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2004年のコラム

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 「言葉の森は深くて大きい」
 
「子供好き人間好き」
 
「言葉狩り」
 
「あやし上手の遊び下手」
 
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2004/12/23 「言葉の森は深くて大きい」

ネットは本当に便利なもので、子供からお年寄りまで様々な人の文章を読むことができます。日記にしても掲示板にしても、そこには普段のおしゃべり以上に、世代による表現の違いがハッキリと表れています。中でも子供たち、といっても未成年という意味においてですが、彼らの掲示板でのやり取りを見ているとある特徴に気が付きます。
それは、若い人ほど往々にして、相手の文章の一部からのみ意味を汲み取り、言葉を返す傾向があるということ。つまり『木を見て森を見ず』とでも言いましょうか、相手の発言全体から相手の気持ちを汲み取り、それに対し自分の気持ちを発するのではなく、相手が発した言葉を部分的に捉え、その言葉に対応して言葉を発している、ということです。

今年の5月、高校を卒業したばかりの甥と、ゴールデンウィークの予定について電話で長く話したことがありました。そのとき甥が私に「なんか言ってること違ってない?」と何度も言っていたのが印象に残りました。
私は終始一貫して同じことを伝えていたつもりですが、このとき甥は私の発言全体を通してではなく、一部の言葉を拾い上げる形で会話をしていました。具体的には、こちらが話している途中に単発的に質問をしてきて、それに対する私の返事だけで解釈しようとする一文対話です。そのため私の意図が正確に伝わらず、結果的に甥は私がウソをついたという印象を持ったようです。

ウソというのはおそらく受け手が決めることではなく、送り手の意識の問題でしょう。サンタがいると信じている者が「いる」と発言した場合は、これは事実ではないけれどもウソでもないわけです。私がもし「やる気があれば何でもできる!」と言ったら「じゃあ今すぐ宇宙にも行けるのか?」などと言う人も出てくるかもしれません。たしかに「何でも」というのは誇張です。しかしこれはウソをついたことになるのでしょうか?
表現の違いといえばそれまでですが、私の甥も例にもれず、若者ほど言葉を額面通りに解釈しようとする傾向があるようです。相手がどのような気持ちで何を言わんとするかよりも、どのような言葉を言ったか(書いたか)に反応しているように思われるのです。だから一文対話になりやすいのでしょうね。

現代の子供たちはたくさんの言葉は知っていても、気持ちを言葉で表現することは苦手です。それ故に、文章から相手の気持ちを読むこともまた苦手です。このような傾向にはいくつかの原因が考えられますが、私はネットと携帯電話の普及が関係しているように思えてなりません。この2つによって言葉のコミュニケーションの場が増えた反面、質の低い会話も多くなされるようになりました。話をするという行為そのものを楽しむためにネットや携帯を使ってきた結果、若者たちに「意味のない無駄話」が増えたわけです。長文はうざいと煙たがられ、チャットや掲示板でも短い言葉をポンポンとやり取りする人が増えてきました。
もちろんそのような会話も、生活を潤す意味で決して無駄とは言えませんが、このほうが心地良いと感じているのなら、普段の会話になんらかの影響があっても不思議ではありません。
子供たちが携帯を片手に素早くメールを打ち込んでいる姿をよく見かけますが、専門家の話だとそのようなときには脳波(β波)の低下がみられるそうです。条件反射のように言葉に対し言葉を返すその行為は、たしかに相手の気持ちを汲み取る暇など与えません。文章の読解力、表現力などはかえって邪魔になりそうです。

私は会話とは、気持ちの探り合いだと思っています。相手の言わんとしていることを理解した上で、自分の気持ちを言葉にすることが会話だと思っています。難しい単語など必要ありません。簡単な言葉でも、その組み合わせで無数の意味を作れます。文章も、前後の文章によって真ん中の文章の意味が変わってくる、なんてこともよくあることです。
子供たちにはぜひ『木を見てなおかつ森を見渡す』そんな会話をしてほしいですね。くれぐれも、言葉の森で迷子にならないように。




2004/10/9 「子供好き人間好き」

最近つくづく、本当の子供好きが少なくなったなと感じています。だいぶ以前から言っている、検索サイトに子供好き関係のカテゴリがひとつも無い件もそうですが、子供を粗末に扱う(あるいは思う)人が多かったり、子供に関わる事柄に興味を示さなかったりと、大人の子供離れが加速しているような印象があります。

大人は子供を天使に例えることがありますが、私だって実際の子供が宗教上のファンタジックな設定に見合う存在だなんて、これっぽっちも思ってはいません。実際の子供は無垢ではなく、清くもなく、汚れて、臭って、うるさくて、やっかいで、それこそ極めて人間的な存在なのです。
しかしだからこそ、私は子供が好きでたまりません。その極めて人間くさい生き物に、何物にも代えがたい尊さを感じています。大切なのはいかに好きになるかでも、いかに可愛がるかでもなく、いかに大切に思うかです。
架空のデフォルメを施したアニメキャラを、万人の男たちが「萌え」と称して好きになることと、他人に対して攻撃的な子供(若者)が増えていることの共通点は何でしょう・・・。
それは、人間への興味の衰退です。簡単に言えば、現実の人間が好きな人が減っているということ。人間が好きということは、老若男女、誰に対しても相手の身になって考えることができるということ。そして相手を敬うということ。その流れの中に子供好きも含まれているのです。

近年、子供を狙った犯罪が増えています。ワイセツ目的の連れ去り事件が頻繁に起きていた時期もありました。こういうヘンタイ犯罪者が増えている現状も、ひとつ取り違えれば「子供好きが増えている」と思われがちです。
私は他に言葉が見つからないので便宜上、子供を大切にする人のことを「子供好き」と言っていますが、これは「子供を好んでいる」という意味とはまったく違います。
子供を好む者は「子供好き」というよりも「子供の○○が好き」あるいは「子供との○○が好き」であり、子供の尊厳などお構いなしです。好きならばその子がお婆さんになっても面倒みていくか?との問いには「冗談じゃない!」でしょうし、まず始めに自分ありきなのがミエミエ。
以前「魚が好きな人にも、水族館で世話をするのが好きな人と、食べるのが好きな人がいる」という話をしましたが、病気になった魚を前に、魚を心配するのが前者で、自分を心配するのが後者です。子供を好んでいるだけの人は、もちろん後者ですね。

人間には男と女がいます。そして子供と大人がいます。みな一様に美しく、尊く、大切なものです(単に顔やスタイルがどうということではなく、芸術的に医学的に、生あるものとして)。 自分の手を見つめてみましょう。その形と動きに素晴らしさを感じませんか?老若男女すべての人間に美しさ素晴らしさを感じない人は、とても子供好きにはなれませんし、その資格もありません。
なぜ私は自分の部屋に、人の裸が描かれた西洋絵画(をプリントしたもの)を飾っているのか?(たとえば
コレコレなど)・・・ウィリアム・ブーグローの絵画が好きだというのもありますが、一番の理由はときどき甥や姪たちが訪れるからです。

巷に溢れる大人向けの性娯楽。ちょっとエッチなテレビ番組。しかし多くの子供たちは戸惑っています。「ハダカはイヤラシイもの、見ていたら親が怒るもの。でもなぜ公園や駅前にはハダカの銅像が置いてあるんだろう?」・・・いやホント、不思議ですね。
プールや海では、子供から大人まで水着姿で溢れています。中にはかなり露出度の高い水着を着ている人もいるかもしれません。銭湯では小学校低学年くらいまでなら異性の側に入っても構わないし、混浴の温泉もべつに子供禁制というわけではありません。浅草のサンバカーニバルだって、子供たちの目の前でほとんど裸に近いダンサーが踊っています。つまり子供であれ、水着姿や裸の人を見てもよい状況はいくらでもあるわけです。
ところが、もし男の子が家で水着の女性の写真を見ていたら、きっと親は「マセた子ね!」と思うでしょうし、もしヌード写真を見ていたら「あんた何見てんの!」と怒るでしょう。生で見るときは咎められず、写真を見ると咎められる。これこそ矛盾しているとは思いませんか?

子供に有害であるかどうかはそれが悪であるかどうか、もっと細かく言うと、人を困らせる行為を表現しているかどうかで判断するべきです。それなのに裸そのものが罪であるかのような対応を大人がするから、子供たちは人の姿を心から好きになることができないのです。何でもそうですが、好きになるということは、その姿に感銘を受けることから始まるのですから。(性的に興奮するということではありません)
私が部屋に子供(天使)と大人の裸が描かれた絵画を飾っているのは、甥や姪に、子供のうちに人間の姿に感銘を覚えてほしいからです。私が何を隠し、何を堂々と飾るかで、芸術作品と大人向けの性情報との違いを理解してほしいとの思いもあります。

先月金沢で、17歳の少年がお金欲しさに見ず知らずの家に押し入り、そこの老夫婦をサバイバルナイフで殺害したという事件がありました。数十か所にもおよぶ刺し傷。犯行の残忍さ。自分の親が殺されたらどう思うかと尋ねた取調官に「それは運命だろう」と答えた身勝手さ・・・。
ある教育関係者はこれを受け「小学校から命の尊厳について徹底して教える必要がある」と力説していました。たしかにその通りですが、さて、ただ言葉で教えただけで解ってもらえるんでしょうか?「命は大切ですよ」と教えても子供たちは言葉どおりの解釈しかできません。どうすれば実感できるのか?まさか瀕死の状態を体験させるなんてことはできませんよね。しかもそれでは自分の命の大切さしか実感しないかもしれませんし。
私が思う結論はこうです。命そのものを好きになってもらうんです。でも命は目に見えない、だから実感が湧かない。だったら見える部分(身体)で表現し、子供の心に訴えかける教育をすれば良い。つまり、人の姿に感銘し、大切に思うこと、これすなわち、命の尊厳を理解することなり。

極端とも思われそうな例を出しましょう。道徳教育のひとつとしてストリップなどはどうでしょう?おっと勘違いしないでくださいね。性風俗のストリップのような猥褻感のあるものではなく、どちらかというとバレエや前衛舞踏に近いような芸術性のあるものです。脚を不自然に開くなどの性的な表現は一切ありません。単純に、人間の姿と動きの美しさを表現するショーです。もちろん女性だけでなく男性も行ない、年齢層にも幅を持たせたほうが良いかもしれません。
「子供にハダカを見せるだと?とんでもない!」と、味噌も糞も一緒にするような意見がまかり通っているうちは、人間の本当の大切さなど、子供に理解させることはできないでしょうね。

相手を好むだけのうわべだけの愛はいりません。人間という物体そのものに価値を見出し、その存在を大切に思う子供たちを増やすことが、この殺伐とした世の中を変える、最良の方法なのです。




2004/8/29 「言葉狩り」

ここの「アミューズ」のコーナーは単なるお遊びページとして設置したのですが、結果的にある意味、若者たち(たぶん中高生)のおふざけの傾向が垣間見れるかたちとなりました。というのも、好きな○○投票のページにはコメントに「おっぱい」という言葉がならび、人工無能チャットやウェブドラマのページでは、いわゆるエッチな会話が展開されています。書き込んでいる本人が「ここ荒れてるな」などと書いていましたが、私はこれを荒れているとは思っていません。だから削除もしていないのです。決して管理を怠っているわけではありません。
きっとほとんどの子供向けサイトでは「オッパイ」や「SEX」などと書かれただけで(あるいはその方向へ話が進んだだけで)即刻削除してしまうことでしょう。しかし私は、書かれた言葉により削除か否かを決定する場合、管理人は極力柔軟に対応すべきだと思っています。子供だってHな話ぐらいはするし、どこかで憶えた性用語を使って大人ぶり、相手の反応を見ることだってあります。それらも大人が知るべきデータではないかと思うからです。もちろん書き込んでいるのが成人の可能性もありますが、内容が稚拙であれば子供の文章(子供心の表れ)として捉えても良いのではないでしょうか、少なくともここでは。

多くの子供向け掲示板である種の言葉を禁止したり、キッズgooなどの子供向け検索サイトで言葉によるフィルタリングをしているのも、今のところ適切かどうかの選り分けをキーワードに頼らざるを得ないからです。しかし言葉自体をシャットアウトするやり方は、下手をすれば言葉狩りにもなりかねません。いや、これはすでに言葉狩りと言ってもよいでしょう。差別用語などはその最たるものです。
たとえば耳が悪い人に「えっ、ツンボなんですか?じゃあ大きな声で話しますね」と言うのと、「えっ、耳が悪い?じゃあ何言ってもムダだな!」と言うのとでは、どちらがその人の心を傷付けやすいかは明白ですね。(キッズgooでは前者のほうをフィルタリングするのでしょうが)
もともと差別的背景によって生まれた言葉でも、それを知るということには大きな価値があります。それらの言葉を使ったとしても、他人を気遣う建設的な話はいくらでもできます。差別用語が人を傷つける場合は、用語そのものよりも会話によるところが大きいのですから。もし用語自体に嫌悪感を感じる人がいたのなら、その人の前で使わなければよいだけの話。そんな気遣いができるのも、その言葉の意味を知っているからこそです。だから子供たちには、初めから言葉の検閲なんてしてはいけません。言葉自体に大人用、子供用なんてないんですから。

人の善し悪しを容姿ではなく行いで判断すべきなのと同じように、言葉もその使われ方(使った者の意図の表れ)で判断すべき。よってこのサイトも、他人に不都合や不快感を与えようとしているもの、差別的思想や犯罪を推奨するような意図が感じられるものは十分に削除の対象とします。その判断は管理人の主観によりますが、ま、個人サイトですからそのへんは穏便に。(^^ゞ

・・・後日追記・・・
現在「アミューズ」のコーナーでは、上記に挙げた「好きな○○投票」や「人工無能チャット」は設置していません。これは不謹慎、不適切な言葉を書かれたからではなく、意味不明な文字を書き込んだり、大量投稿でログを流す行為が行なわれたためです。これは明確な迷惑行為ですのですぐに対処しました。



2004/6/2 「あやし上手の遊び下手」

あやし上手の遊び下手(あやしじょうずのあそびべた)・・・私の親父はこんな人でした。
私は子供の頃、親父と楽しく遊んだという経験がほとんどありません。日曜日にはいつも自分だけどこかへ出かけて行ってしまうし、ごくたまに「キャッチボールでもするか?」と誘ってきたときでも、10分もすれば「もういいだろ!帰るぞ!」と突然やめてしまう。そんなあくまでも自分主導型の親父。日曜日に映画を見せに連れてってやると言われ(この言い方も恩着せがましいが)喜んでいたら、当日映画館に行く途中で馬が競争する場所に寄り道。そのあと映画館には行ったが、親父は上映中ずっと寝ている始末。子供心にも気分が悪かった。結局私を連れていったのは、馬が競争する場所へ行くための口実作りだったわけです。親父にとって子供と遊ぶということは、暇つぶしか、遊んでやったという自己満足に過ぎませんでした。

このような、楽しみたいという子供側の需要に対して、大人側が一方的に型を決めて供給することは、言ってみれば赤ん坊のあやしに過ぎません。そう、親父はあやすことしかできない人でした。孫が産まれると、娘が連れてくるたびにオーソドックスな「いないいない、ばぁ〜!」から、手を動かしておどける仕種まで、まるで自分も赤ん坊になったかのように振る舞い、孫をケラケラと笑わせていました。それはとても良いことですし、あまりあるスキンシップも見ていて気持ちの良いものでした。

しかし・・・親父のあやしには進歩がなかったのです。孫は1歳、2歳、3歳と成長しているのに、親父はいつまで経っても赤ん坊のあやしの枠を越えられませんでした。現在5歳の私の甥は、3歳頃まではうちに来た時は必ず親父、つまりおじいちゃんとお風呂に入っていました。「おふろ誰と入るの?」と聞くと必ず「じいちゃんと入る」と言う子でした。しかしそれは赤ん坊の頃からの習慣(つまり惰性)であり、決して楽しいからそう言っているのではないことはわかりました。
入浴中聞こえてくるのは、親父の声ばかりです。それも「♪ツックツックツ〜」とか「♪はいはいはいシャンプップゥ〜」とか、ワケのわからんフレーズを即興でず〜っと口ずさんでいるんです。あやし歌というより怪し歌ですね。肝心の孫はというと、ずっと黙ったまま。シーンとするのが嫌でたえず口ずさんでいるんでしょうけど、孫も会話のタイミング掴めませんよ、そんなんじゃ。(´Д`)

4歳になったある日、私が何気なく「おじちゃんと入ろうか?」と聞いてみたら、なんと意外にも「おじちゃんと入る」と言ってくれたので、じゃあ今日はそうしようということになったんです。親父も「なぁに、またじいちゃんと入るって言うさ」とタカをくくっていました。
私と甥っ子の入浴中、お風呂場から聞こえてくるのは楽しそうな笑い声と、一緒に歌う歌声でした。幼児との遊びなんて簡単なことです。その子の好きそうな楽しい話題をしゃべって、帰ってきた言葉にリアクションを取ればイイんです。そのとき言葉を返せばまた言葉が返ってきます。キャッチボールを繰り返すうちにそのボールがどんどん大きくなって、次第に高らかな笑い声になるんです。それ以来この子は、お風呂には私としか入らなくなってしまいました。親父には悪いことをしたなと思いましたが、今ではもう気にもしていないようです。

親父もそうでしたが、子供と話す時に自分も子供のような口調に(悪く言えば精神年齢が下がったかのように)なる人っていますよね。赤ん坊から幼児になるにつれ、大人は「あやし」から「遊び」へと変化させなければならないのですが、その「遊び」を子供同士の普段の遊びと混同して考えている人もまた多いのではないでしょうか。
いつか見た新聞記事ですが、最近の小学校では担任の教師を呼び捨てや愛称(○○ちゃんなど)で呼ぶ生徒もいるそうです。その子だけの特質ではなく、中には担任自らそう言わせているケースもあるんだとか。それはクラスを和ませたり、先生と気さくに話ができるようにという配慮なのかもしれませんが、私はこれには反対です。
私は大人と子供の間には、明確な上下関係が絶対に必要だと考えています(ただし命令と服従の関係ではありません)。友達のような教師と生徒、友達のような親子、それは一見理想に思えますが、伝え教えるという意味での需要と供給のバランスを崩しかねません。

私は2002年6月のコラムで、親子は楽しさを共有することが大事だと述べましたが、それは決して立場を同じくするということではありません。先日、甥と姪をつれ近くの公園に遊びに行ったときのこと。そこで追いかけっこをして遊んでいる親子を見ました。小さな子が二人走り回っていてその後ろを若い父親が追いかけているのですが、その人がまるで子供のように無邪気に遊んでいるんです。「ひゃー、ひゃっひゃっひゃっ」と楽しそうな笑い声を上げながら、子供と一緒に周りの人たちの間をすり抜けて走り回っていました。
いやべつに、とても楽しそうですし見ていて不快ではなかったですよ。しかし周りの人たちの邪魔になっていたのは確かですし、第一この人は親であるという立場をまったく活かしていません。子供と一緒に遊ぶのが得意な方なのかもしれませんが、親としてはむしろ遊び下手だなと感じました。何故なら、ただ楽しく遊ぶだけならそれはその子供にとって、友達と遊ぶこととなんら変わりはないからです。むしろ同年代の友達とのほうが、自由度が広がるという意味でより楽しがるというものです。

子供とどう遊んだら良いかわからない。そんな人の落ち入りやすいパターンは2つ。
ひとつは、好かれよう馴染もうとするあまり、自分が擬似的に子供になってしまう人。うちの親父のようにあやしばかりになってしまったり、妙に子供っぽい口調で話しかけたりする人ですね。公園で無邪気に走り回っていたパパさんもこのパターン。
もうひとつは、子供を質問ぜめにしてしまう人。会話はコミュニケーションの第一歩ですが「何が好き?」「学校は楽しい?」などと質問ばかりになり、会話が一問一答になってしまうパターン。(田舎のおじいちゃんに多いかも)

子供とのコミュニケーションで一番大切なのは、いかに上手く会話をするかということです。言葉を知らない赤ん坊でさえ、自分の行動で物の形や色が変化すれば、様々な反応をしめすでしょう。会話も同じことで、こちらのリアクションしだいで楽しくもつまらなくもなります。どのような会話が子供の気持ちを開くのか?それを知るには、我々大人は子供の目線でものを考える必要があるのです。しかしそれは決して子供の気持ちになるということではなく(このへんを誤解している人は多いのでは)、子供の気持ちを知り、理解するということです。
上下関係を保ちつつ気持ちを理解し信頼感を与えることで、子供にもうひとつ大事な感覚が生まれます。それは「安心感」。子供が最も慕う大人とは、この安心感を与えてくれる人なのです。逆に言えば、遊びによって子供に絶対的な安心感を与えられる人こそ、本当の遊び上手と言えるでしょう。

・・・後日追記・・・
もしかしたら勘違いする方もいるかもしれないので追記しますが、私は、子供に対し大人と同じように接しようと言っているのではないので、お間違えのないよう。
立場が子供と同じになるような接し方(あやしや一方的なおふざけなど)はなるべく避け、信頼感や安心感を与える接し方をしようということであって、その中でお互いはしゃぐも良し、ふざけるも良し、無邪気に遊ぶも良しなわけです。
幼児に対しては幼児に対する接し方があります。大人と同じような接し方で育てたからといって、その子に早く自立心が芽生えるとは限りません。むしろ逆に、心が固く閉ざされてしまうことさえあります。子供の大らかさや天真爛漫さを奪ってはいけません。
幼児向け番組の歌のおねえさんや体操のおにいさんのような態度で子供と接し、責任感と楽しさを同時に味わってみようじゃありませんか。



2004/3/16 「神の目 子の目」

昨年の梅雨頃に見かけた光景です。バイクで信号待ちで止まっていると、目の前の横断歩道を右から左へと親子が渡りました。父親は私くらいの歳でしょうか。子供は小学校3年生くらいの女の子でした。二人で渡りきったそのとき父親はクルッと後ろを振り向き、横断歩道の向こう側に向かって「早く来なさい!」と怒るように声をかけました。見るともうひとり5歳くらいの男の子がおり、その子がしぶしぶ渡りはじめたところでした。歩行者用の信号はすでに点滅を始めています。
ちょうどそのとき左折しようとしたダンプが入ってきました。幸い運転手は眼下のこの子に気付いたため止まって待っていましたが、まかり間違えば巻き込み事故にもなりかねない際どい状況です。この危うさには見ていてハラハラしましたし、離れた場所からそれを見ている父親の神経を疑いました。

幼い子供が駄々をこねたりして言うことを聞かず、ちゃんと歩かないので親がさっさと先を歩く、ということはよくあることでしょう。しかしこの父親はそれを横断歩道でもやってしまったのです。もしこの子が渡らなかった場合、信号が赤になってしまえば何か事が起きた時に(事件や事故など)すぐにその子のもとへ行けなくなってしまいます。渡ったとしても、大型車の運転手からは小さな子供は非常に見えにくく、危険であることには変わりありません。
言うことを聞かない子供に対して叱る意味を込めて離れて歩くのは、ぜひとも安全な通りでお願いしたい。少なくとも車の往来があるところでは子供から離れないように。これは過保護とか放任主義とかいう次元とは別の話。

さらにこれはつい最近のことですが、私が商店街の歩道を歩いていると、向こうから6歳くらいの男の子を連れた母親と、その友達とおぼしき女性の3人が横一列に列んで歩いてきました。大人ふたりはペチャクチャとおしゃべりしています。
私はこれ自体は別段気にもとめなかったのですが、そのまま歩いたのではぶつかってしまうので、私のほうからスウッと避けて通りました。するとすれ違ったあと後ろからこんな言葉が。「ほらっ!人がきたら退かなきゃダメでしょっ!!」
大きな声で叱っていたのは、私へのスミマセンの気持ちからかもしれません。あるいは「ちゃんと躾はしてますからね」という意思表示だったのかもしれません。

でもねぇママさん・・・それはちょっと違うんじゃない? 道幅を占領していたのは、ママさんたち大人も横に列んで歩いていたからでしょ。小さな子を連れて歩くときは後ろや前を歩かせるよりも横を歩かせたほうが安全なのだから、その子が列んで歩いていたのはむしろ良いこと。人が来たら子供の手を引いて道を開ければ良いのだから。

親にとってはただの買い物でも、幼い子にとっては大切な体験学習となります。いつもなら道いっぱいに広がって歩くことも、赤信号になりそうなのに渡ろうとすることもあるでしょう。しかし子供が一緒の時は生真面目すぎるほどにマナーを重視し、まるで交通安全教室のような通行を心掛けてほしいものです。べつに交通ルールに限ったことではありませんが、普段何気なくしている行動を子供の目線で見つめ直してみてはいかがでしょうか。

子供がこっそり悪いことをせぬよう「いつも神様が見ているよ」なんてことを言ったりしますが、我々大人はそれを自分の事として肝に命じなければいけませんね。だって神様よりずっと身近な「子供たちの目」が、常に見つめているのですから。




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