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吉本隆明 Around the Brain in my Life
2011 年8月5日 木曜日 午後9時51分透明の石ばしる垂水の上のさわらびの萌えいづる春になりにけるかも。気温 22.7℃←■日本経済新聞 の今日の吉 本隆明の原発容認発言は想像していたけど、昨日の青 木昌彦の論文「原発事故から学ぶ」は、さすがだ。
2011年7 月16日 土曜日 午後5時51分透明の石ばしる垂水の上のさわらびの萌えいづる春になりにけるかも。気温 20.2℃←■吉本隆明が 『リテレール』創刊号(1992年、夏号)に書いた「贈与論」は、マルセル・モース復活の歴史的必然性だったのか。
2010年8 月29日 日曜日 午後9時59分あとね、フランク・ザッパ。気 温21.3℃←■今ごろになって、1988年の本『いま、吉本隆明25時』に無名時代の当時 34歳の副島隆彦が投稿している(277P)ことに気が付いた。
2007年10月5日 金曜日 午前2時39分←■なんで、大野明男『全学連』(1968年、講談社)に青木昌彦が登場しないんだろ?

1960年 詩人。吉本隆明! 吉本隆明
1924年11月25日〜2012年3月16日
姫岡玲治(=青木昌彦) 姫岡玲治(青木昌彦
1938年4月1日〜2015年7月15日

text by うぇ〜ん!久 保AB-ST元宏 (2007年10月6日 3:57Am)

『日本経済新聞』が毎月ごとに連載し ているコラム「私の履歴書」は、私の好物のひとつだ。
で、2007年10月は青木昌彦の登場であり、また一ヶ月、楽しめる♪
青木の肩書きは、「スタンフォード大学名誉教授」であり、ノーベル経済学賞に最も近い日本人経済学者ともいわれて いる。
連載初回で青木は、
社会問題や国際的なかかわりへの関心、よくいえばベン チャー精神(シニカルにいえば軽はずみ)、
コ ミットメント → 引きこもり → リセットの懲りない繰り返し
それらがその後の私の人生や学問をも彩っているよう だ。

と、書いている。う〜む、他人とは思えない(笑)。

青 木の最初の「コミットメント」は、1958 年12 月、20歳の東大生であった時、
全国の学生運動を日本共産党などの旧左翼から自立させて、 まとめあげた組織ブ ントの結成だ。
まだ二 十歳だった私が「国際共産主義運動の総 括」なるおそろしく気張った報告で
ソ 連や日本共産党を批判し、島成 郎が独自の革命組織結成を提案し、満場一致で採択された。
私は五人の書記局の一人となった。私のベンチャー一号 である。
名 称については、私が発案し、若 きマルクスがその結成に参加した組織の名前をまねて、
「共産主義者同盟」とした。ドイツ語で「ブント」だ。 ちなみに有名な『共産党宣言』はこの組織の綱領だ。

上記のそう、島成郎 is dead.島成郎(しま・しげ お、
1931年〜2000年10月17日、享年69歳)ほか、
「当時の東大細胞には秀才、俊才、異才がキラ星のように結集していた。」

たとえば今でも政治評論 家としてテレビ出演の多い、
森田実もファイター!森田 実は、優れた行動 派で
原水爆禁止運動、砂川闘争、警職法反対運動などの
大学生が数万人単位で参加する大衆運動を指導した。

青木の友人でアメリカで若くして死んだ、生田浩二の死は?生田浩二。
一度だけ、学生ですっぱい水を飲まされ。
「原 子力潜水艦寄港反対」デモ

赤痢にかかったかのように、自由を得たかのように。
1958 年「警職法反対闘争」デモ

ブハーリンの夢は? 青木は、佐伯秀光佐伯秀光(=山口一理)の
こんな論文を述懐している。
日本の左翼運動がおかしいのは、
単 に日本共産党のせいではなく、
本 家のソ連がそもそも共産主義運動を裏切ったからだ という。

佐伯はトロッキストの国際組織である「第四インター」に青木らを誘うが、
青木は応じなかったという。その時の議論を横で聴いてみたかった(笑)。
その後、佐伯はカナダで数学の教授になる。

このような高度に抽象的な議論を繰り返しつつ、時代はスパイラル状に進行してゆく。
いよいよ、♪クリックして、見よっ!60 年安保の年を迎えた1960 年1月、雑誌『中央公論』 に詩人の吉本隆明が、論文「戦後世代の政治思想」を発表。
『現代詩手帖』の1972年8月「吉本隆明」特集号は、「この論文は、時代をふりわけるほ どの意味を もって提起された。」と位置づ けている。
吉本隆明 パラパラ・・・戦後世 代の政治思想  〜『中央公 論』1960年1月号


(冒頭部分)

――テントの中でも月見はできる
雨がふったらぬれればいいさ(雪山讃歌)

   1

 現在、わたしたちは、おおきく膨んだ国家独占社会 で、くらげのように浮きつ沈みつしながら生きている。
足はアスファルトや土をふみしめているが、思想はアト ム化してめまぐるしい社会現象をおうため、人間はついに社会現象そのもののようにしか存在できない。
この新しい社会体験はわたしたちの周囲が、戦前よりも はるかに膨大にふくれあがって視えるところからきている。
そこでは、鋭い社会的な不安定感が、形にそう影のよう に飽和感とむすびついている。
 しかし、あるものは、いや、戦前にくらべれば、十分 に高度になった社会様式のなかで平和な日々を享受しているというかもしれない。
これもまた、当然なことである。波立った海でも、水面 下数十米で、すでにおだやかな世界に到達できるのだ。
わたしが危機とよぶとき、たれかが平和とよび、わたし が時代閉塞とよぶとき、たれかが希望のもてる未来とよぶとしても、異議をとなえることはできない。
そこには、現実理解の共通点がないからである。わたし たちの政治思想や文学思想を、混乱と分裂におとしいれている原因はここにある。
まず、わたしたちは、水面上にとびだして、現在、政治 的に、思想的に、あるいは文学的に、生活的に直面している
あらゆる困難が、独占支配から派生したものであること を確認したうえで、おもむろに水面下の世界に下降してみなければならない。

〜 以下、略。

この論文に、青木が取り上げられ、 22歳の学生思想家は一気に思想シーンの注目を浴びることとなる。
当時は、「旧左翼の流儀に従って、ペンネームを考え」るのが流行であったようで、青木は、姫 岡玲治の名で論文をガリ版刷りなどに書き 散らしていた。
特に、東大在学中に姫岡玲治の筆名で執筆した
論文「民主主義的言辞による資本主義への忠勤−国家独占資本主義段階におけ る改良主義批判」は、
「姫岡国独資」と 呼ばれ、日本中の運動家に読み込まれ、ブントの理論的支柱となっていた。

とにかく、先行世代である日本共産党 を否定してきた青木にとっても、さすがに吉本隆明に取り上げられたことは嬉しかったらしく、
日本経済新聞「私の履歴書」でも下記のように回想している。
石原慎太郎と大江健三郎と並んで、思いがけないことだ が、学生運動活動家以外には
無 名の姫岡玲治を取り上げてくれ た。
社会構成の分析から政治思想を展開するというのが、一 番「共感すべき見解」だ、と。

思えばこの吉本論文は、
「戦後の独占社会の中で、個的な意志によって自己形成 を遂げた戦後世代の政治家たち」への共感のメッセージだった。
「姫岡玲治」はそういう世代の政治思想の集体的なシン ボルだったともいえよう。
だから、私の中にはもはや姫岡玲治はいないが、我々の 世代で、同じ政治の季節を共に過ごした者には、共同記憶として残るのだろうか。

そ して吉本論文のおかげもあり、青木は「姫岡玲治」として一気に有名になり、この1960年にパラパラ・・・『日 本国家独占資本主義の成立』という新書も出した。
その後、「姫岡玲治」名でトロツキーの著作集を訳するが、その時に、同じシリーズの別の分冊
トロツキストも、パラパラ・・・トロツキーの自伝『わが 生涯』を訳したのは、なんと、パラパラ・・・澁澤龍彦で ある。

さ て、『中央公論』の吉本論文は、当時、本当に話題を呼んだようで、出版直後に『週刊読書人』が大きな特集を組んでいる。
そう、これだ。戦後世代の政治思想!
い やー、今じゃぁ考えられない!雑誌の論文が社会現象を呼び起こすなんて!
それだけ時代が「若かった」?・・・いや、真剣だったんだろーね、みんな。
ある面、
牧歌的ですらあった
知的な
「抽象的」遊戯としての
「学生運動」も、
「日米安保」の締結という
「具体的」事件の前で、
青木たちは
前衛に立ちながらも、
何かが
確実に終わってゆく
虚無感が
押し寄せてくるのを
受け入れざるを得なかった
のだと私は思う。
ストリート・ファイティング・メン&ウィメン。
1960 年6月15日 5:35Pm
国会の前にて、
警官隊が一斉に警棒を抜く。
60!

東京で、カンパ?カンバ!
こ の6月15日、国会突入のデモを指揮したのは、東大ブントであった。
デモは、その東大ブントの事務局員、樺美智子の死によって冷 たい雨に打たれながら静かに終焉に向う。
東大ブントの島は、卒業して政治活動から離れていた森田実のもとへ助けを請いに走る。
下記は、森 田の回想だ。
島が、6月15日深夜、私の住んでいたア パートまでやってきた。
「大変なことになった。樺美智子さんが死 んだ。手伝ってくれ。君の助けが必要だ」という。
「もうボクの時代ではないよ」と断って も、引き下がらない。やむなく、島にしばらく協力することにした。
早朝、勤めていた貿易商社の社長宅を訪問 し、事情を話し、退職を許してもらった。
社長は腹の据わった人で、退職金代わりに 金一封をくれた。
私はその金の半分を樺さんの香典とし、あ との半分を金がなくて困っている全学連にカンパした。
この日から日米安保条約が自然成立した6 月19日深夜までの数日間、集会とデモの指揮をとった
日米安保条約は6月19日深夜自然成立し た。
このとき、国会周辺に集まった大 群衆へ向かって勝間田清一社会党国対委員長が
「われわれは自然成立 など認めない」と大演説したが、むなしく響いた。
日米安保条約の成立を阻止するための運動 は挫折した。

 6月15日に亡くなった樺美智子さんは 東大文学部の学生だった。
私はブント結成時には島とともに中心にい た。まず事務所を設けた。ところが事務員がいない。
親友の佐藤誠三郎(故人、当時東大文学部 学生、のち東大法学部〈政治学〉教授)に相談すると、樺さんを紹介してくれた。
樺さんは大変上品で立派な女子学生で、事 務所の整理、トイレの掃除などきちんとやってくれた。事務能力も高かった。
樺さんが亡くなってから、あのときブント 事務局の職員になってもらわなければ……などと考え、悔やんだことがあった。

樺美智子の死の直後、小説家の死霊・・・・・・・パラパラ・・・埴谷雄高も、 ヤジウマのように国会の周辺にいた。
そこで埴谷が見たのは、ブント学生に混じって装甲車の上でマイクロフォンで 伏目がちながらもアジ演説をしている、吉本隆明の姿であった。
すでに小説家として大家になっていた埴谷にとっては、まだまだ若い新人にすぎない吉本が60年安保の中央にいたことを目撃した事実は衝撃 だったようだ。
国会は、ダレのもの? 思いがけず深い闇の国会構内で
吉本隆明の低くゆっくりした挨拶を聞くことになった私 達、
そしてまた死者を悼む集会の全体は、
その後、警 官達の警 棒に正面からうたれて敗走した。
そして、
雨にもまたうたれて深夜帰宅した私が翌日知ったこと は、
そのあと、
警官の隊列に国会周辺の舗道で追われた
吉本隆明達の一団が
警視庁の塀を越えて捕えられたと いうことであった。
すぐ調べてみると、
吉本隆明は高井戸署に廻されて、
留置さ れていると解った。

― 埴谷雄高 「安保闘争と近代文学賞」
国会は、ダレのもの?

こ の樺美智子が殺され、吉本や東大ブントのメンバーたちが逮捕された夜の一週間前、埴谷は第 一回「近代文学賞」の受賞者を選考する大激論をしていた。
二時間を超える大激論の末、受賞者はようやく吉本隆明に 決まった。
授賞式は6月25日ごろに予定されており、吉本の逮捕を知った埴谷が一番気になったのは授賞式までに吉本が釈放されるかどうかであった。
吉本は無事に釈放され、授賞式に出席する。その後、『擬制の終焉』、『共同幻想論』などの問題作を連発し、日本を代表する思想家となる。

一方、青木昌彦は学生運動から離脱 後、東大大学院に進学して近代経済学に転じた。
マルクス経済学から近代経済学に転じた理由について青木は「マルクス主義の知的貧困に愛想がつき」たからだと書いている。
1967年スタンフォード大学助教授、1969年京都大学経済研究所助教授、1977年同教授、1984年スタンフォード大学教授、 2001年京都大名誉 教授。
1997年から2004年まで経済産業研究所第2代所長。一橋大学大学院国際企業戦略研究科客員教授等も務めた。
ちなみに、後ろからもね♪平尾昌晃は、 中学時代のクラスメイト。
「カナダからの手紙」とは、カナダで数学の教授になったブントの先輩、佐伯秀光からの手紙のことか?・・・まさか(笑)?

そして最後に、姫岡玲治(=青木昌彦)青 木、島、森田、生田、佐伯、そして国会正門前で殺された樺美智子ら学生が通っていた大学、
東京大学の学長の1960年6月15日をめぐる声明を紹介したい。
【茅誠司(1905 年〜1988年) 東大学長 声明】

この事件で警官の行き過ぎは明らかであり、学生を預か る者として抗議する。
学生の行動は切迫した危機感に よるもので、この行動をとらせたのは
新安保強 行採 決で議会主義を危機に追い込み国 会と国民を遊離させたにもかかわらず、
政治責任者が国会の機能を回復させ る適切な手段を何もとらなかったこ とにある。

例えば解散などが行われておれば学 生は平穏な方法で意思を表明する機会を与えられ、
15日のような行動はしなかっ ただろう。
ところが何の措置もとられず、その上アイクを招こうと したため、
学生に民主主義回復の努力が無力だ という絶望感を与えたもので学生だけを責めることはできない。

このような事態では大学は学生教育の任務 を果たすことができないばかりでなく、
説得などで学生に平穏な行動を求めても効果ない。

この趣旨に基づいて政治責任者が民 主主義的責任政治を回復すること以外に解決はなく
その努力をすることを強く要望する。
東京芸術大学美術学部教授、学生合同集会、安保批准阻止と逮捕学生釈放まで無期限ストに突入。

こ こに強行採決を繰り返して支持率を急落させた安倍 政権や、ミャンマー軍 事政権の民主化デモ弾圧に似た匂いを感じるかもしれない。
ただ、私たちが歴史から学ぶものとは、無気力だけではないはずだ。