楓先生談義 




ここでは、掲示板で楓さんが、いろいろ教えて下さった内容を編集の上載せておりますv 楓さん、本当に有難うございます!!


高坂弾正昌信、そして武田信玄→高坂ラブレター言い訳事件の詳細について

高坂は、初名を春日源助といって武士の出自ではなく、お百姓さんの子でした(まだ、この頃士農工商に別れてませんでしたから、割と職業は転換できたんですね)
と、いっても彼の実家は豪農っていうか、そこら辺の小百姓たちのまとめ役みたいなもんだったんで、割と裕福だったみたいです。
だから、田畑もかなり持っていたんですが、姉婿に全部取られちゃうんですね。
その頃、彼の両親とも亡くなってたのも不利だったし、なにより彼はまだ「十六歳」という若さでした(ここポイント。笑。昔はかぞえだから、満で十四、五ってとこでしょう)
彼の姉も、自分の旦那が田畑を相続してくれた方が将来的に有利ですから、源助には味方してくれません。
そこで、彼は公事(訴訟)を起こすんですね、相続権を巡って。
しかし、負けてしまいます。
年齢的に中学生くらいの子どもでは、相続は無理と判断されたんでしょう、が、しかし世の中、「拾う神あれば、捨てる神あり」(意味違いますか?んじゃ、「塞翁が馬」でもいいです)
訴訟の場で、その美貌を当時、甲斐国主の座に就いたばかりの若き日の信玄公に見初められるんです(シンデレラか、お前は、ってカンジ。笑)
信玄公、その年、御歳二十二歳。
ちなみに、謙信公は信玄公より、九つ下だから、十三歳。ふーむ、高坂より若い(笑)
で、敗訴となり、行き場がなくなった源助君を、信玄公が、ナンパ・・・じゃなかった、スカウトする訳です。屋形勤めをしないかと。
でも、もちろん、流石の信玄もイキナリ「小姓」に抜擢した訳ではなく、初めは「御小人」という屋形では、最下層くらいの雑用係だったんですよ。
しかし、信玄、目を付けた相手には安閑として待てず(爆)
一月と経たぬ内に源助は「奥近習」に抜擢されます。
「奥近習」っていったら、主君の近くで、色々とご奉仕(笑)する役目だから、「小姓」と大差ないでしょう。
そうして、主君の「寵愛」(爆)を受けるようになった、源助君ですが、そこにあの 「愛の御誓詞」事件(笑)が、発生するんですねー。
内容はですね、大きく意訳すると(笑)
「それは、以前は言い寄った事もあるけど、断られたんだよ。弥七郎(浮気相手の名)と寝たなんて、ウソウソさ。俺がいかれてるのはお前(高坂)だけだぜ。
マイスウィートハニー(はあと)
もし、俺の言うことがウソなら、雷がくだちゃうよん」
というものです(笑)

しっっかーし、このラブレターには、以下二通りの解釈が可能。

その一・・・これを書いたとき、信玄公二十五歳、高坂十九歳(そんな歳で小姓が勤まるのか?)で、関係がデキて三年目の二人に危機が訪れたっていうんですね、つまり、信玄が弥七郎にも手を出した、と。 それを、カンカンに怒った本命の源助君を宥めるため、信玄はこれを書いたって説。(これが主流ですが)

その二・・・自分のハートをノックアウト(死語)した源助君を奥近習にさせたので、早速手を出そうとした、信玄。しかし、この時既に信玄には弥七郎というお相手がいるのを知ってた源助は 「あなたには、弥七郎がいるでしょう?私、二号さん(?)はイヤです」 (信玄はもう結婚(もちろん女)してるんだから、「二号さん」も、くそもないと思うけど) と言う源助をどうしてもモノにしたい信玄は 「そんな事はないんだー! おれのモノになってくれー」 という意味でこの誓詞を突きつけた、って説。(しかし、そうなると、泥棒猫は弥七郎じゃなく、源助か?)

この 「愛の御誓詞」 は、な、なーんと、 「東大史料編纂所」 という所に残っております(笑)


足利尊氏かホモか?というアリシロの問いに対して。足利歴代将軍について

足利尊氏は(信玄みたいな)れっきとした証拠はありませんが、女っ気が、非常に少ないんで、疑惑の余地はあるかと・・・(笑)
しかし、足利十五代将軍は、両刀だらけです(笑)
義満は大の 「お稚児さん好き」 だし、
六代目の義教は 「男色」 が原因でころされてますし。
九代目の義尚にも証拠がある (彼は日野富子の子です)
しっっかーし、出色なのは、十五代(ラスト)の義昭!
なにが出色ってこの人、信長から 「小姓遊びはやめろ」 って言われたんですよー(笑)
お前にだけは、いわれたくねーってカンジ?

(後の付け足し↓)
「男色やめろ」っていうか、 正確には、信長に「弾劾状」の中で(これは、義昭が勝手な行動をしたので、信長が「実力者はお前じゃなくてオレなんだよ」って事を暗にわからせる為に書いたものです) 「色小姓に対する過度の取り立てはやめろ」 っていってるんですよ。
だから、正確にいうと、 「男色禁止令」 じゃないのかな?


アリシロのDELUSION登場の坂部五左衛門について、そして家光の性格について

あの話に出てきた坂部さんって 「他の小姓仲間を襲ってた所を家光に見つかってお手討ちされた」 って本当ですか?(→アリシロ答えられず(苦笑))
なんか、家光と坂部さんって家光十六歳の時、 「念友の契り」 とやらをやったとか。
なんでも、これは、お互いの血をすすり合って、変心がないことを誓うんだとか(そ、そこまでする?)
しっかし、家光も恐いですよねー、自分の色小姓だった者を寵愛したかと思うと切腹を命じたりとかしてますよ。 (愛しさ余って憎さ百倍ってヤツ?)
家光は、「躁鬱病」 だったみたいです。
いったん、鬱になると、 「お気に入りの(笑)」 小姓たちと、中奥に引きこっもてたらしいんですけど、 いったん、躁状態になると、一晩中宴会やったり、ちゃんと、 「大奥」 に行って、奥さんたちとも寝てたっていうか・・・(直接的に言い過ぎですかね?)
ちなみに、 「寵愛、その後、切腹」 を申しつけられた、哀れなお小姓さんの名は、 「酒井重澄」 と言います(気の毒に・・・)


綱吉と柳沢吉保について

光の息子の綱吉(犬公方)も男色癖があったっていうか、 「美少年のハーレム」 を作ってたって聞いた事あります?
そのハーレム名もズバリ 「鹿の園」 じゃ、なかった(それは、ルイ十五世のハーレムだろ!〈笑〉ちょっと、ボケてみました) 「桐の間」 です!

だって、綱吉には、一体何人小姓がいたか知ってます?
な、なーんと、「百三十人」ですよ(笑)
お、多すぎるーーーーーー!? (まさか、全員とヤってた訳?)
そして、その六分の一が芸能の出身でようするに容姿端麗なら、手当たり次第。
そして、彼の色小姓として現在も名を残してる有名な方っていうと、やっぱ、彼ですよね。
徳川三百年で、出世度ナンバーワンって言われる 「柳沢吉保」!(側用人さん)

(アリシロの柳沢吉保は悪人ではないか?という指摘に対して↓)
「水◯黄門」 とかだと(あと、大河ドラマとかでも)、すっごく、 「悪いヤツ」 で、 「諸悪の根源」 みたく、言われてますけど、単なるおべっか使いじゃあそこまで、出世できないでしょう。
それに、「生類憐れみの令」は、綱吉の生母の桂昌院の懇願で、発案されたものですし(彼女、ある意味注目すべき人ですよ、なんてったって、「あの」家光が寵愛した「女性」なんですから。笑)

私的には、鈴木輝一郎氏の 「美男忠臣蔵」 が、お薦め(笑) 柳沢も、綱吉も、悪く書かれてない上に、やたらと、 「衆道話」 を出してくるおいしい小説です(爆)

(アリシロの大人の恋愛がよい、というバカ意見に対し↓)
しかし、いくらなんでも、 「閨での(爆)寵愛」 を受けてたのは、 「美少年時代(笑)」 だけですよ、大人になったら、関係は自然消滅でしょう?
それでも、寵愛が衰えなかったのが、柳沢氏のすごいとこ。
この人の家系は、ちゃんと、大名として明治まで続き、子孫の方は 「茶道の先生」 をしてるんだとか(流石、元華族)
こんなに、長く続いたのも、彼の引き際の良さ故ですよ、やっぱ。
そこが、凡人とは、違いますよね。


柳沢吉保の生涯について

もともと、このお父さんは柳沢安忠さんっていって、旗本(ご先祖は、武田の家臣だったんですよ)だったんですが、秀忠から、家光の弟、忠長付きの家臣になるように命じられます。しかし、この忠長さんって人が家光とソリがあわなくて、改易、その後、自害しちゃうんですね。
それで、安忠さんもその時、浪人になるんですが、まもなく家光から、四男徳松(後の綱吉)付きを命じられるんですよ。
つまり、柳沢家は二代にわたって綱吉に仕えてたわけです。
そして、安忠さんは、綱吉の邸宅造営(神田御殿って言います)に手腕を揮ったりなどして、順調に仕えていくんですが、彼には大きな悩みがありました。
それは、 「男児が生まれない」 って事です。しかたがないから、娘婿に跡を継がせる事にしてた (娘はいたんですね) んですが、なんと、五十七歳という高齢で、側室の間に男児誕生!って事になったんです。時に万治元年(1658)十二月十八日。
言うまでもなく、この男児が 「後の柳沢吉保」 です。
幼名はね、コロコロ変わる(笑)
初めは、十三郎、ついで、主税、そして、弥太郎って具合です。
そして、彼は満で七つの時に綱吉の居館である神田御殿に、まあ、出仕まではいかないけど、一応、将来のことも考えて、主君にあいさつしに行ったんですね。
その時、綱吉は大いに彼が気に入り(まさか、この時から、目を付けてたのか?!そうなら、立派な、「ショタ」ですな・・・。汗)
自分から、手を引いて、屋敷中を案内してやったんだとか・・・ (うーん、ますます、ショタくさい。爆)
そして、満十二の時は、彼は小姓として出仕し、まもなく 「御座直し」 になります。
「御座直し」 とはですね、だいたい想像もおつきでしょうが、(笑) 「夜伽の相手を申しつけられる事」 です。
そして、十六の時、元服して、前髪を落とすんですが、普通なら、そこで色小姓としては、終わりなんですよ。
でも、保明(元服してこういう名前になったんですよ)に未練タラタラだった、綱吉はその後も 「関係」(爆) を続けるんですね。
それが、保明が正室 (定子といいます。一族同士の結婚だったらしい。もちろん、奥さんはこの人だけじゃありません。爆。でも、この人も男だしね。側室たちは次のレクチャーで。笑) を迎える少し前、十九歳まで続きます。
保明は、こうして、十八の年に家督を相続し(って事はこの時まで、安忠パパも綱吉に仕えてたんですよ)、主、綱吉が将軍の後継者に定められ、五代将軍に就任すると、彼も労せずにして陪臣から、幕臣になったんですよ
(思えば、これも彼の幸運の一つです)
これが、二十三歳の時。
そして、彼は、「小納戸」として江戸城に出仕します。
小納戸とは、「将軍に近侍して、政務や財政以外の細事、理髪・膳番・庭方などを管掌する役目」 だそうです。小姓の延長みたいなカンジですかね・・・。
そして、翌年、綱吉にその学才を認められ 「学問上の師弟関係」 を結ぶ。この時点でただの「色小姓あがり」とは違くなったのかな
。 翌年(保明二十五歳)、彼は 「読書はじめの式」で、「大学」を講読する栄誉を与えられます。
この「読書始めの式」には、幕閣や諸大名は出席しなきゃならないようですから、彼は期せずしてその存在を幕府内外にアピールする事になったんです。
そして、三十一歳の時、 「側用人」 に就任します(有名ですな)
三十七歳の時、武蔵川越城主になり、始めて、 「城主」 となる。(うーん、もう恐いもんはないってカンジ?)
そして、同年、評定への参加が認められ侍従に叙任、老中格となって、幕政に参画するようになったんですね。
四十で、左近衛少将に昇進し、老中より上席となる。
四十四歳で、松平の家号を下賜され美濃守吉保と称するようになりました。
これは、すごい。なにしろ、 「お前は、徳川一門と同格だ」 って言われたようなものですよ。
「吉保」の「吉」はモチロン「綱吉」の「吉」です。 四十五歳の時、あの有名な 「赤穂浪士の討ち入り」 が起きます。
その後、綱吉にどうしても子どもができないとわかると (生類憐れみの令も功を奏さなかったんですね) その後継者に綱吉の甥の綱豊(後の家宣)を強く推し、六代目の将軍にさせます。
そしてですねえこれが彼の人生で一番の 「ハイライト」(?) だったんですが、この綱豊さんってのが、甲斐甲府城主だったんです。けど、将軍の後継者になると、当然この甲府城主はやめなきゃなりません。
それで、その空になった甲斐国を吉保に与えられたんですよ。彼は甲府城主になったんです。
この 「甲府城主」 っていうのは、 「徳川一門しかなっちゃいけない」 って決まりだったんですよ、それなのに! 「まさに希有の人事」 だって、評判になったみたいです。
五十二歳、綱吉が没します。
その時、彼は時勢を見て賢明な事に隠居し、趣味の限りをつくして作った、彼の別邸「六義園」で悠々自適の暮らしを送り亡くなります。
享年五十七歳。
彼は城主となった川越でも甲斐でも、なかなかの善政を行ってたようです。
ちなみに彼のお墓は山梨にあります。
うーん、普通だったら綱吉が死んだあとも権力にしがみついてるんでしょうけど、彼は機を見るに敏だったので自分が不利なのがわかってたんでしょうね。
綱豊にしてみれば、将軍に推してくれた恩人なんだから、綱吉亡き後も丁寧に扱ってくれたんでしょうけど、そうやってズルズルとその地位に執着してるら、ろくな目に遭わなかったでしょう。
この英断が柳沢家を明治維新まで存続させた訳です。


綱吉の性質について(アリシロが質問しました)

綱吉は、簡単に操作できるような人じゃない、と私は思うんですけどね。
「天和の治」といって、将軍に就任当初は、善政を行ってますしね。
学問も、相当、修めてた人だし、そう、たやすく「傀儡」になんてなんないと思うんですよ。
だから、私のイメージ(あくまで、私の考えですが)は、 「偏執狂なところが多分にあり、好きになると、とことん、好きになるが、いったん嫌いになると、徹底的に嫌う」 かな?
こういう主君に仕えるのは、大変だったと思います。
いやー、吉保さんは、偉いなあ。
彼を思いどおりにできるのは、母親の桂昌院だけでしょう!
(綱吉ってゼーッタイ、マザコンですよ)
(興味深い(笑)後の付け足し↓)
彼って、夜伽に使って汚れた夜具 を洗濯もさせずに長持ちに密封させ、将軍在世中は蔵に入れておき死んだら捨てさせたみたいですよ。
これってかなり、汚い(爆)
だって、布団の上には、綱吉が美少年たちと出し合った、○○○(好きな言葉を入れてください。笑)が、「こびりつてた」でしょうからねえ(激爆)
そのクセ、不潔恐怖症みたいなところもあって、(流血を極度に嫌ってたらしい) 「実にアンバランスな性格」 だとか言われてたし・・・。



ソクラテスとプラトンについて

プラトンといえば、イデア論とそしてこのお題である 「プラトニック・ラブ」 を唱えた事で有名ですが (しかし、私に言わせれば肉体関係抜きの恋愛なんて〈特にやおいでは。笑〉全く面白みがございませんが) この 「プラトニック・ラブ」 というのが確立した背景にはプラトンと彼の師であるソクラテスの 「妖しい関係」(爆) がございまして。
プラトンの著作「饗宴」によりますと、 「プラトンは自分の美貌が同性愛者である師のソクラテスの欲望を刺激していると確信していたので、 『ヤらせてやるか』(爆) と考え、やたらとふたりっきりになってソクラテスに自分を襲わせる機会を作ってやってたんですが、ソクラテスは一向にそのそぶりを見せない。
焦れたプラトンはついに 「逆夜這い」 をしかける(笑)
しかし、ベットに潜り込んできたプラトンにソクラテスは全く興奮せず朝になると帰っていったのでした。
(ソクラテスって本当に同性愛者だったんでしょうか?イ○ポじゃないでしょうね?) で、プラトンはソクラテスが理性で肉体の欲求を抑えた事に圧倒され、精神的な愛、即ち 「プラトニック・ラブ」 を確立したのでした。



アレキサンダーの想い人について

アレキサンダーは一応ペルシャ王の娘と結婚しましたが、本当に彼が愛していたのは彼の幼なじみの男性であるヘーパイステオンだけだったって話ですね。
このヘーパイステオンはアレキサンダーより先に病死してしまうんですが、この時アレキサンダーの怒りはヘーパイステオンの治療にあたっていた医者たちに向かい、な、なんと 「ヘーパイステオンの死の責任をとらせて、全員処刑した」 っていうから、随分激しいっていうか・・・。
アレキサンダーは遠征中には自分のテントに 「必ずヘーパイステオンと一緒に」 寝ていたらしいんですよー(爆)
いやー、流石、大王ともなると人目はお気にならないようで・・・(笑)



平安貴族について

藤原実資という人はあの 「我が世の春」 を歌にまで詠んだ権力者、藤原道長に唯一、対抗できる人物と目されていた貴族でした。
そんな彼は 「小右記」 という日記を残してるんですね。
これだけなら別にどうって事もないんですが、彼は自分の 「エッチ記録」 を 「結構あからさまな描写で」 残してるんですよ。
ちなみに、当時の貴族の日記とは子孫がこれを読んで参考にするようにと書かれたものでした。
つまり 「他人に読まれるのはわかってる」 んですよ。恥ずかしくないのか、実資さん・・・・。
そして、どういう風にあからさまかっていうとですね、 「私は昨日、夢の中で清涼殿で道長の長男頼通に襲いかかって、押し倒し、烏帽子も吹っ飛ぶほど激しく抱き締めた。すると、私の『下半身』は『木の根のように固くなり』自分でもさすがに『恥ずかしいなあ』と思ったところで目が覚めてしまった。まあ、ホッとしたと言おうか・・・・」 ってアンタこんなにハッキリ 「私は○○さんの夢を見て夢精しちゃいました、テヘ」 って言っていいんかい・・・・。
しかも、この時 「実資72歳、頼通37歳」 おーい、おーい、ってカンジ・・・。
(ちなみに、実資も頼通もアンタらは、ほんとにこの時代の人間かってくらい長生きしてます。八十までいったんじゃないかなあ・・・)
ちなみに、実資はめちゃんこ女好きでもあったらしく 「女好きの実資さん」 と宮中の女房たちから密かに呼ばれていたという・・・・。(身近にいる女を手当たり次第だったんだとか)

そして、もう一人、もっと恐るべき人物が。その名も 「藤原頼長」 この人は平清盛あたりの時代の人なんですが(平安時代末期ですね)この人の方が前出の実資よりヤバいかも。
だって、この人 「夢の中でヤっちゃった相手」 じゃなくて 「実際にヤった、もしくはヤられた相手(リバーシブルだったんですな・・・)」 を記録してるんですよ。
その恐るべし閻魔帳(?)を 「台記」 という・・・・。
しかも、彼はリバーシブルな上に両刀遣いでして相手(男)の気を引くために祈祷をしたり手紙を送ったりとマメなんですが(なんか乙女ちっく)相手が女だとそういう事はしたっていう記録がないんですよ。
そこまで、男の方がいいのか・・・・。
ちなみに、彼は大変学問に造詣が深く 「日本一の大学生(だいがくしょう、と読みます)」 と呼ばれていたんだとか。
でも、学才と性癖って関係ないしね。
そして、この人って家光と同じで 「俺は掘られる方が好きなんだーーーー!(ビバ受け)」 な人でした・・・・(笑)
あ、ちなみに、頼長は「保元の乱」に巻き込まれ戦死したので(貴族なのにね)あんまり長生きはできなかったみたいです。



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