『新しい歴史教科書』(扶桑社)を斬る7
「斬る5」の日清戦争の経過の中に次のようなことがあった。

11月21日,旅順占領
虐殺事件をおこす 婦女子・幼児を含む非戦闘員6万人の虐殺清国軍や現地民衆の抵抗に業を煮やした日本軍は、占領後四日間にわたって無差別虐殺を行った。11月28日の
『ニューヨークワールド』に、「日本は文明の皮膚を被り、野蛮の筋骨を有する怪獣なり」と糾弾する記事が掲載される・・・福沢諭吉の『時事新報』も、非戦闘員の被害者とは実は敗戦兵が軍服を捨て民間人を装っていた者だ、と強弁した。

遼東半島の旅順といえば日露戦争の時の激戦地として有名。乃木希典大将の率いる第3軍が二○三高地などの要塞を攻めたが20万樽以上のセメントで固めた要塞から撃ちだされる機関銃弾の雨は、決死隊の屍(しかばね)の山をきずき、山の様子もそのため改まったほどであった。旅順陥落までに155日の日数を費やし、累計13万の将兵、393門の火砲を動員して、死傷者5万9千を出した。
しかし上記の年表の旅順占領のできごとは日露戦争ではなく日清戦争の時のものである。日清戦争とはどんな戦争であったのかを知る上で、この虐殺事件をふくめて戦争をみるかみないかで戦争の実相の認識がかわると思える。
したがって、もうすこしくわしくこの虐殺事件のことを見てみたい。

1894年の旅順虐殺事件について(補足)

目撃された情景
恐ろしい情景が私の眼前に現れた。すでに申し述べたが、小路から出たところは池に面した高い斜面の上になっており、私が池を見ると、下の池の水と私との距離は約一五フィートあった。池は大勢の日本兵にぐるりと囲まれていた。日本軍は無数の避難民を池のなかに追い立て、四方から彼らに向って発砲し、あわせて懸命にあがいて池から逃れようとする避難民を銃剣で水のなかに戻していた。池の水面には死体が浮いていて、水は血で赤く染まっていた。復讐の喜びのため大きな笑い声をたてている日本兵は、被害者が受けている苦しみを喜んでいるかのようであった。眼前の全身血にまみれた避難民たちが濁った水のなかであがく情景は恐るべきものであった。まだ生きている避難民のなかには、無数の死体がまとわりつくなかから懸命に逃れようとしている者もいたが、すぐさま躓(つまず)いて倒れてしまった。彼らは幾度も繰り返し最後の力をふり絞ってはまた立ち上がり、全身血の水を流しながら、憐れな叫び声や哀願の声をあげていた。周囲の殺人鬼たちは、彼らの叫び声をまねていた。避難民のなかには、多くの女性がいた。一人の子どもを抱いた女性が見えた。懸命に前に向って進んできて、母親は子どもを日本軍に差し上げ、あたかも哀願しているようであった。彼女が水を渡って岸に着いたとき、鬼の一人が銃剣で彼女を突き刺した。彼女が倒れたとき、鬼はまた一突きし、その二歳ばかりの子どもも突き刺し、小さな死体を高々と銃剣の上に掲げた。母親は起き上がり狂ったように子どもを奪い返そうとした。しかし、明らかに彼女の力は尽きんとしているところで、再び躓いて池水のなかに倒れていった。・・・
やっと数カ月になるひとりの嬰児の小さな死体が、一本の鋭い鉄のピックでカウンターの上に釘付けにされていた。床には次第に凝固する人血や死者の臓物が、二、三インチの厚さに積もっていた。死者の手や足、頭は切り落とされ、至るところに放り投げられていた。

(『在龍旗下』ジェームズ・アラン(英人) 中国語訳)

ある家のオンドルの上で、ひとりの女性のまわりを四、五人の子どもが囲んでいた。大きい子は八、九歳で、小さい子は女性の胸のなかで乳を吸っていた。全て日本兵によってオンドルの上で刺し殺されていた。ある老人は戸口のそばで刺し殺されていた。どうやら老人は門戸を開けて出てきたときに殺されとようだ。ある部屋には、死体があちこちに無雑作に置かれていて、殺された者の大部分は老人、子ども、女性であった。(鮑紹武)

全ての家々は戸が壊れ、なかには死体があちこちに倒れていた。頭がない者、胸が大きく切り開かれた者、腸が外側に山になって流れ出ている者などがいた。鮮血が噴き出して壁じゅうについていた。日本兵は焼殺したり虐殺したりしたほかにも、女性を強姦したりした。犯したのち、さらに殺害した・・・ある両替商では、・・・カウンターの上にある木の柵の上に何人もの頭が挿してあり、ひとりの子どもが壁に釘付けにされていた。(王宏照)

虐殺された人数は
生き残りは全市街で36人

顧元勲が据えた萬忠墓の裏面には、一万八百余名が葬られている旨の記載があった。萬忠墓には、いったいどのくらいの数の人々が葬られているのであろうか。というより、旅順では兵民あわせてどのくらいの人々が虐殺されたであろうか。曲傅林「萬忠墓記」には、一万八百名余とあるのは誤りで、「実際は一万八千余名」と記されている。その根拠になったものは、「擡屍隊(たいしたい 死体の始末に従事する者)」の一員であった蘇萬君や王宏照らの証言とのことである。また、この数字が現在のところ、中国側の公式の数字になっているようだ。萬忠墓を発掘して出土した骨灰も百年という歳月の前に、これを計量し人数を算出することは不可能のようである。


虐殺の原因は
外国人新聞記者たちは、日本軍がそれまでの好感の持てる態度を一変させ、旅順で三日間、四日間、いや五日間にもわたり無抵抗な人々を放逸に殺戮するのに驚き、そして悲しんだ。クリールマンは、「日本はそれまでつけていた仮面をはずした」と
「ワールド」(十二月二十日付) に書き、ヴィリアースは「殺戮の明らかな原因はない」と「ノース・アメリカン・レヴュー」(一八九五年三月号)に書き、そしてコーウ エ ンは、「睡眠をとったあとにも、大量虐殺は続けられた」と「タイムス」(一月八日付) に書いた。・・・何故このような事態に至ったのか、どうにも腑に落ちないようであった。・・・結局は、仲間の生首を見たことが兵士の激昂を誘ったのであろうという結論に達せざるを得なかった。

第一師団長山地元治の命令
第一師団長山地元治は、十八日の土城子(どじょうし)の戦いに日本軍が苦杯を嘗めたのを知り、「鼠賊の如き敵兵に向ひ今日の戦を見るは遺憾(いかん)也、明日の戦には余自(みずか)ら之を指揮すべし」
(「中央新聞」十二月四日付)と、烈火の如く怒ったという。さらに、翌十九日に雙臺溝付近で、衛生兵に担がれた損壊された死体を目の当りにした山地は、「噫(ああ)清兵の惨烈何ぞ一に茲(ここ)に至るや自今以後亦(ま)た清兵をして一人だも生還せしむる勿(なか)れ」(同前)と語った。
・・・
余談ニナリマスガ旅順デ山路(山地の誤記・以下同)将軍ガ非戦闘員ヲモ捕ヘテ惨殺シタト云フコトガ当時新聞デ大分(だいぶ)八ヶ間敷(やかましく)ナッタコトガアリマシタガ是レハ旅順戦ノ初メ我ガ騎兵斥候隊約二十名ガ旅順ノ土城子デ捕ヘラレ隊長中萬(名は徳次)中尉ヲ初メ各兵士ハ皆首級ヲ切リ落サレ且ツ其ノ瘡口(そうこう)カラ石ヲ入レ或ハ睾丸(こうがん)ヲ切断シタルモノモアルト云フ実ニ言語ニ絶スル惨殺ノ状ヲ目撃セラレタル山路将軍ハ大ニ怒リ此(カク)ノ如キ非人道ヲ敢(あえ)テ行フ国民ハ婦女老幼ヲ除ク外全部剪徐(せんじょ)セヨト云フ命令ガ下リマシテ旅順デハ実ニ惨亦惨、旅順港内恰(あたか)モ血河ノ感ヲ致シマシタ
(『明治二十七八年戦役余聞戦役夜話』第一師団司令部付き通訳官向野堅一の言)
また、旅順占領後は山地の命令に沿った別の命令が下されていた。それは「壮丁の男子は大抵(たいてい)怪しき者なれば之を銃殺すべし」との命令で、「東京朝日新聞」(十二月二日付)に同紙特派員横川勇次が記している。これらの命令こそ、兵士たちが旅順で放逸に振舞う許可証のようなものであった。

虐殺事件は旅順のみか
・・・旅順近郊の村々は旅順に通ずる本街道からはずれているため、外国人従軍記者たちも住民への虐殺が起きているとは気がつかなかった。・・・旅順市街だけでなく近郊の村々の死者を数え上げると、これはいったい如何なる数字になるであろう。村々での死者は、周囲の生存者の手で葬られたものと思われる。萬忠墓には入っていない。

『日本侵略山東史』(劉大可、馬福震、沈國良共著・山東人民出版社・一九九一 年)によると旅順の戦い後、「山東半島と威海衛において、日本帝国主義分子たちがなした所業は、旅順口での行為に決して劣るものではない」。しかも、このとき日本軍は山東半島で「三光」を実行していたと記しているのである。日中戦争時に日本軍が三光作戦を行ったことは知られているが、同書では日清戦争時に早くも実行していたとしている。奪い尽くすーー日本軍は村に到着すると庶民の食料と家畜を奪い尽くし、威海衛周辺の村々では庶民が炊事をしようにも食物が何もないという事態になったという。焼き尽くすーー日本軍は至る所で放火をし家々を焼き尽くした。亭子齊(ていしせい)村ではそれから半世紀以上経過したのちでも、当時の大火災の瘡跡が残っていたという。殺し尽くすーー山東半島においても、日本軍はさまざまな手段で人々を惨殺した。例えば・・・三光の名はなくとも、実質的に同じことがなされていたということであろう。さらに、三光のほかに許し難いのは、婦女を暴行した獣のような行為であり、威海衛一帯で乱暴された女性は非常に多いとしている。これが事実であるとするならば、日本軍に誇れるような「仁義」はあり得ようもない。
旅順以前はどうであろう。・・・日清戦争の緒戦ともいうべき牙山の戦闘は・・・ 「東京朝日新聞」(一八九四年九月九日付)の「清軍の懸賞」と題する記事をみると・・・
倭兵嚮(さき)に牙山(がざん)に乱入し無辜(むこ)の朝鮮人三千余人を虐殺せり其惨酷(ざんこく)黙過するに忍(しの)びず今天兵特に来って被害三千韓人の為に倭兵を殲(つく)して其仇(あだ)を報ぜんとするものなり

これが真実であるとすれば、一説に二千名の犠牲者が出たという旅順を上回る虐殺が、日清戦争の始まりから(朝鮮でも)あったことになる。台湾でも・・・
旅順での事件は言うに及ばず、牙山や威海衛、それに台湾も怪しくなったとすると、日清戦争下に日本軍が足を踏み入れた地は、全て入念に調査する必要が生じてくる。「過去の戦争」というと、日中戦争や太平洋戦争(一九四一〜一九四五)に限定されてしまいがちだが、日清戦争まで視野に入れて、そう言わなくてはなるまい。まずは、日清戦争から見直しをしなくてはならないのである。

あとがき
以上は1995年12月に出版された 『旅順虐殺事件』井上晴樹(筑摩書房) をもとに引用しまとめたものです。この「旅順虐殺事件」を知ることの意味は何なのでしょうか。

近代日本が最初に行った大規模な対外戦争である日清戦争を、福沢諭吉は文明と野蛮の国との戦争であると主張しました。この虐殺の事実は日本軍隊が文明でもなく正義でもない戦争を行ったということを物語っています。また、1937年の日中戦争での「南京大虐殺」を否定しようとする自由主義史観に対する答えにもなりましょう。 旅順虐殺で政府は外国の反響を恐れたものの、軍として責任の所在を明らかにしなかった。このため台湾進駐においても問題を引き起こし、太平洋戦争まで幾多の虐殺事件をもたらすことにもなる・・・。
この事件をみないで、「日清戦争」をみたことにはならないでしょう。
戦争によって人間が鬼となった事実を私達は知らなければならないし、忘れてもなりません。



(2002年4月)


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