「Melting with you」
Written by ユラ
プロローグ
「……聖さま」
六月のある雨の日、授業を終えた私は黒の紳士用の傘を差して歩いていた。そして校門
まであと数メートルのところで、聞き慣れた声で呼ばれたような気がしたから、立ち止ま
って振り返ってみる。
そこには反り返った赤い折り畳み傘を片手に全身が濡れそぼっている、祐巳ちゃんが泣
きそうな表情で立ちすくんでいた。
「祐巳ちゃん!? 何があったの?」
私の顔をみるや傘も鞄もその場に放って胸元へ飛び込み泣き出し始めた。あまりのこと
で、私は祐巳ちゃんの背中を撫でてあやしてやるぐらいしか出来ない。
とにかく彼女を落ち着かせてやらないと、とは思うけど中々に泣き止む様子はなさそう
だ。だからしばらくの間抱きしめてあげた。すると見知った顔が近づいてくる。
「祥子?」
私と祥子、お互い正面を向き合っているけれども何も言葉を発しない。祥子は「祐巳」
と冷えた声で祐巳ちゃんを呼ぶけれども、本人は首を振るばかりで祥子には応えようとし
ない。
「お世話をおかけします」
祥子はそれだけ言って、拾った祐巳ちゃんの折り畳み傘と鞄を私に手渡して、行ってし
まった。
私から傘だけを受け取った祐巳ちゃんは、それを握り締めたまま走り出した。
「お姉さま!!」
祥子の乗った黒塗りの乗用車の後追うように走り、祐巳ちゃんは叫んだ。
さすがに自動車には到底追いつけるわけもなく、祐巳ちゃんは祥子の乗った車に置いて
行かれてしまった。
再び泣き崩れるた祐巳ちゃんはその場に座り込んだ。その瞬間真っ白な光が視界を覆い
何も見えなくなった。
「祐巳ちゃん!!」
反射的に閉じたまぶたを少しずつ開き、祐巳ちゃんの姿を確認した私は、祐巳ちゃんの
あまりの豹変ぶりに声が出なかった。髪が真っ青に染まっていたのだから――
この強い雨の中うつぶせに倒れている祐巳ちゃんに駆け寄り、「大丈夫?」と声をかけ
るも、何も反応が無く、まさかと思って脈を取ってみると確かな鼓動が感じられた。
一瞬訪れた安堵を端にのけ、このまま放って置けるはずも無いので、彼女を背におぶっ
て高等部の保健室まで連れて行った。
「特に体には問題は無いようね。おそらくこれは強い精神的なショックのせいで気絶して
しまったんでしょう」
校医の先生が祐巳ちゃんの症状をそう診断した。
「でも髪の色まで変わるなんて、どういうことなのかしらね……」
突然の光の後、祐巳ちゃんの髪は根元から鮮やかに過ぎるぐらいの鮮烈な青色に染まっ
ていた。原因はもちろん不明だ。
「変色の原因はともかく、福沢さんのことはお家の方に私から連絡しておくから」
「お願いします」
一度頭を下げた私はベッドで眠る祐巳ちゃんの方を見た。制服はぐっしょりと濡れてし
まっているため、今は貸し出し用の体操服姿で眠っている。
ベッドの傍らまで歩いてに祐巳ちゃんの側で屈み、額に手を当てて具合を伺ってみた。
小さな寝息を立てて眠る横顔を見守った後、保健室を出た。
第一章
講義が午後からのため昼直前まで惰眠を貪った私は、濁った頭を覚ますため、眠たげな
目をこすりながらテレビの電源を入れた。
ちょうど昼のニュース番組の時間帯らしく、灰色のスーツを着た男性アナウンサーが、
淡々とニュースを読み上げるのが目に入る。
「次のニュースです。昨日、東京都武蔵野市の井の頭公園で、若い男女の凍死体が発見さ
れました。被害にあったのは、都内に住む学生中根拓郎さん二十三歳と、同じく都内に住
む学生時岡春芽さん十九歳で、今朝の六時ごろ、園内をジョギング中の男性が発見し通報
しました。
警察の調べでは遺体が氷漬けにされており、解剖の結果二人の死因は凍死だと判断され
ています。この異常な死因から猟奇殺人も視野に入れて捜査を進める方針です。次のニュ
ースです……」
この六月の蒸し暑い梅雨の時期に凍り付いた死体が発見されるなんて……。しかも自分
が住んでいる街の中で起こった事件だから、より一層気味が悪い。
そんなニュースよりも祐巳ちゃんのことも気になる。ああなってしまった原因はやっぱ
り噂に聞くあの縦ロールの子なんだろうか。大きなお世話かもしれないけれど、時間があ
れば調べてみようと思う。
洗面所で顔を洗って、歯を磨いたあと遅めの昼食を軽く摂って学校へ行くことにした。
昨日、雨の中で倒れてから以降の記憶がどうも曖昧で気持ちが悪い。
確か真っ白な光が眩しいな、と感じた後からの記憶と、お父さんに迎えに来てもらって
家に帰ってから、お風呂に入って着替えた後の記憶がはっきりしない。
私は何処で何をしてたんだろう。
さっきからそれを思い出そうと、頭をフルに使っているため授業なんてこれっぽっちも
頭に入ってこない。音が右から左へと流れていくだけだ。
記憶が不確かなことも問題だったけれど、髪の毛も大問題だ。昨日の夜、お風呂に入る
ときに脱衣所の鏡を見た瞬間、大袈裟でも何でもなく、文字通りひっくり返りそうになっ
た。
「髪が青い!? どうして??」
保険の先生から事情を聞いたお父さん曰く、私が保健室へ担ぎ込まれた時には既に髪は
青く染まっていたという。
どういう理由で、雨の中倒れただけで髪なんて染まってしまったのか、その原因は今も
全然分かっていなかった。理由はともかく、このままではあまりにも目立つので、お母さ
んの白髪染めを借りてお風呂でなんとか黒に戻した。
でも、鏡の近くで見ると青黒い色が目に映る。
学校の方には今朝届出をしたので、頭髪の関してとやかく言われることは無いけれど、
朝から出会う人で会う人に、
「もしかして髪染めた?」
「なんか違うなぁと思ったら髪の色が変わってるじゃないの」
といった反応をされてしまうので、目立っていることには変わりは無かった。
「ごきげんよう祐巳さん。昨日倒れたって聞いたけど、もう大丈夫なの?」
「ごきげんよう由乃さん。体の方は一晩寝たから大丈夫」
数ヶ月前まで心臓の持病を患っていた由乃さんに体調を心配されるのも変な話だと思っ
たけれど、心配してもらえて素直に嬉しかった。
「その髪どうしたの? もしかして祥子さまへの反抗?」
「それがいつの間にか色が変わってたの。だから別に反抗っていうわけじゃないよ」
朝からそんなやり取りをして気を紛らわせようとしていたけれど、祥子さまとの問題は
流れが悪い方へと向いている感じがして未だに解決策が見出せないでいる。
その上染まってしまった髪に、記憶の欠落、と時が経つにつれ私を取り巻く状況は悪く
なる一方だった。
私を保健室まで運んでくれたのは聖さまだということなので、お礼を述べようと帰りに
大学のキャンパスを少し覗いて行くことしよう。
今日の授業を終えて、帰りに薔薇の館に寄ることにした。祥子がいれば直接本人から事
情を訊くつもりでいたし、いなくても他のメンバーから出来る限り情報を集めてみようと
思っていた。
大学のキャンパスから高等部の敷地、そして見慣れた中庭から薔薇の館へと足を運んだ。
最後にこの扉を開いたのが三ヶ月前。まだ、たったの三ヶ月しか経っていないのに再びこ
の扉を開くことになるなんて、と少し感傷的になってしまった。
館の中もやはり卒業した時のままだった。ぎしぎし軋む階段を上り、ビスケット扉をノ
ックもせずに開く。
「ごきげんよう」
「聖さま!?」
「お姉さま?」
二階には、令に由乃ちゃん、志摩子にもう一人見慣れない顔の子が一人。多分あの子が
志摩子の妹なんだろう。どうやら祥子と祐巳ちゃんはいないようだ。
「お久しぶり。ところで祥子は今日来てる?」
「いいえ、今日は休んでいます」
作業をの手を止めて令は答えてくれた。
「じゃあ祐巳ちゃんは来てる?」
「え? 祐巳さんは聖さまに会いに大学のキャンパスの方へ行ったんですが……」
今度は由乃ちゃんが答えてくれた。祐巳ちゃんと私は行き違いになってしまったみたい
だ。本人を抜きに動くのも少し負い目を感じるけれど、やれる時にはやっておこう。
「お姉さま、どうぞ」
席を勧めてくれた志摩子の言葉に甘えてイスに座った私は、この場にいる全員に問いか
けてみた。
「最近、祐巳ちゃんと祥子の間に何があったのか知ってる?」
この話題はどうもアンタッチャブルだったみたいだ。皆視線を下げて私と目を合わさな
いようにしている。この沈黙を破ったのは由乃ちゃんだった。
「今、祐巳さんと祥子さまの間にはすれ違いがあるようです。その、原因かもしれないの
が……」
由乃ちゃんはそれきり口をつぐんでしまった。それを補うように私は続けた。
「縦ロールの子、でしょう? どうも私の知る限りその縦ロールの子が原因だと思う。た
とえ本人には悪気が無かったとしても」
「その子、松平瞳子っていうのですけど、その松平瞳子に祥子さまの妹の座を取られるん
じゃないかって祐巳さんは思っているようなんです」
由乃ちゃんはそれだけ言うと下をうつむいた。それ以降他の誰も口を開こうとしない。
彼女達から得られそうな情報はこれぐらいかな。やはり本人の口から直接聞いた方がい
いかも。
「お邪魔して悪かったね。それではお邪魔虫はこれで消えることにするから。じゃ、ごき
げんよう」
私は薔薇の館を後にして、大学のキャンパスへもう一度戻り祐巳ちゃんの姿を探したけ
れども、見つからず今日はそのまま帰ることにした。
第二章
朝の七時。目覚まし時計の規則正しく、それがかえって煩わしい電子音に叩き起こされ
た私は、ばしんと強く叩くようにボタンを押して、アラームを止め、ゆっくりとベッドか
ら体を起こした。
眠気を弾き飛ばすように、頭を強く二、三回左右に振る。
枕元に置いていた携帯電話を掴み取り、祥子の自宅の電話番号をメモリから呼び出し、
通話ボタンを押した。
四回目のコールで使用人の誰かが出たので、自分の名前と用件を伝え、祥子へと取り次
いでもらった。
「お久しぶり、ごきげんよう」
『ごきげんよう。聖さまからお電話なんて珍しいですわね』
祥子の声は以前よりも覇気というものに欠けているような気がした。張りが無いという
か、力がないというか。
「今日は学校に行くの?」
『いえ、今日も用があるので休みますわ』
「急で悪いんだけど、今日会えないかな? 訊きたいことがあるんだ」
『訊きたいこととは祐巳のことですね……それでは今日の午後二時からということで、よ
ろしいですか』
今日の授業は全て自主休講にするつもりだったから、何時だろうと構わなかった。
「それでいいよ。じゃ、今日の二時に行くから」
通話を終えた後、枯葉も山の賑わいということで、テレビをつけてみた。
「……今日の午前一時ごろ、路上に駐車していた乗用車から若い男女の凍死体が発見され
ました。遺体の状況と死因が先日の事件と同様のため、警察捜査本部では、同一犯の連続
殺事件として捜査を進めています。
どちらの事件も目撃情報が乏しく、また物的証拠も全く見つかっていないため、捜査は
難航している模様です……」
また凍死体が見つかった。方法なんて全く思い浮かばないけれど、何故凍らす必要があ
るんだろう。ここ最近急に物騒になってきたな。私も気をつけないと。
午後一時三十分曇り空の中車を走らせ、小笠原の屋敷へと向かった。その道中で巡回中
のパトカーの姿をよく見かけたのは、あの異常な殺人事件の影響なんだろう。
屋敷に着いたのは約束の時間より十五分も早い一時四十五分。
久しぶり見た屋敷は、相変わらず広く、なんとなく自分が場違いな場所へと来てしまっ
たような錯覚に陥る。
十台は停められそうな広々とした駐車場の一番右端に停め、車を降りて玄関まで行くと
祥子本人が出迎えてくれた。
「ごきげんよう聖さま」
「ごきげんよう祥子。わざわざ出迎えてもらって悪いね」
祥子の案内が無ければ迷ってしまいそうなほど広大な屋敷を歩き、祥子の私室へと招か
れた。誰にも聞かれず、落ち着いて話をするには応接室より、ここの方がいいだろう。
「お飲み物は何にされますか」
「アイスコーヒー、ブラックでお願い」
祥子は内線電話で二人分の飲み物を注文し、それから二分ほどで給仕の人が部屋まで紅
茶とアイスコーヒーを乗せてやってきた。
薔薇の館にいる頃にはさんざん給仕してもらったけれど、プロにしてもらうことになん
てそう慣れていないせいか、どうにも気分が落ち着かない。
テーブルに二人分の飲み物とお茶請けが置かれ、私と祥子は向かい合うようにイスに座
っている。
さて、ここからが本番だ。私は何の小細工も無く、率直に祐巳ちゃんとのすれ違いにつ
いて訊ねることにした。
「率直に訊くけれど、あの縦ロールの子を妹にするつもり?」
祥子は紅茶のカップを持つ手が止まってしまっている。それだけでなく、思考までも止
まってしまっているのではないかと思ってしまった。
それぐらい祥子の動きや表情が硬直していた。これは動揺からくるものなのか?
「瞳子ちゃんが私の妹に? そんなこと有り得ませんわ。私の妹は祐巳ただ一人だけです
から」
祥子は私の目を真っ直ぐと見てはっきりと断言した。そこには嘘や誤魔化しなんてものは
見られなかった。
「じゃあ何故祐巳ちゃんにそう言ってやらないんだ? そのせいであんな……」
祥子はカップを皿に置くと、かちゃりと陶器特有の高い音が静かな部屋に響く。そして、
俯いた祥子は静かに語り始めた。
「そうしてあげれば良かったのですが、私自身、最近色々とあって余裕が無かったもので
すから。というのは、私の母方の祖母が危篤状態で、ここ何日かその祖母の家と学校を往
復する日々でした。瞳子ちゃんは一応親類当たりますのでお見舞いの付き添いで一緒だっ
たのですわ」
「ということは、妹どうこうという話じゃ無かったと」
祥子は小さく「ええ」と頷いた。
祖母が危篤のせいで、自身がいっぱいいっぱいで祐巳ちゃんにまで気が回らなかった。
祐巳ちゃんの方も誤解していただけ。それがすれ違いの原因か。それならばお互いじっく
りと話をする機会が持てれば、おそらく解決できるだろうと思った。
「もう一度訊くけど、妹は祐巳ちゃんだけだよね?」
「はい。祐巳以外は誰も私の妹には成り得ません」
それが聞ければ十分だ。もう私がどうこうする余地は無い。後は彼女達自身が解決する
ことだろう。
グラスの氷が溶けてしまい、すっかり味が薄くなったアイスコーヒーを一気に飲み干し
て、私は帰ることにした。
「もう、お帰りなるんですか」
「うん。もう私の役目は終りそうだしね。そんな大変な時にお邪魔して悪かった」
祥子はわざわざ屋敷の外に出て、私を見送ってくれた。そこまで出来る余裕があるのな
らば、やはり彼女達は大丈夫なんだろうと安心出来た。
「じゃ、ごきげんよう」
「ごきげんよう聖さま」
私は手を挙げて挨拶し、小笠原の屋敷を後にした。
記憶が無い。というよりか、意識が無い。私、福沢祐巳は本当に今もなお福沢祐巳なん
だろうか。
あの雨の日に倒れて以来、一日数時間分の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっている。
しかも、日々その記憶の無い時間が多くなってきていた。
主に夜の時間帯に何をしていたのか全く思い出せない。そう、記憶が曖昧なんて生易し
いものではなく、記憶そのものが無い。
覚えていたものを忘れてしまったのならば、その覚えていた事柄の痕跡なり手掛かりな
りあるはずだけど、私のこの記憶喪失は、そういった「覚えていた」という事実がまるで
存在していない。
初めから無いものはどうやったって思い出せるはずが無いのだから。
だから、私の記憶が無かったのではなくて、「私」という意識、人格が欠落しているの
かもしれない。だとすれば、一日数時間の空白の間には私以外の「私」が活動しているこ
とになる。つまり多重人格だと。
「昨日の夜、私何をしていたっけ?」
そんなこと聞けるはずもなかった。ただでさえ両親には心配をかけてしまっているのに
記憶喪失だとどうして言えようか。でも、どうしたらいいんだろう。分からない。
もうすぐ「私」の意識が無くなって、「別な私」が活動し始める時間だ。怖い。私が、
私で無くなるなんて……怖い。
夕方の四時ごろ。祥子の屋敷からの帰りに車を走らせていると、前方の歩道には見知っ
た後姿の生徒が見える。あれは祐巳ちゃんだろう。
速度を落とし、後ろから軽くクラクションを鳴らしてみるけれど反応が無く、すたすた
と早足で歩いている。
「お〜い祐巳ちゃん」
呼んでも全く返事が無い。人違いかと思って追いついて横顔を見たけれど、やはり間違
いなく祐巳ちゃんだった。左右で揺れる青黒い髪のツインテール。
「祐巳ちゃん? どうしたの?」
私の声なんて全く意に介していないようだった。
何か怒らせるようなことをしたのか自問してみるも思い当たる節が無い。彼女の表情は
能面のように無表情で、瞳には私が映っていないかのように思えた。
「祐巳ちゃん……?」
急に走り出した。普段見るよりか段違いな早さで。
「ちょっと待ってよ!」
慌てて車のアクセルを踏んで後を追ったけれども、車では入っていけないような細い路
地へと走り去ってしまった。
何故逃げるように去ったのか釈然とせず、車を停めた私は降りて、祐巳ちゃんの後を付
いて走る。
速い。あんなに足が速かったっけ。全力で追いかけてみても差は縮まるどころか開く一
方で、どうも追いつけそうに無い。はぁはぁと全身で息をしながらも追いかけてみたけれ
ど結局は巻かれてしまった。
訳が分からない。一体何があったんだろう。考えていても私にはどうしようも無かった
ので、すごく気になるけれどそのまま帰ることにした。
暗い。何も見えない。体の感覚が無くて、今自分がどうなっているのかさえ分からない
けれど、どうも頭だけは動いてくれるようだ。でも、手を動かそうと思っても足を動かそ
うと思ってもいのままに動いてくれないのはかなり気味が悪い。
「あら、目が覚めてしまったのね」
真っ暗闇の中から現れたのは……私だった。そんなバカな!! じゃあ、こうしてもの
を考えているのは誰? 私は私だ。
「あなたは誰なの?」
「私? 私はフクザワユミよ」
にやっとフクザワユミが笑う。そんな、そんなことがあるわけない!
「そんなの嘘よ! 私が、私なんだから!」
「何を言い出すかと思えばそんなこと? あなたは私。私はあなた。お分かり?」
分かるわけが無い。じゃあ「私」が二人いるってこと? 本当に私は多重人格者になっ
てしまったの?
「私はね、あなたなの。今、あなたの体を借りているだけ」
「返して! 私は私なんだから!」
ふふっとフクザワユミは薄く笑った。何が可笑しいのだろう。
「そんなに返して欲しいのならば返してあげるわ。ほら、どうぞ受け取んなさい」
暗闇から一気に光溢れる世界へと意識が戻り、あまりの明るさに目が開けられない。じ
っと目を閉じて外の光に目を慣らし、徐々にまぶたを上げていった。
そして目に映ったものは――
「きゃあぁぁぁぁ!!」
な、何よこれは……どうして、目の前に凍った死体なんて……。
私の足元には氷漬けになった高校生の死体が転がっている。一人は花寺の制服で、もう
一人はリリアンの制服を着ていた。彼女達の表情はものすごく怯えているようで、最期に
とてつもなく恐ろしいものを見たんだろうか。
夕暮れ時の人通りの少ない細い路地。沈みつつある夕日は氷をオレンジ色に染め上げる。
とにかく、ここから逃げなくちゃ。私がやったんじゃない。そんな人を氷漬けにするなん
て出来るわけが無い。
走って走って走った。呼吸は荒く、お腹が痛くなり、足がふらつき壁にもたれかかった。
そこから先、私の意識は無くなってしまった。
その電話がかかってきたのは夜の七時ごろ、夕食でも作ろうかなと仕度をしていた時だ
った。
電話の主は祐麒、内容は下校途中の祐巳ちゃんが倒れて病院へ運ばれたというものだっ
た。歩道で倒れていたという祐巳ちゃんを見つけた人が救急車を呼び、近くの病院へと運
ばれた。
けれども症状は大したことは無かったらしく、今では会話も可能だということである。
面会時間は夜八時までだったので、夕食の準備をほったらかして車を飛ばし、病院へと
急行した。受付で祐巳ちゃんの病室を訊ね、五階の一般病棟にいる祐巳ちゃんを訪れた。
病室には弟の祐麒しかおらず、両親は買出しに出かけたという。
ベッドで横たわる祐巳ちゃんは少しやつれた感じだったけれど、意識はしっかりとして
いるようだ。
「ごきげんよう祐巳ちゃん。具合はどう?」
「ごきげんよう聖さま。おかげでさまで大丈夫です。明日には退院できるので、学校にも
行けるみたいです」
微笑む祐巳ちゃんの笑顔はどこか痛々しかった。無理しているのが簡単に分かってしま
う。こんな時の百面相なんて面白くも何ともなかった。
「明日から学校行くの? 一日ぐらい休んでもいいじゃないか?」
「お姉さまのこともありますから……」
今日祥子から聞いた話を伝えようと思ったけれど、これは彼女達自身で解決すべきこと
だと思ったので、私は口に出さなかった。
「そうか。ところで、急な電話だったから何も持って来れなくてごめんね」
「そんなこと気にしないで下さい」
外は日が暮れてしまい、空を覆う暗い雨雲はいよいよ厚みを増し、今にも雨が降りそう
な蒸し暑い空気が部屋を漂っている。
私がしばらく祐巳ちゃんの様子を眺めていると、思いつめたような顔をした祐巳ちゃん
は祐麒に少しの間席を外すようにお願いした。
「分かった。外で待ってるから、終ったら呼ぶんだぞ」
「うん。ごめんね」
そうして部屋は私と祐巳ちゃんの二人きりとなってしまった。場所が場所だけにどうも
嬉しい気分にはなれない。
「聖さま……」
窓の外の暗闇を見つめながら祐巳ちゃんは囁くように呼んだ。
「何、祐巳ちゃん」
私は努めて優しい笑顔で応える。
「笑わないで聞いて下さいね。最近、私一日の内、何時間か記憶が全く無いんです。私の
中の別な私がいるみたいで怖いんです。どうしたらいいですか? もう一人の私が何をし
ているのか全然分からなくて……今日だって目が覚めると目の前に……死体が……」
それきり次の言葉は無く、祐巳ちゃんは声を殺して泣いていた。私はただ祐巳ちゃんの
頭を撫でて気分を落ち着かせてやることしかできない。
残念ながら私は医者でも神様でも何でもないただの大学生で、そんな私がしてやれるこ
とと言ったら、彼女を落ち着かせて気分を少しでも楽にしてやるぐらいしか出来なかった。
大切な人が困っているのに自分では助けてやれない。これほど自分が無力でちっぽけな
存在だと思わなかった。
私は無力だ。でも、せめて心の支えぐらいにはなってやりたい。
「とにかく今はゆっくり休もう。最近色々あって疲れてるんだよきっと」
こんな薄っぺらい言葉しか言えなかった。ごめん。本当にごめん。
「分かりました。多分疲れてたんですよきっと……」
それだけ言って祐巳ちゃんは目を閉じた。涙を親指ぬぐった後、私は病室を後にした。
「聖さん。もういいですか?」
「うん。今寝てるからなるべく静かにね。じゃ」
私が家に着く頃には雨が降り出し、雷まで鳴る強い雷雨だった。窓を叩きつける雨音が
気になって、その晩私はほとんど眠ることが出来なかった。
第三章
最近のニュースの話題は凍結した変死体のことで持ちきりだった。
「昨日の午後六時ごろ、下校途中の花寺学院高校二年小田原俊輔君十七歳とリリアン女学
園一年石切可奈さん十六歳の凍死体が発見され、第三の氷結殺人事件として捜査が進めら
れています。三件の事件には主だった証拠が発見されていないため容疑者の特定は難航を
極めている模様です。
事件に共通しているのは、被害者のいずれも十六歳から二十三歳の若い男女であり、警
察は登下校の際にはなるべく集団で移動するよう学校に指導していますので……」
この街では既に三件も殺人事件が立て続けに起こっている。しかもすべての事件の死因
が「凍死」という異常極まりないものだ。こんな暑い時期にどうやったら凍ってしまうん
だろうか。動機や方法が全く分からない。
もし、祐巳ちゃんが昨日言ってたことが本当だとしたら犯人は……いや、こんなことを
考えるのはよそう。今は事件の犯人探しどころじゃない。
昨日は授業を全て休んでしまったので、今日ぐらいは真面目に行っておこうかな。
犯人探しをしたいわけじゃないけれど、祐巳ちゃんを安心させたいがために、本人には
悪いが、後を付けさせてもらうことにした。
ここ数日、祐巳ちゃんは薔薇の館には近寄っていないらしい。やはり祥子に遠慮してい
るせいなのか。
そういうことで、寄り道することも無く祐巳ちゃんは真っ直ぐ下校する。気取られない
ように後を付けるのは思いのほか気を使う。
普段は気にならない小さな挙動にもいちいち反応してしまい、傍から見ると私が付けて
るのがもろにバレているのかもしれない。
バス通学のはずの祐巳ちゃんは、バス停を通過しさらに歩いていく。何処へ行くつもり
なんだろう。方角は一応祐巳ちゃんの家に向かってはいるけれど、油断は出来ない。
走った。前日と同じように走るのが速かったけれどなんとか後を付いて走る。
道を一本曲がり、あまり人通りの無い細い路地を駆けていく祐巳ちゃん。やっぱり速い。
置いていかれそうになるのを必死に追走する。
「うわぁぁぁぁ!!」
突然発せられる男の悲鳴。祐巳ちゃんが曲がった路地を同じように曲がった瞬間そこに
は……
「ちょっと……何やってるの祐巳ちゃん!!」
祐巳ちゃんは大学生ぐらいの男の首を掴み上げ、見る見るうちに氷結させていった。う
つ伏せに倒れている女の子は、男の恋人だろうか。とにかく止めないと。
男を氷漬けにした祐巳ちゃんは死体を放り投げ私の方に向き直った。髪は真っ青に染ま
り、目も同じように鮮烈な青、逆に肌は雪のように真っ白で血の気が全く感じられない。
「祐巳ちゃん?」
「あら、見たのね。残念だけどあなたも一緒に彫刻の一つに加わんなさいな」
やばい、逃げなくちゃ。逃げようと走り出したけれども、青い祐巳ちゃんに先回りされ
てしまった。なんて身の速さだ。
「大人しくなさい。それでは、ごきげんよう」
さっきの男同様に首を掴まれて持ち上げられる。喉が絞まって息が……。
「はぁいそこまでですぅ」
場にそぐわない気の抜けた声が聞こえたと思うと、二回の銃声が路地に響く。
「うわっ!!」
祐巳ちゃんに壁へ叩きつけられ、背中を強打し息が詰まる。
「あらぁ、はずしちゃいましたねぇ」
民家の屋根から飛び降りてきたのは中学生ぐらいの少女だった。その少女の両手には、
大きく、いかつい黒の銃が握られている。たしかあれは映画とかで見たことがあるデザー
トイーグルとかいう大型の拳銃だったはず。
どうしてあんな少女がこんな物騒なものを持ってるんだろうか。
「お姉さん早く逃げちゃって下さぁい」
私はとにかくこの場を離れようと全速力で走った。倒れていた女の子まで連れて逃げら
れなかったのが辛かった。
青い祐巳と真正面に向かい合って立ち塞がるのは、腰まで伸ばした真っ直ぐな銀髪に真
っ黒なスーツ、そして両手のデザートイーグルを構える見た目は十四、五歳の少女。
「私の邪魔するなんてどこのお馬鹿さんかしら。名乗りなさい」
「いやですぅ。人に名前聞くときはまず自分から名乗れって知らないんですかぁ?」
祐巳は眉間に深い皺を刻み、怒りの表情を露にする。空気が一瞬にして氷点下まで低下
し、水溜りが瞬時に凍り付いていく。
「挑発はお止めなさい。あなたの寿命が短くなるだけよ」
祐巳が左腕を上から下へと振り下ろすと、その手には荒々しく削った細長い氷の塊が握
られていた。さながら氷で出来た無骨な剣のようである。
「やれやれですぅ。私はホワイトっていいます。あなたは何者ですかぁ?」
「私は……フクザワユミ」
二人の距離はおよそ十メートルほど。両者には会話も動作も無い沈黙だけが訪れていた。
先に動いたのは祐巳だった、姿勢を低くしアスファルトが砕けるほどの力で地面を蹴り一
息で間合いを詰め、ホワイトめがけて閃きのような刺突を繰り出す。
「ん!?」
氷の刃がホワイトを貫くよりも先にホワイトは真上に飛び上がり、隙を突いて死角から
二丁拳銃による弾丸の雨を降らせ、ばら撒かれた弾丸は祐巳の右太もも、左肩、左腕を貫
いていた。
傷口から溢れる真っ赤な鮮血がアスファルトに赤黒い染みを作る。
「やるじゃない。少しは遊べそうね」
「無理しないほうがいいと思うですよ?」
ホワイトの軽口にも祐巳は笑って答える。
「私を倒したければこの程度じゃダメよ」
祐巳の撃たれた傷はみるみると塞がっていき、瞬く間に撃たれた傷跡さえ残さず、もと
の白い肌へと戻っていった。
「うわぁ、気持ち悪いですねぇ。再生能力なんて反則ですぅ」
空のマガジンを交換し終えたホワイトは祐巳の眉間に狙いを定め引き金を引く。
「分かってるじゃない。頭を潰せばいいって。でもそう簡単には、ね?」
デザートイーグルから発射された大口径の弾丸は、祐巳の頭を弾き飛ばすことなく、突
如張られた氷の壁にめり込んでいる。
撃ち込まれた弾丸の周辺に細かいヒビが走り、派手な音を立てながら氷の壁は粉々に崩
れた。
「この壁を崩すなんて……なるほど、さすが名前のとおりだわ」
「もうばれちゃいましたかぁ。変に頭が切れるんですねぇ」
ホワイトの特殊な能力によって威力が強化された弾丸は、本来ならば鉄壁の防御力を誇
る氷の壁を粉砕した。
「何時まで遊んでるんだ。早く行くぞ!」
祐巳の後ろからホワイトに向かって歩いてくる少年は苛立ちながら叫んだ。
「少しぐらいいいでしょう? ブラウンのけ〜ち!」
ブラウンと呼ばれた少年は、ホワイトと同じデザインの黒いスーツを身に纏い、腰には
二本の刀、背中には一本の剣、合計三本の刀剣をぶら下げている。ブラウンは祐巳の横を
堂々と歩いてホワイトに近づき、そしてホワイトの頬を左手親指と人差し指でつねった。
「そんなこと言いやがるのはこのお口ですか?」
「痛い痛い。つねるのはやめれですぅ」
祐巳はブラウンの頭に狙いを定めて手に持っていた氷の剣を思い切り投げつけた。
「当たらないって」
振り返らずに背中にぶら下げていた刀を振り下ろし氷の剣を叩き落す。
「ほら、行くぞ!」
「続きはまた今度ですぅ」
黒のスーツの二人組みは一瞬にして走り去っていった。複数のパトカーが鳴らすサイレ
ンの音がだんだん近づき、祐巳もまたその場を後にした。
路地には大小さまざまな大きさの氷の破片、赤黒い血痕、十数個の薬莢と二つの凍死体
だけが残されていた。
全力で走り続け、全身汗びっしょりで息も乱れに乱れまくっている。
「はぁ……もう……大丈夫……かな」
自身の安全が確認できると、さっきの豹変した祐巳ちゃんの姿が鮮明に脳裏に浮かんだ。
真っ青な髪に真っ白な肌、そして冷たすぎる青い瞳。いつもの祐巳ちゃんからは想像で
きないぐらい残酷で凶暴だった。
思い切り走って体は熱いはずなのに、背筋がすうっと寒くなったような気がした。
「あ? さっきのお姉さんだぁ」
とある民家の塀にもたれかかって休んでいると、私を助けてくれた少女ともう一人見知
らぬ少年がこっちに歩いてくる。
「君は……?」
「始めましてですぅ。私ホワイト、でこれがブラウン」
「これ」扱いされた、丸坊主に近いぐらい短く茶色い髪をした、見た目は高校生ぐらい
のブラウンという少年はホワイトの頬をぐいっとつねる。すごく痛そうだな。
「人を物みたいに言うのはこのお口かな?」
「痛いってば! 同じところつねるのはやめれぇ!」
ところで、この二人がここにいるということは祐巳ちゃんはもう……
「ん? あのフクザワユミっていう人は逃げちゃったねぇ。というかコイツが邪魔しなき
ゃ、もっと楽しかったのにぃ」
複雑な気分だった。祐巳ちゃんが生きていることはとても嬉しい。でも、あの青い祐巳
ちゃんがいる限り被害者は増えていくばかりだ……。
「あんた、あいつの知り合いなのか?」
ブラウンは騒ぐホワイトの首根っこを掴み自分の後ろへやった。
「あいつって祐巳ちゃんのこと? 祐巳ちゃんは私の後輩だけど」
「そうか。あんたあの子を助けるつもりはあるのか?」
「ブラウン?」
助けることが出来るならば……。
「当然。何か方法があるの?」
私の答えを聞いたブラウンは一度頷いた後、こんなことを言い出した。
「分かった。詳しい話は俺達の部屋で話したい。来るか?」
「行くよ」
私は躊躇することなく即答した。
「じゃあ付いて来てくれ」
彼らの後ろを付いて歩くこと十五分、そこは十階建てのマンションだった。ここに彼ら
の部屋があるらしい。
ブラウンの腰と背中には合計三本の鞘が掛けられていて、エレベーターの狭い空間では
鞘の存在がより一層目立つ。何時もこんな物騒なものを持ち歩いているんだろうか。
最上階の十階で降り、1010号室のドアの前で立ち止まった。
「入ってくれ」
部屋は質素なもので、必要最小限な物しか置かれていない生活感に乏しい部屋だった。
でも、そんな部屋の中で一際目に付くのは壁に立てかけてある剣や刀だ。その数ざっと数
えて十本はある。こんなたくさん何に使うんだろう。
「どうした? 何かあったのか?」
「いや、別に……お邪魔します」
床に座ったホワイトは懐から二丁の銃をテーブルに置き、それらを分解しメンテナンス
を始めた。すごく楽しそうに見えるのは私の気のせいなのか。
彼女の長い銀髪はとても繊細で、人の髪の毛には思えないほど美しい。見かけはやはり
どうみても中学生ぐらいにしか見えない。
そんな少女がこんなにごつい銃を振り回すなんて違和感があり過ぎる。
冷房の入り始めた部屋に冷たい空気が回り始め、ブラウンはどっかとソファにあぐらを
かいて座った。
「さて、どこから話をすればいいもんか……。そうだな、まず『珠』の話から聞いてもら
おうか」
「それでいいんじゃなぁい」
ホワイトは相変わらず丁寧にパーツを磨いている。よっぽど大切なものなんだろうけれ
ど、物が物だけに、感心は出来ない。
「ちょっと話が長くなるけど辛抱な。初めに『珠』について知ってもらおうか。その、何
だあんたの後輩の……」
「祐巳ちゃん?」
「そう、その祐巳って子が何故あんなバケモンみたいになっちまったのかって話な。あれ
は『珠』と呼ばれる、簡単に言えば恐ろしいほど膨大で、高密度、高濃度な魔力の塊が原
因だ。珠よりも力の質が落ちる『石』と呼ばれるものもあるんだが、それは置いておく。
珠の力は反則的に強力で能力の強さや破壊力が洒落にならない。石とは比べ物にならな
いぐらいに。あの子の戦いを見る限り『色』は青だな。
実は珠には色が付いてるんだ。当然色によって能力が違うってわけだけど、青は水、氷、
雪や冷気を司る色だ。青い珠の根源は『閉鎖』、そうそう根源っていうのは、『それが持
つ根本的な性質』って意味だ。だから青い珠の性質は『閉鎖』、何もかもが閉じていくっ
てことだな。だからあの子の持っている珠を使うと、この世全てを閉ざすことが出来るヤ
バイ代物なんだぜ?」
そこまで一気に説明したブラウンは「喉渇いたな」と言って台所へ行ってしまった。
唐突に「魔力」なんていう非日常な単語を並べ立てられても、理解に困るのだけど、実
際にあの祐巳ちゃんの姿を目で見てしまっているので、納得せざるおえない。
魔力とか根源とか訳が分からないけれど、そういったものが祐巳ちゃんをあんな風にし
てしまったことは、変えようのない事実だった。
「あんたも飲む?」
「いただくよ」
ブラウンから差し出されたオレンジジュースの缶を受け取り、プルを引いて開け、ぐっ
と喉に流し込んだ。
「あれぇ? あたしの分は?」
「無い。お前はその銃でもしゃっぶってりゃいいじゃねぇか」
「ブラウンのけぇぇぇちっ!!」
むぅっと膨れたホワイトは再び銃のメンテナンスを続ける。よっぽど好きなんだ、あの
銃が。
「話の続きだけどな、あんたの後輩があんなんになっちまった原因は分かったか?」
私は小さくだけど頷いた。
「よし、次はもっと根本的な原因の話だ。普通の人間があんな物騒な物を持っているわけ
がない。自分で作ることも理論上可能だけど、やっぱり普通の人間にはそう簡単には実行
出来ないので置いておく。だから、誰かが渡すしかないけれどじゃあ誰がかってことだな。
こんなつまらんことをするのは一人しかいない。そいつの名は『アルレン』。自分で珠
を作り出せる本物のバケモノだ。このアルレンって魔女は趣味が悪いオバサンで、人の絶
望が好むんだなこれが。とてつもなく深い絶望を抱いた人間に近づいてはそそのかし、珠
を使わせてさらなる絶望を連鎖的に生み出させ、それを喜んでいる変態だ。
祐巳って子、最近ひどく落ち込むようなこととかあっただろ?」
ということは、あの雨の日のこと、それが原因で深い絶望を抱いた祐巳ちゃんは……。
なんてことだ。そんなことになるなんて……。祐巳ちゃん、そこまで思いつめてたのか…
「以上が入手経路。最後に珠の所有者を元に戻すにはって話だ。結論から言うと、所有者
を殺すしか無い。肉体を殺すか精神を殺すかのどちらでも構わないが、どちらにせよ殺す
以外には方法が無い。なんせ珠が所有者と同化してるんだから、取り出してはい終わりっ
てわけにはいかないんだ。
まぁ条件が揃えば方法が無いってわけじゃ無いけれどな。あんた去年、大阪で起こった
火事って知ってるだろ?」
今から半年ほど前の十二月に、大阪市の四割が焼けたっていう国内史上最大級に大きな
火災。
ニュースではこれほどの大規模な火災になった原因は、大量に漏れたガスが引火したこ
とに加え、その日大気はひどい乾燥で、さらに強風が吹き荒れたっていう悪条件が重なっ
たって言っていた。
「あの火事の原因って、赤い珠だ。あれはなんとか止められたけど所有者はどうなったと
思う? 実は生きてるんだ。まぁ奇跡が起きたってやつだけどな。だから所有者を殺さず
に元に戻すことが可能だって証明された始めての実例だけど、そんな奇跡頼ってなんかい
られない。俺達はもっと現実的な方法しか取れない。だからあんたにはあの祐巳って子が
死ぬということを覚悟しておいてもらいたい」
祐巳ちゃんが……死ぬ? そんなこと想像すら出来ない。
今の世界から祐巳ちゃんが消えてしまうなんてそんなこと考えたくもない。でも、それ
を現実として受け止めなくてはならない。どうすることも出来ないのだから……。
「ところで、何で彼女がそんなに深い絶望を抱くことになったのか知ってるのか?」
私は、祐巳ちゃんと祥子とのすれ違いについての原因や経緯、そして現状とあの雨の日
の出来事を説明した。
「マズイな。次のターゲットはその祥子って人かもしれないぞ?」
次は祥子が……絶対に止めないと!
「おい、ホワイト準備いいか? 今すぐに行くぞ」
「うん。準備できてるよぉ。お姉さん場所教えてくれる?」
私が祥子の家の住所を言うと、二人は弾丸のように玄関から飛び出していった。
「先に行ってるからねぇ」
私も後を追って走るけれども、あの二人は、エレベーターなんて使わずにマンションの
屋上から、民家の屋根へ飛び移り、そしてまた別な家の屋根へと飛び移って行った。
とてもじゃないけれどそんな真似出来っこないから、仕方なくエレベーターで下りて祥
子の家へと走って行った。このマンションから祥子の家までは走って二十分ほど。
私が着く頃には決着が着いているかも知れないけれど、徐々に薄暗さを増す曇り空の下、
とにかく私は遮二無二走り続けた。
真っ暗闇の中、私の目の前にはもう一人の私が立っている。とにかく、自分を取り戻さ
ないと、また誰かが犠牲になってしまう。
「私を返して」
「何を言うのかしら? もともとこれはあなた自身が望んだことなのに」
もう一人の私はそんなことを言う。私が……人をあんな……殺したいなんて望むわけが
無い。
「もういいわ。消えなさい」
私の意識が消えていく。そんな、私は何も出来ないまま消えるだけなの。そんなの……。
狩りの時間だ。ようやく無駄な抵抗を続ける「私」を押さえ込むことが出来た。さっさ
と譲り渡してしまえばよかったのに手間ばかりかけさせるんだから。
これから先の全ての時間、私がフクザワユミとして活動することが出来る。まずは私が
完成したお礼に小笠原祥子に挨拶をしに行こうかしら。
「待っててね、お姉さま……」
夕暮れ時の曇天の下、ブラウンとホワイトは軽やかな身のこなしで民家の屋根伝いに、
小笠原邸へと最短距離で突き進む。肌に張り付くような湿度の高い空気。もう間もなく雨
が降ることだろう。
閑静な住宅地に一際大きな敷地を誇る、一見すると公園のような大邸宅、それが小笠原
邸であり、そこまでの残す距離は直線距離にしておよそ五百メートルほど。彼らの進む速
さならば三十秒とかからない距離である。
「ブラウン、今の音ってぇ?」
突如響き渡る破壊の轟音。音の発生源は小笠原邸からであり、敷地から粉塵が巻き起こ
っている。
「……急ぐぞ」
さらにスピード上げ、二人は歩道に降り立ち矢のように走り抜けた。
「間に合うか!?」
小笠原邸へ近づくにつれ、二人の目には奇妙なものが幾つも目に入る。
巨大な氷の柱が何本も屋敷に突き刺さっていた。
二人は一気に塀を飛び越え、その先は酷い有様だった。街路樹のように立ち並んでいた
木々は、大部分が氷の矢が突き刺さりへし折れ、整えられていた公園のような庭は瓦礫や
氷の欠片に埋もれている。
祐巳は半壊した屋敷の玄関に前に立っており、掲げた右手の上に浮かぶ巨大な氷柱を振
り下ろそうとしていた。すかさずホワイトは二丁のデザートイーグルで射撃を始め、ブラ
ウンは、状態を低くしながら一気に間合いを詰める。
「せっかくいいところなのに……」
屋敷へ振り下ろそうとしていた氷柱をホワイトへと振り下ろした。巨大な衝撃音と共に、
無数の砂埃に氷の欠片が舞い上がった。
「危ないなぁもう!」
横幅一メートル、長さ十メートルほどの電信柱のような氷柱を、ホワイトは地面を抉る
ぐらい強烈な踏み込みをもって左へと横跳びしてかわす。
その間に祐巳へと接近したブラウンは、腰から刀を一本引き抜いて刺突するが、刃は祐
巳の体を貫くことはなく氷の壁にその刀身を埋め込んでいた。
「今私はあなた達と遊ぶつもりはないの。また別な機会にしなさいな」
「ふざけるな」
ブラウンは力いっぱい刀を引っこ抜き、後ろへ跳んで間合いを放す。
デザートイーグルから放たれた大口径の弾丸が祐巳の右腕を貫き、残りの弾丸は、弾丸
が飛んできた方向へ向かって咄嗟に張られた氷の壁にめり込み、ブラウンの刃を受け止め
た氷の壁にも流れ弾が着弾し、二つの壁は音を立てて崩れ落ちた。
「私は忙しいと言っているのに……いいわ。あなた達からまず先に片付けてあげる」
二の腕からの出血は瞬く間に止まり、祐巳は青いツインテールをなびかせて、自分の邪
魔をする敵に向かって、青い眼に敵意と殺意をたぎらせた視線を飛ばした。
祐巳とブラウンとホワイトの立ち位置はさながら二等辺三角形である。祐巳と二人の間
合いはおよそ八メートルほど。彼らの身体能力では一、二歩で詰めることが出来る「至近
距離」である。
祐巳両手の掌をブラウン、ホワイトに向けたのと、ホワイトが二丁のデザートイーグル
の引き金を引く、ブラウンが背中の剣を引き抜く動作は同時だった。
祐巳の両手からマシンガンのように、人間の拳大の大きさの氷の塊を高速で連射する。
「おっと」
「うわぁ」
二人は素早く回避行動に移るも、祐巳の正確な氷の連続射撃になかなか反撃の隙を見出
せずにいた。
二人が回避すれば庭の折れた木に氷の塊が連続してぶつかり木片を巻き上げ、地面の土
に穴が空き、屋敷の壁が剥がれ落ち、柱が砕け、ガラスの砕ける音が痛ましく響き、ただ
でさえ損傷の酷い小笠原邸にさらにダメージを与えていく。
これ以上の損傷は建物の崩壊を招きかねない危うい状況である。祥子の安否が不明なた
め、屋敷の中に逃げ込んでいる可能性も大いに考えられる。よって、崩壊は絶対に避けな
ければならない事態である。
「埒が明かねぇ!」
ブラウンが腰の刀を抜き祐巳めがけて全力で投げつけようとした瞬間、祐巳の掃射が止
み、祐巳が左手の拳を地面に打ち付けるとブラウンの足元から円錐形の氷柱が生えてきた。
「ブラウン?」
鋭い氷の刃に背中を切られたブラウンはうつ伏せになって倒れている。黒のスーツの背
中部分が破れ、そこから溢れる血がスーツを赤黒く染め上げていく。
「残るはあなただけよ。さっさとやられなさいな」
白い歯を見せて祐巳は微笑んだ。
巨大な何かが建物にぶつかるような音が聞こえる。建物を解体しているときに聞こえる
ような音だ。
祥子の屋敷まであと二百メートルほど。時折、大気を震わすような、何か巨大なものが
落下する音が耳朶に響く。
ぶっ通しで走り続けた体は汗びっしょりで、Tシャツは絞れそうなほど汗を吸っている
し、ジーパンも湿気を含んでべたつき動きにくい。全身で息をしながらもようやく祥子の
屋敷の門の前まで辿り着いた。
悪趣味なオブジェのように屋敷には大きな氷の柱が何本も突き刺さっているし、門も内
側から何か硬いものでもぶつけたのか、ところどころが膨らんで門全体が歪んでしまって
いた。
祥子は無事なんだろうか。
連続して何か塊が地面や木にぶつかる音が鳴り止まない。これは何の音だ。とにかく、
正面から入るのは危険だと判断し、ぐるっと外周を回って敷地の裏側まで走り、裏口の塀
を掌を擦り剥きながら、なんとかよじのぼって敷地の中へ入った。
屋敷には何本も氷の柱が突き刺さり、壁は到る所にヒビが入り、窓ガラスはほとんどが
割れ、建物は何とか形を保っているものの今すぐにでも崩れ落ちそうな危うい状況だった。
縁側から中に入ったけれども、氷の柱が天井を突き破り廊下を貫いていて動ける範囲が
極めて狭い。
「祥子!! 大丈夫? いるなら返事して!!」
叫んでみたけれども何の返事も無く。建物が軋む音や、天井からコンクリート等の欠片
が落ちてくる音しか耳に入ってこない。
ここでじっとしていても何も始まらないので、動きにくいが、屋敷の奥へと進むことに
した。
キッチンも天井が破れ、瓦礫がそこかしこに散乱している。そしてそこには瓦礫に埋も
れたお手伝いさんの姿が――
床を血で染め上げていて、動く気配が全く無く、残念ながら既に事切れているのだろう。
こみ上げてくる吐き気を必死に抑え、むせ返る血の匂いに気がどうにかなりそうになっ
たけれども、掌でばしっと自分の頬を叩いて気をしっかりと保たせた。
本当に祥子が屋敷にいたかどうか定かではなかったけれど、万が一の状況を考えると、
ここで引き返せそうにはなかった。
キッチンを通り抜けたいところだが氷の柱がそれを邪魔をする。
「邪魔だよ!」
蹴りつけてみても丸太ぐらい太い柱が壊れるはずも無く、蹴った自分の足が痛かっただ
けだった。この氷の柱のせいで、外の暑さとはうって変わって屋敷の中は寒いぐらいに冷
えていた。
汗を吸ったシャツがきんきんに冷え、寒さに震えそうになってきた。
行ける場所から行くしかないので、柱が遮っている場所はあきらめるけども出来る限り
捜索の範囲を広げていく。
今年の元旦に祐巳ちゃんや祥子達と一緒に布団を並べて眠った部屋までたどり着くと、
そこには清子小母さまが壁に背を持たれていた。
「清子小母さま! 大丈夫ですか!」
「あら、聖ちゃんお久しぶり」
こんな状況にも関わらず小母さまは呑気に挨拶してくれる。
小母さまは一見特にひどいキズを負っているような様子はない。それならば自分で動い
て逃げることも出来たと思うけど、そうしなかったのは……。
「どこか怪我されてませんか?」
「ちょっと足を捻っちゃって動けなかったの」
部屋のど真ん中を氷の柱が貫いていて、それを中心に瓦礫が散らばっている。小母さま
が無事ならば祥子は大丈夫なんだろうか。
「小母さま、祥子は何処にいるんですか?」
「祥子さんは二階の自分の部屋にいると思うわ」
二階!? この崩れそうな屋敷の二階になんて行けるのか。でも、放って置けるわけが
ない。とにかく小母さまに肩をかして、ぎしっと建物が軋む音に怯えながらも、なんとか
私が入ってきた縁側まで辿り着くことが出来た。
今度は冷や汗をびっしょりかいて、喉がひどく乾いてきた。暑かったり寒かったりと、
自分の体調が少し心配になってくる。
「小母さまは出来る限りここから離れて下さい。もしそれが無理でしたらここで待ってい
て下さい。私は祥子を捜してきます」
私は何時崩れてもおかしくない屋敷へと、再び足を踏み入れた。頼むから無事でちょう
だい、祥子。
「痛ってぇ……」
「ブラウン大丈夫?」
背中の傷はけして浅くはなかったが、ブラウンはよろめきながら立ち上がる。
「意外にしぶといわね。今度こそ確実に葬ってあげる」
祐巳悪意に満ちた顔を二人に向け、両腕を天にかざすように掲げると、家一件分に相当
しそうなほど巨大な氷の塊が現れる。
「さようならお二人さん」
祐巳が両腕を降り下げると、隕石のように氷の塊が二人を押しつぶさんと落下した。
が、しかし、
「あらよっと」
ホワイトの持つ二丁の銃が真っ白な光を発し、ホワイトが引き金を引くと鉛の弾丸の代
わりに太く白い光の束が放たれ、この二つの白い光の束は巨大な氷の塊を粉々に撃ち砕い
た。砕かれた氷の塊は小さな破片となって地面に降り注ぎ、その中で若干大きめの塊が、
ブラウンの右即頭部に命中した。
「くっ……。あなたの色ではそんなことが出来るはずがないのに何故!?」
ホワイトの砲撃のような射撃に祐巳は愕然としている。
「応用次第よフクザワユミさん。私が『白』だからって甘く見ると痛い目に遭うよ〜」
余裕な表情のホワイトは狙いを祐巳の頭に定め、引き金を絞ると再び白い光の束が放た
れる。
祐巳は咄嗟に氷の壁を張り防御に回ったが、白い光の束は氷の壁ごと祐巳を吹き飛ばし
た。
「なんてこと……」
吹き飛ばされ、泥に汚れた祐巳は怒りと屈辱に顔を歪ませて、ホワイトを見据える。
「もう降参した方がいいよぉ?」
ホワイトは祐巳の頭に照準を合わせたまま一歩ずつ間合いを縮めていく。祐巳が右腕を
掲げ指をパチンと鳴らしたのと、ブラウンが叫びながらホワイトに駆け寄ったのは同時だ
った。
不意に現れた雪で出来ている、全長三メートルほど巨人が拳を振り上げ、ホワイトを叩
き潰そうとした。ブラウンは全力で地面を蹴り、後ろからホワイトに飛びついて抱きすくめる
ように地面を転がり、巨人の一撃を回避する。
「痛っ!」
地面を転がるとき、背中の痛みにブラウンは声を漏らした。直ぐに体勢を整えたホワイ
トは引き金を引き巨人を光の束で消し飛ばす。
雪の巨人の上半身はことごとく吹っ飛ばされたが、今度は祐巳が拳大の氷の塊をマシン
ガンのように連射する。
「ブラウン!!」
体勢がまだ整えられていないブラウンに襲い掛かる氷の塊を、今度は鉛の弾丸で撃ち落
し、ブラウンを抱きかかえて祐巳から間合いを離した。
「ちょっとぉ、ブラウン大丈夫なの? しっかりしてよねぇ」
「済まない。さて、オレももうそろそろ良い所見せないとな」
「じゃ、私はあっちに言ってるよ?」
ホワイトは崩壊寸前の小笠原の屋敷を指差す。
「頼んだ。しっかりやれよ」
ブラウンは腰の携えた刀と、背中から抜いた剣の二本を両手に構え猛然と祐巳向かって
走り出した。
縁側から再び屋敷へと足を踏み入れた私は、二階にある祥子の部屋を目指す。
この縁側から最も近い二階へ通じる階段には、氷の柱が突き刺さっていて二階には行け
そうにないので、別な階段を探さなければならなかった。でも、この家にまともな階段が
残っている保障はなく、そこは運に任せるしかない。
夕方という時刻と曇天のせいで明かりに乏しく、さきほどよりも見通しが悪くなってい
る。屋敷の中の明かりは絶えてしまっているので、携帯電話を懐中電灯代わりに階段を探
した。
軋む音が聞こえるたび、瓦礫が崩れる音が聞こえるたびに寿命が縮む思いがした。
怯えながらにしてようやく、氷の柱に貫かれ、一部が破損しているがなんとか上れそう
な階段をようやく見つけた。
何十分も探していたように思えたけれど、実際には五分ほどしか経過していない。この
五分の間に、何人かのお手伝いさんの遺体を目にし、胸が詰まる思いがしたけれど、今は
とにかく祥子を救い出すことだけを意識した。
階段を上りきり、辿り着いた二階は、階全体が一方向に向かって沈み込むように歪んで
いる。埃っぽく、そして寒い二階を祥子の部屋を捜して歩く。
「祥子!! いるの? 祥子!!」
大声で呼びかけると、小さい声ながらも祥子の声が聞こえた。その瞬間、私の真後ろに
崩れた壁が倒れこんでいた。
あと一歩後ろだったらと思うと冷や汗が止まらず、心臓の鼓動が耳に聞こえそうなぐら
い早まる。
傾いているため、平衡感覚が狂い気分が落ち着かないけれど、祥子の部屋にやっと着い
た。この部屋以外ほとんどの部屋が氷の柱に貫かれていたので、ここが無事だったのは奇
跡としか思えなかった。
建て付け自体が歪んでいるドアを開けるだけでも一苦労したが、部屋の隅で震えていた
祥子の姿を見つけ、少し気分が落ち着いた。
「やぁごきげんよう祥子」
「せ、聖さま!?」
「とにかくここから出よう。この家はもうもたない」
座り込んでいた祥子の手を引いて部屋を出た。ぐらっと屋敷が揺れ、さらに沈み込みが
ひどくなり、よろめいて倒れそうになったけれどなんとか壁に手をついて踏ん張った。
「危ないなほんと…」
さっきの階段はまだ、形が残っていたので細心の注意を払いながら衝撃を与えないよう
に下りた。薔薇の館の階段とは全然比べ物にならないぐらいに崩壊の恐怖が付きまとって
いる。
携帯電話を祥子に持たせて先に行かせ、私は後から付いていく。
もうすぐ縁側だと安心した瞬間屋敷全体が揺れだし、天井が崩れ、壁が剥がれ落ちてい
く。
「祥子! 先に行って!!」
「聖さま!!」
倒れてきた壁の下敷きなった私は、祥子の持つ携帯電話の明かりがなくなったことを確
認すると意識が薄れていった。祥子、祐巳ちゃんのことは任せたよ……。
間断なく発射され続ける氷の弾丸を、ブラウンは疾走しながら刀で切り落とし、剣で薙
ぎ払っていく。三十メートル以上あった両者の間合いはみるみるうちに縮まり、もう間も
なく剣の射程距離へと近づいていく。
超人的な剣捌きの速さに圧された祐巳は、ブラウンが迫る直前に氷の壁を張った。一方
ブラウンは祐巳の氷の壁には気にすることも無く間合いを狭め、走りながら逆手に持った
右手の剣を振りぬくと、氷の壁がバターのように綺麗に切断された。
「そんな……」
切断した氷の塊を飛び越えて左手に持った刀が祐巳の右鎖骨から袈裟に斬り払った。リ
リアンの制服が鮮血に濡れ、祐巳は鋭い痛みに顔を歪める。
「くそっ! 浅かったか!」
止めを刺さんと右手の剣で祐巳の首を刎ねようとしたブラウンの右腕は、祐巳の首を刎
ねることはなかった。
「甘いわね」
口の端に血を零しながら祐巳は嘲るようにそう言うと、祐巳の流した血溜まりから現れ
た雪の塊が拘束具のようにブラウンの体を締め付けていた。
「うおっ。何だこれ!」
強烈な再生能力のおかげで、キズが癒えた祐巳は、まだ雪に固められて動けないブラウ
ンを青く冷たい瞳で見つめ、左腕を振るい、具現化した氷の剣を手に無表情のまま振り下
ろした。
「何故!?」
祐巳が振り下ろした氷の刃は、ブラウンを守るように盛り上がった土の塊が受け止めて
いた。やっと雪の拘束具を破壊できたブラウンは二本の刀剣を構えながら祐巳に告げる。
「あんたの力は強いが経験が足りない」
それだけ言うと、土の塊が兜、鎧、小手、具足を形作り瞬時にブラウンに装備される。
そして、二本の刀剣を祐巳へ振り下ろした。
祐巳の相手をブラウンに任せたホワイトは何時崩れてもおかしくない屋敷へと向かった。
玄関は比較的無事だったが、視界には太い氷の柱が占めており、奥に行くのは困難である。
ホワイトは素手で氷柱を砕きながら祥子の居場所を捜し始めた。時折、崩れた天井がホ
ワイトに降り注いだが、白い光がそれらからホワイトの身を守り、本人はキズ一つ無く捜
査を続けている。
ホワイトは応接室で倒れていた三十台半ばの使用人を見つけた。
「もしもしぃ? 大丈夫ですかぁ?」
主だった外傷も無く、ただ気絶していた使用人はホワイトの声で目が覚め、自身を抱き
起こしてくれている銀髪の少女を見る。
「お? 気が付いたみたいですねぇ。あの、いきなりで悪いですけど、祥子って人この屋
敷にいるんですかぁ?」
「祥子お嬢様の部屋は、この部屋を出た廊下の突き当たりにある階段を上って直ぐの所で
す」
この広い屋敷の内部を把握していた使用人は、祥子の部屋の場所をすらすらと言う。ホ
ワイトは聞いた道のりを何度か復唱し一人で頷いていた。
「あなた一人で逃げられるですかぁ?」
「は、はい私は大丈夫です」
「じゃ、悪いですけど一人で先に逃げちゃって下さい。私はその祥子って人を捜しに行く
んでぇ」
使用人と別れたホワイトは教わったとおりに屋敷を進むが、その途中天井から氷柱で貫
かれている廊下を、柱を拳で何度か殴って破壊しながら進んで行く。
ホワイトが氷柱砕く度に屋敷に振動が伝わり、すっかり脆くなった天井や壁、柱にダメ
ージを蓄積させていった。
二階へ通じる階段は、氷柱に貫かれ上れなくなっている。ホワイトが、また素手で氷柱
を砕こうとした瞬間、屋敷全体に大きな振動が走り、みしみしと音を立てて柱がへし折れ、
天井が破れ、壁が崩れていく。
「うっわ、マズイですぅ」
いよいよ屋敷が本格的に崩壊し始めた。
「祥子! 先に行って!!」
聖の叫び声、続いて壁や天井が崩れ落ちる音を耳にしたホワイトは、声のした方へ向か
って駆け出した。邪魔な氷柱や瓦礫を、殴り、蹴り飛ばしながら突き進んだホワイトは、
崩れた壁の下敷きになっている聖の姿を発見した。瓦礫に埋もれた聖は、頭と左手だけが
露出しており、体の大部分が埋もれている状態だった。
「もしもしお姉さん?」
ホワイトが声をかけても何の返事も無い。
ホワイトは左手を握ると、聖に覆いかぶさる瓦礫の塊を大急ぎで取り除いていった。塵
や埃と血で汚れた聖の体を背中に背負ったホワイトは縁側に走り出て、屋敷から脱出した。
「聖さま!!」
聖の姿を見つけた祥子は目を赤らめながら、聖をおぶった銀髪の少女へ走り寄って来る。
「あなたもしかして祥子?」
「へ?」
見知らぬ少女に名前を呼ばれ面食らった祥子は、普段の祐巳のような間の抜けた返事を
し、それに気付いた祥子は恥かしさに顔を逸らしながらホワイトの名前を尋ねた。
「わ、私が小笠原祥子ですが、あなたはどなたなのかしら?」
「私はホワイトって言います。あ、このお姉さんに早く救急車をお願いですぅ。もしかし
たら色々とやばいかもしれないですからねぇ」
「わ、分かりました。聖さまを助けていただいてありがとうございました」
深々と頭を下げた祥子に少し照れたホワイトは、頬をぽりぽりと掻いて照れをごまかし、
おぶっていた聖を丁寧に地面へ下ろすと、直ぐにブラウンの元へと駆けていった。
「はやく消えてしまいなさい!」
「そうはいかねぇよ!」
祐巳の雪や氷による攻撃は壁のように現れる土の塊に防がれ、斬撃をしかけたいブラウ
ンも祐巳の死角からの奇襲攻撃のために迂闊に手を出せず、こう着状態に陥っている。
「ブラウ〜ン!」
戦いの場には相応しくない呑気な声を発しながら、さらに二丁のデザートイーグルを乱
射し、祐巳に威嚇射撃を行いながらブラウンの元へ駆け寄ってくるホワイト。
「おいホワイト、一気に終らせるぞ!」
「りょうかぁい」
祐巳は祈るように両手を胸の前で組み合わせ、瞳を瞑った。
すると両手が強く青い光に覆われ始め、祐巳の周囲の空気が一瞬にして凍り付く。やが
て祐巳は冷たく青い瞳を開き、すぐさま膝をつき両手を地面へと押し当てると、次から次
へと氷柱が植物のように地面から突き出し始めた。
「これで終わりにしましょう」
みるみる足の踏み場を奪われていく二人。
「やれ!! ホワイト!!」
「やっちゃうよ〜」
ブラウンは目前に生えてきた氷柱を剣と刀でぶった切り、ホワイトの為に視界を広げ、
全身を真っ白な光に覆われたホワイトは一丁のデザートイーグルを両手で握り締め、確実
に祐巳に狙いを定めた後、特大の白い光の束を発射した。
氷柱を瞬時に破壊しながら祐巳めがけて直進する白い光は、まさに光速の勢いで祐巳に
直撃した。
光の束をもろに食らった祐巳の周りの地面は、その衝撃で直径数メートルのクレーター
を形成し、濛々と砂塵が舞い上がっている。
砂塵の中から青い光の筋がいくつも現れた。
「私の……私の邪魔する者はみんな『閉じて』しまえ!!」
祐巳の怨嗟の混じった、悲鳴にも似た叫び声が轟くと、小笠原邸周辺数百メートルの空
気が急速に冷却され、祐巳のいた場所には巨大な円錐形の氷柱が大木のようにそそり立っ
ていた。
「まずいな……」
「仕方ないや。一旦戻ろうよブラウン」
土の鎧を解いたブラウンはホワイトと共に小笠原の屋敷の塀を飛び越えて、すっかり日
の落ちた住宅地を駆け抜けて行った。
現場に駆けつけた警官や、救急、救助隊員は現場に残されたあまりに強烈な破壊の痕に
驚きを隠せずにいた。特に彼らの目を引いたのは、敷地の右中央辺りに聳え立つ奇妙で、
巨大で異様な氷柱だった。
高さ二十メートルを超えるビルのような高さの氷柱に冷やされた空気は、真っ白なもや
となって地上へと柔らかく落下する。
付近の住民から通報があった時、警察はこれを経ちの悪いイタズラだと思い込み相手に
しなかった。
「本当なんです!! 小笠原さんの家に大きな氷の柱が刺さってるんですってば!!」
「まぁまぁ、落ち着いてください奥さん。見間違いか何かでしょう? この暑い時期に、
氷の柱なんてあるわけないですよ」
同じような内容の通報が相次いで寄せられたため、警察もこれをただのイタズラだと、
切り捨てるわけにもいかなくなり、さらに小笠原家の娘祥子から119番通報が入ったた
め、いよいよ真実味を増した通報の内容に警察は大慌てでパトカーを派遣し、救急車や救
助車も合わせて現場へ急行した。
「聖さま……」
この声は祐巳ちゃん? 祐巳ちゃんの声に意識を覚ましたけれども、目に映るのは真っ
暗な深い闇ばかり。でも私の前には制服姿の祐巳ちゃんがいるのは確認できる。
「どうしたの?」
「聖さま、ご免なさい。私、そんなつもりじゃなかったんです……」
祐巳ちゃんは何を謝っているんだろう。それはともかく今の祐巳ちゃんの姿は、さっき
のような青い髪、青い目じゃなくて、いつもの祐巳ちゃんだった。でも表情はとても悲し
げで、そして苦しそうに見えた。
今にも消えてしまいそうな弱々しさに、私はそっと抱き寄せようと手を伸ばしたけれど、
「来ないで下さい!」
と、左手を前に突き出して私の接近を制する。
「私はもう……」
「祐巳ちゃん?」
祐巳ちゃんの姿がふっと音も無く消えた。後に残されたのは何も無いただの闇。祐巳ち
ゃんの姿が消えて数秒後、再び私の意識も闇へと落ちていった。
祥子は聖の眠るベッドの側で窓越しに外の宵闇を眺めていた。
救急車で運ばれた聖の容態は、肋骨の骨折が三本と、右足親指の骨折、打撲や擦り傷、
裂傷が数箇所あったものの命に別状は無いという診断を受けた。
祥子は目線を今度は命の恩人へと向けた。妹の祐巳を可愛がってくれ、あまつさえ自分
の救出のため危険も顧みず崩れ行く屋敷へと飛び込んでくれた命の恩人。
祥子より先に聖に助け出された母親の清子の怪我は左足首の捻挫だけで済み、後に助け
出された祥子が無傷だったのは僥倖としか言いようが無い。
結局あの家で助かったのは、小笠原母子と、二人の使用人の四人だけであった。犠牲者
は六名にのぼる。
祥子の父親と祖父は現在警察署で、事情聴取を受けていた。屋敷の破壊についての事情
や原因を尋ねられているのであるが、現場にいた祥子や母親の清子でさえ状況が全く把握
出来ていなかったので、調書の作成にはさらに時間を要することになる。
小笠原の屋敷の一角にそびえる巨大な氷柱。その中心に祐巳は体を丸めて、母親の胎内
で眠る赤ん坊のようであった。
祐巳が氷柱と化しておよそ十時間が経過し、氷柱から半径一キロメートル以内の気温は
既に五度まで下がり、六月の梅雨の時期には異常な低温であり、気温の低下はまだまだ治
まりそうに無くまた、気温が低下している地域も刻一刻と拡大を続けていた。
このことは夜七時ごろのニュース番組でも取り上げられていた。
「東京都武蔵野市にある小笠原グループ会長宅が謎の崩壊をし、屋敷には突如巨大な氷柱
が出現している模様です。現在警察では、事件、事故の両面から捜査を進めていますが、
氷柱が現れた原因は未だ不明とされています。さらに、小笠原邸を中心に異常な気温低下
が発生しその範囲も拡大中ですので、付近の住民のみなさんは防寒対策の準備を怠らず、
各地方自治体の指示に従ってください」
部下の報告を武内警部は煙草をくゆらせながら聴いていたのが夕方の六時頃。報告の内
容の異常さにそう簡単には納得できないでいた。
「小笠原の屋敷が何らかの理由でぶっ壊れたというのは理解できても、その氷柱ってどう
いうことなんだ。お前、それ本気で言ってるのか?」
「本気も何も、住民からの通報が十五件もあるんですよ。そのどれもが同じようなことを
言ってるんですから、イタズラとして無視はできません」
その時武内警部のデスクの電話が鳴った。部下をそのまま待たせ、ゆっくりと受話器を
取り上げる。
「はい、武内です」
電話で上司から現場へ調査に行くよう命じられた武内警部は、それから十数分後数人の
部下を率いて現場へと赴いた。時刻は六時半手前もうすぐそこまで夜の闇が迫っている。
武内警部は例の氷柱を目の当たりするや口にくわえていた煙草がぽとりと地面に落ちた。
「何だこれは? この辺りが急に寒くなったのはこいつのせいなのか?」
「それがまだ何も詳しいことは分かっていないんです」
隣にいた井上巡査部長はメモをめくりながら答えた。
「一応聞き込みはしているのですが、これが出現した大まかな時間帯以外主だった情報は
得られていません。周辺の住民の話ではどうもこれは、いきなり何の前触れも無く現れた
ようですね」
地面に落とした煙草を足で蹴飛ばし、ポケットから代わりの煙草を一本取り出した武内
警部はそれに火を点け、深々と肺に吸い込んでゆっくりと紫煙を吐き出した。
「で、その大まかな時間帯ってのは?」
「大体夕方の五時半頃です」
「夕方の五時半頃にいきなり現れた……これ本物の氷なのか?」
武内警部はずかずかと氷柱へ歩み寄り、それに触れようとした瞬間氷柱から発せられた
青い光の帯がその手を弾き、突然の衝撃に面食らった武内警部は再び煙草を地面に落とし
てしまった。
「おい……今の何だ?」
周りで現場の調査をしていた警官たちは異様な光、そしてそれに右手を弾かれた瞬間に
戦慄を覚え、立ち尽くしている。
「今のは何かの間違いだ。もう一度」
結果はさきほどと同じく右手を弾かれた武内警部は、信じられないものを見つめるよう
に自身の右手をじっと見つめていた。
武内警部はズボンのポケットから携帯電話を取り出し、通話を始めた。
「もしもし、武内だ。例の妙な氷柱の現場に来てるんだが、あれはどうも普通じゃないぞ。
いや、それはまだ試してない。撤去準備にどれぐらい掛かりそうだ? そうか、分かった。
俺達は一度署に戻る。また後でな」
氷柱から離れた武内警部は部下達に調査を続けさせ、自身は乗ってきたパトカーで署に
戻っていった。
署に戻った武内警部は自分のデスクに戻ろうとしたその時、入り口に設置している自動
販売機の側で缶コーヒーを飲んでいる上田警部補の姿を見つけた。
「通報のあった氷柱とやらを見に行ってたのかい?」
上田警部補も武内警部に気付き、やぁと片手を挙げて挨拶する。
「そうだ。あれは普通の氷じゃない」
自動販売機に小銭を入れ、ホットコーヒーを缶を取り出しながら答えた。
「どんな風に? 何か特徴でもあったのか?」
飲み終わった缶をくずかごに放った上田警部補は、武内警部が口にくわえた煙草にライ
ターで火を点けながら訊く。
「あれに手を触れようとしたら、青い光に弾かれたんだ。二回も」
「弾かれた? しかも光に? それはどういうことなんだ?」
腕を組み、左手に煙草を挟みながら武内警部は現場での出来事を詳細に話し、それを上
田警部補は下を俯いてじっと聞き入っていた。
「今の状況ではよく分からないが、とにかく解体してみれば何か分かるだろう」
「撤去準備はもうしばらくしたら、あと二十分ぐらいで終ると思う。武内君も一緒に行く
のかい?」
「いや、行かない。というより行けない。担当してる仕事が忙しくてな。今日行ったのは
たまたまだ」
吸殻を灰皿に押し付けた武内警部はそれだけ言ってその場を後にした。
氷柱を解体するためのショベルカー、そして破壊した氷を乗せるための大型トラックに
撤去作業を実行するための作業員数名がそれらに乗り込み、付き添いの警官の先導のもと
現場へと向かって行った。
屋敷の解体作業は明日に行われ、まず先にこの奇妙な氷柱の撤去から始められることに
なった。
調査中の警官を一時現場から離し、撤去作業にあたる作業員達が現場で作業を開始する。
ショベルカーに乗り込んだ作業員が、鋼鉄のショベルで氷柱を削り取ろうとしたその時、
氷柱から発せられた強烈な青い光がその場に居合わせた人間を、ことごとく悪趣味な氷の
オブジェへと変えていく。
みるみる凍り付いていく同僚の姿に恐怖した作業員や警官は一目散に逃げ出すが、彼ら
もまた同僚と同じ末路を辿るのだった。
「臨時ニュースです。小笠原邸の氷柱の撤去作業にあたった作業員五名、現場で調査中だ
った警官六名の計十一名が凍死するという事件が発生しました。原因は現在調査中ですの
で、付近の住民の方のみならず、一般市民のみなさんは大変危険ですので、決して近づか
ないで下さい」
聖は病室で眠っており、側で看病していた祥子は近くのホテルで夜を過ごしていた。
時刻は午後十時。院内の消灯時間はとうに過ぎており、全ての病室は人の動く気配の無
い静かな夜に満ちている。
がちゃりとドアノブの音で目が覚めた私は、誰かが部屋に入ってくる気配を感じた。
「誰……?」
常夜灯の薄い明かりに照らされた影はブラウンだった。そして彼の後ろにはホワイトの
姿もある。私のお見舞いに来てくれた、とはちょっと思えないけれど。
「お姉さん大丈夫ぅ?」
この場にはそぐわない軽い口調のホワイトで体調を気遣ってくれた。
「あんた体の方は大丈夫なのか?」
私はホワイトやブラウンの気遣いに少し照れくさかったけれど答える。
「まぁ体のあちこち痛むけど命に別状はないって。でも自由に動けるようになるには一ヶ
月ほどかかるってさ」
私は痛みを押し隠して苦い笑みを浮べた。
ホワイトにイスを勧めたブラウンは、壁にもたれかかり、ホワイトはちょこんと座った。
そして私に向かって囁くような小さな声で話し始めた。
「あのねぇ、お姉さんは怪我して気絶したから知らないかも知れないけど、あの祐巳って
人ネ、氷の柱になっちゃったの」
「氷の……柱?」
私は表情が凍りついてしまい、ホワイトの顔をまじまじと見つめる。祐巳ちゃんが、氷
柱になってしまった?
「うん。すご〜く大きな氷の柱。それでね、これのせいでどんどん寒くなってるの。普通
六月のならばもっと蒸し暑いのに今は全然暑くないでしょ? これは、氷の柱のせいなの
よ〜。これからね、もっともっと寒くなるの。この世全てが凍りつくぐらいに」
ブラウンの「この世全てを閉ざせるヤバイ代物なんだぜ」という台詞が頭をよぎる。つ
まり、このままではこの世の中が凍って閉ざされてしまうと。
「ということはそれを破壊しなければならない……」
「簡単に言えばそうなんだけどぉ、これがなかなか難しいのだからね、私達お姉さんに逃
げてって言いに来たの〜」
非日常的な話に多少の免疫が出来てしたっていた私にも、ホワイトの話にはまるで実感
が湧かず、混乱した頭の中には「なぜ?」「どうして?」「どういうこと?」といった、
疑問文が飛び交っていた。
さっき見た夢の中に出てきた苦しげな祐巳ちゃんを救う方法はもう無いのか、そんなこ
とを考えているうちに、私にはどうすることも出来ないという無力感が体の奥底からせり
上がってくる。
「あのねホワイト、私はただ逃げることしか出来ないの?」
そう私が訪ねると、悲しそうな顔したホワイト後ろのブラウンに振り返った。
ブラウンはつかつかとベッドまで歩み寄り、私の顔をじっと見る。
「あんた人間やめる覚悟あるのか?」
「人間を……やめる? それってどういうこと?」
「俺達と同じ様に珠の力を使う側になる覚悟はあるのかってことだ」
私がホワイトやブラウンみたいな力を使う側になる。本当にそんなことが出来るんだろ
うか。もし、それが可能ならば私は祐巳ちゃんを……。そのためならば、捨ててやろうじ
ゃないか人間なんて器を。
「覚悟? あるよ。だからどうすればいいの?」
「本当にいいんだな? 俺達のような珠の力を行使する、守護者(ガーディアン)になっ
てしまえば後は、珠や石を乱用する奴を討ち倒すだけの日々。後戻りなんて出来ないぞ」
私はブラウンの目を見てはっきりと告げた。
「それも覚悟のうち。だから、どうすればいいのか教えて」
ブラウンとホワイトの二人は目をつむり、何か集中し始める。
数秒後、ブラウンの体からは茶色い光が、ホワイトからは真っ白な光が溢れ出し、視界
が茶色と白の二色で占められる。目を開けていられないほど強い光を発し続ける二人。
それから数十秒後、ふっと光が消え病室は元の闇に包まれていた。
「これを受け取れ」
ブラウンの掌にはゴルフボールぐらいの透明な水晶みたいなものが乗っかっている。そ
れを指で摘んで受け取った。
「詳しい説明は後で必ずするから、要点だけを今話す。これはまだ珠じゃない。珠か石の
どっちになるのかはあんた次第だ。だから、場合によっては俺達を超える力が手に入るか
もしれないが、逆に遠く足元にも及ばないほどちっぽけな力しか手に入らないことも有り
うるってことを理解してくれ」
手にしているこれは、人をやめて得られるものがどれぐらいあるのか分からない博打的
なものってことなんだろう。だから、事の運びがやたら慎重なのか。
「分かった。それも受け入れる」
「お姉さんホントにいいのぉ? ホントに後戻り出来ないんだよ?」
何時に無く真剣でそして悲しげな表情をするホワイト。この子がこんな顔をしてしまう
ぐらい、これを受け入れるって事は大事なんだろう。
「まぁ、ちょっとどころかすごく恐いけれどね……」
「あんたの意思は分かった。これから、鍵(トリガー)となる言葉を言うから復唱してく
れ」
私はブラウンに向かって一度だけ大きく頷いた。
「我、己の器を捧げ、天上天下に遍く覆いし星の力を受け入れん。新世界の開闢(エンタ
ー ザ・ワールド)」
私は堅苦しく言い難い鍵を復唱すると、透明だった水晶のようなものが赤や白、青、黄、
緑というように様々な色の光を次々と発した。
私の掌からは色とりどりの光が発せられ、やがて金色の光を放ち続けるようになった。
「なっ、金色? ホワイト……」
「うわぁ、私、金は初めて見た」
二人は囁くように何か話しているけれど、この金色の水晶がどんなものかさっぱり分か
らない。そもそもこれは『珠』なのか『石』なのかすら判断が付かない。
そんな私の不安に構わず、水晶は掌に吸い込まれるように消えていった。すると心臓が
一度、ドクンと回りにも聞こえそうなぐらい大きな鼓動を打った。
そして暖かい力が体全身にみなぎっていくのが嫌でも実感できる。ぎしぎしと痛む肋骨
や、擦り傷のひりひりとした痛みも波が引いていくように治まっていった。
「あぁっと、悪い。あんたのそれは紛れも無い『珠』だ。そして色は『金』だ。さて、あ
んたには色々と話をしなければならないことがあるんだが、今日はこれぐらいで終わって
おく。今夜はゆっくりと回復に努めてくれ。じゃあな」
じゃあな、と右手を軽く上げたブラウンは静かに部屋を出て行く。
「また明日ねお姉さん」
「うん、また明日」
ホワイトは部屋を出て行くとき、一度私の方を振り返り、何かいいたげだったけれど、
彼女の口からは何の言葉も出てこなかった。
第四章
真っ白な世界で目が覚めた。体が芯まで冷えている。重たい体を起こすと、どうやら私
は雪の上で眠っていたみたい。よく凍えなかったなぁと自分の体の頑丈さに感心してしま
った。
ところで、ここは何処なんだろうか。見渡す限り雪で真っ白な世界。所々に墓標のよう
な四角く高いものが見える。この世界は平坦な大地じゃなく、凹凸が激しかった。
滑らないように足元に気を付けながらこの真っ白な世界を歩いてみることにした。
もしかしたら何処かにお姉さまや聖さまがいるのかもしれない。
吐く息真っ白なほど冷え切った空気が、呼吸をする度に肺に刺さるように痛む。私の服
装はリリアンの夏服だからなおさらに寒い。
もうどれぐらい歩いただろう。遠くには二つ頭の白い山のようなビルのようなもの、そ
して別な方を見ると三角の細く尖った高い塔のようなものが見える。
どうやら私はこれらを知っているかもしれない。あの二つ頭は東京都庁ビル、細く尖っ
た塔は東京タワー。だとしたらここは……東京?
「気が付いたようね」
後ろから声がして、慌てて振り向くと髪が真っ青な私が冷たい笑みを浮べていた。
「そう、ここは閉じた世界。あなた自身が望んだ結末よ。どう? 素晴らしいでしょ?」
「そんなわけない! 早く元に戻して!」
もう一人の青い私に負けないよう精一杯の虚勢を張ってみる。でも、足の震えが止まら
ない。
「こんな場所ではなんだから、私の城へ行きましょう」
青い私はそう言って指を一度パチンと鳴らすと、私はいままでいた雪の平原から、真っ
白な建物の中へと瞬時に移動した。
ここには白以外の色が無かった。床も天井も壁も雪で出来ているらしく真っ白。そして
今私のいる部屋には真ん中にイスが一つぽつんと置いてあるだけの、殺風景という言葉す
ら生ぬるい、まるで牢獄のような場所だった。
「あなたはここで大人しく結末の過程を見ていなさい。それではまた、ごきげんよう」
どこからともなく青い私の声が聞こえ、言いたいことだけ言って、声は消えていった。
私が雪で出来たイスに座ると壁には、スクリーンのように私がいた世界の映像が映し出
される。
映像の場所はお姉さまのお屋敷だったけれど、ボロボロに壊れていて、奇妙な違和感の
塊のような氷柱が見える。あれは何だろう。私は壁に映し出される映像に見入っていた。
六月二十二日。小笠原の屋敷に氷柱が出現してから十二時間ほどが経過した午前六時五
分。撤去作業の作業員らの変死の影響により小笠原の屋敷は立ち入り禁止となり、調査の
方も一時中断されていた。
その間も気温は刻一刻と低下し、半径一キロ周囲は氷点下の摂氏マイナス七度、半径三
キロ周囲では零度、二十三区内でも五度から九度と真冬のような低温を記録していた。
氷柱周辺の気温はたったの半日で三十度以上も低下していたのである。
路面は凍結し、武蔵野市内ではこの一晩の間に交通事故が二十三件も発生し、昨夜未明
から降り出した雪は既に積雪量十センチを記録していた。
街を出歩く住民の数は急に減少し、慌てて引っ張り出してきたコートに身を包んだ市民
達は言葉少なに、足元を注意しながら灰色の重たい空に気が滅入るような気分で、とぼと
ぼと歩いていく。
交通機関も降雪のため徐々にダイヤが乱れ始め、処理が追いかない事故現場では、破損
した自動車が今だ撤去されずに放置され、ひどい交通渋滞が発生していた。
「天気予報をお伝えします。現在東京方面を覆う分厚く非常に冷たい寒気団は、東京上空
で停滞しほとんど移動していません。そのため東京の気温は大変低下していますので、防
寒具の用意を忘れないで下さい。
この寒気団は時間を追うごとに規模を増し、現在朝の八時の時点では、千葉市や横浜市
もこの寒気団の影響下にあります……」
午前十時。小笠原の屋敷周辺の気温は摂氏マイナス十五度を突破し、積雪量も関数的な
勢いで上昇していく。
それに伴って氷柱は自身の体積を増加させ、この時点では最高点の高さは七十メートル
を超えていた。屋敷の敷地の大部分は氷柱に飲み込まれ、屋敷の瓦礫の大部分も氷柱や雪
の下敷きとなっていた。
市街地の地下を網の目に網羅している水道管は、凍結防止の処理が施されておらず、そ
れらはことごとく凍結し、水道管の破裂があちこちで把握しきれないほど発生していた。
午前十二時、二十三区内の気温もとうとう氷点下まで下がり、摂氏マイナス二度を記録
していた。降雪はやがて風雪に変わり、強風と共に降り止まない雪が猛烈な勢いで舞って
いる。
山手線を初めとする各種鉄道や、都営バス等のダイヤは最大で一時間も遅れていた。
午後二時、家庭に備わっている暖房器具では追いつけないほどの勢いで気温が低下し、
氷柱周辺半径一キロでは気温がマイナス二十五度、武蔵野市内の平均気温はマイナス二十
二度と、わずか二十時間で気温が四十度以上低下していた。
病室のテレビを見ている。どのチャンネルでもさっきからずっと同じ内容の番組しか放
送していない。
「私は、新宿区の東京都庁前に来ておりますが、この強い風雪のため自動車の運転が不可
能な状態になっています。JRを初めとする鉄道各路線も運転を見合わせており、駅ホー
ムでは多数の市民が足止めされています。また、都内の高速道路も全面通行禁止となって
おり都内各地で交通マヒが発生しています。
降雪の特にひどい武蔵野市内の積雪量は七十二センチを超え、雪の重みによる住宅の崩
壊が十二件発生している模様です。除雪に関しては各地方自治体の指示に従って行ってく
ださい……」
この病室も暖房を最大にしているけれども肌寒い。朝から祥子がまたお見舞いに来てく
れるはずだったけれど、この吹雪のせいで宿泊先のホテルからまだ出られないらしい。
外の吹雪はひどい。さっきから雪が窓ガラスに叩きつけるように降っている。これは、
降るというより吹き付けると言ったほうが適切かもしれない。
がちゃり、とドアが開いた。そこにはブラウンとホワイトの二人が立っていたけれど、
黒いスーツには雪があちこちに張り付き、溶け出した雪がスーツに染みを作っている。
「まずいことになった」
ブラウンは眉間に皺をよせてそう切り出した。
「この吹雪、あんたの後輩がしでかしたものだけど、俺達が思っていた以上に進行が早い。
このままの調子で行けばあと半日もかからないうちに東京は雪で閉ざされる。だから俺達
は氷柱の破壊を実行することにした。あんたも来るか?」
「行くよ。行って祐巳ちゃんを止める」
せっかく力を手に入れたんだから、祐巳ちゃんを止めなきゃ。そう思った私は即答した。
「行くぞ」
短くそう言ったブラウンは部屋を出、ホワイトも後に続いた。
体の傷は、珠の力のおかげなのか一晩眠ればすっかり治っていた。だからもう休む必要
は無い。私はホワイトの後に付いて冷たい空気で満たされている廊下を歩いていった。
外の吹雪は窓の内側から見るよりもずっとひどかった。台風のような猛烈な暴風に、叩
きつけるような激しい雪。病院の周辺には除雪された雪が壁のようにうず高く積まれてい
る。
視界はものすごく悪く、しかも薄暗い。確か時刻は午後二時過ぎだったと思うけれど、
とてもそんな時間帯の明るさには思えなかった。
ブラウン達はそんな悪天候なんて気にすることも無く、最短距離で祐巳ちゃんのいる小
笠原の屋敷を目指す。私も彼らの後を追って車の流れが止まっている道路を疾走する。
速い。力を得る前と後では、身体能力が段違いに上がってるのが分かる。心臓から送ら
れてくる膨大なエネルギーを全身で感じながら走った。
暴れる白い世界の中にぼんやりと浮かび上がる尖塔の墓標。それが祐巳ちゃんの眠る氷
柱だ。
全く息を切らすことなく小笠原の屋敷へと到着した。もう見上げるほどに巨大化してい
る氷柱。これが、この異常気象の根源。
「とにかくありったけの力をぶつけて破壊するしかない。やるぞ」
ブラウンの、非常に原始的ながらも直接的な解決方法でもって破壊を試みる。
しかし、その前に私には大きな問題があった。私には力の使い方や、自分の能力が全く
分からない。
「ちょっと待って、力をぶつけるってそれどうやればいいの?」
「そうだな、オレの刀や、ホワイトの銃みたいに分かりやすい武器を使うのが手っ取り早
いけれど、あんたの場合何がいいか……」
「素手でいいんじゃない?」
ホワイトが簡単にそんなことを言い出した。武器が素手? 運動は苦手じゃなかったけ
れど、格闘技の経験なんて全く無い。
「今はそれでいこう。使う武器は後でじっくりと考えればいい。力の使い方は一言で言え
ば『イメージ』だ。頭の中に描いたイメージが具現化する。強いイメージを描けばそれだ
けで単純な攻撃力は高まる」
仕方ない、やるしかないか。私は頭の中で左手に力が集まるようにイメージしてみる。
すると、左手の拳が金色に光り始めた。
「あんた……。ま、まぁそんな感じでやればいいさ」
土の鎧で完全装備したブラウンは二本の刀を両手に持ち、真っ白な光に包まれたホワイ
トは二丁の銃を構える。
左手が熱くなるほどの力を集め、そして私は氷柱へ向かって拳を振りぬいた。すると金
色の光の塊が砲弾のように発射されたが……。
「嘘っ!?」
ブラウンが放った隕石のように巨大な土の塊や、ホワイトの銃から撃ち出された二つの
白い巨光、そして私の金色の砲弾いずれも青い光の壁に跳ね返され、てんで検討はずれな
場所へと着弾し、盛大に雪と瓦礫と土砂を巻き上げた。
「跳ね返っちゃうんだぁ……」
「くそっ……、もう一回やってみるぞ」
もう一度力を左手に集め、金色の砲弾を撃ったけれども、結果は三人とも同じく青い光
の壁に阻まれ直撃ならず。これは物理的な力では破壊できないのかもしれない。
私達は一旦破壊を諦めて、ブラウン達のマンションへと戻ることにした。
ブラウン達のマンションへ向かう途中、雪の重みで潰れた民家を幾つも見た。早く祐巳
ちゃんを止めなければもっと大きな被害が出る。けれど、直接破壊できない。どうすれば
いいんだろうか。
最上階の十回、1010号室。ここへ来るのはこれで二度目。ここへ初めて訪れてから
実はまだ一日しか経っていない。この一日の間にあまりにも色々なことが起こり過ぎて、
私の頭はいっぱいいっぱいだ。
部屋の中は昨日と変わってなく、違うことといえばこの異様に低い気温だけだった。珠
の力のおかげなのか、あまり寒さを感じないのが救いだ。吐く息は真っ白で、肌が寒さに
突っ張っているようだ。
「とにかくあんた、服を着てくれ」
今の今まで気が付かなかったけれど、私の服装は物凄いものだった。
巻かれたままの包帯に、病院の患者用の寝巻きのまま。そして裸足ときたらそれは寒い
はずだ。というか、何でそれで風邪を引かないのか自分の体が逆に心配になった。
クローゼット開けると中にはブラウンやホワイトが着ているスーツと同じデザインのも
のが何着も入っている。そこからブラウンと同じサイズのものを選び、ホワイトの部屋で
着替えることになった。
「はぁい、こっから先は男子禁制だよぉ。覗いたら殺っちゃうからねぇ」
可愛らしい笑みを浮べながら、ものすごい脅し文句をブラウンに叩き付けた。
「はん。誰が覗くかよ。さっさと着替えろバカ」
ホワイトの部屋はリビングと同じく殺風景なもので、女の子らしさというものが無い。
彼女の性格からすると、もっと賑やかな部屋を想像していたから意外だった。
着替えが終り部屋から出るとリビングのテーブルにはホットコーヒーの入ったカップが
三つ置いてある。
ブラウンが入れたんだろう。割とぶっきらぼうな物言いなのに、変にこういった気が利
くのがなんとなくお茶目な感じがする。
「さて、昨日出来なかった説明を簡単にするぞ。これを知っておかないと、あんたも実戦
で困るだろうからな」
ブラウンはコーヒーをすすりながら話始めた。
「まず『親和性』という単語だ。これは力の供給元である星、まぁ地球のことなんだが、
星とどれぐらい同調できるかって話だ。コレが高ければ高いほど、より多くの力を引き出
すことが出来る。オレが見たところあんたの親和性はかなり高い。いや、最高クラスだと
思う。これが高いと引き出せる力の量が多くなるとは言ったが、多くなればなるほどその
扱いが難しくなる。過剰な力は自身の身を滅ぼしかねない危険なものだということは知っ
ておいてくれ」
「ということは、私は全力を出し過ぎるなってこと?」
カップのコーヒーをぐいっと飲み干したブラウンは、カップをテーブルに置き私の顔を
見て話を続ける。
「全力を出し過ぎるなというよりか、限界を超えるな、というほうが正確だな」
過ぎたる力は己を滅ぼす……か。一瞬の油断が死に直結する生活、力の代償が私の命と
いうことなんだろう。
「次にあんたの能力のことなんだけどな、あんたの金色は『全能』だ。簡単に言えば何で
も出来るんだ。非常に珍しい色だから詳しいことはオレもホワイトも知らない。あんたが
自分で見つけ出して使うしかない」
江利子みたいなタイプの能力だな。江利子の場合は自分の限界を分かっているけれど、
私の『全能』は、限界がよく分からない。すごい掴みにくい能力だなこれは。
「本題に入るぞ。あの氷柱はさっきやってのとおり、外からの攻撃は受け付けない……」
「そうだよねぇ。私達は主に攻撃しか出来ないから、あの手の敵はやりにくいなぁ。何か
いい案あるお姉さん?」
もしあれが何かの蛹だとしたら、外からじゃなくて内側から破壊すれば解決出来るかも
しれない。あくまで仮定の話だけど。
「外からじゃ無理ならば、内側から破壊するしかないでしょ。それには私の『全能』を使
って、祐巳ちゃんの内側から珠の力を解除するしかないんじゃないの」
「内側? なるほど、精神世界か。そんなものがあればの話だけど、やるしかないか」
とにかく祐巳ちゃんから、珠の力を引き剥がすことが出来ればいいんだ。
そのためならば、何だってするし何処へでも行く覚悟があった。
待ってて祐巳ちゃん。今から行くからね。
第五章
あの雨の日、私は『魔女』と契約した。
いつからだろう。瞳子ちゃんがお姉さまの側にいる。そこは私の居場所のはずなのに。
お姉さまは決して裏切らないと信じている。そう信じたい。でも、現実を見るとどうし
ても貫けそうにない。
『お姉さまは私を捨てるんですか?』
訊けば確実に迎える終焉。あまりにも解り易い未来予知。それでも今の私にはどうして
もお姉さまを信じぬける、決して裏切らないという高潔の証が欲しかった。
そのお姉さまも最近は何故か学校を休みがちで、なかなか話が出来る機会が持てないで
いるから一向に解決する兆しが見えてこない。
「もしかして、私を避けてるのですか?」
いや、そんなことはない。でもそれを打ち消すに足るものが無いも事実。
私に有るものは何? と、考えてみるけれども実際には、無いものばかりじゃないか、
という虚しい事実が分かるだけ。
「無い」を「有る」にするため、今日こそはと意気込んだ。
お姉さまは数日ぶりに登校されているので、下校時に下駄箱で待つことにした。そして
現れたお姉さまは少し痩せて元気が無い感じがしていたけれど、私は話を訊こうとお姉さ
まに近づいた。
「ごきげんようお姉さま」
「ごきげんよう祐巳」
その時だった。そう、彼女がいたのだ。
「早く帰りましょうよ祥子お姉さま」
その瞬間、私の心にはとてつもなく大きなヒビが入っていき、破片がぼろぼろと崩れ落
ちていくのが分かった。
私は否定された。信じようとした者に裏切られたという破局的なまでの背信。
そして私は単なる滑稽な信奉者であると告げられたようなものだ。
『なぜ?』
まず最初に、急速に風化していき崩壊しつつある心から浮かび上がった単語だった。
どうしてこんな状況になったのか、そしてお姉さまはどうして何も話てはくれないのか。
『なぜ?』
何の解答も見出せない私は、今のこの状況を把握するや「信じようとしていた私」の根
幹が凍りつくように固まり、そして思考はある一つの事実「捨てられた」ということを残
し全てが停止していく。
「そうなんですね、お姉さま……」
急速に閉じてゆく思考から紡ぎ出す最小限にして最大限の意味を持たせた言葉。
私は雨の中を走った。鞄が太ももに当たりぺたんぺたんと間の抜けた音がし、赤い折り
畳み傘は無様に反り返っている。それでも走った。
そして私は聖さまの後姿を見つけた。黒い紳士用の傘を差していて、本当に聖さまかど
うか見た目では判断できなかったけれども、私の直感がそう告げたのだった。
「聖さま……」
私の声に気付いた聖さまが振り返り、傘を放り投げ、私はその胸に飛び込んだ。
何も考えたくなかった。
後から追いかけてきたお姉さまが私の傘を聖さまに手渡した。そして、
「お世話おかけします」
それだけ口にして、瞳子ちゃんと二人でこの場を去り、迎えの車に乗ってしまった。
「お姉さま!」
行かないで欲しかった。だから叫んだ。
でも車は止まることなく出発した。
制服や鞄なんてあっという間に湿るを通り越し濡れそぼっている。
私はそんな雨の中をただ呆然と立ち尽くすばかりだった。
『なぜ?』
今までの事が全て雨に溶けていく。
シンデレラの劇を終えたその日にロザリオを受け取ったことや、バレンタインの景品と
してデートに行ったこと、そんな楽しく甘い思い出が全て雨に流され溶けていく。
そして空っぽになっていく私の中を満たしていくのは冷たい決して溶けることの無い、
氷のような絶望だけ。
これほど信じようとして結局は応えてくれなかったお姉さま。
お姉さまに捨てられた。もうどうにも出来ない。ならばこんな世の中で生きていても仕
方が無い。本気でそう思った。
私に応えてくれること無くお姉さまを乗せた黒塗りの乗用車は行ってしまった。その時
だった。誰かが私を呼ぶ声が聞こえた。
「こんにちはお嬢さん」
声のした方に振り返ってみると、そこには紫色のローブを身に纏い、ローブよりも色濃
いフードを頭からすっぽりとかぶった「魔女」がいた。
これだけ雨が降っているにも関わらずその魔女には雫一つ付いていない。
「あなた可愛そうに裏切られたのね」
全く見ず知らずの人が何故そんなことを知っているんだ、という考えよりも先に私の心
には「裏切られた」という言葉が、すっかり壊れやすくなってしまったボロボロの心に、
ぐさぐさとナイフのように突き刺さり粉っぽい鮮血を吹き上げる。
「大丈夫。これがあればあなたは救われるわ」
彼女が差し出してきたのはゴルフボールぐらいの大きさの青い珠だ。青というよりか、
藍色のほうが近いぐらいに濃い色合いの青。
「いいかしら、今からあなたを救ってあげるから、私の言う言葉を繰り返すのよ。
『この世全てを閉じるため 私は全てを閉じる 何も欲さず 何も与えず 何も思わず
何も感ぜず 究極の安息を私に』
さぁ、今の言葉をあなた自身の口で紡ぐのよ。やってごらんなさい」
何故そうしようとしたのかは分からなかったけれど、誰かに救って欲しかった。信じる
だけ信じて報われないなんてあまりにも辛くて悲しい。
私は青い珠を受け取り握りしめ、言われたとおりに言葉を静かに紡いでいった。
すると青い光が体中を包んでいき、体中に柔らかな力が染み渡っていくのが分かる。
あぁなんて心地良い。これで救われる。私は少し疲れた。だからちょっとぐらい休んだ
って構わないよね。
「お姉さま……」
この言葉を発してすぐに私の意識は深い深い青の光へと溶けていった。
気温マイナス四十六度の極寒地獄と化した武蔵野の街。吹き付ける風は如何なるものも
凍て付かせ、動くものといえば強風に煽られて舞う粉雪ぐらいなものである。
積雪は軽く二メートルを超え、雪の重みに押しつぶされる家屋が後を絶たず、荒れ狂う
風雪の唸りに時折ぐしゃりと家が潰れる音が紛れる。
道路はとうの昔に雪で埋まり、冷たい雪の下には多数の乗り捨てられた自動車が埋まっ
ている。家の高さにまで降り積もった雪は街を一面白の世界へと塗りつぶしていった。そ
んな白い世界で飛び切り異形なのが、かつて小笠原邸だった場所にそびえ立つ氷柱である。
一分一秒ごとに自身を巨大化させていった末に、全長三百メートルを超える、天へと届
きそうな絶望の梯子へと成長していく祐巳が眠る氷柱。
白い恐怖は都心部にも容赦なく襲い掛かり、新宿区や千代田区でも気温マイナス三十七
度の酷寒地帯と化している。
都市機能は完全に近いほどの麻痺状態で、警察、消防、自衛隊による必死の除雪作業に
も関わらず、ほとんど全ての幹線道路や、高速道路が雪で埋まってしまっていた。JRや
私鉄の鉄道もまたしかりで、強風と豪雪のため、運転を見合わせてから二十時間ほどが経
過している。
地下鉄だけはなんとか運行を続けていたのだが、乗客が全くいない車両だけがプラット
ホームに停まっており、事実上の運転停止状態である。
東京方面への陸路での進入はほぼ不可能に近かった。海路や空路からの進入も不可能に
近い。
この異常な気温低下により東京湾の海水の温度も急激に低下し、氷結してしまっていた。
そのため、今現在東京湾は巨大な氷の大地が形成されており、横浜市から千葉市まで歩い
ていくことも可能であるが、何も無い真っ平らな氷板には風速二十メートル超える暴風が
吹き荒れ、空から降ってくる雪は白い滝を形成していた。
空路もまた、暴風と異常降雪のため航空機の離着陸が不可能だった。半日以上前に、成
田空港や羽田空港は雪に埋もれてしまっている。
この異常低温、暴風、降雪の範囲は未だに拡大を続け、既に東京首都圏内はすっぽりと
包まれ、静岡、山梨、長野、群馬、栃木、茨木にまで範囲が広がりつつあった。
意識を集中し、金色に輝く私の体。祐巳ちゃんの精神へと私達は乗り込もうとしている。
これほどあやふやな作戦しか立てられず、また実行できない自分に腹が立つ。
祐巳ちゃんがこうなってしまう前に私はもっと何か出来たはずなんじゃないかという重
い重い後悔の念が胸を締め付ける。
「お姉さん、もうちょっと集中しようねぇ」
「あぁ、ゴメン」
電力の供給が不安定になっているブラウン達のマンション。部屋の明かりは突然消えて
は何秒か経つと弱弱しく灯り、また消えていくという明滅を繰り返している。
外は相変わらずのひどい吹雪。まだ午前中だというのに夕方のような暗さ。
雑念を振り払い、目を瞑って祐巳ちゃんの存在を強く意識する。青い光が見えた。そし
て青い光の奥には白い世界が広がっているみたいだ。より一層意識を集中する。
白い世界には大きな雪の城が見える。もしかしてここに祐巳ちゃんが……。
「見えたよ。多分ここだと思う」
「本当か!?」
目を瞑ったままブラウン達に見えているのものを伝えた。
「そのままその世界に、俺達と自分の存在を投影してみるんだ」
言われたとおり、祐巳ちゃんの白い世界に私達の存在を描き出していく。次の瞬間全て
の感覚が消え失せた。
目を開くと、さっきまで見ていた白い世界が目の前に広がっていた。
「成功らしい」
ブラウンは周りを見渡しながらそう言った。
「何もかもが雪で真っ白だねぇ」
この世界の白さは雪によるものだ。動くものが何も無い「閉じた」世界。これが現実に
生り得るのは百も承知だった。視界の遠くに、純白の城が見える。
「ところで、あの城の攻略って何か考えがあるの?」
「そうだな……」
右手をアゴに当て、下を俯きながら考え込むブラウン。
「正面突破でいくか」
「私もそれでいいけど〜」
戦闘のプロだと思っていたけれど、すごく分かりやすいというか適当なだけであるとい
う気もしないではない、とってもシンプルな作戦だった。
「行くぞ」
雪を踏みしめながら青い祐巳ちゃんがいるであろう敵の居城へと歩みを進めた。
待っててね祐巳ちゃん。今から助けに行くから。
近づけば近づくほど、城の威容に気圧されそうになる。こんな冷たい場所に祐巳ちゃん
がいると思うと一刻も早く助けなきゃという焦りが抑えきれなくなる。
「何かいるぞ」
ブラウンが右腕を私の方へ突き出し歩みを制する。
真っ白な雪の大地を突き破って、氷の彫刻もとい、氷で出来た骸骨が這い出してくる。
それらの右手には、これもまた氷で出来た剣を握り締めていた。次から次へと現れる氷で
出来た骸骨の剣士。その数ざっと数えて三十。そして今この瞬間にも数が増えていく。
ホワイトは懐から二丁のごつい真っ黒な拳銃を取り出し、有無を言わせない高速連射で
骸骨の剣士を撃ち抜く。
大気を震わす銃声、それが轟くたびに剣士の剣はへし折れ、腕がもぎ取られ、首は砕け
散り、足は吹き飛び千切れていく。きらきらと光る氷の欠片が辺り一面をあっという間に
覆っていく。
「君たち邪魔だからねぇ。さっさと消えちゃえ〜」
空になったマガジンを交換し矢継ぎ早に連射を続けるホワイト。私もただぼうっと見て
いるわけにはいかず、この数だけはやたら多い骸骨の剣士を殲滅しにかかった。
私の攻撃方法は単純明快。ただ拳で殴るだけ。相手の剣戟よりも早く拳で頭を吹き飛ば
し、胸骨を砕く。
ぶおん、と氷の刃が振り下ろされ、それを後ろに飛び退いて回避し、左手に全身を巡る
金色の力を集め、相手に向かって拳を振りぬく。
すると拳から放たれた黄金色の砲弾が、目の前の相手のみならず、その後ろにいる剣士
達の氷の骨格を連続で粉砕していった。
ブラウンは両手に持った刀を、剣閃が視えないほどの速度で振りぬき、相手をばっさり
と切断していく。もう辺り一面大小様々な大きさの氷の破片で埋め尽くされている。
それでも氷の剣士は無限の如く現れる。このまま持久戦というのは時間と力の無駄と考
えた私は、あることを実行に移してみることにした。
「ブラウン、ホワイト、この場から離れて。地面ごと……抉るから」
「……了解」
「分かった。頼んだよお姉さん」
一息で私の周りから十メートル以上の距離を離した二人を確認した私は、さっきよりも
強く左手に金色の力を集め、地面を思い切り殴った。
私を中心に黄金色の光がひび割れたガラスのように細かく地面を這い、刹那にして広が
った。そして次の瞬間地響きと共に盛大な爆発音が白い世界を揺るがした。
私の周り数十メートルにはぽっかりとクレーターが出来ていて、骸骨の剣士らの残骸す
ら残っていない。巻き上げられた雪や氷の欠片が降ってくる。
「あんたやること派手だな……」
呆れたようにそれだけ呟いたブラウン、
「さっすがお姉さん。私こういうのダイスキ!!」
銀の髪を揺らしながらはしゃぐホワイト、という具合に反応は両極端だったけど、不毛
な持久戦は回避できたと思うのでこれで良しとしよう。
さっきの氷で出来た骸骨の剣士が出てきた以外、罠も仕掛けられておらず、待ち伏せも
何も無く城まで歩いてこれてしまった。
私から十メートルほど先には一分の隙も無く閉じられている堅牢な城門。そしてその門
の右端、左端、そして真ん中には、海底の水のように深い青色の板金鎧を身に纏った門番
が合計三人、物干し竿のような長い槍を地面に突き立て、微塵も動かずに侵入者を見張っ
ている。
一歩歩みを進め、雪を踏みしめる。鎧を着た門番だと思ったが、兜には瞳らしきものが
見えない。ということはあれは動く鎧か何かなんだろう。さっきからまともな生き物の姿
をお目に掛っていない。
「ちょうど相手は三体。一人一体相手にすることになるが、あんた一人でやれるか?」
こんなところで二人の足を引っ張ってるようじゃ、とてもじゃないけど祐巳ちゃんを助
けることなんて出来っこない。多少の見栄も混じっていたが自信をたっぷり含ませて答え
た。
「十分。なんなら私だけでも構わないよ」
「お姉さん頼もしいなぁ。じゃあ頼んじゃおうか?」
「おいホワイト、お前空気読めよな。無駄話はこれぐらいにして、やるぞ……」
ブラウンが先陣を切って城門へと疾駆する。その後をホワイトが、最後に私が門番へと
肉薄し、牙城攻略の第一歩を進める。
城門の前で繰り広がられる攻略戦。ひゅん、と鋭い、空気が切れる音が耳元を掠め、髪
の毛がはらりと落ちる。
あの槍の長いリーチのため迂闊な接近は、即死に直結する。地面を蹴り、間合いを離し
て遠距離から攻撃を試みようとしても、私が下がった分だけ丁寧に張り付くように間合い
を詰める蒼い門番。
「こんの……!」
槍をなんとかかわし、隙の出来た門番の胴目掛けて拳に集めた金色の力をぶつけたが、
蒼い板金鎧の表面が少し凹んだだけだった。なんて頑丈なんだこいつは。
「うわっと!」
すぐさま体勢を整え、空気一閃の突きを繰り出す蒼い門番。紙一重でかわし続ける私の
頬や耳たぶにはうっすらと、一直線の鋭利な傷が付き、血が滲む。
――打撃以外にも力を――
どこからか祐巳ちゃんの声が聞こえたような気がした。
「おっと!」
突きの連打からの胴払いを跳んで回避する。そして体が宙に飛び上がっている間に金色
の力を左手に集め、砲弾のようにぶっ放す。
強めに力を集めたつもりだったけれど、蒼い門番の鎧が多少凹んだだけで、活動停止に
はまだ至らなかった。本当に頑丈だなこいつ。
地面に着地した瞬間足を払おうと槍が振るわれる。それを槍ごと足で踏んづけて止めた。
あと半刻遅れていたら足首からばっさり切られていたかと思うと、背中に冷たいものが走
り脂汗が止まらない。
がら空きの胴に思い切り横蹴りをお見舞いし、蒼い門番は蹴り飛ばされ城壁へとぶつか
った。相手の手には槍が握られておらず、私の勝ちだと思ったその刹那、蒼い門番の体か
ら蒼い閃光が視力を一時的に奪う。目眩ましか!
咄嗟に間合いを離そうとするが、槍を拾った門番は間合いを詰めてくる。まずいな。
右腕の二の腕に鋭い痛みが走り、門番の槍が自分の体を掠めた結果であることを瞬時に
解する。
――力は攻撃だけじゃないの――
さっきは幻聴だと思っていた祐巳ちゃんの声がさっきよりもはっきりと聞こえる。力を
攻撃以外にも使えと。私の能力は「全能」、思いの強さだけ強くなれる。やってやろうじ
ゃないか。
頭の中に牢固な防壁をイメージし、体中を巡る金色の力をイメージに沿って解き放つ。
がきん、と金属が硬いものにぶつかる音が聞こえた。視力が徐々に回復してきた目を開
いて音の原因を見る。そこには鈍い金色をした壁が視界いっぱいに塞がっていた。
思っていた以上に巨大な壁を具現化してしまったみたいだ。そのせいで相手の姿も見え
なくなってしまっていたが、それは向こうも同じことだろう。
足に強く力を込めて飛び上がり、壁を蹴って飛び越えると、槍が壁に刺さったままの蒼
い門番の姿を視界に捉える。
「そら! いくよ!」
一瞬でイメージを具現化し、練り上げたブラウンと同じデザインの剣を両手で握って、
刃を下に向け相手の真上から飛び込む。
黄金色の剣が蒼い兜に深々と突き刺さり、落下の衝撃で、私と蒼い門番は思い切り叩き
つけられるように倒れこんだ。
頭に黄金色の柄を生やした蒼い門番はぴくりとも動かなくなった。
視界の端に白い光の束が映り、その方をみやるとホワイトが相手していた蒼い門番の上
半身が吹っ飛んでいた。やっぱり彼女の攻撃力は出鱈目な気がする。
「ふぅ。なんとか片付いたな」
ブラウンは二本の刀を鞘に収めながら呟いた。
「五月蝿いのがいなくなったし、早く中に入ろうよ〜」
急に静かになった城門から、冷たく重い扉を開いて中へ進入した。
城のエントランスは、その中央に二階へ通じる横幅の広い階段しかない。氷の階段を上
りきると、薔薇の館にあるようなビスケット扉が。取っ手に手をかけ扉を開くと、そこに
もまた階段があるけれども、蛇のとぐろのように渦巻いている螺旋階段だ。
「これホントに上るの〜?」
露骨にうんざりとするホワイト。
「つべこべ言わずにさっさと行け」
ブラウンの乱暴な号令で、私達はどこまで続いているのかよく分からない螺旋階段を上
り始めた。
こつこつ、と硬い音だけが耳に入る。上り始めて数分経っても終わりが見えない。
「あれれぇ? この階段いつまでたっても終わりないよ〜」
「流石にこれは怪しいな」
私は足元、壁、天井の順にゆっくりと視線を移していき、何か手掛かりは無いかを見る。
残念ながら特に以上は見当たらない。
その一方ブラウンは目を閉じて何か考えているようだった。
「ホワイト、何か感じないか?」
「えぇ? 何かって何?」
ホワイトもまた目を閉じて、ブラウンの言う「何か」を感じ取ろうとしている。私も彼
らに倣って目を閉じて「感じ」を探してみる。
目を閉じてみたけれども、階段や壁に沿って細くて青い光が網の目のように走っている
ぐらいしか分からない。
「一度下りてみるぞ」
ブラウンはそれだけ言うとさっさと下り始めてしまった。ブラウンの後について私やホ
ワイトも下りる。
「あれ?」
直ぐにさっきのビスケット扉まで戻ってしまった。あきらかに上るより下りる時間の方
が短い。ということは……
「この階段には何か仕掛けがある。だからいくら上っても上には行けない」
「じゃあどうするの〜?」
「別な道を探すか、仕掛けを解くかのどっちかだな」
ここまで来る途中には他に通路や部屋なんて無かった。だから仕掛けを解くしかないん
じゃないのと思う。
「他に道なんて無さそうだから、まずは仕掛けを解く方法を考えてみようよ」
「やっぱりそうだよな。仕方ない。今度は慎重に上るぞ」
目を閉じて青い光を感じながら、少し足元がおぼつかなかったが、ゆっくりと一歩ずつ
階段を上っていく。
あ? 左側の壁に妙な綻びが。網の目のように走る細くいくつもの青い光の筋、でもそ
こだけ線の流れ太くなっている。
「あんたも感じ取れたのか。多分ここが階段の終点なんだろう」
ブラウンは腰にぶら下げている刀を鞘から引き抜き、壁に向かって刃を走らせた。
「やっと次にいけるねぇ」
ブラウンの鮮やかな斬撃で壁が綺麗に切断され、その向こう側には真っ直ぐな廊下が見
える。螺旋階段から辿り着いたこの廊下の左右にはいくつもの扉が、そして一番奥には、
気味が悪いほど真っ青な扉がある。
この城には、色が白しかなく、この廊下の奥に待ち構えるかのような不気味な青い扉が、
殊更に存在感を感じさせる。
私達が廊下に足を一歩踏み入れると、左右に連なる多数の扉から次々と氷で出来た骸骨
の剣士が現れる。また物量に物を言わせる戦法か。
剣士の大群を見たブラウンは咄嗟に指示を出した。
「あいつらはオレとホワイトが引き受けるから、あんたはひたすら奥の扉を目指して走れ」
「分かった。しっかりやってよ」
ブラウンは背中に背負った剣と、腰にぶら下げている鞘から刀を一本引き抜き、二本の
刀剣を構え、ホワイトはマガジンを交換し二丁のデザートイーグルを構える。
ホワイトが引き金を引き絞り、鉛の弾丸が発射された瞬間、廊下を埋め尽くさんばかり
の骸骨剣士の大群が、私、ブラウン、ホワイトの三人を殲滅せんと襲い掛かった。
各々が持つ、刃の幅が広く無骨な氷の剣を振り回すだけの単純極まりない戦闘方法だっ
たが、数の脅威が私達に圧し掛かる。
ホワイトが冗談みたいな正確さ骸骨剣士の頭蓋骨だけを撃ち抜き、ブラウンは二本の刀
剣で、相手をバターでも切るかのような滑らかさで切断し解体していき、私は二人が作り
出した隙間を縫って、邪魔する骸骨剣士を拳で殴り飛ばしながら疾走する。
「邪魔だから……そこをどけぇ!!」
私は吼えながら金色の拳で群れを薙ぎ払い、強引に道を作っていく。隙間を埋めようと
骸骨剣士が立ちはだかるも、すぐさまホワイトの弾丸が群がる骸骨剣士の頭蓋骨を吹っ飛
ばす。
ブラウンはホワイトの背中に背を向け、彼女の背後から迫る骸骨剣士をバラバラに切断
し、解体していった。
「早く行け!」
「分かってる」
倒しても倒しても尽きることなく現れる骸骨剣士。しかし、それらの勢いに負けること
なく奥の扉目指して前進を続けた。
実弾の弾が切れたホワイトは、今度は自身の珠の力を弾丸の代わりにし、白い光の弾が
矢継ぎ早に撃ち出される。
もう少し。あと何メートルかで扉に辿り着く。
「邪魔っ!!」
金色の砲弾がまとめて骸骨剣士の上半身を吹き飛ばし、一気に扉まで跳躍し、そのまま
飛び蹴りの格好で扉を突き破った。
「ごきげんよう聖さま。でも……」
粉々に砕けた氷の扉が、映像の逆再生のように修復されていく。
「全く歓迎はしません」
そこにはリリアンの制服を着た、髪の黒い祐巳が招かれざる来客である聖を睨み付けな
がら立っていた。
聖が扉を蹴り破り、奥の部屋へと侵入したその一方、無限に湧き出る氷で出来た骸骨剣
士が蠢く廊下では、聖の後に続こうとブラウンとホワイトは前進を続ける。
「賑やかなお客さんだこと……」
氷のような冷たい感情を含ませた声が廊下に通ると、今までのことが嘘であるかのよう
に、ぱっと骸骨剣士の姿が消えてなくなった。
扉の前には、童話『シンデレラ』のヒロイン、シンデレラが城の舞踏会で着ていた豪奢
なデザインの青いドレスを身に纏い、真っ青な髪に、青い瞳の祐巳が不機嫌に眉間に皺を
寄せて二人の姿を視界に捉えていた。
「向こうから出迎えてくれるみたいだな」
「じゃああの部屋には誰がいるの〜? お姉さんはどうなったのかなぁ?」
青い祐巳はふっ、と息で笑う。
「この部屋では『私』がお相手してるわ。誰にせよ招いたお客でないことは確かね」
ホワイトは祐巳の眉間めがけて、二丁のデザートイーグルから白い弾丸を発射する。
「無駄よ」
白い弾丸は、青い祐巳の眼前に現れた氷の壁の表面を少し削っただけだった。ブラウン
は両手に持った刀剣を前に突き出す格好で、間合いを一気に詰める。
壁を一瞬で消去した青い祐巳は左手の掌をブラウンへと、右手の掌をホワイトへと向け、
彼女の掌からは人間の拳大の大きさの氷弾が機関銃のように連続で発射された。
ブラウンは床を蹴り、咄嗟に軌道を変えてかわし、ホワイトは姿勢を低くしてそれを回
避し、返しに二丁の銃で応射する。
白い弾丸は青い祐巳の後ろにある扉に命中する直前に打ち消されてしまい、扉には傷一
つ付いていなかった。
「あななたちは、しばらくの間ここで大人しくしてなさいな」
青い祐巳の背には、ピラミッドを上下に張り合わせたような正八面体の氷のビットが八
つ、等間隔で浮遊していた。各ビットが淡く青い光を発した瞬間、細くて蒼い光がレーザ
ーのように放たれる。
ホワイトの側の扉に命中した光は、たちまち扉を氷結させていった。ホワイトとブラウ
ンそれぞれに四つのビットが狙いを定め、立て続けに蒼い冷凍光を照射する。
ブラウンは青い祐巳への接近を試みてはいるのだが、鉄壁の防御力に八つのビットによ
る照射、青い祐巳本人による氷の弾丸掃射という、まさに生ける要塞の如き迎撃防御体勢
に、四苦八苦していた。
ブラウンは自身の体内を巡る茶色い力を練り上げ、大地の鎧を身に纏い両手に持った刀
剣を構え多少の被弾覚悟で突撃する。それと同時にホワイトは、ビットの照射に苦戦して
いたが、発射間隔のほんの少しの隙を突いて、黒い銃から大出力の白い光の束を放射した。
一瞬で迫り来る二つの巨大な力が青い祐巳の鉄壁な防御を貫通し、ダメージを与えた。
ホワイトの力の塊である太い光の束が氷壁を粉々に砕き、ビットによる反応射撃をさせ
る暇を与えることなくブラウンの刃が青い祐巳の右鎖骨から袈裟状に走り、剣が腹部を深
々と貫き、青いドレスに赤い血が染み渡り出血部分が紫色へと変色していった。
「ふっ、まだよ……私は……このままでは終わらない!!」
「祐巳ちゃん?」
様子がおかしい。何故か私に対して敵意を剥き出しにしている。
「助けに来たんだ。さぁ、こんな所から早く外に出ようよ」
「私は……ここから出るつもりはありません」
相変わらず表情は厳しく、何故拒絶するのかその理由が全く分からない。
「どうしたの祐巳ちゃん? 何か変だよ」
「いいですか聖さま……」
右手の人差し指を立てて、祐巳ちゃんは自身の思いを吐き出し始めた。
「私はずっと外の世界の様子を見ていたんです。東京はひどい吹雪で何もかもが凍てつい
ていくところをずっと見ていたんです。街は雪に埋もれ、家は押しつぶされ……一体何人
の人が亡くなったと思ってるんですか! これは私のせいなんです。私が……弱かったか
らこんなことに……。だから、だから私はここで閉じ込められることで罪を償おうと」
「祐巳ちゃんがここで懺悔してもね、外の世界はどんどん酷くなるだけなんだ。誰かが、
この惨劇を食い止めないと終わらない。本当にこのままじゃ世界中が閉ざされてしまう。
祐巳ちゃんはそれでいいの?」
祐巳ちゃんの目から大粒の涙こぼれ、頬を伝い、涙は床へ落下する前に氷の粒となって
高い音をたてながら床に転がった。
「いいわけないじゃないですか!! でも、私は外には出られない。あの世界でなんて生
きていけない。今更あの氷柱を壊したところで亡くなった人たちが帰ってくるわけでもな
く私の罪が赦されるわけがないんです! だから私はここから出ません。どうしても出そ
うと言うのならば……たとえ聖さまでも敵とみなしますから」
祐巳ちゃんと戦うなんて出来ない。でも、このままあの惨状を放っておくことも出来な
い。
「祐巳ちゃん、一つだけ話をさせてくれないかな。祥子のことなんだけど……」
祥子という祐巳ちゃんにとって特別な名前を耳にした途端、顔色と表情が変わった。怒
りや後悔、不安といった感情が渦巻いているんだろう。私は出来る限り優しく穏やかな声
で、あの雨の日の真実を告げた。
「あのね、祥子の妹は祐巳ちゃんだけだって。これは祥子本人に直接聞いたから絶対に間
違いない。だからあの瞳子っていう子は妹には成り得ない。最近学校を休みがちだったの
はね、祥子のおばあちゃん、病状が悪化していたからお見舞いに通い詰めていたの」
「なんだ。そんなことだったんだ……」
「そう。そんなことだったんだよ祐巳ちゃん」
「祥子さまは……冷たい雪の下に!! もう手遅れなんですから!!」
槍のように長く、板のように分厚く大きな刃の氷で出来た戦斧を握り締めた祐巳ちゃん
は、絶叫を上げながら一気に踏み込んでくる。
「ちょ、ちょっと祐巳ちゃん!」
振り下ろされる即死的な威力の一撃をなんとか全身を使って回避する。振り下ろされた
刃は轟音と共に氷の床を砕き、欠片や破片を勢いよく撒き散らした。
「私のことなんて放っておいて下さい!」
祐巳ちゃんは泣きながら巨大な戦斧をバットのように振り回した。高質量の物体がぶお
ん、と低い音を立てながら空気を切る。
ごめんね祐巳ちゃん。大人しくしてもらうには少しだけ我慢してね。
心の中で謝罪した私は、左手に金色の力を集め、拳を振り抜くと共に集めた力を大砲の
弾のに放った。
「当たりません!」
戦斧は消え去り粉雪となる。それは祐巳ちゃんの足元から舞いあがって、祐巳ちゃんを
守るように渦を巻き、私が放った砲弾は弾かれ天井に衝突し、ばらばらと氷の破片が崩れ
落ちてくる。
右手を突き出し、手を開いて指を伸ばした祐巳ちゃんは指の一本一本から雹を弾丸のよ
うに撃った。ショットガンみたいに小さな弾が壁にいくつもめり込んでいる。
「今度は当てますから……」
冷たく言い放つ。祐巳ちゃんは本気だ。本気で私を敵とみなし、消しに掛かろうとして
いる。もう手加減して戦うとかいう甘い考えでは私がやられる……。
祐巳ちゃんの右手の指からショットガンのように雹が放たれる。腕の動きや指の向きか
ら弾の飛ぶ方向や範囲を見極め、回避行動に移る。経験がまだまだ浅いので勘に頼ること
が多いけれど、なんとかかわせていた。
一向に命中せず苛立ちを隠せないでいる祐巳ちゃん。両手の拳と、両足の爪先へ力を集
めて攻撃力を高め、体術連携で一気に決着をつけようと、四メートルほどの間合いを一息
で詰め接近戦に持ち込んだ。
「くっ……」
左ストレート、右フックは上半身を右に、後ろへ一歩下がってかわされ、瞬時に屈み左
足を軸にして右足での足払いは小さくジャンプしてかわされ、足払いの回転力を生かして
右足で回し蹴りを左腕を盾にして防ぎ、思い切り振りかぶって放った左ストレートも空を
切り、左足の前蹴りがやっと腹部にヒットした。
蹴り飛ばされた祐巳ちゃんは壁に激突し、うつ伏せに倒れた。力の加減が難しく、思っ
た以上に威力があった。ごめん祐巳ちゃん……。
「……してやる」
祐巳ちゃんから発せられた強烈な殺気を感じた私は、理性よりも先に体が動いてしまい、
倒れている祐巳ちゃんに左拳に集めた金色の力の塊を撃っていた。
爆発音が空気を響かせ、着弾した周辺の壁が抉れている。
「祐巳ちゃん……」
むくりと起き上がった祐巳ちゃんは、膨大な殺意の篭った眼差しで私をねめ付ける。
「聖さまもやっぱり私を……」
「違う! 違うんだ。まずは落ち着いて話をしよう。それでも遅くはないから!」
「問答無用!」
話すら出来ないなんて。もはや祐巳ちゃんを討つしかないのか……。それならば私も腹
を据えて覚悟しよう。
「分かった。もう私の言葉は届かないんだね。それじゃあお別れをしよう。さよなら祐巳
ちゃん……」
祐巳ちゃんはさっきと同じ巨大な戦斧を具現化させ、私もイメージを練り上げる。体内
を奔る金色の力の脈動を感じ取り、大きなうねりを一つのものへと昇華させる。
そして私の両手には刃渡りが人の背丈ほどもある鈍い金色の剣が握られていた。
祐巳ちゃんは戦斧を力いっぱい振り回し、咄嗟に剣で受け止めたけれど、その衝撃の大
きさに部屋の端まで吹っ飛ばされてしまった。あの化け物みたいな斧とまともに打ち合う
のは無謀だな。
身を起こし、両手でしっかりと柄を握り祐巳ちゃんを見据える。
「早く消えて下さい!」
猛然と差し迫る強大な力の突進。十メートルほどの間合いがあっという間にゼロへと近
づく。祐巳ちゃんの直線的な動きに対して、円を描くように軸をずらし回避する。
「なっ!!」
私の軸移動に反応して、ほとんど勢いを落とさず直角に近い方向転換で突撃してくる。
もはや回避は間に合わない。奔る力を全身に張り巡らせ、両手剣を構えた。
がきん、と金属がぶつかる音。受け止めるにはあまりに重い一撃。それを無理やり受け
止めた私の両足は床にめり込み、両手剣の刃はひしゃげてしまった。
「なんて威力……」
「さようなら聖さま」
祐巳ちゃんは戦斧を振り上げていた。
ブラウンの剣が自身の体を貫き、口の端からも血を流しながらも不敵な笑みを浮べてい
る青い祐巳。
「まずい!」
身の危険を感じたブラウンは剣を引き抜くことなく青い祐巳から距離を離した。その刹
那、青い祐巳の半径三メートルほどの床から氷の棘が一斉に生えていた。
そしてビットは自動的に照射を続けている。
「ちょろちょろとすばしっこいわね」
腹部に突き刺さっている剣をずるりと引き抜くと、傷口から真っ赤な鮮血が溢れ、紫色
の染みの範囲を広げた。剣を床へ放り投げる。
「串刺しにしてあげるわ」
力なく右腕を掲げると、床から氷の刃が次々と縦一直線に列を成して突き出していった。
「ブラウンこっち!」
ブラウンはホワイトの掛け声に反応して、ホワイトの元へと走り寄り、彼女の体のから
白い光が溢れ出し、ホワイトとブラウンの体を包み込む。
氷の刃がいよいよ二人を貫こうとしたが、白い光に阻まれ砕け散った。
「ふぅ。危なかったね」
「お、おぅ……」
二人に主だったダメージを与えられないでいた青い祐巳は、ビットを消し去った。
「無駄な抵抗ばかり! お前たちも凍て付くがいい!!」
急激に気温が低下し、青い祐巳を発生源とする猛吹雪が廊下に吹き荒れる。
「うわぁ寒いねこれ」
「お前、そんな呑気なこと言ってる場合じゃないだろ」
二人の体にはものすごい勢いで雪が積もり、みるみるうちに身動きが取れなくなってい
った。珠の力による吹雪の勢いにブラウンの鎧も意味を成さず、ホワイトの防御光も防ぎ
きれないでいる。
「さようなら。もう会うことも無いでしょう」
青い祐巳の背後には無数の氷の刃が具現化し、全ての刃の方向がブラウンやホワイトの
方を向いている状態で空中に静止していた。青い祐巳の一声でこれら全てが一斉に発射さ
れる。
「こんのぉぉぉぉ!!」
ホワイトは珠から供給される白い力を限界まで引き出し、
「行け」
冷たい青い祐巳の声と同時に、氷の刃がミサイルのように間断なく射出された。
「いっけぇぇぇぇぇ!!」
デザートイーグルに全力を注ぎ込み銃身が砕け散るほどの勢いで白い光の束を発射した。
巨大な戦斧が頭上の高さまで振り上げられている。次の瞬間には確実な「死」が訪れる。
こんなところで終れるはずが無い。そう思うと体中に迸る金色の力が熱を持ち、私はそれ
をためらうことなく解放した。
「何これは!?」
まばゆい金色の光が体から放たれ、視界が金色に染まった。私の手にはずしりと重い感
触が伝わる。祐巳ちゃんと全く同じ戦斧を握っていた。
床から足を引っこ抜き、床を蹴って祐巳ちゃんから間合いを離し、両手でそれを握りな
おして構える。
祐巳ちゃんが戦斧を振るのに合わせてそれを受け止める。刃と刃がぶつかり合い、その
度に氷の欠片が少しずつ舞った。
「どうして!」
苛立ちを隠しきれずに感情を爆発させた祐巳ちゃんは、戦斧を床に突き刺し、祈るよう
に両手を組み合わせた。
すると祐巳ちゃんの背後には一面の氷の刃が現れ、それらは全て私の方を向いている。
「行けぇ!」
かわしきれないほどの数の刃がミサイルのように飛んでくる。それらを戦斧を振り回し
て叩き落したが、撃ち漏らした刃が右肩や左太もも、左わき腹に突き刺さり、壁に叩きつ
けられた。がらんと派手な音を立てて戦斧が床に転った。
冷たく鋭い痛みが全身を貫き、傷口から滴る血液が床に血溜りを作り出す。
「うぅっ…」
「やっと……お別れできます」
感情の無い目が私を見下ろす。右手にはさっきの戦斧を握っている。
「はぁ……祐巳……がふっ」
口から逆流した血がこぼれ、咳き込む。
すっと一動作で戦斧を高々と掲げ刃の部分を下にして振り下ろうそうとする。
動け。いいから動け。あと一瞬だけでもいいから動いてくれ。そのためならば何でもく
れてやるから。私の……
「全てをくれてやるから!!」
心臓から鼓動に合わせて全身を巡る金色の力を感じ取り、左手に金色の剣を練り上げた
私は、持てる力全てでもって祐巳ちゃんの心臓を貫いた。
「ぐふっ……」
金色の剣が祐巳ちゃんの胸に突き刺さったまま、祐巳ちゃんは膝を折り、後ろへ崩れる
ように倒れた。
「はぁ……ありがとう……ございます……聖さま」
祐巳ちゃんの目から涙が溢れて筋を作る。
「じゃあね……祐巳ちゃん」
なんとかそれだけ言うと、私に意識は消えた。
白い光の暴力が青い祐巳の体を塵一つ残さず消し飛ばした。
第六章
主を喪った城は崩壊を始める。城全体が小刻みに揺れ、壁にはひびが入りみしみしと崩
れ、天井には穴が開き氷の塊を落下させた。
「お姉さんがまだ出てこないねぇ」
「中に入るぞ」
ブラウンとホワイトは、聖が入っていった真っ青な扉を蹴り飛ばし中に入る。仰向けに
なって倒れている聖をブラウンが、祐巳をホワイトが背中に負ぶって部屋を出た。
「急に壊れだしやがって!」
がぁ、と悪態をつくブラウン。
「もうちょっと待ってねぇ」
相変わらずのホワイト。
もと来た道を全力疾走で駆け抜ける。二人がなんとか城の外に出て、城門まで走り切る
と同時に城は轟音を立てて完全に崩壊した。
冷たい雪の大地に聖と祐巳の二人を寝かせ、ホワイトはまず先に祐巳治療から始めた。
「お、おいホワイト!? 何やってるんだよ!」
「うっさい! お前はだまってろ〜」
白く光る両手を、金色の剣が突き刺さっている傷口に当てる。剣は刺さったままである。
「無駄だ。もう死んでる」
「黙ってろ」
普段の気の抜けたような喋り方からは想像も出来ないぐらいに重い声で、ブラウンを沈
黙させた。
ホワイトが体に宿す、白い光の力は本来、守護、補正、再生といった「強化」に関する
癒しの力だったのだが、それをホワイトは無理矢理戦闘用に使っていたのであり、今彼女
が必死に行っている治療こそが本職なのである。
祐巳の胸に突き刺さった剣を慎重に抜き、再び白く光る手で治療を続けた。
それでも目を覚まさない祐巳。
「ふぅ……」
「お? 生き返ったのか?」
祐巳の体を覗き込むように見たブラウンは遠慮なく訊ねた。
「ん〜半々かな。仮死状態ってやつ?」
それだけ答えたホワイトは、祐巳から今度は聖の体に手を触れた。
「あ! お姉さん生きてるよ!」
「ホントか!?」
白い光に当てられた傷口からの出血は止まり、ホワイトは聖の体に刺さっている刃をそ
っと引き抜き、さらに治療を続ける。
「うっ、ん……」
聖は閉じていたまぶたを薄っすらと開いた。そしてホワイトの顔を見る。
「やぁ、迷惑かけてゴメン」
「気にしな〜い気にしない」
ホワイトは無邪気に笑っていたが、目の端にはうっすらと涙が浮かんでいた。
その時、ブラウン、ホワイトは強大な力の気配を感じ取った。
「こんな時に!!」
「…………」
何も無い空間から紫色の光が渦を巻き、そこから全身を紫色のローブとフードで覆った
「魔女」が現れた。
「よくも私のお楽しみの邪魔をしてくれたわね。この借りは高くつくわよ」
邪悪に過ぎる悪意に満ちた笑みを浮べて魔女は言う。
「逃げろ!」
ブラウンはそう叫ぶと、ホワイトは聖と祐巳の体を両脇に抱えこの場から全力で離脱し
た。
「まずはあなたから始末してあげるわ」
「そんな簡単にやられてたまるかよ!」
刀と剣を構えたブラウンは、地面が抉れるほどの踏み込みで間合いを詰めた。
「はぁぁぁ!」
「All opponent gains weakness equal my blackcolor」
(全ての者は私の黒い力だけ弱くなる)
魔女の高速詠唱が終わったその刹那に、黒い光がブラウンを包み、彼の身体能力や茶色
い力全てが著しく弱体化した。
今の身体能力は小学生以下と成り果て、手にしていた刀と剣を落としてしまった。
「このぉぉぉ!」
戦意を剥き出しにして吼えるブラウン。されど体には力が入らず、満足に動けずにいた。
「ふふふ。あなたは茶色だから地面を這いつくばっているのがお似合いよ。さて、次にあ
なたの力を封じてあげましょう。
Name a color.Remove that color from target opponent untill the time」
(「茶色」の力は一時的に失われる)
黒い光がブラウンの体にまとわり付き、彼から茶色い力の脈動が止まった。
「うぅぅぅ……」
「もうこれで、抵抗すら出来ないわね。さて、さっさと止めを刺してあげるわ。
It deals damage equal my blackcolor to target opponent」
(私の黒い力だけおまえに傷を与える)
真っ黒の光のうねりがブラウンの体を覆い尽くし、数十秒後光が消え去った後には動か
なくなったブラウンの遺体だけが残されていた。
「はい、終わり。あとはあの小娘だけね」
「さっきの魔女みたいなのは誰??」
さっきいた場所から随分離れた雪原で、突然現れた魔女についてホワイトに訊いた。
「う〜ん、まぁ……私のお姉ちゃんなんだけどね」
「今何て!?」
「口で言う時間が無さそうだから直接聞かせてあげる〜」
ホワイトは私の顔に自分の顔を近づけ、やがて額をぴったりとくっつけた。
「え? これは……」
私の頭の中にものすごい勢いでホワイトの「過去」の映像が流れてくる。
今から遡ることおよそ二千年。古代ローマ帝国が成立して間もない頃、イギリスブリテ
ン島北部のとある山村。この村には紫色の髪をした姉、銀色の髪をした妹の姉妹がいた。
この姉妹の両親はすでに亡く、二十代半ばの姉と十代前半の妹の二人で細々と生活をし
ている。
そのあまりにも目立ち、一般人とはかけ離れた風貌を持つ姉妹は、畏怖と嫌悪の対象と
して村人からは忌み嫌われていた存在であった。
時には魔を司る者の使いとして崇められることもあったが、往々にして悪魔の使者だと
謗られ、酷い時には石を投げつけられることもある。
そんな時、姉アルレンは、いわれの無い中傷に涙にする妹のピュリティに優しい言葉を
投げかけ、なだめていた。
「姉さんどうして私達だけがこんな目に遭うの?」
「これはきっと試練なのよ」
「試練?」
「そう。この辛い試練を乗り越えればきっと私達は幸せになれる」
姉のなんら根拠の無い言葉にも妹は、救いを感じ、涙を拭いて微笑むのであった。
しかし、健気に生きる姉妹に訪れる試練は徐々に辛さを増していく。
「誰がこんな酷いことを……」
「落ち着いてピュリティ。もう一度やり直せばいいのだから」
彼女達の持つ小さな畑が荒らされることもあった。そんな時であっても、姉アルレンは
決して折れることなく、妹ピュリティと共に強く生きていことしていた。
そしてとある冬の夜、この健気に、強く生きる紫と銀の姉妹に人災が襲い掛かった。
「おいお前ら!!」
手には鍬や鋤やを握り締め、憤怒の感情をたぎらせた農夫達が玄関のドアを蹴り破る。
「な、なんですか?」
流石のアルレンも、家の中にずかずかと入ってくる農夫達の、腸が煮えくり返っている
かのような攻撃的な雰囲気に気圧され、動揺していた。
「とぼけるな! 今年は麦がものすごい不作だったんだぞ! これは呪われたお前達の仕
業に違いない!」
この年は、ブリテン島全域は異常気象のため麦の収穫量は前年と比べて五割程度にまで
落ち込んでいた。当然アルレンとピュリティは関係があるはずがなかったが、それでも村
人達は、先の見えないひもじい生活に対するやり場の無い怒りを二人にぶつけることにし
たのだった。
「それは違います。私達は関係ありません」
「そうよ。私達の畑だって全然採れなかったのだから」
「はん。そんなもんどうだっていい! とにかく村から出て行け! さもないと……」
まるで理不尽な勧告。アルレンの目には深い悲しみの色が映ったもののすぐさま持ち直
し、毅然とした態度で、暴言を吐く熊のように体毛が濃く大柄な男に向かって主張する。
「私達は何も悪くないわ。だからここを出て行くつもりはありません」
「この女ぁ!」
この男は本気でアルレンを殺そうとしていた。手にしていた鍬を振り上げる。
「姉さん!」
姉の手を引いたピュリティは裏口へ走り、扉を跳ね開け暗く冷たい闇夜の中を息が切れ
るまで走った。
二人を追いかける多数の足音と喧騒が刻一刻と近づいてくる。
「どうしよう姉さん」
「そうね、どこかに隠れてやり過ごすしかないわ」
着の身着のままの二人は外気の冷たさに身を震わせた。そして彼女達が立ち止まってい
た場所は、普段村人が畏れて近寄ることの無かった森の中だった。
冷たい風が吹き、光の無い世界に葉の擦れる音が、足音と喧騒に混じる。
「姉さんあれは何かしら?」
月が照らし出すほんのわずかな光を頼りにピュリティは、ほこららしきものを見つけ、
指を指した。
「何でしょうねこれは? 私も初めて見たわ」
そのほこらは無骨な岩で出来ており、入り口が、吸い込まれそうなほど深い闇を放って
いるように見える。
「見つけたら殺してしまえ!」
「どこにいやがる! 出て来い!」
深夜の森に轟く村人の怒号。風によるものではない葉の擦れる音や、小枝が踏み折られ
る音がどんどん近づいてくる。
「行きましょう」
「姉さん、でもここが本当に安全かどうかわからないのよ?」
「それでも行くの。ピュリティはここで大人しくしているつもりなの?」
「それは……」
アルレンを先頭に、先を手探りでゆっくりと歩みを進めた。ほこらは緩やかな坂になっ
ており、まだ終わりが見えなかった。
壁に手を触れながら恐る恐る歩みを進め、ようやくほこらの最深部まで着いた。実際に
はおよそ五十メートルほどしかなかったのだが、灯りが全く無い状態で歩いていたため、
たっぷり十分以上はかかってしまっていた。
ほこらの最深部には、赤、緑、青、茶、紫、黄、金、黒、白の小さな宝石のような珠が、
岩の台座に円状に置かれていた。
この九つの珠はそれぞれの色と同じ色の光をぼんやりと放っており、台座の周辺は、儚
いものの色とりどりの光がこぼれていた。
この光無きほこらでは貴重な光源であり、二人はそれを見るだけで少し気分が落ち着い
た。
「綺麗な光」
台座の前でピュリティは光る珠を見つめている。
「本当ね」
アルレンも同様に、この不思議な感じのする珠に見入っていた。
「姉さん。私達はこのまま出て行かなくちゃならないの?」
「…………」
答えに窮し、投げかけるべき言葉が出ないアルレン。
「何だこのほこらは?」
姉妹のほんのささやかな休息を、村人の声が壊した。
ほこらに声がこだましたその直ぐ後、乱暴な足音が幾つも聞こえ、音がどんどん近づい
てきた。
「姉さん……」
「ピュリティ」
松明を灯りに持った村人達が二人のいる台座にまで侵入してくる。
「大人しく生贄になれ!」
松明を後ろにいた老人に渡し、細身の男は狩猟用のナイフでピュリティの下腹部を容赦
無く突き刺した。
「うぐっ!」
「ピュリティ!! どうしてこんな! 私達が何をしたの!」
ピュリティの体からナイフを抜き、その切っ先をアルレンへと向けた。
「いやぁぁぁぁ!!」
その時だった。アルレンに右手が台座に置かれていた紫色の珠に触れ、次の瞬間には、
ほこら全体が紫の光で染まりアルレン達を襲っていた村人全ては腐乱死体と化していた。
アルレンは目の眩むような紫色の光を発する珠を握り締め、やがて珠は彼女の手に吸い
込まれるように同化していった。
「ふふふ。愚かな……なんて愚かな人間達。今度は私がお前たちを追い詰めてあげる。時
間をかけてじっくりと……」
アルレンは白い珠を掴み取り、仰向けに倒れているピュリティの傷口に白い珠を押し当
てた。すると傷口から溢れていた出血は止まり、ぱっくりと開いていた傷は、痕跡ひとつ
残さず塞がっていった。
「姉さん……?」
目を開いたピュリティは不思議そうな眼差しで姉に視線を向ける。
「おはようピュリティ。私達の夜明けの時が来たわ」
残り七つの珠もアルレンの体と同化していった。
「そんな……」
私にはこれ以上言葉が出てこなかった。
祐巳ちゃんをあんな風にした忌まわしきアルレンという魔女は、実は今目の前にいるホ
ワイトの血を分けた姉だったのである。
「でもどうして姉妹なのに?」
あの殺気は本物だった。ブラウンがいなければ、あの場で即座に皆殺しにされていても
おかしくないぐらいのものだった。
「姉さんは今でも人間が憎いのよねぇ……」
村人達から理不尽に迫害されてきた姉妹。そして目の前で大切な妹を傷つけられた燃え
尽きることの無い憎悪と怒り。
それならば私だって同じだ。祐巳ちゃんをこんな酷い目に遭わせたアルレンを私は決し
て許すことは出来ない。
でも、憎いアルレンは私を助けてくれたホワイトのお姉さんなんだ。ホワイトは姉妹同
士で殺し合いをすることには何も感じないのだろうか。
「ホワイトは自分のお姉さんと戦えるの?」
「それはねぇ……やっぱり出来ないなぁ。今まで長い長い間、姉さんを止めようと必死に
努力したけれどダメだった。私には出来ない。だからお姉さん」
短い間だったけれど、私が見てきたホワイトの表情で一番切なくて強い表情で、彼女は
続きを口にした。
「私の命をこの祐巳ちゃんに譲ろうと思うの」
「ちょっと待ってよ!? それはどういうことなの?」
自分の命を譲るってことは、自分は死んでも構わないってことじゃないか。ということ
は祐巳ちゃんはやはり……。
「この祐巳ちゃんは仮死状態だからねぇ。私も頑張ってはみたけれどこれが精一杯だった
んだよ〜。だから足りない分は私が払う」
「でも、それじゃあ……」
「でもタダではあげないよ〜。姉さんを絶対に止めてくれるって誓うならばね」
なんと残酷な選択肢なんだろうか。二人とも助かる道は本当に考えられないのか。何故
どちらかしか生きれないのだろうか。そんなむごい選択私には出来そうにない。
「時間だね。じゃあ答えを聞かせてよ。誓ってくれる?」
私は……、私は……
「分かった。誓う。必ず止めてみせるから」
私は祐巳ちゃんを選んだ。決断の重さに、体の底から苦い感情がせり上がってくる。
「ありがとう。じゃあお別れだね。姉さんを倒して、祐巳ちゃんといつまでも幸せになっ
て欲しいなぁ……」
私の分まで、と小さく囁くような声で付け足した。銀の芸術的なまでに美しい髪が風に
揺れる。
ホワイトは、屈んで雪の大地に横たわる祐巳ちゃんの傷口に手を触れ、自分の胸元にも
手を当てる。ホワイトの体から視界いっぱいに広がる白い光が発せられた。
「じゃあね、お姉さん」
「ごきげんようホワイト」
ふっと光が消えた。ホワイトの姿も消えた。
「聖さま?」
人形のようにぴくりとも動かなかった祐巳ちゃんは、上体を起こし、私の顔を見る。
「やぁ、ごきげんよう。ねぼすけ祐巳ちゃん」
嬉しさと悲しさが入り混じった感情のせいで涙が止まらなかった。
「どうしたんですか聖さま?」
私の涙を不思議そうな眼差しを向ける祐巳ちゃん。
「いや、何でもないよ。ところで祐巳ちゃん、何故自分がここにいるのか分かっているか
な?」
「何故、ですか? ……はっ」
記憶が多少なりとも残っているらしい。どこまでかは定かじゃないけれど。
「もしかして、私を助けてくれたのは白い女の子ですか?」
「そうだよ。名前は……ピュリティっていうんだ」
あえて「ホワイト」じゃなくて本名で呼んだ。彼女のことを決して忘れないために。
「そうなんですか……。感謝しないといけませんね。ピュリティさんに。これで分かりま
した。何故かさっきから胸の奥がぽかぽかと暖かい理由が」
その暖かさがホワイトの命なんだろう。
「これは!」
猛烈な濃度の紫色の殺気の塊が、何も無い空間から現れた。
「あらあら。死んじゃったのね、ピュリティ」
この紫の魔女がアルレン。今回の大惨事を招いた、祐巳ちゃんを酷く傷つけた張本人。
この魔女の姿を見るだけで私の中から熱を持った怒りが湧いてくる。許せない。絶対に。
「さて、あなた達には用が無いわ。だから、さっきの茶色い坊やと同じようにさっさとや
られなさい」
紫の魔女に「赤い」力が集まるのが感じ取れる。
「It rains to target opponent」
(煮え立つ鉄の雨がお前を焼く)
アルレンは右手人差し指を私のほうに向けると、真っ赤に溶けた鉄が雨のように降って
きた。それを後ろに飛び退いてかわすと、着弾した地面周辺の雪は一気に蒸発し、底の見
えない穴が開いていた。
「あら、すばしっこいのね。じゃあこれをかわせるかしら?
It burns each opponent」
(紅蓮の火炎が全ての者を焼き尽くす)
アルレンを中心にして、同心円状に紅蓮の炎が荒れ狂う。
「きゃっ」
「祐巳ちゃん!?」
爆発的な炎の勢いに勢いよく弾き飛ばされてしまい、地面へと叩きつけられてしまった。
なんて火力なんだ。
痛む火傷の傷をおさえながらも体を奔る金色の力の流れを感じ取り、左拳に金色の力を
凝縮し、それを拳を振りぬいて撃ち抜いた。
回避するそぶりも見せず、黄金色の砲弾はアルレンに直撃し爆発した。
「中々やるのね。これならば良い絶望が得られるかもしれないわ」
ダメージを受けてはいるはずだけど、余裕たっぷりな様子のアルレン。流石一撃で仕留
めらるわけがないか。
祐巳ちゃんは、氷の槍を具現化し、それを白い光の力で加速して投げつけた。まさに光
の矢のように空を奔る槍。アルレンはそれを顔だけ動かし、最小限の動きだけでかわした。
かすった頬に横一文字な赤い筋が出来ている。アルレンは傷口の血を一指し指でぬぐい、
それを口に含んだ。
「Deatroy target land」
(お前の足場は無くなる)
自動車のような大きさの岩の塊が、隕石の落下のようにいくつも降り注ぐ。それを落下
する岩の影で判断しながら左右に動いて回避した。
「私が接近戦を仕掛けるから祐巳ちゃんは援護をお願い」
「分かりました聖さま」
石の雨が止み、数十メートル離れてしまったアルレンとの間合いを、雪が吹き上げるほ
どの爆発的な力で地面を蹴って詰める。
「It burns divided as I choose among any number of target opponents up to six」
(六つの炎岩がお前たちに降り注ぐ)
私が間合いを詰めるよりも早く、祐巳ちゃんが行動するより早くアルレンが詠唱を終え
た途端、合計六つの、炎を吹き上げながら燃え盛る家一件分ぐらいはありそうな巨石が祐
巳ちゃんに三つ、私に三つ落下する。
下手に攻撃し破壊しても、破片となった高熱の石ころが結局は降りかかるし、回避する
にしても岩が大きすぎて間に合わない。
「聖さま危ない!!」
祐巳ちゃんの声。青い光が空をベールのように覆い、巨石の赤い炎が瞬く間に消え去っ
て、ただの岩石となった。これならば破壊は容易だ。金色の砲弾で六つの岩石を次々と破
砕していった。
「まだ粘るのね。もうそろそろ焼けてしまいなさい」
再び紫の魔女に赤い力が収縮していく。しかし、そう何度もやらせるわけにはいかない。
高速の飛び道具で詠唱を阻止するには……私はホワイトが使っていた黒く大きな拳銃のイ
メージを練り上げた。
両手に握った黄金色の大型の拳銃でアルレンに狙いを定め、引き金を絞る。
獣が吼えるような銃声が二回、びりびりと体に響く反動。そして右腕と左わき腹に真っ
赤な染みを作るアルレン。
「はぁ……あなた……何でもありなのかしら」
アルレンは傷口を押さえ呻いた。止めを刺そうと私はアルレンの頭に照準を定め引き金
を引いた。
「Counter target spell」
(お前の攻撃を打ち消す)
放たれた金色の弾丸は、青い光に包まれ消滅した。
祐巳ちゃんは動きの止まっているアルレンに向かって背後一面に氷の刃を展開させ、次
々と射出する。
「Prevent all damage that would be dealt to me」
(お前の攻撃力は失われる)
白い光がアルレンの体を包み込み、氷の刃はアルレンを貫くことなくその光に吸い込ま
れていった。さっきよりも防御力が著しく高くなっている。
「Enchanted opponent can't attack or block」
(お前は木偶人形と化する)
白い光の輪が祐巳ちゃんの体を縛り身動きを封じてしまった。
「聖さま、これ取れません!」
私が解呪しようと手を触れると、ばちっと電気が奔り触れる手を弾く。
「祐巳ちゃんを放せ!」
黄金銃を解いて、今度は剣を練り上げた私は、それを両手でしっかりと握り締めアルレ
ンに斬りかかった。およそ二十メートルほどの距離を一瞬にしてゼロにするほどの勢いで
突進し、そのままの勢いで胴を払う。
「The next damage that a source of I choice would deal to me is dealt to target
opponent instead」
(私は無傷でお前が代わりに傷を負う)
「痛っ!」
私がアルレンを切り払った場所と同じ場所に同じだけのダメージが。そしてアルレンは
全くの無傷。
「あなた、もう少し考えて攻撃しなさい。いくらなんでも勇ましすぎるわ。それは無謀と
いうものよ?」
下腹部からの出血が激しく、脚が少しふらついてきた。でも負けない。絶対に負けない。
剣を握り締め、それを投槍よろしく投げつようとした。
アルレンと私の距離は二メートルにも満たない。これならかわしようがないはずだ。
「Return opponent player to over there」
(お前は向こうへ行ってしまえ)
後ろ襟を見えない力で引っ張られ、思い切り跳ね飛ばさた私は、アルレンとの間合いが
大きく離れてしまった。
地面にどさっと落下した衝撃が傷口にひびく。
自らは攻撃をしてこないが鉄壁の防御でそれをいなすアルレン。さっきの火力連発とは
戦法が大きく異なっている。一体どういうことなんだ。
さっきは赤い力がみなぎっているのが見えたけど、今は青と白の力が。そうか、アルレ
ンは全ての色の力を使えるのか。
ホワイトが見せてくれた過去の記憶の最後の部分に、置かれていた珠が全てアルレンと
同化していた場面があった。
全ての色の力を使うなんて。これはいくらなんでも反則だな。
「聖さま大丈夫ですか!?」
「大丈夫……。ちょっと傷が痛むけど」
精一杯強がりを言って私は祐巳ちゃんに笑って見せた。しかし、出血はまだ止まらない。
このままじゃちょっとマズイな。意識がぼやけてきたし目がかすんできた。
「あなた達はよく頑張った方ね。だからこれで終わりにしてあげる。
Put soldier token into play」
(我が精鋭達よ、ここに集え)
アルレンの詠唱によって、さっきの戦った青い板金鎧の門番と同じく、今度は白い板金
鎧を身に纏った兵士が現れた。その数ざっと数えて三十。
これを私一人で相手するには辛いかな。しかしこんな奴らに負けてなんていられない。
それぞれ同じサイズ、デザインの剣を腰に携え、アルレンの号令で一斉それを引き抜き
構え、そして綺麗に横一列に並んで突撃を開始する兵士達。
立て続けの戦闘と、この浅くない傷によって引き出せる金色の力も余裕は無い。体中を
巡る力の勢いが目に見えて落ちていた。短期決戦で望まないと勝ち目は無い。
機械的に揃えられた速度と歩調でどんどん迫ってくる白い軍団。そしてこいつらは横一
列に並んでいる。この状況を短い時間で打破するには……薙ぎ倒すしかない。
残る金色の力を両手に集める。近づく軍勢。残る距離は十メートルあるかないかぐらい。
そして私は集めた力を解き放ち、物干し竿よりも長い刀を練り上げ、それを野球のフルス
イングの要領で振り回した。
「おぉぉぉぉぉ!!」
左端の兵士から順に、力いっぱい白い板金鎧の胴体を切断していく。
「あなた……本当にデタラメだわ……」
そうして右端の三十体目兵士を薙ぎ払った。上半身と下半身にばらけた三十の兵士は、
活動を停止した。
肩で息をしながらアルレンを凝視する。
「ならば私が直々に手を下してあげる」
アルレンの体の周りには炎が渦巻き徐々に渦の大きさが巨大化していく。
「Destroy all opponent」
(全ての者を灰燼に帰す)
渦巻く炎が視界を真っ赤に埋め尽くす。
「聖さま!!」
膨大な熱量と爆圧が迫る。もう助からないな。ゴメンみんな。ゴメン、ホワイト。
私はこの忌々しい光の呪縛のせいで一切の身動きが取れないでいた。動く部位といえば
頭ぐらいしかない。聖さまは一人でアルレンと戦っているが、相性が悪くほとんど一方的
にやられてしまっていた。
迫り来る三十の兵士を薙ぎ払って倒したのも束の間、アルレンからおぞましいほどの力
が放出されようとしていた。
せっかく聖さまに助けてもらったのに。ピュリティさんから貰った命なのに、こんなと
ころで喪うなんて。そんなこと黙って許せるわけが無い。
体中を奔る青と白の力。体が熱い。青白い力のうねりに身を任せてそれを解き放つと、
鎖のように体に巻きついていたアルレンの白い光の輪を弾き飛ばした。
容赦なく力を発したアルレンの爆発が聖さまを今まさに焼き焦がそうとしている。
「聖さま!!」
私の体から発した青白い光は、触手のような動きで聖さまの体に巻きつき私の元へ引き
寄せた。当然数メートル離れた程度では状況は変わらず、さらに力を解放し、青白いガラ
スのような箱を作って、その中に聖さまと二人籠もってやり過ごした。
箱の外を真っ赤な炎が撫でるようにほとばしり、箱全体ががたがたと揺れる。
私は傷ついた聖さまの体をぎゅっと抱きしめた。聖さまは気絶しているらしく反応が無
かったのは寂しくもあり、変なところを見られずに済んで安堵するという複雑な気分だっ
た。
「ありがとう。そしてゴメンなさい。必ず倒してみせますから、少し休んでいてください」
聖さまの右わき腹を走る鋭い切り傷にそっと手を触れ、白い力を注ぎ込んだ。箱が派手
な音を立てて割れる。砕けた箱から遠くにアルレンの姿が見えた。
私は箱から出てアルレンに向かってゆっくりと歩いた。アルレンの方も何故だか分から
ないけれど私が歩いてくるのを待っていた。
そして私はアルレンと対峙する。倒すべき敵を目の前にして、全く緊張や畏れといった
ものが無かった。
「あなたはもう用済みなのよ。だから私に消されなさい」
「そうはいきません。逆にあなたこそ消えて下さい」
アルレンの、深い紫色した瞳はどこまで冷たい。射抜く視線はそれだけで足がすくみそ
うになるほどの圧迫感や恐怖をはらませている。けれども私は何故だか平生を保てていた。
私は巨大な氷塊の斧を練り上げ、柄の部分を両手でしかっりと握り締める。
対してアルレンは武器を一切持たない。
もちろんそんなことに気後れすることなく斧を高々と振り上げ、全身を使ってアルレン
を叩き潰そうと振り下ろす。
「It deals damage to target opponent and I gain life」
(稲妻がお前を焼き私は力を得る)
赤色と白色が入り混じった稲妻が奔り、それの直撃を受けた私は、斧と一緒に後ろへ倒
れてしまった。
直撃を受けた部分の制服が焦げてしまっている。でも不思議と痛みをあまり感じなかっ
た。痛みよりも、体中を血液よりも早く駆け巡る青と白の力の脈動の方を感じていた。
むくりと起き上がりさっと斧をを掴み取って体制を立て直す。
「何故立ち上がるの? ダメージを受けていないのかしら?」
僅かに焦燥感を表すアルレン。
「It burns to target opponent」
(猛火がお前を焼き尽くす)
ごうごうと燃え盛る火の塊。空気が焦げ付きそうなほどの高温。
心臓が熱を持っているのか、それに呼応するかのように私の体も熱くなる。
炎の塊が視界いっぱいに広がったかと思うと、右半身と左半身からそれぞれ青と白の光
が現れ、その炎は何事も無かったかのように消え去った。
「くっ。そんな馬鹿な。あなたも使えるというの?」
アルレンの質問の意味は分からない。けれど、アルレンの攻撃は私には効かないようだ
ということは分かった。
「Target player gets power and thoguness」
(私の力を強化する)
私とアルレンとの間合いは約三メートル。アルレンは緑色した、装飾等が一切無いナイ
フを練り上げ、右手に握り締めた。アルレンが初めて見せた武器。
私は両手に持った斧を力いっぱい横に振り回し胴を払うが、がきんと鈍い音がした。
アルレンはナイフ一本で私の一撃を受け止めた。
「どうしたのお嬢さん? それで終わり?」
全力で斧を振るい続けるけれど、その全てをナイフだけでしのがれている。
何度も何度も防がれ、なかなか隙を見せないアルレン。
「さようならお嬢さん」
アルレンの瞬時の反撃。緑の閃光のような鋭い刺突を超人的な反応でよける。でも、ナ
イフの刃が左肩に食い込んでいた。
左肩から全身に走る冷たく鋭い痛み。
ナイフが肩から抜かれ今度はお腹に痛みが走る。
真っ赤な血が肩やお腹から零れ落ち、雪の大地に鮮血の模様を描いていく。
ふっと斧を握る力が抜け、どさっと重い音がした。血と一緒に立ってる力も流れ出てい
き、大の字になって倒れこんでしまった。
血に染まったナイフを引き抜き、アルレンはそれを高々と掲げ笑う。
「さぁ、これで終わりよ。おやすみなさい」
「おいあんた。もういい加減にしろよ」
聖さまの声だった。聖さまはすごく怒っていた。体からは金色の光の粒子が無数に漂っ
ていて幻想的な美しさだった。
「いい加減にするのはあなたの方よ!!」
アルレンはこちらへ向かって歩く聖さまめがけてナイフをダーツのように投射した。
でも緑の刃は聖さまに傷一つ付けることなく、聖さまの目の前で静止していた。
「なぜ!?」
「分かったんだ私。鈍いから理解するまで時間がかかっちゃったけれど。これ以上祐巳ち
ゃんを傷つけるならば……あんたを殺す」
静止していたナイフが、空中でくるりと向きを変えアルレンに向かって飛び、彼女の紫
フードに切れ込みを走らせた。
聖さまの瞳や髪は神々しい金色だった。に金の瞳がアルレンを刺し貫くような視線を放
つ。私には聖さまの瞳は少し恐かった。
もらった白い珠の力のおかげなのか、傷が徐々に塞がっているようだけど、動けるだけ
の体力が私には残っていなかった。
「私を殺す? やれるものならやってみなさい!」
アルレンが狂ったように緑色のナイフを次々と投げまくる。
でも、一本のナイフも聖さまを傷つけることなく全て空中で静止していた。
それらは力を失って、ぼとぼとと地面に落ちた。
「なぜ!? そんな馬鹿な。お前ごときが!」
露骨にうろたえるアルレン。
「終わり? 意外と芸が無いのね」
ふっ、と鼻で笑う聖さま。
「私の邪魔だけは絶対にさせない!!」
アルレンに膨大な量の力を放とうとしている。力の色は赤、緑、青、茶、紫、黄、金、
黒、白、全ての色だった。
「聖さま!!」
「大丈夫だよ祐巳ちゃん」
聖さまはにかっと白い歯を見せて笑った。
アルレンの体から九つの色の筋のような光が発せられた。次の瞬間には、アルレンの全
身全霊を賭けた、破滅的なほどの破壊の力が解放される。
「消えろお前たち!!
Destroy all……」
「End the time」
聖さまがそう呟くと、アルレンの力が急激にしぼんでいく。
「力が消えていく!! どうしてこんなことに!?」
力が抜けたアルレンは地面に手を付いて脱力に苦しんでいた。
「あんたの時間は終わったんだ。もうこれ以上は無駄だよ」
「ふざけないで! お前なんかに私の気持ちが分かるわけないでしょう!」
立ち上がったアルレンは、憎しみに顔を歪め、懐から緑色のナイフを取り出し聖さまの
胸を貫こうとナイフを振り上げた。
金色の剣がアルレンの胸に突き立っている。私の目では捉えきれないほどの動きで聖さ
まは逆にアルレンを貫いていた。
「嫌よ……こんな……」
紫のローブに赤黒い染みがじわりと広がっていく。
「…………」
聖さまは黙ってアルレンを見下ろしていた。
力なく仰向けに倒れたアルレン。赤い血が雪を少しずつ溶かしていく。
「まだ……やらなきゃ……」
そしてアルレンの鼓動が止まった。
「祐巳ちゃん。帰ろうか」
「……そうですね。帰りましょう」
アルレンというとっても悪い人だけど、目の前で死んでしまったのは少なからずショッ
クだった。
「ぎゃうっ!」
「あぁ。なんかその声久しぶりに聞いたような気がする」
聖さまに真正面から抱きしめられた。暖かい。たったこれだけのことで、現金な私は、
気持ちは安らいでいく。
「じゃ、戻ろうか」
「はい、聖さま」
エピローグ
アルレンが死亡した瞬間に、小笠原の屋敷にそびえ立っていた氷柱は消滅し、首都圏を
覆っていた鉛のような重い雲、そして市街地に覆いかぶさっていた分厚い雪は、手品みた
いにあっさりと消えてなくなってしまった。
今回の異常降雪による被害は甚大なもので、特に武蔵野市中心とする地域での、雪の重
みによる建物の損壊が著しかった。
交通機関も大ダメージを受けており、特に一般道路に放置されていた事故車両の撤去に
は、数日を要していた。
気温も平年の六月の気温に戻り、街も少しずつ立ち直ってきたのがアルレンが倒されて
から一週間ほど後のことだ。
およそ十日ぶりに授業が再開されることになったリリアン女学園。
朝の八時を少し過ぎた頃、リリアンの校門には祐巳と祥子の姿があった。
「今日は久しぶりの学校ですね」
「そうね。色々と大変だったわ。祐巳も私も」
そうですね、と祐巳が言うと祥子は立ち止まり、改めて祐巳の顔を見つめた。
「あなた、そして聖さまにはいくらお礼を言っても言い足りないわ」
「そんなお姉さま、お礼だなんて……」
「お礼になんかくれるんだったら、祐巳ちゃんをちょうだいよ?」
登校する他の生徒にはばかることなく、後ろから、聖は片手を上げながら祐巳と祥子の
方へ歩み寄ってきた。
「せ、聖さま!?」
「いくら聖さまの頼みでもそれはできませんので」
「え〜。じゃあ、祐巳ちゃんに選んでもらおうか。私と祥子、どっちを取る?」
「あ、その、えっと……ごめんなさぁい!」
祐巳は回りの視線お構い無しにセーラーをひるがえしながら勢いよく走り出した。
「祐巳! ちょっと待ちなさい!」
「祐巳ちゃん待ってよ! 答えを聞かせてくれないと!」
二人は祐巳を追いかけて走り出した。
六月の梅雨の合間に訪れた快晴。雲ひとつない空の青さはどこまでも広がっていた。
FIN
|