
フロアには藤子の姿は無かった。
部屋に籠っているのかもしれない。
大西夫人が食器を簡単に洗い出すと陽一も手伝いを始めた。
玲が慌てて「私も何かします。」と声を掛けた。
「洗うのは、食器洗い機に任せてしまうから、そんなに遣る事が無いのよ。
座って待ってて良いのよ。見崎さんは、お客様で私はお世話係なんだから。」
「でも、」
玲の済まなそうな言葉に陽一が「それじゃあ、紅茶を入れるカップを選んで下さい。
好きな今日の雰囲気でお願いします。」と声を掛けた。
「解ったわ。」
玲は大きな食器棚に向かい、数あるカップの中から淡いピンクの花ように広がったカップを選んだ。
陽一が紅茶を入れ、ポットを暖めている間に玲が自室からバイオリンを持って来た。
「私は、バイオリンを弾く事しか出来ないから、それで良いかしら?」
「まあー、私も聴いて良いのかしら? 嬉しいわ。」
「まずは、大西さんも玲さんも僕の紅茶をゆっくり飲んでからにしてくださいね。」
陽一が紅茶の注がれたカップをお盆に乗せて運んできた。
カップとお揃いの花形の砂糖入れに、これまた可愛らしい花の形のした砂糖が入っている。
「わぁー。可愛いわねぇ。ゆっくりお茶を飲むなんて事、最近無かったようで、何だか気持ちが優しくなるのね。」
玲は、温かい紅茶をゆっくりと飲んでいた。
バイオリンの優しい調べが、辺りを包んだ。
玲は、伸び伸びとバイオリンを弾いている。
一曲だけで無く、二曲、三曲と弾いていた。
気持ちが乗っているのだろう。
陽一も大西夫人も静かに耳を傾けていた。
陽一達だけで無く、静かに耳を傾けている者がいた。
それは、母親の藤子と玲のバイオリンの師匠であった。
フロアに入って来た事も、気が付かずに玲は、バイオリンを弾いていた。
陽一と大西夫人は、腰掛けてフロアの入り口に背を向けていたので、気が付かなかったのだ。
玲が弾き終わり、弓をゆっくりと離した。
陽一と大西夫人の拍手に交じって、別の拍手が起きた。
そこで、ようやく母親の存在と師匠の存在に気が付いた三人であった。
「いやー、良かったよ。今までは、技術に気持ちが付いて行かなくて、変に肩肘を張った演奏だったが、今のは良かったよ。
もっともっと練習して上達すれば、今度のコンクールの優勝も夢では無いかもしれない。」
先生の言葉に玲より藤子が先に反応した。
「まあー、先生、そうですか? やっぱり、そうでしょう。玲ちゃんは、誰よりも上手い筈なんです。
天才じゃないかって言う評論家も居まして、先生にもっともっとご指導していただいて、是非に今度のコンクールで優勝させてくださいませ。」
藤子の熱弁が続く。
大西夫人が「あの、お茶でも入れますか?」と尋ねると、ようやく陽一と大西夫人の存在に気が付いたように
「ああ、そうね。まずは、お茶の用意だけしておいて頂戴。
今からレッスンに入るから、邪魔しないようにお願いしますよ。」と言うと、続けて
「ああ、今日は内の玲が我がままを言って、わざわざ来ていただいて有難う御座います。
ご自宅へ帰るにに、時間も掛かりますし、遅くなって事故でも起こしたら大変ですものね。
本当に有難う御座います。」と陽一へと頭を下げた。
暗に帰れと言っているようなものなのだが、陽一は、意味が通じたのかどうなのか、顔色を変えずに
「いいえ。お邪魔しました。玲さんの素敵な演奏も聞けましたし、ありがとう御座います。
それじゃあ、そろそろ失礼します。」と玲と藤子に頭を下げて、大西夫人に向き直り
「今日はお昼ご飯が美味しかったです。ご馳走様でした。もし、別荘の管理等で困った事があったら、どしどし言ってください。
改善出来る所は、改善しますのでお願いします。」と告げている。
陽一が帰り掛けた時、玲が走り寄ってきた。
「あの・・来週も花の配達をお願いしても良いですか? 一週間も経つと薔薇が枯れてしまうと思うので・・」
玲の真剣な眼差しに、陽一の笑顔が答えた。
玲は、名残惜しそうに陽一の後姿を見つめていたが、藤子の呼ぶ声に引き戻されて行った。
陽一が車のエンジンを掛けていると、窓をコツコツと叩く人物がいる。
藤子であった。
藤子は、陽一に一言、二言言うと玄関へと消えた。
陽一は、別荘を後にした。
「なあー、奈々子の奴、今日は食欲が無いって、まさか、まさかだよな?」
「何がまさかなの?」
「解らねぇ奴だな。結婚したい男と女がいりゃ、当然、あれだろ?
ええっ、そう言う事だってあるだろう? だから、あれだよ。」
「もう、何を言っているんだか、解りゃしないよ。お前さんの言葉は。はっきり解るように言っておくれ。」
「解らねえ奴だな。だからよ。奈々子が居て、陽一さんが居て。何なんだよ。」
「だから、何が何なんだよ?」
「だからね。陽一さんがだよ。」と言い合っている奈々子の両親の耳に玄関からチャイムの音が響いて来た。
「ええいっ! このややこしい話の時に! 誰だい!」と怒鳴る親父さんの声。
「すいません。松井 陽一です。」と陽一の声が聞こえてきた。
今、夫婦で話題にしていた本人だ。
「陽一さん?」と素っ頓狂な親父さんの声と「陽一さん?」と言う可愛らしい声が二階から降りてきた。
当然、奈々子である。
玄関のドアを開けると、薔薇の花束を抱えた陽一が立っている。
「こんばんは。これ、給料日前で、ちょっと寂しい花束だけど、どうぞ。」と奈々子に差し出す。
「わあ・・綺麗ねぇ・・ありがとう。嬉しいわ。」
花束を受け取りながら、奈々子が本当に嬉しそうに答える。
「あら、でも、これって、別荘に今日、持って行く花束じゃないの?」
奈々子のやや不満げな声に「ううん。これは奈々子さんへの花束だよ。見崎さんの所には、午前中に行ってきたから。
お昼ご飯を大西さんにご馳走になって今、帰って来た所。同じ花屋に頼んであったんだ。」と言う陽一に
「ああ、そうか。別荘には大西さんが居るのよね。ああ、そうなんだ。そうなのよね。」と謎のような奈々子の呟きだ。
「それじゃあ、これで」と陽一がドアから離れようとするので、慌てて奈々子が叫んだ。
「陽一さん、夕ご飯、まだなんでしょう?」
「うん。まだ6時位だし、これからだよ。」
「それじゃあ、内で食べて行かない? 美味しい煮つけとかサラダがあるのよ。
私もこれから食べる所だし、大勢の方が美味しいから。」
奈々子の声に父親も玄関に出てきた。
「おい、奈々子。裸足のまま、玄関にたって、何喚いているんだ?」
「もう、おとうさんったら五月蝿いわねぇ。」
赤い顔をしながら「ほら、お父さん。陽一さんも一緒にご飯を食べるんだから、
早く準備、準備。」と奥の部屋へと引っ込んでしまった。
奥の部屋からは「まあー、綺麗ねぇ。若い人は良いわねぇ。
私なんかお父さんから菊の花も貰った事ないわよ。」と母親の大きな声が響いて来た。
「変な奴・・」
ぽつり呟く父親に「はあ・・」と生返事をするしかない陽一であった。
「今日は、突然で大丈夫ですか?」
心配そうな陽一に「大丈夫よ。沢山有るから心配しないで。」と、さも奈々子が自分で作ったように料理を勧める。
「奈々子、お前、食欲が無かったんじゃないのか? その、なんだな、なんでだよ?」
「何、又、訳のわからない話をし出すのよ。料理が冷めるでしょう。」
謎の会話も含めながら、一日が過ぎていった。
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