生誕の地        和佐のページ


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                  電車 JR和歌山線(和歌山駅始発) 千旦駅から歩5

                      西方向へ出ます。スロープを下りて、線路沿いをまっすぐ進む。

                     踏み切りで左折、交差点を過ぎると三叉路を右折。

                     道なりで、小さく曲がれば松下の姓のゆわれの、高い枯れがあ

                     ります。少しいくと広い松下道の交差点。手前左が松下家墓所

                     右が生誕の地の石碑がある和佐遊園。交差点の左向かいが松下

                     公園です。

                      目に付きやすいところに道しるべを設置しました。


            和歌山市禰宜(通称千旦)の和佐遊園には生誕の地の石碑があり

        ます。

         表は「松下幸之助君生誕の地  湯川秀樹書」と書かれ、

         背面には「昭和395月建立 大阪音無会」と書かれています。

         ※ 和歌山出身で大阪で活躍する実業家の県人会だそうです。



            「私の行き方考え方」松下幸之助著より引用

         生いたちの記

         私は和歌山市から関西線に沿うて東へ約2里ほど行ったところ

        にある一寒村、和歌山県海草郡和佐村字千旦の木で、明治27年

        11月27日に生まれたのである。

         家は別に由緒正しいというほどでもない、まあ無名の農家に過

        ぎないが、それでもかなり旧い家である。というのは、仏壇の引

        き出しにある過去帳に、享保年代より引き続いて40有余の戒名

        が記載されてあるのがこれを物語っている。

         私の生まれた当時、家族は両親と兄弟姉妹ともで8人で、家庭

        は千旦の木では、まあ上位に属する小地主の階級にあった。した

        がって当時、和歌山県下にただ一つしかなかった中学校に長兄が

        通学していたもので、親父(おやじ)は百姓仕事よりも村会に出たり

        役所の仕事に携わったりしていた。

         末子で三男に生まれた自分は、いわば兄弟中でいちばんかわい

        がられ、いわゆる掌中の珠(たま)というような立場で育てられた

        ものである。よく子守に負われて小川で小魚を漁(すなど)ったり、

        子守らと鬼ごっこしたり、日暮れに子守唄を聞きつつ村の畦道を

        うとうとしながら帰ったりしたことを、今でもなおかすかに覚え

        ている。いわば平凡な幸福な生いたちを続けていたものである。

         ところが、好事魔多しとのたとえにもれず、私の家に一大大嵐

        が吹き荒んで、瞬(またた)くまに家も家財も吹き飛ばして跡形も

        なき悲惨な状態となった。

         それは日清戦争も終わりを告げ、戦争を契機としてようやく淪淪

        日本も世界的となり、経済組織も進歩し、各方面に企業熱の高ま

        ってきた時である。産業興隆の波は和歌山方面にも浸潤してきて、

        時代の産物である米穀取引所が和歌山市にも設置されて、盛んに

        米相場を立てるようになった。元来、親父は百姓ではあるが小地

        主の階級にあり、野良仕事もあまりしないのと、多少進取の気性

        があり、新しいものしたさの心があったことから、取引所に出入

        りして盛んに米相場に手を出したのである。親父のことをいうて

        は親父にすまぬが、かくのごとき非建設的なことがうまくゆこう

        はずがない。結果はわずかなあいだに先祖伝来の土地も家も人手

        に渡さねばならぬ悲境に沈淪(ちんりん)した。そこで私の一家は

        住み慣れた千旦の木をあとに和歌山市へ移り住んだ。それでも

        屋財家財を売り払ったわずかな資を元手に、父の知人のさる下駄

        屋の肝いりで、本町一丁目(和歌山の銀座)で下駄商を始め、兄は

        中学校を四年で退学して小僧代わりに父を助けるという急転直下

        の変わりぶりであった。

         私はこの時まだ四歳で、そういうような一家の移り変わりには

        ほとんど無関心で、日々母の膝下(しっか)で遊んでいた。

        ・・・・・・

             ここからは無学求道が書きました。

         その後父は下駄屋に失敗して、湊に移り住むことになる。

         のち父は大阪で働くようになり、幸之助小学校四年のとき大阪

        に呼び寄せた。幸之助は小学校を中途退学して丁稚奉公に入る。


         よき人との出会いや強運で「道を開いて」経営の神様といわれ

        るほどの立身出世をした。


         郷土和歌山に多くの寄付をされたことでも知られている。


         より詳しくは

         <参考になるサイト>

◑「松下幸之助氏の和歌山時代」PHP総合研究所・佐藤悌二郎http://research.php.co.jp/kenkyu/report/pdf/journal/008.pdf#search=%22%E5%8D%83%E6%97%A6%E3%81%AE%E6%9D%BE%22

◑「和佐」http://wasa2004.web.infoseek.co.jp/index.html

 「地図」http://wasa2004.web.infoseek.co.jp/tizu1.html


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