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花京院はなぜ死んだのか

周知の通り花京院はDIOとの戦闘の最中に死亡する。花京院はジョースターの血筋の者ではないし登場人物が各部で変わる作風を考えれば花京院は無事に旅を終えてもそこで登場は終わりのはずである。第三部もクライマックスに達していたし彼の死のストーリー展開に与える影響は大きくない。よって花京院の死は展開的というよりも自己完結的な意味を持つといえる。物語を大きく動かすために彼の死が必要だったというよりも花京院の人生の決着としてあの場面で死が訪れたと解釈できる。なぜ花京院は死んだのか、無事に旅を終えることができなかったのか考察してみたい。  


気になったのは死亡する直前の彼の挙動である。DIOの周りに結界を張りエメラルドスプラッシュで攻撃する場面であるが花京院にしては珍しく感情を顕にしている。これはただ強敵を前に闘志を奮い起たせているという訳ではなさそうだ。以前にも何人ものスタンド使いと戦ってきたが激昂する場面などは見られなかった。ここでの花京院は他の場面の彼と一線を画する。思考的に内向といえるし、この場面に限っていえば長い間抑圧していたものがふき出してきたとも表現できる。性格分析でも述べたが花京院の孤独感は彼特有のものであるし、それゆえ彼にとって特別な感情だ。長年抱いてきた孤独感に納得できる解釈を与えるために花京院は日常を費やし生きてきたといってもいい過ぎではないだろう。おそらく劣等感に近いものを抱いていたと考えられるしだからこそDIOにその点をつけ入れられた自分が許せなかったと思われる。花京院はこの点について考える時間が長かったはずだ。また花京院は考えることに労力を惜しまない。どこまでも考えることを押し進めていくようなところがある。これは承太郎にも認められることだしDIOにも容易に認められる。比較的、陽気でいい加減な印象を与えるジョセフやポルナレフにも見られることである。作品全体を覆っている重低音そのものとも取れるし緊迫した場面が連続する作品としては自然なことかもしれない。花京院や承太郎、DIOに共通している性格・性質は問題を問題のまま放っておくことができない点だろう。「まあいいや、そんなこと」とか「今日はもう寝て明日考えよう」といった思考ができない。完璧な解答を得られるまでは安心することができないのだ。こういった傾向は環境とその程度によっては決して悪いものではない。専門的な仕事を持つ人間にも比較的多く見られる傾向である。そしてこういった傾向にも長所と短所が存在する。長所は知能が高く、状況分析・判断に優れているということだ。興味を抱く事柄について集中して打ち込むことができるので洞察に長ける、などの特徴がある。短所は大雑把な言い方をすれば常に緊張を強いられてしまうことだろう。興味の対象についてどこまでも考え抜いてしまいそうすると自然、リラックスできなくなってしまう。はっきりした答えを得ようと考えるあまり場合によっては神経症(ノイローゼ)に発展してしまうかもしれない。また本人が常に緊張しているので周りにいる者も緊張を強いられる。その結果としては上手にコミュニケーションがとれずに人間関係でギクシャクすることも考えられる。承太郎ほどではないが花京院も女性に少なからずもてるようである。しかし彼と親しくなるのは難しそうだ。とっつきにくい、といった印象を与えるのではないだろうか。これは承太郎についても同じだ。JoJoに出てくる女性はみな積極的で承太郎にも果敢に寄り添おうとするが実際にはそこまで積極的になれるひとは多くはないだろう。花京院が身を保てなかったのはこの緊張気質、強迫的性格によるものであろうと考えられる。ここまで緊張感とともに人生を過ごしてきた者にとってストレスはごく身近なものだ。ストレスに嗜好している状態ともいえる。花京院はより強いストレスを求めて旅に同行し、DIOとの闘いに臨んだのではないだろうか。身体的、精神的、性的虐待を受けた子どもや親に放置され情緒において他者と関係性を結べなかった子どもが大人になって自らを何らかの方法で自己処罰することが知られている(親に放置されるとは親の育児放棄を意味する。第五部に登場するジョルノ・ジョバーナやナランチャ・ギルガの体験がそれにあたる)。虐待、放置された子どもには非常の苦痛が伴われる。その際には脳の中で多量の神経伝達物質が分泌され、レセプターはその受容量を増加させる。その経験は当人にとって辛いものなので身体的な防衛手段をとる。つまり、通常よりも多い神経伝達物質の交換を「なんでもないこと、当然のこと」としてとらえる様になる。その結果は明瞭だ。その子どもがまた虐待、放置されることになっても心的動揺はさほど大きくはならないだろう。慣れたこととして対応できるかもしれない。同時に起こる障害としては感情の変化に乏しいといった点が挙げられる。また神経伝達物質の消費速度が上昇し、それを常態としているためストレスを嗜好する可能性がある。強い刺激に対し多くの伝達物質が流れるのが常であるから小さい刺激、少量の伝達物質では常態を保てなくなる。より多量の神経伝達物質を求めて行動するようになるだろう。幼児期に身体的虐待を受けたひとが成人してからもリストカットを繰り返したり放置された経験を持つひとが暴力をふるう配偶者、恋人となかなか離れることができないのもこのためである。花京院は彼の回想から察するかぎり親の虐待や放置はなさそうだ。しかし“父とも母とも自分は違う。自分には真に気持ちが通い合うひとは一生誰ひとりとしてあらわれないだろう”といった思考から推測すると上記したものと似た状態にいることが窺える。ストレスの嗜好者は自分をより辛い方向、より辛い方向に身を置いてそこでやっと安心する。周りのものが「もっとほかにも楽な道があるだろうに」と思ってもやはり当人にとってはそうするより他にない。花京院にしてもなるべくして自らその道を選んだ感が強い。残念ながら最後に死亡してしまうキャラクターだが自分の行ったこと、選択した道には納得していることだろう。


 ジョジョの奇妙な冒険−この作品では実に多くの登場人物が死亡する。愛着のあるキャラクターにはできれば生きていて欲しいと願うけれども、やはり多くの人物が死んでゆく。では多くの登場人物が死ぬ物語をかいている作者がこれらの人物たちを愛していないのかというとそうではない。それぞれの死を丁寧に、生い立ちから考慮に入れて描かれている点からは作者の登場人物に対する愛情が窺える(わたしが花京院のほかにこの人物の死は丁寧に描かれていると感じたのは第二部シーザー・ツェペリと第五部アバッキオだろうか。インパクトの強さなら第四部重ちー)。皆、各々が強烈な輝きを放っている。第四部で岸辺露伴が「ぼくはそういう『まるで劇画』っていうような根性を持ってるヤツにグッとくるんだ」と言っている。おそらくはこれは作者自身の本音、作者自身のセンスだろう。「『まるで劇画』っていうような根性」が死ぬ間際に鮮烈に輝くことがある。その特有の輝きを今後の荒木作品に期待してこの文章をしめたい。



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