
僕の場合、青春が終わったなと感じたのは三十の時だった。今でもあのときのことははっきりと覚えている。すごく細かく描写できる。僕は麻布のシックなレストランである美しい女性と一緒に食事をしていた。といっても、二人きりで食事をしていたわけではない。僕らは全部で四人だった。それも仕事のうちあわせだった。ロマンティックな雰囲気では全然ない。僕が彼女にあったのはその日が初めてだった。
彼女を一目見たとき、僕はびっくりしてしまった。というのは彼女は僕が昔知っていた女の子にそっくりだったからだ。顔もそっくりだったし、雰囲気もそっくりだったし、笑い方までそっくりだった。僕は昔その女の子に恋をして、けっこう悪くないところまでいったのだけれど、なんだかんだで別れて、それっきり会えなくなってしまった。今どうしているのかは知らない。
(中略)
彼女と食事できたことはなかなか楽しかったけれど、それはそれだ。何度も何度も繰り返すことではない。それはふとすれちがって消えてしまうはずのものなのだ。
僕にはそれがよくわかっていた。僕は三十になっていたし、それくらいの道理はもうわきまえていた。でもそれと同時にこのまま終わらせてしまいたくないとも思った。「ねえ、あなたは昔僕が知っていた女の子にそっくりなんです。本当にびっくりするくらい」と僕は後にそう言ってみた。言わないわけにはいかなかったのだが、でも言うべきではなかった。言ったとたんに僕も言ったことを後悔した。
彼女はにっこりと笑った。とてもすてきな笑い方だった。完結した笑い方だった。そしてこう言った。「男の方ってよくそういう言い方をするのね。洒落た言い方だと思うけれど」まるで何かの映画の台詞みたいに彼女はそう言ったのだ。
(中略)
僕はべつに彼女の言ったことに対して腹を立てたり、不快な感情を抱いたりしたわけではない。僕はただあきらめただけだった。
(中略)
でもそのとき、麻布の洒落たレストランのテーブルで、僕の何かが失われ、損なわれてしまったのだ。それは間違いのないところだった。僕がそれをずっと信頼して生きてきたある種の無防備さ---留保条項なしの手放しの無防備さのようなものが、彼女の言葉によってわりにあっけなく失われ、消えてしまった。不思議な話だけれど、僕はけっこう辛かった日々にも、それだけは傷つかないように大事に大事に守ってきたのだ。どうしてそんなに大事に守ってきたのかは、説明することがむずかしい。もちろん僕はかつてその女の子のことが好きだった。でもそれは既に終わったことだった。だからつまり僕が大事に守ってきたのは、正確に言えば彼女ではなく、彼女の記憶だったのだ。彼女に付随した僕のある心的状況だったのだ。ある時期のある状況しか与えることのできない、ある種の心的状況---それが実にあっけなく消えてしまったのだ。彼女とのその短い会話によって、一瞬にして。
そしてそれが消えてしまったのと同時に、おそらく青春という名で呼ばれるべき漠然とした心的状況もまた終わってしまった。・・・そしてこう思った。物事の終わりというのはどうしていつも、こうあっけなくてささやかなんだろうと。
青春と呼ばれる心的状況の終わりについて
まるでフィッツジェラルドの小説の一節(フィッツジェラルド「冬の夢」参照)を読んでいるようなので、長々と引用しました。物事の終わりというのは確かに何の前ぶれもなくあっけなくというのが多いです。
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それからあれこれと客の素性を知りたがるのも千葉のタクシーの運転手の性癖であった。・・・僕はその頃もう三十五になっていたが、大学の正門の近くに住んでいたので、しばしば学生と間違われた。ジーパンとかトレーナーとかそういうものばかり着ていたせいもある。
(中略)
そういう話を女房にしたら、「あら、そんなのまだいいわよ。若くみられてるんだから。私なんかこのあいだは大学の先生に間違われたんだから」ということであった。同じ場所でタクシーを降りても、僕と女房ではとらえられ方にずいぶん差があるみたいである。
うちに原稿を取りにきたある若い女性編集者はバーのホステスと間違えられた。この人はなかなかおしゃれな人で、黒いシックなワンピースを着てきたのだが、ただそれだけの理由でバーのホステスと間違われたのである。千葉に来るときは、家を出る前によく考えて、それ相応の格好をしてこなくてはならないようだ。「だいたいね、バーのホステスがこんなまっ昼間に何で千葉でタクシーに乗るんですか」と彼女はあきれていたけれど、まあたしかにそのとおりだ。この人はかわいそうに、帰りのタクシーの中でも「あんた農家の嫁に来るのは嫌か?農業は嫌か?そんなに都会がええか?」とじゅんじゅんと説得されたそうである。「もう私、村上さんのお宅に伺いたくありません」と泣いて電話をかけてきた。ローカルといえばあまりにローカルな話である。
千葉県タクシー・ドライヴァー
僕も若く見られる方だけど、三十過ぎてから学生に間違われるのもちょっとぐあいが悪かったです。本当の年を言へば驚かれるし、言わなきゃ言わないで嘘をついているようで落ち着かないし・・・。困ったものです(苦笑)。
それにしてもこの女性編集者には気の毒だけど、笑ってしまいました。千葉のタクシー・ドライバーから見ると黒いワンピースを着た若い女性はバーのホステスに見える、というのはなるほどと思わせるだけに可笑しいです。
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自分でもかなりせっかちな性格だと思う。せっかちで、気が短い。
(中略)
それから食事が済むとすぐに食器をか片付けて洗ってしまう。食事が終わったあと、よごれた食器を前にしてだらだらとしているのが嫌なのだ。だから食べおえるとほとんど同時に席を立って食器を流しまで持って行き、ついでにさっと洗ってしまう。なにしろ早い。そして片付け終わると、仕事をするなり、ひげを剃るなり、掃除をするなり、すぐに次の作業にうつる。食事のあとは一服してのんびりお茶でも飲んで、というのが苦手である。のんびりと新聞を読むのが嫌で、新聞さえ取っていない。あるとどうしても腰を据えて読んでしまうからだ。よく子供がご飯が終わると「ごちそうさま」と叫んでそのまま外に走り出ていくといった光景を見かけるが、基本的にはこれに似ている。じっとしていられないのだ。女房はもうずいぶんそのことはあきらめたみたいだけれど、それでもときどき腹を立てる。僕が食事をおえてさっと食器を下げようとすると、「ねえ、それやらなくていいから少しそこにゆっくり座っててよ」とか「そのお皿持ってかないでよ、まだ食べてるんだから」とか怒鳴る。彼女としては食事のあとくらい、一息ついて何か話でもしたいわけである。
(中略)
僕は歩くのが好きで、歩きながらだと比較的落ち着いて話ができる。だから女房なんかは何か話があると必ず僕を散歩に誘う。一時間か二時間その辺を当てもなく歩き回って帰ってくる。足の丈夫な人じゃないと僕にはつきあえないですね。冗談抜きで。
歩きながら人と話をする一方で、歩きながらものを考える。僕はだいたい一日に一時間から一時間半外を走っているのだが、その間にいろんなことを考える。小説のことやら、家庭のことやら、行く末のことやら、物価のことやら、音楽のことやら、買い物リストやら、ギリシャ語の動詞変化やら、なにやらかにやら、とにかくありとあらゆることを考える。もちろん走りながらだから体のほうはそれなりに消耗しているわけだが、僕の場合はそれくらいエネルギーが放出されていないと、うまく落ち着いて考えられないようである。体がある程度くたびれてきてやっと「じゃあ、ちょっと考え事でもするか」という気になってくるわけだ。じっとどこかに座って沈思黙考するということができない。そういうのは僕にとってはいわば精神的に自動車のエンジンの空ぶかしをやっているようなもので、どうにも落ち着かないのだ。しかしこういう性格でよく作家をやっているなあと自分でもときどき不思議に思う。ひょっとして小説を書くというのは意外にヘビーな肉体労働なのかもしれないですね。
どうして僕は雑誌の連載が苦手なのかということについて
これだけせっかちだと奥さんが腹を立てるのもわかる気がします。村上さんがせっかちというのは意外でした。人は見かけによらないもの、と言っても会ったことはありませんが。
歩きながらだと落ち着いて話ができるというのはわかるけど、一時間か二時間歩き回るというのはちょっと・・・。それから、普通は疲れてきたら考え事なんかできないですよね。世の中にはいろいろな人がいるもんです。
この本は、村上さんが1986年から1989年までの約三年間ヨーロッパに住んだときの記録です。ちょうど『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』書いていた時期であり、その頃の村上さんの心情を知ることができるのも興味深いところです。
この本に書いてあるギリシャやイタリア---のとくに田舎---は実に魅力的であり、ピーター・メイルの書いた『南仏プロバンスの12か月』と共通する面白さがあります。日本より狭い国なのに、田舎に行くと素朴な伝統を守って生活している人々がいて、ヨーロッパは実際の面積よりも広いという印象を受けます。
引用したい箇所は無数にありましたが、ここに紹介したのはその中のほんの一部にすぎません。
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スペッツェス島に到着したとき、掃除おばさんが僕らを待っていて、家の鍵を渡してくれた。そうするようにヴァレンティナがアレンジしてくれていたのだ。そのおばさんが僕らのために家をクリーン・アップし、そこで暮らすための細かい手筈を説明してくれるから、とヴァレンティナは言った。それは大変ありがたいのだけれど、困ったことにこのおばさん英語というものが片言もしゃべれない。・・・・・仕方ないから片言のギリシャ語で話をしたわけだが、僕の語学力で「この温水ヒーターはスイッチ・オンしてから熱い湯が出るまでに時間がどれくらいかかるのか?」とか「フライを作ったあとの油はどこに捨てればいいのか?」とかいったような細々としたことを質問するのは事実上不可能である。手真似ですむところは手真似ですませるが、あとのことはまあ適当になんとかなるだろうとあきらめるしかない。
「まあ、なんとかなるだろう」と僕は言う。
「でもね、あなたずうっとギリシャ語の勉強していて何を覚えたのよ、いったい?」と女房があきれて言う。僕はギリシャに住みたくて、一年間週一回、明治学院大学のギリシャ語講座に通ったのだ。
「あのね。温水ヒーターだのまな板だの漂白剤だの、そんな特殊な単語がテキスト・ブックに出てくるわけないじゃないか。だいたい君は語学にプラクティカルなものを求めすぎる」
「あなたはちょっと求めなさすぎるのよ。フランス語を習ったときだってそうでしょう。『異邦人』が読めるのにろくに道順も訊けないんだから」
「しょうがないだろう、もともとそういう性格なんだから。話すのが苦手なんだよ。それが気に入らないんなら他人に頼らないで自分で勉強すりゃいいじゃないか」
と言い争っているのを、おばさんと息子が「この人たち何を言ってるんでしょうね」という風にニコニコと見守っている。
オランダ人からの手紙・島の猫
日本でギリシャ語を習うには大学まで行かなきゃならないんですね。確かに、温水ヒーターや漂白剤という単語はテキストにはでてないと思うけど、奥さんの言い分もわかるような気がします。
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ヴァンゲリスと二人で一緒に朝の町を歩いていたことがある。そのときあらためて思ったのだけれど、ギリシャ人というのは実に挨拶の好きな国民である。日本人がお世辞と曖昧な微笑を好むように、アメリカ人が握手と訴訟を好むように、フランス人がワインとハワード・ホークスの映画を好むように、ギリシャ人は挨拶が好きなのだ。これは朝の買い物の時間やら、夕方のコーヒー・スナックの時間やらに町を歩いてみればもう一目瞭然である。そこは文字どおり挨拶の洪水である。
例をあげてみよう。買い物に向かう二人の主婦(カテリーナとマリア)が道ですれちがったとしよう。するとそこではおそらくこれだけの会話が交わされることになる。
「カリ・メーラ、カテリーナ、ティ・カニス(おはよう、カテリーナ、元気)?」
「ミア・ハラ、マリア、エフカリスト、エシ(元気よ、ありがとう、マリア、あなたは)?」
「ミア・ハラ、キ・エゴ、ヤ・ス(私も元気よ、じゃあね)」
「ヤ・ス(じゃあね)」
と、これはまるで会話用例集みたいだが、本当にこれだけきちんと全部やるのだ。それも急ぎ足ですたすたと歩いてすれちがいながらである。これは横で見ているとまさに「ツール・ド・フォース(神わざ)」というしかない。まず二人はゆくてに互いの姿を認める。そして<これくらいの距離でいいかな>という頃合いを見計らって、どちらからともなく「カリメーラ」が始まり、早口でぽんぽんと一連のやりとりが続いて、軽く後ろを振り返るような感じで最後の「ヤ・ス」が発せられるわけである。こんな器用なことはとても僕にはできない。ここまでくると、挨拶好きというよりは挨拶の達人と言っていいのではないかという気がする。
港とヴァンゲリス
このあとヴァンゲリスの挨拶の様子が書いてあるのですが、五分間で約四十人に挨拶したそうです。まさに達人ですね。でもいくら達人でも、日本のような人口密度の高いところでこれをやったらへとへとになってしまうんじゃないだろうか。
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四月十二日の日曜日、パーム・サンデー、ウサコとウビさんの夫婦とぼくと女房の四人でメータ村に遊びに行く。メータ村はローマから車で北西に向けて二時間か三時間行ったところにある小さな村である。かなり詳しい地図にも載っていない。・・・・・・どうしてわざわざこんな村に行くかというと、ここがウビさんの生まれた故郷だからである。十六の年までここで育った。両親は健在でまだここで暮らしている。「なにしろ家賃がやたら安いからね」とウビさんは言う。「一年の家賃がなにしろ3700リラなんだもの」
3700リラといえば、約400円である。
聞き違いだと思って、もう一度確かめる。でもやはり400円。
「父はずっとこの役場に勤めていてね。もうずっと前に退職したんだけど、その後でも公務員用の家にずっと住んでるんだ。死ぬまで住んでいいんだよ。そういう点ではこの国はすごく恵まれているんだ。そうおもわない?」
「たしかに」と僕は言う。
「なにしろ、僕の父の年金の額が僕の基本給より多いんだもの。ひどい国だよ。そんなことしてるんだもの、財政赤字で破産するわけさ。国民が国から金をむしりとっているようなもんだから」
「日本と逆だな、そういうのは」
「そうそう。逆だよ」とウビさんは肯く。「そういう点では日本の人はかわいそうだと思うな。日本は国自体は金持ちなんだけど、国民生活はそれに比べたらあまり豊かとは言えないものね。休暇も少ないし、土地も高いし、税金も高いし、自慢じゃないけどイタリア人は税金なんてほとんど納めないんだよ。ちゃんと税金払ってるのは僕ら公務員くらいのもんだよ(彼は外務省勤務である)。あとはもうホント無茶苦茶だね。
メータ村までの道中 1987年4月
一年間の家賃が400円というのはすごいですね。コンビニの弁当より安い。ほとんどボランティアで貸しているとしか思えないですね。
イタリア人がほとんど税金を払わないというのは本当のようですが、先日テレビを見ていたらイタリア人のジャーナリストが、96年以降イタリアでは改革があって脱税の取り締まりも厳しくなった、と言っていました。日本の構造改革はうまくいくんでしょうか?
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食後戸外のいすに座ってのんびりと夕焼けを眺めていると、村の子供たちが七人ばかり僕らをぐるりと取り囲む。だいたい七歳から十四歳ぐらいまでの子供たちで、いちばん上のリーダー格の子供はなかなか綺麗で利発そうである。みんなでつつきあって、にこにこしたり恥ずかしがったりしながら、僕らがワインを飲んでいるのを眺めている。ちょっと踊ったりもする。たぶん日本人を見たことがないので珍しいのだろうと推測したのだが、そのとおりであった。リーダー格の女の子が僕の側に来て、(意を決してやってくるまで十七分かかった)、ちょっとカンフーやって見せてよ、と言う。カンフーできるんでしょ?もちろん、と僕は嘘をつく。女の子を失望させることは僕の信念に反するのだ。じゃあ、ちょっとだけね、と僕は言う。そしてちょっとだけ、アッチョオオー---というのをやってあげる。僕だってブルース・リーを見て研究しているのだ。子供たちは「ううう、やっぱし」という顔で満足して帰っていく。たぶん明日学校でみんなに自慢するのだろう。「ねえ、あたしたち昨日ほんものの日本人のカンフー見たのよ」なんてね。この僕だってたまには誰かの役にたつこともあるのだ。
クレタ島の小さな村と小さなホテル
「意を決してやってくるまで十七分かかった」というところが子供らしくてかわいいですね。子供というのはやっぱり好奇心には勝てないようです。村上さんがカンフーをやってあげたくなる気持ちも分かります。
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『ノルウェイの森』とは違って、『ダンスダンス・ダンス』の場合は書きはじめる前にまずタイトルが決まった。このタイトルはビーチボーイズの曲から取ったと思われているようだが、本当の出所は(どちらでもいいようなものだけれど)ザ・デルズという黒人バンドの古い曲である。日本を出発する前に、家にある古いレコードをひっかき集めて自家製オールディーズ・テープを作っていったのだが、その中にこの曲がたまたま入っていた。いかにも昔風リズム・アンド・ブルースというタイプの曲である。のんびりとしていて、ざらっとした雑な感じで、その辺が不思議に黒っぽい。その曲をローマで毎日聴くともなくぼんやり聞いているうちに、タイトルにふとインスパイアされて書き始めたのだ。もちろんビーチ・ボーイズにも同じ曲があることは知っていたけれど(高校のときによく聴いた)、直接的な始まりはこのデルズの曲の方である。
この小説は始めから終わりまでだいたいすんなりと気持ちよく書けたと思う。『ノルウェイの森』は僕としてもそれまで書いたことのないタイプの作品だったし、「この小説はいったいどういう風に受け入れられるんだろう」とあれこれ考えながら書いたのだけれど、この『ダンス・ダンス・ダンス』に関しては、そんなことはまったく考えずに、自分の書きたいようにのびのびと好きに書いた。隅から隅まで僕自身のスタイルの文章だし、登場してくる人物も『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』と共通している。だから久しぶりに自分の庭に戻ってきたみたいで、すごく楽しかった。というか、書くという行為をこれほど素直に楽しんだことは、僕としても稀である。
冬が深まる
書いている本人が楽しかったんだから読んでいるほうも楽しかったはずです。ところでこの冬はとても寒くて、暖房もあまり効かなかったのでハワイに行きたくてしょうがなかったそうです。一生懸命ハワイのことを思いだしながらハワイのシーンを書いていると、ほんの少しだけ暖かくなったような気がしたそうです。
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いろいろと泊まり歩いたキャンティー地方の宿でいちばん心に残ったものというとやはり「雉鳩亭」(仮名)にとどめをさすだろう。
(中略)
「雉鳩亭」の客室は全部で三室か四室しかない、本当に小さな宿である。だから泊まれる人数はせいぜい七、八人というところだろう。当然ながらシーズンにはかなり前から予約しておかないとまず泊まれないし、シーズン以外は開けていない。いわゆる素人旅館で、奥さんがひとりで宿泊客の世話をしている。
(中略)
実はこのスイス人の奥さんはここで旅館をやろうというつもりはまったくなかった。ご主人はスイスの弁護士で、十代後半の娘さんがひとりいる。生活にはなんの不自由もない。彼女はこの家が一目で気に入って別荘用に買ったのだが、それまでそこが旅館として使われていることをまったく知らなかった。売る方もそんなことを一言も言わなかった。ところが、この旅館が「トスカナの魅力的な旅館」として、あるアメリカのガイドブックに紹介されたものだから(僕もその本を読んでここのことを知ったわけである)たまらない。休暇を過ごそうとここにやってきたとたんに部屋の予約をしたいという電話がかかってきた。「そりゃもうびっくりしました」と奥さんは言うけれど、まあたしかにびっくりするだろうと思う。休暇を取ってトスカナの別荘に来て気持ちよく寝ていたら、真夜中にニューヨークから国際電話がかかってきて「八月七日に二人用の部屋をお願いしたい」なんて突然言われたら誰だって相当びっくりしちゃう。
でもこの奥さんの偉いところはその電話の相手に「よく事情はわかりませんが、もしいらっしゃりたいのならどうぞお越し下さい」と答えてしまうところである。親切というか、呑気というか、人がいいというか、こういうのは普通の人にはなかなかできることではない。とまあそういう具合にして、なんとなく成り行きでなしくずし的に彼女の素人旅館が始まってしまったわけである。だからこの「雉鳩亭」には看板も出てはいないし、名前さえついていないのである。ましてや広告なんてぜんぜんやらない。原則的にはここはあくまで個人の別荘なのである。そこに奥さんの好意で泊めてもらっているのだ。こういう宿屋ってなかなかない。
雉鳩亭
この奥さんはきっと、親切で、呑気で、人がいいんでしょう。こういう人のところに泊まったら、たしかに居心地はいいだろうなと思います。
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もしイタリアという国の特徴を四十字以内で定義せよと言われたら、僕は、「首相が毎年替わり、人々が大声でしゃべりながら食事をし、郵便制度が極端に遅れた国」と答えるだろう。この三つの条件を同時に充たす国は、少なくとも北半球ではイタリアくらいしかないはずである。
(中略)
僕の持っているアメリカのガイドブックを見ると、第二次世界大戦中にアメリカ軍のGIがローマから故国に書いた手紙が、一九六〇年代になってようやく到着したというエピソードが載っていた。無茶苦茶な話だとは思うけれど、これは決してありえないことではない。少なくとも、この話をしてもイタリア人はあまり驚かない。そういうことは現実的にありえない話ではないからである。「届いただけラッキーだよ」というのが、彼らの一致したクールな感想だった。
(中略)
僕がイタリア人についてつくずく感心するのは、彼らがこのような惨めきわまりない状況を少しも改善しようとはしないことだ。そういう努力さえ払おうとしないことである。彼らが状況を改善しようとしないのは、まずだいいちにそんなことをしたって無駄なだけだと認識しているからであり、第二に変革を志すよりは別の方法を考えだす方が彼らの性格にあっているからである。そういうところはたとえばイギリスやらドイツやらアメリカやら日本やらとは全然考え方の方向が違う。ある意味ではイタリア人というのはものすごく現実的な考え方をする国民なのである。
つまりイタリア人は公共サービスというものに対してまったくといっていいくらい幻想を抱いてはいない。そんなものをあてにするくらいなら、もっと別の方法を考える。個人的なコネクションや家族を大事にする。猛烈に脱税する。脱税とサッカーはイタリア人にとって最も大事なアクティビティーであると言ってもいいだろう。
イタリア郵便事情
第二次世界大戦中に出した手紙が六〇年代になって着くというのは、郵便ではなくてタイムカプセルと言うべきではないでしょうか。「今出せば二〇年後に着きます」と宣伝したら結構人気になるかも、というのは冗談です。
イタリア人は公共サービスに対してあてにしていないからそういう状況でも混乱しないでやってゆけるのだと思いますが、日本のように真面目にやっているように見えて手抜きがあると、とんでもないことになります。明石市の花火大会の歩道橋の事故などはその典型的な例だと思います。
村上さんの紀行文を読んだのはこれがはじめてです。そもそも旅行記の類はあまり読んだことがないうえに、村上さんが行くのは普通の人が行かない辺鄙な場所ばかりなので、ハードでシリアスなことが書いてあるようでとっつきにくかったのです。ところが、たまたまBOOK・OFFで「雨天炎天」の文庫本を見つけて、薄い本だし試しに読んでみようと思って何も期待しないで読み始めたら、これが実に面白いのですよ。確かにハードな旅ではあるけれども、それがこんなに面白く読めるとは・・・。小説と違ってリラックスして読めてそれが心地よく、かといってただの暇つぶしの本ではないところはさすがです。村上さん自身楽しんで書いてるなあ、というのがこちらにもひしひしと伝わってきて、文章を読むことの楽しさを感じることのできる贅沢な一冊です。
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また、この半島では自然がほとんど手つかずの状態で残っている。観光開発業者の手がまったくは入っていないギリシャ国内唯一の土地といっていいだろう。地形も峻険である。ここには平地というものがほとんど存在しない。山ばかりだ。半島の南にはアトスという二〇〇〇メートルの山が聳えている。海岸線は全部断崖絶壁であり、人を寄せ付けぬような厳しさを持っている。どこに行くにも自分の足でいちいち山を越えていかなくてはならない。この半島には交通機関というものがまったく存在しないからだ。
(中略)
結果的に言うと、これはけっこうハードな旅になった。僕はハードな旅がけっして嫌いなほうではないけれど、それにしてもこれはかなりなものだったと思う。道はあくまで険しく、天候はあくまで厳しく、食事はあくまで粗食であった。
アトスとはどのような世界であるのか
「結果的に」というよりも、自然条件から言って最初からハードなのはわかると思うんだけど(笑)。どのくらいハードかはこの先を読むとわかります。
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庭には気の毒な猫の一家が住んでいる。母親猫と五匹の子供たちだが、母子ともにかなり痩せてこけている。ほぼ100パーセント菜食主義の修道院に巣くっている猫だから(このカラカル修道院はより厳格なセナビティック式なので肉食は禁じられている。何かお祭りみたいなのがあると、魚が出ることはあるらしいが)、それはまあ太れるわけがない。しかしこの猫たちは何を好んでこんな食糧事情の悪いところをわざわざねぐらに定めたんだろうと首をひねってしまう。よりによって修道院にいつくなんて、これは酔狂としか言いようがない。
カラカル修道院
猫の一家には気の毒だけど、これも笑ってしまいます。好きこのんでそこに住みついているわけではないんだろうけど・・・。人(猫)の不幸というものは、他人から見るとしばしば喜劇的に見えるものです。
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十二時に、我々が完璧にくたばれかけたところで、三人の樵の一家に出会う。山の斜面の木を伐採して、それをロバの背中に乗せて下の道まで下ろし、そこに積み上げ、それをまとめて麓まで運ぶのである。ロバは全部で六、七頭はいる。樵の一家はお父さんと大きな息子と小さな息子という構成である。
(中略)
僕らが「グランデ・ラヴラに行きたいんですが」と言うと、「それは全然違う」という答えが返ってきた。「道、間違ってる。この道、どこにも行かない」要するに、これは材木を切って運ぶために作られた道であるらしい。「ひき返さないと駄目」、ずっと下って行くと「グランデ・ラヴラ」と書いた標識があるから、と彼は言う。そこを右に行けばいいのだと。
(中略)
彼らもちょうど昼飯の時間であったらしく、僕らは途中まで一緒にもときた山道を下る。ロバに材木をたっぷりとくくりつけ、尻をたたいて先に行かせる。そのあとから、僕らがゆっくりと歩いていく。「どこから来たんだ?」とお父さんが訊く。「日本からだ」と答えると何だかわからない顔をした。「何で来たんだ?」と訊くから、「飛行機」と言うと、三人で顔を見合わせて「飛行機だって」と言う。飛行機に乗ったくらいで感心されたのは僕も初めてである。すごいところに来ちゃったなあと実感する。
ラヴラ修道院
確かにすごいところだけど、ヨーロッパもけっこう広いんだなと思いました。なにしろロバで材木を運んで生計を立てているんだから。しかしこういうプリミティブな生活をしている人がまだヨーロッパにいるというのを読むと、何だかほっとします。人間の営みというものは本来はシンプルなものだったはずなのに、いまの日本人の生活はちょっと複雑になりすぎてませんか。
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我々がカフソカリヴィアのスキテ(このスキテはプロドロムと同様、グランデ・ラヴラ修道院に属している)で泊めてもらった宿坊は宿坊というよりは、僻地の飯場小屋というに近い代物だった。・・・宿坊の係りの僧は、ドラキュラ映画に出てくるようなせむしの召使いのような、むさくるしい不吉で陰惨な顔をした、極端に愛想の悪い男だった。
(中略)
夕食がまたひどかった。まずパン。これが無茶苦茶な代物である。いつ作ったのか知らないけれど、石みたいに固くて、おまけに一面に青黴が生えている。それを洗面器に放り込んで水道の水でふやけさせる。そしてザルで水を切って出してくれるわけだ。水でふやけさせるだけ親切といえなくもないけれど、しかしそんなものはとても人間の食べ物とは言えない。それから、さめた豆のスープ。そこにどくどくと酢を注いで出す。「酢入れる・元気になる」と彼は言う。それはそうかもしれないけれど、味は無茶苦茶である。そして壁土みたいにぼろぼろしたフェタ・チーズ。これはぼくが生まれてから食べたフェタ・チーズの中ではいちばんしょっぱい代物だった。とにかく顔が曲がってしまうくらいしょっぱい。高血圧の人にこんなのを食べさせたらばたばた死ぬだろうと思う。でも腹が減っているから食べないわけにはいかない。他に選択肢はないのだ。そんなわけで、我々は黴のはえたふやけたパンを呑みこみ、酸っぱいスープを流しこみ、しょっぱいチーズを齧った。
「黴のはえたパンなんか食べちゃって、体は何ともないんでしょうかね?」と松村君が訊く。良い質問である。でも僕もこれまで黴のはえたパンを食べような経験はないので、それでどうなるかは見当もつかない。強ければ生き残るだろうし、強くなければ駄目かもしれない。でもとにかく腹が減っているのだから仕方がない。目をつぶって食べちゃう。あたりまえの話だが、これはけっして美味い物ではない。
カフソカリヴィア
読んでいるだけで食欲がなくなってきます。でも、それしか選択肢がないとしたら食べられるのだろうか。いずれにしてもそういう状況には陥りたくないものです。村上さんのように胃腸が丈夫ならいざしらず・・・(苦笑)。
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映画で見て以来、どうせトルコに行くなら一度この地方を実際に見てみたいと思っていたのだが、このハッカリ地方は雪深いというだけでなく、またトルコでもっとも治安の悪い場所としても知られている。クルド人の分離主義者の活動の拠点となっているからである。ぼくがいちばん信用して使っていた英語のガイドブックにはこう書いてある。「ハッカリの町は避けて通るのがいちばんである。この町の人口の半分はおびえきって汚い道路沿いのあばら屋に閉じこもっているし、あとの半分は政府の役人を殺すことしか考えていない。ここにいる政府の役人はどこか他の場所で不始末をしでかすか問題を起こすかして、ここに島流しになったような連中ばかりである」
僕はいくらなんでも誇張じゃないかと思ってハッカリに行ってみたのだが、ぜんぜん誇張ではなかった。もちろん目の前で人が殺されたとかそういうことがあったわけではないが、でも町をおおっている雰囲気はまさにこの記述のとおりである。
ハッカリに向かう
そこをすぎるといよいよハッカリの町がある。町に一歩入ってまず最初に気づくのは汚いということだ。道路は未舗装で、やたらほこりっぽい。そして男しかいない。車でしばらく町の中を回ってみたが、どこを見ても男しか目につかないのだ。男の多くはたぶんクルド人なのだろう、頭にアフガン風のターバンを巻いている。腹には腹帯をしめている。道で四、五人ずつ集まって頭を突き合わせて立ち話をしている連中の多くは、あるいは密輸業者なのかもしれない。いずれにせよ、雰囲気が非常にうさんくさい。こそこそと話しあっては、みんなでカシオの計算機のキイをぱたぱたと叩いている。一人が相手にその数字を見せ、その相手がまたぱたぱたとキイを叩いて数字を見せる。そういうのを延々と続け、手を上げたり、首を振ったりしている。警官なり兵隊なりが来ると、さっと計算機を隠す。
ハッカリ 2
こういうところは避けて通るのが普通ですよね。小説家としての本能がそうさせるのか、村上さんは物騒な場所が好きなんです。とにかく無事で帰ってきてなによりです。
この本の文章は講談社の「本」という雑誌に掲載されたものですが、一回分の長さが村上さんのエッセーのなかではいちばん長く、その分内容も深く読み応えがあります。現代アメリカとアメリカから見た日本について書かれた本としては最良のものだと思います。
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・・・・僕はあるアメリカ人に会ったときに、何年か前にプリンストンを訪れた話をして、できることならああいう静かなところで誰にもじゃまされずにのんびりと小説を書きたいもんだねというようなことを世間話みたいに言った。すると彼が、「それでは」ということでプリンストン大学関係者に会って、さっさと具体的に話をまとめてくれたのである。「おい、プリンストンガ君を招いてくれるそうだ。住む家も決まっている。荷物をまとめて来年の一月の終わりまでにそこに行ってくれ」。なにしろ話が早いのがアメリカのいいところである。
それが1990年の秋のことだった。僕らはまたあたふたと荷物をまとめてアメリカに行く準備を始めた。僕と女房はその年の始めに三年間にわたるヨーロッパ滞在をやっと終えて日本に戻ってきたばかりだったのだけれど、なんだかわけのわからないうちにまた外国に移り住むことになったわけだ。ちょっと忙しすぎるような気もしたが、プリンストンに住むせっかくのチャンスを逃したくはなかった。
プリンストン----はじめに
ということで、これは『遠い太鼓』のあとの話になるわけですが、アメリカでもプリンストンというところは特別な場所のようです。
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・・・・かくかように、新聞からビールの銘柄に至るまで、ここでは何がコレクトで何がインコレクトかという区分がかなり明確である。
(中略)
でも、「これはコレクト、これはインコレクト」という風に考えて暮らしている生活も、考えようによってはなかなか悪くないものである。とくに日本みたいな「何でもあり」という仁義なき流動社会から来ると、かえってほっとする部分もなきにしもあらずである。
(中略)
・・・・でも日本ではそう簡単にはいかない。たとえばオペラなんて流行じゃないよ、歌舞伎だよ、という風にどうしてもなってしまう。情報が租借に先行し、感覚が認識に先行し、批評が想像に先行している。それが悪いとは言わないけれど、正直言って疲れる。僕はそういう先端的波乗り競争にはもともと関わってこなかった人間だけれど、でもそういう風に神経症的に生きている人々の姿を遠くから見ているだけでもけっこう疲れる。これはまったくのところ文化的焼き畑農業である。みんなで寄ってたかってひとつの畑を焼き尽くすと次の畑に行く。あとにはしばらく草も生えない。本来なら豊かで自然な創造的才能を持っている創作者が、時間をかけてゆっくりと自分の創作システムを掘り下げていかなくてはならないはずの人間が、焼かれずに生き残るということだけを念頭に置いて、あるいはただ単に傍目によく映るということだけを考えて活動し生きていかなくてはならない。これを文化的消耗と言わずしていったい何んと言えばいいのか。
大学スノビズムの興亡
僕も大学の時からしばらく東京で暮らしていたのでこれはよくわかります。流行を気にしないつもりでも、それはよっぽど頑固か鈍感でないとできないので、なんとなく気になってしまうのです。僕はもともとのんびりマイペースという生活が合っているので地方の暮らしが向いているようです。
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・・・・僕は今いわゆる東部「アイヴィー・リーグ」の大学に属しているわけで、これは六〇年代のアイヴィー・スタイル世代からすればまさにメッカ=聖地みたいなものであるはずなのだが、実際に暮らしてまわりを見回してみると、ここの学生はみんなほんとうにひどい格好をしている。だらっとしたシャツにジーンズか、折り目のないチノ・パンツ、一年ぐらいは洗ってないだろうと推測されるスニーカー、という格好でごろごろと地べたに寝ころんでいる。女の子も化粧気はないし、髪もただばらっと下ろしているか、あるいはポニーテール。おしゃれをしているような人はほとんどいない。むしろここでは服なんかに気を使わないというのが、ファッションみたいになっている。
(中略)
おかげでアメリカに来てから、洋服にはほとんどお金を使っていない。イタリアに住んでいたときには、町を歩く人が老いも若きもみんなそれぞれにお洒落をしていたから、僕もまわりにあわせてそれなりに服装に気を使って生きていた。洋服の色を揃えたり、「今日はこういうところに行くからこういう格好をしよう」というようなことを習慣的に考えたりしていた。「ローマにあってはローマ人のごとく振る舞え」という格言があるけれど、まさにそのとおりである。でもアメリカに来たらもう全然駄目、服のことなんかはほとんど考えたこともない。その辺にあるものをただ適当にのうのうと着ているだけである。しかし正直にいうと、こんなに楽なことはない。僕はもともと面倒なことが苦手な人間なので、こういう生活にはすぐにはまってしまう。
ブルックス・ブラザーズからパワーブックまで
僕も実家に帰ってからは、車で移動するようになったせいか服装をあまり気にしなくなりました。車の中にいると何を着ても同じという感じです。「ローマにあってはローマ人のごとく振る舞え」です。
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アメリカで暮らしていると、やはり日本の食事が懐かしい。今度日本に帰ったらおいしいものをあれもこれも食べたいと折にふれて考えるわけだが、そういうときにふと早稲田大学の学生食堂のランチが頭に浮かんだりするから不思議である。「サンケイスポーツ」なんか広げながら、プラスチックのどんぶりでがつがつAランチ食ったらうまいだろうなと考えている自分に気がついて怖い。うまかったという記憶なんてまるでないのにね。うちの奥さんは文学部の生協の小さな食堂にあった「お焼き」はけっこうおいしかったよというけれど、まだあるのかしらん。
ヒエラルキーの風景 後日附記
大学の学食のランチがうまかったという記憶はないですが、海外生活が長くなると食べたくなるんでしょうか?人間の記憶というのもおかしなものです。
もし人間を放浪型と定着型---あるいは狩猟型と農耕型というべきか---のふたつのカテゴリーに分類することができるなら、僕はかなりの確率で後者の方に属することになると思う。
じゃあどうして定着型の人間が何年にも渡ってそんなにあちこちと移り歩いたりしているのか、ということになるのだが、結論から言うなら、いささか逆説的なロジックになるけれど、結局のところ僕は「定着すべき場所を求めて放浪している」ということになるのではないかと思う。
もうここからは一歩も動かない、我々はここに留まる、と決意できるような場所を求めて。
そんな場所はどこにもないよとあなたは言うかもしれない。言わないかもしれない。しかしいずれにせよ、少なくとも僕がやってきたことを旅行と呼ぶのはかなりむずかしいだろうと思う。
僕はこのような生活をとしあえず「住み移り」という風に定義しているわけだが、要するに早い話が引越しなのだ。だから僕の略歴にはおそらく「趣味は定期的な引越し」と書かれるべきなのだ。その方がずっと僕という人間についての事実を伝えているんじゃないかという気がする。
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でも「住み移り」の場合、我々を囲んでいるあらゆる風景は、われわれの存在そのものにもっと直接的なコミットメントを持つようになる。
それは過ぎ去ってゆくつかの間の風景ではない。我々はそれらの風景と現実的に折り合いをつけなくてはならない。それらの風景に対して、我々はそれなりの判断を下さなくてはならない。我々は何を取り、何を捨てるか、何を受け入れ、何を受け入れないか、というようなことをきちんと決断しなくてはならない。
好むと好まざるとにかかわらず、そこにある種の現実的責任のようなものが生じることになる。
「これはきれいな景色だな」「こういうところにずっと住めたら素敵でしょうね」だけでは済まない、ということだ。
我々はその風景の奥にあるものを解析し、引き受けていかなくてはならないということだ。
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そこから何かの物語が始まるかもしれないと僕は思う。アリクイの夫婦の姿から、あるいはギリシャの若い水夫の目から。
でも、何も始まらない。そこにあるのはただ風景の断片なのだ。
それはどこにも結びついていない。それは何も語りかけない。
僕はそういう風景を「使いみちのない風景」と名付けている。
昔そんな題のアントニオ・カルロス・ジョビンの曲があった。原題は”Useless
Landscape”といったと思う。
歌詞の内容までは知らない。でもそのタイトルの語感はぼくを奇妙にひきつけた。
「使いみちのない風景」なんて素敵なタイトルだと僕は思った。
僕らの中に残っている幾つかの風景、幾つかの鮮烈な風景、でもそれらの風景の使いみちを僕らは知らない。
ここで語られている風景は、フランクフルトの動物園で見たアリクイの夫婦とギリシャのフェリーボートの中で見た水夫の目のことです。それらの風景にとくに理由もなく惹きつけられたということなのですが、そういうことは誰にでもあるのではないでしょうか。そしてそれらの風景は特別印象が強かったわけでもないのに、なぜか記憶に残っていたりするのです。
ここに納められた写真も、旅行記に入れるには中途半端な写真ですが、妙に記憶に残るような写真ばかりです。
これは、旅行者と定住者という観点から人と風景との関わりについて書かれいる興味深い内容の本です。