戦国期の東北の合戦解説

年 号 合 戦 名
<戦の型>
武将名 内   容
1541年
(天文10年)
6月
三味線河原の戦い

<遭遇戦>

大浦政信
800人
vs
小山内満春
 大浦政信は八百余の兵を率いて小山内満春の拠る平賀郡の和徳城を攻めた。平賀郡は津軽平野の中央部で穀倉地帯で、南部氏の勢力範囲だったが、大浦氏も自立の志が強かった。
両軍は、岩木川畔の三味線河原で戦いが始まったが、仕掛けた大浦勢が優勢で、小山内満春も三上宗右衛門に突き殺された。しかし、満春の子永春が加わり、形勢が逆転して、大浦政信が討ち取られ、大浦方が敗れた。

 合戦地所在:青森県弘前市

1546年
(天文15年)
平城の乱

<攻城戦>

小野寺稙道
vs
大和田光盛・金乗坊
 戦国時代、小野寺氏は横手を中心に、雄・平・仙三郡を押さえていた。小野寺景道の代には最上地方にまで勢力を伸ばしたが、その子稙道の時代になると家臣たちと不和になり、重臣を誅伐することもあった。
 天文15年、仙北郡金沢八幡の別当である金乗坊と、横手城の大和田光盛が平城の稙道を不意に攻め、稙道はこれを支えきれずに、いったん湯沢に逃げたが、さらに大軍に囲まれ、流れ矢に当たって死んでしまった。
 稙道の子景道(輝道)は庄内の大宝寺氏に保護され、勢力を盛り返し、光盛・金乗坊を滅ぼして、横手城を奪い返し、その後さらに勢力を拡大して、小野寺氏の最盛期を築き上げる。

 合戦地所在:秋田県横手市平城町

1562年
(永禄5年)
8月
長岡城の戦い

<攻城戦>

安東愛季
1,500人
vs
浅利則祐
 比内地方(秋田県北秋田郡)は、浅利氏が甲斐国より移住し支配権を持っており、この地方では、大葛・阿仁などといった金銀山があり、また、森林資源に富んでおり、浅利氏が支配していた。
 安東愛季は、これを奪おうと、比内地方への侵略を考え、浅利の当主則祐の弟勝頼と結び、比内地方へ侵攻した。当主則祐は父則頼の側室の子であったが、弟勝頼は正室の子であったため、兄弟に確執が生まれていた。
 独鈷城の則祐は扇田・長岡城に籠もって反撃したが、安東勢の攻撃を支え難く、則祐は長岡城で自刃し、比内地方は安東氏の勢力下に入り、勝頼が安東氏被官として比内の領主となった。

 合戦地所在:秋田県北秋田郡比内町

1566〜
1568年
(永禄9〜
11年)
南部・安東永禄合戦

<遭遇戦>

安東愛季
vs
南部晴政
 永禄5年に安東愛季は浅利則祐を自刃させ、出羽比内地方が安東愛季の勢力下に入った。安東愛季は隣接する陸奥鹿角郡の完全支配を目論み、鹿角郡内の大里・花輪・柴内氏らに廻状を回し、南部氏の勢力下にある鹿角郡討ち入りの体勢を固めた。
 永禄8年頃から数年間、北奥はまれにみる凶作で人心は落ち着かなかった。長牛地方は米作地帯で、この地帯の生産力は貴重だった。そのため、南部方は長牛城を中心に夜明島川を挟んで、三ヶ田・石鳥谷・長内・谷内などの諸城を配置していた。
 永禄9年8月、安東愛季は比内の浅利残党・阿仁地方の嘉成一族を主力とした五千の兵を遣わし、大館から犀川峡谷を経て巻山峠を越えて、この地方に侵入、郡内の長牛・石鳥谷城を、柴内勢は北から長嶺・谷内城に攻めかかるという南北からの挟撃作戦を採った。この急報に驚いた南部晴政は、岩手侍の田頭・松尾・沼宮内・一方井の諸勢を鹿角に送ったが、狭隘な山道で進軍も思うに任せない。石鳥谷城・長嶺城などは安東勢の猛攻にたまらず落城、南部勢は主城の長牛城に立て籠もって防戦に務め、早い降雪に助けられ越年することができた。
 翌10年2月、雪をおかして安東勢は安東愛季自ら六千の兵で長牛城に襲いかかり、城主一戸友義以下城外で戦ったが、友義の叔父南部弥九郎までが討ち死にするほどの激戦で、相次ぐ苦戦に南部晴政は一族の重臣北・南・東ら諸勢を救援に繰り出したが、これを知った安東愛季は素早く兵を引いたので、長牛城は落城を免れた。
 しかし、この年の10月、安東愛季はまず谷内城を難なく落とし、ついで長牛城を襲い、城兵は一方的に攻め立てられ、長牛城は全滅に近い形で落城し、城主の一戸友義は辛うじて三戸に逃れた。こうして、南部氏は鹿角郡を失った。
 翌11年3月、南部晴政は世子南部信直とともに来満峠越えで大湯に着陣、九戸政実勢は保呂辺道経由で三ヶ田城に入った。この南部勢の作戦も南北からの挟撃だった。南部一族の総力をあげての決戦態勢に、鹿角郡の諸侍たちは南部方に降伏し、安東方の主力大里備中は郡外へ逃れ、鹿角郡はまた南部の手に戻った。
 しかし、鹿角・比内で境を接した南部・安東両氏の対立はこののち天正末年、豊臣秀吉の天下統一まで続く。

 合戦地所在:秋田県鹿角市長牛付近

1576年
(天正4年)
7月
矢野目の戦い

<遭遇戦>

伊達輝宗
vs
相馬盛胤・義胤
 伊達氏が天文の大乱で家中が動揺し、家督を継いだ晴宗が本拠を桑折西山城から米沢城に移したことにより、仙道通りの軍事力が手薄になり、相馬氏が伊具郡・名取郡に進出し、伊達氏の丸森・金山などの諸城を落とし、勢力下に置いた。そのため、伊達輝宗がその奪還を図ったが、この戦いはその中のひとつである。
 伊具郡を勢力下に置いた相馬氏は本陣を金山城に置き、小斎城を前線基地とした。それに対し、伊達氏は矢野目に陣を敷き、小斎・丸森往還を封鎖にかかると同時に岨峰崎に城を築き始めた。これを見た相馬盛胤は小斎城代の泉大膳頭に命じて、伊達氏の工事の眼前に斥候を出して挑発させ、伊達軍の出動を見るや、小斎城、そして、金山を目指して、長根方面にそれぞれ逃走を始めた。これを見た伊達軍は軍勢を繰り出し、矢野目の陣から長根の間の一本道を一列縦隊になる形で金山に向けて追撃した。
 この様子を知った盛胤・義胤らが出撃した。その間、伊達軍は大勢の相馬兵を討ち、戦果を収めた。しかし、相馬軍の戦力が整うやいなや、伊達軍の四方から予め伏せていた相馬軍の伏兵が現れ、一列に隊列を組んでいた伊達軍の進路と退路を遮断した。そのため、身動きがとれなくなった伊達軍は退路を相馬軍の包囲陣のうち原野の中の細道を選び、矢野目の本拠を目指し退却し始めた。しかし、その細道の先にあったのは大泥地の芦原で、伊達軍は次々と後続の隊に押され、泥沼の中に沈んでいった。身軽な歩卒は山々の道を取って逃げたが、馬上武者は殆ど討ち取られた。この時、伊達軍では、名だたる諸将が戦死し、首級の数は730級であった。それに比べ、相馬軍の死者は歩卒30人ほどと軽微であった。
 矢野目合戦は戦国の合戦としては珍しい泥濘戦で、この戦いに敗れた伊達輝宗は、麾下諸将に大動員をかけ、連判誓紙を行わせたが、伊具郡の戦線はしばらく大きな変化はなかった。伊達・相馬両軍が存亡を懸け、熾烈な争奪戦が始まるのは輝宗の嫡子政宗が成長し、前線に姿を見せる天正9年頃からである。

 合戦地所在:宮城県伊具郡丸森町小斎

1578年
(天正6年)
7月
浪岡城の戦い

<攻城戦>

大浦(津軽)為信
2,000人
vs
北畠(浪岡)顕村
 この戦いは、南部支族であった大浦為信が津軽平定を目指す一環としてあったものである。
 為信は天正5年(1578)に黒石境松に砦を構築して、北畠氏を牽制していた。さらに、為信はあらかじ細作を忍び込ませて城内の攪乱を策するとともに、ならず者や野伏、郷民などを扇動して城下を混乱させた。こうして機を見た為信は、主力一千数百の兵を率い、北畠方の武将の内応を受けつつ、十川口から攻め寄せ、本郷口は為信の腹心乳井大隅、浅瀬石城主千徳政氏ら七百余、赤茶口からは森岡金吾ら六百余という布陣で三方から城に猛攻を加えた。
 北畠方では北畠顕範の武勇が近隣に鳴り響いていたが、折り悪く、顕範は他の城の支援のため留守であった。そのため、北畠側では有力家臣吉町氏をはじめ内応が相次ぎ、城に放火するものまで現れる始末で、一丸となっての防戦など望むべくもなかった。
 そうして、大浦軍の攻撃により浪岡城は落ちたが、北畠顕村助命を条件に開城したももの、為信は約束を守らず自刃を要求、こうして浪岡北畠氏は滅亡した。
 浪岡城の陥落により、一世紀以上もの間、この地に繁栄した名族北畠氏は滅亡。この結果、この頃まで浪岡地方に関心を示していた南部氏の影響力が低下した。
 なお、南部側の資料では天正18年に浪岡にいた郡代石川政信が急死し、その混乱に乗じて浪岡を攻めたとあり、津軽側と南部側の資料には年月に著しい差が見られる。

 合戦地所在:青森県南津軽郡浪岡町浪岡字五所

1582年
(天正10年)
8月
大沢山の戦い

<遭遇戦>

小野寺義道
8,000人
vs
由利十二頭
5,000人
 由利十二頭は、小野寺義道氏の配下に置かれていたが、秋田安東氏が由利十二頭を巻き込み、仙北侵略の機をうかがっていた。
 この戦いの直前義道の父輝道が京に旅立ち、義道が留守を守っていた。好機ではあったが、この際、戦国のならいとして、由利諸将は小野寺氏に人質を取られていたため、手出しができなかったが、これを知った五人の人質が由利諸将のため自害し、これを知った諸将は人質の忠義に感動し、小野寺氏に背き、総勢五千余人で攻め入り、平鹿・由利国境の大沢山に陣を構えた。義道はこれに激怒し、小野寺・西馬音内・河連・稲庭氏ら主戦力八千余人を動員し、大沢山に向い、激戦となった。
 大将義道は血気に任せ、先陣となって暴走し包囲されたため、これを助けようとした吉田・荒田目・鍋倉氏ら多くの老臣が討死した。
 黄昏となり両軍は兵を引いたが、小野寺方の戦死者は四百八十余人で、大きな痛手を受けた。しかし、横手城に帰った義道は残りの人質を帰したので、由利諸将はその仁に案ずる者が多かった。

 合戦地所在:秋田県平鹿郡雄物川町大沢

1985年
(天正13年)
11月
人取橋の戦い

<遭遇戦>

伊達政宗
5,000人
vs
畠山国王丸・
蘆名亀王丸・
佐竹義重ら
30,000人
 天正13年10月、伊達輝宗は二本松城主畠山義継に拉致、殺害された。父の敵を復する伊達政宗は二本松城を猛攻したが、落とせなかった。
 そうして、11月に入り、"反伊達"の連合軍である常陸の佐竹、会津の蘆名、南奥の岩城・石川・白河氏が3万の軍勢を率い、須賀川に結集した。畠山氏救援が名目だが、畠山氏滅亡後の政宗の南下を阻止するための決起であったと見られる。常陸の佐竹義重が連合軍の中核となった意味はそこにあったといえる。
 政宗はこの報に接し、最上に対する押さえに二千、大崎に対する押さえに三千人を配し、総勢八千人を率いて、奥羽街道と会津街道の交わる要衝の地本宮に布陣した。
 その後、政宗は四千人を率いて南観音堂山に陣を敷き、別に伊達成実は二千人を率いて、瀬戸川館から高倉近くの小山に陣した。連合軍を大きく三隊に分け、右翼は二階堂・石川・白河・畠山の諸将で、一万の軍勢をもって高倉城へ、中央の蘆名と相馬勢一万は荒井方面に進攻、左翼の佐竹勢一万は会津街道を進撃して伊達軍の本陣に迫った。
 特に人取橋付近は一大乱戦の場となり、本陣と成実軍との間が戦場と化したので孤立した成実は死を覚悟して背面から敵陣に突入し、凄惨な戦闘となった。
 そんな状況下で、七十三歳の鬼庭良直は連合軍の猛攻にたまらず後退する伊達本隊の殿軍を引き受けて人取橋を渡り、壮烈な戦死を遂げた。この良直らの活躍によってようやく難を逃れた政宗は岩角城に退いた。
 連合軍の猛攻はなおも続行されたが、観音堂山の本陣を抜くことはできず、伊達成実の籠もる瀬戸川館も落とすことが出来なかった。やがて日没を迎えたため、戦闘を中断した。
 夜を迎えたが、連合軍の軍師役を務めていた佐竹義政が家僕に暗殺された事件や、水戸勢が佐竹領に攻め込むという急報がもたらされたため、佐竹軍は急遽撤退を始め、中核の佐竹にならい諸将も撤退を始め、この戦いは終わった。
 伊達軍がこの戦いで持ちこたえた要因としては、二本松勢を城に釘付けにしたこと、成実軍が背後を突いたことで連合軍の観音堂山の伊達本陣への攻撃が成功しなかったことなどが挙げられる。
 この戦いは政宗生涯の戦いのうちでも激闘をもって聞こえ、彼の武名が高まり、伊達氏の運命を大きく開いた戦いであった。

 合戦地所在:福島県安達郡本宮町荒井付近

1586年
(天正14年)
5月
有屋峠の戦い

<遭遇戦>

最上義光・
最上義康
10,000人
vs
小野寺義道
6,000人
 天正14年5月小野寺義道は六千余の軍勢を率いて最上領に攻め込もうとした。これを知った最上義光も小野寺軍を迎え撃つべく一万余の軍勢を率いて急行し、最上領と小野寺領の領界をなす有屋峠で戦いが繰り広げられた。
 小野寺側の策略にはまり最上側の軍勢が多数討たれ、さらに庄内で武藤氏と戦っていた最上の一隊が破れたとの報があり、義光は子の義康に有屋峠を任せてそちらに向かった。しかし、この窮地に義康率いる最上勢が反撃に立ち上がり、小野寺軍の総退却となった。

 合戦地所在:秋田県雄勝郡雄勝町役内

1587年
(天正15年)
4月
唐松野の戦い

<遭遇戦>

安東愛季
3,000人
vs
戸沢盛安
1,000人
 戦国時代の秋田仙北地方は、安東・小野寺・戸沢の三氏がしのぎを削った。
 天正15年春、安東愛季は小野寺義道と戸沢盛安が不和になったのに乗じ、戸沢氏を誘って小野寺打倒を謀った。しかし、戸沢氏はこれに同調せず、逆に仙北地方に進入してきた三千余の安東軍と戦う姿勢を見せた。そのため、安東氏は攻撃目標を戸沢氏に転じ、秋田と仙北の境、唐松野に進攻して陣を張った。
 進藤筑後守の急報を受けた戸沢盛安は主力千余人を率い唐松野にて迎え撃ち、進藤隊は遊軍となって安東軍の東に陣した。両軍は漸次接近し、激突。終日戦って軍を引いた。
 かくすること3日間安東軍に三百余人、戸沢軍にも百余人の犠牲者が出た。
 こうして、唐松野合戦は安東軍の敗戦に終わり、その後戸沢氏は秋田国境を強化して、再び安東氏の来攻を許さなかった。こうして、北浦地方(仙北郡北部)の諸豪族は戸沢氏に服した。

 合戦地所在:秋田県仙北郡協和町境

1587年
(天正15年)
5月
阿気野の戦い

<遭遇戦>

小野寺義道方
大築地秀道
2,000人
vs
戸沢盛安
3,000人
 戦国時代秋田南部の仙北地方でもっとも勢力の大きい大名は横手の小野寺氏だった。
 小野寺義道と不和になった戸沢盛安は小野寺支城の沼館城(雄物川町)を攻めるため出陣した。この報を受けた城主大築地秀道(小野寺氏庶族)は家臣の小清水蔵人に七百人を添え、阿気野に遣わし、自ら後陣に控えた。こうして、戸沢軍三千人と小野寺軍二千人は雄物川上流、阿気野の河原で激突した。
 緒戦は小野寺軍が優勢で、戸沢軍の先鋒楢岡隊は退却を始めた。そこへ戸沢盛安が自ら五百騎を率いて突入し、東に戸沢と大築地、西に小清水と楢岡、両軍乱れての混戦となった。この中で、小清水蔵人が討ち取られ、これに動揺し小野寺軍は散々の敗戦となった。
 この勢いをもって沼館城をも陥れようと戸沢軍は進撃に移ったが、小野寺軍の西野一族が大軍を率いて来襲するとの情報を得て、ひとまず兵を引いた。
 この戦いで戸沢盛安の勇名は高まり、"鬼九郎"とうたわれた。

 合戦地所在:秋田県平鹿郡大雄村高津阿気野

1588年
(天正16年)
2月
中新田の戦い

<攻城・遭遇戦>

大崎義隆
vs
伊達政宗方
留守政景・
泉田重光・
浜田景隆
10,000人
 天正14年頃より大崎家中では、家臣団の主導権争いがあり、家政が定まらなかった。伊達政宗はこの機に乗じ、大崎反主流派である岩手沢城主氏家吉継救援の名目で大崎領を奪取すべく、留守政景・泉田重光を大将に、浜田景隆を陣代とする名取・柴田・宮城郡方面を主力に総勢一万余の軍勢を投入した。
 政宗は岩手沢城に集結するよう指示を出したが、遠藤高康の居城志田郡松山城に軍勢が集結するという手違いがあり、大崎反主流派の氏家吉継や一栗氏・一迫氏・富沢氏、大崎氏の客将の宮野氏・富沢氏らが合流できないという作戦上の失策が生まれた。留守・泉田両将は日頃から不仲であったが、軍評定の席で、泉田重光は遠藤高康が提案した直線的に中新田城を攻撃する案を指示したが、留守政景はその案は中新田までは田舎道で二十里もあり、その道筋に桑折城・師山城があるため、困難であると反対し、両者は大激論となった。しかし、結局泉田が押し切り、泉田案で中新田城を総攻撃することとなった。
 松山城を出た伊達軍は志引川を渡り、大崎領に入って進軍を開始した。師山城には古川氏、桑折城には黒川晴氏が籠もっていたので、留守政景・浜田景隆ら五千が別働隊となってこの方面を牽制し、本隊の泉田重光・長江勝景・遠藤高康・小山田頼定ら七千がその狭間を中新田城に向かって進軍した。しかし、これは黒川晴氏が仕掛けた罠で、伊達軍本隊が通り過ぎた後、大崎軍は一斉に動き出し別働隊を包囲した。先に進んだ本隊は中新田城の四方を囲み、総攻撃にかかった。城のまわりは低湿地で深田が続いて侵攻は容易ではなく、これを守る南條隆信は千五百の寡兵で本丸を固め猛攻をよく凌いだ。伊達軍は町構えに火を放ち、波状攻撃を繰り返し、三の丸・二の丸を落とした。しかし、夕方に入り水分を含んだ大雪が降り始め、伊達軍は撤退を余儀なくされた。伊達軍は松山城への撤退を模索するが、師山城の兵が各所の橋を引いたため、退路を断たれ、どうにか新沼城に収容された。しかし、殿軍は大きな損害を被り、軍目付の小山田頼定が討ち死にするなど、多くの犠牲が出た。岩手沢城の氏家吉継も伊達軍への合流を図ったが、連絡が取れないまま降雪となった。桑折・師山城の敵に包囲された留守政景ら別働隊は雪原の中に孤立し、困窮した政景は舅の黒川晴氏を介して、松山城まで撤退することを許され、松山城に帰還した。
 その頃、地形・規模が狭い新沼城に大軍で収容された本隊は食糧が不足していた。中新田の敗戦の報を聞いた政宗は刈田・柴田・伊具郡から動員した救援隊を編成し、松山城まで進軍させる一方、和議折衝を進め、結局、泉田重光・長江勝景ら首脳を人質に出せば、捕虜軍団を解放するとの譲歩案が大崎方から出され、二人は人質となって山形城に連行され、のちに解放された。

 合戦地所在:宮城県加美郡中新田町北町など

1588年
(天正16年)
6〜7月
窪田の戦い
(郡山合戦)

<遭遇戦>

伊達政宗
600人
vs
佐竹義重・
蘆名義広ら
4,000人
 佐竹義重と蘆名義広に加え、これに白河氏や二階堂氏が加わり、四千人が安積郡に侵入した。対する伊達政宗は先の大崎合戦の影響もあり、大崎氏や最上氏などへの備えのため、六百人の軍勢であたらなければならない劣勢であった。
 政宗軍は山王館に本陣を置き、伊達領最南端の郡山城と窪田砦で連合軍の侵入を阻止しようとし、7月4日に両軍が激突、伊達方60〜70人、連合軍200人ほどの犠牲者が出たが、戦いがあったのはこの日だけで持久戦となったが、約40日間の持久戦を経て岩城常隆と石川昭光が間に入り和議が成立した。

 合戦地所在:福島県郡山市周辺

1588年
(天正16年)
8月
十五里原の戦い

<遭遇戦>

最上義光方
東禅寺義長・
東禅寺勝正・
中山朝正
vs
武藤義勝・
本庄繁長
 天正15年、最上義光が武藤義興の攻撃を命じると、東禅寺義長が立ち上がり、義光がその救援六十里越街道を進撃し、武藤義興を大敗させ、庄内を手中にした。庄内の紛争に関して義光は、山形の本隊を派遣することもないと、尾浦城主中山朝正と酒田城主東禅寺義長の庄内軍に任せ、越後の本庄繁長の庄内侵攻に対する本格的な準備を察しておらず楽観的であった。
 ところが、天正16年、越後勢は国境を侵犯し、義興の養子武藤義勝とその実父越後村上城主本庄繁長が、大軍を率いて庄内に進攻した。最上勢は出城を次々と攻略して尾浦城に迫った。兵力は千ほどであったものが、城兵に寝返る者が続出し、数千の兵となった。
 最上・庄内勢は、東禅寺義長・勝正兄弟が暴政をしいたため、城中や城下で寝返る者が続出したことから、籠城策を放棄し、大宝寺城と尾浦城の中間地点の十五里原に遊撃して、凄惨な戦闘となった。十五里原は鶴岡と大山の中間にあって、未墾の原野が広がり、三つの渓谷が並流する天然の要害であった。しかし、多勢に無勢であり、勝機は万に一つもなく、東禅寺兄弟は討ち死にし、中山朝正は山形へ敗走した。
 越後勢は内応者の手引きで最上軍の背後に回り、尾浦・大宝寺城を攻めて炎上させ、最上方の武将草刈虎之助、宿老氏家尾張守の息子らが討ち死にした。
 急報に接した最上義光は直ちに大軍を率いて六十里越えを急いだが、間に合わず兵を引いた。
 その後、翌年6月まで最上衆の残党刈りが行われ、庄内は越後の領国と化した。

 この戦いについて、豊臣秀吉は使者を派遣して関東奥羽の総撫事令に従い、本庄氏の庄内攻撃を停止するように命じた。しかし、本庄氏は庄内は本来武藤氏の領地で、ここを侵略した最上氏の方が不当であると主張して侵攻を続けた。

 この合戦は、秀吉の総撫事令のあとに起こった代表的な一戦で、東北大名の秀吉支配へのひとつの反応でもあった。また、本庄氏の庄内領有の安堵は、豊臣政権に対する最上義光の外交の敗北でもあった。

 合戦地所在:山形県鶴岡市柳原

1589年
(天正17年)
2月
檜山城の戦い
(湊合戦)

<攻城戦>

安東実季
vs
安東道季
 出羽の安東氏は戦国期に秋田を舞台に、「土崎湊」「檜山」の二系になり対立したが、天正15年に檜山系安東氏の当主安東愛季が没し、嗣子実季がまだ12歳という弱みにつけ入り、叔父である土崎湊安東系の安東道季が南部信直と結び、戸沢氏らの援助を受けて謀反を起こし、これに安東高季も同調し、実季の湊城を攻めたが、実季は檜山城に逃れ、そこに籠もった。守る実季軍の勢力は浅利・嘉成などの比内衆が主力で、包囲する道季軍は城兵の十倍であった。
 苦戦に陥った実季は耐えに耐え、籠城150日余、ついに由利十二頭の一人尾津氏の援助を得て反撃に成功し、道季を湊城に攻め破ることができた。道季はのちに戸沢氏を頼り、南部領に逃れ、翌年7月に豊臣秀吉に湊家の再興を願い出たが許されなかった。
 かくして、勝利を得た実季は、家臣団の再編など支配体制の整備に努めて、近世大名・秋田氏として雄飛する機運をつかんだ。

 合戦地所在:秋田県能代市檜山

1589年
(天正17年)
6月
摺上原の戦い

<遭遇戦>

伊達政宗
23,000人
vs
蘆名義広
16,000人
 伊達政宗ははじめ、蘆名・二階堂氏の動きを牽制しながら相馬氏を攻めた。政宗が相馬氏を攻めているとき、蘆名義広と佐竹義重の軍が須賀川で合流し、岩瀬郡と安積軍の境まで進んできた。
 その動きを察知した政宗は急遽兵を返し、以前から進めていた猪苗代盛国の内応に成功すると、即座に猪苗代城に入り、蘆名の本拠である黒川城をつく気配を見せた。反伊達勢力が東に結集しているのに西に向かおうとする作戦は常識的に考えるなら危険度が高い。しかし、政宗は田村領の守備を厳にすれば、相馬・岩城勢も簡単には侵略できず、佐竹も政宗と同盟を結ぶ関東の北条氏が驚異となっていることから、田村領の守備を固めた上で、敵の裏をかいて黒川城を強襲するのが上策、と判断したのだった。一方、義広は猪苗代盛国の謀反を聞き、須賀川から約50キロの行程を夜を徹して黒川城に引き返した。
 こうして両軍は磐梯山の麓摺上原で激突した。緒戦は蘆名勢優位のうちに進んだ。
 開戦時、西からの烈風が砂塵を巻いて伊達軍の正面に吹き付け、視界をふさいでおり。蘆名方の富田隆実が第一陣の猪苗代盛国、第二陣の原田宗時、第三陣の片倉景綱隊を攻め崩した。すかさず、伊達成実隊、白石宗実隊が敵陣に斬り込み体勢を挽回し、それに対して蘆名軍の旗本が参戦し、成実隊と宗実隊を押し返す。こうしているうちに、風向きが変わり蘆名軍に砂塵を巻き込んだ風が吹き付け始めた。これを機に伊達勢は猛反撃に転じた。義広は佐竹から養子に入っており、当主義広と義広付きの佐竹衆と蘆名譜代の家臣間に一枚岩的な結束力はなく、蘆名軍は足並みが乱れ、敗走することになったが、盛重は馬廻りの家臣四百騎を率いて本陣に攻撃をかけた。しかし、政宗側の厚い壁を破ることができず義広自身も敗走することになった。
 蘆名側はこの戦いで主力というべき二千の軍兵を失い、主城の黒川城を支える力はなく、義広は黒川城を逃れて生家の佐竹家に帰った。こうして、蘆名氏は滅亡し、政宗は本城を黒川城に移し、蘆名氏累代の所領である会津・大沼・河沼・耶麻の四郡のほか、安積郡の一部、下野国塩谷郡の一部、越後国蒲原郡の一部など広大な所領が政宗に帰すこととなった。
 これら、仙道侵攻に始まる勢力拡大策で政宗が南奥羽の覇者として名乗りを挙げ、天下統一後の豊臣・徳川両政権に対する伊達氏の立場を決定づける合戦となった。

 合戦地所在:福島県耶麻郡猪苗代町・磐梯町

1590年
(天正18年)
5月
童生淵の戦い

<遭遇戦>

伊達政宗
vs
相馬義胤
 天正17年5月、伊達政宗は相馬方の駒ヶ峯城と蓑頸城(ともに福島県相馬郡新地町)を攻略した。これに対し、相馬義胤は翌月から各地で伊達勢と合戦を繰り広げるが、劣勢を挽回することはできなかった。
 こうした中、翌18年、宇多郡石上の童生淵(相馬市)で激戦が展開された。しかし、相馬勢は当主義胤の弟隆胤をはじめ多くの家臣が討ち死にするという大敗を喫した。
 その後、この戦いは豊臣秀吉の総撫事令により戦いは止まることとなった。
 なお、以後戊辰戦争まで駒ヶ峯が伊達氏と相馬氏の藩境となり、駒ヶ嶺以北の現在福島県新地町は伊達領となり、この戦いの影響が大きかったことが分かる。

 合戦地所在:福島県相馬市

1591年
(天正19年)6月
葛西・大崎一揆

<攻城戦>

伊達政宗
(蒲生氏郷)
24,000人
vs
葛西・大崎遺臣
30,000人強
 葛西氏・大崎氏の所領は小田原の陣への不参から没収され、豊臣家臣の木村吉清・吉久父子に与えられた。この一揆は木村父子の暴政、太閤検地・刀狩りの強行などを原因として起こったとされる。
 天正18年秋に発生した一揆により、岩手沢城・古川城らが占領され、木村父子は佐沼城に押し込められた。秀吉の命令によって伊達政宗と蒲生氏郷が出動したが、この伊達・蒲生共同戦線において両雄間にトラブルが起こり、疑惑を抱いた蒲生軍が名生城に籠もっている間、伊達軍が独力で佐沼城に籠城していた木村父子を救出した。しかし、政宗に一揆の扇動の嫌疑が生じたため、政宗は秀吉に呼び出されたが、巧妙な弁明により政宗の嫌疑は解けた。
 しかし、翌19年春に再び旧大崎葛西領は一揆の勢力下にあり、一揆勢の交戦基地となったのが、加美郡宮崎城・遠田郡百々城・志田郡古川城・栗原郡宮沢城・玉造郡一栗城・登米郡佐沼城などであった。南部領では九戸政実が反乱を起こしていたため、一揆には政宗一人がその討伐を命ぜられた。伊達軍は二万四千人の軍勢を動員して出動した。伊達軍はまず宮崎隆親が籠もる加美郡宮崎城を攻めた。伊達軍が総攻撃を加えると、四釜隆秀ら大崎旧臣が次々戦列を離れ、伊達軍に投降した。しかし、一揆勢の抵抗は激しく鉄砲で撃たれ浜田景隆が戦死するなど伊達軍も犠牲を生じた。そのため、伊達軍は鉄砲の弾避けなどを準備した上で、着実に城方を追いつめていき、火を放った竹束を城内に一斉に投げ入れ、城内に火が回って混乱するところに乗じて伊達軍は二の丸・三の丸を占拠した。その後、一揆勢は降伏の様子を見せたが、何者かが本丸に放ったため、伊達軍はそれに乗じて攻め入り、城内の城兵を惨殺して、宮崎城を落とした。宮崎城を落とした伊達軍は即時大崎原野を東進し、葛西・大崎一揆軍最後の拠点である佐沼城に向かった。一方、政宗は宮沢城には白石宗実・片倉景綱・泉田重光ら、古川・百々・内ヶ崎城などには国分盛重・大内定綱ら、栗原郡清水ヶ袋城には伊達成実・原田宗時らの別働隊を率いさせ、討伐させた。
 佐沼城は本丸を沼地を利用した難攻不落の浮き城で、大崎・葛西氏両者が奪い合った堅城で、葛西一門の千葉信胤・信重兄弟を大将とした1万余の一揆勢が籠もっていた。政宗は、佐沼城の周囲に31将を配し、包囲体制を取り、連日の波状攻撃を行い、7月3日城の沼側の背側から城壁にとりつく作戦から佐藤為信らが騎馬隊を一斉に乗り入れ、城門にとりつくことに成功した。(ただし、城中より鉄砲が一斉に射撃され、このうち一弾が命中した為信は落命している)そして、伊達軍は一気に城内に乱入して攻略し、一揆勢に対しいわゆる撫で斬りを行った。
 この佐沼城攻略の後、政宗が本陣を敵の本拠であった登米城近くに進めると一揆勢は降伏したが、豊臣秀次から一揆勢全員成敗の命令もあり、一揆の首謀者数十人を須江山に集め、全員を討ち果たした。こうして、旧大崎・葛西領の一揆は完全に平定された。
 この一揆については、秀吉が木村父子を配置した真意は奥羽の完全支配のため、見せしめとして大崎葛西の旧臣たちと木村父子を犠牲にした説もある。しかし、その一方では、葛西氏は元々伊達氏の勢力下にあり、大崎氏は伊達氏の準領下に置かれていたため、政宗が陰で一揆を扇動し、一揆の恩賞として大崎葛西領を併呑する目論見があったとされる。しかし、この大崎・葛西一揆の後、秀吉の領地処分が決定し、政宗は秀吉によって、旧領を召し上げられ、大崎・葛西領に移されることとなった。

 合戦地所在:宮城県加美郡宮崎町川東字麓・登米郡迫町佐沼字西館など(旧大崎・葛西領全域)

1591年
(天正19年)
9月
九戸政実の乱

<攻城戦>

九戸政実
5,000人
vs
豊臣秀次・
蒲生氏郷
浅野長政ら
60,000人
 南部氏に反意を表明していた九戸政実氏は櫛引・久慈・七戸氏らは南部領内の一揆に乗じ、九戸氏らと抗する諸氏の城を攻め始めた。当主南部信直も北・名久井・野田・浄法寺氏らの協力を得て防戦につとめたが、政実らの勢力が強大化し、自主解決できかねた信直はついに子利直と重臣北信愛の二人を上洛させ、九戸征伐を豊臣秀吉に請うた。
 秀吉は羽柴秀次を総大将に、大将に蒲生氏郷を使わし、この総勢三万の兵が浅野長政の軍と合流して着陣した。これに抗した九戸政実は九戸城に籠もった。その兵力は五千人と記録される。中央軍は一気に前線基地である根曽利、姉帯、一戸町を落とし、直ちに九戸城を包囲し、攻防を繰り返した。さらに、中央軍に大谷吉継配下として出羽の小野寺・戸沢・秋田などの諸氏が動員され、津軽・松前氏も包囲網に加わり、そのため、五千の城兵は総勢六万の軍勢に包囲される形となった。
 自主解決のできぬ信直の要請で、蒲生氏郷を主将とする豊臣仕置軍三万余が北上して九戸城を攻撃した。政実は九戸城の天嶮を利用して防戦し、豊臣方に多大な死傷者を出した。そのため、浅野長政は使者を遣わし、降伏すれば生命は助け、所領も与えるという降伏勧告を行い、これ飲んで政実は降伏し九戸城は落城したが、約束は反故にされ、政実は斬首された。こうして、九戸政実の乱は平定された。
 九戸城の跡には、のちに南部信直が三戸より移り、ここを居城として福岡城と称した。

 合戦地所在:岩手県二戸市盛岡城ノ内・字松ノ内

1600年
(慶長5年)
7月
白石城の戦い

<攻城戦>

伊達政宗
vs
上杉景勝方
甘糟虎氏の臣
登坂勝乃
 徳川家康は上杉景勝討伐のため、豊臣恩顧の諸将を率い、下野国の小山に着陣したが、石田三成が挙兵したため陣を払い、西へと向かった。奇しくもその日、伊達政宗は上杉景勝領の最前線であった白石城を攻めた。白石は上杉氏の支配下に置かれていたが、もとは伊達氏の本貫地。白石城攻略は旧領回復の意図も込めた軍事作戦であった。白石城主は勇将で知られる重臣甘糟虎氏だったが、会津に出向しており、甥の登坂勝乃が留守居で、大崎三次・葛西清高をはじめとする旧大崎・葛西の一族旧臣や二本松氏の旧臣を中心に守っていた。
 政宗は、当時本拠としていた北目城を出、亘理定宗・屋代景頼を先手として進ませ、白石の平山に本陣を構えた。政宗は町からの攻撃を策し、屋代景頼に町屋、外曲輪、三ノ丸などに一斉に火を放って焼き払わせた上で、屋代景頼が大手から、亘理定宗が二の丸外帯曲輪から、片倉景綱が西方から、山岡重長が南方からと、総掛かりで攻めかかり、その日のうちに本丸を除く城域を制圧し、首級七百余を討ち取った。降伏か徹底抗戦か、城内の軍議は二分したが、和平派の登坂勝乃らが強硬派を押さえ、石川昭光を介して降参を申し出て開城することとなった。こうして、白石城は実質一日の戦闘で攻略され、この地は九年ぶりに伊達氏が有することになった。
 戦後、白石城は石川昭光の管理下に置かれ、白石を含む刈田郡一円が正式に伊達領として認められるのは慶長6年のことである。その後、同7年白石城は片倉景綱の居城となり、元和の一国一城令の後も例外的に「城」として認められる。

 合戦地所在:宮城県白石市益岡

1514年
(永正11年)
長谷堂城の戦い

<攻城戦>

伊達稙宗
vs
最上義定
 伊達氏は17代成宗の代からたびたび最上氏の村山地方への進出を図ていたが、稙宗の代になり、三千余の軍勢を率いて村山地方への侵略を図った。稙宗は上山城を席巻し、長谷堂城を包囲し、最上軍と激突した。この戦いで、最上方の大江氏が奮戦したが、大江政周が戦死し、長瀞左衛門・山野辺刑部・吉河兵部らの連合軍も千人近い死傷者を出す激戦となり、山形城にいた最上義定も一時中野城に退避せざるをえない状況となった。長谷堂城も落城し、稙宗は守将に小梁川親朝を入れ、次は本城の山形城が脅威にさらされることとなった。その一方で、最上義定に正室がいないことから、義定が稙宗の妹を娶るという条件で和議が進められていた。伊達氏の目論見としては、兵を損ずることなく、最上氏を傀儡として操ることがあったが、最上方も義定に正室がいなかったことから、永正12年に最上方も承諾して和議が成立し、長谷堂城も最上方に返還することとなった。
 稙宗の妹は最上義定の元に輿入れしたが、それと共に大勢の付人と老臣も守役として最上家に入り、最上家の動向は逐一伊達氏に筒抜けとなった。さらに、永正17年に義定が嗣子なく没し、最上氏の仕置は伊達氏によって執られる状態となった。それに対し、同年上山城主最上義房が反旗を翻し、それに呼応して天童頼長や寒河江の大江氏などが立ち上がり村山地方が兵乱に包まれた。これに対し、伊達稙宗は義兄弟に当たる会津の蘆名盛滋の加勢を得て一万の軍で上山城を落とし、天童城などを攻撃して村山地方を平定した。しかし、大永元年伊達氏に味方した山寺の立石寺が天童頼長らによって焼き討ちされるなど、村山地方の不穏な空気は消えず、稙宗はなおも最上氏の一族を討つべく軍を進めたが、天童軍の猛攻や大崎領での反伊達氏への動きがあったため、稙宗も軍を引いた。大永2年(1522)根強い最上一族の伊達氏への反感を察した稙宗は、最上一族の中野城主中野義清の次男義守を最上氏の跡嗣とし、義清が後見することなったが、義守は当時2歳で、山形城には依然として義定の未亡人や伊達氏からの守役がいたため、伊達氏の内政干渉は続いた。
 この戦いの最上方の敗因としては、最上義定が若年で病弱であったこともあるが、義定と一族・国人衆との不和があったとされる。

 合戦地所在:山形県山形市長谷堂

1600年
(慶長5年)
9月
長谷堂城の戦い

<攻城・遭遇戦>

最上義光・
留守政景
vs
直江兼続
30,000人
 関ヶ原合戦に際し、徳川家康は会津の上杉景勝の押さえに専ら奥羽諸将に任せた。奥羽の諸将はそれぞれの拠点に帰り、そのため山形城の最上義光は孤立し、上杉方の米沢城主直江兼続の攻撃目標にさらされた。上杉領は、会津・置賜・庄内などに隔離された領土からなっており、それを連結する意味で最上領を併呑する必要があった。
 上杉方の直江軍は畑谷城(山辺町)を落とし、三万近い軍勢で村山盆地になだれ込んだ。最上の領主たちは山形城に逃げ込み、直江軍は山形城の前線基地である長谷堂城を包囲した。ここは山形・米沢を結ぶ小白府街道、狐越街道の要所で上杉軍を食い止める重要な拠点であった。
 最上の北部戦線では山形方の酒田城将・志駄義秀が最上川をさかのぼり、大山城(尾浦城・山形県鶴岡市)将・下吉忠は六十五里越えして攻め入り、最上方の谷地・白岩・寒河江の諸城を落とし、最上軍は散々破れ、長谷堂城も危機に瀕した。
 義光は長男義康を伊達政宗の元に送り、来援を請うたので、政宗は叔父の留守政景を大将とする五千余の軍勢を送ったが、形勢を観望したままで戦闘に参加しようとしなかった。しかし、援軍到来に最上側の士気は上がり城主鮭延秀綱・志村光安の奮戦もあって長谷堂城は落ちなかった。
 両軍は十五日に渡り死闘を繰り返したが、直江兼続の許に関ヶ原での徳川家康の早すぎる決着の報が届いたことから、最上領の併呑を断念し、兼続は撤退を命じた。山形より長井に至る狭い狐越街道を撤退する上杉勢を、最上勢がいっせい追撃を開始したため、壮絶な撤退戦となったが、兼続は自ら殿軍の大将となってよく防ぎながら上杉軍を撤退させた。
 南からの脅威がなくなった義光は一気に北部戦線の制圧を図り、下吉忠は谷地城に包囲され、降伏した。志駄義秀は寒河江から退却し、酒田城に籠もったが、最上軍の攻撃に落ち、義光は庄内を制圧した。こうして、上杉景勝・直江兼続主従が図った最上領の併呑は関ヶ原の戦いの徳川家康の早すぎる大勝により挫折し、こうして「東北の関ヶ原」も終わった。
 この戦いの後「関ヶ原の役」の恩賞で最上義光は出羽庄内を手に入れ、五十七万石の大大名となった。

 合戦地所在:山形県山形市長谷堂

1600
(慶長5年)
9月

1601年
(同6年)
4月
岩崎城の戦い

<攻城戦>

南部利直
4,208人
vs
和賀忠親・伊達政宗方
白石宗直
1,800人
 和賀氏は北上地方を支配した中世豪族で、小田原参陣の際豊臣秀吉の不興を買い領地没収、この地は南部氏に与えられた。伊達領胆沢の山中に潜伏していた旧領主和賀忠親は、関ヶ原合戦の折り、失地回復を企て、旧臣を集めて一揆を起こした。これを政宗の重臣白石宗直がひそかに支援した。政宗が忠親を扇動したと言われている。和賀勢は、南部勢が最上氏救援のため出陣した留守をつき、鳥ヶ崎城(花巻城)を攻めた。この報を聞き、最上在陣の南部利直は急ぎ帰国し、和賀残党を駆逐したので、和賀軍は堅城の岩崎城に籠もって抗した。
 やがて、冬季に入ったため自然休戦となり、翌慶長6年春、南部軍の城攻めが再開した。小競り合いが続いたが、放火によって城は炎上し、岩崎城は落ちた。
 この侵略戦が南部氏、さらに最上義光からも即座に徳川家康の許に達せられ、家康の詰問を受けた政宗は、やむなく和賀忠親を仙台に呼び、国分尼寺で自刃させた。
 関ヶ原合戦を前にして、奥羽では上杉氏包囲戦が展開されており、政宗との連携が不可欠と考えた家康は、旧領七郡を下す約束手形判物を与えた。およそ50万石の加増で、政宗の所領と合わせる百万石を越える。これが、「百万石のお墨付」と呼ばれた。しかし、この反乱失敗で、「百万石のお墨付」の約束は反故され、政宗には白石城を落として自分で攻め取った刈田郡のみが加増された。

 合戦地所在:岩手県北上市和賀町岩崎

<主要参考文献>

 「戦国合戦事典」(小和田哲男著・PHP文庫)、歴史群像シリーズ「戦国合戦大全」(学研)、
 歴史群像シリーズ「伊達政宗」(学研)、ビッグマンスペシャル「伊達政宗」(世界文化社)、
 「戦国の戦い〜東北・北陸編」(学研)、別冊歴史読本「戦国図誌・全国合戦大総覧」(新人物往来社)、
 別冊歴史読本・戦国合戦「古記録・古文書」総覧(学研) ほか


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