こちらは三国志に関する言葉で、気に入ったもの、有名なものを集めたページです。

三国志とは
中国の後漢末期、黄巾の乱(184年)の少し前から、魏、呉、蜀の三国が鼎立(ていりつ)し、やがて魏王朝から政権を譲り受けた晋(しん)王朝 が天下統一する280年までの歴史をつづったもの。
魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備、違う時代に生きていれば天下をとっていたであろう3人が同じ時代に並び立ち、壮大なドラマをなしています。
ざっと読んだ感想は、「昨日の友は今日の敵」 ぎゃくもまたしかり。
同盟をくんだり、身をよせたりしたかと思えば、後にその相手と戦うことなどざらです。
そして戦乱のなかで繰り広げられる様々な人間模様が大きな魅力となっています。

※ 正史「三国志」 と 「三国志演義」 は別物です。
   陳寿の書いた「三国志」 は文章が非常に簡潔で、逸話類がほとんど切り捨てられているため、
   のちの南朝宋の文帝は皇帝秘書の裴松之(はいしょうし)に資料を集めて注をつけるよう命じました。
   そうして出来上がったのが、現在私たちが見る、正史「三国志」 です。
   三国志演義は三国志を題材に書かれたもので、史実七割、脚色三割といわれています。
   演義の最初の場面、「桃園の結義」 は史実にはないなど、実際と違うところが多々あります。
   三国志演義はあくまでも読み物。演義だけを読んで、それが歴史的事実と思わないように注意しましょう。


字(あざな)とは
「士大夫(したいふ)」 と呼ばれる知識階級の男子が成人後、実名を知られるのを忌む風習により、名のかわりに使用した通称。
親や目上の人(師匠・君主・先生など)以外が実名を呼ぶのは失礼にあたる。女子は婚姻後につけるが、字をもたない者もいる。


三国時代に関する言葉

阿斗(あと)  『蜀書』 後主伝注
無能な君主の代名詞。阿斗は劉備の子、劉禅(りゅうぜん)の幼名。
劉備のあとをついで、蜀の第二代皇帝についたが、凡庸な人物で、魏に都を包囲されると真っ先に投降し、蜀はほろびた。
安楽な暮らしを保障され、のちに魏の司馬文王が宴会を催し、劉禅のために蜀の音楽を奏でさせたところ、そばにいた人々は みな蜀を思い出し、いたたましい思いにかられたが、劉禅は機嫌よく笑っていた。
それを見た王は 「人間の無感動さもここまでくるとは。これでは諸葛亮が生きていても補佐しきれなかったに違いない。 まして姜維(きょうい)などではね」 と言った。
他日、蜀が懐かしいかと尋ねたところ、劉禅は 「この間楽し、蜀を思わず(今の生活が楽しくて蜀のことなど思い出しません)」と 答えたので、臣下の郤正(げきせい)が劉禅に 「もしまた尋ねられたら、どうか涙を流しつつ 『先祖の墓が蜀にありますゆえ、 西を向いては心悲しく、一日として思い出さないことはありません』 とお答えになり、目を閉じられますように」 と言った。
たまたま司馬文王が同じ質問をしたので、言われたとおりに答えたところ、郤正の言葉そっくりといわれたので、 劉禅は驚いて目をみはり、まことにおっしゃるとおりですと答えたので、そばにいた者はみな笑った。


今、天下の英雄は、ただ使君(しくん)と操とのみ。本初(ほんしょ)の徒、数うるに足らず  『蜀書』 先主伝
魏の曹操が食事に招いた劉備になにげなく言った言葉。
「いま天下で英雄といえるのは貴君とわしぐらいのものだろう。本初(袁紹の字)など、とるに足らない」
曹操誅殺の密命を受け、ひそかに機会をねらっていた劉備はその言葉にぎくりとして思わず箸をとりおとした。
その瞬間、雷が鳴った。劉備はすかさず雷におどろいてとんだ粗相を、とごまかした。
この場面は三国志演義でも名場面となっている。


驥足(きそく)を展(の)ぶ   『蜀書』 龐統伝
一日千里をいく名馬が力を出して走る、ということから、才能を十分に発揮すること。
蜀の劉備は、龐統(ほうとう)を県令に任じたが、政務をまったくとらないため罷免してしまった。すると呉の将軍、魯肅(ろしゅく)が手紙を送り、 「彼の才は県を治める程度ではなく、大役につけてこそ、驥足(きそく)を展(のば)す(本領を発揮する)人物」 だといった。 諸葛亮も同意見だったため、劉備は彼に大役を与え、諸葛亮に次ぐ信頼を寄せた。


君に事(つか)えてその本を忘れざるは、天下の義士なり   『蜀書』 関羽伝注
曹操が関羽の忠節の固さに感動して言った言葉。
曹操は劉備を破って、関羽をとらえたが、気に入って自分の配下にしようと下にも置かぬ厚遇をした。
だが関羽は、「私は劉備どのとともに死ぬことを誓った身。去らねばならない。しかし去るからには曹操どののご好意に報いてからにしたい」 と、はっきり仕える意思がないことを告げた。
それを聞いた曹操は感に堪えぬように、「君主に仕えてその本分を忘れないのは、さすがに天下の義士だ」 と言ったという。


君は清平(せいへい)の姦賊(かんぞく)にして、乱世(らんせい)の英雄なり  『後漢書』
君は平静安泰な時代なら極悪人だが、乱世にあれば英雄となろう。
「月旦評」 で有名な人物批評の大家、許子将が曹操を評していった言葉。
※ 「子(し)は治世の能臣、乱世の姦雄なり(あなたは太平の世なら有能な臣下、だが乱世にめぐりあえば奸知にたけた英雄となろう)」 『魏書』 武帝紀注  もあり。


苦肉の策  『三国志演義』
現在では、苦しまぎれに考えだした手段をいうが、もともとは自分の身を苦しめてまでも敵をあざむくはかりごとをいう。
赤壁(せきへき)の戦いで、曹操の大軍と対した呉の将軍、周瑜(しゅうゆ)は、武将、黄蓋(こうがい)の焼き討ちの献策を受け入れた。
黄蓋は偽りの投降の手紙を送ったが、曹操がうたがう素振りを見せたので、ひと芝居うち、周瑜と衆目の前で激論し、血まみれになるまで打ち据えられることによって曹操を信用させた。
投降の日、黄蓋は船に枯れ草を積み、油をしみこませると幔幕で覆い、曹操軍に近づくと火を放った。身動きできぬほど船が密集していた曹操軍に燃えた船がつっこみ、曹操は敗走した。


蛟龍(こうりゅう)、雲雨を得ば、ついに池中(ちちゅう)の物に非(あら)ざらん  『呉書』 周瑜伝
池に潜む龍がやがて天に昇るように、いつかは大人物になる素質を持っていること。油断ならない人物。
呉の周瑜(しゅうゆ)が蜀の劉備を評して言った言葉。
「劉備は梟雄(きょうゆう・荒々しく強い)の相があります。しかも配下に関羽や張飛のような勇猛な将がいるのだから、 いつまでも人の風下に甘んじている男ではありません。池の中にすむ魚とは違い、龍が昇天するように、時機を得れば、 いつか天下に名をとどろかせるような人物になるでしょう」 と言い、 今のうちに策をもって劉備を屈服させるよう孫権に進言したが、聞き入れられなかった。


呉下(ごか)の阿蒙(あもう)にあらず  『呉書』 呂蒙伝注
呉下は呉の地区。阿は名前の上に親しみをこめてつける接頭語。 蒙とは呉の将軍、呂蒙(りょもう)のこと。
呂蒙は武勇は抜群だったが無学だったため、孫権に学問をすすめられ、これをきっかけに倦まずたゆまず勉学につとめた。
のちに先輩の将軍、魯粛(ろしゅく)が呂蒙と議論して、その博識ぶりに驚いていった。
「きみは実戦だけの人物と思い込んでいた。いつのまにかえらい博識ぶりだ。いつまでも“呉の蒙ちゃん”扱いはできないな」
この故事から 「呉下の阿蒙」 は昔のままで進歩のない人間、相変わらずの無学者のことをいう。


三顧の礼  『文選(もんぜん)』 より 「出師表(すいしのひょう)」
参謀として召し抱えた除庶(じょしょ)が最初に劉備に進言したのが、学友である諸葛亮の推挙だった。
よし、つれてきてくれ、と劉備が言うと、よびつけるなどとんでもない。こちらから会いに行くべきです。といわれたので、劉備みずから出向いていった。 ところが留守で会えず、三度目にしてようやく会うことができた。
そこから目上の人が信頼できる人物を敬意をつくして招くことをいう。


至弱をもって至強にあたる  『魏書』 武帝紀
200年、中原の覇者の地位をかけた官渡(かんと)の戦いで、袁紹(えんしょう)の大軍と激突した曹操が弱気になり、 留守を守る荀彧(じゅんいく)に都に引きあげたいと書き送ったところ、荀彧はこの言葉を用い、いまこそ天下分け目のときと撤退を思いとどまらせた。
実力的にも格からいっても、曹操は袁紹の敵ではない。それが大方の見方であり、実際、兵力も物資の量も袁紹のほうがはるかに優勢だったが、 袁紹のおごりからくる戦いのまずさと参謀の寝返りにより形勢は逆転。曹操が勝利をおさめた。


死せる孔明、生ける仲達(ちゅうたつ)を走らす  『蜀書』 諸葛亮伝
秀でた人物は死後も生きているものを恐れさせるということ。 孔明は諸葛亮の字(あざな)。仲達は司馬懿(しばい)の字。
五丈原(ごじょうげん)で魏の将軍、司馬懿との対戦中に病没した諸葛亮は、自分が死んだら、それを敵に知られぬよう撤退せよとあらかじめ指示していた。
諸葛亮が送った使者に逆に諸葛亮の生活ぶりを聞き、死期が近いことを悟った司馬懿は退却した蜀の軍に諸葛亮の死を察し、追撃したが、 蜀軍が旗を返し、鼓をならして反撃の姿勢を見せたので、諸葛亮がまだ生きていると思い、計略にかかることを恐れて追撃をやめた。その隙に蜀軍は渓谷に入り、そこで孔明の喪が発表された。
人々は死せる孔明、生ける仲達を走らすと噂しあい、ある者がこれを伝えると、司馬懿は苦笑して言った。
吾はすなわち生きるを料(はか)りて、死するを料らざる故なり(生きている人間なら、わしもなんとかできるが、死んだ相手ではどうしようもない)」


七歩(しちほ)の才  『世説新語(せせつしんご)』
作詩の才にすぐれていること。
魏の曹操の息子、曹植(そうしょく/そうち)は、兄の文帝曹丕(そうひ)に詩の才能があるのをねたまれ、七歩歩く間に詩をつくれなければ処罰するといわれたところ、 即座に 「七歩の詩」 をつくった。
詩の内容は、豆と豆がらは同根から生じたものなのに、豆がらは豆の下で燃え、まだ煮えないかと厳しくいりつけるのはどうしてか、というもので、 兄弟なのにどうしてそんなに苦しめるのかとうったえている。
曹植はほかにも、「道遠くして驥(き)を知る (遠い道を行くとき、驥(一日千里を走る馬)の価値が分かる、 そこから逆境に遭遇してはじめて、その人物の真価が分かるの意)」 の語源となった 「矯志の詩」 も作った。
なお兄の曹丕も文人、詩人であり、「文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり(文章こそ国を治めるうえでもっとも重大な仕事であり、 永遠に朽ち果てることのない偉業である)」 の名言を残している。


子龍(しりょう)は一身すべてこれ肝(きも)なり  『蜀書』 趙雲伝注
子龍は蜀の将軍、趙雲(ちょううん)の字。 趙雲がわずか数十騎を率いて偵察行動中、魏の曹操の本隊に出くわしてしまった。
だが趙雲はあわてず、まず突撃して牽制すると、さっと兵をひき、敵が態勢をたてなおして追撃すると、こんどは待ち伏せして反撃をし、退却していった。
こうして本営にたどりつくと、門を大きく開け放ち、旗を全部倒して太鼓もうたず、じっとなりをひそめた。
追ってきた曹操軍は伏兵がいるのではないかと不安にかられ、退却をはじめた瞬間、いきなり太鼓がとどろき、弩(いしゆみ)の一斉射撃が襲いかかった。
「空城(くうじょう)の計」 にはまった曹操軍は大混乱におちいり敗走した。 翌日、戦闘のあとをみてまわった劉備が感嘆して言った言葉。


士、別れて三日、即ち当(まさ)に刮目(かつもく)してあい待(たい)すべし  『呉書』 呂蒙伝注
呉下の阿蒙にあらず、と後輩の変貌ぶりに驚いた魯粛(ろしゅく)に対して呂蒙(りょもう)が答えた言葉。
「すぐれた人物たるもの、三日会わなければ、よくよく目をこすって相手を見なければなりません」
すぐれた人物というものは日々進歩してとどまらないので、昔の先入観で見てはいけないということ。
呂蒙は、のちに敵の心理と行動をよみとったみごとな作戦で関羽をとらえた将軍。


臣、敢えて股肱(ここう)の力を竭(つく)し、忠貞の節を効(いた)し、これに継ぐに死をもってせん  『蜀書』 諸葛亮伝
劉備が遺言として言った、「もし嗣子・・・」 に対して、諸葛亮が涙にむせびながら答えた言葉。
「私はあくまでも手足(臣下)として力を尽くし、忠誠の操を捧げ、命に代えてもお守りする所存です」
劉備亡き後の諸葛亮の生き様は、まさにこの言葉のとおりであった。


蒼天すでに死せり 黄天まさに立つべし  『三国志演義』
黄巾(こうきん)の乱のスローガン。 蒼天は漢王朝のこと。黄天は民間宗教、太平道が祖師と仰ぐ黄帝(こうてい)を象徴する。
決起した農民たちは頭に黄色の布を巻いていたので、黄巾軍と呼ばれた。


天下三分の計  『蜀書』 諸葛亮伝
諸葛亮が三顧の礼をつくして訪れた劉備の熱意に打たれ、開陳した戦略構想。
まず蜀を手に入れ、西と南の異民族を手なずけて後顧の憂いを絶ったあと、呉の孫権と同盟を結び、国内に確固たる政治体制を築いて、中原に変事が起こるのを待つ。
変事がおきたらすぐ南と西から中原を攻めれば、天下統一の実現も難しくないと述べた。
弱者が強者に従属することなく生き抜いていくためには、強者同士の対立を利用することである。 そして三者鼎立による相互牽制によって一応の安定を確保する政策。


天下の智謀の士は、見るところほぼ同じきのみ  『蜀書』 龐統伝
智謀をもって天下に聞こえる人たちは、似たようなことを考えるものだ。
呉の孫権は蜀の劉備を招き、妹をとつがせた。劉備はしばらく滞在したのち無事帰国したが、 実はこのとき呉の将軍、周瑜(しゅうゆ)がこのまま帰すなと言ったのを孫権は取り上げなかった。 (蛟龍・・・池中の物にあらず、参照)
後年、周瑜の部下だった龐統(ほうとう)からこの話を聞いた劉備は、「智謀の士というものは同じことを考えるものだ。 あのとき諸葛亮は行くなと言ったのだ。よく気づいたものだ」 と言った。


天はなぜ、周瑜(しゅうゆ)のほかに孔明を世にだしたのか  『三国志演義』
死の間際、呉の知将、周瑜が悲嘆にくれて言ったとされる言葉。
周瑜は孫策と同い年で無二の親友でもあり、豪族、橋公(きょうこう)の美人姉妹 「二喬」 を手に入れたとき、孫策は姉を、 周瑜は妹を妻とし、事実上義兄弟となった。
美貌と人望、知略にすぐれた人物で、諸葛亮の 「天下三分の計」 に対し、蜀を攻略し、漢中を手に入れ、曹操を挟み撃ちにする 「天下二分の計」 を 構想したが、 遠征の準備の途中、病にたおれた。


桃園(とうえん)の義を結ぶ  『三国志演義』
義兄弟の約束をむすぶこと。桃園の結義。
最初の話のなかで、劉備が黄巾討伐へ行く前、桃園の満開の花の下で関羽、張飛と義兄弟の契りをむすんだことから。
「われら劉備、関羽、張飛の三人、姓は異なるといえども、兄弟の契りを結んだからには、心をひとつに力をあわせて、大事をはかるべし。 同年同月同日に生まれることはかなわねども、願わくば同年同月同日に死なん」


豚児(とんじ)  『呉書』 呉主伝第二
豚の子。 自分の子供をへりくだっていう言葉。本来は人を軽蔑していやしめる言葉だった。
魏の曹操が荊州を攻めたとき、太守の劉表は病死し、子の劉琮(りゅうそう)は戦わずに降伏した。
その後、呉の孫権と戦い、大敗したことがあった。 曹操は 「子を生まば、天下を狙う孫仲謀(孫権)のような男子が欲しい。 いくじのない劉景升(劉琮)のような男子は豚の子か犬の子のようなものだ」 と言った。


泣いて馬謖(ばしょく)を斬る  『蜀書』 馬謖伝
規律を守るために、私情をはさまずに処断すること。情においては忍びないことを決行するたとえ。
馬謖(ばしょく)は 「才器、人に過ぎ、好みて軍計を論ず」といわれる俊英で、諸葛亮にその才を愛され、第一次北伐の先鋒の指揮官に起用された。
しかし、間違っても山上には陣を張るなと言った諸葛亮の指令を無視し、山上に陣をしいたため、敵に山を包囲され水源をたたれ敗戦した。
この敗戦は前線基地を失ったばかりか、のちのちにまで悪影響をおよぼした。軍律違反を犯した馬謖を諸葛亮は泣いて処刑し、全軍にわびた。


七たび縦(はな)ち、七たび檎(とら)う  『蜀書』 諸葛亮伝注
七縦七檎(しちしょうしちきん)。 諸葛亮が南方異民族をおさめるためにとった戦法。
南征するにあたって、見送りにきた参謀の馬謖(ばしょく)の、「用兵の道は心を攻むると上となし、城を攻むるを下となす。 心戦を上となし、兵戦を下となす。(戦の道は心を攻めるのが上策、城を攻めるのは下策。心の戦いこそ武器の戦いに勝ります)」との進言をうけて、 戦いで南蛮王、孟獲(もうかく)を捕えては釈放することを繰り返した。
七度目には孟獲は放しても去らず、「公は天威(天子の威光)なり」 といって、以後そむくことなく、南方はよくおさまった。


白眉(はくび)  『蜀書』 馬良伝
蜀の馬良(ばりょう)は5人兄弟だった。いずれも逸材の誉れ高く、5人とも字に“常”がついていたので、「馬氏の五常」 と呼ばれたが、 なかでも長兄の馬良がもっともすぐれていた。
馬良の眉の中には白い毛が生えていたので、「白眉」 とよばれたことから、多くのなかでもっともすぐれ、ぬきんでているものをいう。
ちなみに、「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」 の馬謖は、馬良の弟。


脾裏(ひり)に肉の生ずるを見て、慨然(がいぜん)として流涕(りゅうてい)す  『蜀書』 先主伝注
「脾肉(ひにく)の嘆(たん)」 の語源。実力を発揮するチャンスに恵まれず、むなしく時が過ぎるのを嘆くこと。脾肉とは股の内側についたぜい肉。
劉備がいまだ本拠地をもてず、劉表のもとに身をよせていたころ、ある日、劉表との話を中座して便所に行ったとき、内股に贅肉がついているのに気がついた。 それを見て劉備は思わず落涙し、席にもどったところ、劉表に涙のあとをみつけられてこう答えた。
「私はこれまで戦場を駆けまわっていたので、およそ股に肉がつくことなどなかったのですが、このところ馬に乗ることもなくなったので、すっかり肉がついてしまいました。 月日のたつのは早く、老境ももはや目前に迫ったというのに、いまだ大志をとげることもかなわぬ始末。あまりのふがいなさについつい涙を流してしまったのです」


伏龍(ふくりゅう)鳳雛(ほうすう)  『蜀書』 諸葛亮伝注
立派な才能を持っていながら、まだ機会を得ずに活躍しえないもののたとえ。今でこそ世に知られていないが、やがて大活躍する人物。
孔明臥龍(こうめいがりょう)、龐統展驥(ほうとうてんき)。
伏龍(臥龍)は池中深く潜んで天に舞い昇る機会をうかがっている龍、鳳雛はまだ羽ばたいていない鳳凰の雛のこと。 いずれ時がくればともに天下に雄飛する大器であることを意味した。
蜀の劉備が 「脾肉(ひにく)の嘆(たん)」 をかこっていたころ、有能な人材をもとめ、 多くの俊英に慕われていた水鏡(すいきょう)先生こと司馬徽(しばき)をたずねた。
司馬徽は、「時務を識(し)るは俊傑(しゅんけつ)にあり(天下のことがわかるのはよほどの傑物だけだ)。 この地の伏龍、鳳雛など、さしずめその傑物といえよう」 と言った。
それは誰かと劉備があわてて問うと、「伏龍とは諸葛亮、字を孔明。鳳雛とは龐統(ほうとう)、字は士元(しげん)のことじゃ」 と答えた。
のち劉備はふたりを迎え入れた。三国のなかでもっとも弱小だった蜀が、魏、呉とほぼ対等に戦うことができたのは、このふたりの天才軍師がいたからだとされている。


兵は神速を尊(たっと)ぶ  『魏書』 郭嘉伝
戦いでの用兵は迅速に事を行うことが大切だということ。兵貴神速。
魏の曹操が北方に逃れた袁熙、袁尚を攻めようとしたとき、難路と悪天候にはばまれたため、引き返そうかと郭嘉に相談したところ、郭嘉は、
「戦争の勝敗は一瞬で決まるものです。だから神業のような迅速さでなすべきです。
 今、千里も離れた敵を攻めるとき、軍用の荷車が多かったら動きが鈍くて利となることはむずかしい。その間に敵が進攻を聞いたら必ず備えをしてしまう。 そうすれば敵を倒す可能性は低くなります。だから荷車を置いて、身軽な兵で道を急ぎ、不意を襲うのが戦略的にもっとも大事なのです」 と答えた。


もし嗣子、輔(たす)くんば、これを輔けよ。もしそれ不才ならば、君、みずからとるべし  『蜀書』 諸葛亮伝
死期が近いことを悟った劉備が諸葛亮を呼び寄せて言った。
「そなたの才能は曹丕(そうひ)の十倍はある。きっと国家を安定に導いたうえ、最後には大事業をなしとげてくれると信じている。 もし跡継ぎ(劉禅)が補佐するに値する男なら、どうかもりたててやってほしい。だがその器量でないと思うなら、そなたがかわって帝位につくがよい」
劉備は息子、劉禅の凡庸ぶりに気づいていたと思われるが、それでも 「わが子がダメなら君がとれ」 とまでいえるトップがどれくらいいるだろうか。
別の言い方をすれば、それほど諸葛亮を信頼していたともいえる。


山は高きを厭(いと)わず 海は深きを厭わず  『短歌行』
山はどんなに高くてもその高さをいやがることなく、海はどんなに深くてもその深さをいやがらず、いくらでも高く、また深くなろうとすることから、 力のある者が人材を得て、いっそう強大になろうとすること。
魏の曹操の詩から。 「人生は短いものだから立派な人物を得たいと切実に思う。だがそれがなかなかかなわない。 今、私は天下を得たが、身を寄せるべき人を得ていない立派な人物をすすんで迎え入れよう」 と立派な人物を得たいという切実な思いを訴えている。
曹操は兵法書『孫子』の実質的な編纂者といわれ、その注釈を書いている。子の曹丕(そうひ)、曹植(そうしょく)も文才に優れ、世に 「三曹」 といわれる。


悠悠たるかな黄河よ。われ、反(かえ)らざらんか  『魏書』 袁紹伝注
魏の曹操との、「官渡(かんと)の戦い」 にさいし、参謀の沮授(そじゅ)は田豊(でんぽう)とともに袁紹(えんしょう)にいくども進言したが、 聞き入れられず、戦いの前途に希望を失っていた。
「勝負は変化します。作戦はそれに対応するものでなければなりません」 と、袁紹の作戦の危険性を諫めてもまったく受け入れられない。
沮授は黄河を渡りながら嘆いた。「ああ、上に立つ者は野心の固まり、下にいる者は功ばかりあせっている。ゆったりと流れる黄河よ、 私はもう生きてここを戻ることはできないのか」  はたして彼の予測どおり、袁紹はやぶれ、沮授は曹操軍にとらえられた。


老黄忠
老いてますます盛んな人物をさす。蜀の老将、黄忠(こうちゅう)から。
黄忠は老齢ではあるが、魏の勇将、夏侯淵(かこうえん)を討ち取った勇猛果敢な武将。弓の名手でもあった。


孤(われ)と子瑜(しゆ)とは、死生易(かわ)らざるの誓いあり、子瑜の弧に負(そむ)かざるは、弧の子瑜に負かざるがごときなり    『呉書』 諸葛瑾伝
子瑜は諸葛亮の兄、諸葛瑾(しょかつきん)の字。南郡太守として呉の孫権に仕えていた。
関羽の仇討ちのため、劉備が自ら大軍を率いて呉に侵攻したとき、呉の諸葛瑾は劉備に書簡を送って、侵攻をやめさせようとした。
それを、呉の臣下でありながら、弟が仕える劉備と連絡をとりあっている、と孫権に告げたものがいたが、孫権は、「わしと子瑜は固い約束をとりかわし、 生涯破らぬと誓いあった仲。子瑜はわしにそむきはせぬ。わしが子瑜にそむかぬようにな」 といって、まるで相手にしなかった。


孤(われ)の孔明あるは、魚の水あるがごときなり   『蜀書』 諸葛亮伝
君主と臣下の間柄が親密であることをたとえる 「水魚の交わり」 の語源。
劉備が長いこと本拠地をもてず、「脾肉の嘆」 をかこっていたのは、関羽、張飛などの勇将はいたが、参謀的な人物がいなかったせいだった。
「三顧の礼」 をつくし、むかえた諸葛亮から 「天下三分の計」 をきいて目からウロコが落ちた劉備は、以来、夜となく昼となく諸葛亮と天下の形勢を語り合った。 それを見て、おもしろくないのが挙兵以来ともに戦ってきた関羽、張飛である。不満をあからさまに口にする彼らに劉備はたしなめるように言った。
「孔明と私との関係は水と魚のようなもの。魚は水なしでは生きられないのだ。そのほうたちもわかってくれぬか」 以後ふたりは文句を言わなくなったという。


他にもたくさんの名言があります。
英気を養う、危急存亡の秋(とき)、鶏肋(けいろく)、英雄、人を忌む、なども三国時代に由来がある言葉です。

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