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倫理学



◇洋書(著者ABC順)

◆Aristoteles. Nicomachean Ethics.
(= 1971 高田三郎 訳『ニコマコス倫理学 上・下』 岩波書店)
(= 2002 朴一功 訳『ニコマコス倫理学』 京都大学学術出版会) ――

◆Barry, Norman P. (1986). On Classical Liberalism and Livertarianism The Macmillan Press Ltd.
= 足立幸男 監訳 『自由の正当性――古典的自由主義とバタリアニズム』 木鐸社 ISBN4-8332-2148-9

◆Bentham, Jeremy.. (1789). An Intoroduction to the Principles of Morals and Legislation
=1967 山下重一 訳 「道徳および立法の諸原理序説 」『世界の名著38 ベンサム』中央公論社 所収)

◆ベラー、ロバート N ( ) 『心の習慣――アメリカ個人主義のゆくえ』

◆ベラー、ロバート N (=2000) 『善い社会――道徳的エコロジーの制度論』 みすず書房

◆Cohen, G. A. (1995). SELF-OWNERSHIP, FREEDOM, AND WEQUALITY. Maison des sciences de l'Homme and Cambridge University press.
= 2005 松井暁・中村宗之 訳 『自己所有権・自由・平等』 青木書店

◆Cooper, David, E.(ed.). (1997) ETHICS The Classic Readings. BLACKWELL Publisher.

◆Dewey, John., & Tufts, James H., (1908,1932). Ethics, Henry Holt and Co. New York.
=1972 久野収 訳 『社会倫理学 (世界の大思想38 デュウイ=タフツ)』 河出書房新社

◆Frankena, William A., (1963). Ethics
=1970,1975 杖下隆英 訳 『改訂版 倫理学』 培風館

◆Friedman, Milton. (1962=1975). CAPITALISM AND FREEDOM. The University of Cicago.
= 熊谷尚夫・西山千明・白井孝昌 共訳 『資本主義と自由』 マグロウヒル好学社)

◆Friedman, Milton and Friedman, Rose., (1979,1980). FREE TO CHOOSE A personal Statement. New york and London: Harcourt Brace Jovanovich.
=1980 西山千明 訳『 選択の自由 』日本経済新聞社

◆George, Susan. & Wolf, Martin. (2002). La Modialisation Liberale. Grasset & Fasquelle.
= 2003,2003 杉村昌昭 訳 『徹底討論 グローバリゼーション 賛成 反対』 作品社

◆Hochshild, Arlie., (1983). THE MANAGED HEART: COMMERCIALIZATION OF HUMAN FEELING. the University of California Press.
=2000 石川准・室伏亜希 訳 『管理される心――感情が商品になるとき』 世界思想社

◆Johonson, Deborah G., (2001). Computer Ethics (3rd Ed.) Pearson Education Inc., Prentice Hall.
=2003 水谷雅彦・江口聡 監訳 『コンピュータ倫理学』 オーム社

◆Kant, Immanuel. (1785). GRUNDLEGUNG ZUR METAPHYSIK DER SITTEN.
=1960 野口又夫 訳『人倫の形而上学の基礎づけ』 所収 野口又夫 監修『世界の名著32 カント』中央公論社 p.223-312
=1972 篠田英雄 訳 『道徳形而上学原論』 岩波書店 岩波文庫 青625-1)

◆Kuhse, Helga., (1997). CARING: NURSES, WOMEN AND ETHICS. Blackwel Publishers limited.
= 2000 竹内徹・村上弥生 監訳 『ケアリング――看護婦・女性・倫理』 メディカ出版

◆Locke, John. (1690). TWO TREATIES OF GOVERNMENT.
=1968 鵜飼信成 訳『市民政府論』 岩波文庫

◆Macintyre, Alasdair., (1984). AFTER VIRTUE A Study in Moral Theory Second Edition,University of Norte Dame Press,Notre Dame,Indiana.
=1993 篠崎榮 訳『美徳なき時代』 みすず書房

◆Mill, John Stuart. (1859). On Liberty.
=1967 早坂忠 訳「自由論」 『世界の名著38 ベンサム J.S.ミル』中央公論社 p.211-349.
,1971 塩尻公明・木村健康 訳 『自由論』 岩波書店

◆More, Thomas. (1516=1957). UTOPIA.
= 平井正穂 訳『ユートピア』 岩波書店

◆Rothbard, Murray. (1998=2003). THE ETHICS OF LIBERTY. New York University Press.
= 森村進・森村たまき・鳥沢円 訳 『自由の倫理学――リバタリアニムズの理論体系』 勁草書房

◆Rousseau, Jean-Jacques.
= 1954 桑原武夫・前川貞次郎 訳 『社会契約論』 岩波書店

◆Sen, Amartya. (= 2002) 大石りら 訳 『貧困の克服――アジア発展の鍵は何か』 集英社

◆Singer, Peter. (1993). Practical Ethics (2nd ed.) Cambridge University Press.
(= 1999 山内友三郎・塚崎智 監訳 『実践の倫理 [新版]』 昭和堂)

◆Stiglitz, Joseph E. (1997). ECONOMICS. Norton & Company, Inc.
= 1999 藪下史郎・ 秋山太郎・金子能宏・木立力・清野一治 訳 『スティグリッツ入門経済学 第2版』 東洋経済新報社

◆Terkel, Studs. (1972,1974). WORKING. La Theatre Works.
= 1983 中山容 他訳 『仕事!』 晶文社

◆Winkler, Earl R. & Coombs, Jerrold R. (1993). Applied Ethics A READER,BLACKWELL,

◆Whitbeck, Caroline. (1998). ETHICS IN ENGINEERING PRACTICE AND RESEARCH. Cambridge University Press.
= 2000 札野順・飯野弘之 訳 『技術倫理1』 みすず書房)

◆Walzer, Micheal (1983). Sheres of Justice :A Defrence of a Pluralism and Equality. Basic Boocks Inc. Publishers. (=1999 山口晃一 訳 『正義の領分――多元性と平等の擁護』 而立書房)

◇日本語文献(著者あいうえお順)




あ行

◆天野明弘・大江瑞絵・持続可能性研究会 2004 『持続可能社会構築のフロンティア』 関西学院大学出版会

◆稲葉振一郎 2004 『教養としての経済学』 東洋経済新報社

◆井上達夫 1986 『共生の作法 会話としての正義』 創文社

◆岩井克人 1992 『ヴェニスの商人の資本論』 筑摩書店ちくま学芸文庫

◆岩井克人 1997 『資本主義を語る』 筑摩書店ちくま学芸文庫

◆宇沢弘文 1974 『 自動車の社会的費用』岩波書店

◆遠藤弘・伴博 編 2001 『現代倫理学の展望 第三版』 勁草書房

か行

◆梶井厚志・松井彰彦 2000 『ミクロ経済学――戦略的アプローチ』 日本評論社

◆加藤尚武 1994 『応用倫理学のすすめ』 丸善

◆加藤尚武 1996 『現代を読み解く倫理学――応用倫理学のすすめ2』 丸善

◆川本隆史 1993 「応用倫理学の挑戦」『理想』652 岩波書店

◆川本隆史 1995 『現代倫理学の冒険』創文社

◆川本隆史 1997 『ロールズ――正義の原理』講談社

◆黒田光太郎・戸田山和久・伊勢田哲治 2004 『工学倫理ノススメ 誇り高い技術者になろう』 名古屋大学出版会

◆後藤玲子 2002 『正義の経済哲学――ロールズとセン』 東洋経済新報社

さ行

◆斎藤了文・坂下浩司 編 2001 『はじめての工学倫理』 昭和堂

◆佐高信 編 1996 『会社の民俗 現代の世相2』 小学館

◆塩原俊彦 2003 『ビジネス・エシックス』 講談社現代新書1696

◆渋谷望 2003 『魂の労働 ネオリベラリズムの権力論』 青土社

◆清水幾太郎 2000 『倫理学ノート』 講談社

◆清水克彦 2004 『社会的責任マネジメント――企業の持続可能な発展と安全確保』 共立出版

◆社団法人地盤工学会 2002『「君ならどうする」 建設技術者のための倫理問題事例集』

◆杉本泰治・高城重厚 2002 『第二版 大学講義 技術者の倫理 入門』 丸善

た行

◆高橋久一郎・川本隆史 編 2000『応用倫理学――二正面作戦のためのガイドライン』 ナカニシヤ出版

◆高橋久一郎 編 2004 『岩波 応用倫理学講義7 問い』 岩波書店

◆立岩真也 1997a 「分配する最小国家の可能性について」 『社会学評論』493 p.78-97.

◆立岩真也 2004 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』 岩波書店

な行

◆中谷猛・足立幸男 編 1994 『概説 西洋政治思想史』ミネルヴァ書房

は行

◆藤本温編 著, 下川智之・下野次男・南部幸久・福田孝之 2002 『技術者倫理の世界』森北出版

◆藤原保信・飯島昇蔵 編著 1995 『西洋政治思想史TU』 新評論

ま行

◆丸山徳次 編著 2004 『岩波 応用倫理学講義2 環境』 岩波書店

◆溝口宏平・佐藤康邦 編著 1998 『モラル・アポリア 道徳のディレンマ』叢書 倫理学のフロンティアT ナカニシヤ出版

◆森村進 2001 『自由はどこまで可能か――リバタリアニズム入門』 講談社

◆森村進 編著 2004 『リバタリアニズム読本』 勁草書房

や行

わ行

◆鷲田清一 1996『だれのための仕事――労働VS余暇を超えて 21世紀問題群ブックス9』 岩波書店

◆鷲田清一 2001『AERA Books 働く女性のための哲学クリニック』 朝日新聞社

 

【その他】

◆Bouveresse, Jacques. (1999) PRODIGES ET VERTIGES DE L'ANALOGIE, Raisons d'Agir
= 2003 宮代康丈 訳 『アナロジーの罠――フランス現代思想批判』 新書館)

◆佐藤信夫 1992 『レトリック感覚』 講談社

◆高橋明・竹治康公 2004 『経済学者に騙されないための経済学入門』ナカニシヤ出版

◆中島義道 2001 『働くことがイヤな人のための本――仕事とは何だろうか』 日本経済新聞社

◆松浦好治 1992 『法と比喩』法哲学叢書5 弘文堂

◆吉見俊哉 (2001) 『知の教科書 カルチュラル・スタディーズ』 講談社

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◆Mill, John Stuart. (1859). On Liberty.
=1967 早坂 忠 訳『自由論』『世界の名著38 ベンサム J.S.ミル』中央公論社 p.211-349.
,1971 塩尻 公明 木村健康 訳 『自由論』 岩波書店


◆Mill, John Stuart., (1859). On Liberty.
(
= 1971 塩尻公明・木村健康 訳 『自由論』 岩波書店 岩波文庫 白116-6 288P))(=1967 早坂忠 訳 「自由論」 関嘉彦 責任編集 『世界の名著38 ベンサム J.S.ミル』 中央公論社) 目次

 
第一章 序説
第二章 思想および言論の自由について
第三章 幸福の諸要素の一つとしての個性について
第四章 個人を支配する社会の権威の限界について
第五章 適用


訳注
訳者あとがき
解説
あとがき

 

 この論文の主題は、哲学的必然という誤った名前を冠せられている学説に実に不幸にも対立せられているところの、いわゆる意思の自由ではなくて、市民的、または社会的自由である。換言すれば、社会が個人に対して正当に行使し得る権力の本質と諸限界とである。(p.9)

 この論文の目的は、用いられる手段が法律上の刑罰というかたちの物理的な力であるか、あるいは世論の精神的強制であるかいなかにかかわらず、およそ社会が強制や統制のかたちで個人と関係するしかたを絶対的に支配する資格のあるものとして一つのきわめて単純な原理を主張することにある。その原理とは、人類がその成員のいずれか一人の行動の自由に、個人的にせよ集団的にせよ、干渉することが、むしろ正当な根拠を持つとされる唯一の目的は、自己防衛(self-protection)であるということにある。また、文明社会のどの成員にたいしてにせよ、彼の意思に反して権力を行使しても正当とされるための唯一の目的は、他の成員に及ぶ害の防止にあるということにある。(p.24)

 意見の発表を沈黙させることに特有の害悪は、それが人類の利益を奪い取ることなのである。すなわち、それは、現代の人々の利益を奪うと共に、広大の人々の利益をも奪うものであり、また、その意見を解放している人々の利益を奪うことはもとより、その意見に反対の人々の利益をさらに一層多く奪うものである、ということである。もしもその意見が正しいものであるならば、人類は誤謬を棄てて真理を取る機会を奪われる。また、たとえその意見が誤っているとしても、彼らは、コレとほとんど同様に重大なる利益−即ち、真理と誤謬との対決によって生じるところの、真理の一層明白に認識し、一層鮮やかな印象を受けるという利益−を失うのである。(pp.36-37)

 そこでわれわれは次ぎに、同じ理由によって人間は、自己の意見を実行する自由をももたねばならないのではないか、という問題を検討することにしよう。−但し、ここにいう自己の意見を実行する自由とは、自分自身の責任と危険とにおいてなされる限り、同胞たちによって肉体上または精神上の妨害を受けることなく、自己の意見に自己の生活に実現していくことの自由という意味である。(p.113 )

 いかなる種類の行為であろうとも、正当の理由なしに他人に害を与える行為は、これに反対する世論によって、また必要な場合には人類の積極的な干渉によって、制圧されてよいものであり、いssぷ重大なる場合には、絶対に必要なこととして制圧されねばならないのである。個人の自由は、この程度までは制限されなくてはならない。しかし、もしも彼が、他人に関係のある事柄について他人に干渉することを慎み、たんに自分自身に関する事柄について自分の成功と判断とに従って行為するに止まっているならば、彼が彼自身の責任においてその意見を何の干渉も受けずに実行に移すこともまた、意見が自由でなければならぬという、まさにそれと同じ理由によって証明されるのである。(p.114)

 ある個人の行為が、他人の有する法定の権利を侵害するという程度には至らないにしても、それが他の人々にとって有害であり、あるいは他人の幸福にたいする当然な配慮を欠いている、という倍はありうる。このようなばあいには、その反則者を法律によって処罰することは正当ではないとしても、世論によって処罰することは正当であろう。或る人の行為の何らかの部分が他人の利益に有害な影響を及ぼすに至るや否や、社会はこのような行為にたいして裁判権を有つに至るし、また、このような行為に干渉することによって一般の福祉が促進せられるか否かという問題が、広く議論の対象となるのである。しかし、或る人の行為が彼自身以外の何人の利益にも影響せず、または他の人々がそれを好まない限り彼らの利害に影響を及ぼさないで済む場合には(関係者がすべて成年に達しており、また普通程度の理解力を持っているものとして)、このような問題を取りあげねばならぬ理由は少しも存在しないのである。すべてこのような場合には、その行為を為しまたその行為の結果にたいして責任をとる完全な自由−法律的社会的自由−が存在しなくてはならない。(p.152)

ド・トックヴィル氏は、その最後の重要な著作の中で、現代のフランス人たちが、すぐ前代の人々と比べてさえいかに多くの相互に類似しているかについて買ったっている。同じことが、イギリス人については、はるかに強く言えるであろう。すでに引用したヴィルヘルム・フォン・フンボルトのことばの中で、彼は、二つのものをあげ、それらが人々を相互に似させないために必要であるという理由から、その二つを人間発展のための必要条件としている。すなわち、自由および境遇の多様性がそれである。この2つの条件のうち、第二のものは、この国においては、日に日に少なくなっている。異なった階級や個人を取り巻いて、彼らの性格を形成する環境は、日ごとにますます同化されつつある。以前は身分をことにする人々、近隣をことにする人々、業務や職業を異にする人々が、それぞれ異なった世界と呼びうるものの中で生活していた。だが、今日では、彼らは大部分と同じ世界に住んでいる。相対的にいえば、彼らは、今日、同じものを読み、同じものを聞き、同じものを見、同じ場所に行き、同じ対象に希望と不安と向け、同じ権利と自由を持ち、そsれらを主張する同じ手段を持っている。まだ残っている地位のそういは大きいけれども、それは、なくなってしまったものに比べれば、無に等しい。そして同化はなおも進行中である。(早坂訳 p.299, 塩尻 木村訳 p.147)

 二つの格率とは、第一に、個人は、彼の行為が彼自身以外の何人の利害とも無関係である限りは、社会に対して責任を負っていない、ということである。他人による忠告、教示、説得、および他の人々が彼ら自身の利益のためにその必要があると考える場合に彼を回避することは、社会がその個人の行為に対する嫌悪や非難を正当に表現するための、それしかない手段である。第二には、他人の利益を害する行為については、個人は責任があり、また、社会が、その防衛のためには社会的刑罰または法律的刑罰を必要とするという意見である場合には、個人はそのいずれかに服さねばならないであろう、ということである。
 まず最初に、他人の利益に損害を与えること、もしくは損害を与えるおそれがあるときのみ社会の干渉が正当化されるからといって、それ故に、そのことは社会の干渉は常に正当化される、とは断じて考えてはならないのである。多くの場合において、個人は正当な目的を追求することによって、必然的に−したがって合法的に−他人に苦痛や損失を与えたり、また、他人が尤もな理由から獲得したいと望んでいる利益を途中で奪い取ることがある。このような個人間の利害の対立は、しばしば悪い社会制度から生ずるのであるが、しかし、このような制度が存続している間は避けることができないものである。(pp.189-190)

 商業または、商品生産に対する制限は、いうまでもなく束縛である。そして、すべての束縛は束縛としてはひとつの害悪である。しかし、今問題にしている束縛は、行為のうち社会が束縛する権限を持っている部分だけにかかわるのであって、この束縛によって生じさせようと欲した成果を事実上生み出さないから−という理由によってのみ、それは間違いなのである。個人的自由の原理は、自由公益の理論とは関係ないものであるから、この理論の限界に関して発生する諸問題の大多数にたいしても関係を持たない。例えば、混ぜものによる商品低下の詐欺を防止するためには、どの程度の社会的統制が許されるのか、危険な職業に雇用されている労働者を保護するための衛生上の予防策または設備は、どの程度まで雇い主に強制されなくてはならないか、というような問題がそれである。これらの問題は人民を自由に放任することは他の事情にして変わりなしとすれば(cœtris paribus)人民を問う背することよりも常に利益が多い、という限りでのみ、自由に関する考慮を含んでいるに過ぎない。しかし、右のような目的のために人民を統制することが正当でありうるということは、原理上これを否定することはできない。他方において、商業にたいする干渉と関係のある諸問題のなかには、本質的に自由の問題出るところのものがある。例えば、既に言及したメイン法や、品にたいするアヘンの輸入禁止や、毒薬販売の制限や、要するに、干渉の目的が特定の商品の獲得を不可能または困難ならしめることにあるすべての場合がそれである。これらの干渉は、生産者又は販売者の自由にたいする侵害としてではなく、購買者の自由にたいする侵害として反対されるべきものである。(p.192)

 自由の原理は、自由を棄てることもまた自由でなくてはならぬ、というようなことを要求しえない。自由の譲渡を許されるということは自由ではない。これらの理由−その力はこの特殊の例において特に顕著であるが−は、明らかに、もっとはるかに広範な範囲に適用されうるものである。ただ、やむを得ない人生の必要によって、いたtると頃に、これらの理由にたいする一つの制限がおかれている。人生はわれわれに、もちろん自由を放棄せよとは求めないが、自由にたいするあれこれの制限を受諾するように絶えず要求しているのである。(p.206)

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◆Mill, John Stuart. (1871). Principles of political economy, with some of their applications to social philosophy (7th). (= 1959 末永茂喜 訳 『経済学原理 岩波書店 岩波文庫白116-1, 362P)

目次

訳者より
序文
緒論

第一篇 生産


第一章 生産要件について
第二章 生産要因としての労働について
第三章 不生産的労働について
第四章 資本について
第五章 資本に関する根本的諸命題
第六章 流動資本と固定資本とについて
第七章 生産諸要因の生産性の大小を決定する原因について
第八章 協業、すなわち労働の結合について
第九章 大規模生産と小規模生産とについて
第十章 労働増加の法則について
第十一章 労働増加の法則について
第十二章 土地からの生産増加の法則について
第十三章 前記の法則からの帰結

第二篇 分配

第三篇 交換

第四篇 生産および分配に及ぼす社会の進歩の影響

第五篇 政府の影響について

 「多数の著述家たちは、労働の結果がある物質的対象の形をとって感知することができ、人から人へと譲渡することができるものでなくては、その労働を生産的労働に分類しようとしなかった。他の著述家(マカロック氏やセー氏もその一人である)は、不生産という言葉は誹謗の言葉であるとみなし、およそ有用なりとみられる労働、すなわち費用に値する福利もしくは快楽を生ずる労働には、不生産的という名称を付してはならないとしている。官吏、陸海軍人、医師、弁護士、教師、音楽家、舞踏家、俳優、家事使用人等の労働は、いやしくもこれらの人々が現実的に給料に相当する仕事をなし、その人数もその仕事にとって必要とされる以上に多くないばあいには、不生産という言葉をもってこれを『汚辱』すべきではない、と、これらの著述家たちは言っている」(P99-100)

 「労働は物を創造するものではなく、効用を創造するものである。またわれわれは、ものそのものを消費しうるものでもなければ、破壊しうるものでもない。これらの物を構成する物質は、多かれ少なかれ形を変えて存続するのであって、現実的に消費されたものは,それらの物がそのために使用されたところの目的に適した、それの性質のみである」(P101)

 「(…)ある物が生産されるという意味を含んでいるが、このある物は、普通の解釈では効用ではなくて『富』であると思われる。生産的労働とは,富を生産する労働という意味である」(P102)

 「物が生産されたのち、使用されるまでのあいだに多少の期間とそれを保存しうるのでなくては、そのものは富と見えることができない、と私は思う。なぜかといえば、たとえこの種の物がいかに多量に生産され享受されようとも、これらのものに恵まれた人は富裕ともならず、境遇が改善されもしないからである」(P105)

 「私は本書において富みについて述べるときには、富とはひとり物質的と見と呼ばれるもののみであり、生産的労働とは種々なる勤労のうちひとり物質的な諸対象に体現される効用を生産するもののみであると介することにしよう。(…)よし直接的成果としては物質的生産物を生み出さない労働であっても、それが終局の結果として物質的生産物の増加をきたすかぎりは、それを生産的労働と呼ぶのを拒まないであろう」(P105)

 「[物質的生産物を生み出さない労働であっても]このような労働は(…)間接的または鵜飼的に生産的名労働であるということができよう。この種の労働は、社会の物質的生産物をいっそう裕福ならしめるという点ですべて一致しており、物質的の富を増加されるもの、または増加させる傾向をもつものである」(P106)

 「およそ蓄積せられた永続的な享楽手段の蓄蔵を増すことなく、その場その場の享楽に終わってしまうところの労働は、経済学の用語法ではいずれも不生産的労働である。また(…)福利のうちに物質的生産物が含まれていないところの労働、このような労働はこれを不生産的労働の部類にいれなければならぬ。友人の命を救う労働でも、この友人が生産的労働者であって、その生産するところの物が消費するものより多いというのでなければ、それは生産的労働ではない」(P108)

 「もっとも不生産労働によって、社会が裕福になるということはないけれども、個人が裕福になりうるものである。」(P109)

 「豊かな国においてその年年の生産物の大部分が不生産的消費の需要を満たしているのを見て悲しむのは、大きな間違いというべきである。社会がその必需品の中から多くのものを割いて、これを人生の歓楽やあらゆる高級な用途にあてうるということは、何も悲しむに当たらないことである。一社会の生産物のこの部分は、その社会の単なる生存上の必要以外のあらゆる需要を満たすべき基金であり、社会の享楽手段の尺度であり、生産的ならざるすべての目的を達成する値からの尺度である。」(P115-6)

 会社組織の諸条件における完全な自由ということは、なかんずく労働所階級の境遇の改善および人間的向上に関連して、欠くべからざることとなるものである。前のある章に記した労働者の協同組合のような諸団体は、労働者自身の道徳的資質により彼らの社会的解放を遂行するための、もっとも有力な手段である。また会社設立の自由は、ひとり事業成功の実例を提供するがゆえにのみ重要であるわけではない。成功はしないであろうが、ただその失敗によって実際の体験以外のいかなるものが与えるよりももっと印象の深い教訓を与えるであろうような試みのためにも、それと全く同じように重要なものである。社会改良の議論であって、実験的検証を行なって、その価値をはかることができるものは、すべてこの検証を受けることを許されるべきである(5巻 p.218)

 いまかりにある数人の人々が商業関係或いは産業関係にある事実を営むために会社を組織しようとし、かつその会社の構成員は出資した資本の額以上には責任を負うとしないということを自分たちの間でも申し合わせ、また取引する相手方にもそれを声明するとした場合、そもそも法律がこのような行為に対して反対をとなえ、この人たちが拒否する無限責任をこの人たちに負担せしめる理由がなにかあるだろうか。誰のためにそうするのか。会社の構成員自身のためではない。けだし彼らは責任の制度によって利益をうけ、保護を受ける人たちだからである。したがって、それは第三者のためでなければならない。すなわち、その会社と取引をなすことがあるであろう人々、そして出資された資本が支払いに足りる額以上の負担をその会社が負うこともありうる人々−このような人々のためでなければ成らない。けれども、その会社と取引を為すべく強制されている人は、ひとりもいないわけである。このような会社が取引をする相手方となるべき部類の人々は、一般に、完全に自分で自分を衛りうる人々であって、したがって、いやしくも虚偽の宣伝が為されるのではなく、またその人たちが何を信用すべきかを最初から知っている限り、その人たちが自分たちの利益を自分たち自身で衛る以上に、法律がその人たちの利益を衛らなければならぬ理由は何もないように思われる。(5巻 p.209)

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◆Sen, Amartya. (= 2002) 大石 りら 訳 『貧困の克服−アジア発展の鍵は何か』 集英社


 

この書籍にはシンポール(1999)、ニューヨーク(1997)、ニューデリー(1999)、東京(2000)でのA・センによる4つの講演と、訳者によるセンの紹介が収められている。「アジア」「西洋」という枠組みに違和感を持ちながら、貧困、民主、自由、寛容という言葉についての歴史的敬意と論証がこれら4講演を貫くテーマといえるだろう。以下各章について概観する。


 

1 危機を越えて−アジアのための発展戦略 

この文章では、アジアの経済発展の過程を各国の例を交えて述べている。経済的危機と教育普及、人間的発展と民主主義の相関について語られている。 経済発展を遂げた後に、人間的発展がはじまるのだいう通念は、欧米の人々の持つ一般的な考えである。しかし、その通念は日本を端緒として、東南アジアの成功をみるつけ打ち破られよう。なぜなら、経済発展は教育の普及を徹底することによって、多くの人々が経済活動と社会変革に参加することを可能にしてきた。そして、人間的発展は貧困の束縛から解放される前からなされてきたことだからである。その具体例として、明治維新期の日本とヨーロッパの識字率の比較、全国市町村予算における教育費の割合、日本と英米との書籍出版数を比較し、いずれも日本が優れていたという歴史的背景をとりあげる。 

次に人間的発展の目的を問う。社会的な機会を創ることは、人間の潜在能力と生活の質を向上させうることである。教育、医療、栄養状態の改善が国民の寿命の長さと生活の質を保障するのであり、それが生活の豊かさであると位置付けている。そして、人間的発展を初期の段階から目指してきた歴史を「東アジアの戦略」と、その経済的成功を「東アジアの奇跡」と呼ぶ。一例として、女子教育の普及によって幼児の死亡率が低下していったことを南インド・ケララ州の事例に求める。とくにこの地方では、女子教育による知識の向上によって自発的な出生率の低下に結びついたことを中国の「一人っ子政策」と対置させている。またインドと中国の若年層の識字率を比較して、インドの現代科学とテクノロジーと農村部の最貧の深遠部との格差の原因もまたその点にあると述べる。 

経済発展への課題は特定地域での慢性的な貧困のほかにも、突発的な極度の貧困を未然に防止することも含まれる。再びインドと中国の歴史をの対比を通じて、中国が大躍進時代(1958−61)に大飢饉に見まわれているのに対し、インドは独立以来飢饉を経験していないこと。インドは中国よりも言語と文化において一層多様であり、行政機構も同様に地方分権化していることを指摘する。 

飢饉や重大な危機が発生するときには、民主主義の不在という不平等(政治的権利と政治的権力の不平等)がその特徴であり、人間の安全を保障するものは民主主義と参加型の政治が重要であることを強調する。 

経済危機の経験からいくつかの教訓を導き出すとすれば、以下に指摘できるだろう。まず、経済の循環において経済発展の妨げや悪化から目をそらすことはできない。成長率や上昇思考のみに目をとらわれていると、真の発展プロセスとは何かを見落としかねない。直視すべきなのは、危急のときにそこから逃れるために必要な保障である。 

つぎに、利益を共有している社会集団が経済危機に瀕したとき、その真価が問われる。統計上は飢饉によって人口の5パーセント以上に被害を及ぼすことはごく稀であるが、社会集団に属する人々の購買意欲や経済的な自己防衛への意識が物質的よりも精神的に破壊されかねない。 

また、統計のマジックにも配慮が必要である。国民総生産における数パーセントの低下という現象であっても、それを全国民が等しく被るのではなく、貧困者へのいわば逆累進的な負担となりうることを見過ごすわけにはいかない。 

経済成長を達成するためには権威主義体制のほうがより経済環境として適切であるという主張を否定する。なぜなら、経済成長には民主主義という経済環境と市場が大きな役割を果たすからである。ここで、故小渕首相のコメントを引き、人間の尊厳と画一化されない創造性を支えているものは、開かれたコミュニケーションと議論であり、政治的自由と市民的権利がその中心となることを強調する。そして、大飢饉の要因はこまやかな配慮のない中央集権的な国家体制(権威主義的国家、部族コミュニティ、近代の高度に専門化された官僚的独裁)であり、定期的な選挙による民主主義的政府、メディアによる批判が可能な場では飢饉は起こらなかったことを再度述べる。 

さらにこの文脈に沿って、経済的危機に直面したときには専門家によって経済的誘因について語られるが、政治的誘因もそれとは独立して重要であり、また相補完的なものである。経済的危機を負わされている人達に耳を傾ける場が、経済的配慮とともに民主主義を成り立たせているものである。そして、それは説明責任と情報の開示という、政治的誘因が不平等と不正に対する「透明性の自由」を保障することになるのである。



2 人権とアジア的価値 

この章では西洋的な視点からによる画一化の象徴として「アジア(アフリカも同様に)」という概念を取上げる。その一例として、「アジア的価値」が必ずしも権威主義(規範・秩序)主義的で、自由主義を軽んじる文脈で語ることはできないこと。それと同様に、西洋が自由主義と個人の自由と自律性に根ざしていると語ることで「アジア的価値」との対比を鮮明に浮かび上がらせることもできないことを述べる。なぜなら、規範主義が「アジア的価値」を特徴付ける要因ではないからである。そして、その対局として布置される「西洋リベラリズム」を自由の一元論として捉えることにも疑問を投げかける。その例証には、仏教や儒教など自由と多様性を認める価値観を指摘し、インドの古典(『マハーヴァーラタ』)やインド王朝史での自由、寛容、平等の視点を、歴史的な文脈の中で探ろうと試みる。その結果、西洋的視点によって「アジア的価値」の共通項をくみ出そうとしても、それは同時に西洋の基本的な古典的特色と共通する撞着をはらんでいることに言及する。これらを踏まえて「アジア」や「ヨーロッパ」という着眼点を一旦保留して、「普遍的」な人権について章末に総括する。

アジアでの権威主義的な国家が近年、目覚しい経済成長を遂げつつあるという主張を、民主主義を背景に同じく成長を遂げたボツワナの例とともに否定する。そして、経済的成功の環境(競争の開放性、国際市場の活用、識字能力と学校教育水準、農地改革の成功、投資を誘因する公的整備、輸出と工業化)を前章に続き列挙する。さらに、困窮を政府に訴える手段(言論の自由)が民主主義の基礎となりうることを、対照的な例示としてエチオピアやソマリア、スターリン体制化のソビエト、大躍進政策時の中国などに求める。このことに言及するのは、経済的要因が政治的要因に比べると重視される傾向にあるが、この両方を保障することが民主主義を安定化させることを再度強調するためである。 

「アジア」という視点の起源である「オリエント(日の昇る方向)」という言葉は、極めてヨーロッパ的な概念であり、「アジア」の途方もない価値と存在の多様性を覆い隠してしまいかねない。そしてそれは「アジア」内において東南アジアと東アジアを分けることをするなれば同じ轍を踏むこととなる。 

章末に、人権を請求する主体(主にここではアジアの人々を想定)とそれらを保障する主体(自国と他国の政府)の対応関係について述べる。端的には、国境や政府を越境する人権の保護を積極的に推し進めるべきであると主張する。その根拠として侵害された権利は当該国家の法律を超えたものであるから誰もが救済することができること。侵害される個人の救済をする際には当該政府の許可は必要ではないことを述べる。そして、人権を特定の国家に属するものとして位置付けるのではなく、その普遍性を認めることを強調する。つまり、他者の権利を意識して、それを保護する義務感による行為は国籍と市民権を越境することができる、という独自の倫理的原則の表明を指し示している。 



3 普遍的価値としての民主主義 

20世紀の最も重要な出来事は、民主主義の発展と台頭であると位置付ける。そして、民主主義は普遍的とはいえない、といういくつかの意見に反論を呈するすることで、その普遍性を描こうと試みる。その際には民主主義の役割と「アジア的価値」という言葉が鍵となる。 民主主義の起源を、2000年も前の古代ギリシャまでさかのぼることができるが、それが全世界のどの地域でも「ふつうの」政治統治形態と見なされるようになったのは20世紀になってからである。それまで、例えばマグナ・カルタ(1215)は「特殊」な規則として認識されていた。19世紀までは、民主主義と国家形態の適応度や相性が真面目に検討さえされていたのだ。20世紀は民主主義の普遍性を認識した時代であると特徴付けることができる。 つぎに民主主義の今日的な機能をインドを例に挙げて説明する。インドにおける民主主義の機能は、多様な言語と宗教を共存させる寛容さをもちつつ、国家の統一を担っていると述べる。そして、民主主義は画一的な多数決原理を十分条件とするのではなく、普遍的価値として束縛を受けない活動がその条件である。その内容についていくつかにに分けて詳述すると、まず人間が持つ一般的な自由(政治的自由を含む)と権利の行使(経済や福祉の要求)を指す。つぎに、経済や政治的配慮を求め、またその機会が保障されていることを指す。最後にこれからの検証課題としながらも、双方向的な議論によって、社会的な価値とその優先順位を形成する場を民主主義を実践することから導き、公共の場での議論が欲求、権利、義務の基本的内容を具体化させると述べる。 

その上で、民主主義のもつ普遍性の根拠を問う。手掛かりとして民主主義の普遍性への懐疑に反論を呈する。まず、すべての人々が民主主義の決定的な重要性について合意していない、という主張がある。それに潜む価値観は、普遍性として認識されるためには、すべての人々の合意が必要であるという考え方がある。これに対する反論として、従来からある価値については、たいてい誰かは反対するものであり、普遍的価値にはすべての人々による普遍的な合意は必要でないと述べる。そしてその論拠として、非暴力運動の価値に言及し、非暴力は普遍的価値であるが、すでに世界中の人々がこの価値によって行動していたわけではなかったとガンジーが主張したことについて述べている。また、20世紀の歴史に対照させて、普遍的価値の主張には事実に基づかない暗黙の仮定あること、民主主義はその支持者を増やすことはあったにせよ、減らすことはなかったと述べる。  

資本主義の普遍性に対するもうひとつの疑念として、地域的な激しい経済格差という要因を挙げる。これは貧困層の関心が生活の糧を得ることに集中し、経済的誘引ほどには民主主義への関心を払われないとするものである。するということである。これに対する反論として、民主主義画は高尚な理想なのではなく、それが保護する対象は、最も困窮した危機(飢饉)に直面している人々にこそ向けられるべきこと。貧しい人々が市民的政治的権利に無関心であるという主張が誤りであることについて、特にインドの例を挙げて述べる。 

最後に民主主義の普遍性を経済的政治的な要因ではなく、「アジア的価値」というアジアの権威主義を想定した文化的要因からの疑念を取り上げる。これに対する反論は、アジアには宗教的自由を制限するような敵対的信仰は存在しないこと。寛容の精神、国家義務として少数者保護を唱えていた歴史的事例を挙げている。その上でアジアの伝統文化には権威主義的な史料があるのは確かだが、それは同様に西洋の文献(プラトン、アクイナスなど)にも見られる思索であり、一概に権威主義を「アジア的価値」として位置づけることはできないだろうと述べる。 

現代の民主主義的思想は啓蒙運動や産業革命を経た19世紀に形成された世論の合意が大きく影響していること。ハンチントンの『文明の衝突』を啓発的書籍と評価しながらも、「西洋は近代化される以前から西洋であった」という主張は歴史的な経過を振り返ると誤りであることを述べる。 

最後に民主主義を普遍的であると位置づける論証として価値を形成するうえで構成的な役割を民主主義が担っていると述べる。その価値とは人間的生活での重要性、政治的誘引の創造、欲求、権利義務の要求の程度と可能性への理解であると指摘する。これらの特長は地域性がないことであり、「アジア的価値」という想像上の文化的禁忌や要因に還元されるのは誤りである、と述べて講演を締めくくっている。



4 なぜ人間の安全保障なのか 

人間の安全保障の意味と重要性について述べる。その根拠には消極的理由と積極的理由がある。 

消極的理由とは、人間の生存、生活、尊厳が現在の危険や災難(AIDS、マラリアなど公衆衛生の問題や内戦、虐殺などの迫害の問題)のために妨げられつつあり、それを意思的で実践的な政治参加によって克服しようとすることを指す。一方、積極的な理由とは、危機や困難を一層的確に把握し、科学技術や経済的社会的資産を支えにしてへのよりよい処方箋を得る機会を得たことを指す。このようにわれわれはアジアでの危機という経験から人間の安全保障に対する教訓を得てきた。 市場経済の景気後退に際しても、安全の保障と日常生活を守るためには社会的、経済的備えが必要である。そのために民主主義的な政治参加によって人間の尊厳が守られることで人間の安全保障が強化されうる。 また、現代の政治や公共の場における議論のグローバル化と同じ文脈で環境保護に対するグローバルな関心と責任が求められるべきであり、それは国家の貧富を問わない。 

今日ではグローバリゼーション自体がグローバル化しつつある。反グローバリゼーションを掲げる人たちでさえ、世界の隅々からアメリカの主要都市に集まってくるのである。しかし、経済的技術的交流からもたらされるグローバル化の恩恵をわかち合うことが可能か否かは国際的な取り決めにかかっている。今日ではグローバルな人権の展望(民主主義、社会的公正、女性たちのエンパワーメントなどについて)がよく理解されつつある。一方で人間の安全保障が脅かされることに抗う決意こそ未来に継承されるべき遺産である。



5 アマルティア・セン 人と思想 省略 以上当該書籍の概要を記した。以下本文に対するいくつかのコメントと懐疑を章ごとに示す。



  • 危機を越えて−アジアのための発展戦略

    • 貧困の定義をどのように用意するのか。対象者の「私は困窮している」という経済的、政治的要求をもって貧困者となすのか。それとも統計的な手法を採るのか。平等・不平等の位置づけも同様に、明らかな抑圧の事例を除いて平等と不平等のお互いの位置関係をどのように認識すべきか。
    • 民主主義の選ぶ政治体制は必ず民主的帰結を導きうるのか。
    • 識字率や所謂「(近代の)教育」制度をもって人間的発展とみなしうるのか。「無文字社会」あるいは「われわれの流儀にはこれが一番あっている」と表明する共同体に対してそれを否といいうるのか。
    • 環境要因による干ばつによる飢饉から救済するため食糧援助をすることと、非民主国家を民主化に導く動機付けとしての食料制裁をすることの優先はどのように根拠付けられるか。
    • 民主主義への希求を政治的誘引と位置づける一方で、「一人の賢者と多数の愚衆」という仮説を克服できるか。
    • 「知識の向上によって自発的な出生率の上昇」は認めうるのか、それともそのような自体はありえないのか。

  • 人権とアジア的価値
    • 「アジア」が欧米的な区分だということを認めたとしても、何によってアイデンティティを確保することができるのか。原子的な人間存在という認識(多様性相対論)で議論は可能か。「インドは独立以前からインド」か。
    • なぜ規範的価値を道徳の一要素として肯定的に認めないのか。
    • 政治的経済的要求は単なる弁明以上の対処をする際、誰がどのように聞き入れ、弁明しないものとの整合性をどのように採るのか。
    • 裁判制度のように弁明(要求)できない者への対処とパターナリズムとの調整を如何に採るのか。
    • 市民革命という経験をしていない国家、共同体にも西洋で生まれた人権思想を正当化できるのはなぜか。同様にアジアの歴史に根付く人権思想という枠組みは西洋のそれと同じものなのか。
    • 「多数派による脅威」という根拠での内政干渉は認められるのか。
  • 普遍的価値としての民主主義
    • 「押し売り的」民主主義は正当化されうるのか。民主主義には他の政治体制に対する寛容は存在しないのか。
    • 民主主義的経緯によって決められた独裁や宣戦布告は正当化されうるのか。
    • 民主主義への普遍性について、すべての人々の合意がないまま普遍化を認定し、後になればそれは認知されうるという主張をいかに保障しうるのか。
    • 十分な経済的誘因が満たされた者は本当に政治的誘因を求めるのか。
    • 普遍的価値を保った民主主義とはそれを目標として実現すべきものなのか。
    • 理想の民主主義とは実現しうるのか。あるいはそれを評価する側に不利な現象が民主主義的状況から立ち現れた際には「まだ完全な、あるいは理想的な民主主義的形態ではない」という論理によって、民主主義の誤謬を認めることを保護するような仕組みとなっていないだろうか。
  • なぜ人間の安全保障なのか
    • 国家や人民の安全を確保するために不本意な徴兵などの義務に応じなければならないのか。
    • 民主主義的な政治形態が人間の尊厳を保障するのは本当か。むしろ民主主義を広めるために新たな戦火の火種を作っているのではないか。
    • グローバル化の究極的な実現は国境の廃止、均一的な人間の安全保障と生活の質にあるのか。
    • 国益を守るという政治体制と民主主義は並存しうるのか。

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◆Walzer, Micheal (1983). Sheres of Justice :A Defrence of a Pluralism and Equality. Basic Boocks Inc. Publishers.(=1999 山口晃一 訳 『正義の領分――多元性と平等の擁護』 而立書房)

目次
はしがき
謝辞
第1章 複合的平等
第2章 成員資格
第3章 安全と福祉
第4章 貨幣と商品
第5章 公職
第6章 辛い仕事
第7章 自由時間
第8章 教育
第9章 親族関係と愛情
第10章 神の恵み
第11章 承認
第12章 政治権力
第13章 専制と正しい社会
原注

日本語版へのあとがき
わが身を振り返りて――私の特定主義(マイケル・ウォルツァー)
マイケル・ウォルツァーへの読書案内――訳者あとがきにかえて
人名索引

 平等の根本の意味は否定的なものである。平等主義はその起源においては、廃止を目指す政治である。それはすべての総意を取り除こうとするのではなくて、特定の人まとまりの相違、そして相違なるときと場所におけるひとつの異なったものを取り除こうとする。(・・・)問題となっているのは、集団がその仲間たちを支配する能力である。平等主義的政治を生み出す富者と貧者とがいるということではなくて、富者は「貧者をしいたげ」、貧困を押しつけ、敬意を表すよう命じるということである(P7)。

 平等主義は妬みと憤りの実演というよりも、それらを生み出す条件から脱出しようとする意識的なっこ炉身である、というほうが正確だと私は思う。あるいはそれらを破壊的なものにする条件から脱出しようとする意識的な試み(P8)。

 政治的平等主義の目的は優越から自由の社会である。これは平等という言葉が示す生き生きとした希望である。(・・・)それは差異の除去という希望とは違う。私たちみなが同じである必要はないし、同じものを同量もつ必要もない。いかなる人も優越の手段を所有せず、管理しないとき、男も女も(重要な道徳的・政治的点からいって)相互の平等である(P8-9)。

 本書での私の目的は、社会的材が優越の手段とならない、あるいはなりえない、そういった社会を叙述することである。(・・・)今のここでの現実的な可能性であり、すでに潜在しており、社会的財に関して私たちが共通に理解しているものである。(P9)。

第1章 複合的成員

 正義は人間による一つの組み立てである。だから、それが一つの仕方でしか作られないというのは疑わしい。(・・・)配分をめぐる正義の理論から出された問いは、ある幅を持った答えを許すのである。その幅には文化的多様性と政治的選択を受け入れる余地がある。(・・・)正義の諸原理はそれ自体が多元的な形をしていること。(・・・)これらすべての相違は、社会的財事態についてのさまざまな理解からでてくること。それは歴史的・文化的な特定主義の避けることのできない産物である(P23)。

 財の動きを決定するのは、財の意味である。配分に関する基準と取り決めは、財それ自体に本来備わっているのではなくて、社会的な財に備わっているものである。何が財なのか、その人々にその財がどういう意味を持っているのかを私たちが理解するとき、私たちは、財がどのようにして、誰によって、どのような理由で配分されるべきなのかを理解する(P27)。

 聖職売買同様に、売春収賄という言葉も、財の売買を示しているが、その意味が理解されるなら、当然、売られたり買われたりするべきではない(P28)。

 資本主義社会では資本が優越しており、容易に地位と権力に転換される。技術主義社会(テクノクラシー)では技術的な知識が同様の役割を果たす。(・・・)優越的な財の独占的な管理が支配階級を作り出す。そのメンバーは配分体系の頂点に立つ。(・・・)社会的対立は配分をめぐってにほかならない(P31-2)。

 これらの集団は−そして自らの原理と所有によって同様の特徴を持つ他の集団は−相互に競い合い、最高位を求めて闘う。或る集団が勝ち、次には別の集団が勝つ。あるいは連合した集団が抜けて出るか、その場合は最高位は不安定な形で共有される。最終的な勝利はないし、またあるべきでもない(P32)。

 政治権力は(生産手段以上に)人間の歴史の中でたぶん最も重要な、そして確実に最も危険な財である。だから拘束の実行者を拘束することが必要となるのであり、立憲的な抑制と均衡の確立が必要となるのである。それは政治的独占に課される制限であり、多様な社会的経済的独占が破られた場合には、ますます重要になる(P37)。

 政治的権力に限定を加えいる一つの方法は、それを広く分配することである。(・・・)しかし実際上では、権力の独占を破ることは民主制の効力を弱めることになる。(・・・)それゆえ、民主制とは、マルクスが認めたように、社会的財に関して広範囲にわたる、そして新たに現れつつある配分を映し出し、反映させる体制である。民主的意思決定は、新しい独占権を決め、あるいは同意する文化的な構想で形成されるであろる(P38)。

 私としては独占(モノポリー)の粉砕や独占の抑制ではなくて、優越(ドミナンス)の縮小にこそ焦点を合わせるべきである、と主張したい。特定の財の転用[転換]が可能である範囲を狭め、配分領域の自立性を守るということはどういうことを意味するのかを、考えるべきである(P40)。

 複合的平等の制度は専制の対立物である。(・・・)一つの領分に立つ市民、あるいは一つの社旗適材にかかわっている市民は、他の領分に立ち、他の財にかかわることで、地位が低下させられることはないということを意味している(P44)。

 貨幣はすべての境界を越えて浸透するからである。これは不法入国の初歩的な形である。どこでそれをとめるべきかは原理の問題であるだけではなく、得策であるかどうかの問題でもある。或る適切なところで止めないと、その結果は配分の範囲全体に影響を及ぼす(P48)。

第2章 成員資格

 私たちがお互いの間で配分する第一の財は、ある共同体の中での成員資格(メンバーシップ)である。そして、私たちが成員資格に関して行うことが、私たちの他のすべての配分をめぐる選択に構造を与える。(P61)

 その価値は私たちの仕事と会話によって決められる。この場合、私たちが配分の権限を持っている(・・・)。しかし、私たちはそれを私たち自身の間で配分するのではない。それはすでに私たちのものなのである。私たちはそれを部外者(ストレンジャー)に与える。(P63)

 この承認は相互扶助の原理として公式化することができる。(・・・)しかし、「もしもこの義務が受け入れられないとしたら、社会はどうなるだろうか」と考えれば相互扶助という原理は確立できると主張するロールズを私は正しいとは思えない。というのは、(・・・)そういった争点が生じるのは、共同体を共有していない、あるいは共有していることを知らない人々の間でのみである。(P63-4)

 人々は、国境を横切るにことによってと同様に、そしてそれ以上に、すでにそこにいる両親のところに生まれることによって、一つの国に入るのである。(・・・)私たちはまだ生まれていない、それゆえまだ知らない個人を扱うことになる。大家族への補助金と産児制限計画は、人口の規模を決定するだけであって、住民の性格を決定するわけではない。(・・・)主要な公共政策の争点は人口の規模 −その成長、安定、衰退ーだけである。(P66-7)

 労働力の完全な移動はたぶん一つの幻影であろう。というのは、それはおそらく地域(ローカル)レヴェルで抵抗に遭うからである。(・・・)彼らは、あるいは彼らの大部分は、生活がそこで非常に困難でない限り、留まる傾向がある。(P71-2)

 国家の壁を取り壊すということは、シジウィクが不安そうに指摘したような、壁なしの世界を作ることではなくて、千の小さな砦(とりで)を作り出すことである。壁も取り壊されるかもしれない。(・・・)その場合、結果はシジウィクが描いたように、経済者(ポリティカル・エコノミスト)たちの世界であろう。(P73)

 個人が自らの国を正当なかたちで去ることができるということは、別の国へ(他のどんな国へも)入る権利が生じるということではない。入国と出国は道徳的には非対称である。(P74)

 「自立した」団体は領土国家の常に補助的なもの、そしておそらく規制的な形で補助的なものであろう。国家を捨てることは効果的な自己決定を放棄することである。そういうわけで帝国の支配が皇太子、国民が「解放」過程を開始するや否や、境界線が、そしてその境界線を横切る個人や集団の動きが、激しい論争の的になるのである。(P81)

 移民は居留外人になり、特別な法の適用免除を別にしては、それ以上の何もない。彼らはなぜ認められるのか。困難で不愉快な仕事から市民を解放するためである。(P93)

 ここにおいてふさわしい原理は相互扶助ではなくて、政治的正義である。外国人[客]は市民権を必要としてない。少なくとも彼らが仕事を必要としてるのと同じ意味でそうなのではない。(P103)

 もしかららが新しい働き手を導入したいのであれば、自分たち自身の成員資格(メンバ−シップ)を拡大する覚悟ができていなくてはならない。もし新しい働き手を受け入れたくないのであれば、社会的に必要な仕事をするには国内の労働市場の限度内で方法を見つけなければならない。これはまさに彼らの選択である。(P105)

第3章 安全と福祉

 人はただ必要であるというのではなく、必要についての観念(アイデア)をもっているのである。優先順位があり、程度ある。そして、この優先順位と程度は彼らの人間性にだけでなく、歴史と文化にも関連している。(・・・)必要は資源・蓄積を食べ尽くしてしまう。しかし、それだから必要(ニード)は配分的原理ではありえないとして苦するのは間違っていよう。むしろ、それは政治的限定に服している原理なのである(P113)

 (・・・)すべての政治的共同体が原理上、一つの「福祉国家」であることの意味である。(P115)

 ひとたび必要とされている財の提供を共同体が引き受けたのであれば、その必要としているすべての成員(メンバー)にそれを提供しなければならない。(・・・)共同体の使用可能な資源・財源は過去と現在の産物にほかならず、成員(メンバー)が積み重ねた富であって、富の「余り」ではない。福祉国家は「或る種の経済的余剰に依存している」と一般に論じられている。(・・・)しかし、現実には共同体の成員であったので、まず第一に援助の手を差し伸べられるのであった。同様に、能力を失っていることが扶助金支給の理由であれば、能力を失っている市民はすべてその扶助金受領の資格がある。しかし何が無能力を構成するかを決めるという問題は以前残っている。(P125-6)

 困窮している成員にその困窮さゆえに財は提供されなければならないが、しかしまた財は成員資格を維持するような仕方で提供されなければならない。(P130)

 私は公衆衛生を一般的用意(ジェネラル・プロビジョン)の一例として取り上げてきたが、それは共同体の或る成員たちの犠牲によってのみ提供される。しかも、それは最も弱い者たちに最も利益を与える。(・・・)社会的安全もまた最も弱い者たちのためのものである。(P134)

 ここに社会契約の一層明確な存在理由があるのである。それは、現に進行中の細部にわたる政治的決定に従いながら、成員の資源・財産を、彼らの必要(ニーズ)に関しての共有された理解と調和させて再配分することへの同意である。(P136)

 根本的な平等化を欠いている状態では、きっと購買力のある人々が、必要とされているサーヴィスの価格をせり上げることはありうるし、おそらくそうなるであろう。だから、共同体は個人の福祉を出資するとしても−今日、間接的にされているだけであるが−必要(ニード)に用意(プロヴィジョン)をあわせているのではない。収入が等しかったとしても市場を通して届けられる健康面での配慮(ケア)は必要に応えてはいないであろう。また、市場は医療研究を適切なかたちでは提供することはないであろう。(・・・)どの必要(ニード)が認められるべきかについて先験的(アプリオリ)な規定はありえないことを私は再び強調したい。(・・・)しかし、備え(プロヴィジョン)の形は、態度が変わると自動的に変わるというものではない。(P147)

第4章 貨幣と商品

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◆Aristoteles. Nicomachean Ethics.
(= 1971 高田三郎 訳『ニコマコス倫理学 上・下』 岩波書店)

第一巻 序説
 第一章 あらゆる人間活動は何らかの「善」を追求している。だがもろもろの「善」の間には従属関係が存する
 第二章 「人間的善」「最高善」を目的とする活動は政治的なそれである。われわれの研究も政治的なそれだといえる
 第三章 素材のゆるす以上の厳密性を期待すべきではない。聴講者の条件
幸福
 第四章 最高善が「幸福」であろうことは万人の容認せざるをえないところ。だが、幸福の何たるかについては異論がある。(聴講者の条件としてのよき習慣づけの重要性)
 第五章 前途か幸福とかは、快楽や名誉や富には存在しない
 第六章 「善のイデア」
 第七章 最高善は究極的な意味における目的であり自足的なものでなくてはならない。幸福はかかる性質を持つ。幸福とは何か。人間の機能よりする幸福の規定
 第八章 この規定は幸福に関する従来のもろもろの見解に適合する
 第九章 幸福は学習とか習慣づけとかによって獲られるものか、それとも神与のものであるか
 第十章 ひとは生存中に幸福な人といわれうるか
 第十一章 生きているひとびとの運不運が死者の幸福に影響をもつか
 第十二章 幸福は「賞賛すべきもの」に属するか、「尊ぶべきもの」に属するか
 第十三章 「徳」論の序説――人間の「機能」の区分。それに基づく人間の「卓越性」(アレテー)(徳)の区別。知性的卓越性と倫理的卓越性

第二巻 倫理的な卓越性(徳)についての概説
 第一章 倫理的な卓越性ないしは徳は本性的に与えられているものではない。それは行為を習慣化することによって生れる
 第二章 ではいかに行為すべきか。一般に過超と不足とを避けなくてはならぬ
 第三章 快楽や苦痛が徳に対して有する重要性
 第四章 徳が生じせしめるにいたるもろもろの行為と、特に即しての行為とは、同じ意味において善き行為たるのではない
 第五章 徳とは何か。それは(情念でも能力でもなく)「状態」である
 第六章 ではいかなる「状態」であるか。それは「中」を選択すべき「状態」にほかならない
 第七章 右の定義の例示
 第八章 両極端は「中」に対しても、また相互の間においても反対的である
 第九章 「中」を得んがための若干の実際的な序言

第三巻 つづき
 第一章 いいとかわるいとかいわれるのは随意的な行為である。随意的とは@強要的でなく A個々の場合の情状に関する無識に基づくものならぬことを意味する
 第二章 徳はよき行為がさらに、B「選択」に基づくものなることを要求する。「選択」とは何か。それには「前もって思量した」ということがなくてはらぬ
 第三章 だが思量とは何か。 −かくして「選択」とは「われわれの自由と責任に属することがら」に対する「資料的要求」であ
 第四章 「選択」が目的へのもろもろの手立てに関わるのに対して、「願望」は目的それ自体にかかわる
 第五章 かくして徳はわれわれの自由に属し、したがって悪徳もまたわれわれの責任に属する倫理的な卓越性(徳)についての各論
勇敢
 第六章 勇敢は恐怖と平然と(特に戦いにおける死についての)にかかわる
 第七章 それに対する悪徳。怯懦・無謀など
 第八章 勇敢に似て非なるもの五
 勇敢の快苦への関係
節制
 第十章 節制は主として触覚的な肉体的快にかかわる
 第十一章 節制・放埓・無感覚
 第十二章 放埓は怯懦よりもより随意的なものであり、それだけにより多くの非難に値する。放埓と子供の「わがまま」との比較

第四巻
(財産に関する徳)
 第一章 寛厚
 第二章 豪華
(名誉に関する徳)
 第三章 矜持
 第四章 (名誉心の過剰・名誉心の欠如に対する)それの中庸
(名誉に関する徳)
 第五章 穏和
(人間の接触に関する徳)
 第六章 「親愛」
 第七章 真実
 第八章 機知
(徳に似て非なるもの)
 第九章 羞恥

第五巻 正義
 第一章 広狭二義における「正義」
 第二章 狭義における正義が問われている。この意味の正義は配分的正義と矯正的正義に分たれる
 第三章 配分的正義(幾何学的比例に基づく)
 第四章 矯正的正義(算術的比喩に基づく)
 第五章 「応報的」ということ。交易における正義
 第六章 正義・市民社会・法律
 第七章 市民的正義における自然法的と人為法的
 第八章 厳密な意味における「不正を働く」ということ
 第九章 ひとはみずからすすんで不正を働かれるか。配分における不正の非は何びとにあるか
 第十章 正義に対する「宜」の補訂的な動き
 第十一章 ひとは自己に対して不正を働きうるか

第六巻 知性的な卓越性(徳)
 概説
 第一章 その論究のひつよう。魂の「ことわりを有する部分」の区別(認識的部分と勘考的部分)
 第二章 前者の目的は純粋な真理認識にあり、後者の目的は実践的な真理認識にある
 各論
 第三章 学
 第四章 技術
 第五章 知慮
 第六章 直知(ヌース)
 第七章 智慧(知慮との比較)
 第八章 (知慮と政治。知慮は個別にもかかわる)
実践の領域に属するその他の知性的な卓越性(徳)
 第九章 「思量の巧者」
 第十章 「ものわかり」「わかりのよさ」
 第十一章 情理(「ものわかり」や「直知」との共通性)
知性的な卓越性(徳)に関する諸問題
 第十二章 問題とその答え
 第十三章 つづき
訳注

第七巻 抑制と無抑制
 第一章 悪徳・無抑制・獣的状態。ならびにその反対のもの。抑制と無抑制とに関するうもろもろの通説
 第二章 これらの見解に含まれている困難。以下かかる難点が解きほぐされなくてはならない
 第三章 抑制力のない人は知りつつあしきことをなすのだとすれば、この場合の「知りつつ」とはどのようなことを意味するか
 第四章 無抑制はいかなる領域にわたるか。本来的な意味における無抑制と、類似的な意味における無抑制
 第五章 獣的なまたは病的な性質の無抑制は、厳密な意味で無抑制とはいえない
 第六章 憤激についての無抑制は、本来的な意味における無抑制ほど醜悪ではない
 第七章 「我慢強さ」と「我慢なき」との、抑制ならびに無抑制に対する関係。無抑制の二種 −「せっかち」とだらしなさ
 第八章 無抑制と悪徳(=放埓)との区別
 第九章 抑制・無抑制に似て非なるもの。抑制も一つの中庸といえる
 第十章 怜悧は無抑制と相容れても、知慮は無抑制と相容れない
快楽 −A稿
 第十一章 快楽の究明の必要。快楽は善でないという三説とその論拠
 第十二章 右についての全面的な検討
 第十三章 つづき
 第十四章 つづき

第八巻 愛(フィリア)
 第一章 愛の不可欠性とうるわしさ。愛に関する疑義若干
 第二章 愛の種類は一つではない。その種別は「愛さるべきもの」の種類いかんから明らかになる。「愛さるべきもの」の三種 −善きもの・快適なもの・有用なもの
 第三章 愛にもしたがって三種ある。だが「善」のための愛が最も充分な意味のおける愛である
 第四章 「善」のための愛とそれ以外の愛との比較
 第五章 愛の場合における「状態」と「活動」と「情念」と
 第六章 三種の愛の間における種々の関係
 第七章 優者と劣者との間の愛においては愛情の補足によって優劣の差が補われなくてはならない
 第八章 愛においては「愛される」よりも「愛する」ことが本質的である
 第九章 愛と正義との平行性。したがってあらゆる共同体においてそれぞれ各員の間に一定の愛が見出される。共同体の最も優位的なものは国家共同体である
 第十章 国政の種類と、そこから家庭関係への類比
 第十一章 右に応ずるもろもろの愛の形態。愛と正義とは各種の共同関係において、それぞれその及ぶところの限度が平行的である。
 第十二章 種々の血族的愛。夫婦間の愛
 第十三章 各種の愛において生じうべき苦情への対策として、いかにして相互の給付の均等性を保証するか (a)同種の動物における均等的な友の間において
 第十四章 (b)優者と劣者との間において

第九巻 つづき
 第一章 (c)動機を異にする友の間において
 第二章 父親にはすべてを配すべきか
 第三章 愛の関係の断絶に関する諸問題
 第四章 愛の諸特性は最も明らかに自愛において見られる
 第五章 愛と好意
 第六章 愛と協和
 第七章 施善者が非施善者を愛することは後者を愛する以上であろうのはなぜか
 第八章 自愛は不可であるか
 第九章 幸福なひとは友を要するか
 第十章 友たるべき人の数には制限があるか
 第十一章 順境と逆境と何れにおいてより多くの友を要するか
 第十二章 「生を共にする」ということの愛における重要性

第十巻 快楽 −B稿
 第一章 快楽を論ずる必要。快楽の善悪に関する正反対の両説。その検討の必要
 第二章 快楽は善であろうとするエウドクソスの説。(その制約。)エウドクソスに対する駁論の検討
 第三章 快楽は善ではないとする説。それについての検討
 第四章 快楽とは何か
 第五章 快楽にはいろいろな快楽がある、 −活動にもいろいろあるごとく。では何が人間の人間の快楽であるか。それは何が人間の活動であろうということからあいきらかになるであろう
結び
 第六章 究極目標とされた「幸福」と何か。それは何らか即自的に望ましい活動でなくてはならぬ。だが快楽が「幸福」を構成はしない。「幸福」とは卓越性に即しての活動である
 第七章 究極的な幸福には観照的な活動に存する。だがかかる純粋な生活は超人間的である
 第八章 人間的な幸福は倫理的な実践をも含めた合成的な「よき活動」に存する
 第九章 倫理的卓越性に対するよき習慣づけの重要性。よき習慣づけのためには法律による知慮的にして権力ある国家社会的な指導が必要である。立法者的能力の必要。立法の問題は未開拓の分野である。われわれは特に、国政に関して全面的に論ずるであろう。

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 あらゆる学問は何らかの善を目指しその賭けたるところを探求するが、「善そのもの」の知識のごときはこれを等閑に付しているのであり、しかるにそれほどまでに有力な助力たるべきものをそれぞれの学芸の専門家が誰も知らず、これを探求すらしないというごときことは考ええないことがらなのである。(上p.28)

 「人間というものの善」とは、人間の卓越性に即しての、またもしその卓越性が幾つかあるときは最も善き最も究極的な卓越性に即しての魂の活動であることとなる(上p.33)

 同じくこの理由によって子供も幸福ではない。彼はその年齢のゆえに、いまだかかる性質の働きをなしていないからである。いわゆる至福なる子供とは、そうなるだろうという期待のゆえにそんなふうに呼ばれるに過ぎない。なぜなら、上述のごとく、幸福であるためには究極的な卓越性が必要であるし、また究極の生涯に待たなくてはないからである(上p.41)

 それが不正行為(ないしは正義的行為)たるかいなかは、それが随意的たると非随意的たるとによって定まる。すなわち、それが随意的であるときのみ彼は非難されるのであって、同時にまた、その場合はじめてそれは不正行為たるのである。したがって何らかの不正ではあっても、もしそれに随意的ということが付け加わらなければ、いまだそれは不正行為ではないであろう。(・・・)かくして、識られざるゆえのことがら、あるいは識られざるゆえではないが自分の自由にならないゆえのことがら、ないしは強要によることがらは不随意的である。(上p.196-7)

 付随的といっても、しかし、恕すべきものもあれば恕すべからざるものもある。すなわち、識らずしてというだけでなく識らざるがゆえに犯すところの過失は恕すべきであるが、これに反して、識らざるがゆえにではなく(識らずしてではあっても)、自然本性的ならぬまた人間的ならぬ情念のゆえに犯すところのそれは、恕すべからざるものである。(上p.200)

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(= 2002 朴一功 訳『ニコマコス倫理学』 京都大学学術出版会)


第1巻 人生の目的
第2巻 “性格の徳”と中庸説
第3巻 “性格の徳”の構造分析、および勇気と節制
第4巻 その他の“性格の徳”および悪徳
第5巻 正義と不正
第6巻 思考の徳と正しい道理
第7巻 抑制のなさと快楽の本性
第8巻 友愛
第9巻 友愛(続き)
第10巻 快楽の諸問題と幸福の生

 まず、「生きる」ということは、植物とも共通することだと思われるが、われわれの探し求めているのは人間に固有の機能である。それゆえ、単なる栄養的生や身体的成長の生は除外されねばならない。次に来るのは、ある種の感覚的生であろうが、これもまた馬や牛、その他すべての動物と共通しているように思われる。そこで残っているのは、人間において「理性(ロゴス)」をそなえている部分、その部分によるある種の行為的生である。
 ところで、そうした部分の一つは、理性にしたがうという意味で、理性を備えているのであり、もう一>29>つは、みずから理性をもち、思考するという意味で、理性を備えているのである。また、行為的生というのも二通りの意味で言われるのであって、われわれはここでは「活動(エネルゲイア)」としての生を取り上げねばならない。なぜなら、この生の方がより本格的な意味で生と呼べるからである。
 そこでもし人間の機能が理性に即した魂の活動であるか、あるいは理性を不可欠とするところの、魂の活動であるとすれば、またもし「このもの」の機能と「すぐれたこのもの」の機能とがたとえば竪琴奏者の機能とすぐれた竪琴奏者の機能がそうであるように、種類において同じであって、この点は無条件にあらゆる場合にあてはまり、徳に基づく卓越が当の機能に付け加えられるのであると、このようにわれわれが主張するならば、つまり竪琴奏者の機能は竪琴を引くことであり、すぐれた竪琴奏者の機能は竪琴を上手に引くことであると主張するならば、もし事情が以上のようであるとすれば、[他方、人間の機能はある種の生であり、その生は理性をともなった魂の活動と行為であるとわれわれが解するならば、すぐれた人はそうしたことをよく、かつ見事に果たすのであり、しかるに、それぞれのものの機能は、その固有の徳に基づいて成し遂げられるのである。もし事情がこのようであるとすれば](・・・)人間にとっての善とは徳に基づく魂の活動>30>である、ということになるだろう。またもし徳が複数あるならば、そのなかの最善の、もっとも完全な徳にもとづく活動である、ということになるだろう。その活動にはしかし、完全な人生において、という条件がさらに付け加えられねばならない。というのは、一羽のつばめが春の到来を告げるのでもなければ、一日で春になるのでもないからである。同じようにして、一日や短い時間で、人は私服にも幸福にもなりはしないのである。 (pp.28-30)

 それゆえ、徳を愛する人々の生活は快楽をいわば一種の添え物のようにして必要とするのではなく、生活それ自体のうちに快楽を持っているのである。実際、これまで述べた事柄に加えて、われわれは、美しい行為に喜びを感じないような人は善き人ですらない、と言ってよいかもしれない。というのは、正しい行為をすることによろこびを感じない人を、誰も正しい人とは呼ばないであろうし、また気前のよい行為によろこびを感じないような人を、誰も気前のよい人とは呼ばないだろうからである。他の場合についても>35>同様である。だとすれば、徳に基づくさまざまな行為はそれら自体、快いものであることになろう。のみからず、徳に基づく行為は美しく、善き行為であり、しかも立派な人がそれについて的確に判断するところによれば、そうした行為は以上の性質のそれぞれを最高度に兼ね備えているのである。(・・・)なぜなら、最善の諸活動にはこれらすべての性質が属しているからである。そして、そのような諸活動が、あるいはそれらのなかでも最善の、ただ一つの活動が幸福に他ならない、とわれわれは主張する。(pp.34-35)

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◇UP;030724,REV:050228,051103,060525,070208,0612,110123