ZUをテノールさせる
最高の調律
北見紀生
ZUストーリー
東京・渋谷区富ガ谷、都心環状線山手通りのそば。閑静な住宅街が立ち並ぶ中に、時折オートバイの排気音する。どうもそれは4ストローク大排気量車らしい。
 家と家の敷居が3メートルと離れていないこの住宅街に、その音は響く。
 普通だったら苦情の一つや二つは聞かれるものだ。だがその音は、例えて言うなら声楽のテノール(男子の最高音、またその歌手)のようで、余計なノイズがなく、下から上まで気持ちよくのびる。誰でも腰が抜けるに違いない。
 その音の元を探る。それは盆栽や木々に囲まれた小さな庭に置かれた、ZUだった−。「この人にZUをいじってもらうと、ノーマルなのにまるで違う。この前なんか、チューンしたZU置いてっちゃったもん」
 いつからか、Zフリーク達の間にこの話は広まり、また伝説と化していった。
 その庭にある小さな椅子にすわり、常連の「仲間」たちと談笑している男、北見紀生。昭和10年生まれ。旧メグロのスタッフでおそらく彼は最後の、じかにバイクを接している職人だろう。
 北見さんのところに持ちこまれるZU。加速がスムーズじゃない、どうも低速がおかしい、エンジンヘッドから異音するetc・・・。そんなZUを「ちょっと借りるよ」といって試乗する。近所を走って、5分もしない内に戻ってきて「大丈夫ちょっと一日預かるよ」時にはエンジンをかけ、5秒で「ああ、こりゃあ、入院だね」といって預かる。翌日、オーナーの元へ戻されたZUは、以前とは明らかに違う性能・燃費をみせる。パーツを換えた様子もない。
 以前、他のバイクショップで、修理はパーツ全取り替えで30万円コースと言われたZが持ち込まれたことがある。そのZにかかった費用は調整代のみ、1万円にも満たなかった。
 「要は、基本に忠実であるということですよ」笑いながら北見さんは言った。
 ’73年、CB750Fourに遅れること4年、国内初のDOHC4気筒としてデビューした750RS。A1から始まるカワサキのテクノロジーが脈々と流れるZ。だがそれまでのモデルと明らかに違うのは、その過剰なまでの品質、耐久性だった。それは後のモデルに引き継がれ、現在もカワサキのアイデンティティーになっている。
 ZUがデビューしたとき、北見さんはカワサキの販売店での技術指導員だった。当時の画期的な技術の集大成であるZUを、ポッと出の人では、そうやすやすと技術指導できなかったはずだ。話は、北見さんがメグロに入社した時まで遡る。
 「中坊のころかな、隣の叔父さんがハーレーに乗っててさ、かっこいんだよね。で、当時(昭和20年代後半)はいわゆる若いコは金の卵の時代でしょ、俺も例にもれず16のときに就職となったのさ」
 メグロには組立工として入社。当時のバイクは今のようにオートメーションではなく、一台一台人の手で組み上げていた。精度、部品の品質は今と比べものにならないくらいにおちる。ネジ、ボルトにいたるまで人の手でタップやダイスをかけて磨きあげた。
 「ネジっていいかげんだとすぐかんじゃうんだよね、だからまずナットの穴に油を染み込ませる。ある程度馴染ませた後、ボルトを込めるんだよ」
 工具や治具など、必要とあらば自分で製作した。大勢の先輩のもと、技術を習得し、2年後には試運転課に配属。当時はバイクをハイレベルで走らせる技術が必要だったのはもちろん、担当者車を直接整備する能力も問われた。
 「まだ高速周回路なんてなかった時代でしょ、そこらの河原をダーッて走るわけ。で、ちょっとでも調子悪いと、自分で全部バラすの。それをまた組み上げて、最高の状態でお客さんに渡すんだね。もう、全部を一人でやるわけなんだよ」早い人でも4日かかった。数え切れない程にテスト、分解、組立てを繰り返し、技術をみがいていった。「エンジンをチェックするとき、親方はマフラーに顔近づけてニオイを噛めっていってたよ」(笑)
 その後、北見さんはメグロの調律師として、全国を歩き回ることになる。官公庁などのメグロの調子を看てまわり、調子が悪ければ新車、いやそれ以上に良くして、再びオーナーに返してあげるのだ。
 メグロがカワサキに合併されたのは、昭和39年。ちょうど北見さんが大阪府警で40台の白バイを修理していた時だった。一週間のところを3日で済ませてメグロへもどる。これで終わりと思っていたところに用意されたのは、明石へ行けという辞令だった。カワサキでもサービスに徹することになる。W1、A1それぞれのモデル、いや1台、1台クセがある。それらをたんねんに看てまわる。そしてZUのデビューに出会う。 「なんて頑丈なエンジンなんだっておもったね」
 ただ、ごく初期のZUにはゆっくりとUターンするとエンジンがくすぶるくせがあった。「それを、街中で気持ちよく走るために、キャブや電気をいじってやるんだね」
 看てあげたZUはゆうに1千台を越える。メグロで最初は掃除や先輩の工具みがきから始まった修行が、後になって生きてきたのだ。「おれってよっぽど運がいいんだねほんとの話。いい経験をさせてもらったよ。メグロで実戦、カワサキでは理論を教えられたしね。普通技術指導員だと黒板にかいて教えるでしょ、おれは一緒になって実戦で教えたもんね。で、なおかつ乗れるでしょ。浅間レースに出ようとしたくらいだもの」
 その後、カワサキが企業として大きくなるにつれて、根っからの職人、北見紀生の居場所が少なくなってくる。そして昭和52年、退社して”オートショップ北見”をオープンした。のれん分け、グリーンショップのはしりである。

 「カワサキには感謝してますからね、もう売りまくりましたよ」
 そうして売ったZの面倒もすべて看てあげる。同じバイクでも、人それぞれの乗り方がある。それに合わせた調整をして手渡すのだ。「昭和26年からずっとやらせてもらえたからね。その経験ですよ」
 では、そのよほどの事がない限り部品を換えずに最高の状態にさせる秘訣はいったい何なのか。
 「ほんとに簡単なことなんだよ、まず電気をみる。ポイントの間隙の規定値。これはキョリを走るごとにずれてくるよね。それを調整するとき、1次電圧と2次電圧がくるっちゃったまんまやるとだめなんだよ。バッテリーも関連してくるんだけど、規定量入っているかどうか。悪いまんまほっとくと、コイルまでいっちゃうからね。電気なんてプラスとマイナスしかないんだから(笑)。キャブレターはねえ、おれが正常だと思っているのは、チョーク下ろしてエンジンかけるだろ、その後すぐにチョーク上げても安定してる状態。アイドリングは800回転くらい。これだとガソリンは濃いめと思うかもしんないけど、ガスは薄いままなの。点火時期も正しくなくちゃだめだけど、キャブはメーカー規定値よりも変えてあります。それは、パイロットとニードルの調整なんだね。それだけのことだよ。カムチェーンも取り替えずに調整するだけ。お客さんにあとはオイルを定期的にちゃんとみなさい。そうすれば大丈夫だと」
 基礎さえ解っていれば判るというが、そこは長い経験にもとづいているのはもちろんである。基本的にノーマルが好き。そしてZUは、まだまだいまのバイクにひけはとらないという。
 「20年経ってもこれだけのくるまだぜ、ちゃんと看てれば一生乗れちゃうよ」
 貴重な経験をさせてもらったと過去をふりかえる。また、今は同じような経験を積む機会が少ないともなげく。
 「今のバイクってほとんどメンテナンスフリーで壊れないでしょ。それをきちんと整備する機会がないからいろんな経験が積めない。それが悲しいね」
 ちょっと調律しただけでたちまち元気になるZ。北見さんのもとには東京のみならず遠くは九州から常連客がやってくる。一度修理した後に再び修理にはあまりこない。なにせこわれないから。あとは定期的な整備。車検。そしてツーリングの際のおみやげである。
 カワサキを売りまくったオートショップ北見も、体を壊したため、昭和61年に休むことになった。だが自宅営業の現在も口コミ等で、調子をくずしたバイクが、また、車検をひかえた常連者が待機。月に8台は持ち込まれる。もちろん、北見さんはZ以外も看ないわけではない。「何もカワサキだけがバイクじゃないからね。大事に乗ってるなら、ちゃんと面倒みてあげますよ」
 笑顔のやさしい職人は、最後にこう応えた。
(参考文献 Mr.Bike 1/1993)
昭和20年〜30年代、乱立するメーカーの中で、光り輝いていた”メグロ”。そのすべて手作りだった時代の単車屋たる気質を今もなお持ちつづけている、まさに”職人”そう呼べる人がいる。


幻のアイテム


オートショップ北見で新車ご成約のお客様に渡された粗品


オートショップ北見のステッカー
77は77年にオープンした意味
残念ながらこれはレプリカですが・・・


粗品中身は運転免許証入れです。
皮製で結構よく出来ています。
今ではサイズが合いませんが・・・


後ろにシンボルマークがスタンプされています。

オートショップ北見は、当時目黒区下目黒にあり、
カワサキの最優秀特約店でした。
Z400FXが発売になった79年当時
他店では新車の在庫を確保するのもままならないとき、
北見さんのところには常に5台以上が
展示されていたといいます。
店頭に並んだバイクは
直ぐに成約済の札がつくほど売れたと聞きました。
本当に面白いように売れるので
本人もびっくりしたと言っていたそうです。
そして、その後のアフターケアも含めて
北見さんの面倒見の良さは
今もなお受け継がれています。

KITAMI
当時の広告のコピーには

心の通う技術サービスで
楽しい二輪の輪を広げる店

とありました。


壁に掛かっているオートショップ北見の看板は、
当時そこにあったものを
愛弟子の独立の記念に贈ったのである。


今もなお北見さんの気質は、
変わることなくここに受け継がれている。