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吾妻鏡の性質及其史料としての價値


原勝郎


 吾妻鏡が鎌倉時代史の貴重なる史料なることは苟も史學に志ある者の知悉する所たり、若し未同書に接せざる人あらば史學會雜誌第一號に掲げたる星野博士の同書解題をよみて後同書を一讀せられよ、其記事の比較的正確にして且社會諸般の事項に亘り、豐富なる材料を供給すること多く他に類をみざるところなり。然れども同書は其性質及其史料としての價値に至りては未充分の攻究を經ざるものあるに似たり、今少しく愚見を陳して以て大方の是正を仰がんと欲す、敢て斷案を下すと云ふにあらざるなり。
 史料の批評に二樣の別あり、第一其外形よりするもの、第二其内容よりするもの是れなり、外形上の批評とは其紙質墨色書體よりするものにして、史家の史料に接するに當りて先甄別を要する所の條件なり、然れども此種の批評のみにては未盡くせりといふべからず、若し僞造に巧なる者ありて當時の紙と當時の墨とを用ゐ當時の書體に熟して文辭も亦相應なるものを作爲せば、熟練の鑑定者と雖、往々にして欺かるゝことあるべく、又文書類の者は兎も角、著述に至りては此種の鑑定は效力を顯はし得べき場合極めて希少なるべし、且此種の批評充分にして鑑定正鵠を得、其史料にして僞造の者ならずと斷定せられたりとするも、未遽に其文書の内容を信用すべきにあらず、若し直にこれを輕信してこれを有效の史料となし其記載の事實によりて立論せば、其斷案の事實の眞相に背馳するに至る事なきを保せず、されば既に明に外形上によりして僞造と定まりたる史料は固より措て論ぜず、外形上の批評よりして疑似に屬するもの并に既に眞物と鑑定せられたる史料は爰に第二の試驗を經るの必要起るなり。
 内容批評即第二の批評は、更に之を分ちて二となすことを得べし、曰く史料其者の批評、曰く外圍の關係より來る批評是なり、第一は他に關係なくして單に其史料につきて下す考察にして、其史家に與ふべき史的觀念の極めて漠然たるべきにも關せず、史料利用の根原となるべきものなり、若し此考察にして健全なるを得ば史家は既に其事業の半を成し得たるなり、この考察や、其考證以前にあるべきものにして一言以てこれを掩へば、史料の自證是れなり、これを爲して後史家は更に外圍の事情に照らして以て既に得たる觀念の範圍を定め、其色彩を明にし、更に精確なる者となさゞるべからず、他證是れなり、史料の自證や必其他證に先つべき者にして、若此順序を顛倒する時は、史料は其獨立の價値を失ひて既に他の史料によりて成れる觀念に更に零碎の知識を附與するに過ずして、史料中にて多數の壓制行はるることなり、史料其者が固有せる色彩は全く埋沒し、其現に放つべき光は他より借受けたるものとなりて、恰も月が太陽の光によりて始めて輝くが如くなるべし、一個の事實にして二樣以上の解釋をなし得べき者少しとなさず、若し單に外圍の事情を基として成せる觀念のみを重くこれによりて、此疑を判定し得ざるべしとせば、此觀念の錯誤ある場合に於ては遂にこれを矯正することを得ざるべし、史料中の多數の壓制とはこれなり、而して如何なる事實も其實際に於ては決して一個以上の正當なる解釋を許さゞる者なること明なれば、最深最後の疑團は史料の自證を措きて他に解釋の方法を索め得べからざるなり。
 自證を經、他證を經るも、史家の職務は未終れるにあらず、史家は自證に始まり考證を經て精密となれる觀念を以て、更に史料に對し是を直接の史的知識となすを要す、史料の批評は爰に於て其終を告げたるなり。
 史料の批評の困難なること實に斯の如し、而して史料中文書を以て比較的容易の者となす、何となれば多數の文書は其中に含有する事實の數極めて少くして錯綜の度深からず、一事實の觀察は其史料全體の觀察となること多ければなり、書籍に至りては批評の困難更に倍加す、而して其書籍の浩瀚なるに從ひて益太甚し、其中には幾千百の事實を含有し、此事實や各其出處を異にし、然かも互に糾紛し解釋し、また解釋を亨くる者なればなり。故に書籍は其大體の史的價値を定め得たる後も、尚書中に存する各事實につきては特別の批評をなすを要するものなり、此事や明白の理の如く見ゆれども、多くの修史上の錯誤は信憑すべき者なりとの評ある書を過信して、書中の何れの事實も精確なりと速斷するより來ることを想へば、決して輕々に看過すべからざる要件なり、史料として或書籍の大體の價値を定むることは修史上極めて重要なることなれども、此批判定が書中の各事實に及ぼすべき影響は薄弱にして、且彌漫したるものなれば、書中の各事實の史的價値は大部分は其事實の特殊の考察に基かざるべからず、一般に僞書として排斥せらるゝ書籍も沙中の眞珠にも比すべき史的光彩の燦然たる事實を含有すること往々なり。
 鎌倉時代の根本史料たる吾妻鏡の如きは管見を以てせば或は其性質は誤解せられ、其史料としての價値は過大視せらるゝ者にあらざるなきか、左に遂次其理由を述ぶべし。
 (一)吾妻鏡は果して純粹の日記なるや否や
 日記類の史料中重要の地位を占むる所以は、單に其當時史料たるにあり、詳言すれば事實が其出來せし日に記載せらるゝを以てなり、出處分明といふが如きは必しも日記類の特長にはあらず、此點に於ける價値は日記者の觀察力の明否と、其公平と否と、及び其記述せる事實に對して日記者の位置如何、即出來せる事實と其記述との間に横はるべき外圍的媒介の性質によるものにして、事實が未確然たる認定を經ざる間に發生する日々の風説が、往々日記に上り得ることを思へば、此點に於ては、日記は却りて危險なる史料たることもなきにあらず、されば日記の史的價値は主として記憶なる者は時を經過すること長きに從ひて次第に精確なる再現を得ばき能力を失ふべしとの原理に基づくものにして、苟も日記にして其日記たるの性質を失ひて追記の性質を帶ぶるに至らば、其史料としての價値が減殺せらるゝ所あるべきは至當の事なり、彼武家時代に於ける公卿縉紳の徒に王朝の盛時を顧み醉生夢死し、當時の天下の大勢に至りては[心((夢−夕)/目)]然として知るなきの輩多きも、而かも其日記が相應に史的價値を有するに至れる其所以亦偏に爰にありて存するなり。
 吾妻鏡は果して純粹の日記なるや否や星野博士の吾妻鏡考にも
文體ヲ審ニスルニ前後詳略アリ前半ハ追記ニシテ後半ハ逐次續録セシニ似タリ
とありて徹頭徹尾純粹の日記にあらざることは博士既にこれを云はれたり。されど博士の所謂前半後半の經界は博士の吾妻鏡考中に見えざれば今高見を知悉するに由なし文治以前は措て論せず今其以後につきて追記と思惟せらるゝ二三の事實を列擧して以て蛇足を添へむと欲す。
 建暦三年四月十六日の條に
朝盛出家事郎從等走歸本所、告父祖等、此時乍驚、自閨中述出一通書状、披覽之處、處書載云叛逆之企、於今者定難被默止歟、雖然、順一族、不可奉射主君、又候御方、不可敵于父祖、不如入無爲、免自他苦患云々、義盛聞此事、太忿怒、已雖法體、可追返之由、示付四郎左衞門尉義直、(下略)
 朝盛の出家に至りては既に公然の事實なれば何人の之を知るとも怪むに足らざれども其遺書の閨中に存せしこと并に其書中記載の事項に至りては遽に和田一門以外の人に洩るべきにはあらず、殊に書載云以下の事項に關しては和田氏未公然擧兵の事あらざる以前にありては、和田氏たる者力を竭して其秘密を保つべきことなるは理の當然なれば、此遺書の發見せられし當日に日記者の耳に達したりとせむ事頗危險なる斷案なり、故に吾妻鏡が此條の記事を以て信憑するに足るものとせば、追記したりとする方安全の推測なるべく、然らざれば、此事項は記者の臆斷にとゞまるに過ぎざるものとなるべし。
 同年五月三日の條に
御方兵由利中八郎維久、於若宮大路射三浦之輩、其箭註姓名、古郡左衞門尉保忠郎從兩三輩中此箭、保忠大瞋兮、取件箭返之處、立匠作之鎧草摺之間、維久令與義盛、奉射御方大將軍之由、披露云々
 同五月五日の條に
去三日由利中八郎維久、奉射匠作事、造意之企也、已同義盛、可彼糺明之由、有其沙汰、被召件箭於御所之處、矢注分明也、更難遁其咎之旨、有御氣色、而維久陳申云、候御方防凶徒事、武州令見知給、被尋決之後、可有罪科左右歟云々、仍召武州、武州被申云、維久於若宮大路、對保忠發箭及度々、斯時凶徒等頗引返、推量之所覃、阿黨射返彼箭歟云々、然而猶以不宥之云々
 五月三日の條と同五日の條とは若吾妻鏡が一人の手に成りたる日記なりとせば、明に其間に矛盾の存することを見るべく、此矛盾を解釋せんには三日の條の記事を以て追記なりとせざるを得ず、然らざれば三日に於て既に明白なる事實が、五日に於て疑義となること怪むべきことなり、且三日の記事は既に其中に於て矛盾を含めり、慥に御方に候せる維久が、故に矢を義盛に送りて泰時を射さしめたりといふが如きは、事實上あり得べからざることにして、此矛盾は益三日の記事の麁忽に追記せられたることを證する者なり。
 承久兵亂の記事に至りては半ば全く追記なり、若追記なりとせざれば、此日記者は數多の分身を有する人ならざるべからず、承久三年五月廿四日までは記者は鎌倉を中心として記述をなすと雖、廿五日の條に至りては初に
自廿二日至今曉、於可然東士者、悉以上洛、於京兆所記置其交名也
と鎌倉の事を記し、而して同日の條に
今日及黄昏、武州至駿河國、爰安東兵衞尉忠家云々
と駿河國に起れる事件を記す、日記者はこれよりして二個の分身を有す。
 廿六日の條に初は
始行世上無爲祈祷於鶴岡云々
と鎌倉に起れる事件を記して而して、同日の條
武州者着于手越驛云々
また
今日晩景秀澄自美濃國去十九日遣官軍所被固關方之也重飛脚於京都申云、關東士云々
とあり記者の分身の數は爰に於て更に一個を増せり。
 同廿九日の條に
佐々木兵衞太郎信實兵衞盛綱法師等相從北陸道大將軍朝時令上洛、爰阿波宰相中將信成卿亂逆之張本家人河勾八郎家賢腰賢瀧口季後胤引率伴類六十餘人、籠于越後國加地庄願文山之間、信實追討之訖、關東士敗官軍之最初也
 また同日の條に
相州武州等率大軍上洛事、今日達叡聞云々、院中上下消魂云々
爰に至りて分身の數更に二個を増して一は北陸にあり一は京師にあり。
 同晦日の條に
相州著遠江國橋本驛云々
とこれによりて見れば記者にはなほ相州の身に添へる一分身ありけるなり、此の如く承久兵亂に關しては吾妻鏡は鎌倉に起りしことも北陸に起りしことも乃至は關西に起りしことをも皆各其起りし日にかけて之を載することなるが、此の如き早業は電信なるものゝ存せざりし當時にありては、日記者にして數多の分身を有するにあらざるより、決して成し得べからざることなり、而して分身の事も亦あり得べき事ならざれば、承久兵亂に關する吾妻鏡の記事は後日の追記なること疑もなきことなるべし。
 脱漏之卷嘉禄二年十一月八日の條に
陸奧國平泉圓隆寺燒亡、于時有此災之由、告廻鎌倉中者有之可謂不思議云々然後日所令風聞彼時刻也
これ明に此記事の追記たることを自白するものなり
 以上述ぶる所によりて推論せば、吾妻鏡は少くも嘉禄二年までは追記の事實を混じたる者なること明なるべし、今假りに嘉禄二年を以て追記と否との經界と定むるときは、此年は吾妻鏡が筆を起せる治承四年より算すれば四十七年目にして、此書を載する所の記事が八十七年に亘るよりして考ふれば、年數に於ては先中頃とも云ふべければ、星野博士が前半は追記なりと云はれたるは、至當の言なるべし。此前半が一人の手にて一擧に追記せられたるや、或は既に存せし日記に補繕をなしたる者なるや、博士もこれを明言せられず、余は寧後説を信ぜんと欲するものなれども、此點は今暫くこれを措き、兎に角吾妻鏡の前半は純粹の日記にあらざることを思はゞ、其價値の大體に於て減殺を來すべきことは、免るべからざる運命ならむ。
 (二)吾妻鏡は其性質上果して官府の書類なるべきか
 吾妻鏡は既に追記と日記とを混じて成れる者と定まれりとすると、若し其追記の部が官府の吏人の公職を帶びてなせる者ならば、吾妻鏡は公書類として特別の價値を失ふことなかるべし、余は竊かに其公書類たるを怪しむ者なり、星野博士は其
治承四年ヨリ文永三年ニ至ルマテ凡八十七年間鎌倉幕府ノ日記なり編者ノ姓名傳ハラサルモ其幕府ノ吏人ナルハ疑ナシ
と云はれたれども余は寧ろ林道春の東鑑考に
東鏡未詳撰、盖北條家之左右執文筆者記之歟、此中北條殿請文下知書状等皆平性而不書諱、又其廣元邦通俊兼之筆記亦當混雜而在歟
と云へるに同ぜんと欲す。承久以降鎌倉幕府の實權全然北條氏の手に歸してよりは、北條氏の左右とても實際は幕府の吏人と異る所なければ、吾妻鏡後半の無味乾燥の事實多き日記の部に至りては、孰れにても不可なきことなれども、其上半即比較的價値の大なる部分を考察する時は、官府の書類としては少しく詳細に過ぎ冗長の嫌あるのみならず、其北條氏を回護することの至れる、鎌倉幕府の吏人の編著としては奇怪に思はるゝ條少からず、星野博士は吾妻鏡を評して
叙事確實質ニシテ野ナラズ簡ニシテ能ク盡クス頼朝ノ天下經營ノ方略北條ノ政柄攘竊ノ心曲等描寫ニシテ其顛末を具備セリタヾ頼家變死ノ一事ハ曲筆ヲ免レズト雖、其餘ハ皆直書して諱マズ
といはれ
頼朝ノ傍[女(謠−言)]政子ノ妬悍ノ類隱避スル所ナキヲ以テモ之ヲ知ルベシ
とて其直筆の一例となされたれども、王朝淫靡の餘風を享けらる當時にありては男女の關係の亂れたりしは事實にして、當時の人も強てかゝることを秘密にせむとの念慮熾ならず。これに關しては其倫理の標準は他の人倫關係に於けるよりも數等低かりければ、從ひて曲筆を爲すの必要を感ずること薄し、故に單にこれのみを以ては、吾妻鏡は一般に直筆なりとして之を信用すること難きものあるに似たり、今頼家變死の事件以外に曲筆と思はるゝ二三を例擧すべし
 建仁三年九月五日の條に
將軍家御病痾少減、[(來力)/心]以保壽算而令聞若君並能員滅亡事給、不堪其鬱陶、可誅遠州由、密々被仰和田左衞門尉義盛及仁田四郎忠常等、云々
とあり義盛は能員の邸を攻めし人なり、頼家如何に暗愚なりとするも、既に事變を聞きたりとせば、義盛の擧動を知るべき筈なり。假りにこれを知らざりしとするも、斯る重要なる密事を託するに先ちては、必之を託するに足るべき人を選擇するは普通にして且至當の事なれば、頼家が密書を義盛に與ふるに際しては比企邸の事變に關して義盛が執りし態度を知れりと考ふること穩當なるべし、既に之を知れりとせば、北條方なる義盛に頼家が密書を與へたることは實らしからざることなり、よし吾妻鏡の編者に數歩を讓りて義盛の比企邸を攻めしは深く北條氏に結托せる結果にはあらずして、比企氏に對する感情より來りたりと假定し、頼家が義盛に反正の望を屬し、其右族の領袖たるの故を以て、此密事を得べき唯一の家人と信じ以て密書を與ふるに至れりとするも、同樣の密書を仁田忠常にも與へたりとの事實は信用しがたき事なり、忠常は能員を殺したる當の下手人なり、而して其驍勇は有名なるも、別に鎌倉に勢力ある人にもあらず、頼家と雖、豈かゝる輩に密事を委託するの愚を學ふべき筈あらんや、愚考を以てすれば、此日の記事は、少くも其忠常に關せる部分は、翌日時政が忠常を殺す條の伏線として、之が辯明に供したる風説を登録したるに過ぎず。
 元久二年六月廿一日の條に
牧御方請朝雅去年爲畠山六郎被惡口讒訴、被鬱胸之、可誅重忠父子之由、内々有計議、先遠州被仰此事於相州並式部烝時房主等、兩客被申云、重忠治承四年以來、專忠直間、右大將軍依鑒其志給、可奉護後胤之旨、被遺慇懃御詞者也、就中雖候于金吾將軍御方、能員合戰之時、參御方抽其忠、是併重御父子禮之故也重忠者遠州聟也而今以何憤可令叛逆哉、若被弃度々勳功、被加楚忽誅戮者、定可及後悔、糺犯否之眞僞之後、有其沙汰、不可停滯歟云々
 同廿三日の條にも
相州被申云、重忠弟親類大略以在他所、相從于戰場之者、僅百餘輩也、然者企謀反事、已爲虚誕、若依讒訴逢誅戮歟、太以不便、斬首持來于陣頭、見之不忘年來合眼之眤、悲涙難禁云々
とあり若此等の記述にして事實ならば、義時が重忠を以て忠孝節烈の士となしこれを敬愛しこれを辯護すること至れりといふべし。而して諫めて聽かず號泣して父に從ふが如きに至りては、義時は殆儔稀なる義人孝子といふも可なるべし、此事件に付きての政子の態度をば、吾妻鏡之を明記せざれども、其後幾くもなくして起れる朝政謀反事件よりして考ふるも、政子は重忠誅戮に關しては義時も同一の意見なりと想像して大差なかるべし、然るに同年七月八日の條に
以畠山次郎重忠餘黨等所領、賜勳功之輩、尼御臺所御計也、將軍家御幼稚之間如此云々
 同月廿日の條に
尼御臺所御方女房五六輩、浴新恩、是又亡卒遺也云々
とあり、寃罪にて誅せられ廣常の後の如きは勿論、眞に其罪ありて誅せられし者の後と雖、なほ幕府より撫恤を蒙れる例もあり、傳ふる如くんば重忠秋毫の罪あるにあらず、これ鎌倉の衆目のみる所、義時政子の熟知する所なり、假令重忠の誅戮をば宥むること能はざりしにもせよ、延て其餘黨を窮追しこれが所領を奪ひ政子の計らひとして之を勳功の輩に與ふることあるべからざるなり、義時も又爰にいたりて一言の云々もなし、義時政子の二人何ぞ始めて孝且義にして後に漠然たるの甚しきや、或は當時二人の擧動を以て父時政に對して忍びざるの情より來りたりとするも、若同年閏七月の事變に際する二人の態度を考へば、始めに處女にして終りに脱兎たる者か、怪むべきの至なり。換言すればかゝる矛盾を來す所以は吾妻鏡の編者が強て義時を回護せんと欲するの念よりしてかゝる曲筆を弄するに至りしに外ならざるべし。
 其他吾妻鏡に謀叛と記せる者の中には北條氏に對して何等の反抗の準備もなかりしもの少からざるは、また怪むべきの一なり、今其例を擧ぐれば、元久二年八月の宇都宮彌三郎頼綱の謀叛の如きこれなり、然るに頼綱の降ること速なりしよりして考ふるも頼綱は決して當時の幕府に對して謀反を準備したる者とは見えざるなり、自餘の所謂謀叛の徒の中にも單に攻撃的動作を爲さざりしのみならずして、甚しきは應戰防守の準備さへもなく一たび討平を向けらるれば或は直に遁逃し或は謝罪し或は自殺せる者多し。知るべし、是等は多くは眞の謀叛者にあらず些少の事項は北條氏の口實とする所となりて顛滅の難に遭ひし者なることを。殊に寛元五年六月三浦氏滅亡の條を熟讀し余は益余の推測の至當なることを、信ぜんと欲するなり、安達氏北條氏と結びて頻りに名門右族を芟除す、而してこれ亦北條氏の好む所に投じたる者なり、三浦氏も亦此隱謀の犧牲となりしものにして其擧兵の跡甚憐むべきものあり、吾妻鏡の編者此等の徒を汎稱して謀反といふ、盖北條氏に[言叟]るものなり。
 建保四年九月廿日の條實朝大江廣元の諫言に答へて
源氏正統縮此時畢、子孫不可相繼之、然者飽帶官職欲擧家名云々
と云へりと、吾妻鏡に記せりと雖、當時の鎌倉は次第に關東素撲の風を脱して競ひて京都の虚禮多き開化を輸入せることなれば、實朝の高官に昇り且昇るを望みしことも、さして怪むべき事にはあらざれば、其昇進の事必しも實朝の讖言を借らざれば説明し得べからざるにはあらず。余は寧ろ實朝の此言を發せしといふことの事實たるを疑はむと欲するなり、恐くは北條氏の爲めに鶴岡の變に關する嫌疑を回護せむとして此言をなせるにあらざるなきか。
 建保七年二月八日の條に
去月廿七日戍尅供養之時、如夢兮白犬見御傍之後、心神違亂之間、讓御劒於仲業朝臣、相具伊賀四郎計、退出畢、而右京兆者被役御劒之由、禪師兼以存知之間、守其役人、斬仲章之首、當彼時此堂戍神不坐于堂中給云々
疑ひ來れはこれ亦義時人を欺くの擧動とも解釋し得べし、承久二年正月十四日の條に
亥刻相州息次郎時村三郎資時等、俄以出家、時村行念資時眞照云々、楚忽之儀人怪之
と説けるは、或は偶然に鶴岡事變に關する義時の態度の隱微の消息を傳ふる者にあらざるか。
 寛元二年頼嗣の繼立に付きては、吾妻鏡は何等の委曲をも傳へず、建長三年頼嗣廢せらるの件に關しても、建長三年十二月廿二日の條に
鎌倉中無故在物念謀反之輩之由、巷説相交、幕府並相州御第警巡頗嚴密云々
同月廿六日の條に
今日未尅之及一點而、世上物[公/心]也、近江大夫判官氏信、武藏左衞門尉景頼、生虜了行法師矢作左衞門尉千葉介近親長次郎左衛門尉久連等、件之輩有謀反之企云云、仍諏方兵衛入道爲蓮佛之承推問子細、大田七郎康有而記詞、逆心悉顯露云云、其後鎌倉中彌騷動、諸人競集云々
同月廿七日條に
被誅謀反之衆又有配流之者云々、近國御家人群參如雲霞皆以可歸國之由被仰出也
と記載するのみにて將軍廢立の理由に至りては極めて漠然たり、吾妻鏡の最後の記事なる將軍宗尊親王を廢して京都に返すの條もまた要領を得ず、盖此書の編者回護の途なきよりして事實を湮滅したるものなり
 吾妻鏡の北條氏の爲に辯護し屡曲筆に陷ること如此なるよりして見れば、余は之を以て幕府の公書類となすよりは道春の考證に從ひて北條氏の左右の手に成れる者となすの穩當なるを信ずるなり。
 吾妻鏡は惟り曲筆の少からざるのみならず更に他の理由よりして官府の日記にあらざることを證し得べし、理由の第一は、其體裁格例の一定せざる事これなり、官府の日記とは官府に奉仕するもの其職務上記注する所の日記に外ならずして、其記注の方法に至りては自一定の格例あるを常とす、繁簡は素より事實に從ひて異るべきものなれば、之を一樣ならしむること能はざれども、若既に一事件を記載したりとせば同種類の事件再出來する時は、特別なる事情あるにあらざるよりは、必ずこれを記すべきは至當の事にして、其繁簡の度も一樣なるべき筈なり、吾妻鏡中文治以前の小説的記事多き部分は今之を措き、其他の部分に就きて之を見るも體裁の不揃なること驚くに堪へたり、年處を經るに從ひて浩瀚の書の殘闕を生ずるは自然の事なれば、吾妻鏡の同一運命に遭遇せること素より怪むに足らざれども、一ケ月以上の連續せる脱漏あるにあらずして、然かも一ケ年中僅かに四五日の記事あるもの多きに至りては、余はこれを以て單に散佚の結果ありと信ずること能はざるなり、此の如きは正治建仁の際に於て殊に甚しきを見るなり、今左に正治三年より建仁三年まで吾妻鏡に見ゆる日數を示すべし
正治三年(建仁元年)
正月、三日、二月、四日、三月、五日、四月、三日、
五月、四日、六月、四日、七月、二日、八月、三日、
九月、九日、十月、七日、十一月、二日、十二月、五日、
合計 五十一日

建仁二年
正月、四日、二月、四日、三月、六日、四月、三日、
五月、八日、六月、七日、七月、六日、八月、六日、
九月、五日、十月、十日、十一月、八日、十二月、八日、
合計 八十五日[#建仁二年の合計は七十五日になる。ここでは建仁三年の日数記載なし]
 三ケ年一千有餘日の中に就きて日記に上ぼれるもの僅々百九十日に過きず、如何に平穩無事なりとても、餘りに簡略に過ぐるなり、蹴鞠和歌の諸會のみならず天體の日常の變化其他鎌倉市中の些事に至るまで輯録するを厭はざる吾妻鏡としては、余は是等過度の簡略に關して日記として正當なる辯解を有せざるなり、殊に建仁元年四五月の交は越後に城資盛の叛ありて鎌倉よりは討手として佐々木盛綱を遣はせるなど、中々の騷動なりしに、當時の記事の寂莫此の如し、これ豈格例ある官府の日記の資格を具備するとのならむや
 又建長二年十二月廿九日の條に
所謂新造閑院殿遷幸之時、瀧口衆事自關東可被催進之旨、所被仰下也、仍日來有沙汰、任寛喜二年閏正月之例、各可進子息由、召仰可然之氏族等、但彼時人數記不分明之間、被尋出所給御教書、就其跡等、今日被仰付之處云々
 是によりて見れば瀧口に關する寛喜二年の古例の記録は官府に存せざりしや明なり、然るに吾妻鏡寛喜二年閏正月廿六日の條に
瀧口無人之間、仰經歴輩之子孫、可差進之旨、被下院宣已訖・仍日來有其沙汰、小山下河邊千葉秩父三浦鎌倉宇都宮氏家伊東波多野、此家々可進子息一人之旨、今日被仰下其状云々
若寛喜の此記事にして官府の日記なりとせば、建長二年に於て各家に賜へる御教書に就きて古例を尋ぬるの要なかるべし、而して建長二年の條には人數不分明とあれば、寛喜の記事は官府の日記にあらざること照々たり。
 (三)吾妻鏡の性質及其史料としての價値に關する私案
 吾妻鏡は純粹の日記にもあらず亦幕府の記録にもあらざること前文述ぶるが如くなりとする時は、吾妻鏡は然らば如何なる性質のものなるやとの疑問は必生ずべし、私案を以てすれば吾妻鏡は三部よりなる者の如し、
 第一部 治承四年より承元前後まで
此部は諸家の記録及故老の物語を參照して日記體に編述せし者なるべく吾妻鏡中趣味尤津々たれども從ひ潤飾の跡多く北條氏の爲に曲筆をなせし個所少からず
 第二部 建暦前後より延應の前後まで
此部は追記の個處も曲筆も第一部よりは少し、大事變の場合を除けば他は主として諸家の日記によれる者の如し、全體に於ては一人の編輯の如くなるも、口碑を採用せし點は至って少く、第一部に比して多く信憑するに足る文暦二年及寛元二年の重出するは第二部の終りと第三部の初と其年代に於て重複する所あるの證左なるべく、第二部も終りに近くに從ひて純粹の日記となる、恐くば第三部の初は第二部の終りの直接史料にあらざるか
第二部の第一部と其編者を異にするは、大事變大儀式等を記述するに當りて、第二部に特有なる熟語例へば濟々焉の如しの用ひらるゝによりて之を推すべし
 第三部 延應前後より終りまで
此部は北條氏の左右の記せる純粹の日記なり
 此の如く吾妻鏡は複雜なる構成を有するものなり、若し一貫したる性質のものとする時は寶治二年二月五日の條の
云義顯云泰衡、非指朝敵、只以宿意誅亡之故也云々
といへる記述は、文治五六年の記事と撞着して説明しがたきに至るべし。
 史料として吾妻鏡の價値は主として守護地頭其他の法制に關係ある事實にあり、これ吾妻鏡の史料は多く政所問注所に關係ある諸家の日記其他の記録なるべきの故のみにあらず、法制關係の事項は曲筆せるゝ危險の度比較的寡少なるを以てなり、其他の事項に關しても吾妻鏡は豐富なる史料を供給する者あれば、鎌倉時代の根本史料たることを失はざれども、法制關係を取除きての政治史の材料としては一種の傾向を有するよりして、從ひて往々曲筆を免れざるが故に、信憑すべき直接史料となし難きものなり。
 以上の私案は、吾妻鏡其者のみに就きて爲したる考察にして、此考察と雖、未充分なる商覈を經たりといふにあらざれば、此私案も不完全を免れざるは明なり、謹みて江湖博學の是正を俟つ、若夫れ吾妻鏡所載の各事實の考證に至りては本論の主とする所にあらざるなり。


底本:「日本中世史の研究」同文館
   1929(昭和4)年11月20日初版発行
初出:「史学雑誌」第9編第5,6号1898(明治31)年5,6月
入力:はまなかひとし
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