「Futuresight〜日本のあるべき姿〜」
Written by ユラ
一章「日本の胎動」
福沢祐麒の部屋には今時の若者にしては珍しくゲーム機が無い。多少のマンガ本ぐらい
は置いてあるのだがそれも嗜む程度である。彼の部屋はよく言えば質素、いうなれば殺風
景ともいえるぐらい私物が少ない。有る物といえば少々のマンガ本、文芸小説の単行本や
文庫本とコンポぐらいなものである。文芸書の冊数も二、三十冊程度、音楽CDも同じぐ
らいの枚数を所持しているだけであった。
端的に言えば祐麒は娯楽に興味があまり無かったのである。特に原因があるわけではな
く、興味の希薄さは生来のものだった。
よって休日には彼の友人が福沢家を訪れることはほとんどない。友人の小林曰く、
「ユキチの部屋は落ち着くには落ち着くけど、そう、つまらない」
ということなので娯楽の宝庫である小林家が彼の友人達の溜まり場となっていた。
西暦二0二十年。日本。
二00六年に持ち直しかけた景気は、株式市場を弄繰り回すファンドの存在により日経
平均株価が急落、不意打ちの如き企業買収の頻発によりマーケットにおける日本企業の国
際的信用力が減退した。
それが二00七年初頭に勃発した後にいう平成大不況の発端となった。それから十三年
後、一ドルが二百五円まで円が下落し、消費税が十二%、普通国債残高が一千兆円を突破、
かつてはGNP(国民総生産)が世界二位の経済大国だったのだが、現在では見る影も無
く没落し、先進国から中心国へとその地位を転落させた。
日本が経済的に世界へ誇れるものが年々失われていき、二0二十年現在ではゲームソフ
ト、アニメーション、辛うじて自動車産業ぐらいしか残されていなかった。
資産家である夏梨鯨(ナツリ クジラ)は二年前に自然自由党を立ち上げた。鯨という
名前だけでは性別が判断しにくいかもしれないが今年で三十六になる女性である。
彼女が成功した事業とはHPの運営である。十六年前に二次創作の小説サイトとして立
ち上げて以来、その人柄と彼女が紡ぎ出す真言のごとき文章は訪れる人々を虜にし、オン
ラインオフライン問わない口コミにより、二次関数的な勢いでアクセス数を稼ぎ出した。
たったの四年半でアクセス数一千万を突破し、企画で発行した二次創作とオリジナルの
文章を混合して収録した同人誌が空前の大ヒット、発行部数はあっという間に六桁の大台
に到達し、某出版社からオファーが掛かりプロデビュー、処女作も同人時代からの根強い
ファンにより発売後三ヶ月で発行部数が五十万部という記録を打ち立てた。その一方で、
サイトのアクセスは日を追うごとに加速度的に増加、ヒット数が一億突破という前代未聞
の世界最大級のものとなっていった。有志によるコンテンツの他言語翻訳化のおかげで、
彼女の作品は十九の言語に翻訳されて公開されていた。彼女の事業とは試しに設置してみ
たアフィリエイトであった。世界中からのアクセスによりヒット数が天文学的な値を叩き
だし、アフィリエイトによる収入が一日で二千万円を超えることも珍しくなかったのであ
る。こうして彼女はシンデレラも顔負けなサクセスストーリーを歩んでいった。
事業に成功し一躍日本のトップに躍り出た彼女は、日本の現状を憂い、日本再建のため
に「自然自由党」を立ち上げた。時価一千億円とも言われる膨大な資金力を背景に、彼女
の党は瞬く間に成長、拡大し、立ち上げから一年後の衆議院総選挙において過半数以上の
議席を獲得し、なんと政権を勝ち取るにまで到った。そして二0二十年五月七日、夏梨鯨
は日本国史上初の内閣総理大臣となった。
「さて、これからの時代は……萌えなんです!! 萌えが世界を支配する時代がやって来
たのです!! アニメやコミックにライトノベル、ゲームソフト産業を私は『萌え産業』
と呼ぶことにします。さぁ皆さん。私が日本のあるべき姿にしてご覧に入れましょう」
花寺学院の一年三組の教室。四時間目の授業が終わった昼休み。祐麒と小林は机をくっ
つけ合って昼食を摂っていた。
「なぁユキチ。おまえ『マリア様がみてる』ってアニメ知ってるか?」
祐麒が視聴するものといえばプロ野球中継かMahooの名を冠する番組ぐらいなもの
である。
「いいや、知らない」
「おいおい何だよユキチ。時代に乗り遅れているぞ? このアニメ、通称『マリみて』っ
ていうんだけどな……」
「いや、別に教えてくれなくていいから」
「そう言うなよ。うちのクラスじゃ興味無いって言うのはお前ぐらいなものなんだぞ?」
そんなこと言われても、と祐麒はハンバーグを箸で食べやすい大きさに分割しそれを口
に運んだ。
「あ、そうだ、話変わるけど昨日首相が女の人になったって知ってるか?」
「それぐらい知ってるよ。確か夏梨鯨って人だろ。えっと、『Embrace closely tenderly』
や『合言葉はいつも・・・』って小説書いた人だったと思う」
「お前こういうことには興味あるんだな」
小林はエビフライを尻尾ごと噛み砕きながらそう言った。
「じゃあ夏梨首相の政策って知ってるよな」
「あれはパフォーマンスなんだと思いたい……」
祐麒が特大の溜息をつきながらぼそりとそう零したほどの、夏梨首相が掲げる政策方針
は以下の通りである。
一:「萌え」を世界に誇る商品として国家を挙げての事業とする。
二:半年以内に政治の中枢を永田町から秋葉原に移転。首相官邸はとらのあな一号店に置
き、国会議事堂は秋葉原駅前にある「秋葉原ダイビル」へ置く。
三:コミック、ゲームソフト、アニメーションの製作会社及び販売会社の法人税を五割減
額し、当該事業者の従業員の所得税も半額にする。また、これらの商品に関する消費
税の全額免除に。
四:二次創作の合法化。
五:コミックマーケットの国家事業化。それにともなう有限会社コミケットの公社化。
本来は数十項目に渡って政策が掲げられていたが、新聞には主要五箇条ということで、
上記の五項目が掲載されていた。さながら五箇条のご誓文の如く。
「これからの日本はオタッキーな奴の天国になるぞ。だから今のうちにユキチもこっちの
世界に来いよ」
「行かねぇよ。何だよオタッキーな奴らって。俺はそういうのに興味無いから」
「まぁ、そうやって虚勢を張っているといい。やがてユキチにも分かる時が来るのさ」
弁当箱をしまった小林は、怪しげな高笑いをしながら教室を出て行った。
「なんなんだアイツは……?」
第二章「日本の羽化」
夏梨鯨は政策絶対貫徹を信念に、まずは政治中枢の移転を実施した。自然自由党以外の
ほとんどの国会議員がこれに反発したものの「あのぉ、ダメですか?」と、とても三十台
には思えない童顔で反対勢力に問いかけると「いや、そのなんだ、いくらなんでも急すぎ
るのではないか?」と、六十台のおじさん議員はたじたじになっていた。「そんなことあ
りません。大丈夫ですよ」と可愛らしくのたまうと、「え、うん。そうだな。まぁ首相が
そうおっしゃるなら」と、根回しや買収といった事を一切せずに彼女は政敵を、やんわり
といなしていった。
そんなこんなで重要な懸案が議論されることも無く平穏にかつ独裁的な政策が次から次
へと実施されていくのであった。
こうして目出度く半年後に秋葉原が日本の中心となることが確定した。
彼女の掲げた政策はどれもこれも常識をぶっ壊すようなものばかりで、特に世間が騒い
だのは金銭がもろに絡む税金関係のものである。とあるコメンテーターは討論番組などで
「こんな歪な税金優遇制度は近い将来日本経済を崩壊させるでしょう」と力いっぱい夏梨
鯨の批判をしていた。しかし、このコメンテーターは逆に自分自身が一年も経たない内に
テレビの世界から放逐されることを知らなかった。
「『萌え』を愛でる者は日本政府に愛される」
某大新聞の一面トップを飾った記事の見出しである。一見夏梨首相の政策支持とも取れ
るようなものではあるのだがその実政策の無謀さや非常識さを揶揄するものであった。余
談ではあるが、この会社の誌面はそう遠く無い将来『とらだよ。』に取って代わられるこ
とになるのであった。
五月十六日。午後十時。祐麒は自宅のリビングでニュース番組を見ているところだった。
「お姉さま。次のニュースにいきましょう」
「そうね。どんどんやってちょうだい」
祐巳と祥子がニュースキャスターを務める「Mahoo!ニュース」である。祐巳は原
稿に若干目を落としながら内容を読み上げ始めた。
「本日のトピックは世間で人気と注目を集めているアニメ番組『マリア様がみてる』です。
明治時代に創設された女子高を舞台にした作品だそうです。深夜枠での放送にも関わらず
視聴率が七パーセントと異常に高く、目出度く今週日曜日の午後八時のというゴールデン
での放送が始まります。お姉さまはご覧になられましたか?」
「えぇもちろん。はぁ……ユミが堪らなく可愛いわ。そうだわ。ここで宣言しておこうか
しら。小笠原グループは『マリみて』を応援します」
祐麒は飲んでいたコーラを噴出しそうになった。そして誰に聞かせるでもなくテレビ画
面に向かって叫んだ。
「ちょ、ちょっとどういうことだ? 前に小林の言ってた番組そんなに人気あるのか!?」
美しい友情と愛情を描いた『マリみて』フィーバーは瞬く間に日本列島を走りぬけやが
てその勢いは海を越える。米国と中国、韓国での放送が決定したのであった。予定通りに
事が運べば今年の夏ごろにはこれらの国のリビングでは「ごきげんよう」がこだまするこ
とになる。
翌日の朝刊にはこんな見出しの記事が掲載されていた。
「『マリみて』人気爆発。夏梨首相の『萌え政策』の後押しになるか」
結論から述べれば「なった」のである。
相変わらず銀行を初めとする金融サービス、電化製品、重化学工業等の業績は芳しくな
い。むしろ年々緩やかな下落の一途を辿っている。もっといえば経済の根幹を成す産業は
軒並み低成長、もしくはマイナス成長である。ちなみに二0十九年度の経済成長率は「マ
イナス0.六七」ポイントであった。もう十年以上成長率がプラスになったことが無い。
停滞の極みにある日本経済の建て直しにはもはや「萌え産業」は欠かすことの出来ない
主力産業であると、経済産業省の役人連中も認識を大幅に改める必要に迫られていた。
「皆さん。私夏梨は『マリみて』の人気が日本の停滞を打開する、救国の英雄たる作品に
なりうると強く確信しました。さて、ようやく日本は硬い硬い己の繭を破り、羽化する時
がやってきたのです。「萌え産業」を国家の威信にかけて世界に誇る産業へと発展させる
ことを改めて誓います」
夏梨鯨は国会の答弁において上述の通りに述べた。「萌え」とは何ぞやと首を傾げる議
員も多かったが、議席の七割は自然自由党が占めていたため拍手喝さいだった。
いつしか国会の開会の時には議員一同「ごきげんよう」と挨拶することが習慣となる。
「ごきげんよう鯨さま」
「ごきげんよう皆さま」
という具合にである。このまま日本は萌え一色の国となるのであろうか。
中間試験を乗り越えた六月初頭。気象庁による入梅宣言がなされ、じめっとした蒸し暑
い日が続いていた。しかし、日本の青少年達はそんな気候なんぞお構い無しに萌え探求の
道を突っ走り始めていった。
昼食時、祐麒と小林はいつもと同じ様に机をつけて弁当箱を広げていた。
「なぁユキチ。お前まだ『マリみて』見て無いのか?」
「小林。お前もくどいな。俺はそういったことには興味ないんだから見る訳が無いだろ?」
祐麒はしれっとそんな台詞を吐いていたが、実際のところ先週の日曜日に初めて放送を
見たのだった。世間のフィーバーぶりに人並みの好奇心が刺激されてしまった祐麒は、と
うとう携帯電話のテレビ機能を使って見てしまったのであった。
「こ、これが『マリみて』か! くっ。この威力は……。政府はこんな萌えを世界に売り
出そうとするのか。これはもしかすると……。いや、待て。俺は普通だからこんな感情は
一時のものに違いない。きっとそうに違いない。そうであってくれ」
一人自室の中で興奮し動揺していたのである。
「ユキチも頭硬い奴だな。まぁそれが何時まで続くか楽しみだな。わははははは」
小林は妙に自身ありげな表情で席を立ち、教室を後にした。
「本当に俺はいつまで保ち続けれるんだろうか……。ちょっと心配になってきたぞ」
政治中枢移転計画は順調に進められ、このペースでいくと十二月の初めには、秋葉原が
永田町に取って代わることになる。そんなことにはお構い無しといった風に、秋葉原では
今日も今日とて様々な萌える商品が販売されていた。そう遠く無い将来、日本の聖地とな
るであろう秋葉原とはそんな場所なのである。
首相官邸の総理大臣室にて、夏梨鯨は報告書に目を通していた。
「夏梨内閣支持率七十九パーセント 主な支持層は二十から、四十代」
首相に就任してからおよそ一ヶ月が経過し、支持率は結構な高水準であった。
「よかった。私の考えが国民の皆さんに理解してもらえているようで」
六月の十五日にはとうとう政策の目玉でもある減税政策が施行される。未だに反対の声
が強いけれども、最大勢力を誇る自然自由党の「数の力」の前にはどうしても分が悪く、
週刊誌や新聞にも反対意見が載せられることもあったが、大多数の読者には読み流されて
いた。
六月下旬。マリみて一色のサンクリ88が無事終了し、小林はとらのあな秋葉原一号店
で入手した同人誌を持ち込み、休み時間に堂々と拡げて読んでいた。教室内で小林と同じ
行動をとっていた生徒は他に十七名ほどいたことを追記しておく。
「小林。お前何を読んでいるんだそれ?」
「ん? ユキチもとうとう我らの世界へコンニチハ、いや、ごきげんようしたいのか?」
「いや別に」
「まぁそんなクールに振舞うユキチもこれ見たら冷静にはいられないだろうな。ま、試し
に読んでみ」
ほら、とほとんど無理矢理に手渡された本を受け取った祐麒は、まず開いていたページ
を見て絶句した。
「おい、何だこれは……」
「見たら分かるだろ? それはネコミミってやつさ」
「いや、そんなことじゃなくて、このキャラってお前が好む『マリみて』のヨウコってキ
ャラじゃないか」
「そりゃ当然さ。だってこれはヨウコ本だからな」
「ヨウコ本?」と、祐麒は首を傾げながらその単語だけをリピートした。小林が持って
きた本は「うさみみ屋」というネコミミイラスト専門サークルの新刊だった。
「そうだユキチ。お前そもそも二次創作って単語知ってるか?」
「知るわけがないだろ」
「いい機会だからお前も知っておけ」
そのあと教員がやってくるまでの間の七分間、二次創作が何たるかについてとうとうと
語られていた。
そして次の休み時間。
「なぁ小林。お前今日持ってきてるのはこの本だけなのか?」
「お? クールな堅物の福沢祐麒君もとうとう同人に目覚めたのか?」
「違う。そんなんじゃないから。持って無いならいいよ別に」
何だかんだ口では言うものの、祐麒はソッチ方面の道を徐々にではあるが歩み始めてい
くのであった。
毎週両親や姉の祐巳に隠れながら『マリみて』を視聴し、学校の帰りにとうとうマリみ
てコミック版を購入してしまう。当然そのまま自分の本棚に挿しておくわけにはいかない
ため、各場所に四苦八苦しながら少しずつ買い足していった。別にやましいものではない
のだが、彼の理性が萌えに対して歯止めをかけるため羞恥心が生まれていたのだった。
新税制施行から二週間ほど経過した七月初頭。夏梨政権支持率は八十パーセントを突破
していた。ライトノベルやコミック、アニメ関連の書籍、雑誌、ゲームソフト(パソコン
ゲーム含む)の売り上げは、消費税カットの恩恵と、法人税等の出費を低減させることが
出来るためコストが抑えられ、定価が安くなったことによって前年度の三十六パーセント
増となっている。このまま好調な売り上げ実績が維持できれば、ほぼ間違いなく日本産業
の主力足りうる規模になると予測されており、その経済規模は二十兆円に届こうとしてい
た。
ライトノベルやコミックが勢いづく一方国会では「二次創作法」の制定に向けて最終調
整が進められていた。これまで日本において、パロディや二次創作等については著作権法
に明確な規定がなされずに、いわゆる「グレーゾン」のまま企業の暗黙の公認状態が続い
ていた。
夏梨首相は同人界の活性化のため、この曖昧模糊な状況を打破し、明瞭明確な法律でも
って創作活動の促進を図ろうとしている。
この「二次創作法」はその名のとおり、二次創作活動を合法として保護するためのもの
である。当然著作権侵害を危惧する反対意見も提出されたが、それに対しては最高裁判所
による「同人誌を初めとする二次創作活動の目的は、創作物の発表であり営利活動とはみ
なすことはできず、商目的でない限り、個人の表現の自由を保障することはなんら著作権
の侵害には当たらない」との見解でもって切り返した。つまり「人の作品で金儲けを企ま
ない限り合法である」と解釈して何ら問題ないのである。
原作者サイドも広告の一環として政府の見解には素直に応諾し、著作権がらみの裁判は
ほとんど皆無となっていくのであった。
政府公認、法律の保護を得た同人世界の絵描きや物書きたちは大いに二次創作法制定に
賛成し、秋葉原では有志たちによる賛成署名運動も行われたりもした。
日本国内では徐々に二次創作というものに対する偏見を初めとするマイナスイメージが
払拭されつつあった。そして着実に、萌える作品の売り上げは高まっていく。更に、マリ
みての小説版が八月に発売が決定し書店予約だけで六十万件を突破する等、まだまだブー
ムは衰えるばかりかより一層加速していくのであった。
第三章「日本の飛翔」
日本における真夏の風物詩といえばそれは風鈴や西瓜等ではなく、「夏コミ」である。
今年度(コミックマーケット96)は八月の十一日から十三日までの三日間、東京ビッ
グサイトにおいて開催される、想定来場者数六十万人の同人界最大のイベントである。
八月の一日より施行された「二次創作法」より、参加者は大手を振って自身の作品を販
売することができたため例年以上の盛り上がりを見せており、それに伴って企業参加数も
過去最大の規模となっていた。
十二月の末に開催される冬コミ(コミックマーケット97)からは、政府主催による国
営事業となり、十二月から有限会社コミケットはコミケット公社へと名称を変更すること
になっている。夏梨政策は着実にかつ確実に推し進められていた。
八月十四日。珍しく小林は祐麒の部屋を訪れた。
「おまえ、その両手の荷物何だよ?」
彼の両手はずっしり重そうなトートバッグを握っている。その中身は採れたてぴちぴち
の新刊同人誌である。
「あ? これ? こいつらは夏コミの戦利品だ。せっかくだからお前にも見せてやろうか
なと思って持ってきたんだから感謝しろよな」
「別に持って来いって頼んでないけどな」
程なくして祐麒の部屋の床にはおよそ六十近い同人誌が展開されていた。
「ちょっと待て、おまえこれは成年向けの本じゃないか」
「僕の心はもう大人だから問題なし」
「いや、大有りだから」
「小さいことに気を取られていてはイベントは楽しめないんだよユキチ君」
小林が持参した本のうちマリみて本が四割を占めていた。残り六割のうちの二割は、ブ
レイク間近と言われている『おいでませ。佐藤書店へ』という、佐藤書店を舞台とした微
妙に非日常なストーリー展開がなされているライトノベルの同人誌である。
「社員の乃梨子ちゃんが可愛いんだよこれが。ユキチも読め。絶対はまるから」
「……機会があればな」
朝の十時ごろにやって来た小林による同人誌展覧会が閉まる頃には夕方となっていた。
「そうだ次の冬コミ一緒に行くぞユキチ」
「遠慮しとく」
「そうか。やっと行く決心がついたか」
「いや待て、俺は行かないって言ってるんだぞ」
「じゃ、またな」
祐麒の言葉をまるで無視して小林は帰ってしまった。
彼が帰った後、祐麒は最寄の本屋に赴き『おいでませ。佐藤書店』の一巻を購入し、一
晩のうちに読み終えた。
秋の季節といえば実りの秋と称され、農作物の収穫の季節である。しかし、地球温暖化
地球温暖化の影響もあってか、暦の上では十月にも関わらず夏日が続いていた。そう、日
本は暑かった(熱かった)のである。
夏コミ以降、『おいでませ。佐藤書店へ』のアニメ化が決定され、ビジュアルノベルゲ
ーム『時の迷子』がミリオンセラーを達成、夏梨首相の二次創作サイトのアクセス数一千
億ヒット突破と、そっち方面の話題には事欠かなかった。
十月二十日、夏梨首相は米国のモエラー大統領との会談に臨んでいた。
「今年の日本の成長率はどうやらプラスになりそうですな」
「そうです。私の政策が国民の皆さまに理解していただけたのだと感じております」
「しかし夏梨首相。あなたは本気なのですか? 日本のアニメーションのクオリティは素
晴らしい。私が若い頃に見たドラゴンボールZは最高傑作だと思っている。しかし、」
モエラー大統領は若干困惑気味な表情で夏梨首相の顔を見る。それに対し、彼女の目は
自信に満ち溢れており、今年で還暦を迎えるモエラー首相に熱量を含んでいるかのような
目線を向けている。モエラー大統領は視線を床に逸らして続けた。
「私にはどうも不安に思えますな。日本はかつてアメリカを追い越しかねないぐらいの経
済大国だったのが、今では残念ながら状態は芳しくない。巻き返しを図るのは当然だが、
いくらなんでもメイン産業にアニメを据えるのはどうなんだろうかと思うのだが」
「それは大丈夫ですモエラー大統領。二十一世紀を生きる人間の根幹には萌えが必要なの
ですから、この政策はきっと成功すると私は確信しています。そうです大統領。私からプ
レゼントがあるのです」
秘書に持ってこさせたのは一冊の文庫本だった。
「これは何かな? おや? もしやこれは……」
「さすが情報通なモエラー大統領です。これは文庫版『マリア様がみてる』の最新作です。
これはまだ市販されていませんが」
「そうか。それでは有難く頂戴するとしよう。うむ、アメリカ合衆国は日本の、いや、夏
梨首相の政策の支持をしよう」
物に釣られてしまった感たっぷりだったが、結果良ければ過程は瑣末なことなのである。
ところが実際アメリカ政府の支持云々に関係なく多数の日本産アニメ、コミックが輸出
されていたのであり、そのほとんどが社会的ブームを引き起こしかねないほどの人気を誇
っており、ジャパニメーション(注:日本産のアニメのこと)の品質の高さを改めて実証
していった。こういった現象は中国やインド、ヨーロッパでも同様であった。
十一月の下旬には、祐麒の部屋にいつしか本棚が一つ増設されていた。スライド式の本
棚は二層構造であり、表面は参考書や辞書が挿し込まれていたが、棚を隠し扉の如く横に
スライドさせると、その後ろにはずらっとライトノベルやコミックが挿し込まれている。
少しずつ買い足していった本の置き場所がなくなってしまったのである。
祐麒は自分がそういった本を買っているということを未だに友人らに告げていなかった。
小林との会話も適当に相槌を打つだけである。しかし、祐麒は喋りたくてうずうずしてい
たのだったが、「無関心」という仮面を装着した手前、自信をさらけ出すことが出来ない
でいた。
「そういえば一週間後に首相官邸が移転するんだってな」
「たしかとらのあな秋葉原一号店に増築した六階に移るとかなんとか」
「お? 妙に詳しいねユキチ」
「ニュース見てれば誰だって分かるだろこんなの」
彼の心の内にある理性の堤防には少しずつだがひびが入っていった。決壊する日は近い
のかもしれない。そうなったならば、今まで抑圧していた「関心」が堰を切って溢れ出す
ことになる。
十二月の九日、政治中枢の移転が完了した。この日以降、日本の政治は秋葉原にて行わ
れることになる。首相官邸や国会議事堂、官庁が入っていたビルは同人誌即売会のイベン
ト会場になったり、ゲームソフト開発会社の本社ビルになったり、「とらのあな」や「ま
んだらけ」、「K−BOOKS」のテナントが入ったりし、さらなる萌えの展開がなされ
ていった。十二月の二十八日から三十日にかけて開催される冬コミはコミケット公社が主
催する。夏梨首相による萌え政策の勢いは決して誰にも止めることはできそうになかった。
例えば、「冬コミ開催期間中、東京方面へ向かう夜行バスや新幹線の乗車料金が無料」と
いった若干やり過ぎなぐらいのサービスを、かの日本政府が行うのである。このサービス
の財源として夏梨首相自らの資産も当てられていた。彼女は本気である。
「国民の皆さま。年末は是非東京ビッグサイトへお越し下さい。」
首相自身が出演したCMをNHKのみならず民間の放送局でも流していた。
十二月二十八日。国による大々的な後押しによって催されたコミックマーケット97は
三日間ののべ来場者数は八十一万人と史上最高の値を叩き出し、あまりの盛況ぶりに十三
カ国の新聞やテレビでも「フユコミ」について報じられたのである。
「とっくに落ちぶれたはずの日本が熱いらしい」
相変わらず萌え産業以外の業績は褒められたものではなかったが、それを補ってお釣り
が来そうなほど活気付いている。極東の島国から発せられる熱がやがて世界を過熱してい
くことになる。
羽化を終えた蝶が宙に向かって飛び立つ日も近い。
第四章「日本の夜明け」
「冬コミ、行って良かっただろ?」
「あんな人込みもうたくさんだ」
二0二十一年。一月の三日、祐麒は小林の部屋を訪れていた。今度は祐麒がずっしり重
たそうなトートバッグをぶら下げて。
「よく言うよ。お前、俺よりも楽しんでたくせに。で、何冊買ったんだ?」
祐麒はそっぽを向きながらぼそっと呟くように答えた。
「……五十六冊」
「うははははは。初心者が買うような量じゃないだろそれ?」
「仕方なく」行った東京ビッグサイトにて、祐麒は貯金していたお年玉と、父親から前倒
しでもらったお年玉を合わせた四万五千円全額を購入資金に当てたのである。
理性の堤防は粉々に決壊し、全てを押し流さんばかりの萌えが祐麒の脳内を萌え浸しに
してしまった。
「おや? 福沢君。この本は成年向けだよ?」
「ちょ、おまっ、それは間違えたんだよ。うっかりだよ。事故だったんだよ」
「本当かな? 僕にはしっかり穴が開くほど吟味していたように思えたのだが?」
そんな怪しげな代物は置いて来ればよかったものの律儀な祐麒は小林の「買った本全て
持って来てくれ」という言葉に忠実に従った。
「ところでお前は何所に仕舞ってるんだこれ?」
未だ家族には自身の嗜好を知られておらず、表面上は「クールな祐麒」を演じていた仮
面のアクターである。そんな彼の最大の悩みは萌え関連の書籍の保管場所である。
「俺はダンボールに詰めて置いてるけど。ほら、あれ」
小林の部屋の片隅には整然と積まれた「らしんばこ」と右下の隅にプリントされている
白い段ボール箱が、三箱置いてある。
「あの中に入れてるのか? 親が入ってくれば絶対見つかるじゃないか!?」
「中を見て後悔するのは見てしまった本人だけだから、俺はなんとも無い。だからあのま
までいいんだよ」
「いや、でも母親とかに見られるのはものすごく気まずくないか?」
「だから言ってるだろ? 母親が俺の嗜好を知ったところで何か変わるわけでもないんだ
し。そもそも親と子が面と向かってそんな話題をすると思うのか?」
「いや……しないな」
「だろ? でも流石におおっぴらにするのも気が引けるから、あぁやって最低限の遮蔽は
行っているわけだよユキチ君。だから君も早急にらしんばん池袋店へ赴いて『らしんばこ』
を購入して部屋の隅っこにでも置いておくがいいさ」
男兄弟しかいない小林家と違って、祐麒には年子の姉がいるのである。そこが問題をよ
り一層深刻なものにしていた。
「だったら祐巳ちゃんも同じ土俵に引き込んでしまったらいいんだよ。難しいけどな」
あまり回答に期待していなかった祐麒もこれには驚いた。隠すのではなく共有してしま
えという小林の発想に。
「あまり考えるな。お前の持っている本の八割は一般向けで、見られてもそう差し支え無
い。ジャンルがギャグだったらなおさらだ。まぁ俺の場合成年向けが八割だけどな」
この時ばかりは、小林に頭が上がらないでいた。礼を言って小林家を後にした祐麒は、
一度自宅へ戻って荷物を置き、財布を引っ掴んで池袋へと足を運んだ。
この日の夜には、祐麒の部屋に白い箱が二つ積まれていた。
一月十日。新年早々夏梨首相はヘビーブローな政策案を発表した。
「私が推し進める『萌え政策』も皆さまのご理解とご協力により着実に成果を挙げていま
す。経済産業省の試算によりますと、前年度の経済成長率はプラス一・一ポイントと十四
年ぶりのプラス成長です。さて、日本の萌え産業を世界に飛躍させるため、私は新たな政
策や制度を構築しましたので発表させていただきます」
秋葉原の首相官邸にいた取材陣を仰天させた政策は以下の通りである。
一:同人サークルの株式公開制度
二:日本全国秋葉原化計画
「それではまず、同人サークルの株式公開制度からご説明させていただきます。この制度
は同人サークルを株式会社にみたて、サークルの発行する株式を世間一般に広く公開し、
株主から出資を募ります。集められた資金を元にサークルは益々アグレッシブな活動を行
うことが出来、また、同人界の活性化に繋がることでしょう。同人誌から原作に興味を持
ったという方も少ないでしょう。私もそんな経験があります。この制度により埋もれた名
作が、世に発見されるということも往々にして有り得ることだと私は考えます。原作と二
次創作との相乗効果によって萌え産業はさらなる飛躍を成し遂げることでしょう。
次に日本全国秋葉原化計画についてです。同人関連の聖地は今現在東京秋葉原と大阪日
本橋しか無いのが現状です。もちろん札幌や仙台、名古屋に福岡にもとらのあなやメロン
スックスといった店舗が存在しますが、密度が秋葉原と日本橋に比べて劣ってしまってい
る事は否めません。例えば、鹿児島に住む市民が同人誌を入手するのは通販を利用する以
外主だった手段がありません。これではあまりに不便だと思いませんか。そこで、日本政
府はとらのあなを公社化し、店舗を全国に展開していこうという計画がこれです。この計
画が実行に移されたならば、日本全国普遍的に萌えを供給することが可能になるのです。
萌え産業に従事する事業者の税制優遇制度、同人サークルの株式公開制度、日本全国秋
葉原化計画の三つによるシナジーにより萌え産業は世界最先端の産業へと変貌するのです。
皆さまは萌え産業が成功した経済的、精神的に豊穣な生活をご想像してみてください。
そのヴィジョンは決して幻想でないことを私が保証いたします。日本の夜明けはもう間も
なくなのです」
常識というものは皆が普遍的に持つ解釈のことである。つまり、極めて多数の人間が当
然のことであると認識されている事柄が常識と成り得る。これは「数の優位」に近いもの
がある。
「オタク」は気持ち悪いとされていたのは、世間がオタクという存在に対して「オタク
であることが常識である」という認識を持ち合わせていなかったからである。冬コミから
二ヶ月ほどが経過した二月下旬。内閣府の調査によると市民の五十一%がオタクであると
いう結果が出た。この調査で言う「オタク」とは次のように定義されている。
「己の情熱の大半を傾けるに足るものが有する人間」
平たく言えば「夢中になれる事が有る人」をオタクと定義したのである。日本国民の二
人に一人はオタクなのである。この定義では萌え産業以外のもの対象にとってしまうが、
日本国内に夢中になれるものの大多数が萌え産業に関連していたのである。よって「その
定義で問題無し」とされた。
今やオタクであることが半ば常識となっている。街中にいる人間を指差して「オタクキ
モイ」なんていう台詞を吐こうものならば、そこにいる市民の半分が該当することになり、
逆に「あいつオタクじゃないんだってよ。笑えるよな」と切り返されてしまうのである。
社会において円滑な人間関係の構築に「萌えを知る」ということがヒューマンスキルに
必要不可欠であるという認識が生まれたのもこの頃であった。
「ビジネスにおいて会話能力というものは欠かすことの出来ない極めて重要な能力です。
人と話が出来ない人間はビジネス社会において決して成功することがありません。そこで
必要になってくる知識はズバリ『萌え』なのです。現在、日本の社会において『萌え』を
知らないことは『常識』を知らないと同義なのです」
水野蓉子著『お嬢様にもわかるビジネスマナー(初版二0二十三年)』より抜粋
冬の寒さも和らぎ、陽気に包まれだした四月、学年が挙がった祐麒の部屋は立派なオタ
クそのものであった。夏梨首相が提唱する政策により、一人の高校生がたったの一年足ら
ずで一人前のオタクへと成長もとい進化を遂げたのである。彼はもう何所に出しても恥か
しくない『マリみてオタク』である。そして『おいでませ。佐藤書店オタク』でもある。
小林のアドバイスを実践することにより、最大の問題点である保管場所が解決でき、祐
巳も同じ土俵に引き込むことに成功した祐麒は我が世の春を謳歌していた。
「俺の言ったとおりになっただろ。だから初めから素直に人の話に耳を傾けていればいい
んだよユキチ君」
「悪かった。あの時の俺はどうかしていたんだと思う」
「なぁに。俺達はまだこれからだ。もっとすごい萌えが生まれるに違いない」
「そうだな」
二0二十二年。一ドルが百三十円台にまで回復した日本は再び経済大国もとい萌え大国
として、世界情勢における独自の地位を確保していった。日本国民の八十三%がオタク化
し、萌え産業は日本で生産されるサービスの立派な主力としてその役割を果たしている。
二0二十一年から「ネオコミ(注:ネオコミックマーケットの略称)」と名称変更し、
今年から開催は日本国内に留まらず、アメリカ、カナダ、ブラジル、中国、インド、イギ
リス、ドイツ、イタリア、フランス、オーストラリア……と世界レベルにまで発展した。
今日もまた世界のどこかで新たな萌えが創作されているのであった。日本発の萌えブー
ムの立役者である『マリみて』は萌えの聖典的な扱いをされ、どこの国へ訪れても「ごき
げんよう」で挨拶が通じるまでに到った。
「萌え」は世界を繋ぐのである。
FIN
初版2006年7月2日
注:この作品に登場する企業名や作品名はフィクションです。
作後贅言
「アホな事を大真面目にやる」をコンセプトに書き上げた今作品お楽しみいただけたでし
ょうか。このノリは『こち亀』に通じる部分もあるかもしれません。
さて、本編において様々な法案や政策が施行、実施されていますが、現実世界ではもっと
時間がかかるものであり、そこはフィクション(創作上必要なウソ)ということで笑って
許していただけるとありがたいです。
もう全編に渡って僕の願いが嫌というほど込められています。だって皆がオタだったら絶
対人間関係に広がりが出来ることは確かなのですから。それは社会人になっても同じです。
最後になりましたが、今作品にご協力いただいたNatural&Freeの鯨先生には無上の感謝を
捧げます。
それでは、また。
ユラ
|