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作風の変化について

 『ジョジョの奇妙な冒険』を代表とする荒木飛呂彦氏の作品は長い連載期間を経て、しだいにその作風を変化させてきている。ここでは荒木作品の変貌の様子を追ってゆく。


作品の中でも目立って変化したことは登場人物たちの職業である。「ジョジョの奇妙な冒険」1〜4部まではみながみな社会的成功者である。第1部の主人公、ジョナサン・ジョースターは考古学者、その父ジョージ・ジョースター一世は首領貴族、スピードワゴンは石油業で身を立て大成功、ジョセフはニューヨークの不動産王、スモーキーは差別の強い時代ながら黒人の身で市長、承太郎は海洋生物学者である。職業が学生という人物も多いが基本的には主要人物は皆、社会的に高い地位につき金銭に困窮することもなく裕福に暮らしている。これに対し5〜6部の登場人物の生活は辛辣だ。ほぼ全員が法を何らかの形で犯しているし1〜4部とは対照的に他人に褒められるような職業についている者がいない。ジョルノもブチャラティも徐倫もエルメスも理由が何にせよその経歴は犯罪者のそれだ。一般の堅気の人間とは一線を引いた位置にいることを本人たちも理解している。この描き方の差は歴然だ。十年以上にも及ぶ連載の中で荒木氏の人間に対する評価基準が変化してきたことは言うまでもないだろう。荒木氏はコミック1巻で人間賛歌はかけるのかと記述している。ひとの価値は何によって決まるのか、それは個人こじんの問題だ。名誉ある地位や金銭所得を筆頭に挙げるひともいるだろうし理想の恋人の獲得や健康的な家庭、生きがいを感じられる仕事を挙げるひともいるだろう。そこに正解はない。ひとそれぞれによって優先度やその度合いが変化してくるのは当然だ。荒木氏の価値観も長い連載期間を経てかなりの変化をとげているようである。
63巻のコミックにも「そこなんですよ。人間讃歌を描いていて悩む点は。」と思いを寄せるくらいであるから人間の生きる姿を肯定しようという立場で作品を描き続けていることは確かだろう。だとすると作者のなかでひとの賞賛すべき行為の評価基準が変化してきていることが推測される。以前の初期作品を発表していた頃は社会的地位の高さや生活の裕福さ、世間一般のひとから立派と評される職業が氏のなかで高い評価基準だったようだ。これは作品を提示する社会の背景と無関係ではない。「ジョジョの奇妙な冒険」の連載が始まった80年代はバブルの絶頂にあり日本的なシステムの機能、その効果が最もよく働いていた時代である。つまり学歴、就職した会社のランクが収入に直結し、その人間そのものの社会的存在価値につながる時代である。こうしたシステムはバブル崩壊とともに収束に向かうのだが、当時のこうした価値観は必然と創作の世界にも影響をあたえる。アメリカ的な勧善懲悪が持てはやされた時代でもある。アメリカ文化はエネルギーに満ち溢れ明確な目的にどこまでも突進してゆく。そして何よりシンプルで分かり易いことが特徴だ。アメリカンドリームやスポ根といった言葉に代表されるごとく絶対の努力は必然の成功に繋がるという考えが大きく語られる。アメリカは途方も無い暗部を抱えているのでその反動で過剰に健康的でクリーンな正義や社会を語ったりするのだが日本もその価値観をかなりの部分に受け入れてきた。その影響を受けたひとは少なくないだろう。おそらくは荒木飛呂彦氏もそのひとりだったのではないか。「ジョジョの奇妙な冒険」にもアメリカ的な勧善懲悪は容易に見て取れる。

ところが近くの荒木氏の作品を読む限り今日の荒木氏にこれらの価値観を優先させる様子はみられない。新たに始まった連載『スティール・ボール・ラン』でも主要人物の一人と見受けられるジョニー・ジョースターはジョッキーとしての未来を期待されながら事故で選手生活の断念を余儀なくされた人物である。ジョニー・ジョースターは周りにちやほやされた過去と決別し再び馬に乗ろうと苦戦奮闘する。以前の荒木氏ならばこのような描き方はおそらくなかったであろう。勧善懲悪の物語が今日の日本の社会にはそろそろ受けなくなってきていると感じているのではないだろうか。以前のような日本システムはもはや崩壊している。「いい大学に入っていい会社に入れば安心という時代は終わった」という言葉はメディアのいたるところから発せられ、耳に蛸だが、裏を返せばそれだけ「いい大学に入っていい会社に入れば安心」が一般的だったということだろう。今や安心して寄りかかれる価値観などどこにも存在しない。そういった意味でアメリカ式の努力=成功の図式を捨てた荒木作品は現在の日本社会にフィットした作品だ。

近作で社会のいわゆる日陰者を取り扱っていることから荒木氏の人物評価の基準が地位や金銭といったものから、目に見えないものに移行していることが窺える。ジョニー・ジョースターが『スティール・ボール・ラン』の中で何を見せてくれるのかは、まだ予想がつかない。だがそれはリアルな人間を描くにあたって避けては通れない部分を描くことは確かだろう。
冷静に読み返してみると以前の荒木作品には読んでいて憧れに近い感情を抱くけれども、とうてい現実にはありえないことだという観念が横たわっていた。ジョナサンやジョセフ、承太郎とDIOとの因縁を何とも格好いいものだと思いながらも、しかし実際にはこんなドラマチックな事件は起こらないだろうとも思っていた。憧憬の画として長い間読んできたが、なかなか共感するには難しい部分が残る作品である。主人公達はどこまでも格好いいが、ここまで劇的な事件はなおのこと起こりにくいし、それゆえ現実感は薄い。それに対し最近の作品「ジョジョの奇妙な冒険」5〜6部、「スティール・ボール・ラン」の描き方はどこまでも現実的だ。以前の作に較べひとの苦悩の描写に忠実だ。強く、人間的欠陥のない以前のヒーローたちとは違い、弱さもろさを持つ人間の姿が丁寧に描かれている感じを受ける。おそらくこれらの物語の主人公達の葛藤や悩みに自らを重ね合わせて作品を読むひとは増えてきていることだろう。初期作品は読むひとを魅了しその先に立ってエネルギーを与えて作品連載を継続させてきたが、これからは読者と共感しともに歩を運ぶ形へと発展してゆくことだろう。楽しみだ。



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