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氏名 読み方 生年 没年 一言略伝
おうの オウノ 高杉晋作愛妓    *肖像*
近江屋新助 オウミヤ シンスケ 1837 1910 74 井口新助・二代目近江屋新助・河原町三条下ル蛸薬師の土佐藩出入りの醤油商。慶応3年11月、その二階奥座敷で龍馬と中岡は襲われた。
エピソード:慶応2年11月末のみぞれ降る肌寒い日、高瀬川蛸薬師橋下ル辺で行き倒れのような浪士を助けたが、時すぎること明治17年、ときの滋賀県知事が近江屋を招いて云う「新助どん、俺でごわす」と、中井弘は新助の手を握った。 *肖像*
大石 甚吉 オオイシ ジンキチ 1831 1868 38 良信・土佐藩士。堺事件八番組小頭として堺・妙国寺で切腹(享年35才とも)。辞世 「吾もまた神の御国の種なれハ 猶いさきよきけふのおもひ出」
大石 団蔵 オオイシ ダンゾウ 1833 1896 64 祐之・薩摩時代の変名:高見弥一郎・土佐藩郷士・文久3、藩参政吉田東洋を暗殺、長州を経て薩摩に至る。奈良原繁の養子となって島津家に仕える。
大炊御門 家信 オオイミカド イエコト 1818 1885 68 公家
正親町 公董 オオギマチ キンタダ 1839 1879 41 公家
正親町三条実愛 オオギマチサンジョウ サネナル 1820 1909 90 嵯峨実愛・公家 *高名像伝
大国 隆正 オオクニ タカマサ 1792 1871 72 津和野藩国学者・平田篤胤門下。京都に報本学舎を開く。その門人に玉松操、福羽美静らがいる
大久保 忠寛 オオクボ タダヒロ 1817 1888 72 一翁・右近将監・志摩守・伊勢守・越中守
その先見の明は、文久2年松平春嶽宛の書翰に「幕府にて掌握する天下の政治を、朝廷に返還し奉りて、コ川家は諸侯の列に加わり、駿・遠・参の旧地を領し、居城を駿府に占め候儀、当時の上策なり」とあるを見ても分る。この考えが海舟、龍馬へと継承されてゆく。
文久3年横井小楠宛書翰には「坂本龍馬沢村惣之丞両人は大道わかる可く哉と見受か、話中に刺され候覚悟にて懐相開き、公明正大の道は此の外これある間敷くと、素意の趣を話だし候ところ、両人だけは手を打つ斗に解得」とある。
慶応2年龍馬が兄権平宛書翰「当時天下之人物と云うは、コ川家には大久保一翁、勝安房守」と、両者の互いの敬意の念が分る。

元治2年家督を譲って髪を切り一翁と号し、世に埋没するつもりで居た一翁だったが(参照→「一翁の詩」、皮肉なことに海舟とともに幕府の最終処理に立会う役回りとなる。

維新政府となり、海舟・一翁両者の晩年は対照的である。一方は饒舌、一方は寡黙。
一翁は「石のごとく黙した」と松岡英夫の著書にある。 *肖像*  
大久保 利通 オオクボ トシミチ 1830 1878 49 一蔵・薩摩藩士 (追々追補します。一蝶亭) *肖像*  現代百家名流奇談  *高名像伝  安政5年流謫西郷宛文書
大隈 重信 オオクマ シゲノブ 1838 1922 85 佐賀藩士・政治家・明治になって立憲改進党を結成。 *高名像伝
大河内 輝照 オオコウチ テルアキ 1848 1882 35 初名輝照のち輝声(てるな)・上野高崎藩主・慶應3陸軍奉行並となるが,翌年新政府軍にしたがい小栗忠順を追討した。
大河内 信古 オオコウチ ノブヒサ 1829 1888 60 →松平信古
大河内 正質 オオコウチ マサタダ 1844 1901 58 上総・大多喜藩主・備前守・弾正忠・豊前守・前の老中鯖江藩間部詮勝の5男・鳥羽伏見の戦いで幕軍を率いて敗れる。
大関 和七郎 オオゼキ ワシチロウ 1836 1861 25 増美・水戸藩士・150石、大番頭・桜田門外に井伊大老を襲撃の後に自訴。文久元年7月26日伝馬町獄で斬。
太田 市之進 オオタ イチノシン 1841 1871 31 直方・御堀耕助・長州萩藩士・禁門の変に藤社にたたかい、四国連合艦隊と下関に戦う。病没。
大滝 新蔵 オオタキ シンゾウ 忠恕・米沢藩士・奥羽同盟時の重臣。
太田 資始 オオタ スケモト 1799 1868 69 摂津守・備後守・遠江掛川(五万石)・井伊大老により老中に再任される。三度老中を務める。
太田 誠左衛門 オオタ セイザエモン 1818 1869 52 資忠・水戸藩家老・勅諚返納猶予の請願の為に肥田大助と上府。安藤対馬守信行に藩内不穏を話すが暴言を以て叱咤される。
大槻 磐渓 オオツキ バンケイ 1801 1878 78 仙台藩・儒者・藩校養賢堂学頭・玉虫左太夫の師。奥羽列藩同盟の思想面を支えた。
大鳥 圭介 オオトリ ケイスケ 1833 1911 79 幕臣(と言っても、播州赤穂の人、洪庵塾で蘭学、洋式兵学を学び、伊豆江川太郎左衛門に聘せられたり、蜂須賀家、島津家に仕え、幕臣になったのは慶応2年以来。きわめて新参)歩兵奉行・江戸開城に際して旧幕兵を率いて脱走、五稜郭で降伏。    *肖像* *高名像伝
大庭 恭平 オオバ キョウヘイ 1830 1902 73 文久3年2月の足利三代木像の獄門事件で主要な役割を演じたが、「京都守護職始末」に拠れば会津藩が送り込んだスパイだったという。奥羽戦争に闘い、明治まで生き、中風にたおれ独り死んだという。参考図書:高橋義夫「会津藩最後の隠密・お聞き役」
大橋 慎(三) オオハシ シン(ゾウ) 1836 1872 37 橋本鉄猪(てつい)・土佐藩士・岩倉具視に傾倒、のち鷲尾隆聚(たかつむ)の高野山挙兵に参加。
大橋 訥庵 オオハシ トツアン 1816 1862 47 正順・江戸の儒者・安藤信行襲撃の「斬奸趣意書」はその起草か?
大原 重徳 オオハラ シゲトミ 1801 1879 79 公家・文久2年の江戸への勅使。    *肖像* *高名像伝
大村 益次郎 オオムラ マスジロウ 1824 1869 46 村田蔵六・長州藩士。緒方洪庵に学ぶ。のち幕府講武所教授、のち帰国して長州の兵制改革。新政府軍防事務局判事・彰義隊を攻めて東叡山を焼く。    *肖像* *高名像伝
大山 格之助 オオヤマ カクノスケ 1825 1877 53 綱良・薩摩藩士・貧家の例でお茶坊主より勤め始める。示現流の達人という。寺田屋事変の上意討ちのメンバー・奥羽鎮撫総督府参謀を世良修蔵と共につとめる。のち西南戦争で処罰される。 *高名像伝
大山 彦太郎 オオヤマ ヒコタロウ 1838 1867 →中岡慎太郎
大山 弥助 オオヤマ ヤスケ 1842 1916 75 巌・薩摩藩士・    *肖像*
大脇 興之進 オオワキ コウノシン 1826 1905 81 順若(まさより)・土佐藩士・安政5年3月、将軍継嗣問題につき、長野主膳も入京し朝廷工作を行うを聞き、容堂の密命を受け江戸より京都にはいる。橋本左内と連携をとった。4月1日の夜、三条内大臣実万にその寝所で謁見したりする。その当時の変名は大橋渡之助。
大童 信太夫 オオワラ(ベ) シンダユウ 1832 1900 69 安賢・仙台藩士・天保13年藩主慶邦の近侍より進み、江戸留守居役また京都でも宮廷交渉を担った当時の実力者。戊辰戦後、但木・坂が佐幕戦の首謀者ということで罪に処せられた後、藩内に陰の謀者こそ大童であるから断罪すべしの声が上がった。黒川剛と変名して東京に潜伏、福沢諭吉の庇護を受けた。 参考1:i・自伝より  参考2:仙台戊辰史より
岡 櫟仙院 オカ レキセンイン 将軍家定侍医・「御中陰明にて、櫟仙院御吟味、御取かかり、同人を苦問候わば、水老申付け毒殺の邪謀……」(間部詮勝)
岡内 俊太郎 オカウチ シュンタロウ       土佐藩士・慶應3年10月、坂本竜馬と土佐に帰国し藩の執政、大監察を説得して、12月に藩を上洛に導く。
小笠原 繁之助 オガサワラ シゲノスケ       長行の長男
小笠原 唯八 オガサワラ タダハチ 1829 1868 40 茂敬・土佐藩士・容堂に扈従。鎌田梅屋敷事件の活躍で有名。この頃より藩内攘夷派の上士と下士を中心とする勤王党との対立が始まり、のち野根山屯集23士の全員斬罪の実行などにつながる。会津攻撃で戦死。
小笠原 忠幹 オガサワラ タダヨシ 1827 1865 39 小倉藩主
小笠原 長常 オガサワラ ナガツネ 織部・長門守・筑後守・幕臣・安政5年京都町奉行、大獄に際して辣腕をふるう。
小笠原 長行 オガサワラ ナガミチ 1822 1891 70 唐津藩世子・世子のまま老中となり、生麦事件賠償、率兵上京。小倉落城。東北に戦い、五稜郭では脱兵。    *肖像*
岡田 以蔵 オカダ イゾウ 1838 1865 28 土佐・武市瑞山道場で一刀流を修行。武市半平太に気に入られ京都で暗殺剣をふるう。賀川肇を斬って慶喜・千種・岩倉を脅迫。池内陶所を暗殺。人切り以蔵と呼ばれた。元治元年洛外追放のところを土佐藩庁に捕らわれ投獄された。拷問の末、志士について自白することが多かった。慶應元年閏5月、瑞山切腹のとき同じく、無宿人銕蔵として斬首され、その首は雁切河原に晒される。「郷士岡田儀平みうち同苗以蔵事、出奔無宿銕蔵、京都御構入墨者以蔵、於牢家打首、於雁切獄門、以後掛捨」
緒方 洪庵 オガタ コウアン 1810 1863 54 適々斎・蘭医・適塾のことは「福翁自伝」に詳しい。
岡田 式部 オカダ シキブ 1823 1864 42 →冷泉為恭
岡部 豊常 オカベ トヨツネ 1865 42 備後守・土佐守・幕臣・嘉永6年京都東町奉行所・終始井伊直弼側の立場で行動した
岡部 長常 オカベ ナガツネ 1825 1866 42 駿河守・幕臣(大目付)・安政2年長崎へ目付として行く。同4年から文久元年まで長崎奉行。文久元年外国奉行として赴任の途中尊攘派に襲撃される。慶應元年、軍艦奉行。
岡部 三十郎 オカベ サンジュウロウ 1818 1861 44 水戸藩士・井伊大老襲撃に参画、見張役を果たしたのち上国、目的を果たせず、のち江戸で捕らえられ、文久元年7月26日伝馬町獄で斬。
岡部 忠蔵 オカベ チュウゾウ 1822 1865 44 水戸藩士・反三左衛門。
岡見 留次郎 オカミ トメジロウ 1842 1864 23 水戸藩士・文久元年東禅寺襲撃・文久3年大和の挙兵に参加。
岡本 吉之進 オカモト キチノシン 1817 1865 49 長州藩士・恭順派
岡本 健三郎 オカモト ケンザブロウ 1842 1885 44 土佐藩士
岡本 半介 オカモト ハンスケ 1811 1898 88 宜迪・彦根藩家老。彦根藩尊攘派。直弼が斃れたのち藩主直憲15歳に代って大獄関係者として家老木俣清左衛門・庵原助左衛門を隠居・慎、長野主膳・宇津木六之丞を斬首とし善後処理にあたる。
岡本 保純 オカモト ヤスズミ 1812 肥後守・公家・天誅を予告され身を潜める。
小川 弘 オガワ ヒロシ 1816 1870 55 越後蒲原郡島潟村大庄屋・慶應4戊辰に際しては農民を動員し藩主直正が米沢藩に質となるのを防いだ。
小河原 秀之丞 オガワラ ヒデノジョウ 1831 1860 30 宗親・彦根藩士・側小姓・桜田門外事件当日、御供目付闘死した。
沖田 総司 オキタ ソウジ 1844 1868 25 新撰組隊士
ぉ吉 オキチ 1841 1890 50 ハリス侍妾
興津 蔵人 オキツ クランド 1814 1886 73 良能・水戸藩士
大給 乗謨 オギュウ ノリカタ 1839 1910 72 後年、恒(ゆずる)と称す。三河奥殿藩主、文久3年請うて信濃田野口に移り日本最初の五稜郭を築城。慶應元年陸軍奉行、慶應2年老中格陸軍総裁。慶応3年11月11日、慶喜は大給乗謨と稲葉正巳に直書を授け、在府の芙蓉の間詰め諸有司の沈静化を命ずる。慶応4年5月竜岡藩とと改称。
奥平 昌邁 オクダイラ マサユキ 1855 1884 30 中津藩主・美作守・父は宇和島藩伊達宗城
小倉 衛門介 オグラ エモンノスケ 1847 1915 69 →馬屋原二郎・長州
小倉 正義 オグラ マサヨシ 但馬守
小栗 忠順 オグリ タダマサ 1827 1868 42 豊後守・上野介。通称:又一は父祖代々のもの。残っている写真を見ても額の大きく張りでた異相にみえるが、 幕末三度の勘定奉行など勝海舟と表裏の関係で登用されたり罷免されたりした。横須賀につくった造船所は大英断といってよい。 慶応4年正月免職されるが、将軍による直(ぢき)の罷免は上野介をもってして最初で最後。 参考書としては、佐藤雅美「大君の通貨」がが面白い。大島昌宏「罪なくして斬らる」は思い入れが多すぎるようである。 サイト内参照: 最後の勝手掛幕末三俊三傑三俊年表遣米使節 
小栗を切った原保太郎(園部藩士、のち山口県知事、勅撰議員昭和11年92才で没)の 回顧談が残っている。 上野介と共に斬られた家来たち  好敵手だった勝海舟は後年、こう述べている。  *肖像*
小河 一敏 オゴウ カズトシ 1813 1886 74 弥右衛門・豊後 岡(中川久昭/70,440石)藩士・藩内の勤王派。文久3年藩内勤王派16人と上坂して薩摩藩久光を盟主とする一挙に加わらんとするが寺田屋事件で頓挫。明治19年「王政復古義挙録」を残す。 参照:寺田屋事件と小河一敏  *高名像伝
尾崎 三良 オザキ サブロウ 1842 1918 77 戸田雅楽・実美側近・文久3年8月18日の政変で実美に従って長州へ。龍馬と新政治機構を謀る。
尾崎 豊後 オザキ ブンゴ 為貴・水戸藩士
尾佐竹 猛 オサタケ タケキ 1880 1946 67 幕末遣外使節物語
小関 三英 オゼキ(コセキ)サンエイ 1787 1839 53 鶴岡の人・蘭学者
尾高 長七郎 オダカ チョウシチロウ  1836 1868 33 渋沢栄一従兄
尾高 惇忠 オダカ アツタダ 1830 1901 72 藍香・渋沢栄一の師
小田 彦三郎 オダ ヒコサブロウ 1833 1862 30 水戸・坂下門外の変
落合 直亮 オチアイ ナオアキ 1827 1894 68 駒木野の人
尾寺 新之丞 オデラ シンノジョウ 1827 1901 長州藩士・松陰門下
ぉ登勢 オトセ     旅籠寺田屋女将 *肖像*
乙女 オトメ 1832 1879 48 坂本龍馬姉 *肖像*
小野 贇男 オノ アヤオ 1842 1865 24 →藤田小四郎変名
小野岡 義礼 オノオカ ギレイ 1913 秋田藩家老
小野 権之丞 オノ ゴンノジョウ 1818 1889 72 義忠・会津藩士
小野 石斎 オノ セキサイ 1824 1910 87 述信・長州藩士
小野 善助 オノ ゼンスケ 1831 1887 57 大坂の豪商
小野 友五郎 オノ トモゴロウ 1817 1898 82 広胖・笠間藩士のち幕臣・咸臨丸乗員。勝海舟「海軍歴史」によれば小野は航海中正確な天測などで咸臨丸の位置確認につとめ、太平洋横断成功に顕著な功績があった為、他の乗員とは別に褒賞があった。「万延元年5月26日 常々測量等厚く心がけ、今度亜米利加国へ御用の為め差し遣はれ候ところ、航海中も格別骨折り、学業よろしく仕り候段、御聴きに達し候。これより、御序の節御目見得仰せ付けらるべく候。 同年6月朔日、御目見得相済。」
帰国後、軍艦頭取にすすみ、のち咸臨丸艦長として小笠原諸島辺の測量を行う。
慶應3年勘定奉行並、大政奉還にあたっては大坂より幕府金蔵より18万余両を積んで帰府した。維新の後は辛酸の末、千葉に製塩場を経営した。
小野寺 慵斎 オノデラ ヨウサイ   1861 土浦藩士・兵学者・桜田門外事件の策謀に関わる。土浦で自刃。
小幡 友七郎 オバタ トモシチロウ 1829 1864 36 水戸・宍戸藩士・水戸・宍戸藩士・松平大炊頭頼徳(宍戸藩主)が田沼意尊・幕府軍総督のために拘禁され(のち切腹)、家臣として救えなかったことを悔やみ切腹した。
小幡 彦七 オバタ ヒコシチ 1817 1906 90 高政・長州藩士
おみよ オミヨ 周布正之助下女
折田 要蔵 オリタ ヨウゾウ 1825 1897 73 薩摩藩士
ぉ竜 オリュウ
オリョウ、とも
1841 1906  66 坂本龍馬の妻、元治元年5月内祝言。「右女ハまことにおもしろき女ニて月琴をひき申し候」と、慶應元年9月9日の乙女乳母おやべ宛の龍馬の書簡。慶応2年竜馬が寺田屋で襲撃を受けたとき、「捕手の来たことを、湯からぬけ出て裸体のままで二階の坂本にしらせた」(新選組始末・子母沢寛)また土佐藩佐佐木高行は後年、「八月十四日姫島ノ北方ニテ明ヲ待チ、五ツ時頃下ノ関ニ碇泊ス、才谷ノ案内ニテ、稲荷町大坂屋ニ休息、才谷ノ妻ノ住家ニ才谷同伴、同妻ハ有名ナル美人ノ事ナレ共、賢婦人ヤ否ハ知ラズ、善悪共為シ兼ヌル様ニ被思タリ」(佐佐木高行:保古飛呂比)……???と有名な部分。
「大酒に溺れて諸方を流浪し、明治十八年横須賀へ来て、三十九年一月十五日、歳六十六で貧困の底に病没した。墓は浦賀町の信楽寺というにある。」と、前出「新選組始末」。 *肖像*
お連 オレン 1838 1861 24 清河八郎の妾。文久元年清河が人を殺して逃亡した際、捕らわれ拷問で死す。八郎悲嘆して「さくら花たとひ散るともますらおの袖に匂いをとどめざらめや」
尾張 玄同 オワリ ゲンドウ 1831 1884 54 →徳川茂徳
恩地 登美女 オンチ トミ 1844 1903 60 富美・長州潜伏中の中山忠光寵愛の女性。忠光が殺されたときには妊娠していた。

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