具体的にはこの後に出てくるジュディをさし、金持ちになるというのはあくまでも夢を実現する手段に過ぎません。
 この後に語られる主人公デクスターの夢はこの冬の夢に動かされたものなのですが、それは彼がゴルフ場でキャディーのアルバイトをしていたときにそのゴルフ場を訪れたジュディという富豪の娘に会ったときから始まります。彼はジュディを一目見て衝撃を受け、その娘のキャディーをするのがいやでキャディーをやめてしまいます。デクスターは大学卒業後、事業に成功してジュディーと再会して交際を始めます。しかし、社交界の花形となった彼女のまわりには常に十人余りの男たちが取り巻いていいて、結局は彼女の心をつなぎとめておくことはできずに別れてしまいます。
 それから何年もたって、仕事で会った男から、彼女は二十七歳なのにもう昔の輝きを失ってしまって夫ともうまくいっていないことを知らされます。

 これまで彼は、もう他に失うものはないのだから、いよいよ自分も不死身の体になったと考えていた---が、今度は、自分がまた何かを失ったことを知らされた。それはまるで彼がジュディ・ジョーンズと結婚して、彼女の容色の衰えてゆくのをその目で目撃でもしたような、間違いのない事実だった。
 夢は消えたのだ。彼の中から何かが奪い去られたのだ。
 (中略)
「遠い昔だな」彼はつぶやいた。「遠い昔には、おれの中にも何かがあったのだが、いまはそれがなくなってしまった。今はそれが消えた。なくなってしまった。今のおれは泣くこともできない。心を動かすことができない。そういうことをやらせたあれは、もう二度と戻って来ることはないだろう」

 夢の喪失の話はフィッツジェラルドの他の小説でも取り上げられていますが、村上さんも『村上朝日堂 はいほー!』のなかで似たような体験を書いています。

フィツジェラルド短編集
フィツジェラルド〔著〕 / 野崎 孝訳

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グレート・ギャツビー       The Great Gatsby 1925年
(新潮文庫) 野崎孝訳

 ぼくがまだ年若く、いまよりもっと傷つきやすい心を持っていた時分に、父がある忠告を与えてくれたけれど、爾来ぼくは、その忠告を、心の中でくりかえし反芻してきた。
「ひとを批判したいような気持ちが起きた場合にはだな」と、父は言うのである「この世の中の人がみんなおまえと同じように恵まれているわけではないということを、ちょっと思いだしてみるのだ」
 父はこれ以上多くを語らなかった。しかし、父とぼくは、多くを語らずして人なみ以上に意を通じ合うのが常だったから、この父のことばにもいろいろ言外の意味がこめられていることがぼくにはわかっていた。このためぼくは、ものごとを断定的に割り切ってしまわぬ傾向を持つようになったけれど、この習慣のおかげで、いろいろと珍しい性格にお目にかかりもし、同時にまた、厄介至極なくだらぬ連中のお相手をさせられる破目にもたちいたった。

 これは小説の冒頭の部分ですが、村上さんもこの部分が大好きだと書いています。物語を読み進むほどこの部分のすばらしさがわかってきます。
 「ぼく」は語り手のニックで、彼から見たギャツビーがだんだん変わっていくところが読みどころです。
 ギャツビーは大金持ちであるけれどもはっきりした素性がわからず、どうやって身代を築いたかもよくわからないかなりうさんくさい人物であるわけですが、彼のデイズィ(かつてのギャツビーの恋人でいまは人妻)を思う気持ちを知ってから、ニックの彼に対する見方が変わってきます。ギャツビーはデイズィの気を引くために入り江の向こう側の彼女の家が見える場所にある家を買い、パーティーを開いて彼女に会うことに成功します。ときどき彼女に会って話をするという彼の願いはかなえられましたが、あるとき、ニューヨークへ車で一緒に行った帰りに、彼女が事故を起こして女性を死なせてしまいます。
ギャツビーは彼女をかばうのですが、彼を犯人と勘違いした被害者の夫に銃で撃ち殺されてしまいます。デイズィはギャツビーの葬式にも来ずに、夫とともに引っ越してしまいます。

 最後の夜、トランクに荷物も詰め終わり、車も食料品店に売ってしまったあとで、ぼくは、あの巨大なままになんの意味をも生まずに終わった家を、もう一度眺めに出かけていった。白い石段の上に、どこかの子どもが煉瓦のかけらで書いた卑猥なことばが、月光を浴びてくっきりと浮かんでいた。ぼくは石の上を靴でごしごしこすってそれを消した。それからぶらぶらと浜辺へ歩いて行って、砂浜の上にながながと寝そべった。
 (中略)
 そうしてぼくは、そこに座って、神秘の雲につつまれた昔の世界に思いをはせながら、ギャツビーが、デイズィの家の桟橋の突端に輝く緑色の灯を初めて見つけたときの彼の驚きを思い浮かべた。彼は、長い旅路の果てにこの青々とした芝生にたどりついたのだが、その彼の夢はあまりに身近に見えて、これをつかみそこなうことなどありえないと思われたにちがいない。しかし彼の夢は、実はすでに彼の背後になってしまったことを彼は知らなかったのだ。ニューヨークのかなたに漠然とひろがるあの広大な謎の世界のどこか、共和国の原野が夜空の下に黒々と起伏しているあのあたりにこそ、彼の夢はあったのだ。ギャツビーは、その緑色の光を信じ、ぼくらの進む前を年々先へ先へと後退してゆく狂躁的な未来を信じていた。あのときぼくらの手をすりぬけて逃げて行った。しかし、それはなんでもない---あすは、もっと速く走り、両腕をもっと先まで伸ばしてやろう・・・・・・・そして、ある美しい朝に---
 こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れに逆らう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでゆく。

 ギャツビーの夢は「冬の夢」のデクスターの夢と同質であり、ここではデイズィを指します。ニックはギャツビーが夢を追い求める姿に惹きつけられます。しかし、デイズィはギャツビーが考えているような理想の女性ではなく、彼の夢は潰え去ってしまいます。
 新潮文庫の解説には、「ニックは、ギャツビーの生涯が、新大陸に理想の社会の建設を夢み、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れに逆らう舟のように力の限り漕ぎ進んで来た、そしてまた漕ぎ進んでゆくアメリカ人たちの姿を象徴しているように思うのである」と書いてあります。
 『ノルウェイの森』に、「僕」が気が向いたとき『グレート・ギャツビー』をとりだして、出鱈目にページを開いて読む習慣があると書いてありますが、確かにそういう読み方をしても少しも失望させられることはありません。ここに引用した部分以外にもすばらしいところはたくさんあるので、まだ読んでない人にはお勧めします。

(補足)待望の村上春樹訳が中央公論社から出版されました。翻訳ライブラリーと愛蔵版の二種類があります。

グレート・ギャツビー
スコット・フィッツジェラルド著 / 村上 春樹訳
グレート・ギャツビー
スコット・フィッツジェラルド著 / 村上 春樹訳

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リッチ・ボーイ       The Rich Boy
『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』(中公文庫)所収
村上春樹訳

 村上さんがフィッツジェラルドの短編のベスト3に入る傑作と書いている作品ですが、当初雑誌社から「あまりにもリアリステイックすぎる」と言われてボツにされたそうです。雑誌社は歯医者の待合室で気楽に読めるような口当たりのいいハッピーエンドの短編を求めていたようなので、そういう基準からすれば確かにはずれてしまうのですが、今フィッツジェラルドの傑作と言われている作品は当時評判の悪かった作品が多かったようです。

 個人というものを出発点に考えていくと、我々は知らず知らずにひとつのタイプを創りあげてしまうことになる。一方タイプというところから考えていくと今度は何も創り出せない---まったく何ひとつ。たぶんそれは人というものが見かけより異常であるせいだろう。我々は他人や自分自身に対してかぶっている都合の良い仮面の裏では、どうして風変わりでねじくれているのだ。「私はごく当たり前の、包み隠すところのない、あけっぴろげの人間ですよ」と言う人に会うたびに、僕はこう思う。この男には、おそらくは身の毛だつようないかんともしがたい異常な部分があって、意識的にそれを押し隠そうとしているんだろう、と。そして自分をありきたりの包み隠すところのないあけっぴろげの人間だといちいち断るのは自分の異常性をうっかり忘れぬための方便に違いあるまい、と。
 世間にはタイプなどというものは存在しない。二人として同じ人間はいない。ここに一人の金持ちの人間がいるわけだが、これはあくまで彼の話であって、彼らの話ではない。

 金持ちの主人公がちょっとした気持ちのすれ違いから婚約者を失い、やがて友達も失って孤独になっていくという喪失の物語で読むのは少し辛い面があるのですが、村上さんの翻訳もすばらしくて読み始めるとすらすら読んでしまいます。
 『ノルウェイの森』に「僕」と直子が次のように話すところがあります。

「ねえ、ワタナベ君のことをもっと知りたいわ」と彼女は言った。
「普通の人間だよ、普通の家に生まれて、普通に育って、普通の顔をして、普通の成績で、普通のことを考えている」と僕は言った。
「ねえ、自分のことを普通の人間だという人を信用しちゃいけないと書いていたのはあなたの大好きなスコット・フィッツジェラルドじゃなかったかしら?あの本、私あなたに借りて読んだのよ」と直子はいたずらっぽく笑いながら言った。
「たしかに」と僕は認めた。「でも僕は意識的にそう決めつけてるんじゃなくてさ、本当に心からそう思うんだよ。自分が普通の人間だって。君は僕の中に普通じゃないものを見つけられるかい?」
「あたりまえでしょう」と直子はあきれたように言った。「あなたそんなこともわからないの?そうじゃなければどうして私があなたと寝たのよ?お酒に酔っ払って誰でもいいから寝ちゃえと思ってあなたとそうしちゃったと考えてたの?」
                                         第六章

 フィッツジェラルドを読んでないと村上さんの小説が理解できないはというわけではないですが、読んでいればそれが隠し味のようになってそれだけ楽しみも増えてきます。ここでは普通ではない直子から普通じゃないと言われるのも可笑しいですが、ワタナベ君がこれだけ普通ということを強調したあとにフィッツジェラルドを盾にとって反論されるからよけい可笑しいわけです。
 人は誰でも自分では普通だと思っているんだけれども、人から見ると少なからず変わったところがあるものですね。

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