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■私の読書記
ここでは管理人が日頃読んだ漫画や本、観た映画を通じて
感じたこと、思ったことを書き記してゆきます。


#1

名前について

 名前とは不思議なものである。わたしが名前の不思議を初めて強く意識し出したのは01年に公開された映画『千と千尋の神隠し』を観たときである。物語に登場する、八百万の神々のための湯屋を切り盛りする性悪で強欲な魔女・湯婆婆はそこで働く従業員たちの名前を奪って支配する。名前を奪われたものは自分が何者なのか何処から来たのか、など自己存在証明を失ってしまう。物語の主人公千尋は名を奪われ せん という呼称を与えられて生活を送る。その時は普段何気なく使っている名前というものが無いとこんなにも怖いことになるのか、とだけ思った。次に再びわたしに名前というものの意味を考えさせてくれるきっかけとなったのが漫画『高校鉄拳伝タフ』である。この物語のなかに名前のない人物が登場する。名前がないとは本名が知られていないとか付き合う友人からあだ名のような呼び名をもらっていないという意味ではない。純粋に名前を持たない人物なのだ。彼は人間兵器として研究されクローン技術によって生まれた人間である。クローンの技術による遺伝子の選択によって限りなく身体能力の高い兵士を生産させる国家計画によって存在を認められた、いわば人間戦闘マシーンである。彼には人格など認められない。政府は計画のためより強い戦闘兵を生産するため(極秘裏に)非人道的な薬物投与や運動実験を繰り返す。開発者に良心の呵責などない。「(彼は)人間であって人間でない。プロジェクトによって生産された戦略兵器だからいつでも廃棄処分にできるんです」と言ってのける。周りの人間の彼に対する取り扱いも人間を相手にしたものとはいい難い。「名前がないということは存在しないということ」とまで言う。名前のない人間にはもはや人格などは認められてないのだ。ここでいう「存在しないということ」とはつまり世間一般において彼の生活活動が他人の目に認められないということである。例え名前がなくとも存在するものはこの世に思いのほかたくさんある。専門の学者の目にとまっていない生物や天体はまだ名前を持たないし、厳密には道端に落ちている小石にも名前はない。新しく描き上がった絵画に名前をつけなければいつまでもそれはただの絵である。名前がなくとも確かにそれらは存在する。わたしたちの住む世界にその存在を知らせるために名前というものがあるのだ。だから世間に知られてはならなかった人間戦闘機械や、この世界でそれほどの利用価値も認められていない小石などは名前を与えてもらえない(わたしの好きな漱石の猫もその一例。すこしだけ気の毒)。逆にいえば名前をもっているものは少なくともその名をやり取りする社会において存在を認められているということだろうか。基本的に名前とは他者から与えられて名前としての役割をなす。「わたしのこと、〜と呼んでね」という場合もあるが実際にそう呼ばれるかはやはり相手次第であり名乗るとはいっても与えられる感覚は拭えない。これはなぜか。それは名前が他人に使われて(呼ばれて)初めて用をなすものだからである。誰にも呼ばれない名前などこの世に存在しない。名前がないということは存在しないこと、とはこの世界において真実だ。この世界で名前の一番の役目は名の持ち主ことを世間に知らせることといっていいだろう。
 名前のまた異なる性質をわたしに教えてくれたのが夢枕獏の『陰陽師』である。かなり有名な作品なので知っている方も多いだろう。このなかで幾度となく名前に係わるエピソードが語られる。物語の主人公・ 安倍晴明 あべのせいめい とその友人・ 源博雅 みなもとのひろまさ との間でこのような会話がなされる。晴明「博雅よ、この世で一番簡単な しゅ は名前よ。男が女を思うときその気持ちに恋という名を付ければ恋という呪になる。そしておまえから博雅という名を無くせばこの世から源博雅という人間はなくなるのだよ」 博雅「おれがいなくなるのか?」 晴明「いやおまえはいるさ。博雅という人間がいなくなるのさ」。わたしの記憶で書いているので原文はこの限りではないが内容を短くするとこんな会話が交わされていた。呪とは呪術でありまじないの一種なのであるが陰陽道では名前をその本質に結び付けて考えているようである。また別の場面では正直者の博雅が鬼に本名を名乗った挙げ句にいざという時になって鬼に「動くな博雅」の一言で体の自由を封じられてしまっている。晴明は偽名を使ったうえ鬼の問い掛けや同意の求めにも一切応じなかったために鬼の思うようにはならなかった。「おまえは本名をホイホイ言うからそうやって簡単に呪にかかるのだよ」と博雅に忠告している。ここでは名前は存在を証明するものではなく自身の存在そのものとして取り扱われている。名前に魂が宿るかのような重みである。名前を他人に預けることはすなわち自分の命を預けることとして捉えられている。これは様々な術をつかう陰陽道の話だから殊更名前の重要性を強調して語られているのだがこれは現実世界でも同じことである。人付き合いのなかでは誰も色々な悩みを持つだろうが初対面のひとに対する最初のとまどいは呼び名ではないだろうか。呼称ひとつで人間関係がスムーズになる場合もあるし逆にぎくしゃくしてしまうこともある。日本社会では親しい間柄でないかぎり相手の本名、特に苗字でない方の名を呼ぶことはない。これは本名をそのまま言うことは失礼なことという意識がどこかにあるせいだ。名前はどこかその人そのものの根元に関係しているようなところがある。名前を呼ぶことにはその人そのものを支配してしまうような魔力が宿っているのだ。このことはもはや多くのひとが気がついていることだろう。日本社会では目上のものには決して○○さんとは呼ばずに役職で呼ぶのが一般だ。それは部長や課長、店長だったり先生だったりする。名前を呼ぶことによって相手の人格を支配する様な雰囲気を感じているからだ。上司や皇室の人間でもファーストネームで気軽に呼び合う欧州とはやはり文化が違う。


 名前の少し変わったものに芸名やペンネーム、投稿の際の匿名希望やラジオネーム、生物の学名、戒名、あだ名、WEB上のハンドルネームなどがある。実に様々なところに名前はある。そしてその使い方たるや実に多用だ。おそらく生涯をひとつの名だけで生きるひとはいないだろう。ひとは友人たちからニックネームをつけられ仕事のなかでは役職で呼ばれ、ときに表現の場では別の名を名乗り、死んで墓に入ればそれまでの名を俗名として新たな名前をつけられる。これは別に不思議なことではない。ときと場合によって名前は変化するのだ。ここにまた名の効用を紐解く鍵が示されているのだが特に名はその実態が分かるように注意して付けなければならない。的外れな名はその存在を他に知らせるどころか相手を白けさせかねないからだ。そういった意味でわたしはいつもこのサイトやページの名前はうまく内容を表せているだろうかと思う。ぴたっとくる名前をつけるにはたぐい稀なセンスと才能が必要だとわたしは強く感じている。そういう意味で「写ルンです」を考えたひとはすごい才能の持ち主だと思う。



このなかで紹介した作品一覧:
『千と千尋の神隠し』 スタジオジブリ制作 映画
『高校鉄拳伝タフ』 猿渡哲也 漫画
『陰陽師』 夢枕獏 小説

この他に名前に関係する興味を引かれた作品
『名前がいっぱい』 清水義範  小説
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