「時の迷子」
Written by ユラ
第一章
彼女は迷子となってしまった。時の流れの間にて。
二00五年六月十八日
祐巳と祥子が、破局への道をまっしぐらに突き進む一方、乃梨子は、志摩子と姉妹にな
った。しとしとと小雨が降りしきる中庭の、木のふもとで。
乃梨子は、ロザリオ渡してくれた時の志摩子の表情を忘れることは無かった。
十一月二十七日
「リコ、はいこれお土産」
「お土産買ってきてくれたんだ。ありがとう菫子さん」
乃梨子は大叔母である、菫子のマンションに下宿している。夕食後、居間でテレビを見
ていた乃梨子は昨日イタリアへの出張から帰ってきた菫子から、土産を受け取ったところ
である。
「開けていい?」
「いいよ。大したもんじゃないけどね」
茶色で無地な紙袋から、葉書大の木の箱を取り出した。こげ茶色の木箱は、しっとりと
した質感を持ち、そこはことなく高級感を漂わせている。買ってきた本人である菫子は、
「大したものではない」と言っているが、ちゃちで安っぽい代物なんかでないことは明ら
かだった。
(すっごい高そうだけど、何が入ってるのかな)
箱を開くと、中にはガラスで出来た砂時計が入っていた。さらさらと粒子の細かい、青
い砂以外は全てガラスで作られている。
「砂時計だ。すごくキレイ」
「気に入ってもらってよかったよ」
小瓶程度の大きさの砂時計の上部には、「10」と刻まれている。おそらく「十分間」
を計るものである。
「この砂時計どこで買ったと思う?」
「うぅん。どこでってイタリアなのは間違いないでしょ?」
「これはね、ヴェネツィアのアンティークショップで見つけたの。なんか百年以上前に作
られたものなんだとか」
「へぇ。百年前?」
それだけの年月を経たものだとは分からないほど、曇りの無いガラスの砂時計。乃梨子
は、仏像とはまた違う造形美を有する砂時計に、虜となってしまった。
(これ本当にキレイだ。魔的な美しさと言えばいいのかな)
「ありがとう。菫子さん」
「ところで、コイツをいくらで買ったか値段、聞きたい?」
「……いや、遠慮しとく」
「そうかい? 残念だねぇ」
「じゃ、私、部屋に戻るから」
砂時計を木箱に戻した乃梨子は、それを大事そうに両手で持ちながら自分の部屋へと戻
っていった。
十二月四日
今日この日の昼過ぎに、訪れる約束をしていた乃梨子は、電車とバスを乗り継いで志摩
子の実家である小寓寺へとやって来た。
菫子からもらった砂時計を志摩子に見せるためである。流石に、学校へ持ってくるには
いささか、かさばり過ぎる事と以前志摩子から預かった数珠を瞳子に持っていかれた事が
少なからず影響し、日を設けてのお披露目となった。
たかだか砂時計の一つで大層なと思われるかもしれないが、それだけ乃梨子はこの古め
かしさを感じさせない、ガラスの砂時計を気に入りそれを大好きな姉の志摩子に、どうし
ても見せたいと思っていたのである。
トートバッグを肩に提げた乃梨子は玄関の前に立ち、インターホンを押して反応を待っ
た。
間もなくして志摩子の声が聞こえ、トタトタと廊下を小走りする音が乃梨子の耳に入り、
玄関のドアが開いた。
「ごきげんよう志摩子さん」
「ごきげんよう乃梨子。上がってくれるかしら」
「はい。お邪魔します」
家の中へと通された乃梨子は、志摩子の私室でしばらくの間雑談をして過ごしていた。
「そうそう。前にいってた砂時計見てくれる?」
「えぇ。もちろん構わないわ」
トートバッグから、こげ茶色の木の箱を取り出しふたを開けた。
「綺麗な砂時計ね。これはガラスなの?」
「うん。そうみたい」
乃梨子は箱から時計を取って、それを机の上に置いた。さらさらと砂が落ちる様子とそ
の音に、二人は意識を集めていた。
「菫子さんが言うには、これ百年以上も昔のものなんだって」
「そんな古いものには見えないわね」
「私もちょっと信じられないけど、そうらしいよ」
壁に掛けられた時計の短針が三を差し、長針が五十五を差した瞬間。
「うわっ!」
「きゃっ!」
家全体がガタガタと縦に揺れる。乃梨子机にしがみついて体勢を保ち、志摩子はしゃが
み込みベッドにしがみついて揺れに耐えた。
机に置いていた砂時計がことりと倒れ、転がり、床に落下していくつかの大きな破片に
割れた。破片と共に青い砂が床に散らばる。
縦揺れは十数秒で収まったが、志摩子の部屋は一分ほど前とは大きく変わっていた。
本棚に差していた教科書や参考書が床に散乱し、壁の掛け時計は斜めに傾いてぶら下が
っており、机の右側の床には青く細かい砂が広がっている。
「大丈夫志摩子さん!?」
ぺたりと床に座り込む志摩子の身を案じた。
「私は大丈夫よ。乃梨子は?」
「私も大丈夫。でも恐かったよね、今の地震」
幸いにも二人とも全くの無傷であり、部屋が散らかってしまったことを除けば、他に壁
が崩れたや、窓が割れたといった被害はなさそうである。
一階にいた両親を心配して志摩子は下へ降り、乃梨子も後に付いた。
「志摩子!? 大丈夫だったか?」
志摩子の父と母は居間に集まり、乱れた部屋の片付けを始めている。
「えぇ。私はなんともありません。お父さまは?」
「怪我は無かったけれど、後片付けがなぁ……。でも、家が潰れなかっただけ感謝しない
といけないか」
台所では、炊飯器や食器棚から皿や茶碗が落下し、居間では、テレビが台からずり落ち
ていた。他の部屋でも花瓶がひっくり返ったり、タンスが倒れたりしていたが、幸いなこ
とに負傷者は誰もいなかった。
藤堂夫妻と、志摩子、乃梨子の四人でテレビを持ち上げ、元の台へと乗せると直ぐに電
源を入れる。
「午後三時五十五分頃、関東地方で強い地震が発生しました。マグニチュードは6.9、
震源地は……」
この地震で七名が死亡、六十五人が負傷し、志摩子の住むH市では、震度五強の揺れだ
った。
二人は部屋に戻り、割れてしまった砂時計の片づけを始めた。
(せっかくのお気に入りだったのになぁ……)
乃梨子は砂時計の亡骸の前に屈んで、名残惜しそうに青い砂を摘み上げては床に落とす。
志摩子も隣で屈み砂を掌に乗せた。
「残念だったわね乃梨子」
「そうだね。でも、怪我しなかっただけマシだと思うことにする」
「乃梨子……」
それ以上言葉が見つからなかった志摩子は何も言わず、乃梨子の少し寂しそうな横顔を
見つめた。
乃梨子の摘む砂から、志摩子の掌に乗る砂から、一瞬の間青い光が放たれた。
「何? 今の光?」
「この砂が光ったように見えたわ」
「そうだよね?」
数秒の間二人は砂を見つめ続けるも、どうして光ったのか、そもそもこの砂が光ったの
かすら良く分からずにいた。考えていても分からないものは仕方ない、と割り切った乃梨
子は何事も無かったかのように振る舞い、片づけを始めた。
青い砂を集められるだけ集め、割れた破片は大きかったので、「修理してみようかな」
と、乃梨子は持ち帰ることにした。
「それじゃ志摩子さん、また明日」
「帰りは気をつけるのよ。また揺れるかもしれないから」
「うん。分かってる」
夕方の六時に出発したにもかかわらず、地震の影響でバスや鉄道のダイヤは大きく乱れ
ていたため、乃梨子が家に帰ったのは夜の九時を過ぎてしまっていた。
十二月五日
乃梨子は放課後、普段通り薔薇の館へと向かった。
「あ、乃梨子ちゃん」
「ごきげんよう祐巳さま。どうされたんですか?」
祐巳は館には入らず扉の前で立っている。
「それがね、これが開かないのよ」
祐巳は取っ手を引いてみるものの扉が開く気配は無かった。カギが掛かっているという
わけでもない。
「昨日の地震で、立て付けが悪くなったのかもしれませんね」
「乃梨子ちゃんは大丈夫だった?」
「はい。ケガとかは無かったんですが、お気に入りの砂時計が壊れてしまって」
「そっかぁ。あ、志摩子さんだ」
志摩子、乃梨子、祐巳の三人で力いっぱい取っ手を引くと、ギシギシと擦るような音を
上げながら扉が開いた。
館の中の内装には主だった被害は無かったが、二階の部屋は書類や備品が散乱しており、
仕事はまず片づけから始まり、最終的には山百合会のメンバー全てが集まって収拾にあた
っていた。
そうして一時間ほどが経過した頃に、ようやく目処が付いた。
「今日はこれぐらいにして帰りましょう」
明後日には期末試験が控えているということもあり、時刻はまだ夕方の五時手前である
が、祥子の提案で解散となった。
扉の修繕は次の日に業者が来る手はずとなっていたので、完全には閉め切らずにしてお
いた。
帰る仕度を終え、全員が館の外に出た瞬間だった。
地面が跳ね上がるような強烈な縦揺れが起こり、館の窓ガラスが次々と砕け散り、中庭
の木々が激しく葉を揺らし、山百合会のメンバーは手と膝を付いたり、しゃがんだりしな
がら揺れに耐える。しかし、志摩子や祐巳、由乃は揺れの強さに耐えられず、地面に弾か
れ転倒してしまった。
二階の窓枠が全て落下し、それに続いて建物全体が徐々に左へ傾いていき、木材が割け
る音やガラスが割れる音などを盛大に上げながら倒壊した。
「木から離れて! もっと大きいのが直ぐに来るから!」
二分ほど続いた縦揺れが治まった瞬間、立ち上がった由乃が大声で皆に叫ぶと、全員は
運動場へ走り、迫り来る揺れに備える。
薔薇の館が倒壊して一分も経たない内に、さきほどの縦揺れよりもさらに大きな力で地
面が激しく横に揺れた。
敷地中に生い茂る木々の大半は根こそぎ倒れていき、温室や体育倉庫などはすべからく
倒壊、崩壊した。ガラスや木材、コンクリートや鉄筋が、割れ、裂け、砕け、捻れる喧騒
をばら撒きながら、体育館の屋根が陥没していく。まだ横揺れは治まらず、ガス管の破裂
する、ドーンと腹に響く爆発音や家屋及び建造物が倒壊する悲鳴にも似た騒音が、現場か
ら離れた運動場にいても、間近で起こっているかのように聞こえる。
たっぷり三分ほどかかってようやく揺れが治まった。彼女達がいる運動場には何本もの
細い亀裂が奔っており、平面だったのが今では若干波打っているのが目で見ても分かるぐ
らいである。校舎の一部も崩壊し、学園の敷地内は先刻とは影も形も違っていたと言って
も決して大袈裟ではないぐらい、様相が変わってしまっている。
地震の恐怖に祐巳は泣き出してしまい、祥子はそっと抱きしめたが彼女の目にも涙が浮
かんでいる。
由乃は両手両膝を地面に付けて全身で息をしており、令の顔は、文字通り血の気が無い
蒼白、虚ろな目つきで呆然と屋根の抜け落ちた体育館を見つめていた。
乃梨子と志摩子は、自分達が抱き合いながら泣いている事に気が付き、咄嗟に体を離し
て顔を真っ赤にしながら下を俯いている。
ほとんど日の暮れかけている冬の夜でも、炎の赤が空を焦がす様を見て取れ、市街地か
ら立ち上る無数にも思えるほどの煙塵の上昇が、夜空を濁った色に描き変えた。
十二月五日午後五時七分、東京直下型地震が発生した。
自宅がリリアンから近い由乃と令は歩いて帰宅することにし、帰るに帰れない残りのメ
ンバーは、リリアンに残ることにした。
「もう! こんな時に繋がらないなんて!」
何度自宅へ電話しても通話できずにいる祥子は、苛立たしげに携帯電話をスカートのポ
ケットに突っ込んだ。
校舎は停電しており明かりが全く灯っていない。ひっきりなしに聞こえる救急車や、消
防車、パトカーのサイレンの音。時が経つに連れて、非常時の避難場所に指定されている
リリアンの運動場へ市民達が避難をし始める。
この日は結局、残った四人は家に帰れず仮設テントで一夜を明かした。
翌日、祥子の手配した車で自宅へ戻った乃梨子は、その場に立ち尽くしてしまった。
菫子と住んでいたマンションは斜めに傾き、所々崩壊している。とてもではないが部屋
のある六階へはいけそうにない。困り果てた乃梨子は、菫子の安否も確かめることも出来
ず、住む家も失ってしまっていた。
そんな乃梨子に救いの手を差し伸べたのは、やはり志摩子であった。
「うちの家も半分崩れてしまって住めないけれど、檀家の人たちと協力して仮設テントを
立てているから、乃梨子も来るかしら?」
こうして乃梨子は、志摩子とのテント生活が始まった。
十二月三十一日
震災から数日経った十四日に、菫子と連絡を取ることが出来た。
「菫子さん。今どこにいるの?」
「千葉にいる兄の家さ。連絡も取れずに済まかったね。リコにも携帯電話持たせておけば
よかったよ。ところで、リコは誰かの家で世話になってるの?」
「うん。志摩子さんの所に」
「しばらくはそっちにいるつもり? それとも千葉に戻る?」
「……当分はここでお世話になると思う」
「分かった。落ち着いたら連絡するから、志摩子ちゃんちの番号教えてちょうだい」
「番号は……」
地震が発生してから三週間以上が過ぎても、乃梨子は小寓寺で世話になっている。
(志摩子さんと一緒に生活できるのは嬉しいけれど、状況が状況なだけに素直に喜べない
よねぇ)
学校は、なし崩し的に冬休みに入ってしまい、期末考査は翌年へ持ち越される予定であ
るが校舎復旧の目処が立たず、授業を再開する予定もままならなかった。
午後十一時五十分。あと十分ほどで新年を迎える。例年ならば、除夜の鐘の準備が行わ
れるはずだが、震災で鐘突き堂が倒壊してしまい今年は中止となっている。
天井にランタンを吊るしたテントの中、毛布に包まりながら乃梨子と志摩子は向かい合
って、喋っていた。
「志摩子さん」
他愛の雑談から、急に真剣な声色と表情になる乃梨子。
「どうしたの乃梨子?」
「ありがとう。この一年色々あったけれど、私は志摩子さんに出会えて良かったと思う」
志摩子の瞳を真っ直ぐに見つめ、ハッキリと伝えた。
「乃梨子……。私も同じ気持ちよ」
「志摩子さん」
今度は穏やかな表情で呼びかける。
「ずっと側にいてね」
「もちろんよ」
志摩子は柔らかく微笑んで応えた。
時刻は午後十一時五十九分五十秒。二00五年も残すところあと十秒。
十秒、九秒、八秒、七秒、六秒、五秒、四秒、三秒、二秒、一秒……
<二00五年一月一日が訪れた>
第二章
二00五年一月一日
乃梨子は「自宅」のベッドで眠っていた。
寝返りをうち、抱き枕に、ぎゅっと力を込める。
(あれ? 寝袋っていつもこんなに寝心地よかったっけ?)
がばっと身を起こすと、そこは「自宅」だった。厳密に述べれば、千葉にある実家の乃
梨子の部屋だった。
(家? そんなバカな。私は志摩子さんと同じテントで眠っていたはず……)
布団から這い出た乃梨子は、机の上に置いてあるデジタルカレンダーを見て絶句した。
(二00五年!? どういうこと? 今年は二00六年のはずじゃないの)
ドアを跳ねるように開けて廊下に出た乃梨子は、空気の冷たさに身を震わせながら、階
段を走るように下りた。
下りて直ぐに見える玄関に背を向け、廊下を真っ直ぐ歩いて突き当たりを右に曲がり、
横開きの戸を開くと……居間には父親、母親、妹が遅めの朝食を摂っていた。
「あけましておめでとう」
コーヒーの入ったカップを口にしながら父親は、乃梨子に新年の挨拶をする。
「お姉ちゃん、新年明けましておめでとう」
妹がテレビを見ながら挨拶をした。
「乃梨子どうしたの? 朝、食べないの?」
ある種異様と言ってもよい光景に、乃梨子は言葉が出なかった。
今年は二00六年で、自分がいた場所は小寓寺。元旦といっても特に何もなく、ブタ汁
の炊き出しを手伝ったり配給の缶詰を配って回ったりするはずだった。
だから、この平穏無事な正月は「異様」と言って差し支えない。
乃梨子の、自分が置かれていた状況の認識が根底から覆されてしまっている。肌にあた
る暖房の乾いた温風や、テーブルから香る焼きたての餅、そして目の前にいる家族の存在
感、これら全ては夢と呼ぶにはリアル過ぎた。震災に会った自分と、穏やかな正月の朝を
迎えている自分、どちらが本物なのか乃梨子には判断がつかないでいる。
「お姉ちゃん何か変じゃない?」
(もしかして、震災に遭ったり、リリアンに通っていたっていうのは……夢?)
判断の天秤が傾き始めた。
「乃梨子? おい乃梨子?」
父親が心配そうに乃梨子の名を繰り返し呼ぶ。
「あ、はい、大丈夫。大丈夫だから」
食欲なんて全く無かった乃梨子だが、無理やり詰め込むように朝食を摂った。
「新年明けましておめでとうございます。二00五年も、よろしくお願いいたします」と
いう、某テレビ番組のオープニングを目にした乃梨子は少し泣きそうになった。
朝食を終え、自室へ戻った乃梨子はパジャマを着替えてから、ベッドの上で一人考えて
いる。
(今年が二00五年なのは間違いない。年賀状も中学の時のクラスメイトや友達以外には
来てなかったし、部屋は私が受験生の時と全く同じ。当然リリアンの制服も無い。という
ことは、震災で東京が滅茶苦茶になってしまったことや、私がリリアンに通っていたこと
は「夢」と考えるしかないかな……。志摩子さんが、夢の中の人物だったなんて思いたく
ないけれど、他に何て解釈したらいいのか分からない)
乃梨子は頭を抱えてベッドにごろりと寝転がった。
(リリアンが夢だとしたら、私はやっぱり公立高校を受験するんだろうなぁ。でも、まさ
かもう一度高校受験することになるなんてね)
「はぁ……」と、鉛のように重くそして深いため息をついた。
冬休みが終わり、乃梨子は再び「中学三年生」の三学期を迎える。担任もクラスメイト
も去年と変わっていなかった。
「あれ? 乃梨子ちゃんちょっと変わった?」
「そうかな。私は別に何もしてないよ」
「う〜ん。何かちょっと大人になった感じがするんだけどなぁ」
もう一度受験生となった乃梨子は私学の受験をリリアン、そして公立の受験をかつて第
一志望としていた高校に定め、勉強に励む毎日が続いた。
机に向かっている時、ふとリリアンでの生活が思い起こされ、「夢」と片付けるにはあ
まりにも鮮明な過去の記憶に、感傷的になってしまっていた。
(ダメだ。どんなに自分を取り繕っても「夢」だとは思えない。でも……)
同じ過ちを繰り返さないため京都の玉虫観音像見物は中止し、試験の勉強をただひたす
らに打ち込んだ。
乃梨子は、二月四日に受験したリリアンの合格を果たし、二月二十八日に公立高校の入
試を受けた。果たせなかった目標達成への高揚感。新たな可能性に対する、漠然とした期
待と不安。リリアンへの郷愁的な思い。乃梨子の感情は複雑に絡み合っていた。そんな状
態で試験に望んでしまったのだった。
三月四日、合格発表の日。受験した高校の掲示板には乃梨子の番号は無かった。
失敗してしまった自分への失望、リリアンへ通えることのそこはかとない嬉しさ。乃梨
子の胸中には、悲喜入り乱れた感情が渦を巻いている。
(私はどうしたいんだろう……)
乃梨子がいくら考え、悩んでいても「時」は無情にも流れ続け、「今」を「過去」へと
変えていくのである。
四月八日、二度目になるリリアンへの入学式。乃梨子は校門を目にした途端、強い既視
感に包まれた。
(私は知っている。この門の先にあるものを)
高等部の入り口から銀杏並木を通り抜け、二股に分かれた道の分岐点にあるマリア様像
の前で、他の生徒に比べ随分熱心に祈りを捧げる生徒の姿を見かけた。
身にまとう穏やかな雰囲気。柔らかい薄茶色の巻き毛。見紛うことなき志摩子の姿がそ
こにあった。
(志摩子さん!? やっぱり「夢」なんかじゃなかったんだ……)
「ごきげんよう」
自分の後ろに立つ乃梨子の気配に気が付いた志摩子は、ゆっくりと振り返り、体を乃梨
子の方へ向け、落ち着いた声で挨拶をした。
「あ、はい、ごきげんよう」
逆に乃梨子の挨拶は滑らかさに欠け、硬い。自身に巡る奇妙な感覚にどう折り合いを付
ければよいのか、分からないでいた。
(私がここへ通っていたのは「事実」としか思えない。だって私は知っている。この学校
の校舎や風習を。そして、志摩子さんの声を聞いたのは初めてじゃないって。じゃあ、私
はどうなってしまったんだろう……)
志摩子が像から離れようとしたとき、乃梨子は咄嗟に呼び止めた。
「私、一年の二条乃梨子っていいます」
「私は二年藤組の、藤堂志摩子。よろしくね」
「はい、これからよろしくお願いします。それでは失礼します」
乃梨子はクラス分けが発表されている掲示板へと向かい、志摩子はそのまま下駄箱へと
向かった。
乃梨子のクラスは「椿組」だった。
(これは偶然なのか必然なのか。どうしても「過去」は私を元の流れに戻そうとするんだ。
だから私は受験に失敗してリリアンの椿組に入学することなった。でも、何のために私は
同じことを繰り返さなければならないんだろう……)
乃梨子の頭の中では、「なぜ?」「何のために?」という言葉が何度も何度もリピート
していた。
新入生代表として乃梨子は去年(この表現が正しいのかどうかは分からないが)と、ほ
とんど同じ内容の挨拶をし、HRを経て入学初日を終えた。
「過去」とは確率の積み重ねによって成されるものである。同じ事柄が百回繰り返され、
その百回全て同じ結果が得られるとは限らない。そう、それは「時の流れ」という目に見
えないものであっても同じことなのである。
入学してからは平穏そのものの日々が続いた。ある日、瞳子から二度目のリリアン高等
部に関する風習や習慣についてのレクチャーを受けたりして、乃梨子は過去の体験をなぞ
っていく。
しかし、平穏過ぎた。入学式当日志摩子と出会って以来、乃梨子は志摩子と出会うこと
も度々あり着実に親密さも増していった。だが、志摩子から「数珠」を受け取ることも無
ければ、瞳子がそれを盗み出すことも無かった。やがて、五月の中旬に行われるマリア祭
も「滞りなく」行われてしまったのである。
(私が知っている過去とは違う。どうなってるのこれ? まさか二00五年が何通りもあ
るっていうこと? あのパラレルワールドとかいうものに紛れ込んでしまった? まさか)
月日は穏やかに、そして確実に流れていく。人によっては「瞬く間」と感ずることもあ
るが、それを止める術は誰も持ち得ない。確実に時は流れていくのである。
マリア祭、中間考査を終え、暦は六月へと変わっていく。
志摩子に誘われた乃梨子は、薔薇の館に山百合会の助っ人として出入りしていた。
六月に入ってから、由乃が剣道部への入部騒ぎあっただけで、他に主だった事件と呼べ
そうな出来事は起こらなかった。そう、祐巳と祥子の関係も良好のまま、期末考査まであ
と一週間となった六月の二十七日月曜日。
薔薇の館二階。放課後、二人きりで向かい合って座る乃梨子と志摩子。外は、細い雨が
ここ数日振り続けていた。
「ねぇ志摩子さん」
乃梨子は電卓を弾く指を止め、志摩子に呼びかける。
「どうしたの乃梨子?」
書類に判を押す手を止める志摩子。
「私、本当にここにいていいのかな?」
「乃梨子は山百合会の仕事が嫌い?」
「違うの。仕事が好きじゃないとかっていう話じゃないんだ。ただ……」
「ただ?」
「私の本当の居場所って何所なんだろうなぁって思っただけなの。だからあまり気にしな
いでいいよ」
「乃梨子……」
高校一年生として二度目の夏休みを過ごし、特に充実感も得られないまま四十日という
時間は過ぎていき、九月一日、二学期の始業式を迎えた。
乃梨子と志摩子の関係は時が経つにつれ徐々に深まり、去年に二人が体験したマリア祭
での宗教裁判のように大きなイベントが無かったものの、学園祭前後には姉妹になるだろ
うと周囲の面々は思っていた。
学園祭当日の十月十三日、学園祭のフィナーレを飾るファイアーストームがグラウンド
を鮮やかな炎の色で染め上げる。幾人もの少女達が、パチパチと爆ぜる音も心地良い炎
を囲んで輪になり、歌い、踊っていた。
その一方乃梨子は、マリア様像の前で一人立っている。
日はとうに暮れてしまい、乃梨子の周囲を電灯の人工的な灯りだけが灯っていた。
「お待たせ乃梨子」
「あ、志摩子さん。大丈夫、私も今来たところだから。ところで話があるってどんな話?」
マリア様像の前で、二人は向かい合っている。
「話っていうのは……乃梨子、私の妹にならないかしら?」
一瞬驚いた顔をした乃梨子は、自身に投げかけられた言葉の意味を噛み締め、理解する
と明るく笑った。
(まさか私が、また志摩子さんの妹になれるなんて。でも……いや、細かいことは気にし
ないでおこう。嬉しい気持ちが勿体無くなるし)
「もちろん喜んで。ずっと、ず〜っと側にいて離れたくないから」
志摩子は、自分の首に掛けていたロザリオをそっと乃梨子の首に掛けてやった。
遠くで聞こえる賑やかな歌声、夜空を染める朱色の光が二人を祝福してるかのように感
じられていた。
十二月三十一日
乃梨子は、年末年始を志摩子の家で過ごすことになっていた。志摩子は父親の手伝いで
多忙にも関わらず、時間を見つけては乃梨子に構ってやり、乃梨子も何か手伝えることが
あればと自分でも出来る雑用をこなしていた。
「ご苦労様、乃梨子」
手伝いも一段落付いた夕暮れ時、縁側に座って休む乃梨子の元へ着物姿の志摩子は、二
人分のぜんざいを盆に載せてやってくる。
「志摩子さんの方が大変だったから、そんなことないよ」
「そうかしら? はい、これ」
「ありがとう」
志摩子からぜんざいの入ったお椀を受け取った乃梨子は、甘さの強いあんと一緒に柔ら
かい餅を頬張った。
「もう今年も終わりね」
志摩子の呟きに、乃梨子の箸は止まってしまった。
(結局地震も起こらず、無事に年を越せるのはいいんだけど、一年経ってもやっぱり分か
らなかった。あの一年間の記憶は夢なのか現実なのか)
日が沈み、夜も更け、新年がもうすぐそこまで迫ってきた午後十一時五十五分。
乃梨子は、志摩子の部屋で新年を迎えようとしている。
「乃梨子にとって今年はどんな年だったの?」
「そうだなぁ、一言で言えば『激動』かな。志摩子さんは?」
(一言では表せられない年だったけれどね)
「私は……乃梨子にまた出会えたことかしら」
「志摩子さん?」
除夜の鐘の音が轟き始めたのは午後十一時五十九分五十秒。二00五年も残すところ、
あとわずか十秒。
十秒、九秒、八秒、七秒、六秒、五秒、四秒、三秒、二秒、一秒……
<二00五年一月一日が訪れた>
第三章
二00五年一月一日
乃梨子は「自宅」のベッドで眠っていた。
寝返りをうち、抱き枕にぎゅっと力を込める。
(ん? 志摩子さんの家に抱き枕ってあったかな?)
抱き枕の感触で一気に目が覚めた乃梨子は、がばっと勢いよく身を起こし、首を左右に
振って周りを見た。窓から明るい日差しが差し込んでいる。見覚えのあるこの空間。自分
が何所にいるのか理解した乃梨子の顔からは、血の気というものが失せてしまった。
(な、なぜ? どうして? 私は志摩子さんの部屋にいたのにどういうこと?)
乃梨子は恐る恐る視線を机の上に置いてあるデジタルカレンダーへと向ける。そこには、
二00五年一月一日と表示されていた。
(まただ。また二00五年がやってきたんだ。もう訳が分からない……)
乃梨子は「去年」と同様に布団を跳ね除け、ドアを乱暴に開いて廊下に飛び出し、一階
の居間へと走った。肩で息をしながら横開きの戸を開く。
明かりの消えた居間には、誰もいなかった。
薄暗い部屋には、飲みかけのビールが入ったグラス、空になったジュースのペットボト
ル、テーブルの上に散らかった柿の種やピーナッツ、点けっ放しのテレビ、とさながら宴
の後といった状態である。壁に掛かった時計を見ると七時十二分を差していた。
乃梨子は垂れ流しになっているテレビの映像を見やる。
和服姿の司会者の背後には、大きな文字で「謹賀新年 二00五」と書かれた金色で、
派手な装飾が施された扇子が見える。
「今年二00五年の抱負は何でしょうか?」
司会者が、三十台半ばといった出演者の一人であるお笑い芸人へ訊ねる。
「そうですねぇ、私の抱負は結婚することですか」
「その前に相手見つけなきゃ」
相方の突っ込みにどっと爆笑する出演者達。
(二00五年……私、三回目だよ……)
乃梨子はテーブルへ無造作に置かれたリモコンを手にとってテレビを消した。そして自
分の部屋へ、とぼとぼと歩いて戻った。
ベッドに倒れこんだ乃梨子は頭を抱えた。
(どうして私は二00六年に行けないの? 何が原因? 理由は?)
次々と浮かんでくる疑問。答えなど出るはずもなく、乃梨子はただベッドの上で悶えて
いる。
(これは夢とか現実とかじゃ区別できない。今、私が置かれているこの環境が真実なんだ。
私は「時の迷子」になってしまった。時間をどうこうするなんて出来っこない……という
ことは、私ずっと二00五年で彷徨い続けるんだ。イヤだ。そんなのイヤだ。助けてよ志
摩子さん……)
乃梨子は一日中ベッドの上で泣き続けた。真っ赤になった目、異様にやつれた雰囲気に
両親は、何事かと心配したが「受験勉強で疲れただけ」と弁解するに留まり、決して自分
が「時の迷子」になってしまったことについては、触れなかった。
三月四日
乃梨子は三度目になる高校受験に嫌気を差しながらも、第一志望としていた公立高校へ
の合格を果たした。受験前日には京都まで赴き、玉虫観音像を拝見し帰りの新幹線も雪で
運行止めになることもなく、全てが本来あるべき姿へと流れていった。
(もしかして、こうなることが私の未来だったのかな? リリアンでの生活の方がイレギ
ュラーだったと。でも、そんな考え方は嫌だな)
四月八日
乃梨子が進学した、県立「時廻(ときめぐり)高校」の入学式が、穏便に執り行われた。
一年一組に分けられた乃梨子は、若干の寂しさを感じながらも新たな生活の始まりを予
感していた。乃梨子はあえてリリアンを受験しなかったのである。
(どうせ私は来年へ行けないのならば、リリアンに進学しない、高校にすら行かない、色
々な可能性を試してみたい)
この時廻高校は進学率もさることながら、部活動の方へも力を入れており、文科系、体
育会系問わず多種多様なクラブが乱立していた。
その一つとして「宗教研究会」という他の学校では、そうお目にかからない珍しいもの
もある。このクラブでは「宗教」という大きなくくりを対象としているが、会員(何故か
部員とは呼ばれていない)は各自「宗教」にまつわるものを好き勝手に研究、調査し、定
例発表会の場で結果を発表するといったことが主な活動内容である。
学校から公に認められている部なので予算が付いている。つまり、学校の金を使ってク
ラブ活動という名の下で仏像巡りも可能なのである。
乃梨子は喜んで研究会へ入部した。
学校にも馴染み友人も出来始めた六月の中旬、時廻高校のある千葉市内で通り魔殺人事
件が発生した。
犯行手順は、夕暮れ時の人通りの少ない路地にて下校途中の学生をナイフで刺殺すると
いう悪劣極まりないものである。犯人は三十台から四十台ぐらい、黒のスーツを着た一見
何の変哲も無いサラリーマン風の男であるといわれていた。この陰惨な事件が、既に一週
間で二件も発生しており警察は警戒を呼びかけていた。それにもかかわらず……
六月二十二日
乃梨子が部室で調べ物に夢中になっているうちに、時刻は午後七時を過ぎてしまってい
た。六時ごろから降り始めた雨脚が徐々に強くなる。
「うわ、もうこんな時間だ」
一人部屋に残っていた乃梨子は、資料を本棚へ戻し帰りの仕度をさっさと済ませ、鍵を
閉めて部室を後にした。
乃梨子が下駄箱から外の様子を見ると、雨が叩きつけるように降っている。
(これじゃあ傘差していても濡れるのは避けられそうにないな)
薄水色の傘を広げ、雨の中駅のほうに向かって歩き始めた。
人通りのまばらな道を歩いていると、乃梨子の向かいから黒の傘を差したスーツ姿の男
が真っ直ぐに歩いてくる。男と乃梨子がすれ違う刹那、それは起こった。
「うぐっ……」
男は鮮やかに乃梨子の胸の真ん中に果物ナイフを突き立て、何事も無かったかのように
歩いていったのである。
握っていた傘の柄が手から抜け落ち、ふっと力が抜けた乃梨子は地面に倒れこんだ。
乃梨子の異変に気が付いた通行人が金切り声を上げた。
溢れ出す鮮血が雨に混じって流れていく。
(寒い……。どんどん体が冷えていく。私、もうダメなのかな……。こんな意味も無い死
に方なんて……。でも、これで終わりになるんだろうな。それはそれで……)
乃梨子は救急車で病院へと運ばれたが間もなく死亡した。二条乃梨子の人生はあまりに
もあっけなく幕を閉じた。
第四章
二00五年一月一日
乃梨子はスイッチがパチンと入るように目が覚めた。
(ここは!?)
勢いよく上半身を起こし、きょろきょろと部屋の様子を窺い、自分が何所にいるのか把
握すると彼女の頭の中は大いに混乱した。
(何で? そんなバカな。ここは私の部屋だ。私は……あれ?)
乃梨子には、自分が通り魔に刺され、意識を失ったところまでの記憶はあった。そして
ナイフの鋭く冷たい痛みもしっかりと覚えていた。
恐る恐る右手を傷があるであろう胸元に手を当てる。
(痛みが無い。どういうこと?)
着ていたパジャマのボタンを外し、刺された部分を直接目で確かめる。そこには傷跡す
ら無かった。
(そんな、どうして? 確かに私は……死んだはず)
混乱の極みに達している乃梨子は、ふと机にあるデジタルカレンダーを見てしまった。
そこには二00五年一月一日と表示されている。
(「時の迷子」は死ぬことすら出来ないんだ……)
乃梨子は四度目の二00五年を迎えた。いちいち下へ降りて日付を確かめるまでもなく、
今日は二00五年一月一日である。
乃梨子は放心状態で天井を見つめていた。固まった空気を動かしたのは、部屋のドアを
ノックする音だった。
「乃梨子? 起きてるの? 朝ごはんの時間だから下りてきなさいね」
ドアの外から乃梨子の母親は用件だけを言って、中には入らずに戻っていった。
返事もろくにせず、もそもそとベッドから出た乃梨子はパジャマを着替えようとタンス
の引き出しを引いた。その時、側に立てかけていた鏡に自分の姿が映る。そして気が付い
てしまった。
(嘘でしょ? こんなことって……)
乃梨子の肉体は成長していたのであった。二00五年という時間の流れからは抜け出せ
ないものの、体のほうは発育していった。
よって、彼女は戸籍上十五歳であるが実年齢は十八歳であり今年で十九になる。迷子に
さえならなければ、大学生となっていたはずだった。
(どうりで年々服が窮屈になると思ったら。しかし、滑稽だよね。年はとるけど年が越せ
ないなんてさ)
四月八日
乃梨子は再びリリアンへ進学することにした。流石に、あんな事件に巻き込まれたとあ
っては、また時廻高校へ通おうという気にはなれなかったのである。
何度体験したのか分からなくなっている入学式を済ませ、一年椿組の教室へ戻った。
教室で一人文庫本を読みふけっていると、左右の縦ロールが特徴的な椿組のクラスメー
トの一人が乃梨子に話しかけた。
「はじめまして。私は松平瞳子と申します。あなたのお名前はなんておっしゃるのです?」
「私? 二条乃梨子だけど」
(なんか、瞳子が妙に子供っぽく見えるのは気のせいなんだろうか?)
「乃梨子さんとおっしゃるのね。ところで乃梨子さんはとても大人びていますわ」
(そりゃ当然だよ。だって私は今年の十一月で十九になるんだから)
「ありがとう」
乃梨子はそれ以上は言わなかった。
こうして四度目となる高校一年生としての生活が始まった。乃梨子の成績はトップクラ
スであり、その上同級生にはない雰囲気も相まってか、学年の有名人となっていった。
(成績優秀っていってもそんなの誰だってなれるよ。同じ様なことを四年も繰り返し勉強
すれば嫌でも分かるし)
四月十八日
特記することも無い、平穏無事な日常が流れるように去っていく。しかし、乃梨子には
一つ気がかりなことがあった。
(薔薇さまのはずの志摩子さんを全然見かけないけど、どうしてなんだろう?)
これまで二度姉妹となれた、今度もいつかは会えるだろう、と受身の姿勢で出会いを待
っていたが徐々に不安が募っていく。
そして思い切って現白薔薇さまに関して瞳子に聞いた。
「ねぇ瞳子? 白薔薇さまってどんな人か知ってる?」
「いきなりな質問ですわね。けれどお答えしましょう。現在の白薔薇さまは『蟹名静』さ
まという方です」
「蟹名……静? 誰それ? 志摩子さんじゃないの?」
「あら? どうして乃梨子さんはその方のお名前をご存知ですの? まぁそれは置いてお
くとして、志摩子さまは今年の三月で退学されました」
乃梨子は瞳子の口から発せられた衝撃に、意識が崩れそうになる。思考回路が寸断され、
得体の知れない黒い感情が胸の奥から湧き出てくる。これを人は「絶望」と呼んでいた。
口を開けたままの乃梨子は、傍目から見ると間の抜けた感じがしていた。しかし彼女か
ら撒き散らされる露骨な落胆に、乃梨子の側にいたクラスメイト達は驚き、何と声を掛け
てよいのやら困惑していた。
「志摩子さんが退学?? どうして辞めちゃったの?」
「どうも実家のことが露見したという話を聞きましたけれど、瞳子にも詳しいことは分か
りません」
(聞かなきゃ。薔薇の館に行って確かめる)
放課後、乃梨子は薔薇の館へと直行した。
乃梨子からすれば二年ぶりに訪れる館の外見は、当然ながら変わることなく、乃梨子が
最後に見た時と同じ姿を保っている。
扉の前に立った乃梨子は入り口の扉をノックする。数秒待ってみるが何の反応も返って
こない。
ノブを捻ると、扉はすんなりと開き中へ入る。古びた階段を踏みしめ二階へ上り、そし
てビスケット扉の目前で立ち止まった。
ここでもまたノックをしてみた。が、反応は無い。そっと開き、中の様子を窺ってみる
と誰もいないと分かった。
(早く来過ぎたかな)
「ごきげんよう」
「うわぁぁあ!!」
突然背後からの挨拶に、乃梨子は素っ頓狂な声を上げ、盛大に驚いてしまった。
乃梨子が振り返った先には、祐巳が鞄を両手に持ち、乃梨子に視線を向けながら立って
いる。
(祐巳さまか。久しぶりに声を聞いたから、一瞬誰だか分からなかったよ)
「山百合会に何か御用ですか?」
「あ、はい。御用です」
「失礼ですが、どちらさまでしょうか?」
(ちょっとショックだな、これ。でも仕方ないものね)
「申し遅れました。私、一年椿組の二条乃梨子と申します」
乃梨子には面識があるが、祐巳からすれば全く見知らぬ客人である乃梨子の挙動をいぶ
かしんでいた。しかし、乃梨子の名前を聞くと態度を一変させた。
「君が乃梨子ちゃんかぁ。噂の一年生って君のことだったんだね」
(ん? 私はそんな有名人なのかな。よく分からないけれど)
「私は二年松組の福沢祐巳っていいます。ここで立ち話するのもあれだから、中に入りま
しょう」
「はい、すいません」
乃梨子は、お邪魔しますと小声で言いながら入った。
「お茶入れてくるね」
「私が入れますから、祐巳さまはお待ち下さい」
「いいよ乃梨子ちゃん。お客さんにそんなことをさせちゃうと、お姉さまに叱られるから
ね」
「はぁ。分かりました。お世話掛けます」
一番扉に近い席に座った乃梨子は、祐巳が紅茶を入れている間二階の窓から見える外の
景色をぼうっと眺めていた。
「お待たせ」
「いただきます」
乃梨子の真向かいの席に祐巳が座り、ようやく本題を切り出せる状況が整った。
(同級生の祐巳さまなら知っているはず)
「さて、乃梨子ちゃんの用件とは?」
「はい、一つお尋ねしたいことがありまして。それは志摩子さんのことです」
志摩子という名前に反応した祐巳は、露骨に視線を逸らす。
「志摩子さんのこと……聞きたいの?」
伏目がちに祐巳は細い声で言う。
「はい。是非お聞かせ下さい」
「乃梨子ちゃんを信用して話してあげる」
つまり他言無用であると、声には出さないが祐巳はそう言っていた。
「志摩子さんはね、今年の三月でリリアンを辞めちゃったの。その原因となったのが、一
月にやった役員選挙なの。
立候補したのが、志摩子さん、祥子さま、令さま、そして静さまの四人。例年では選挙
なんて行わずに、そのまま薔薇さまに就任していたみたい。つぼみ以外に立候補する生徒
がいなかったことが多いんだって。
久しぶりの選挙ということもあってか、あと、新聞部もかなり煽った結果、各陣営の選
挙合戦がかなりヒートアップしちゃって。始めのうちは、自分達が応援する候補者をアピ
ールしていたのだけど、終盤になっては相手の欠点を誇張するものになっていたんだ。
そして、とある陣営の生徒が新聞部に、志摩子さんの実家がお寺だっていうことを暴露
しちゃったの。志摩子さんはとっても熱心なカトリック教徒だったから、とてつもない矛
盾よね。
志摩子さんは自分の中にあるルールを設けていたの。『実家について知られたら、学校
を辞める』って。だから志摩子さんは立候補を辞退し、退学届けを出した。当然周りはも
ちろん私も必死に説得したけど、志摩子さんの意思は固くてどうにも出来なかった。
事態の大きさに選挙を中止しようという声も挙がったけれど、結局は祥子さま、令さま、
静さまがそれぞれ紅薔薇さま、黄薔薇さま、白薔薇さまに就任、そして志摩子さんは三月
いっぱいでリリアンを去ったの」
(そんなことがあったなんて……。志摩子さん、辛かっただろうな)
「ちなみにね、志摩子さんの実家をばらしちゃった生徒も事の大きさに耐えかねて辞めち
ゃったし、新聞部も責任とって廃部になっちゃった。まぁ、そんなことしても志摩子さん
が復学するわけでもないんだけどね」
「それで、志摩子さんは別な学校に通われているんですか?」
「遠いところにある修道院に入ったって聞いてる」
「それは何所の?」
「たしか長崎だったような。ゴメンね。私もそこまで詳しくは知らないの」
(そうか。志摩子さんとはもう会えないんだ……)
声を殺して泣く乃梨子に、祐巳はどう言葉を投げかけて良いのか分からなかったが、席
を立ち、下を向いて震える乃梨子を後ろからそっと抱きしめてあげた。
「どうして乃梨子ちゃんがそこまで志摩子さんにこだわるのか、私には分からないけれど、
自分の力不足で人を泣かせるのって辛いね。ごめん乃梨子ちゃん」
「いや……いいんです祐巳さま。取り乱してしまって申し訳ありません」
「ごきげんよう」
祥子がビスケット扉を開けて入ってきた。そして見知らぬ生徒が俯いて泣いている状況
に祥子は祐巳に説明を求める。
「祐巳、一体これはどいうことなの?」
「この子、一年の二条乃梨子ちゃんっていうんです。それで、今日は志摩子さんの話が聞
きたいってやって来て」
「話したの?」
不愉快極まりないといわんばかりに眉間に皺を寄せる祥子。
「はい。申し訳ありません」
「私が頼んで無理やり話してもらったんです。祐巳さまはちっとも悪くありません」
「そう……。ならばもういいわ。済んでしまった事なんですから。でも、キレイな話では
ないから軽い気持ちで喋るのは止してね」
祥子はふっと気を抜き表情を和らげて、スタスタと一番奥の席に着いた。
「お茶を入れてくれないかしら?」
「はいお姉さま。乃梨子ちゃんもそれ冷めちゃってるから新しいの入れてくるね」
乃梨子は首を一度縦に振って応えた。
祐巳が入れなおした紅茶を、ぐっと飲み干した乃梨子は「お邪魔しました」と頭を下げ、
館を後にしたのだった。
五月十七日
マリア祭が行われた翌日の昼休み、一年椿組の教室に祐巳が訪れた。
「乃梨子ちゃんいる?」
「あ、はい」
教室の入り口で一人立っている祐巳は、乃梨子が教室から出てくるとお昼を一緒にどう
かと誘った。
「私は別に構わないですけれど、どうなされたのですか?」
「前から少し気になっていたんだけど、どうして乃梨子ちゃんはそんなに志摩子さんにこ
だわるのかなって。聞かせてくれるかな?」
乃梨子は迷った。まず、話すべきかどうか。次に、話すならどこまで話すべきかを。
(私の体験を話したところで信じてもらえるわけがない。じゃあ、どう言えばいいんだろ
うか……)
「ダメかな?」
「……分かりました。お昼は薔薇の館ですか?」
志摩子の事について話してもらった手前、無碍に断るわけにもいかず、渋々ながらも了
解する。
「館だとちょっと話し辛いかもしれないから、温室にいかない?」
祐巳提案で昼食を温室にて摂ることとなった。
温室は学園の敷地内にあるにも関わらず、ここを訪れる生徒が少ないため、人気ない静
かな場所としては絶好のものである。
祐巳と乃梨子は、かつては植木鉢などが置かれていた台の上に座り、弁当を拡げていた。
「聞いてもいい? こだわる理由」
弁当箱を包む布を結びながら祐巳は切り出す。
「分かりました。お話します。でも、そんな大した話じゃありませんけど」
「いいのいいの。聞かせて」
祐巳は乃梨子の方を向いて言う。そして乃梨子は前を向いたまま語りだした。
「えっと、実は私、仏像鑑賞が趣味なんです。リリアンの生徒なのに変ですよね。そのこ
とは置いておきましょう。それで以前、志摩子さんのお寺にある仏像を見せてもらったこ
とがあって、その時に知りあったんです。それ以来何度か会う機会があって親しくなりま
した。志摩子さんと私についてはおおよそこんな感じです」
「なるほど。話してくれてありがとう。今度会うときは、館にしようか? ここでお昼摂
るのってちょっと窮屈じゃない?」
(今度会う? 祐巳さまと? それって……)
乃梨子は祐巳の言うことに、どう返してよいのか困惑し、若干顔を赤らめながら下を俯
くばかりである。
「もうそろそろ戻ろうか?」
「はい、そうしましょう」
二人は揃って温室を後にした。
この五月十七日をきっかけに、祐巳と乃梨子はともに昼食を摂る機会を何度も重ねてい
き、乃梨子は祐巳の持つ、志摩子にはない魅力に段々と惹かれていった。
薔薇の館で昼を過ごすうちに山百合会のメンバーとも親しくなっていき、人手が足りて
いない山百合会の助っ人として、乃梨子は足しげく館に通った。
(志摩子さんがいないのは寂しいけれど、なんとかやっていけそうかな)
六月十八日
五月末から、瞳子が薔薇の館へ頻繁に出入りするようになり、自分が遠縁の親戚だとい
うことをひけらかし、祥子に絡んでいた。
「ちょっと瞳子、あんまり度が過ぎるのも良くないよ」
「あらぁ、乃梨子さんも祐巳さまにべったりじゃないですの? あまり人のことは言えま
せんわね」
瞳子は、やがて登下校時にまで祥子へ付いて回るようになる。
「祐巳さま、いいんですか。瞳子のこと」
「大丈夫。お姉さまはそんな軽い人じゃないし、瞳子ちゃんも悪気があってやってるんじ
ゃないんだから」
「それでもやはり……」
「いいの。ありがとう」
こういったやりとりを繰り返した。何度も。何度も。
しかし、祐巳の不安や不信感は日に日に募っていき、やがて臨界点を迎える。
六月中旬である十八日。とうとう事は起こってしまった。
薔薇の館二階。部屋には祥子、祐巳、乃梨子の三名。朝から降りしきる雨はいよいよ勢
いを増し、傘を差していてもいなくてもそう大した違いがないほどの豪雨である。
会話の無い鉛の沈黙。まさにそれは、毒素を撒き散らしそこにいるだけで気分を悪くす
るような悪質なものである。そんな重い空気を震わすのはやかましいほどの雨音のみ。
館にやって来ておよそ十分少々、祥子はさっさと帰り仕度を始めた。
「お姉さま。私の話を聞いてください」
「ごめんなさい祐巳、私は急いで帰らなければならないの。分かってちょうだい」
謀ったかのようなタイミングに、ビスケット扉をノックする音が聞こえた。
乃梨子が扉を開くとそこには、瞳子が立っている。
「お待たせいたしました祥子お姉さま」
「瞳子ちゃんが一緒なのはどうしてなんですか?」
「別に大した理由なんてないわよ」
席を立ち、鞄を手に取った祥子はそのままスタスタ歩いて扉へと向かう。
乃梨子は何も言わず、ただ沈黙を貫いていた。
「お姉さま!」
祐巳は立ち去ろうとする祥子を呼び止める。
「ちょっと瞳子、あんたどういうつもり?」
沈黙を破った乃梨子は、噛み付くように瞳子に問いただす。
「どうもこうもありませんわ。瞳子はただ祥子お姉さまと行動を共にしているだけです。
乃梨子さんに何か言われる筋合いはありません」
瞳子は淀みなくそう言い放った。
「お姉さま……」
「分かってちょうだい」
祐巳に振り返りもせず、祥子はそれだけ言い置くと、バタンと扉を閉め瞳子と一緒に消
えた。
明かりが点いているにもかかわらず薄暗い部屋。祐巳は祥子後を追うことなくイスに座
ったまま、ぼんやりと下を俯いていた。
「祐巳さま」
乃梨子は席を立ち、祐巳の後ろに立った。
「寂しいですか? 悲しいですか? 辛いですか?」
「乃梨子ちゃん……?」
祐巳はパッと後ろを振り向き、乃梨子の顔を見上げる。乃梨子は泣いていた。
「私では祐巳さまの空白を埋めることは出来ませんか?」
「それは……」
祐巳は振り向いたまま視線を逸らさず、乃梨子の目を見続けていた。頬を伝う涙の雫が
音もなく床に落ち、小さな染みを作る。
「そうです。私を……」
「…………」
再び訪れた沈黙は、つい先ほどのもとは違った。緊張感はあるものの痛みがない。
色彩の失せたモノクロの世界で祐巳と乃梨子は、互いに語ることもなく視線を絡み合わ
せていた。
「分かった。私の妹はやっぱり乃梨子ちゃんしかいない」
激しい雨音に埋もれることなく、ハッキリと聞き取ることが出来た。
「祐巳さま……」
乃梨子は、嬉しさと悲しさとが交じり合った、複雑な表情を一瞬浮べた。
(今の私には祐巳さまが必要で、今の祐巳さまには私が必要なんだ。志摩子さんゴメンね。
今年だけは祐巳さまの側にいさせて)
同じ様に立ち上がった祐巳は、宝物のように大切に取り扱っていたロザリオを自分の首
からはずし、乃梨子の首に掛けた。
泣きながら笑う祐巳と乃梨子。
白と黒のモノクロな世界は終わりを告げ、新しい色取り取りの世界が始まった。
祐巳と乃梨子が姉妹となった翌日、祥子との姉妹を解消してもらった祐巳は、山百合会
から去った。乃梨子ももはや残る理由も無いため、助っ人役を辞した。
こうして、一般の一生徒となった後も祐巳と乃梨子の姉妹生活は続いた。
六月二十日
数日続いた雨が朝にはなりを潜め、久しぶりの快晴となった。
放課後、下駄箱での待ち合わせが習慣化していた祐巳と乃梨子は、この日もまた同様に
落ち合い、マリア様像を通り過ぎ校門へと向かっていた。
「ゆ〜みちゃん」
手を繋いで歩く二人の後ろから、妙に馴れ馴れしく祐巳を呼ぶ声が聞こえる。
「聖さま」
色素の薄い、日本人離れした容姿を持つ私服姿の女子大生、前白薔薇さまである佐藤聖
が黒一色の薄っぺたいトートバッグを肩に下げ、祐巳の元へ小走りで近づいてきた。
(佐藤聖さま。志摩子さんのお姉さまに当たる人だ)
「ごきげんよう。聞いたよ。祥子を振ったんだって?」
「振っただなんてそんなことないです。私が相応しくなかっただけですから」
平生と事情を述べるが、祐巳の表情に少し陰りが見られた。
「で、君が噂の妹君かな?」
聖は値踏みするような目つきで、乃梨子の足元から顔まで見た。
「はじめまして。一年椿組の二条乃梨子と申します」
(そういえば聖さまはこんな人だったっけ)
「う〜む。何と言うか……」
聖は左手でアゴをさすりながら思案しながら言う。
「不思議な組み合わせだね。これはあくまで私の感覚だから気にしないでね」
「そうですか? 私は別に何とも思いませんけど」
祐巳は乃梨子を見て、聖に言う。
「うん。だから私は、ね? そっかぁ、祐巳ちゃんにも妹か。乃梨子ちゃん」
祐巳に向けられていた優しげな視線が、唐突に真剣なものへと変わり、それが乃梨子に
注がれた。
「はい、何でしょうか?」
「祐巳ちゃんを泣かせたら私が許さないから」
「そんなこと有り得ません」
生ぬるい風が聖と乃梨子の間を吹きぬけた。
「合格」
「は?」
あっけにとられた乃梨子は、間の抜けた声をこぼしてしまった。
「祐巳ちゃんには出来すぎた妹だね」
「そ、そんなことありません。私なんて大した人間ではありませんから」
祐巳は、聖と乃梨子のやり取りを微笑みながら見ていた。
「まだ授業があるから私はこれぐらいで失礼するよ。じゃ、またね」
左手だけ挙げて、聖は小走りで大学のキャンパスの方へと走っていった。
「相変わらずですね……」
「あれ? 乃梨子ちゃん聖さまのこと知ってたっけ?」
「あ、いやその、噂話で聞いたんです」
「へぇ。そうなんだ」
祐巳はそれ以上何も聞かず、二人はまた歩き出した。
この日、祥子と瞳子は姉妹となった。
七月六日
辛い期末試験も終わり、後は終業式をこなせばお待ちかねの夏休みとなる。
試験が終わったこの日の放課後、ミルクホールで祐巳と乃梨子は和やかに談笑していた。
「夏休みにさ、乃梨子ちゃんの家に行っていい?」
「え?」
乃梨子はあやうく飲んでいたコーヒー牛乳を噴出しそうになった。
「都合が悪かったら無理には言わないけれど、せっかく姉妹になって始めての長い休みだ
から、いい機会かなぁと思ったんだけどダメかな?」
向かいに座る乃梨子に、伺うような眼差しを向ける。
(どこかでこんな展開見たことがあるような?)
「ダメかな?」
「オッケーです。でも、私の家って面白くもなんともありませんよ?」
「いいのいいの。乃梨子ちゃんの家だからこそなんだよ」
どうにも祐巳のお願いに対しては、強く断ることの出来ない乃梨子であった。
八月一日
お昼を過ぎた一時ごろに祐巳が来ることになっていた。
菫子は仕事で出かけており、夜まで帰ってくることはない。
この四年間のうちで、一度も祐巳を自宅へ招いたことの無かった乃梨子は、祐巳が自分
より年下であるにもかかわらず緊張した面持ちで、自室で祐巳の到着を待っていた。
(まずは落ち着こう。そう。別に緊張なんてしなくていんだから)
チャイムが鳴った。ほぼ間違いなく祐巳が到着したのだろう。
「はーい」
扉を開くと、マリンブルーのTシャツに真っ白なスカートを身に付けた祐巳が、大きな
スイカを一玉両手に下げて立っていた。青と白のコントラストが誠に涼しげである。
「ごきげんよう乃梨子ちゃん」
「ごきげんよう祐巳さま。どうぞ入ってください」
「これ後で一緒に食べようね」
すいません、とスイカを受け取った乃梨子は先に祐巳を居間に通し、受け取ったスイカ
を台所のテーブルに置いた。
「外、すっごく暑かったでしょう」
「夏だからね」
慣れた手つきでアイスコーヒー二人分を用意した乃梨子は、それらをトレイに乗せて運
んだ。
「いただきます」
冷えたコーヒーとエアコンで涼んだ祐巳は、乃梨子の部屋が見たいと言い出す。
「本当に何の面白みの無い部屋ですけどいいんですか?」
「ここまでやって来て、何もなしっていうのはあんまりじゃない?」
「……それもそうですね」
半ば観念した感のある乃梨子は、祐巳を自分の部屋へと通した。
「おぉ。ここが乃梨子ちゃんルームなんだ」
(乃梨子ちゃんルーム?)
興味津々といった祐巳は、早速乃梨子の部屋を物色し始める。
「本棚には……やっぱり仏像の本が多いね」
「趣味ですから多くなりますね」
しばらくの間部屋のものを物色した祐巳は、こんなことを言い出した。
「そうだ、乃梨子ちゃんが中学の時のアルバム見たいな」
「卒業アルバムですか?」
「うん。そう」
(あれはどこにしまったっけ? 引き出しだったかな)
乃梨子が机の一番下にある引き出しを引くと、何冊かのファイルに混じってワインレッ
ドの装丁が施されたアルバムを引っ張り出した。
その引き出しには、雑多なファイルやアルバムと一緒に、こげ茶色の木箱がしまわれて
いた。
「この箱何が入ってるの?」
(もしかしてこの箱って)
ふたを開けるとそこには割れた砂時計が入っている。大きなガラスの破片も一緒に入っ
ており、さらに小さなビニール袋に入った青い砂もしまわれていた。
「砂時計だね。でも割れちゃってる」
(どうして私はずっと忘れていたんだろ。後で修理しておこう)
「そうですね。それよりアルバムどうされますか?」
「見るよ。見せて」
中学時代の話題に花を咲かせ(といってももっぱら乃梨子が一方的に喋り、祐巳がそれ
を楽しそうに聞いているだけであったのだが)、話題が一段落付くと、乃梨子は台所でも
らったスイカを切り分け、祐巳と二人居間でみずみずしい夏の甘さを堪能した。
「乃梨子ちゃんってすっごくしっかりしてて……」
「祐巳さま?」
どこか遠くを見つめるような眼差しで祐巳は続ける。
「大人だし、頭もいいし。でも私は全然何も出来なくて。乃梨子ちゃんは私がお姉さんで
本当によかったの?」
乃梨子は怒った。祐巳の質問の馬鹿さ加減に心底腹を立てた。それでも乃梨子は声を荒
げることなく、努めて冷静に諭すように言う。
「いいですか祐巳さま。祐巳さまは少々ご自分のことを過小評価しすぎだと思います。本
当に私が、何の取柄も無い人を姉にすると思われますか?」
乃梨子はあえて多少嫌味な香りのする発言をした。
「そうかな? なんか自分に自身無くしちゃってね」
「大丈夫です。私が祐巳さまの存在価値を保障します。だから、他の人がどう思っている
かなんて、瑣末な事だと断じて下さい」
きょとんとした表情で祐巳は、乃梨子の顔を見つめた。言葉の意味を何度も頭の中で反
芻した後、祐巳は笑った。憑き物が取れたかのようにスッキリとした笑みを浮べた。
「ありがとう乃梨子ちゃん」
「いえ、礼には及びません。当然のことを言ったまでです」
乃梨子は、年下である祐巳に対して志摩子に向けていた感情とも違う、そう、強い愛お
しさを感じていた。
そうこうしているうちに時はあっという間に流され去り、祐巳の帰る時間となる。
乃梨子は玄関まで見送った。
「また遊びに来るからね」
「こんな所で良かったら、いつでもまたお越し下さい」
「ごきげんよう」
「はい、ごきげんよう」
九月六日
「そこのお二人さん」
下校途中の祐巳と乃梨子を、聖が呼び止めた。
「聖さま。お久しぶりです」
「ごきげんよう祐巳ちゃん、乃梨子ちゃん。今さ、ちょっと時間ある?」
二人には、特にこれといった予定も無い。
「はい、ありますけれどどうされたんですか?」
祐巳が少しだけ不安そうに訊ねた。
「ん? いや、特に深い意味は無いんだ。ただお茶でもどうかなって?」
「私は別に構いませんよ」
「乃梨子ちゃんがそういうなら」
「話が早くて助かるよ。じゃ、行こうか」
二人は聖に連れられて、併設するリリアン女子大学のキャンパス内にある、学生食堂へ
と辿り着いた。食堂といってもカフェテリアのような小洒落た雰囲気を持っており、さな
がら軽食を振舞う喫茶店といったところである。
若干落とし気味の照明とクラシックなBGMとが相まって、リラックスできる空間を醸
し出している。
(中々いい場所だな。なんかこう、話が出来る所って感じがする)
四人がけのテーブルに、祐巳と乃梨子は並んで座り聖は向かいに座った。
「好きなの注文していいよ」
「私はアイスコーヒーをお願いします」
即決した乃梨子に対し、祐巳は色々と悩んだが結局乃梨子と同じものを注文した。
流石に、喫茶店の様に注文した品物をウェイトレスが運んでくれるわけではないので、
そこはセルフサービスである。表面上一番年下である乃梨子が率先して、品物を受け取り
運んだ。
ブラックのアイスコーヒーをストローすら使わずに、ぐいっと勢い良く飲む聖は軽い口
調で切り出した。
「最近どう? 君達うまくいってる?」
乃梨子は驚き、飲んでいたコーヒーでおもいきりむせてしまった。
「せ、聖さまいくらなんでも、それは直球過ぎませんか?」
祐巳は下を向き、呟くように言う。
「回りくどいよりよっぽどいいじゃん。で、どうなの?」
噂話を好むオバサンのようなものの聞き方である。
「それは……ね? 乃梨子ちゃん」
「はい。全く問題ありません」
「本当に?」
聖は、念を押すように確認する。
「本当ですよ聖さま。私と乃梨子ちゃんは大丈夫です」
「そっかぁ。それは良かった。うん。本当に」
うんうんと頷いた聖は、残り少ないコーヒーを一気に飲み干した。
「その様子だと当分私の出番はなさそうだね。まぁ私の出番があったらダメなんだけど。
何かあったら何でも相談に来てくれていいからさ」
乃梨子は一つだけ疑問に思うことがあった。
(どうして聖さまは、こう世話を焼こうとしてるんだろう?)
「聖さま、一つよろしいですか?」
祐巳の飲みかけを「ねぇ、それちょうだい」と言って奪おうとしている聖に訊ねた。
「うん。何? 乃梨子ちゃん」
怪しい手つきでグラスを掴もうとしていた聖は、動きを止め座りなおす。
「その、どうして聖さまはこんなに私達のことを気に掛けて下さるんですか? 私には、
意図が掴めないです」
「祐巳ちゃんが好きだから」
「は?」
予想外の回答に乃梨子の思考は一瞬停止してしまった。
「っていうのは半分本当なんだけど、そうだなぁ……気になるから、かな」
「その、気にされる理由というのは?」
「乃梨子ちゃんも小さいことにこだわるなぁ。理由ねぇ……ほら、あんな別れ方したでし
ょ。だから気になるんだ。祐巳ちゃんは昔から何でもかんでも一人で抱え込んでしまう癖
があるからね。誰かが気にかけてやらないと何時の間にやらパンクしちゃうし」
「聖さま……」
聖の回答に、祐巳は感動して言葉を失い、逆に乃梨子は強い敗北感を抱いた。
(私ってまだまだ子供だったんだな。年を重ねていても、そんなことすら気が回らないな
んて……)
「でも、乃梨子ちゃん」
聖は左手の人差し指を立てて先を続けた。
「私がどう思おうと、気後れする必要は無いよ。私がやってきたことをそっくりそのまま
乃梨子ちゃんがすればいんだから。で、祐巳ちゃんももっと他の人に頼ってもいいんだか
らさ。せっかく優秀な妹君がいるんだから嫌っていうほど頼ってやりなさい」
そう言って聖はからからと笑い、祐巳と乃梨子は少し気恥ずかしそうに見詰め合った。
十二月三十一日
(もうすぐ二00五年も終わりか。そしてまたやってくるんだ。二00五年が)
乃梨子は祐巳と二人で、聖のアパートへと訪れていた。二人きりで大晦日を過ごそうと
乃梨子は思っていたが、お世話になった聖へのお礼の意味も込めて、祐巳と一緒に訪問す
ることにした。
過ごすといっても、じっと感慨にふけるわけでもなく賑やかな、パーティーと呼ぶには
若干規模が小さいが乃梨子、祐巳、聖の三人で盛り上がっていた。
黒い丸テーブルの周りには空き缶や空のペットボトルが散乱し、封の開けられた袋菓子
が、あちらこちら口を向けている。
「うん。やっぱりお菓子とか甘いものって別腹だね」
聖は、さやえんどう味の緑色したスナック菓子を口に放り込みながら笑いながら言う。
「そうですね。特に甘いものは」
そう言って祐巳は、一口サイズのミルクチョコレートを口に含む。
「ふう……」
乃梨子はグラスに入ったオレンジジュースを一気に飲み干した。
「今年も色んなことあったね」
聖はしみじみと色々な感情を込めてぼそりと言った。
(本当だ。まさか私が祐巳さまと姉妹になるなんて思いもよらなかったし)
乃梨子は腕時計を見る。あと五分で日付が変わり、新たな年を迎える。やってくるのは
二00六年なのそれとも再び二00五年なのか……。
「そうですね……。でも私は後悔してません」
祐巳は視線を乃梨子に向ける。
「私もです。祐巳さまや聖さまに出会えた事を心の底から嬉しく思います」
聖と祐巳の顔を見据えながら、嘘偽り無く自身の本心を告げた。もう一度腕時計を見る
と、十一時五十七分。後三分で二00五年が終わる。
「私はもうすぐお別れをしなくてはいけません」
「え? 乃梨子ちゃんそれどいうこと?」
祐巳は目を丸くして乃梨子の顔をまじまじと見る。
「この一年間は、私にとって宝物だと思います。ですからお二人も、私との思い出を大切
にしまってもらえると、とても嬉しいです。それでは、大変お世話になりました」
乃梨子は、立ち上がり一礼した。二00五年も残すところあとわずか十秒。
十秒、九秒、八秒、七秒、六秒、五秒、四秒、三秒、二秒、一秒……
<二00五年一月一日が訪れた>
最終章
二00五年一月一日
乃梨子は千葉の自宅にある、自室で目が覚めた。
もう確認するまでも無く、今年が二00五年だと乃梨子は感覚的に分かっていた。
むくりと上半身だけを起こし、辺りを見回すしリモコンを手に取る。そして部屋の暖房
をいれ、暖まるまで布団の中でぼんやりとこれからの事について考え始めた。
(今年でもう二十歳になるんだ私。さすがに中学生で通すには無理があるよね。しかもま
た高校に通う……の辞めようかな)
部屋が暖まった頃、乃梨子はサイズの合っていないパジャマを脱ぎ捨て私服に着替える
ことにした。
(高校には行かないで、絵の勉強をしよう。私はやりたいことをする)
そもそも乃梨子が仏像に興味を持った由来が、中学生一年の時、学校の図書館で美術関
連の書籍を読み漁っていると、偶然目にした仏像の造形美に惚れ込んでしまい、それから
二次関数的な勢いで興味を持ち、現在に至る。
よって、元々は絵描きになりたかったのである。
午前十時、家族四人で遅めの朝食を摂っている最中に、乃梨子は自分は進学しないとい
うことを両親に告げた。
乃梨子の希望する進路に両親は、初め自分の娘が何を言ったのか理解できなかった。
「乃梨子? 高校に行かないとはどういうことなんだ?」
「もう。そのまんまだよお父さん。私は絵の勉強をしたいの」
てっきり県内有数の進学校である「時廻高校」へ進学するものと思っていた両親は猛烈
に反対した。
元旦から乃梨子の進路に関して大騒ぎとなっている二条家。
特に反対していたのが母親であり、高校進学させようと一歩も引かず、乃梨子もまた、
自分には来年が無いことを知っているのでやはり引かなかった。
「高校にもいかないで将来どうするつもりなの!?」
「私には時間が無いの。だから引かない。絶対に」
「趣味は安定した生活がないと成り立たないでしょ」
「だから、私にはそんな生活を組み立てる時間が無いの。だって私は……」
「時の迷子だから」とあやうく口に出してしまうところだった。
延々と続く口論。それを解決に導いたのは父親だった。
「分かった。とにかく乃梨子は絵が描きたい、母さんは高校に行かせたいと。だったら半
分ずつにすればいいだろう。乃梨子、定時制の高校でも駄目なのか?」
こうして乃梨子は千葉市内にある定時制の高校「青海学園」へと進学することにした。
この学園にはいくつかのコース(科目は商業科、工業科、普通科の三種類で、普通科に
はさらに高卒認定コースと大学進学コースとがある)が設けられ、母親は問答無用で大学
進学コースを選ばせた。乃梨子本人は二年生にはなれないと分かっていたので、そこは二
つ返事で了解した。大学進学コースといっても実際に学校へ通うのは週三日(月、水、金)
である。よって、時間は他の高校生に比べて余裕が出来た。
一月十日
冬休みも終わり、三学期が始まった。
始業式前のホームルーム時、担任は乃梨子の姿を見て「二条、お前何かあったのか?
別人みたいに思えるほど雰囲気が違うぞ」と、驚いていたがそんな反応をまるで意に介さ
なかった。
この日は、最後の進路志望調査用紙の提出日でもあり、乃梨子は第一志望を「青海学園」
とだけ印し提出した。これを見た担任は再び驚く。
「二条、これ本気で書いたのか? お前の実力ならば時廻だって十分射程圏内なのに」
「いいんです先生。私はこれで」
最後の最後まで担任は惜しそうに「これでいいのか」と聞いてきたが、乃梨子はただ、
「それでいい」と答えるに留まった。
やがて二月、受験シーズンが訪れ乃梨子も形だけの入学試験を受け、難なく合格通知を
手にした。空いた時間を絵の勉強にただひたすら費やす毎日。濃縮された日常はあっとい
う間に過ぎ去り、とうとう三月が訪れ、卒業式を迎える。
卒業に当たっては特に感慨も無く、十九歳の乃梨子は十四、五歳の少女に紛れて式に参
加し、何度受け取ったか忘れそうな卒業証書を受け取った。
(一年間の内容はどれもこれも皆違っていたのに、証書の字面だけはいつも同じだな)
四月、春の陽気が気持ちの良い入学シーズンが訪れ、乃梨子は青海学園の生徒になり、
週三日だけ学校に通い残りの日は絵の勉強に当てていた。
半分引きこもりのような生活が二週間ほど続けたが、両親に対するなんとなく申し訳な
い気持ちも否定できない乃梨子は、自主的にアルバイトに行きだした。勤め先は地元に店
舗を構える大手書籍販売店の、「佐藤書店」である。
絵の勉強と同じぐらい読書が好きな乃梨子は、大いに自分の仕事を気に入っていた。
「休憩時間に好きな本読んでいいよ」と、店長は勉強熱心な乃梨子を可愛がり、乃梨子
は店に並んだ数々の本を読破していった。
五月二十七日
アルバイトを始めて一ヶ月半ほど経った、五月下旬の午後三時ごろ。
「いらしゃいませ」
レジにて、乃梨子は入荷したての雑誌に紐をかけながら挨拶をする。
「ごきげんよう」
久しぶりの台詞に、乃梨子は作業の手を止めてはっと顔を上げる。そこには、
「志摩子さん!?」
驚いた乃梨子はついうっかり、名前を呼んでしまった。
桜色のカーディガンを羽織り、若葉色のロングスカートをはいた志摩子がレジの前に立
っていた。最後に志摩子の姿を見て以来、丸二年以上が経過している。
(なんか志摩子さん変わったよね)
志摩子の雰囲気はとてもではないが高校二年生には見えず、大人びた挙動も相まって、
ぱっと見二十歳を過ぎているようにしか見えない。
「乃梨子、お仕事が終わった後何か予定あるの?」
「いや、何も無いけれど」
「それじゃあ久しぶりに話がしたいのだけれど構わない?」
「うん。それはいいけれど……え?」
(ちょっと待って、私と志摩子さんは初対面のはずじゃあ……。なのに何故私が志摩子さ
んの名前を知っていたのか訊ねないんだろう。普通は誰だって驚くのに。しかも「久しぶ
りに話がしたい」って。もしかして……。いや、まさか志摩子さんも迷子だなんて……)
乃梨子は、仕事が終わる午後四時に待ち合わせをした。業務を終えた乃梨子は、志摩子
と二人佐藤書店の近くにある喫茶店に入る。
茶色い照明のシックな雰囲気も持つ店内には、客が途切れる時間だったのかカウンター
でアイスコーヒーを飲んでいる客以外だれもいなかった。二人がけのテーブルに着いた乃
梨子と志摩子は、さっさと注文を済ませ乃梨子は率直に聞いた。
「どうして志摩子さんは私のことを知ってるの? だって初対面でしょ。私達。しかも、
私が『志摩子さん』って呼んでもどうして驚かないの?」
一方的に質問浴びせかける。志摩子は困ったような顔をし、少ずつ噛み締めるように話
し出した。
「乃梨子がここにいるって知ったのは、半分偶然ね。乃梨子の実家がこの街だということ
は前に聞いていたから知っていたのだけど、実はね、私も青海学園に通っているのよ」
「そんな! 志摩子さんと学校が同じだったなんて」
志摩子は「だから半分偶然なの」と言って、儚げに笑った。
「本題に入りましょうか。私はね来年には行けなくなってしまったの。多分乃梨子も同じ
でしょう?」
「どうして分かったの? いや、私を見ればそんなことは簡単に分かってしまうもんね」
乃梨子は半ば自嘲気味に言う。
「それは私も同じことだから言うのは止しましょう。それでね、私は夢だと思ったの。こ
れは悪い夢だって。でも、現実は違った。夢でもなんでもなく、私だけが時間の流れに取
り残されてしまったんだと思っていたの。そこで何とかして戻る方法が無いかと、色々と
本を読み漁って調べていたわ」
(偉いな志摩子さん。それに比べて私は何をやっていたんだろう……)
「嫌になるほど調べ続けて、やっと原因が分かったの。あのガラスで出来た砂時計だと。
ほら、覚えていないかしら? 十二月に地震で割れてしまって、そしてあの時砂時計が光
ったのを」
乃梨子は脳裏にそのシーンを思い浮かべていた。
(割れてしまった砂時計を片付けようと散らばった破片の前にしゃがんで、そして青い砂
を摘んでいた。その時、砂から青い光が……)
「私達が時間の流れに取り残されてしまった原因は、時計に入れられていた青い砂だとい
うことね」
(そうだ、志摩子さんもあの砂に触れたんだ。だから私みたいに迷子になったと)
「お待たせいたしました」
ウェイトレスがホットコーヒーを二つ運んできたが、二人とも口をつけようとせず、話
を進めた。
「乃梨子、あの砂時計まだ持っているかしら」
「うん。多分机の引き出しにしまいっぱなしだったと思う」
(いや、それは菫子さんの家にいたときにあったから、どうなんだろう……)
「それは良かったわ」
スプーン一杯分だけ砂糖をカップに入れた志摩子はかき回し、一口だけすすった。
「おそらく元に戻るには、その砂時計を修理すればいいと思うの。でもね、これは私が調
べただけだから百パーセントの保障は出来ないの。もし、元に戻れなかった場合は御免な
さいね」
「大丈夫だよきっと。流石志摩子さんだね。そんなことまで分かってしまうなんて」
「そんなことないわ。もっと早く分かっていたら良かったのだけど……」
そう言って志摩子は口をつぐんでしまった。
「私なんて何も出来なかったんだから、志摩子さんは立派だって」
「ありがとう乃梨子」
少し温くなったコーヒーを飲み干した乃梨子は、帰りにホームセンターに寄って、接着
剤と薄手のゴム手袋を買ってから、志摩子と共に自宅へと戻った。
二階にある乃梨子の部屋。中に入って、乃梨子は祈るような気持ちで机の引き出しの一
番下の段を開けた。
「あった!」
乃梨子は、思い切り深く息を吐き出した。
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
(実はありませんでした、じゃなくて本当に良かった)
ガラスで手を切らないように手袋をはめた乃梨子が破片を組み立て、志摩子は接着剤で
修復していった。おおまかに直してから、ビニール袋に入っている青い砂をスプーンすく
いながら少しずつ入れていく。集中しながらの細かい作業であったが、二人で協力しなが
ら修理を続け、たっぷり一時間ほどかけてようやく完成に近づいた。
「このピースをはめてから、志摩子さん接着剤を」
最後の破片を埋め込み、接着剤で付ける。
「修理完了かな?」
(砂が落ちる細い部分が折れてなくて良かった。あれが壊れていたら多分私たちでは直せ
なかったと思う)
「じゃあ逆さにしてみましょうか」
乃梨子は砂の溜まっている方を上に向けて置いた。砂の落下が滑らかではないため、時
計としては機能しないが、詰まることなく粒子の様に細かい砂が下へと落ちていく。
砂が底にわずかに溜まった瞬間、砂時計全体がパッと青く光った。
「志摩子さん今の?」
「……光ったわね」
「でも、これで私達本当に元に戻れるのかな?」
「そうなることをマリア様に祈りましょう」
上部の砂が全て下へ落ちると、二人は眠る様に意識が無くなり、床に伏した。
二00五年十二月四日
乃梨子が、目を覚ますとそこは志摩子の部屋だった。床に倒れていたらしく、さらに隣
には志摩子が横たわっている。
「志摩子さん。ねぇ志摩子さん起きてよ」
乃梨子が志摩子の肩を二、三度揺する。目が覚めた志摩子は辺りを見回した。
「ここは……私の部屋かしら?」
「多分そうだよ」
乃梨子は部屋の壁に掛かっている時計を見ると、三時五十分ちょうどだった。続いて机
に置いてある卓上カレンダーに目をやると、二00五年十二月のページである。
(もしかして、砂時計が壊れた日に帰ってきたのかな。志摩子さんも私もあの時と同じ背
格好だし)
「志摩子さん私達戻ってきたんだよ」
「そうね。多分戻ってこれたのね」
乃梨子は、今度は机に置かれている砂時計に目をやると、それは繋ぎ目の無い「あの時」
のままの状態だった。
「ほら、これを見てよ。壊れていないでしょう?」
「本当ね。ということはやっと帰ってこれたということね」
「志摩子さん……」
乃梨子は砂時計を握ったまま、志摩子に抱きついて泣いた。
「乃梨子。大丈夫?」
志摩子は幼い子供をあやすように、優しく乃梨子の頭を撫でる。
「ありがとう志摩子さん。私何てお礼を言っていいのか……」
乃梨子を抱きしめながら、志摩子は時計に目をやるともうあと数秒で三時五十五分にな
ろうとしていた。
「乃梨子、多分地震が来るから何かに掴まりましょう」
「分かった」
二人は床に座ってベッドの足をぎゅっと掴んだ。
秒針が七に差し掛かった瞬間、部屋が大きく揺れだした。
二00五年十二月三十一日
天井にランタンを吊るした被災者用のテントの中、毛布に包まりながら乃梨子と志摩子
は向かい合っている。乃梨子は腕時計の針をじっと見つめていた。
時刻は午後十一時五十九分五十秒。二00五年も残すところあと十秒。
十秒、九秒、八秒、七秒、六秒、五秒、四秒、三秒、二秒、一秒……
秒針が十二を過ぎ、程なくして一を、それから二を指していく。
(やっと、やっと年が越せたんだ……)
「志摩子さん、新年明けましておめでとう」
「明けましておめでとう、乃梨子」
<二00六年一月一日が訪れた>
FIN
初版2006年5月27日
作後贅言
扱ったテーマが大きすぎたため、多少展開が強引になってしまったのは、ひとえに筆者
の実力不足他なりませんが、最後まで読んでくださった皆さまには無上の感謝を記したい
と思います。ありがとうございました。
自分の作品を自分で解説するというのも変な話ですが、軽くやっておきたいと思います。
テーマはズバリ「可能性」です。「もしも」の世界を描いてみました。ですので、途中
祐×乃ルートも出てきましたし、なんと本編の途中で乃梨子が亡くなってしまうといった
ことも書きました。そのために乃梨子には大変辛い目に遭わせてしまったなぁと、申し訳
なくも思っています。
一度きりの人生ですので、皆さまも悔い無きように過ごしていただけたらと思います。
自分の可能性というものを、もう一度見つめ直してみるのもまた一興ではないでしょう
か? 私の場合は、むしろ見直すべきだと思いますね(笑
それでは、また。
ユラ
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