「たねパニ! −前編−」
Written by 榎木津巽
0:落し物なんかしませんヨ
マユラという名の女神は、次元を渡ってふらりと人間界へやってきた。
「久しぶりの地上はいい気分。どこ行こっかなぁ」
彼女の遥か眼下には大地が広がっている。マユラはどこへ行くでもなく、背中から真っ
白な翼を思いきり広げ、白い羽を舞い上がらせながら飛び去ってしまった。
唐突にやって来たこの女神は、見た目だけで歳を判断すれば十五から十六あたりだ。艶
やかな黒髪を真っ直ぐに伸ばし、前髪は眉辺りで、その他の部分は肩口辺りで綺麗に切り
揃えている。
彼女の服装は神話等に出てくる、布を巻きつけたようなゆったりとしたものだ。
帯のように腰の辺りで結ばれている布には、絹で出来た袋が一つぶら下がっていた。そ
れはつい先ほど精霊界に住む、とあるノームから渡されたものだ。
マユラは腰布に結んだ袋を手で触って失くしていないか確かめる。一粒の小さな種の感
触が指先に伝わった。
(大丈夫。そう簡単に失くしたりなんてしないもんね)
マユラはこの種を受け取ったときの事を思い起こす。
「これが頼まれていた種だ」
見た目は老人な小人――いわゆるノームと呼ばれる精霊が、マユラに絹の袋を渡す。
「ありがとうおじさん」
「どうにもお前さんは気の抜けてるところがあるから、失くさないようにくれぐれも気を
付けるんだぞ。いいな」
眉をひそめて小人は注意を促す。が、しかし、心配されているマユラは呑気なもので、
鼻歌を歌いながら絹袋の口を縛っている紐をほどき、適当に自分の腰布に結んでいた。
「だいじょうぶだいじょうぶ。私だって世界を統(す)べる女神四姉妹の一人なんだから」
えっへんと小さな胸を張るマユラ。
「…………」
呆れて返す言葉も無く、小人は大きな溜息をついた。
「失くすと面倒だから、寄り道せずに真っ直ぐ帰れよ」
「はいはい。分かってますよ〜だ。それじゃあ、種ありがとう」
マユラは種を失くしていないと確認すると、より加速して大陸の東の方に向かった。彼
女の向かっている先には、背を反らせて獲物を追っている竜の姿をした四つの島、日本列
島があった。
「確かここがトウキョウだったはず」
マユラの目線の先には、日本最大の平野部である関東平野が広がっていた。彼女の目的
地は東京のようだった。
「じゃあ、ちょっとだけ寄り道ぃ」
マユラは海に潜るかのように頭を下に向け、大気を切り裂くかのように猛烈な勢いで下
降していく。
薄灰色した絨毯のように見えていた東京。下降していくうちに、徐々に建造物の輪郭が
はっきり現れ、やがて無数に立ち並ぶビルの群れが視界に入ってくる。
マユラは武蔵野市上空百メートル辺りまで下ると上体を逸らし、翼をはためかせながら
姿勢を立て直した。
そのままの姿勢でもう五十メートルほど高度を下げる。
彼女の瞳はとある二人の少女の姿が映し出していた。それは登校中の二条乃梨子と藤堂
志摩子だった。
マユラは乃梨子と志摩子の姿を見て驚き、視線が釘付けになっている。
(うわっ! 黒髪の方の子、私そっくりだ。その隣にいる子はティーノ姉さまと瓜二つ。
こんなこともあるんだねぇ)
しばらくの間、上空から乃梨子と志摩子の様子を眺めていた。
女神とそっくりな姿の人間、という珍しいものを見れて大いに満足したマユラは、体の
向きを百八十度転換し、別な土地を目指して勢い良く飛び去っていった。
その時、考えも無く急加速や急制動を行い、また、紐の結び方もかなりいい加減だった
ため、彼女の腰に結び付けてあった絹の袋はするりと抜けるように落ちていった。そして、
マユラが失せ物に気が付くのは当分先――神界に戻り長女のリーストに袋を渡すときだっ
た。
「それでね、彼の切り返しの上手いこと上手いこと」
「まぁ。そうなの」
楽しげに会話中の乃梨子と志摩子。しかし、愉快な会話が二秒後に中断されてしまうこ
とには気が付く由もなかった。
「で、その後がまた痛っ!!」
「乃梨子!?」
マユラの落とした、種の入った袋が乃梨子の丁度頭のてっぺん辺りに落下したのだ。
「痛たたた……」
乃梨子は自分の手で頭をさすり、痛みを和らげようとしている。
「大丈夫? 血が出ていないかしら」
志摩子はそっと腫れ物を触るかのように優しく掌で、乃梨子頭部を撫でてあげる。
「志摩子さんに撫でられたらどんな痛みもへっちゃらだね」
「まぁ。乃梨子ったら。ところで何なのかしら? これ」
志摩子は乃梨子に落ちてきたモノを拾い上げた。
「これがぶつかったのね。中に何か入っているようだわ」
志摩子は紐のほどけた乳白色の絹袋から、焦げ茶色の硬そうな親指の爪程度の大きさを
した種を取り出す。多少歪ながらも円に近い形をしており、鱗のようなシワが幾重にも刻
まれている。見ようによっては咲いた薔薇の花のようにも見える。
「種? 何の種だろう」
「後で図書館で調べてみましょう」
「そうだね。でも、何でこんなものが落ちてきたんだろう……」
1:種蒔き時
落ちてきた種を乃梨子が持っていることになった。昼休みに昼食を済ませた後、乃梨子
と志摩子は図書館で二人仲良く植物図鑑を広げ、開花した薔薇に近い形をした種のことに
ついて調べていた。
「見つからないわね」
志摩子が残念そうにページを閉じる。
「そもそもこの種が何科っていうのが分からないしね」
乃梨子はテーブルに置いた種を、指先で軽く弾いた。
「館の倉庫に置いてある、使ってないプランターに植えてもいいかな?」
「そうね。別に構わないと思うわ」
志摩子にオッケーをもらった乃梨子は、放課後になると館の一階の物置となっている部
屋から薄汚れたプランターを引っ張り出し、水で汚れを落とした後、温室から少々土を拝
借し、プランターの真ん中辺りに種を植えてみた。
「一体何が育つんだろうね」
「それは育ててみてのお楽しみ、というところかしら」
こうして、正体不明の種は、乃梨子の用意したプランターに植えられ、薔薇の館に寄り
添うように置かれた。
その頃神界では……
「はいリースト姉さま。『世界樹(ギガンティア)のタネ』持って帰ったよ」
主神の間には、玉座に長女のリーストが腰掛けマユラはリーストと向かい合うように立
っていた。
リーストは予め用意させていた「世界樹の種」を、精霊界から持ち帰るようにマユラに
命じていたのだ。本来ならば別な者に取りに行かせるところだったのだが、自分達の住む
神殿を改装している真っ最中であり、手が足りていない状態だ。そして、改装の主材料と
して、この木が用いられることになっていた。
マユラは依頼の品を渡そうと、腰に巻いた布にくくり付けていた、絹の袋があった位置
に手を持ってくる。しかしその手は何も掴むことが無かった。
「あれ?」
自分の腰の右側、精霊界を出るときにシッカリと(マユラの基準では)結んでおいた絹
袋の影も形も無かった。
「マユラちゃん。種はどうしたの? 早く渡してくれないかしら」
「は、はい。少〜しだけお待ち下さい」
あちこちを手で触ってみるが、種の硬い感触も袋の滑らかな感触も無かった。
さすがのマユラこれには一気に血の気が引いた。至る結論は唯一つ。
(な、な、失くしたぁぁぁ!!)
「ねぇマユラちゃん。もしかして……失くした?」
リーストが首を傾げると、外に撥ねた首元ぐらいな長さの後ろ髪がふわりと揺れる。声
自体に何者も伏させる威厳があるものの、リーストは穏やかな声色を心掛けたつもりだっ
た。
が、微妙な怒気を含まれているのがマユラには分かった。
(リースト姉さま相当お怒りだよぉ……)
「えっとあのぉ……ですね」
顔は緊張でこわばり、冷や汗がだらだらと背中を伝う。
「どうしたの? はっきりおっしゃいなさい」
切れ長の目がわずかに細まり、先ほどまでわずかな微笑をたたえていた口元は横一文字
に結ばれている。
「ゴメンなさい! 失くちゃいましたぁ!」
九十度近く頭を下げて謝罪するマユラ。
「マユラちゃん。オシオキは後でたっぷりと時間をとってしてあげるから、まずは一刻も
早く見付けてきなさい。ところで、落とした場所の目星は付いているの?」
「えっとですね、多分人間界のどこかだと」
オシオキの執行が後送りになっただけだというのに、マユラの表情はもう緩み始めてい
る。許してもらえたと勘違いしているようだ。
「人間界!? もし誤って人間が植えたりしたら処理が面倒なんだから、早く、とにかく
早く見つけてちょうだい」
「はいお姉さま!!」
マユラは遁走する兵士の如く走って主神の間を後にした。
2:大きくな〜れ
翌日の放課後、乃梨子は驚きの眼差しでプランターを見詰めていた。
秋風の涼しい十一月のこの季節に、これだけ急な成長をするとは思っていなかった。
昨日植えたばかりの種は、一晩のうちに芽を吹き今や十センチほどの高さにまで伸びて
いる。
(いくらなんでも、成長が早過ぎるよね。これ。少し気持ち悪いぐらいだよ。でも、せっ
かく植えたんだし、枯らしてしまうのもなんだか可哀相だ)
乃梨子は側に置いているじょうろを手に取り、恐る恐る名も知らぬ植物に水を与えてみ
た。
与えられた水によって土の表面が水気を含んで茶色の濃さを増し、プランターの底へと
どんどん染み込んでいった。
すると……
「えぇぇ!!」
声を立てずにはいられない事が起こったのだ。
乃梨子の目の前で、双葉を広げていた正体不明の植物はみるみるうちに背を伸ばし茎が
太くなっていく。
植物の成長する様を早送りの映像で見ているような気分になる。
二分も経たないうちに背丈は一メートルを越え、なお伸びる勢いは止まらない。
「ちょ、ちょっとこれ何!?」
半分パニック状態な乃梨子。どうすることも出来ずにただ驚くばかりで、視線がプラン
ター定まったままで周りが見れないでいた。
ぱきりと乾いた音がする。
それは、根がプランターを突き破った音だった。
植物の背丈が乃梨子とほぼ同じぐらいにまで伸びて、やっと成長が止まったように見え
た。何本もの根がプラスチックで出来たプランターを突き破り、地面に杭を打ち立てるよ
うに深々と突き刺さっている。
「これは……」
(変だ。この植物は絶対に変だ。こんな……こんな勢いで伸びるなんて普通じゃない)
乃梨子は志摩子のいる部屋に向かって一目散に駆け出した。
その頃志摩子は、環境整備委員会の会議に出席している最中だった。
乃梨子は、会議中の教室までの距離がとてつもなく遠いように思えた。足がもつれ上手
く走れない。外履きのまま校舎内の廊下を走り、会議の行われている教室まで辿り着くと
叱られること覚悟で会議中だった教室の扉を、乱暴な手つきで叩いた。
扉を開けたのは志摩子だった。
「どうしたの乃梨子?」
「あの、あのね……はぁはぁ、ちょっと待って」
肺が急激に締められているな感じがして、話すどころではなかった。
「ごめんなさい。少しだけ席をはずします」
廊下に出た志摩子は扉を後ろ手で締める。乃梨子の心臓が必死になって酸素を全身に巡
らせ、会話がなんとか可能になるまで呼吸を整え、話し出すまで十秒ちょっとかかった。
「……あのね、昨日植えたあの種が……変なんだ」
志摩子は、植えたばかりの種が枯れてしまったのだろうかと心配になる。
「まずは、落ち着いて。それとも話す場所を変えましょうか」
乃梨子は首を一度だけ縦に振る。
「とにかく薔薇の館に来てほしい」
志摩子は廊下を歩きながら、乃梨子の話を聞いていた。
乃梨子は話しながら、自分でもおおよそ信じられないようなことだなぁと思っていた。
目の前で植物が五分とかからずにおよそ一.五メートルも伸びただなんて。見間違いか
気のせいかだったならば、どれほど気が楽かと乃梨子は思う。
しかし、事実は事実だ。
「本当なんだってば。とにかく見てみれば分かるから」
下駄箱で外履きに履き替えた志摩子は、乃梨子と小走りで薔薇の館へと向かった。
志摩子はそれを目にした瞬間言葉を失った。
薔薇の館に寄り添うような形で置いてあったプランター。それがたったの一日で全く様
相が変わってしまっていたのだから。
志摩子の背丈よりも高く伸びたそれは、小さな「木」に変化していたのだった。
「また伸びてる! 志摩子さん、これどうしようか……」
「そうね、切ってしまうしか……」
「木」は何枚もの煮染められたかのような鮮やかな緑の葉を広げ、夕暮れの太陽の光を
全身で浴びようとしてる。プラスチックの割れる音が聞こえ、志摩子は目線を下に向ける
と触手のように蠢く根が、プランターの側面を穿って地面に根を差し込んでいた。
「やっぱり切ってしまうしかないと思うの」
「分かった。切ろう。ノコギリ取ってくるから、志摩子さんは少しだけここで待っていて
くれる?」
「お願いするわね」
乃梨子とは薔薇の館から真っ直ぐに温室へと足を運ぶ。昨日土を少し拝借したとき、ス
コップやノコギリ等があったのを見ていたからだ。
埃で薄く曇ったガラス戸を引き開け、乃梨子はスコップと並べておいてあったノコギリ
を引っ掴むと、爆発的な成長を遂げた怪しげな植物を伐採すべく、足早に館へと戻ってい
った。
「志摩子さんは上のほうをしっかり掴んでてくれる?」
「こんな感じでいいの?」
そうそう、と頷いた乃梨子はプランター(今や根が開けた穴だらけで、役目を果たして
いるとはいえない状態だ)の高さぐらいで、ノコギリの刃を「木」の根元辺りに当てる。
そして、刃を前後に動かす。押しては引き、引いては押してを繰り返す。が、しかし……
「切れない!?」
全くもって「歯が立たない」状態だった。「木」の幹には掠りキズ一つ無い。ノコギリ
の刃は錆びているわけでもなく、乃梨子が見る限りでは通常の切れ味があるように思えた。
乃梨子は試しに中庭に生えている適当な木の幹で、同様にしてみる。刃が動くにつれ細
かい木屑が地面に落ちていき、幹には一筋の削られたようなキズが付いていた。
「志摩子さん。ということはこれって……」
「ノコギリが悪いのではなくて、この木が硬すぎるのね」
全長二メートル半の高さになった「木」は、夕暮れの冷たくなった風に青々とした葉を
揺らしていた。
「切るのは明日にしましょうか」
「うん。そうしよう。なんだか今日は疲れちゃった。これ返しに行って来るね」
乃梨子は片手で自分の方を揉みほぐしながら、ノコギリを元の場所へと戻しに行った。
3:物事は程々が肝要也
乃梨子が校門に到着すると、学校全体が大変騒がしかった。騒ぎの元は薔薇の館のある
方角にあるようだ。
(もしかしてあの木、また大きくなったんじゃないのかな。なんとしてでも昨日のうちに
切っておけばよかったかもしれない……)
乃梨子は何となく嫌な予感が水のように満ちていくのを感じながら、下駄箱ではなく中
庭の方へと足を向けた。
確信に近い予感はやはり当たっていた。
一晩の間で、さらに身の丈を延ばした「木」は、背の高さが薔薇の館の屋根よりも高く
なり、丸太のように太くなった幹が館の壁面に食い込み、窓枠がひしゃげ窓ガラスが砕け
ている。
壁面もまた幹がぐいぐいと押してくる力によって婉曲している。そして「木」の根元は、
人の二の腕ぐらいの太さがある根がびっしりと地面を這っており、館の一階の中にまでそ
の根を広げている。
薔薇の館が、木に飲み込まれかけているかのように見えた。
「あの木いつのまに生えてきたのかしら?」
「館が、館が壊れるかもしれない……」
「どうするのでしょう。館も木も」
半壊している館の姿に、生徒達は一様に胸を痛めているようだが、乃梨子の痛みは格別
なものだった。何を隠そう、この「木」を植えた張本人なのだから。
(まさかそんな!? このままじゃ館が壊れちゃう! どうしよう。どうすればいいんだ
ろう……)
館の異変を心配そうに見守る生徒達の目の前で、「木」はさらなる成長を続け、根を広
げその身の丈を伸ばす度に、館の壁面は悲鳴を上げるかのように軋み、負荷に耐え切れな
くなった木材が裂けていく。
生徒達の騒ぎにようやく気付いた教員ら三名が、館の前に集っている生徒達に教室へ戻
るように注意をしようとした。しかし、唐突に現れた「木」に飲み込まれつつ館の姿を見
るや、三人のうち二人の開いた口が塞がらないでいた。
「な、なんとまぁ、これは……」
「どういう事なのでしょうか……」
「とにかく生徒の皆さんは教室へ戻りなさい。もうすぐ始業ベルが鳴りますよ」
一人気をなんとか持っていた初老の女性教員は、館の前に集っている生徒達を教室へ戻
るように指示を出していた。
生徒達が渋々引き下がり、校舎歩いていく姿を見届けると、その教員も、薔薇の館のす
ぐ傍にそびえる「木」の姿に薄気味悪いものを感じていた。
「何なのでしょう。この木は……」
薔薇の館をこのまま放置しておけば、近い将来倒壊する恐れがあるとして、「木」の伐
採と館の解体について朝から緊急の職員会議が開かれていた。
職員の意見として、「木」を切り倒すことには異論は無かったが館の解体については意
見が真っ二つに割れたのだ。
解体賛成派の意見は、「館の経年劣化は以前から指摘されており、いつ階段が崩れたり
床が抜けたりしてもおかしくなく、生徒達の安全を考慮すると解体せざるおえない」とい
うものでありその一方反対派の意見は、「薔薇の館は単なる学校の一施設というものでは
なく、ある種の象徴化されたものであるため、そう簡単に取り壊すべきではない。破損し
た部分は修繕し、崩壊の危険性がある部位は補強すればよい」というものだった。
反対派の教員の多くは、自身がリリアンのOGもしくは、姉妹及び友人がリリアン卒で
あり、それに対して賛成派の教員の大多数は他校の出身である。館の存続の支持、不支持
にはリリアンに対する思い入れの強さが比例していた。
会議が始まっておよそ三十分が経過した頃だった。
会議室にいても、何か木造の建築物が倒壊した破砕音が聞こえてきたのだ。木が軋みを
あげながら倒れていき、瓦が地面に落下し砕ける音が。
喧々囂々(けんけんごうごう)の議論を交わしていた職員達は、音を聞きつけると、相
手を説き伏せようと数々の言葉を口にしていたのをはたと止め、音のした方を向いている。
「今の音は?」
「館が倒れたんだきっと」
何人かの教師達は会議室を飛び出し、廊下の窓ガラスから中庭の隅の方を見る。
校舎の二階にある会議室からは、いつでも薔薇の館の姿を見ることができたのだが、今
では急に現れた奇妙極まりない「木」のそびえ立つ姿が見えるばかりで、昨日までは平然
とそこに立っていた薔薇の館は消えていた。その代わりに変わり果てた姿の館――へし折
れ、ひしゃげてバラバラになった木材の塊と、割れた瓦の山を見ることが出来た。
音を聞きつけた生徒達の騒ぐ声が廊下中に響き始めてきた。
何人もの生徒達が教室の扉を開け放ち、廊下の窓際に駆け寄ると薔薇の館のあった方を
見ている。そして彼女達もまたつい今しがた数名の教員らが目にした、館の残骸を瞳に映
すのだった。
「先生! 館が倒れてる!」
会議は一旦中止となり、各教師達は野次馬のように廊下に押し寄せる生徒らを教室に押
し戻すのに四苦八苦するのだった。
朝から全教員出席の会議が行われているため、一時間目の授業は自習となっていた。
しかし乃梨子は浮かない顔をしており、表情が曇っている。
(どうしよう。館があんなことになったのも、元はといえば私があんな変な種を植えたり
なんかしたからだ)
何をしようという気にもならず、気を紛らわせる方法も分からずにいた乃梨子は、ただ
じっと俯いているばかりだった。
「乃梨子さん、一体どうされたんですの? 何か困ったことでもあるのでしょう?」
朝からやたら表情の暗い友人が気に掛かっていた瞳子は、気持ちが鉛のように重たげな
乃梨子へ声をかける。
「ん? あるのはあるんだけど……」
乃梨子はぼそぼそと聞き取りづらい声で言う。
「悩みがあるなら、ハッキリと言った方がスッキリするかもしれませんわ」
「うん。あぁ、でも……。じゃあ……」
乃梨子が何かを言いかけたその時、中庭の方から、木で出来た建物の崩れるような音が
教室内に聞こえてきた。
その音を聞くやいなや乃梨子は教室を飛び出し、そのまま廊下を突っ走って靴を履き替
えることすらせずに、中庭へ飛び出す。
薔薇の館に向かって乃梨子は走る。
そして彼女の目に飛び込んできたのは、無残にも倒壊してしまった館の光景だった。
(どうしよう……私のせいだ。私があんな……)
乃梨子は足元の力がふっと抜け、地面にへたり込んでしまう。それでも目線は崩れた館
の瓦礫に注がれていた。
呆けたように館の亡骸を眺めている乃梨子の耳に、誰かが急いでこちらの方へと走って
くる足音が聞こえてくる。
「乃梨子!」
息を切らせて駆け寄ってくるのは志摩子だった。
「志摩子さん? どうしてここに?」
志摩子は座り込んでいた乃梨子の手をとって立ち上がらせ、制服に付着した汚れを手で
払って落としてやる。ついでに曲がってしまっていたタイを直してやると、乃梨子の瞳を
真正面から見詰めた。
「乃梨子、先に言っておくけどこれは決してあなたのせいではないのよ」
「でも、この「木」を植えたのは私なんだよ? これでもまだ私には何の責任も無いと言
うの?」
普段の志摩子では考えられないぐらいに強い口調で志摩子は返す。
「言うわ。乃梨子は何も悪くないもの。これは事故なの。誰にも防ぐことの出来なかった
運の悪い事故。そうでしょう?」
志摩子は有無を言わさぬよう乃梨子を抱きしめる。
乃梨子は静かに涙を流しながら、ただ一言「分かったよ」とだけ言った。
「分かってもらえたのなら、これ以上何も言わないわ。さぁ、戻りましょうか」
「うん。そうだね」
どちらからでもなく二人は手を継ぎあい、校舎へと戻っていった。
「世界中(ギガンティア)の種」を探し出すように命じられていたマユラは、アフリカ
大陸中央部(コンゴ民主共和国周辺)の上空を飛んで回っていた。
マユラの寄り道範囲は恐ろしく広く、五大陸全域と言ってよかった。マユラは一度下界
に下りると、人間界のあちこちを見て回り、動植物や人間を思う存分眺めてから神界へと
帰っていくのが常だ。
そのため、落し物がどこにあるのか分からずにいるのだった。
(何となく、もっと狭い島のような場所にあるような気がするんだけどなぁ。確か、ここ
に来たときにはまだあったんだから)
マユラが日本列島へ到着するまでには、もうしばらくの時間を要しそうだ。
運動場で体育の授業を終えた三年松組の生徒と、担当の体育教官は信じられない光景を
目にしていた。
前触れも無く中庭に現れ、学園周辺では一番背の高いモノとなっていた「木」の周り木
々が、突然に、そして次々と倒れていき砂塵を巻き上げる。中庭の木が倒れていくさまは、
ゆっくりとした流れのドミノ倒しのようにも見えた。
多数の生徒は、何事かと重量物の倒れる重低音に多少の恐怖を覚えながら、運動場から
中庭へと向かう。
そこで彼女達が目にしたもの、それは……「木」の根が周囲の木々を押し倒し、その跡
に自身の根を巨大な杭のごとく打ちませていく衝撃的な現状だった。
人の太ももほどもあり、肉食動物のように動く根は、押しのけ打ち倒した木を絡め取っ
て粉々に砕き、バラバラになった木を取り込んでいった。動物が食事をするかのごとく。
「木」の食事シーンは彼女達に大きな衝撃と恐怖を与えた。
「木」は中庭に生息していた植物を吸収するたびに、背丈を伸ばし、幹を太くし、地を這
う根の数を増やしていく。「木」は薔薇の館を破壊しただけでは飽き足りず、今度は中庭
そのものを占領しようとしていたのだった。
中庭の様子をうかがいにきた松組の生徒達は、ほんの三、四メートルほど前方を植物の
動きとは思えない滑らかな動作で、木々をなぎ倒し地面を穿ちながら領地を広げていく根
の行進を見るや、底冷えのするような恐怖心に駆られ、悲鳴を上げながら校舎へ逃げるよ
うに走っていった。
三時間目からようやく授業が再開され、今しがた四時間目の授業が終わったところだ。
朝に比べて乃梨子の気分はだいぶ落ち着きを取り戻している。
薔薇の館を倒壊せしめた「木」の成長は止まるところを知らず、とうとうその高さは百
メートルを超えようかという程にまで達している。人程度の視線の高さでは、到底「木」
の全体像を捉えることが出来ず、離れたところから見上げないと、ただの真っ直ぐに突っ
立った焦げ茶色した、太い棒にしか見えない有様だ。
昼休みに入り、学食へ買い出しに行く生徒や自分の机で弁当箱を広げたりする生徒等、
教室には昼休みのムードが漂っていた。
その休息ムードを破壊したのは、一年椿組の担任だった。
「午後からの授業は中止になったので、お弁当をしまって速やかに帰宅しなさい。いいで
すか、帰れる人はすぐに帰りなさいね。教室にいない人は私が声をかけておきますから。
それでは、ごきげんよう」
それだけ告げると担任は足早へ別な教室へと去っていった。
乃梨子はせっかく広げた弁当箱をしまい、教科書を机から引っ張り出して鞄に詰めると、
担任の言には逆らって二年藤組へ向かうことにした。
二階の廊下から見える中庭の様子が、朝に薔薇の館の保存を巡る議論をしていたことす
ら吹き飛ばしそうになるほど変わっていく。
「木」の根は、まるで大型のブルドーザーのごとき勢いで地上の樹木を軒並み押し倒し、
地を這う根が、堤防が決壊して、勢いよく溢れ出した河川の水のように中庭に広がってい
く。
廊下を歩いていた学園長はその場景を目にすると、全生徒を帰宅させることを即決した
のだった。その命は校内にいた全ての教員に伝えられ、生徒の帰宅勧告は速やかに行われ
ていった。それと同時に職員達の帰宅も進められていく。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る頃には、校舎内に残っている生徒はほぼゼロと言
ってもよいぐらいにまで減っており、約半数の職員もまた帰路についていた。中庭は「木」
によって完全に占領されていた。「木」は際限なく成長と拡大を繰り返し、根の魔手はい
よいよ校庭及び校舎にまで射程が及びつつある。
校舎に残った学園長や校長らは、「木」の伐採を市の都市整備部に依頼した。
学園長は自らが市役所に通報したのはいいが、疑心難儀な相手に話しを通じさせるのに
は大変な労を要した。
「学校の備品には何か木の切れるものとか置かれていないんですか?」
「ですから、それが出来ればわざわざ通報なんていたしません。私達では手に負えないほ
ど大きな木なので、こうしてお願いをしているわけです」
「それほどになるまでどうして放って置かれたのでしょう? そこまでになる前にいくら
でも手はあったと思いますが」
「昨日までそんな木は生えてなかったんです」
「え? そんなことはあり得ないでしょう」
小馬鹿にしたような物言いをする役所の人間への怒りを噛み殺しながら、辛抱強く話を
続けてようやく人を出してもらえることになった。
学園長の通報からおよそ三十分後。一台のトラックがリリアンの敷地へ近づいていた。
「何だあれ!?」
助手席に座っている男がフロントガラスから見える妙な塔を指差す。塔は胴体部分が焦
げ茶色、頂上部分は広げた傘のように緑葉が青い空に広がっていた。
数分も経たないうちに、これが自分達が切らなければならない「木」だと知ることにな
る。
都市整備部の職員三名を乗せたトラックがリリアンに近づくにつれ、高層ビルのように
も思えたものが、実は途方も無い高さの「木」だと分かった。
「なんて高さなんだ……」
「あんなもの俺達だけで切れるわけじゃないか」
「顔を出すだけ出しておこう。俺達だけではあんな化け物どうしようもないからな」
リリアンに到着した彼らは真っ直ぐに学園長の元を訪れ、一度戻って対策を考えるとい
う旨を告げた。
「あんな非常識的なものは私達だけでは手に負えません。ですので、一度役所に帰ってか
ら対処法を検討してみます。ですが、おそらくあれを切り倒すのは不可能に近いと思いま
すね。下手に切ってしまったらどう倒れるか分かりません。もし住宅地に倒れたりすれば
一大事ですから」
「では、ではこれはどうするのですか」
学園長は、やってきた職員の責任者を学園長室から連れ出し、二階の廊下の窓から見え
る中庭の姿を指差した。
「これは……」
窓から見える非現実的な有様に言葉が詰まり、目の前の光景をどう表現してよいのか分
からないでいた。
「木」の根が中庭を覆い尽くし、領地をさらに増やそうとその手を校舎にまで広げつつあ
る。中庭を囲う校舎や渡り廊下の一部の壁面には根が這っていた。
明治以来の長きに渡る伝統を受け継ぎ現代にまで存続しているリリアン女学園は、気が
付けばいつの間にか発生していた、局所的な災害のようにも思える「木」の「成長」に巻
き込まれ、呑み込まれつつあるのだ。
「この校舎もあの根に呑まれるかもしれません。いえ、きっと呑み込まれてしまうでしょ
う。その前に何とかなりませんか。私はどうしてもこの学校を助けたいのです」
学園長は悲しみと憂いを表情に浮かべ切実な声色で、責任者へ静かに訴えかける。
「分かりました。早急に対策を練ってみます」
三人の都市整備部の職員達は足早に学園長室を後にし、市役所へ戻っていった。
時を同じくして市役所や警察署では、学園長が行ったような通報がリリアンの周辺の住
民から何件も寄せられていた。
「お化けみたいな木が生えてるんです」
「気味悪くてバカみたいに大きな木が学校を壊そうとしている」
「外が暗いなぁと思ったら、自分の家が信じられないほど高い木の陰に隠れてしまってい
る」
通報を受けたときには、嫌がらせかイタズラにしか思っていなかった彼らは、あまりに
同じような内容――怪物のような「木」が生えているという共通性に、そして通報してく
るのが同一人物ではなさそうということから、確認の必要がありとして市役所や警察署で
は調査の検討が始められている。
警察ではまだ動きは無かったが、役所ではリリアンからもどってきた都市整備部の職員
らから報告を受け対策会議が開かれることになった。
百メートルを超える高さゆえに切り倒すことは不可能である。ビルのような建築物なら
ば、支柱部分等に爆薬を仕掛けることによって人為的な崩壊を起こさせることは可能だが、
相手が植物となると爆薬の仕掛けようが無い。
根だけを除去するにしても膨大な設備と人員が必要となり、本日中に準備を終えるのは
きわめて困難という判断を下さざるおえなかった。
伐採が不可能ならば焼き払うということも検討されたが、校舎のみならず周囲の建築物
への類焼が懸念され却下となった。
学園長が通報してから四時間後、とうとうリリアン高等部の校舎は「木」の根に完全に
呑み込まれてしまった。
「木」がリリアン高等部を占領した一時間後、天へ跳び上がらんばかりの勢いで成長を
続ける「木」は止まることを知らず、今度はリリアンの敷地全体へ触手を伸ばしていく。
最初の被害を受けたのは、高等部に隣接されていた女子大のキャンパスだ。
高等部との敷地を区切るように立てられている柵を易々と押し倒した根は、侵攻を開始
したのだった。
十一月三十日午後六時、リリアン女学園の地域住民四百名に対し避難勧告が出された。
その頃になると危機感を感じた何十人かの住民は自主避難を開始していた。午後六時時
点での「木」の丈は二百メートルに届こうとしており、幹の太さは並みのビルの周囲をも
上回っていたからである。
さらに四六時中木材や鋼材の軋む音が住宅地に響き、収まることない、コンクリートが
砕けたりガラスの割れる破壊音には、恐怖を覚えずにはいられなかった。
日が傾き、夕焼けに染まった茜色の空に、ぼうっと浮かび上がる真っ黒な棒。ようやく
成長速度に減衰が見られ始め、午後七時にはぴたりと成長を止めてしまった。
だがしかし、この棒にとって次の日の天気は非常に好都合だった。気象庁は、翌日の東
京における天候を「雨」と予測していた。
前編 了
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