Melting with you プロローグ〜第二章
「Melting with you」
Written by ユラ
 プロローグ

「……聖さま」
 六月のある雨の日、授業を終えた私は黒の紳士用の傘を差して歩いていた。そして校門
まであと数メートルのところで、聞き慣れた声で呼ばれたような気がしたから、立ち止ま
って振り返ってみる。
 そこには反り返った赤い折り畳み傘を片手に全身が濡れそぼっている、祐巳ちゃんが泣
きそうな表情で立ちすくんでいた。
「祐巳ちゃん!? 何があったの?」
 私の顔をみるや傘も鞄もその場に放って胸元へ飛び込み泣き出し始めた。あまりのこと
で、私は祐巳ちゃんの背中を撫でてあやしてやるぐらいしか出来ない。
 とにかく彼女を落ち着かせてやらないと、とは思うけど中々に泣き止む様子はなさそう
だ。だからしばらくの間抱きしめてあげた。すると見知った顔が近づいてくる。
「祥子?」
 私と祥子、お互い正面を向き合っているけれども何も言葉を発しない。祥子は「祐巳」
と冷えた声で祐巳ちゃんを呼ぶけれども、本人は首を振るばかりで祥子には応えようとし
ない。
「お世話をおかけします」
 祥子はそれだけ言って、拾った祐巳ちゃんの折り畳み傘と鞄を私に手渡して、行ってし
まった。
 私から傘だけを受け取った祐巳ちゃんは、それを握り締めたまま走り出した。
「お姉さま!!」
 祥子の乗った黒塗りの乗用車の後追うように走り、祐巳ちゃんは叫んだ。
 さすがに自動車には到底追いつけるわけもなく、祐巳ちゃんは祥子の乗った車に置いて
行かれてしまった。
 再び泣き崩れるた祐巳ちゃんはその場に座り込んだ。その瞬間真っ白な光が視界を覆い
何も見えなくなった。
「祐巳ちゃん!!」
 反射的に閉じたまぶたを少しずつ開き、祐巳ちゃんの姿を確認した私は、祐巳ちゃんの
あまりの豹変ぶりに声が出なかった。髪が真っ青に染まっていたのだから――
 この強い雨の中うつぶせに倒れている祐巳ちゃんに駆け寄り、「大丈夫?」と声をかけ
るも、何も反応が無く、まさかと思って脈を取ってみると確かな鼓動が感じられた。
 一瞬訪れた安堵を端にのけ、このまま放って置けるはずも無いので、彼女を背におぶっ
て高等部の保健室まで連れて行った。
「特に体には問題は無いようね。おそらくこれは強い精神的なショックのせいで気絶して
しまったんでしょう」
 校医の先生が祐巳ちゃんの症状をそう診断した。
「でも髪の色まで変わるなんて、どういうことなのかしらね……」
 突然の光の後、祐巳ちゃんの髪は根元から鮮やかに過ぎるぐらいの鮮烈な青色に染まっ
ていた。原因はもちろん不明だ。
「変色の原因はともかく、福沢さんのことはお家の方に私から連絡しておくから」
「お願いします」
 一度頭を下げた私はベッドで眠る祐巳ちゃんの方を見た。制服はぐっしょりと濡れてし
まっているため、今は貸し出し用の体操服姿で眠っている。
 ベッドの傍らまで歩いてに祐巳ちゃんの側で屈み、額に手を当てて具合を伺ってみた。
 小さな寝息を立てて眠る横顔を見守った後、保健室を出た。

第一章

   講義が午後からのため昼直前まで惰眠を貪った私は、濁った頭を覚ますため、眠たげな
目をこすりながらテレビの電源を入れた。
 ちょうど昼のニュース番組の時間帯らしく、灰色のスーツを着た男性アナウンサーが、
淡々とニュースを読み上げるのが目に入る。
「次のニュースです。昨日、東京都武蔵野市の井の頭公園で、若い男女の凍死体が発見さ
れました。被害にあったのは、都内に住む学生中根拓郎さん二十三歳と、同じく都内に住
む学生時岡春芽さん十九歳で、今朝の六時ごろ、園内をジョギング中の男性が発見し通報
しました。
 警察の調べでは遺体が氷漬けにされており、解剖の結果二人の死因は凍死だと判断され
ています。この異常な死因から猟奇殺人も視野に入れて捜査を進める方針です。次のニュ
ースです……」
 この六月の蒸し暑い梅雨の時期に凍り付いた死体が発見されるなんて……。しかも自分
が住んでいる街の中で起こった事件だから、より一層気味が悪い。
 そんなニュースよりも祐巳ちゃんのことも気になる。ああなってしまった原因はやっぱ
り噂に聞くあの縦ロールの子なんだろうか。大きなお世話かもしれないけれど、時間があ
れば調べてみようと思う。
 洗面所で顔を洗って、歯を磨いたあと遅めの昼食を軽く摂って学校へ行くことにした。

 昨日、雨の中で倒れてから以降の記憶がどうも曖昧で気持ちが悪い。
 確か真っ白な光が眩しいな、と感じた後からの記憶と、お父さんに迎えに来てもらって
家に帰ってから、お風呂に入って着替えた後の記憶がはっきりしない。
 私は何処で何をしてたんだろう。
 さっきからそれを思い出そうと、頭をフルに使っているため授業なんてこれっぽっちも
頭に入ってこない。音が右から左へと流れていくだけだ。
   記憶が不確かなことも問題だったけれど、髪の毛も大問題だ。昨日の夜、お風呂に入る
ときに脱衣所の鏡を見た瞬間、大袈裟でも何でもなく、文字通りひっくり返りそうになっ
た。
「髪が青い!? どうして??」
 保険の先生から事情を聞いたお父さん曰く、私が保健室へ担ぎ込まれた時には既に髪は
青く染まっていたという。
 どういう理由で、雨の中倒れただけで髪なんて染まってしまったのか、その原因は今も
全然分かっていなかった。理由はともかく、このままではあまりにも目立つので、お母さ
んの白髪染めを借りてお風呂でなんとか黒に戻した。
 でも、鏡の近くで見ると青黒い色が目に映る。
 学校の方には今朝届出をしたので、頭髪の関してとやかく言われることは無いけれど、
朝から出会う人で会う人に、
「もしかして髪染めた?」
「なんか違うなぁと思ったら髪の色が変わってるじゃないの」
といった反応をされてしまうので、目立っていることには変わりは無かった。
「ごきげんよう祐巳さん。昨日倒れたって聞いたけど、もう大丈夫なの?」
「ごきげんよう由乃さん。体の方は一晩寝たから大丈夫」
 数ヶ月前まで心臓の持病を患っていた由乃さんに体調を心配されるのも変な話だと思っ
たけれど、心配してもらえて素直に嬉しかった。
「その髪どうしたの? もしかして祥子さまへの反抗?」
「それがいつの間にか色が変わってたの。だから別に反抗っていうわけじゃないよ」
 朝からそんなやり取りをして気を紛らわせようとしていたけれど、祥子さまとの問題は
流れが悪い方へと向いている感じがして未だに解決策が見出せないでいる。
 その上染まってしまった髪に、記憶の欠落、と時が経つにつれ私を取り巻く状況は悪く
なる一方だった。
 私を保健室まで運んでくれたのは聖さまだということなので、お礼を述べようと帰りに
大学のキャンパスを少し覗いて行くことしよう。

 今日の授業を終えて、帰りに薔薇の館に寄ることにした。祥子がいれば直接本人から事
情を訊くつもりでいたし、いなくても他のメンバーから出来る限り情報を集めてみようと
思っていた。
 大学のキャンパスから高等部の敷地、そして見慣れた中庭から薔薇の館へと足を運んだ。
最後にこの扉を開いたのが三ヶ月前。まだ、たったの三ヶ月しか経っていないのに再びこ
の扉を開くことになるなんて、と少し感傷的になってしまった。
 館の中もやはり卒業した時のままだった。ぎしぎし軋む階段を上り、ビスケット扉をノ
ックもせずに開く。
「ごきげんよう」
「聖さま!?」
「お姉さま?」
   二階には、令に由乃ちゃん、志摩子にもう一人見慣れない顔の子が一人。多分あの子が
志摩子の妹なんだろう。どうやら祥子と祐巳ちゃんはいないようだ。
「お久しぶり。ところで祥子は今日来てる?」
「いいえ、今日は休んでいます」
 作業をの手を止めて令は答えてくれた。
「じゃあ祐巳ちゃんは来てる?」
「え? 祐巳さんは聖さまに会いに大学のキャンパスの方へ行ったんですが……」
 今度は由乃ちゃんが答えてくれた。祐巳ちゃんと私は行き違いになってしまったみたい
だ。本人を抜きに動くのも少し負い目を感じるけれど、やれる時にはやっておこう。
「お姉さま、どうぞ」
 席を勧めてくれた志摩子の言葉に甘えてイスに座った私は、この場にいる全員に問いか
けてみた。
「最近、祐巳ちゃんと祥子の間に何があったのか知ってる?」
 この話題はどうもアンタッチャブルだったみたいだ。皆視線を下げて私と目を合わさな
いようにしている。この沈黙を破ったのは由乃ちゃんだった。
「今、祐巳さんと祥子さまの間にはすれ違いがあるようです。その、原因かもしれないの
が……」
 由乃ちゃんはそれきり口をつぐんでしまった。それを補うように私は続けた。
「縦ロールの子、でしょう? どうも私の知る限りその縦ロールの子が原因だと思う。た
とえ本人には悪気が無かったとしても」
「その子、松平瞳子っていうのですけど、その松平瞳子に祥子さまの妹の座を取られるん
じゃないかって祐巳さんは思っているようなんです」
 由乃ちゃんはそれだけ言うと下をうつむいた。それ以降他の誰も口を開こうとしない。
 彼女達から得られそうな情報はこれぐらいかな。やはり本人の口から直接聞いたほうがい
いかも。
「お邪魔して悪かったね。それではお邪魔虫はこれで消えることにするから。じゃ、ごき
げんよう」
 私は薔薇の館を後にして、大学のキャンパスへもう一度戻り祐巳ちゃんの姿を探したけ
れども、見つからず今日はそのまま帰ることにした。

 第二章

 朝の七時。目覚まし時計の規則正しく、それがかえって煩わしい電子音に叩き起こされ
た私は、ばしんと強く叩くようにボタンを押して、アラームを止め、ゆっくりとベッドか
ら体を起こした。
 眠気を弾き飛ばすように、頭を強く二、三回左右に振る。
 枕元に置いていた携帯電話を掴み取り、祥子の自宅の電話番号をメモリから呼び出し、
通話ボタンを押した。
 四回目のコールで使用人の誰かが出たので、自分の名前と用件を伝え、祥子へと取り次
いでもらった。
「お久しぶり、ごきげんよう」
『ごきげんよう。聖さまからお電話なんて珍しいですわね』
 祥子の声は以前よりも覇気というものに欠けているような気がした。張りが無いという
か、力がないというか。
「今日は学校に行くの?」
『いえ、今日も用があるので休みますわ』
「急で悪いんだけど、今日会えないかな? 訊きたいことがあるんだ」
『訊きたいこととは祐巳のことですね……それでは今日の午後二時からということで、よ
ろしいですか』
 今日の授業は全て自主休講にするつもりだったから、何時だろうと構わなかった。
「それでいいよ。じゃ、今日の二時に行くから」
 通話を終えた後、枯葉も山の賑わいということで、テレビをつけてみた。
「……今日の午前一時ごろ、路上に駐車していた乗用車から若い男女の凍死体が発見され
ました。遺体の状況と死因が先日の事件と同様のため、警察捜査本部では、同一犯の連続
殺事件として捜査を進めています。
 どちらの事件も目撃情報が乏しく、また物的証拠も全く見つかっていないため、捜査は
難航している模様です……」
 また凍死体が見つかった。方法なんて全く思い浮かばないけれど、何故凍らす必要があ
るんだろう。ここ最近急に物騒になってきたな。私も気をつけないと。

 午後一時三十分曇り空の中車を走らせ、小笠原の屋敷へと向かった。その道中で巡回中
のパトカーの姿をよく見かけたのは、あの異常な殺人事件の影響なんだろう。
 屋敷に着いたのは約束の時間より十五分も早い一時四十五分。
 久しぶり見た屋敷は、相変わらず広く、なんとなく自分が場違いな場所へと来てしまっ
たような錯覚に陥る。
 十台は停められそうな広々とした駐車場の一番右端に停め、車を降りて玄関まで行くと
祥子本人が出迎えてくれた。
「ごきげんよう聖さま」
「ごきげんよう祥子。わざわざ出迎えてもらって悪いね」
 祥子の案内が無ければ迷ってしまいそうなほど広大な屋敷を歩き、祥子の私室へと招か
れた。誰にも聞かれず、落ち着いて話をするには応接室より、ここの方がいいだろう。
「お飲み物は何にされますか」
「アイスコーヒー、ブラックでお願い」
 祥子は内線電話で二人分の飲み物を注文し、それから二分ほどで給仕の人が部屋まで紅
茶とアイスコーヒーを乗せてやってきた。
 薔薇の館にいる頃にはさんざん給仕してもらったけれど、プロにしてもらうことになん
てそう慣れていないせいか、どうにも気分が落ち着かない。
 テーブルに二人分の飲み物とお茶請けが置かれ、私と祥子は向かい合うようにイスに座
っている。
 さて、ここからが本番だ。私は何の小細工も無く、率直に祐巳ちゃんとのすれ違いにつ
いて訊ねることにした。
「率直に訊くけれど、あの縦ロールの子を妹にするつもり?」
 祥子は紅茶のカップを持つ手が止まってしまっている。それだけでなく、思考までも止
まってしまっているのではないかと思ってしまった。
 それぐらい祥子の動きや表情が硬直していた。これは動揺からくるものなのか?
「瞳子ちゃんが私の妹に? そんなこと有り得ませんわ。私の妹は祐巳ただ一人だけです
から」
 祥子は私の目を真っ直ぐと見てはっきりと断言した。そこには嘘や誤魔化しなんてものは
見られなかった。
「じゃあ何故祐巳ちゃんにそう言ってやらないんだ? そのせいであんな……」
 祥子はカップを皿に置くと、かちゃりと陶器特有の高い音が静かな部屋に響く。そして、
俯いた祥子は静かに語り始めた。
「そうしてあげれば良かったのですが、私自身、最近色々とあって余裕が無かったもので
すから。というのは、私の母方の祖母が危篤状態で、ここ何日かその祖母の家と学校を往
復する日々でした。瞳子ちゃんは一応親類当たりますのでお見舞いの付き添いで一緒だっ
たのですわ」
「ということは、妹どうこうという話じゃ無かったと」
 祥子は小さく「ええ」と頷いた。
 祖母が危篤のせいで、自身がいっぱいいっぱいで祐巳ちゃんにまで気が回らなかった。
祐巳ちゃんの方も誤解していただけ。それがすれ違いの原因か。それならばお互いじっく
りと話をする機会が持てれば、おそらく解決できるだろうと思った。
「もう一度訊くけど、妹は祐巳ちゃんだけだよね?」
「はい。祐巳以外は誰も私の妹には成り得ません」
 それが聞ければ十分だ。もう私がどうこうする余地は無い。後は彼女達自身が解決する
ことだろう。
 グラスの氷が溶けてしまい、すっかり味が薄くなったアイスコーヒーを一気に飲み干し
て、私は帰ることにした。
「もう、お帰りなるんですか」
「うん。もう私の役目は終りそうだしね。そんな大変な時にお邪魔して悪かった」
 祥子はわざわざ屋敷の外に出て、私を見送ってくれた。そこまで出来る余裕があるのな
らば、やはり彼女達は大丈夫なんだろうと安心出来た。
「じゃ、ごきげんよう」
「ごきげんよう聖さま」
 私は手を挙げて挨拶し、小笠原の屋敷を後にした。

 記憶が無い。というよりか、意識が無い。私、福沢祐巳は本当に今もなお福沢祐巳なん
だろうか。
 あの雨の日に倒れて以来、一日数時間分の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっている。
しかも、日々その記憶の無い時間が多くなってきていた。
 主に夜の時間帯に何をしていたのか全く思い出せない。そう、記憶が曖昧なんて生易し
いものではなく、記憶そのものが無い。
 覚えていたものを忘れてしまったのならば、その覚えていた事柄の痕跡なり手掛かりな
りあるはずだけど、私のこの記憶喪失は、そういった「覚えていた」という事実がまるで
存在していない。
 初めから無いものはどうやったって思い出せるはずが無いのだから。
 だから、私の記憶が無かったのではなくて、「私」という意識、人格が欠落しているの
かもしれない。だとすれば、一日数時間の空白の間には私以外の「私」が活動しているこ
とになる。つまり多重人格だと。
「昨日の夜、私何をしていたっけ?」
 そんなこと聞けるはずもなかった。ただでさえ両親には心配をかけてしまっているのに
記憶喪失だとどうして言えようか。でも、どうしたらいいんだろう。分からない。
 もうすぐ「私」の意識が無くなって、「別な私」が活動し始める時間だ。怖い。私が、
私で無くなるなんて……怖い。

 夕方の四時ごろ。祥子の屋敷からの帰りに車を走らせていると、前方の歩道には見知っ
た後姿の生徒が見える。あれは祐巳ちゃんだろう。
 速度を落とし、後ろから軽くクラクションを鳴らしてみるけれど反応が無く、すたすた
と早足で歩いている。
「お〜い祐巳ちゃん」
 呼んでも全く返事が無い。人違いかと思って追いついて横顔を見たけれど、やはり間違
いなく祐巳ちゃんだった。左右で揺れる青黒い髪のツインテール。
「祐巳ちゃん? どうしたの?」
 私の声なんて全く意に介していないようだった。
 何か怒らせるようなことをしたのか自問してみるも思い当たる節が無い。彼女の表情は
能面のように無表情で、瞳には私が映っていないかのように思えた。
「祐巳ちゃん……?」
 急に走り出した。普段見るよりか段違いな早さで。
「ちょっと待ってよ!」
 慌てて車のアクセルを踏んで後を追ったけれども、車では入っていけないような細い路
地へと走り去ってしまった。
 何故逃げるように去ったのか釈然とせず、車を停めた私は降りて、祐巳ちゃんの後を付
いて走る。
 速い。あんなに足が速かったっけ。全力で追いかけてみても差は縮まるどころか開く一
方で、どうも追いつけそうに無い。はぁはぁと全身で息をしながらも追いかけてみたけれ
ど結局は巻かれてしまった。
   訳が分からない。一体何があったんだろう。考えていても私にはどうしようも無かった
ので、すごく気になるけれどそのまま帰ることにした。

 暗い。何も見えない。体の感覚が無くて、今自分がどうなっているのかさえ分からない
けれど、どうも頭だけは動いてくれるようだ。でも、手を動かそうと思っても足を動かそ
うと思ってもいのままに動いてくれないのはかなり気味が悪い。
「あら、目が覚めてしまったのね」
 真っ暗闇の中から現れたのは……私だった。そんなバカな!! じゃあ、こうしてもの
を考えているのは誰? 私は私だ。
「あなたは誰なの?」
「私? 私はフクザワユミよ」
 にやっとフクザワユミが笑う。そんな、そんなことがあるわけない!
「そんなの嘘よ! 私が、私なんだから!」
「何を言い出すかと思えばそんなこと? あなたは私。私はあなた。お分かり?」
 分かるわけが無い。じゃあ「私」が二人いるってこと? 本当に私は多重人格者になっ
てしまったの?
「私はね、あなたなの。今、あなたの体を借りているだけ」
「返して! 私は私なんだから!」
 ふふっとフクザワユミは薄く笑った。何が可笑しいのだろう。
「そんなに返して欲しいのならば返してあげるわ。ほら、どうぞ受け取んなさい」
 暗闇から一気に光溢れる世界へと意識が戻り、あまりの明るさに目が開けられない。じ
っと目を閉じて外の光に目を慣らし、徐々にまぶたを上げていった。
 そして目に映ったものは――
「きゃあぁぁぁぁ!!」
 な、何よこれは……どうして、目の前に凍った死体なんて……。
 私の足元には氷漬けになった高校生の死体が転がっている。一人は花寺の制服で、もう
一人はリリアンの制服を着ていた。彼女達の表情はものすごく怯えているようで、最期に
とてつもなく恐ろしいものを見たんだろうか。
 夕暮れ時の人通りの少ない細い路地。沈みつつある夕日は氷をオレンジ色に染め上げる。
とにかく、ここから逃げなくちゃ。私がやったんじゃない。そんな人を氷漬けにするなん
て出来るわけが無い。
 走って走って走った。呼吸は荒く、お腹が痛くなり、足がふらつき壁にもたれかかった。
そこから先、私の意識は無くなってしまった。

 その電話がかかってきたのは夜の七時ごろ、夕食でも作ろうかなと仕度をしていた時だ
った。
 電話の主は祐麒、内容は下校途中の祐巳ちゃんが倒れて病院へ運ばれたというものだっ
た。歩道で倒れていたという祐巳ちゃんを見つけた人が救急車を呼び、近くの病院へと運
ばれた。
 けれども症状は大したことは無かったらしく、今では会話も可能だということである。
 面会時間は夜八時までだったので、夕食の準備をほったらかして車を飛ばし、病院へと
急行した。受付で祐巳ちゃんの病室を訊ね、五階の一般病棟にいる祐巳ちゃんを訪れた。
 病室には弟の祐麒しかおらず、両親は買出しに出かけたという。
 ベッドで横たわる祐巳ちゃんは少しやつれた感じだったけれど、意識はしっかりとして
いるようだ。
「ごきげんよう祐巳ちゃん。具合はどう?」
「ごきげんよう聖さま。おかげでさまで大丈夫です。明日には退院できるので、学校にも
行けるみたいです」
 微笑む祐巳ちゃんの笑顔はどこか痛々しかった。無理しているのが簡単に分かってしま
う。こんな時の百面相なんて面白くも何ともなかった。
「明日から学校行くの? 一日ぐらい休んでもいいじゃないか?」
「お姉さまのこともありますから……」
 今日祥子から聞いた話を伝えようと思ったけれど、これは彼女達自身で解決すべきこと
だと思ったので、私は口に出さなかった。
「そうか。ところで、急な電話だったから何も持って来れなくてごめんね」
「そんなこと気にしないで下さい」
 外は日が暮れてしまい、空を覆う暗い雨雲はいよいよ厚みを増し、今にも雨が降りそう
な蒸し暑い空気が部屋を漂っている。
 私がしばらく祐巳ちゃんの様子を眺めていると、思いつめたような顔をした祐巳ちゃん
は祐麒に少しの間席を外すようにお願いした。
「分かった。外で待ってるから、終ったら呼ぶんだぞ」
「うん。ごめんね」
 そうして部屋は私と祐巳ちゃんの二人きりとなってしまった。場所が場所だけにどうも
嬉しい気分にはなれない。
「聖さま……」
 窓の外の暗闇を見つめながら祐巳ちゃんは囁くように呼んだ。
「何、祐巳ちゃん」
 私は努めて優しい笑顔で応える。
「笑わないで聞いて下さいね。最近、私一日の内、何時間か記憶が全く無いんです。私の
中の別な私がいるみたいで怖いんです。どうしたらいいですか? もう一人の私が何をし
ているのか全然分からなくて……今日だって目が覚めると目の前に……死体が……」
 それきり次の言葉は無く、祐巳ちゃんは声を殺して泣いていた。私はただ祐巳ちゃんの
頭を撫でて気分を落ち着かせてやることしかできない。
 残念ながら私は医者でも神様でも何でもないただの大学生で、そんな私がしてやれるこ
とと言ったら、彼女を落ち着かせて気分を少しでも楽にしてやるぐらいしか出来なかった。
 大切な人が困っているのに自分では助けてやれない。これほど自分が無力でちっぽけな
存在だと思わなかった。
 私は無力だ。でも、せめて心の支えぐらいにはなってやりたい。
「とにかく今はゆっくり休もう。最近色々あって疲れてるんだよきっと」
 こんな薄っぺらい言葉しか言えなかった。ごめん。本当にごめん。
「分かりました。多分疲れてたんですよきっと……」
 それだけ言って祐巳ちゃんは目を閉じた。涙を親指ぬぐった後、私は病室を後にした。
「聖さん。もういいですか?」
「うん。今寝てるからなるべく静かにね。じゃ」
 私が家に着く頃には雨が降り出し、雷まで鳴る強い雷雨だった。窓を叩きつける雨音が
気になって、その晩私はほとんど眠ることが出来なかった。

To be continued→