喪失の主題による十三の変奏曲〜書評 竹本健治『フォア・フォーズの素数』







楽古堂・大内史夫


1  作者の「あとがき」に、「読者の琴線に心地よいメロディを響かせることがあるならば、作者
にとってこれに優る喜びはない。」とある。

2  竹本健治の作品には、音楽が聞こえる。

3  竹本健治も断っているように、「重苦しい雰囲気のもの」が多い。短調の主題は、「喪失」で
ある。すべては、失われてしまっていて、もはや取り返しがつかない。 

4  その変奏の後を作品ごとに、追い掛けてみよう。

5 「ボクが死んだ宇宙」。少年と少女がいる。そして、「ボク」が死ぬ ことによって「宇宙」も死
ぬ。壮大な「喪失」がある。この世界で、暗黒の穴のような異質な存在がいる。『自身につぶれ
こむこと』(14ページ)これが、この短篇集の顕著な主題である。点描のように唐突に登場した
この主題は、やがて全管弦楽によって、壮大なコーダを形作っていく。

6  「熱病のような消失」。「喪失」は「消失」に変奏されている。そして、『閉じ箱』にあった、自
作の「夜は訪れぬ 内に闇」「けむりは血の色」の変奏である。おそらくは、岡田史子のマンガの
世界の、ことばによる巧妙な変奏曲。渡クンという「ボク」は、「ボクの中の絶対的な暴君の。」
(28ページ)によって、「自身につぶれこむ」のである。

7  「パセリ・セージ・ローズマリーそしてタイム」。もちろん、サイモン&ガーファンクルの名曲
の変奏。それ以上でも以下でもない。「ボクの死んだ宇宙」の「夏」。「熱病のような喪失」の「世
界は熱病のようだった」(29ページ)の熱病の。この小品の「何もかも灼きつくす陽射し」(34ペ
ージ)クローバーの章の主題は、火であろうか。 

8  「震えて眠れ」。竹本健治の、一人称の見事さは、だれでも称賛することだろう。ヴァイオリ
ン独奏曲の手練の冴え。名人芸である。 

9  「空白のかたち」。ウエルニッケ脳症という、短期記憶の喪失という奇病のアイデアがユニ
ークである。一人称の文体が、次第にのっぴきならない状況にまで、突き進んでいく。サスペン
スの薫り高い、ピアノによる点描奏法の力作。言葉に対して不信を表明する作家の、言葉への
信頼の強さは、いつも不思議である。 

10  「非時の香の木の実」。竹本の音楽は、クラシックを連想させることが多いが、これは珍し
くロック音楽の手法による変奏である。電気的に歪曲されたギターの弾き語りが、性欲の爆発
という主題の暴力的な雰囲気を高めている。ドラムスとベースは、性交の際の男の心臓の鼓
動のように早まっていく。佐伯千尋ものの、ダイヤの章の三作の主題は、「空」である。「震えて
眠れ」の「隙間」。「空白のかたち」の記憶の「空白」。「非時の香の木の実」の「時間のプレイバ
ック」(92ページ)。その虚無に、佐伯千尋が忍び込んでくる。

11  「蝶の弔い」。
 塚本邦雄のわが鍾愛の歌集『透明文法』から、最後の一首を反歌として引用する。

    少年のかがやくひとみ展翅板上の死を閲す 

12 「病室にて」。妻の最期の一句にすべてがある。日常の恐怖の情景の切断。

13 「白の果てへの扉」。この短篇集において、竹本の創作の現場で、おそらくもっとも重要な
主題を扱った作品である。ここには、竹本健治が、牧場智久という天才の造型によって、追求
しようとしている深刻な主題がある。
 つまり、人間は神になれるのかということである。
 それを、料理マンガ『包丁人味平』などのパロディという、変奏として提示するところに、この
作家の非凡さがある。
「もしもこのまま本当に神の領域まで行けるのなら、そのときは、どんな色彩 に包まれるのだ
ろう。」(168ページ)
 カレーという比喩によって語られるのは、囲碁という世界によって語られている消息と同じで
ある。
「ただ、人間はどのみち碁の神様にはなれないんだからね。」(竹本健治『風刃迷宮』光文社・
1998年・初版第一刷・109ページ)
 私的な体験で申し訳ないが、学生時代に、渋谷の「ボンベイ」というカレー店で、何倍カレーま
で食べられるかという、遊びが仲間内で流行したことがある。ぼくは、四倍でギブアップした。た
しか二十倍まであったように記憶しているが、どうだったろうか。 

14 「フォア・フォーズの素数」は、「ボクが死んだ宇宙」で、姿を見せた『自身につぶれこむこ
と』(14ページ)という主題の変奏である。竹本健治も断っているように、「重苦しい雰囲気のも
の」である。ここでは、カイ君が、つぶれていったのである。
 211ページの、死んだ友人への鎮魂の儀式の場面を読みつつ、涙が止まらなくなっていた。
ぼくも、自殺した友人の想い出を持っている。竹本健治の心情の痛切さは、疑うことができな
い。
「そこまで根をつめることはなかったのに。」(183ページ)
 そう言ってやりたかった。セリエ技法による、現代音楽のような冷たい響きがする。マウリテ
ツィオ・ポリーニの弾く、シェーンベルクのような音もしている。他のだれにも書くことができな
い、抽象的で透明な叙情歌である。
 鎮魂の思いの痛切さの前では、感傷は不要である。ハートの章の主題は、迫り来る死の足
音である。
 寺山修司の俳句の絶品を上げて、わが鎮魂とする。

    目つむりてゐても吾を統ぶ五月の鷹   

15  渾身の鎮魂歌「フォア・フォーズの素数」の終わった後に流れるスペードの章は、いわばカ
ーテンコールである。竹本健治は、通 俗名曲を、手練の業によって、華麗に楽しく演奏してい
る。「チェス殺人事件」は推理小説への、「銀の砂時計が止まるまで」はSF小説への、いわば
恩返しであろう。「メニエル氏病」は、その中間形態ということになるだろうか。
 「チェス殺人事件」は牧場智久が、「メニエル氏病」は、酉つ九が登場し、趣向の楽しさを強め
る。
 子どもの頃から、SFを読み慣れてきた筆者には、特に「銀の砂時計が止まるまで」は、まこと
に楽しい曲目であった。ハインライン、アシモフ(断じてアジモフではなくて、)ブラッドベリらの古
き良き時代の、調べを思い出していた。
 332ページでは、それまで喪失を重ねてきたぼくは、一期一会の、女神との夜を過ごす。それ
は限りなく甘みである。ネコが、扉の向こうで立ち聞きしていた、少年の気配に気が付かない
はずはない。二人は、すべてを知って、ベッドをともにしたのだ。
 「フォア・フォーズの素数」とは質は異なるが、竹本健治の代表作であろう。
 スペードの章の主題はなんだろうか。みなさんで考えて頂きたい。 

16  喪失の主題による十三の変奏曲は、かくて見事に演じられた。 

17  ここまで書いたところで、竹本健治によるジョーカーの「あとがき」と、千街晶之氏の「解
説」を読むことにしよう。 

18  新しい発見を期待しつつ。



2002年8月21日




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