『新しい歴史教科書』(扶桑社)を斬る14

「戦前日本は台湾で何をやったのか」のその2

『新しい歴史教科書』(扶桑社 市販本)は、書きたかったのであろうが、日本は戦前、台湾の開発に力をつくし、善政をおこなったとはなっていない。と同時に植民地支配の実態もまったく書いていない。以下の文章は手放しの開発賛美論に対する反論ともなろうし、また植民地支配の実態の認識に役立つものと思える。

公刊『日清戦史』によると、台湾全島占領までに陸軍が投入した兵力は軍人が49835人、傭役軍夫26214人、計76049人であり、この間の戦闘による死者は527人、病死者は3971人、計4498人である。この数字は、1896年5月までの、台湾征服戦争を含む日清戦争全期間の陸軍戦闘死者の31パーセントをしめ、戦 病死者は35パーセントにあたる。
また陸軍省編『明治二十七八年戦役統計』によれば、「台湾」での傷病死者は7353名であり、日清戦争の主戦場となった朝鮮国・清国での傷病死者は5863人で、両方の合計13216名である。したがって台湾征服戦争は、日清戦争の後始末程度のなまやさしい軍事行動ではなく、もう一つの日清戦争とおなじ程度、あるいはそれ以上に多くの犠牲者を出した戦争であった。

丸 台湾植民地戦争における中国人犠牲者数
もちろん台湾の中国人の犠牲は格段に大きかった。以下『日本植民地探訪』(大江志乃夫著,新潮選書,1998)によりまとめてみると次のようになる。

丸 台湾植民地戦争の第一期(領土占領のための征服戦争)
1895年5月29日から、10月22日の台湾の「全島平定」、その後の台北付近の人民蜂起にともなう鎮圧ための戦争(1896年4月頃)までを台湾征服戦争の時期として、「全島平定」で日本軍によって殺害された中国人は軍人民間人合わせて約14000人に達する。その後の台湾北部の蜂起にたいする報復殺害数だけでも2831人に達したというから、第一期の征服戦争における中国系台湾人の犠牲者数の合計は約17000人と推定してよいという。

捕らえられた兵士たち
「日本軍に捕らえられた台湾の兵士たち」
(『写真記録,日中戦争1,15年戦争への道』ほるぷ出版より)

丸 台湾植民地戦争の第二期
(平野部で農業を営む中国系住民を対象とする、"糖業帝国主義"的統治体制の確立過程)
第二期は台湾人民のゲリラ的抵抗を鎮圧する植民地戦争に移行し、だいたい日露戦争前の1903年までつづく。
この時期につまりゲリラ的抵抗鎮圧戦争における殺害総数として、後藤新平民政長官の報告として、10950人という数字が挙げられているが、これも正確なところは分からない。『後藤新平』第二巻によると1897年から1901年までに死刑や殺戮した数は、11946人にのぼる。
「雲林の虐殺」は不明

しかし、上の数字は1896年4月から12月までの数字が抜けている。実はその間のはげしいゲリラ的抵抗の鎮圧における、中国人殺害者数が不明となっている。国際問題にまでなったのが、1896年6月の雲林支庁の斗六周辺の虐殺事件であった。台湾警察の正史である『台湾総督府警察沿革誌』IIに、
「後民戸の兵燹(へいせん:戦争のためにおこる火事)に罹(かか)りしものを調査せるに斗 六街に於て三百九十六戸を首(はじ)めとして、付近村庄五十五庄三千八百九十九戸に及び土民殺載の数の如きは審(つまびらか)にすべからざりき。」
とあり、一般住民もゲリラもすべて一まとめにして殺戮(さつりく)し、民家に放火し、その犠牲者数不明という、大惨劇を演じた。
この「第一次の討伐は、世上(せじょう:世間)所謂(いわゆる)雲林の虐殺と伝えられ、深く地方民の怨恨を買いたるを以て」、しかも中国で漢字紙・英字紙などにより報道されたので、天皇が罹災民に見舞の金を賜い、総督府も救恤(きゅうじゅつ)金を支出するなど慰撫策を講じ、かつ責任者を処罰した。しかし、その犠牲者数は不明のままである。

丸 台湾植民地戦争の第三期("樟脳帝国主義"的支配体制確立期)
以下は、『日本植民地探訪』(大江志乃夫著,新潮選書,1998)
の文章をそのまま引用する。(・・・は省略したところ)

・・・日露戦争が終わったとき、山地先住民つまり「高砂(たかさご)族」にたいする制圧はまだほとんど手がつけられていなかった。かつて台湾の中国系農民にたいする支配が「糖業帝国主義」と呼ばれたことがあったが、私はこれにちなんで、山地先住民にたいする制圧作戦をかって「樟脳(しょうのう)帝国主義」と名付けた。石炭化学工業の発達によるナフタリンの生産まで、台湾特産の天然樟脳は、防虫剤・医薬品のカンフル、セルロイドやフィルムの原料として世界的独占商品であった。良質の樟脳は樹齢五〇年以上の芳樟(台湾のみに生育)の根から採取されるため、樹齢の大きい芳樟を求めて次第に山深くに入らねばならなくなり、必然的に山地先住民の生活領域を犯し、あるいは樟脳採取者(脳丁と呼ぶ)と山地先住民との衝突・流血沙汰も頻発するようになった。しかも、一八九八年に樟脳は総督府の専売商品として盛んに輸出されていた。樟脳を手に入れつづけるためにも、山地先住民の制圧は不可避とされた。

丸 山地系先住民と「樟脳帝国主義」
台湾の先住民(山地先住民)は、日本の植民地時代は「高砂族」、現在の台湾では「高山族」と呼ばれている。・・・
先住民には、「高砂族」のほかに「平埔(ほ)族」と呼ばれた種族も存在したが、彼らは漢民族化がすすんで区別しにくくなっている。清国領有時代、これらの先住民は「蕃人」と呼ばれ、平野部に住み農耕に従事して清国の統治に服した種族を「熟蕃」、山中に住み狩猟・採取を中心として清国の統治に服さない種族を「生蕃」と呼んだ。この呼び方は日本の植民地になってからも受けつがれたが、あまりにも先住民蔑視的で差別的な呼称であるので、のちに「平塙族」「高砂族」と改められた。・・・
「台湾警察現勢図」(昭和七年末)を見ると、警察諸機関の位置はもとより、鉄道や州・都市境界の記入のほかに、「蕃界」という線が書き入れてある。いわば山地先住民の封じ込め線であるが、台湾脊梁山系を包囲したこの線が、蘇澳の南の南澳付近で海に入る大南澳渓の河口から、花蓮の北のタツキリ渓・・・の河口まで途切れている。もう一か所台湾の南端に近い大武から常春県の旭海付近までが切れており、・・・
山地先住民の封じ込め線は、地形が険しく交通が困難な東海岸の二か所で、大きな穴があいていた。・・・山地先住民は、この海岸から彼らの生存に欠くことのできない塩を手に入れることができた。山地先住民の制圧作戦は、彼らを取りまく包囲線(隘勇線)を圧縮して彼らを高山に追い上げ、塩を絶ち、食糧を絶ち、屈伏を強制する非人道的な作戦であった。

丸 塩を絶ち死に追い込む残酷な戦術
・・・総督府は、樟脳を手に入れるために、「熟蕃」でさえもが反乱せざるをえないような窮地に追いこむことを辞さなかったのであるから、「生蕃」に対してはどのような残酷な手段もはばからなかった。
一九〇四年(明治三十七)の鳳紗山方面の隘勇線(いつゆうせん)圧縮作戦は、まさに残酷な作戦であった。宜蘭庁のパリシャ管内では、前年、製脳地保護の目的から隘勇線を開設したが、「今年になって、多大の製脳を増したところ、たちまち原料が欠乏した」ので、隘勇線を圧縮し、「生蕃」を生存に必要な物資の入手が不可能な奥地の高山に追いあげ、その生活の道を絶ったのである。こうした仮借なき隘勇線の圧縮は、一九〇八年(明治四十一)のタイヤル族中の南澳族に対する海岸線からの隘勇線の推進が、「彼等が生命とも頼む食塩が、自分の海岸で得らるる」という基本的な生存条件の意図的な破壊を目的として行われたことからも、その非人間的な残酷さを知ることができる。
一九〇九年(明治四十二)、時の総督陸軍大将佐久間左馬太は、五か年計画で、軍隊を投入しての大討伐を行い、隘勇線を前進させて包囲の鉄環をちぢめ、「生蕃」を標高三〇〇〇メートル以上の高山がつらなる台湾脊梁山系に追いあげ、追いつめ、糧道を絶って、降伏か餓死かの二者選択を迫るという大作戦を開始した。五年目の一九一四年(大正三)、当時の台湾守備隊の兵力の大部分を投入して西側から脊梁山系を越えさせ、東海岸から警察隊を進撃させ、最後の包囲網圧縮を行い、五か年計画を終了させたのであった。
こうして、台湾植民地戦争は第三期の最終段階を終った。この間の山地系住民の餓死させられあるいは殺害された人命の被害「傭役」された中国系の隘勇や巡査補の死傷についての具体的な資料の存在を私は知らない。
・・・しかし、そこでは、アメリカ合衆国における白人の「インディアン狩り」、オーストラリアとくにタスマニア島における白人の「アボリジニ狩り」に劣らぬ、残酷な「人間狩り」が日本人の手でおこなわれたのであった。とくに塩を絶つ作戦はタスマニアでおこなわれた前例があり、日本はそれから学んだのではないかとさえ思われる。

丸 「開化」した霧社の先住民反乱
山地先住民の抵抗の最後を飾る大反乱に、一九三〇年の霧社事件がある。戦前は「秘」扱いでその存在が知られず、戦後は台北の国立中央図書館に一冊だけのこっていた台湾軍司令部編刊『昭和五年台湾蕃地霧社事件史』が現在は復刻刊行され、膨大な著書である戴国編著の『台湾霧社蜂起事件 研究と資料』も出版されて、事件の全容を容易に知ることができるようになった。事件の概要は、台湾軍司令部編の資料復刻版に付した向山寛夫の「解説」によれば、次のとおりである。

理蕃の成果が大いに挙がり、首狩りも昔語りになりかけた一九三〇年(昭和五年)の一〇月二七日に突如として、蕃地では最も文明開化した台中州能高郡の霧社で六蕃社の高砂族一、二三七名の壮丁約三○○名が、マヘボ蕃社のモーナ・ルダオ頭目の指揮の下に大規模な蜂起をおこない、各地の警察官吏駐在所を焼き討ちして警察官とその家族など在住日本人二二七名のうち一三四名を殺害し、その多くを馘首した。
霧社事件と称される高砂族の蜂起は、直ちに出動した飛行隊を含む軍隊一、三〇三名と武装警官隊六六八名の地上と空中からの攻撃により月余にして鎮圧された。軍隊と武装警官隊は、戦死者ニ八名、戦傷者二九名、合計五七名の犠牲者を出し、反抗高砂族は、人口の約半数の六四四名が男女、老幼の別なく被弾、殺害、自殺などで死亡した。


以上が、戴国の編著書のいう霧社蜂起事件であり、同書は、これにたいして復讐心を癒しがたい警察当局が「味方蕃」をそそのかして、蜂起生き残りの「保護蕃」を襲撃・殺戮させた第二霧仕事件と、二つの段階を設けて考察している。その結果、蜂起六蕃社の高砂族一二三七名のうち蜂起事件後の生存者は五六一名であったが、第二霧社事件直後の生存者は二九八名に激減した。
それにしても、「それまで日本の植民地当局によって『蕃界』中最も『開化』していて、豊かで、教育水準も高いと折紙をつけられていた」(戴国)地域の山地先住民がなぜ大挙して組織的な反乱に踏み切ったのであろうか。戴国の編著書のなかで小島麗逸が挙げている、原因の大きな一つが横断道路の建設である。
山地先住民の大規模な武力制圧を終えたあと、総督府は、"樟脳帝国主義"の必然の帰結として山地横断道路の建設に着手した。一九一九年に、八通関越え横断道路(一二八キロ)および南投〜花蓮港間(一六二キロ)の建設に着手した。現在の東西横貫公路の路線とちがい、霧社からほぼ真東に中央山系を登り、奇莱主(チューライチュー)山南峰(三三五七メートル)と能高(ノンカオ)山(三二六一メートル)のあいだの能高越えで峠を越え、ムークワシーの渓谷沿いに真っすぐに西に下って銅門に達し、花蓮にいたる道路である。この道路は未完成のまま放棄されたが、道路建設の労働力に動員されたのが山地先住民であった。
小島は具体的な統計数字を示して、最初の討伐における投降の際に義務化された、建設工事出役の延べ人数・年間一人当り出役日数・一日賃金を示したのち、しめくくっている。「山地資本主義化の過程は一つの戦争であったことが知られる。しかも、既存社会を根こそぎ洗い流すほどの過程であったことが知られる。さらに、新しい一大格差構造をつくりつつ進行したことが知られる。『戦争』の熾烈(しれつ)さ、それに伴う日本人への憎悪の累積がほかでもない霧社蜂起を惹起した最大な遠因となったのは指摘するまでもあるまい」と。「開化」のすすんだところほど、旧態依然とした「生蕃」政策との矛盾に苦しめられ、ついにその生存を賭けた蜂起に踏み切らざるをえなかったのである。
(『日本植民地探訪』大江志乃夫著,新潮選書,1998)

※Macの方、文中の「戴国」のは「火」へんに「軍」という字です。

丸 設問
一世紀以上も前に日本がやったことをみて、私達はどう考えたらよいのでしょうか。
「なぜそこまで暗いことを出すのか。自虐である。」
「私達に直接責任はない。だからすまなかったという気持ちは起きない。」
「過去の事実に対して、中国(台湾)や韓国・朝鮮の反日、糾弾の動きに反発を感じる」
とかいう考え方もあるでしょう。こうしたことにどう思われますか。匿名でけっこうですから、自由に感想・意見などお寄せください。
意見の交換ができれば、コラム欄も充実するし、認識が深まっていくのではないでしょうか。

(2002年6月)


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