ミストラ Mistra(Mystra, Mistrasとも表記)

ミストラは、ペロポネソス半島の中央にある後期ビザンティン時代の都市遺跡です。1204年に第四次十字軍がコンスタンティノポリスを占領したことをきっかけに、西欧人がコンスタンティノポリスを首都とするラテン帝国を樹立して、ビザンティン帝国領のかなりの部分を統治しました。フランス系でギリシアを統治したギヨーム2世ヴィラルドゥアンGuillaume II Vileardouinは、古代都市スパルタに近いタイゲトス山に城塞を築き、統治の拠点としました。これがミストラの発展のきっかけです。それ以前は、ミストラはそれほど重要な場所ではありませんでした。

1261年にラテン帝国は崩壊しました。ビザンティン帝国軍はペラゴニアの戦い(1259年)でヴィラルドゥアンを捕虜にしていましたが、その身代金としてミストラはビザンティン帝国に引き渡されました。その後ミストラは栄えました。1348年からは、ペロポネソス半島はモレア君侯国として半独立し、当時ビザンティン皇帝を出していたパレオロゴス家の人が代々ここの君侯(despotes)となりました。ミストラはその首都として、また文化都市として栄え、多くの聖堂や修道院が建てられました。

スパルタの町。急峻な山々に囲まれています。現在ではギリシアの普通の地方都市で、特に厳しい教育がおこなわれているわけではありません。

ミストラはここから数キロの山腹にあります。

 

ミストラの町は険しい斜面に建設されました。山頂に、最初西欧人が築き、その後ビザンティン人が維持、拡充した城塞があります。
ミストラは、廃墟にはなっていますが、ビザンティンの都市全体の様子がわかる貴重な遺跡です。この町は、交易や絹の生産でも栄えました。
ビザンティン帝国滅亡の数年後、1460年には、モレア君侯国もオスマン・トルコ帝国に降伏しました。その後も町は繁栄していましたが、ヴェネツィア軍が占拠したり、アルバニア人に攻撃されたり、ギリシア独立戦争のときに破壊されたりして、結局放棄されました。

 

■宮殿

山すそにある、君侯の宮殿。西欧人支配時代の13世紀から建て始められ、15世紀にかけて増築されていったようです。ところどころで石積みが違っています。

このように大規模な建物です。ビザンティン時代の宮殿建築はほとんど残っておらず、ここは貴重な例です。

 

同じく、宮殿の壁。

 

■アギイ・テオドリ聖堂とアフェンディコ聖堂 Agii Theodori and Afendiko

このふたつの聖堂は、ブロントヒオンBrontochion修道院に属していました。修道院は、パコミオスPachomiosという人物によって建てられたことがわかっています。

アギイ・テオドリ(聖テオドロスたち)聖堂は、同名のふたりの聖テオドロスに捧げられました。建設年代は1290年から95年の間で、オシオス・ルカス修道院など中期の建築に似た、ドームの大きなどっしりとした建築です。

 

この修道院のもうひとつの聖堂、アフェンディコは、オディギトリアの聖母に捧げられ、1311年頃に建てられました。バシリカ式の下部構造の上に、ギリシア十字式の上部構造を載せた、独特の形をしています。ここに限らず、ミストラの聖堂には特異な形が見られます。
ドームに描かれた聖母子像のフレスコ画。写実的で端正な中にも、神秘性をただよわせた作風です。

 

アフェンディコ聖堂の内部の聖人像。
キリストの説話場面で、左と右はそれぞれ別の、キリストによる治癒の場面です。

 

■アギア・ソフィア聖堂 Agia Sophia

アギア・ソフィア聖堂は、モレア君侯国の最初の君侯であったマヌイル・カンタクジノスによって建てられました。建設年代は、彼の在位中、1348年から80年の間になります。宮殿に近いので、宮殿の付属聖堂の性格が強かったと思われます。

西から見たところ。一時は荒れ果てていましたが、修復されました。ギリシア十字式で、背の高い建築です。
内部のフレスコは、保存状態がよいとは言えませんが、修復を受けて見られるようになっています。降誕の場面。
同じくアギア・ソフィアのフレスコで、アナスタシスの場面。キリストが、善き人々の魂を墓から引き起こします。

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