十三の歴史

難波宮(大化元年・645年)〜長岡京(延暦3年・784年)〜平安京(延暦13年・794年)と、
都が移るとともに淀川が都にのぼる船便の交通路となる。

延暦3年淀川と平行して流れる三国川(神崎川)を開削し、淀川の新たな水路とし
両川にはさまれた一帯の平地は農地として開発された。

江戸時代延宝6年(1678)、中島大水道を農業排水路として開削し、
低地であるための洪水による被害をおさえ、農業生産に大いに活躍した。
また中国街道、能勢街道(山田街道)の分岐点として「十三渡し」「新橋渡し」など
交通の要として発展。

明治43年3月10日、箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄宝塚線)が開通し「十三駅」が開設。

明治から大正にかけて見渡す限り田園の広がる一近郊農村に、
大阪変圧器(大正8年)、武田化学薬品(大正11年)など工場が建ち始めるにしたがって、
駅前に商店が建ち並び、商店会が生まれる。
それから道路整備、宅地造成、鉄道整備などの事業が地元住民によって計画、工事が行われ、
先行的に公共用地が整備され今日の市街地の核が形成されていく。

昭和初期にはいぜんとして広大な農地を擁しながらも、
各地域で新しい工場や住宅や学校がしだいに増えはじめる。

昭和16年12月8日、太平洋戦争勃発。

戦況は日増しに激化し昭和20年には大阪も空襲による戦火に包まれた。
6月7日、多くの軍需工場、軍用資材倉庫を擁する十三周辺は攻撃機の格好の標的となり
十三は壊滅状態となる。

戦後、人々の耐乏生活のなか、戦災で全滅した十三駅前商店街跡地に自然発生的に闇市が形成され、
食料品・日常生活用品がその店頭にならぶ。

昭和22年から戦災復興土地区画整理事業が着手され、闇市や不法占拠建物が暫時撤去される。

経済復興と共に、新住宅の建設、都心部からの工場の移転、新・増設を背景に急速に市街化が進み、
十三は市内北部の通勤帰りや地元の人々の歓楽街として復活。

昭和39年東海道新幹線が開通し、昭和45年万国博覧会の開催とともに、
道路も整備され建物も近代的なビルとなり、大阪北部の繁華街としてますます繁栄する。

その後、オイルショック、バブル、平成不況、など、
景気の波と共に街も変遷をくりかえしているが、
いかにも大阪の下町といった風情の街の雰囲気ときらびやかなネオン街は、
今も仕事帰りのサラリーマンをはじめ多くの人々の心を引き付けて止まない。




十三の名称の由来


もともと十三という地名は成小路村(なるしょうじむら)の字名のひとつであった。

十三渡しが、明治11年に幅10尺(3.3m)の木造の十三橋架橋により廃止。

大阪市内のほとんどを泥海化し、大阪平野は古代の状態に戻った、とまで言われた
明治18年の淀川の大洪水を契機に淀川の改修工事の気運が高まり、
明治31年から新淀川開削工事が行われる訳だが、
それによって成小路村は河川敷になったり川底に沈んだりして、地図の上から消えてしまう。

明治43年3月10日、箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄宝塚線)が開通し神津村に「十三駅」が開設。

大正14年4月1日、第2次市域拡張により東淀川区(旧)となり、
町名改称で十三駅周辺は十三東之町、十三西之町となる。
これにより一時は成小路の名前と共に消えかけていた十三が正式な地名として復活した。

「十三」と書いて「じゅうそう」と読む。
ちょっと変わったこの名称の由来には実はいろいろな説がある。

1-十三島説
中津川の改修で今は新淀川の川底に沈んだ成小路村十三だが、
この辺りは大阪港に近いため、潮の干満で見え隠れする干潟や小島が幾つかあり、
それらを総称して十三島といい、そこから付近の土地の名前を表すようになった。

2-十三塚説。
この辺りは戦国時代数多くの戦乱の舞台となった。
武将が戦死、又は敗戦により自害すると、一族、妻子すべてが共に自害することも珍しくなく、
それを哀れんだ土地の人たちが墓石を建て供養し祭ったのが、俗に言う「十三塚」というものであり、
それが地名になった。ただ、このような「十三塚」は全国に点在する。

3-十三番目の渡し説
淀川から摂津国に入って、上流から数えて十三番目の渡しが「十三の渡し」であり、
十三もその十三番目から由来するという説。
(上流に七番目の渡しが残っており、それから考えたもの)

4-重蔵説
対岸の中津の南浜に、重蔵(じゅうぞう)という長者がいて、加島に遊びに行くとき、
ちょうど、十三渡し付近に船をつないでおいたので、重蔵の船着場から「十三」になったという説。

加島は江口と並んで古くから宿場街、遊女街として栄えていた場所。
江口とは神崎川(旧三国川)と淀川の合流地一帯(今の鳥飼大橋付近)のことで、
延暦3年(784)に淀川の治水目的で三国川と淀川を絡げて以来、河川交通の要衝の地となっており、
特に平安期、都から山陽・西海・南海の三道に向かう際や、
淀川を下り、熊野・高野山などに参詣する際、必ず通る宿場町として大変繁栄していたという。

ちなみに江口から神崎川を数キロ下った付近に僕が生まれ育った団地があった。
そこからさらに3キロほど下った神崎橋がかかるあたりも遊里が発達していたらしく、
平安時代の末頃、大江匡房著『遊女記』(11世紀末)にも
「摂津国にいたる、神崎・蟹島築地あり、門を比べ戸を連ね、人家絶ゆるなし、
娼女群をなし、扁舟に棹して旅船に着き、もって枕席をすすむ。けだし天下第一の楽地なり。」
と、天下第一の歓楽地であるといった内容が記されている。
ここにある神崎は現在の尼崎市東部を指し、蟹島が大阪市淀川区加島に当たる。

ただ、平安時代には隆盛を極めていた江口、神崎、蟹島(加島)の遊里も、
鎌倉期にはまだ、歌人、藤原定家の日記「明月記」に
このあたりに遊里があったことが書かれていたように顕在ではあったが、
平氏が政権を握ったころから衰えを見せ始め、
『太平記』の描く南北朝時代には遊里としての繁栄の名残も見られなくなったらしい。

5-条里制説
天坊幸彦著『古代浪速の歴史地理の研究』によると、
孝徳天皇の御代に難波の地に唐の都制を模して、条里制が施行された。
大別すると東成郡と西成郡に分かれ、西成郡の起点は現在の阿倍野の飛田でそこを一条とし、
北に数えて十三条がいまの十三のあたりであるという。
もうすこし北に行くと十八条の地名が現存する。

条里制というのは、租税収入を確保する目的で、6才以上の農民に口分田を与えるため、
何条何里何坪というように土地を碁板目状に区画整理した制度の事。
大雑把に言うと、耕地を六町(約654m)×六町で縦横に区切り、
その六町平方の一区画を「里」と呼び、六町ごとの南北の区切りを「条」とした。
また、一里はさらに一町間隔で縦横に区切り、三十六の「坪」とした。
これにより何条目の何里の何坪と場所を正確に示す事が出来た。

で、これをふまえて今回ちょっと自分で調べてみてびっくりしたんだけど、
飛田から十三まで直線距離が約8、5km。
8500mを一条の一区切り、つまり六町=654mで割ると、12、996!!
さらに十三から十八条まではおよそ3km強。
仮に3、3kmだとしてこれも654mで割ると5、045!!
13と足せばみごとに18になる。すごい!
ただ、全国の条里制遺跡に共通した特徴として、
「坪」の付く地名が多く残っていることが挙げられるのだそうだが、
大阪ではあまり見ない気がする。
ちなみに「里」がつく地名は「文の里」「今里」「豊里」「野里」「千里」等点在する。


如何でしょう?
実は僕は3番目の十三番目の渡しがあった、という説しか知らなかったんだけど、
こんなに諸説あったとは驚きです。
十八条の地名が残っている事や、なぜ十三と書いて「じゅうそう」と読むのか、など、
いろいろ考えるとそれぞれの説に説得力があり興味深い。

そもそも地名は「言葉の化石」と言われ、言葉の中でもっとも変化しないものとされている。
それを考えると孝徳天皇が即位したのは645年の大化の改新後であり、
その治世に既に十三と呼ばれる要素があったことも不思議でなく、
後々、上記のような要因がからまって十三の地名が定着。
重蔵の件で読みが「じゅうそう」になって今に至る。
という、複合的なことも考えられる。多少強引な気もするけど。

みなさんはどうお考えですか?

BACK